先日、淡路島の淡路市多賀にある「伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)」を訪ね、それから2週間後に縁あって、滋賀県犬上郡多賀町の「多賀大社(たがたいしゃ)に参拝した。
共に、国生みに始まるすべての神功を果たされた天照大神のご両親である「伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)」と「伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)」を祀る由緒正しい神宮、大社である。
しかしながら、伊邪那の幽宮(かくりのみや)は、淡路と淡海(近江)の2ヶ所に存在するということから古来から論議を呼んでいる。
日本最古の文献の古事記では、”伊耶那岐の大神は淡路の多賀にまします”というのが記されている。日本書紀では「是以構幽宮於淡路之洲」とある。つまり「伊弉諾尊は神としての仕事を終え、淡路之洲(の国)で死を迎えるために大きな家を建て、静かに隠棲された」ということが記されてあるようだ。日本書紀の真福寺本には淡海(琵琶湖)の多賀とする。伊勢系本は淡路説ということになっている。古事記と日本書紀で記されている内容が少し異なる指摘があるのも事実のようだ。
そしてもう一つの関心を持ったことは、神宮(淡路)、大社(近江)共に「多賀」という地名がついている。調べてみると「多賀」は、日本の古代において大和や蝦夷の地を美化するために使われた言葉のようである。
「高い地」とか「災いを除く地」ということらしい。だから共にあとから「多賀」という地名がつけられたと推察する。
多賀大社を訪ね驚いたのが、厳かで立派なお社。本殿をはじめ、拝殿、神楽殿、弊殿は素木造の檜皮葺の建物。 大社造の本殿を神楽殿から広がる廊下と塀で囲んでいる。 平入りの屋根が折り重なって広がる建物の様子は迫力を感じさせるものだった。
鳥居をくぐって門の前を流れる小川には、反り橋がかけられている。 石でできたこの太鼓橋は、多賀町の文化財にもなっており、太閤秀吉が信仰を寄せたところから「太閤橋」とも呼ばれているという。
地元の人たちには「お多賀さん」という愛称で呼ばれ親しまれている大社である。昔からこんなことが囁かれていた。「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢 お多賀の子でござる。お伊勢七度 熊野へ三度 お多賀様へは月詣り」と。絶大なる「多賀信仰」の深さを物語るものである。
共に、国生みに始まるすべての神功を果たされた天照大神のご両親である「伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)」と「伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)」を祀る由緒正しい神宮、大社である。
しかしながら、伊邪那の幽宮(かくりのみや)は、淡路と淡海(近江)の2ヶ所に存在するということから古来から論議を呼んでいる。
日本最古の文献の古事記では、”伊耶那岐の大神は淡路の多賀にまします”というのが記されている。日本書紀では「是以構幽宮於淡路之洲」とある。つまり「伊弉諾尊は神としての仕事を終え、淡路之洲(の国)で死を迎えるために大きな家を建て、静かに隠棲された」ということが記されてあるようだ。日本書紀の真福寺本には淡海(琵琶湖)の多賀とする。伊勢系本は淡路説ということになっている。古事記と日本書紀で記されている内容が少し異なる指摘があるのも事実のようだ。
そしてもう一つの関心を持ったことは、神宮(淡路)、大社(近江)共に「多賀」という地名がついている。調べてみると「多賀」は、日本の古代において大和や蝦夷の地を美化するために使われた言葉のようである。
「高い地」とか「災いを除く地」ということらしい。だから共にあとから「多賀」という地名がつけられたと推察する。
多賀大社を訪ね驚いたのが、厳かで立派なお社。本殿をはじめ、拝殿、神楽殿、弊殿は素木造の檜皮葺の建物。 大社造の本殿を神楽殿から広がる廊下と塀で囲んでいる。 平入りの屋根が折り重なって広がる建物の様子は迫力を感じさせるものだった。
鳥居をくぐって門の前を流れる小川には、反り橋がかけられている。 石でできたこの太鼓橋は、多賀町の文化財にもなっており、太閤秀吉が信仰を寄せたところから「太閤橋」とも呼ばれているという。
地元の人たちには「お多賀さん」という愛称で呼ばれ親しまれている大社である。昔からこんなことが囁かれていた。「お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢 お多賀の子でござる。お伊勢七度 熊野へ三度 お多賀様へは月詣り」と。絶大なる「多賀信仰」の深さを物語るものである。
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