一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

680  本当は捨てられしやと墓洗ふ   眸

2012年08月21日 | 

  「夫23回忌」と前書きのあるこの句、確かに20余年も経つと、夫への思いや感情は変わってくるだろう。問題は、「捨てられしや」と思うようになるその前は、どう思っていたのだろう、ということ。

  何歳くらいだったか、事故か病気か、闘病生活の長さなどによっても、死者に対する思いは様々なはずで、作者にしか分からない。

  あえて想像すれば、妻子を残して先に逝かざるをえない夫は、無念を抱えていたのかもしれない。つまり、愛された記憶、又は愛されていたという確証が、20余年の時間の経過と共に、次第に薄れていったのではないか。

  「全くしょうがない人ねえ。あなた、あの世で遊び呆けているんじゃないの」などと呟きながら、悲しみも可笑しさに変わり、達観の境地に辿り着いたとも言えるだろう。

クサギ(臭木)  シソ科 落葉小高木

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