前回も紹介したが、仏画曼陀羅アート教室で「達磨さん」を描く練習をしているが、仏画を描くのとは少々異なる。その最大の違いは、達磨さんは、お釈迦様と同じようにこの世に存在した人であるということで、人物画として達磨さんの特徴を捉え一気に描き上げていく。その特徴は周知のとおり眼光鋭く、髭もじゃもじゃの顔に簡素な袈裟をまとった姿なので描きやすく筆は進む。
しかしながら、顔を描く際には、筆が止まるようだ。描いた経験のある人はわかると思うが、筆が止まるのは達磨の目を描くとき。目でも黒目といわれている瞳孔である。大きさ、位置によって描く達磨さんが違ってくる。これほど黒目ひとつで画の本旨が変わる画題は少ない。
白隠禅師が描いた達磨図
「達磨図」はそもそも、法要で使う道具として絵画専門の僧が描いていたが、ある時から、「不立文字(ふりゅうもんじ)」といわれる「言葉では言い表せない禅の教え」を表現する手段として用いられるようになった。
特徴的な達磨図を描く禅僧に、江戸時代に活躍した白隠(はくいん)という人がいた。それまで、礼拝の対象としての崇高な画であったものを、白隠禅師は一般民衆へ禅の教えをひろめるための「禅画」としてちょっとユニークな達磨さんを描いた。その絵はユーモラスで軽妙、かつ大胆な書画に改めて驚かされる。達磨さんの周りには文字が躍っている。そこには公案(禅問答)が示されている画がある。この画のどこかにヒントが隠されているものの答えは見えない。それは、見た人に考えさせ、自ら答えを導き出させるために仕組まれた画である。
白隠の禅画に表されているのは、人としての本質を問うものばかりで、資料を見ながら理解していくと、その画の奥深さが見えてくる。薄見識ではあるが、白隠禅僧の神髄を楽しむことができた。
以前にも紹介したが、白隠禅問答の一つを改めて紹介すると、江戸時代に画かれた「隻手布袋図(せきしゅほていず)」(写真)がある。片手の画は「両手を叩けば音がするが、隻手(片手)ではどんな音がするか聞いて来い」という、白隠禅師が考えた代表的な公案に基づく画。その心は、常識にこだわり、それが正しいと凝り固まっていてはいけないという、まさに禅問答の典型のような画として有名である。
禅問答集を参照しながら、上記の禅問答を少しひも解くと、我々は「物」をみるのは「眼」で、「音」を聞くのは「耳」でと思い込んでいる。この思い込みが「妄想」だという。この常識や分別を外せば、片手でも音は聞こえるという。
般若心経にあるように、不生不滅。不垢不浄。不増不滅。無限耳鼻舌身意。の意味のとおり一切の対立観念の無い完全無分別の世界ということになる。この画が般若心経を説いているかのようだ。
白隠禅師が描いた隻手布袋図
一昨日の10月の5日は「達磨忌(だるまき)」といわれ、達磨大師の命日だった。眼光鋭い目が描き方によって達磨さんの表情が変わる。その時の描く人の心模様で黒目を大きくも、小さくもできる。また次が楽しみになってくる。
リポート/ 渡邉雄二 写真/ 白隠禅師の画像より転載
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