季節が巡って、また泰山木の白い花が咲いています.私にとっては大学生活を思い出すきっかけです.あの泰山木はどういう運命を辿ったのでしょうか.大学移転の影響を受けたのでしょうか.我が家の泰山木は35年も前、結婚してこの家に来た時から、懐かしさを寄せてきた木です.
ところで日曜日、NHKの番組『ダーウィンが来る(?)』を見ました.それを見て娘婿のクリスが『日本に一般的に売ってある食品の質が悪い』と言っていた意味をまざまざと見せられました.ヨーロッパには日本で絶滅したコウノトリが生きている!この意味を私達はもっと考えなくてはならないと思います.
農夫がトラクターを操って進むその後をコウノトリは追いかけて虫や蛙をついばんでいました.ヨーロッパの農業は、例えばカバや水牛が背中に鳥を乗せて暮らしているのと同じ自然の形を保っているのです.干渉するでもなく無視するでもない関係は、敵対するでもなく甘えるでもありません.自然の風景となっていました.要するに食の連鎖が保たれているのです.害虫(?)がいなければ、コウノトリは生きていけないのです.ねずみがいなければ、ふくろうは生きていけないのです.人間のみが収穫を得るようには自然は出来ていません.日本人は田んぼに農薬を撒き化学肥料を入れることで一時的に収量をあげたかもしれません.でも多くの生物を死滅させ、今では土地の疲弊に泣いています.その上水も空気も汚染してしまいました.
ヨーロッパの年老いた農夫の納屋にはふくろうが住みついていました.庭の木のうろにはヤマネが住みついていました.ヤマネは農夫の収穫を失敬していますが、農夫はそれもありで暮らしてきました.ヤマネは増えすぎるとふくろうが太ります.天敵同士は自然のバランスが保たれています.長い目で見るとその関係は冷徹です.人間の一時的な収量増も、自然のスパンで見ればいつか地力が落ちて収量減となります.それを何とか人間は知恵を絞って次から次へと人工の力を借りていますが、なかなか難しい問題を抱えています.量を確保しても質の問題が浮かび上がってきているのです.昔の人参と今の人参は同じ力を持っていません.有機農法、或いは自然農法の人参の味を、一般の慣行栽培の人参は持っていません.サプリメントで補いますか?一時的には収量増と同じ結果を生むでしょう.その急場しのぎに甘えていると、次は人体システムの異変だろうと思います.
そろそろ私達人間は思い上がりを捨てるべきではないでしょうか.私達も単なる自然の一部で、コウノトリと同じであることを認識すべきではないでしょうか.私達の捨てたものが、他の動物のえさとなる世界を取り戻すべきではないでしょうか.私たちは平気な顔をしてコウノトリを死に追いやって暮らしてきたのです.賠償を求められるわけでもありません.罪を問われるわけでもありません.そんな自然のおきて破りの上に私達は乗っています.最近の犯罪の土壌は案外こんな私達の破廉恥さに在るのではないかとさえ思います.
カバの背中に乗っている鳥や、大きなサメの皮膚にくっついている魚を考えるにつけ、私達が獲得してきた多細胞のシステムを考えてしまいます.社会という動物の生活構造や植物の群生を考えてしまいます.宇宙という大きな観点から見れば、カバの背中に乗っている鳥は、カバという多細胞動物の縁のほうのゆるいつながりを持った細胞の一つではないだろうかと・・・・・・植物は地球に固定しているけれども、動物はついたり離れたりしている・・・・・・地球という多細胞生物の自由に(?)動く細胞の一つではないだろうかと・・・・・私達人間は特別ではありません.コウノトリもふくろうもヤマネもねずみもみな同じです.
ところで日曜日、NHKの番組『ダーウィンが来る(?)』を見ました.それを見て娘婿のクリスが『日本に一般的に売ってある食品の質が悪い』と言っていた意味をまざまざと見せられました.ヨーロッパには日本で絶滅したコウノトリが生きている!この意味を私達はもっと考えなくてはならないと思います.
農夫がトラクターを操って進むその後をコウノトリは追いかけて虫や蛙をついばんでいました.ヨーロッパの農業は、例えばカバや水牛が背中に鳥を乗せて暮らしているのと同じ自然の形を保っているのです.干渉するでもなく無視するでもない関係は、敵対するでもなく甘えるでもありません.自然の風景となっていました.要するに食の連鎖が保たれているのです.害虫(?)がいなければ、コウノトリは生きていけないのです.ねずみがいなければ、ふくろうは生きていけないのです.人間のみが収穫を得るようには自然は出来ていません.日本人は田んぼに農薬を撒き化学肥料を入れることで一時的に収量をあげたかもしれません.でも多くの生物を死滅させ、今では土地の疲弊に泣いています.その上水も空気も汚染してしまいました.
ヨーロッパの年老いた農夫の納屋にはふくろうが住みついていました.庭の木のうろにはヤマネが住みついていました.ヤマネは農夫の収穫を失敬していますが、農夫はそれもありで暮らしてきました.ヤマネは増えすぎるとふくろうが太ります.天敵同士は自然のバランスが保たれています.長い目で見るとその関係は冷徹です.人間の一時的な収量増も、自然のスパンで見ればいつか地力が落ちて収量減となります.それを何とか人間は知恵を絞って次から次へと人工の力を借りていますが、なかなか難しい問題を抱えています.量を確保しても質の問題が浮かび上がってきているのです.昔の人参と今の人参は同じ力を持っていません.有機農法、或いは自然農法の人参の味を、一般の慣行栽培の人参は持っていません.サプリメントで補いますか?一時的には収量増と同じ結果を生むでしょう.その急場しのぎに甘えていると、次は人体システムの異変だろうと思います.
そろそろ私達人間は思い上がりを捨てるべきではないでしょうか.私達も単なる自然の一部で、コウノトリと同じであることを認識すべきではないでしょうか.私達の捨てたものが、他の動物のえさとなる世界を取り戻すべきではないでしょうか.私たちは平気な顔をしてコウノトリを死に追いやって暮らしてきたのです.賠償を求められるわけでもありません.罪を問われるわけでもありません.そんな自然のおきて破りの上に私達は乗っています.最近の犯罪の土壌は案外こんな私達の破廉恥さに在るのではないかとさえ思います.
カバの背中に乗っている鳥や、大きなサメの皮膚にくっついている魚を考えるにつけ、私達が獲得してきた多細胞のシステムを考えてしまいます.社会という動物の生活構造や植物の群生を考えてしまいます.宇宙という大きな観点から見れば、カバの背中に乗っている鳥は、カバという多細胞動物の縁のほうのゆるいつながりを持った細胞の一つではないだろうかと・・・・・・植物は地球に固定しているけれども、動物はついたり離れたりしている・・・・・・地球という多細胞生物の自由に(?)動く細胞の一つではないだろうかと・・・・・私達人間は特別ではありません.コウノトリもふくろうもヤマネもねずみもみな同じです.