草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

靖国神社に放火しようとした韓国人を糾弾する!

2013年09月23日 | 安全保障

 日本人の聖なる地に火を付けようとしたのだから、何人であろうと糾弾されるべきだろう。こともあろうに昨日夜、靖国神社に韓国人の男が侵入し、トルエンのような液体をまいて放火しようとして警視庁に逮捕されていたことが判明した。行動する保守を批判していたマスコミは、そうした犯罪に対して、どう弁明するのだろう。韓国人が反日になっているのは、それに同調する連中が日本人のなかにいるからだ。日本人に対しては何をしてもよい。そこまで増長させたのは、日本の一部マスコミやサヨクなのである。今回のことに大方の日本人は怒りを覚えたはずだ。私たちの先人は、靖国神社での再会を約束して散華したのである。その聖地をこの世から消滅させようとするのは、日本人への挑戦である。私たちは怒らなくてはならない。そして、そこまでされても沈黙しているマスコミにも、抗議の声を上げなくてはならない。こちらがいくら仲良くしようとしても、相手がこのような態度に出てくるのであれば、黙っているわけにはいかないからだ。かつて極左も靖国神社を攻撃の対象にすると宣言したことがあった。それをさせなかったのは、保守民族派が結集したからだ。そのときと同じように、日本人の聖地を死守するために、全力を挙げるべきだろう。いかなる国民であろうとも、その聖地が汚されるのならば、拳を振り上げるのではないだろうか。人の良さが通用するほど、世界は平和ではない。身構えるときは身構えなければならないのだ。

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戦後民主主義の言説から抜け出せないサヨクの不自由!

2013年09月23日 | 思想家

 なぜ日本のサヨクは通り一遍のことしか主張できないのだろう。中共や韓国が日本に対して理不尽なことを行えば、それに反撃するのはあたりまえだ。利害がぶつかるにもかかわらず、ニタニタして手を差し出すのは、相手に間違ったメッセージを伝えることになる。斎藤純一の『自由』によると、擁護すべき自由についてフーコーは「自らに権力を行使する他者が存在し、そうした他者との間に不断の交渉が存在することは自らが不自由であることを意味しない。むしろ、自由がそこに内在する他者との関係性を維持するために放棄されなければならないのは排他的な主権性であり、自らが身動きのできない仕方で自ら自身による圧政に服することであった」と書いている。つまり、私たちに影響を及ぼしている支配的な言説から距離をとることができなければ、真の自由とは言えないのである。しかし、日本のサヨクは「民主主義」とか「人権」とかをプロパガンダとして掲げても、それに関して深く考えなかった。戦後民主主義が虚妄であったのは、議論を深める意味で距離をとることができなかったからだ。今問われているのはその点なのである。思考停止状態の者たちが批判にさらされているのだ。しかし、日本のサヨクはまともな返答ができずにいる。目の前に敵対者や侵略者が出現しようとも、頑固一徹に戦後民主主義の言説に殉じようというのだから、あまりにも愚かではないだろうか。

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