水があってこその川である。水がなければ「川涸る」という冬の季語がある。それではこの句、水があったか、なかったか。
もしかするとこの句は、虚子の「流れゆく大根の葉の早さかな」を踏まえて作ったのかもしれない。とすると、水は十分にあったはずで、但し大根の葉もましてゴミなど生活を感じさせるようなものは一切流れていない、清冽な透き通った川ではないのか。
私は、清水町の柿田川、山梨の忍野八海、長野の大町などの清流を思い起こす。
水があってこその川である。水がなければ「川涸る」という冬の季語がある。それではこの句、水があったか、なかったか。
もしかするとこの句は、虚子の「流れゆく大根の葉の早さかな」を踏まえて作ったのかもしれない。とすると、水は十分にあったはずで、但し大根の葉もましてゴミなど生活を感じさせるようなものは一切流れていない、清冽な透き通った川ではないのか。
私は、清水町の柿田川、山梨の忍野八海、長野の大町などの清流を思い起こす。