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 「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた (175) 甲越10年戦争 血戦川中島 2

2024年08月20日 07時55分29秒 | 甲越軍記
 武田大膳大夫晴信は去年、村上義清と小県郡戸石の合戦(初編に記す)に武田方の危うきところを山本勘助晴幸の策略で逃れた上に勝利を得たことを、摩利支天の再来と褒め讃えた。

天文十六年二月十五日、八幡宮に社参して回廊にて晴信と勘助は孫子の五事七計、或いはニ五の妙、深々の戦問答あって下向した。

馬場民部少輔景政、秋山伯耆守晴近をもって信州伊奈へ発向させて村上方の砦三か所を攻め落とし、秋山伯耆守を信州郡代とした。
村上義清は、これに備えて幕下の士、楽岩寺右馬介、布下新左衛門尉、依路右近進らに信州海野平の乾、上田筋の北、時田山の東方の険阻な土地に三か所の砦を設けさせた。

晴信はこれを知って、この砦を踏みつぶしたのち村上の本拠保科を攻め落とさんと板垣駿河、浅利式部丞の両将に検使として原美濃守虎胤を指し添えた
三将は海野平に陣を構えた。
板垣駿河守は物慣れたる騎士六十騎を選び、歩卒は一人も引き連れず大斥候として敵陣近くで見届けるべしと命じた
駿河守の甥、萩原余佐左エ門が進み出て、「足軽備えも、弓鉄砲衆も連れずに騎士だけで行くのは甚だ危険なので、今日は先物見の士、一両人にて探らせてはいかがか」と諫言すれども聞かず、騎士を大物見に出立させた
すると荻原が案じた通り、楽岩寺右馬介がこれを見つけて二百余騎を左右に従えてまっしぐらに打って出る
物見の者たちは驚き、徒歩も鉄砲隊も無ければ、ただひたすらに逃げるのみであった
萩原の理屈の同調した原美濃守は、大物見の危うきを心配して十騎を先頭に立てて、自らは畔の陰に埋伏して物見の帰りを待っていたところ、大物見の六十騎、楽岩寺勢に追い立てられて逃げて来た
これを見て敵のまじかに馳来るを一斉に立ち上がって左右から迎え打てば、自ら敵四騎を打倒し、これに続いて同心、下新兵衛も一番に一騎を突き落とす
美濃守、ここで馬に乗り大音声にて味方を励まして突き進めば、たちまち敵二十七騎まで突き落とした
楽岩寺勢は、この勢いに押しまくられて少しためらうを見た大将の楽岩寺右馬之助は敵味方の間に割って入り、軽々と勢を引き上げた。


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