映画「雨の中の慾情」を観た。
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面白かった。言うなれば、エロティック・ダークファンタジーである。冒頭からして、成田凌が演じる主人公が、バス停にいる女に目をつけて、雷を口実にして言葉巧みに服を脱がせるシーンだ。男なら絶対に脱がないと思った。男は時として見栄に命を懸ける。そこが男の愚かさであり、逆に言えば、雷で死なないために躊躇なく服を脱ぐのは、女の逞しさである。
成田凌はよくこの役を引き受けたものだと思ったが、俳優ならこれくらいは当然かと思い直し、いや、やっぱりこの時代にこの役は、よく思い切ったと言えるのではないかとも考えた。いまはなんでもかんでもハラスメントである。芭蕉の時代より何百倍も唇が寒い。
片山慎三監督は「岬の兄妹」では、最底辺を生き延びる障害者の性と、少しも手を差し伸べない行政の不作為を描いてみせた。本作品では、現実と真面目に向き合いたくない男と、現実しか考えず、男に夢を見る昔気質の女を描く。勃起した乳首から滴る母乳と、死んだ赤ん坊の記憶に、女のエロスと悲しみを見る。雌ライオンのように、子供が死んだら次の雄に発情するのだ。
戦争が奪い去っていくものと、残されたもの。ささやかな希望は、いつしか大きな絶望となり、現実が夢を蹂躙していく。生命は自己複製のシステムであり、それは性という社会性を帯びることで、ドラマとなる。戦争は自己複製の夢を銃撃し、爆撃する。時空間を自由に、どこまでも広がっていく片山ワールドだが、いったいどこに収斂していくのか、観客を不安にさせる作品だ。
中村映里子が演じた福子のコケットリーは大したものだ。汗かきの女は濡れやすいに違いない、そう思わせるような演技と演出だった。いつ話題にするのかと思っていた、福子の背中と尻に残った歯型については、結局触れられずじまいだったが、ラストシーンではきれいに消えていた。ひとつの慾情は終わり、女は男を次の男に上書きしたのだ。
映画「フード・インク ポスト・コロナ」を観た。
パンツ議員と悪口を言われている自民党の元復興大臣は、父親も政治家だ。その父親が敦賀市長をやっていたときの次の発言は、つとに有名である。
「原発の放射能汚染で、50年後、100年後に生まれる子供がみんな片輪になるかもわからんが、国や企業からカネが貰えるから、いまは原発に協力したほうがいい」
1983年の発言だから、今から41年前だが、この精神性がずっと続いている。今だけ、カネだけ、自分だけというやつだ。住民の将来を一顧だにしない、政治家にあるまじき精神性だが、こういう精神性が、政治家だけに留まらず、いまや世界中に蔓延していると言っていい。
本作品は、強欲資本主義が人々の健康や安全よりも目先の利益を追い求めた挙げ句に、一次産業を衰退させ、食の危険を増長させている具体例を次々に示してみせた。人類は、産業革命以後の大量生産、大量消費という愚行を積み重ねているが、食品も例外ではなく、工場の生産ラインという無機質な環境で、化学物質をふんだんに使用した危険な食物が大量に生産されている。いわゆる超加工食品だ。
超加工食品には、頭が悪くなる、病気になるなどの危険性があるが、廉価で高カロリーだから、貧乏人はそういう食品に頼らざるを得ない。添加物なしの食品ばかりを食べられるのは、金持ちに限られるのだ。勢い、金持ちは健康で長生き、貧乏人は生活習慣病で短命になる。
それを理解していない日本の金持ちの政治家が、糖尿病患者を日頃の行ないが悪いと非難したことがある。食品政策の失敗が、貧乏人を病気に追い込んでいる自覚に欠ける、愚かな発言だが、この発言をしたのが財務大臣だから、絶望的になる。
人類に食の安全確保と適切な供給、適切な消費は不可能な気もするが、本作品で紹介されていた農家や漁師の新しい取り組みに、微かな希望を覚えた。
映画「山逢いのホテルで」を観た。
フランスは哲学とセックスの国である。下世話な話で恐縮だが、フェラチオはフランス語だし、シックスナインという体位は、フランス語でスワサントヌフ(=69)と呼ばれていたらしい。フレンチ・キスという言葉はよく誤解されて、唇を少し触れ合わせるだけの軽いキスと思っている若い人がいるが、実は舌を絡め合う濃厚なキスをフレンチ・キスという。
フランスの映画では、出会って間もない二人がセックスをする場面がよく出てくる。付き合ってみてからのセックスではなく、セックスして相性を判断してから付き合うのである。セックスの相性は重要だから、合理的な手順なのかもしれない。
それに、付き合う前提がなくても、互いに楽しむためにセックスをする場面もある。フランス人はセックスに自由で、不倫が責められることはあまりない。セックスは精神安定剤みたいな作用をするから、満足なセックスは生活を向上させる。
というようなことを踏まえてから本作品を鑑賞しないと、主人公クロディーヌのことをけしからんと、古い倫理観で判断してしまいかねない。たまに贅沢な食事を楽しむように、たまにホテルの一人客を誘って、セックスを楽しむ訳だ。ホテルの従業員も、そのあたりを弁えているから、チップを貰ってクロディーヌに情報を提供する。
セックスの満足感は、相手に対する信頼と尊敬によって、さらに増していく。前戯と後戯を丁寧に行なうことで、慈しむ気持ちが伝わる。孤独感が緩和され、共生感が生まれる。セックスには、多くの副産物があるという訳だ。
逆に言えば、信頼も尊敬もできない相手とのセックスには、オルガスムスをはじめとした肉体的な快感の満足感以外は、何もない。しかしそれさえも得られない相手がいる。時間の無駄とは言わないが、互いに相性がよくないと判断して、その後付き合うことはない。
クロディーヌは自営業だ。針子の仕事で生計を立てている。障害者の息子がいるから、自宅で仕事ができるのは好都合である。しかし客は古い客ばかりで、どうしても先細りになる。自分も老いてきたし、人生をどのように終わらせるかを考えなければならない。自立して生きていけない息子を抱えて、不安と心配の日々である。
信頼できて尊敬できる人がいれば、一緒に助け合いながら生きていくのは幸せに違いない。セックスの相性がよければ言うことなしだ。クロディーヌは、僥倖に恵まれてそういう男と出逢うのだが、迫られる選択は、クロディーヌにとってあまりにも苦しい。
大人の恋物語である。性欲に突き動かされる思春期の恋は卒業した。信頼と尊敬がとても大事で、互いに心の支えになる。一緒にいれば、絶望せずに生きていけるかもしれない。あと20年、あと30年、人生を楽しめるだろう。しかし自分には息子に対する責任がある。自立できない以上、死ぬまで親の責任だ。責任を放棄することはできない。
女として、個人としての将来と、子供に対する責任との間に引き裂かれそうになるクロディーヌだが、障害者でも、子供が与えてくれた幸せは、もちろんある。進むべき道は決まっているが、心はいつまでも揺れ動く。19世紀の小説のように、憂いに満ちた作品である。
映画「ニッツ・アイランド 非人間のレポート」を観た。
2019年製作の邦画「劇場版 ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん」では、オンラインゲームのFF14をプラットフォームにして、参加者が協力プレイをする展開に、引退した父親を引き込んでコミュニケーションを図ろうとするシーンが描かれていた。いわばホームドラマである。
本作品は逆に、仮想空間に誰でも参加できるオンラインタイプのサバイバルゲームDayZのバーチャル空間だけが描かれる。隣りにいるアバターの本体は遠く離れた外国にいるのが、普通のことのようだ。参加者同士が挨拶するところからはじまり、行動をともにしたり、哲学的な話をしたりもする。コミュニケーションは英語だから、英会話ができなければ、参加しても面白くないかもしれない。
ベテランの参加者たちは、10年とか、1万時間とか言っていたから、私生活の大半をゲームの空間で過ごしている訳だ。仕事でもなく金儲けでもなくセックスでもない関係性を、見知らぬ人と維持し続けるのは、かなりしんどいことのように思える。参加者は人間関係を面倒臭がらない人たちばかりなのだろう。コミュニケーションから何か得られるかというと、何も得られない場合のほうが多いように見えた。居酒屋やバーで隣の人と話すようなものだ。役に立つ話が聞ける僥倖もあるが、大抵は無駄話に終わる。
参加者は口々に現実逃避と言っていた。それだけ辛い現実を生きているのだろうなと想像はするが、バーチャル空間でゾンビを斬り殺したり、勝手に野菜を作った人を撃ち殺したりするのは、楽しいのだろうか。むしろ訪れたこの空間でも、ストレスが溜まりそうな感がある。
徒党を組んで同じ色の腕章を巻いたり、同じ場所にみんなで行ったりする。違う色の腕章の参加者たちは敵なのだろうか。撃ってくる人もいて、サバイバルゲームだから死なないように逃げ惑う。かといって緊迫感や緊張感はまったくない。恐怖感もない。
DayZをやったことがある人には理解できる作品なのかもしれないが、当方は初見で、ゲームの設定も空間もよくわからなかった。映画としては、ストーリーもなくて行き当たりばったりの会話が続くだけだから、最後まで寝ずに観るのが大変だった。お疲れ様でした。
映画「正体」を観た。
「新聞記者」や「ヴィレッジ」といった作品から感じられる藤井道人監督のイメージは、反骨の人である。ところが「宇宙でいちばんあかるい屋根」や「青春18×2 君へと続く道」といった作品からは、監督のヒューマニズムが見て取れる。作品によって登場人物に寄り添ったり、突き放したりするところもあって、とても振り幅の広い監督である。
本作品は反骨の世界観だが、登場人物に寄り添うように物語が進んでいく。タイトルの「正体」は作品中では、次々と名前と見た目を変えて逃亡し、潜伏し続ける主人公の、本当の姿はどれなのかというふうに言及されているが、裏では別の意味合いもあるようだ。
それは、冤罪を生み出す権力の「正体」である。自己の保身と組織の保全という、役人の弱さと利己主義が、人権を蹂躙し、立場の弱い人を追い詰める。
そして人々は、そんな権力を支持し、延命し続ける一方で、他人の不幸を覗き見して喜ぶ。社会全体に、子供のいじめに似た構造があるのだ。それこそが、この国の「正体」にほかならない。
権力が対立軸を設けることでしか正当性を維持できないのは、17世紀フランスの哲学者モンテスキューが指摘した通りである。しかし蒙昧な有権者と独裁的な為政者が組み合わさると、権力の分立は容易に無実化する。
学校で例えるなら、私学のオーナーの子供が、教師たちを牛耳って、弱い者いじめを正当化するいるようなものだ。そんな学校に自分の子供を行かせたい親はいない筈だが、相手が学校ではなく国家となると、早々に諦めて自分の利益だけを考えるようになる。
そんな絶望的な構造が、日本だけではなく、世界中に蔓延しようとしている。戦争に繋がる構造である。ウクライナ戦争やイスラエル戦争は依然として続いている。過去の世界大戦は、いずれも地域紛争から発展した。第三次世界大戦はすでにはじまっているのかもしれない。