戦後の日本人は、それまでの歴史を否定して、新たに生まれ変わろうとした。その結果もたらされたのは、混乱でしかなかった。しかし、ようやく日本人は、日本の過去を問題にするようになってきた。そうした今の若い人たちの動きを、私は好意的に受け止めている。福田恆存ほど過去にこだわった思想家はいない。福田は『人間・この劇的なるもの』において、「私たちは過去にたいする不信から未来への信頼を生むことはできない。身近な個人にたいする不信から社曾にたいする信頼を生むことはできない。それにもかかゝはらず、現代の自由思想は、さういふむだな努力をしてはゐないだろうか。その未来社曾にたいする期待は、過去の傳統や秩序や倫理感の否定と、身近な特定の他人にたいする不信感とから出発したものではないだろうか」と書いている。自由思想は何物をも拠り所としないために、かえって悲劇をもたらすことを見抜いたのだった。すでにこの世を去ったとしても、私は保守派の論客としての福田に、全幅の信頼を寄せている。古いものは新しいものによって乗り越えられるべきだろう。そこであえて私たちに問うのである。古いものの大切さを。「古いものが新しいものを裁くといふことは、それ自體としてはまちがつてゐる。が、その原則を否定すれば、私たちは、さらにまちがひを犯すことにならう。新しいものが古いものに自分を裁かしめるといふのは、過去にたいする信頼感なくしてはできぬことだからだ」。歴史の歩みは絶えず前進と後退を繰り返しながら、前に進むのである。過去への信頼にもとづきながら、歩を進めるのである。信頼なき改革や革命からは、絶望しか生まれないのである。
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