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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 74 鳥取城兵糧攻め

2022年11月25日 16時51分47秒 | 貧乏太閤記
「おおー それは難儀なされたのう、しばらくはここにてゆるりとされるがよい、お屋形様に相談して、出兵することになりましょう」
豊国は用意された屋敷に入ると安心したのかぐっすりと寝たという
その後も秀吉は秀長と話している
「おかしなものじゃ、先の荒木と言い、山名と言い家来を捨てて城から脱出するとは、二人はそれぞれ事情は違うが城主が城を捨てたことは同じじゃ」
「荒木殿の場合は別として、山名殿のことを思えば、やはり殿様と言う者は家臣を制する御する力がなければいかんのお」
「その通りじゃ、そもそもその力があるから殿様になれるのじゃが」
「やはり世襲大名は弱いのかのう」
「それは言えまい、お屋形様とて世襲じゃ、また見事に腹を切った別所長治殿も世襲であるが家臣に慕われる立派な殿であったぞ」
「うむ、やはり人それぞれの資質であるのじゃなあ」
「そうよ、われらも家臣の扱いには気を付けていないと寝首をかかれることもおこるやもしれぬ」
「そのとおりじゃ、家臣は大切にしないといけんのおお」

秀吉からの連絡を受けて信長は鳥取城を再度落とすべく「出兵せよ」と秀吉に伝えて来た、秀吉はさっそく手を打った、黒田官兵衛も話を聞くと医師が止めるのも聞かず姫路に戻った。
鳥取城の様子を聞くと、城主が居なくなったことに気づいた家臣たちは慌てた、頼りない豊国であったが彼に代わって城を守る気概ある家臣がいないのである
困って因幡、伯耆を支配する毛利三家の吉川氏に相談した、すると一族の吉川経家(きっかわつねいえ)を城主として送って来た。35歳の冷静沈着な立派な大将である。

 さて鳥取城攻めを任された秀吉は、またしても兵糧攻めを選択したのである
翌天正9年に入るとまずは稲刈りのタイミングで蜂須賀正勝、家政親子に因幡から伯耆あたりまで米を相場の倍以上で買い取らせた、金に目がくらんだ毛利方の兵も内緒で兵糧米を商人を偽った織田方に売却した。
更に正式な堺や大阪商人を使って毛利領で大口のコメ購入をさせて、飢饉で相場が高い関東に売るよう指示した。
気が付けば鳥取城の米蔵の米は予想以上に不足した、これはさすがの経家も気づかなかった、籠城すれば数か月後には無くなる量だ、春になり気づいたときには後の祭りであった、もはや買い戻そうにも領内の米問屋の倉も空っぽだったのだ、それでもいざとなれば伯耆の吉川家に頼めば何とかなると思っていた。

同じ年6月には秀吉は2万の軍を率いてゆうゆう鳥取に着陣、鳥取城を包囲した、毛利軍も吉川の兵を救援に送ったが、秀吉の軍は付城や砦を幾重にも築いて守りを固めたので、毛利軍は攻め込めない
救援米を海上から運び込もうとしたが、海上も織田水軍がびっしりと守っていて、運搬船を攻撃して沈没させたので、鳥取城には一粒の米も届かなくなった
秋の収穫をあてにしていたが目の前で秀吉は収穫直前の米を織田軍に必要なだけ刈り取り、あとは焼却した。
飢え死に寸前の城兵は次々と飢えて死んでいった、食えるものはすべて食い尽くした、再度吉川軍が兵糧の運び入れに向かったが、織田に味方した伯耆の羽衣石城の南条氏に遮られて失敗した。
ついに見かねた城主吉川経家は切腹を条件に降伏を願い出た、経家のあまりに立派な覚悟を見て、秀吉は助命をすると言ったが、経家はそれを拒んだ
「この城で満足に飯を食えずに悲惨な死を遂げた部下に申し訳ない、すべてはこの儂に責めがあるのだ、生きてはおられぬ」と言うのだ
ついに秀吉も諦めた、酒肴を贈って門出とした、こうして因幡、伯耆も織田領に組み込まれた。
それにしても、こうした戦いが行われているのに、毛利方はなぜ備前から播磨に攻め込もうとしなかったのか
それがまことに不思議である、備前の宇喜多は秀吉の兵を借りずに美作の毛利の城を攻めていたし、このあと秀吉軍は備中(びっちゅう)に攻め込むことになるが、いつも毛利は受け身で積極的に秀吉軍を攻めようとしない、これが謎である、危機感がなかったのか?戦意がなかったのか?
一方で織田軍は秀吉が鳥取城を攻めているのと同じくして、織田信雄を大将に伊賀に攻め込んでいる。
だから10月には因幡と伊賀が同時に織田の手に落ちている。
この時点で毛利は美作の一部、備前の一部、伯耆の一部、備中、備後、安芸、周防、長門、伊予、筑前の一部、出雲、石見8か国と十数郡を持っているが、沿岸部以外は山地が多く総石高は200万石ほどである、織田の4分の1程度だ、しかも軍団制をとっていないので、各々が自分の領地を守るという旧式の専守防衛スタイルだから大戦などはできない。 武田軍や上杉軍、徳川軍と比べてもその兵制は稚屈であった、さらに大国に築き上げた毛利元就の死後、元就の遺言で「領土を護り、撃ってでてはならない」を守って平和が続いていたため、好戦的な織田に対抗する術が失われていたふしもある、これでは癌細胞に体が侵されていくように織田に侵略されていく運命であった。
信長から見ても、織田家を常に脅かした武田は宿敵であり決して許せる相手ではない、しかし毛利は向こうから織田家に戦を仕掛けてきたわけではない
逆に織田が毛利を侵略しているのだった
それゆえに武田に対するような憎しみはない、本願寺に手を貸したことと、足利義昭を匿っていることを除けば無垢ともいえる
それは秀吉も感じている、それゆえにできれば毛利とは平和裏に徳川家康同様に従ってもらいたいと思っている

 織田家の軍事組織は日本国中誰もしたことがない兵制である、まずは兵士すべてが足軽まで職業軍人である
農民と軍人を完全に分離した日本初の軍隊である、他国は足軽の多くが農民であり、無理やり連れてこられた者たちであるから戦意に乏しく、戦闘能力も低い、しかも田植え、稲刈り時期には戦に出られない
だから戦は田植えあと、稲刈り後に限定される、だが織田軍は一年中戦ができる組織だ、それをできるのも豊富な財政があるからだ
特に信長が目を付けた直接の南蛮貿易と、信長が許可した大商人、貿易商からの税金や海外貿易許可料の収入が莫大だ。
 小商人には無税で商売させて城下を発展させ、大商人や寺社からはたくさんの税金をとる代わりに応援もする、信長ならではの経済政策も素晴らしい。
だから家臣たちも豊かである
 天正9年の信長の重要家臣は以下のとおりである

織田信忠 軍事総大将 嫡男 与力も含めた石高200万石 最多動員力6万人 
柴田勝家 北陸方面軍団長 130万石 4万人
明智光秀 畿内官房長官 130万石 4万人
羽柴秀吉 中国方面軍団長 140万石 4万人
この4名がもっとも力を持った者たちであった、このほかにも摂津、河内、和泉など各地の中堅クラスの国人を都度動員できる
信長自身はもはや先頭に立って戦場には出向くことがなくなったが、へいぜいは馬廻り衆、小姓衆が身辺にあって、出陣となれば光秀軍団や近江、伊勢あたりの兵を率いたであろう。












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