この句の「ちぎりて」は、12月1日のことである。11月29,30日の2枚をちぎって、日めくりが師走になったのである。
この句が「ちぎりし」だと、12月ならばいつの日でも構わない。だから、
「日めくりを2枚ちぎりし師走かな」ならば、日めくりをちぎるのを忘れるほど忙しい師走の二日間だった・・・・という解釈になる。この場合、二日よりも五日くらいの方が忙しさを強調できるかもしれない。
この句の「ちぎりて」は、12月1日のことである。11月29,30日の2枚をちぎって、日めくりが師走になったのである。
この句が「ちぎりし」だと、12月ならばいつの日でも構わない。だから、
「日めくりを2枚ちぎりし師走かな」ならば、日めくりをちぎるのを忘れるほど忙しい師走の二日間だった・・・・という解釈になる。この場合、二日よりも五日くらいの方が忙しさを強調できるかもしれない。
1099回の「七五三袴付けたる犬もいて 洋子」の、犬の七五三もおかしかったが、仏教に帰依しているお坊さんが神社で七五三をするのも、何故かおかしい。
葬式には、仏式、神式があるのだから、七五三にだって仏式があってもいいのではないか。仏教界の営業努力が足りないとも言えるが、祝い事の神社と葬式のお寺の住み分けが、丁度理に適っているのかもしれない。
それより、このお坊さん、袈裟を着ていたのだろうか、それとも紋付き袴だろうか。
エンディングとは、終末、結末を指す言葉でドラマや映画などに使われているが、最近は人生の終末の遺言書、遺産分配、形見分け、延命治療、葬式、埋葬、犬猫、など一切をどうするか取り決め、書き留めたものを、「エンディング・ノート」と言うらしい。相続人が後で困らないように、との配慮もあろうが、本人の自己満足でもあるだろう。
私もそのようなことを考えたことはあるが、この句の作者と違って一切関知しないことにした。資産の在り処さえ分かるようにしておけば、後に残ったものが好きなように処分すれば良いのだ。
有り難いことに、私には争いになるような資産はないし、それどころか長生きすると死ぬまでに使い切ってしまいそうなのだ。とほほほ・・・・
杭に止まっていたカモメたちがねぐらへ去って、夕日に染まった杭だけが残っている。まもなく夕日も沈み、海は冬の闇に覆われるだろう。
私は、この句の杭が作者であり、鴎が亡くした夫や妻と想像する。人生も終わりに近い孤独で実に淋しい情景のようでもあるが、実は杭に夕日が当たり、赤々と輝いていて、実は晩年を謳歌しているのではないか、と思う。
だからこの句は、決して淋しい句ではない。
「腹蔵」とは、本心を隠して表に表わさないこと。(デジタル大辞林)
腹は、「腹蔵なく話す」「腹を割って話す」「腹黒い」などと使うように、昔から考えや思いが宿るところ、と考えられている。
そこに女を閉じ込めて、焦がしているという。よくもまあ、こんなことを思い付いたものである。せめて今年中に解放してあげないと、女が焼け死んでしまうのではないか。作者なんかどうでもいいが、私は女が心配なのだ。
ノブキ(野蕗)
房総半島の先端と伊豆半島を短距離で結ぶと、およそ50km。アマゾン川の河口もそれくらいはあるから、相模湾を川と勘違いしても不思議ではない。見たことはないが、黄河や揚子江などもこれに相当するかもしれない。
そんな大河の河口を知っている作者が、相模灘を見て、木枯によってさざ波立ち東北から南西へ、川が流れているように感じたのであろう。
女房より古き炬燵やいとぬくし 遊石
松坂牛犬にあたえし憂国忌
黄と赤を舗道に残し憂国忌 鼓夢
日本海波荒くして冬の虹
おほかたを生きてしまひぬ神無月 章子
増え続く草食男子憂国忌
憂国忌山本太郎の言い分 炎火
木枯や相模の海は大河なり
ゆるキャラの話題花咲く憂国忌 豊春
繧繝の伊豆の山並み冬日和
深秋や枕に届く波の音 洋子
七五三袴つけたる犬もいて
おもてなしつみれ湯豆腐寒卵 歩智
八ヶ岳ことばも凍る風の波
ガス暖の臭い温もり馬込町 空白
今時は小春木枯らし凌ぎあい
落葉して窓の景色の広がりぬ 稱子
小春日や父の背中で吾子眠る
一人居の話し相手や小鳥来る 雲水
木枯や徹頭徹尾よろこぶ犬
(うんげんの いずのやまなみ ふゆびより)
「繧繝」とは、同じ色を濃から淡へ、淡から濃へと層をなすように繰り返す彩色法。中国西域から伝わり、主に宝相華(ほうそうげ)などの文様を表す。赤・青・緑・紫などの色を用い、奈良・平安時代の仏画、寺院の装飾や染織などに用いられた。繧繝彩色(さいしき)。(デジタル大辞泉より)
伊豆の山の初冬は、紅葉のシーズン。赤あり、黄あり、茶あり、そして緑もある。繧繝模様は、確かに初冬の今が相応しい。
マユミ(檀、真弓、檀弓)ニシキギ科ニシキギ属
自然界の万物は、春夏秋冬によって生生流転(生滅流転、生死流転)を運行している。宇宙からみれば、一人の人間の数十年など一瞬に過ぎない。
そんな中で作者は、多くの果つるものに思いを馳せる。そして、生き残っている自分も、やがて果つるであろうことに思いが至ったのであろう。
ところで、「輪廻転生」などということをよく思いついたものだと、私は感心してしまう。神の存在も然りである。確かに信じる者は救われる。これは本当だ。
今年、我が家のモモも果つる仲間に加わった。しかし、果たしてあの世で会えるのであろうか。あの世が本当にあるのならば、是非会ってみたいものである。
ムラサキシキブ(紫式部)
(しちごさん はかまつけたる いぬもいて)
なるほど、時代はここまで来たか、と思う。犬に服を着せるなんて言語道断、馬鹿じゃないか、と思うのだが、それはこのブログだけの話。
何故なら、犬に服を着せるのは、可愛いから、寒いだろうから、ダニが付かないように、など色々理由があって彼らは真剣なのである。
犬の服に、私がケチを付けようものなら、真剣な彼らは本気で怒るか、プイと横を向き二度と口を利いてくれないであろう。
さて、韓国では、犬肉を当然のことと食べている。ところが日本では、5代将軍綱吉の「生類憐みの令」によって、その後の日本人は犬の肉を食わなくなった。明治以後の文明開化によって、牛、豚、鶏、猪、鹿などが公然と食べられるようになったが、犬は圏外である。
11月の岩戸句会の兼題は、「憂国忌」だった。11月25日の憂国忌は、作家三島由紀夫が、楯の会のメンバー4名と共に、市ヶ谷の自衛隊駐屯地を占拠し、憲法改正と自衛隊のクーデターを呼びかけた後、森田必勝と共に割腹自殺を遂げた日のこと。1970年(昭和45年)で、あれから43年の歳月が流れた。
句会会員の「憂国忌」を読むと、時代の変化を見ることができる。以下、その他の会員の句
憂国忌心を込めて窯詰めす 洋子
憂国忌格上げされて省となり 歩智
ゆるキャラの話題花咲く憂国忌 豊春
増え続く草食男子憂国忌 章子
憂国忌山本太郎の言い分 炎火
空腹の腹が出ている憂国忌 雲水