結婚する前自分で買った唯一の和服があります。それが今回の記事の題名、『更紗のきもの』です。もう40年も前に気に入って買った着物です。お茶のお稽古に着ていこうと・・・・・でも一度も着ないままです。洋服の便利さ、手軽さに慣れてしまって、和服を手軽に働き着に出来ない私達現代日本人・・・・・それでも和服の感触は過ぎし日の懐かしさとともにあります。
『お母さんは着物を着ていなさい。』・・・・・父の声が聞こえてきそうです。自衛官の父は帰宅すると和服に着替え、我が家では『オジブッツアァ』と呼んでいた仏壇の前で白隠禅師のお経を唱え、それから父の席に座り私達子供のその日一日の報告(?)話を聞いてくれました。そんな父の希望に応えるため(もちろん女にとって着るものを誂えるのは楽しみの一つでしょうが)、慎ましい家計を工面して母は着物をこしらえました。
当時はやった(?)ウールの着物も母を助けました。ウールの着物は単衣仕立てでしたから、母にとって簡単に縫えましたし、裏地不要だったので節約になりました。シルクウールというのもありました。ちょっと薄手だったので、外出着にもなりました。母は絵心があったので柄選びが上手でした。今でも覚えていますがそんな中に木の葉模様の着物があって、母は皆が大島と遠目に見まがうらしいと自慢げでした。また呉服屋さんから染め見本の反物を譲ってもらって、長い時間をかけ模様と色を決めて染めに出し着物を誂えました。グレーがかった薄いピンク地に焦げ茶の立涌がぼかし染めされている訪問着です。もう一つ思い出深いものは鬼しぼの黒地に赤い小さな狢菊が染めてある羽織です。これは私達の入学式・卒業式の思い出とともにあります。
私に着物を譲ると言う母にその三枚をねだりました。すると『あのウールはもう擦り切れてしまってね・・・・・』と言いながら、『安物だったけれどあれほど愛用した着物も無い・・・・・』と懐かしそうに考えながら、似たような大島に代えて望みをかなえてくれました。その大島は母が生きている間に何度か着て見せましたが、母の作品の訪問着は、母亡きあと高校の還暦同窓会に着ていきました。
婚家の母もたくさんの着物を残してくれました。長男が生まれた時には無地の紋付と絵羽織を誂えてくれました。その絵羽織はアメリカの久司インスティテュートに持って行って、ニューイヤーパーティーで着ました。今ではさすがに派手になったので、柿本の名を負う孫息子のお宮参りを機会に今年1月嫁に譲りました。そろそろ着物の始末も頭に置かなければ・・・・・と、問題の『更紗のきもの』を取り出して見ることになってこの記事を書いています。
結婚して40年・・・・・時折虫干しをする時には見ていたのです。その度に『もうこのまま娘に譲ろうか???、いや待て、娘達の暮らしは和服とは遠い・・・・・それに一度は袖を通してみたい・・・・・』とまた箪笥へ。そんな繰り返しでした。でも60を超えた頃から、『いくらなんでもあのローズ色のような裾回しでは・・・・・・』となっていました。それを今回平戸にに帰った折、一大決心をして裾回しを変えることにしました。そして今度は必ず袖を通そうと決心しています。この更紗を着て何処に行きましょうか。出来たら教室にでも現れることにしましょうかね???
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
『お母さんは着物を着ていなさい。』・・・・・父の声が聞こえてきそうです。自衛官の父は帰宅すると和服に着替え、我が家では『オジブッツアァ』と呼んでいた仏壇の前で白隠禅師のお経を唱え、それから父の席に座り私達子供のその日一日の報告(?)話を聞いてくれました。そんな父の希望に応えるため(もちろん女にとって着るものを誂えるのは楽しみの一つでしょうが)、慎ましい家計を工面して母は着物をこしらえました。
当時はやった(?)ウールの着物も母を助けました。ウールの着物は単衣仕立てでしたから、母にとって簡単に縫えましたし、裏地不要だったので節約になりました。シルクウールというのもありました。ちょっと薄手だったので、外出着にもなりました。母は絵心があったので柄選びが上手でした。今でも覚えていますがそんな中に木の葉模様の着物があって、母は皆が大島と遠目に見まがうらしいと自慢げでした。また呉服屋さんから染め見本の反物を譲ってもらって、長い時間をかけ模様と色を決めて染めに出し着物を誂えました。グレーがかった薄いピンク地に焦げ茶の立涌がぼかし染めされている訪問着です。もう一つ思い出深いものは鬼しぼの黒地に赤い小さな狢菊が染めてある羽織です。これは私達の入学式・卒業式の思い出とともにあります。
私に着物を譲ると言う母にその三枚をねだりました。すると『あのウールはもう擦り切れてしまってね・・・・・』と言いながら、『安物だったけれどあれほど愛用した着物も無い・・・・・』と懐かしそうに考えながら、似たような大島に代えて望みをかなえてくれました。その大島は母が生きている間に何度か着て見せましたが、母の作品の訪問着は、母亡きあと高校の還暦同窓会に着ていきました。
婚家の母もたくさんの着物を残してくれました。長男が生まれた時には無地の紋付と絵羽織を誂えてくれました。その絵羽織はアメリカの久司インスティテュートに持って行って、ニューイヤーパーティーで着ました。今ではさすがに派手になったので、柿本の名を負う孫息子のお宮参りを機会に今年1月嫁に譲りました。そろそろ着物の始末も頭に置かなければ・・・・・と、問題の『更紗のきもの』を取り出して見ることになってこの記事を書いています。
結婚して40年・・・・・時折虫干しをする時には見ていたのです。その度に『もうこのまま娘に譲ろうか???、いや待て、娘達の暮らしは和服とは遠い・・・・・それに一度は袖を通してみたい・・・・・』とまた箪笥へ。そんな繰り返しでした。でも60を超えた頃から、『いくらなんでもあのローズ色のような裾回しでは・・・・・・』となっていました。それを今回平戸にに帰った折、一大決心をして裾回しを変えることにしました。そして今度は必ず袖を通そうと決心しています。この更紗を着て何処に行きましょうか。出来たら教室にでも現れることにしましょうかね???
それでは今日も:
私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!