信州 猿が馬場 峠の 浦野城主 浦野民部允は 、村上に属していたが密かに信州 内山城の武田の重臣、飫富兵部少輔虎昌に内通し「晴信君が当国に出馬されるなら お味方に参ります」と伝えた
晴信は碓氷峠合戦の時に、同年8月2日 晴信は甲府を発ち同月6日に、上州上杉家と言い合わせて武田家の陣を妨げた佐久郡志賀の城主 笠原信三郎を攻め落とし笠原信三郎を打ち取った
その後、飫富の内山城に立ち寄り、1万人余りを引き連れて砂原峠から 上田原に着陣した
このこと保科の村上義清に伝わると義清は大いに怒り、笠原新三郎を討ち取られ 浦野民部は武田に内応して当家に敵対すること返す返すも悔しいことなり その上、去年は 真田幸隆に謀られ一騎当千の武者を多く打たれたこと、このままでは信濃の味方衆もいつ離れていくかわからぬと、 今度の合戦においては 晴信の旗本に切り込んで自ら勝負を決するか、真田の首を貫くかの 戦をせんと 七千騎を引き連れて葛尾の城を発った
千曲川を打ち渡り、上田原に陣を構えた、日頃は 1万にも及ぶ 軍勢であるが この度は 信頼できる者たちだけを引き連れたため、 軍勢は少なくなった
武田晴信は、これを聞いて板垣駿河守を先方とし二陣に飫富兵部少輔、 小山田備中 、小山田佐兵衛、 武田典厩(晴信の弟)三陣は大将武田晴信、 旗本の後備には原加賀守300余騎をわざと物見のように展開させて 備えとする、 これ 山本勘助の軍術「しまりの 備え」と名付けた
真田幸隆は先陣を望んだが、去年 真田の策で、村上の 500騎を 討ち取ったばかりであり、 村上が真田を見れば 目の色を変えて攻め入ってくることは間違いなく、真田が討ち取られることを晴信は恐れ、 あえて真田を右の脇 備えとした。
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