:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ ベネディクト16世教皇と新求道期間の道の深いつながり

2023-01-12 00:00:01 | ★ 新求道共同体

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ベネディクト16世教皇新求道期間の道との深いつながり

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 昨年の大みそかにベネディクト16世名誉教皇が逝去してからも、時は休みなく流れていく。2005年に聖教皇ヨハネパウロ2世が逝去された後を受けて教皇に選ばれたヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿は、2013年に生前退位した。ローマ教皇の生前退位は、約2000年265代の教皇の歴史の中で719年ぶり、史上二人目となった。

 以来、保守派の引退教皇と革新派の現教皇フランシスコと相反する姿勢の二人の教皇の並立時代などと、時にはまるで二人が相容れない立場にあるかのように言われることもあったが、二人の間には共通のゆるぎない一致点も見られた。それは、ほかならぬ第2バチカン公会議という教会の歴史的大改革路線に対する忠実さだった。

 その一貫した共通点の具体的表れが、「新求道期間の道」に対するゆるぎない支持と温かい保護の姿勢だ。しかも、それは直近二代の教皇だけに限られたものではない。1965年に自らの手で第2バチカン公会議を閉会にまで導いた教皇パウロ6世から、現教皇フランシスコまで5代の教皇たちが、全くブレることなく「新求道期間の道」を手厚く保護し、それを全世界のカトリック信徒に対して力強く推奨してきたことは特筆に値する。

 

キコを謁見する教皇パウロ6世

 

 例えば、教皇パウロ6世は、1974年5月8日の新求道共同体のメンバーに対する最初の謁見のとき、次のような言葉で挨拶をおくられた:

 「これこそ第2バチカン公会議の果実です・・・あなたたちは、初代教会が洗礼の前にしたことを、洗礼の後にしています。前か、後か、それは二義的なことです。大切なのは、あなたたちが本物のキリスト教的生活、その完全さ、一貫性、を目指しているということです。これこそ最大の功績です。繰り返し言いますが、これはわたしを非常に慰めてくれます・・・」

 同じ教皇は、また別の謁見の機会に、新求道共同体の創始者のキコに対して、「謙遜で教会に忠実でありなさい、そうすれば教会もあなたに忠実であるでしょう!」と言われた。

在位30日で不審の死を遂げた教皇ヨハネパウロ1世も個人謁見でキコを愛をこめて迎えた

 

 公会議を開いた教皇ヨハネス23世と、公会議を閉じた教皇パウロ6世の二人の名前をとって、ダブルネームの「ヨハネ・パウロ1世」を名乗ったヴェニスの総大司教は、教皇として第2バチカン公会議の改革を早速実行に移すべく、着任早々バチカン内部の大幅な人事異動の名簿を発表しようとしたその前夜に、バチカン宮殿の寝室で不審死を遂げた。在位はわずか30日だった。毒殺の噂が絶えない謎の死だった。教皇に選ばれる前のアルビノ・ルチアー二総大司教は、新求道共同体の創始者のキコとカルメンとマリオ神父に、ご自分のヴェニスの大司教区内で新求道期間の道を始め広める許可を与え、大いなる愛情をこめて彼らを受け入れられた。

 短命に終わった悲劇の教皇の後を襲ったのが、ポーランド人のカルロ・ヴォイティワ枢機卿・大司教だった。中世以来、教皇の座がほとんどイタリア人で占められてきた伝統の終わりだった。第2バチカン公会議の指導的教父の一人として頭角を現した若いヴォイティワは、前任者と同じダブルネーム、ヨハネ・パウロ2世を名乗り、前任者の路線を引き継ぎ、慎重に、賢明に公会議の改革を実行に移し、長い在位中を通して最高牧者として教会を導いた。

 そのヨハネ・パウロ2世教皇は今は聖人の位に挙げられているが、生前ローマの「カナダの殉教者教会」の11の共同体のメンバーを訪問したとき「正しく理解したとすれば、あなたたちの『道』は本質的に次のとおりである:すなわち、洗礼の神秘を発見し、その意味するところを余すところなく見出し、こうしてキリスト者であることが何を意味するかを理解すること」であると言われた。

 

カナダの聖殉教者教会。聖教皇ヨハネパウロ2世の前でギターを弾きながら歌うキコ

 

キコを優しく引き寄せる教皇。

 

 「道」のミサのやりかたが、バチカンの「典礼聖省による正式承認」(1988年12月19日)を受けたとき、聖教皇ヨハネパウロ2世は全世界に向けて最初の100組の宣教家族を派遣し、感謝の祭儀(ミサ)を司式された。この承認文書によって、以後、道の参加者は常に種無しパンとぶどう酒を用いる両形色で聖体拝領し、平和のあいさつは共同祈願の直後に行うことができるようになった。」

 

教会が正式に承認した新求道共同体のミサのやり方に沿って、共同体の姉妹が手で焼いた種無しパン(聖体)でミサを捧げる聖教皇ヨハネパウロ2世。

 

ガリレア湖を背に幸いの丘にキコが建てたドームスガリレア

2000年、キリスト降誕第2千年紀の最後の年に、聖教皇ヨハネパウロ2世はイスラエルのガリレア湖のほとりの「幸いの丘」(ベアティトゥディネ)で世界青年大会を開かれ、私も参加した。そして、その丘にキコが建てたドームスガリレアという巨大なコンヴェンション施設の新築オープニングを祝うため、教皇は建物の祝別のために訪れられた。

ドームスガリレアのオープニングの祝福に訪れた聖教皇ヨハネパウロ2世

 

 前置きがすっかり長くなってしまったが、昨年大みそかに帰天した引退教皇ベネディクト16世も、パウロ6世以降の3代の教皇たちの路線から一歩も逸れず、新求道共同体を圧倒的に支持し、保護された。その証左が次の写真だ。

 

本題の故ベネディクト16世に話を戻そう。

 

個人謁見で親しくキコと語り合うベネディクト16世教皇

 

新求道期間の道の40周年を記念して、教皇ベネディクト16世は、聖ペトロ大聖堂を埋め尽くした共同体のメンバーを前にして、挨拶を送られた。写真は道の創始者のキコに感謝とねぎらいの言葉を述べられる教皇。

 

高松にあったレデンプトーリス・マーテル神学院出身で、ローマのグレゴリアーナ大学では私の後輩の田中裕人神学生を聖ペトロ大聖堂で司祭に叙階したのも、教皇ベネディクト16世だった。田中新司祭は教皇から直接司祭に叙階された唯一の日本人ではないかと思う。

 

 自分の存命中に「新求道期間の道」に教会法上の堅固な位置づけを与えるために必要だからと、嫌がるキコを叱咤激励して「道」の「規約」の起草を命じたのは聖教皇ヨハネパウロ2世だったが、2008年5月11日にそれを最終承認したのは教皇ベネディクト16世だった。

 

規約の日本語訳

 

 その教皇ベネディクト16世が先の大晦日に帰天された機会に、キコは全世界の新求道共同体に以下のようなメッセージを送った。

 

棺の上に安置されたベネディクト16世の遺体

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

 このたび、名誉教皇ベネディクト十六世がこの地上から御父のもとに逝かれたとの報せが届きました。
 教授時代から始まり、次いで教理省長官、そして教皇として、聖パウロ六世、聖ヨハネ・パウロ二世に続いて新求道期間の道を支持し擁護してくださったベネディクト十六世に、わたしたちはいつも特別な感謝と愛情の念を抱きました。 ラツィンガー博士は、レーゲンスブルク大学教授であった70年代から、その教え子であった物理学博士ステファノ・ジェンナリーニと法学博士トニ・スパンドリの証言と、1973年に彼の自宅でカルメンとともに私と個人的に出会ったことから新求道期間の道を知り、1974年6月22日にペントリング(バイエルン)の主任司祭に手紙を書き、次の言葉をもって、その小教区で「道」を開くことを提案しました。
 「二人の弟子、またキコとカルメンと何度も話し合った結果、ここには、真の刷新の希望があると私は確信しています。新求道期間の道は、聖書と教父の精神に基づき、具体的な教会に深く根ざし、主任司祭と結ばれながら、同時に信仰生活の新しい道に開かれたものです。私の聞くところによると、教皇様(パウロ六世)も、提示された資料に基づいて、この事実を非常に肯定的に評価されたそうです。従って、この経験がドイツでも定着することが、私の強い望みです」。
 教皇ヨハネ・パウロ二世の望みにより、ラツィンガー枢機卿様が教理省長官として、カテケージスと規約の認可のための審査を開始し、教皇ベネディクト十六世になってからは、2008年6月13日の教令で『新求道期間の道の規約』を、また2010年12月10日の教令で『カテケージスのための指針』を認証してくださいました。
 私やカルメン、そして新求道期間の道――特にドイツにおける「道」――に対する教皇様の絶え間ない支援と愛情について、思い出すべき出来事がたくさんあります。
 このため、教皇フランシスコと全教会と共に、主がベネディクト十六世の魂を天に迎え、その罪を赦し、彼が今天国の栄光に与ることができるよう、すべての新求道共同体が祈ることを勧めます。
 ベネディクト十六世の教皇就任前、就任中、就任後の私たちに与えてくださった数多くの恵みの故に主に感謝しつつ、


2022年12月31日、聖シルベストロ一世教皇の記念日
マドリードにて、

キコ

                    私のために祈ってください。
                    良い2023年を!

 

 このメッセージの背景には以下のような出来事があった。

 スペインで新求道期間の道が生まれ定着した後、キコはその「道」をヨーロッパ中に広めようとした。

 マドリッドの大司教の推薦状を携えて希望に燃えてやって来たキコは、ローマでは非常に冷ややかに迎えられた。「スペインではよかったでしょうが、ここ、ローマでは全く必要ありません」というような反応だった。そこで若いキコは、マドリッド郊外の貧民窟のバラックで「道」を始めた時と同じように、ジプシーが多く住むローマ郊外の貧民窟に入って、改めてゼロから活動を試みた。そこにはローマ大学の学生など、左翼思想のオルグが活動していた。時あたかも全世界で大学紛争の嵐が吹き荒れていた時代だった。彼らは、キコに興味をいだき、やがてその影響のもとにキコの忠実な協力者に変っていった。その中に、後日ドイツに留学することになるステファノ・ジェンナリーニとトニ・スパンドリがいた。そして、彼らはレーゲンスブルク大学教授であったラツィンガー博士の教え子となり、彼らの証言と、ラッツィンガー教授の自宅でキコに個人的に出会ったことから新求道期間の道を知ったラッツィンガー教授は、1974年6月22日にペントリング(バイエルン)の主任司祭に手紙を書き、その小教区で「道」を開くことを提案した。キコがドイツ人の司祭たちの前で「道」の説明をしたときは、ラッツィンガー教授自身が通訳を買って出るほどの力の入れ方だった。

 ドイツに初めて新求道期間の道を導入したのは、後にベネディクト16世教皇となるラッツィンガー枢機卿自身だった。

 今回のブログはベネディクト16世の追悼を主題とするものではあるが、ついでに現教皇フランシスコと「道」の関係についても一言添えておこう。

 聖教皇ヨハネパウロ2世とキコが協力してローマに開いたレデンプトーリス・マーテル神学院の7番目の姉妹校を高松教区に誘致したのは深堀司教だったが、短期間に発展し、年に6人もの新司祭を輩出する神学校の出現に脅威を感じた日本の司教団は、その閉鎖を決めた。

 世界中にローマの新神学校「レデンプトーリス・マーテル」の姉妹校誘致熱でネットワークが急拡大しつつある中で(現在120校以上あり主要国で今現在無いのは日本ぐらい)、その7番目の姉妹校が閉鎖されるのを惜しまれたベネディクト16世は、将来再び期が熟したら福音宣教の有効な手段として日本に戻そうと考え、父性的愛をもってそれを一時的にローマに移植された。その際、日本の司教団と同神学校の絆の印として教皇ベネディクト16世は大分の平山引退司教を院長として任命され、私は院長秘書として共にローマに移り住んだ。2008年のことだったと思う。

 その時、教皇の意向を受けて高松の神学校のローマ移転を指揮したのは、福音宣教省長官のベルトーネ枢機卿で、そのもとで実務を処理したのは秘書のフィローニ大司教だった。ベネディクト16世の生前退位後、フランシスコ教皇の下でベルトーネ枢機卿の後を受けて福音宣教省長官を務めたのはフィローニ枢機卿だった。

 フィローニ長官は、高松の神学校の閉鎖に力のあった日本の司教たち数名が相次いで定年で退職したのを見て、期が熟したと判断し、ローマに疎開していた高松教区立「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」を、「教皇庁立」に格上げして、東京に設置することを決めた。フランシスコ教皇は、ベネディクト16世の遺志を実現するためにそれを承認し、教皇訪日の1年前にフィローニ福音宣教省長官は訪日してその決定を日本の司教団に告げた。

 こうして、フランシスコ教皇の訪日の目的の中の重要な案件として、教皇庁立「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル国際神学院」の視察と祝福があるはずだった。

 しかし、教皇訪日を目前にして、日本の司教団の中から教皇庁立の神学院の東京設置には同意しかねる、という声がローマに届いた。それを受けて、教皇フランシスコは教皇庁立神学院の設置場所を急遽東京からマカオに変更された。現教皇はイエズス会出身であり、マカオは聖フランシスコ・ザビエルの時代のアジアの宣教の重要な拠点だった因縁もあってのことだろう。

 それにしても、天皇や首相などとの世俗外交のスケジュールはともかく、新設されたばかりの「教皇庁立国際神学院」視察と祝福という教会的には主要目的を失った教皇の訪日は一体何だったのだろうか。

 テレ朝の玉川さんではないが、うっかり「電通」の名を語ったらひどい目に合うかもしれないが、東京ドームでの教皇のミサを丸投げされて一手に仕切った電通の采配は、教皇ミサの共同司式を許された私の目には、さすがは大型イヴェントの超プロの技と映り、計算しつくされたその演出ぶりは「お見事」の一言に尽きた。

 教皇フランシスコは世界のスーパースターには違いないが、日本「公演」では一円のギャラも要求しない。タダの切符に高いのでは35,000円の値段をつけて、全国傘下の旅行代理店を通して当日直前まで暇と金と好奇心に不足しない物見高い日本人に売りまくり、売れ残った切符を教会に返し、教会はその売れ残りをネットで申し込んでいた信者たちに抽選で分け与えた。濡れ手に粟のぼろ儲けをした電通はさぞ笑いが止まらなかったことだろう。その陰で、一生に一度、教会の頭の姿に接しローマ教皇のミサに与りたいと切望した敬虔な信者のどれほど多くが「抽選漏れ」の無慈悲な一言に涙をのんだことだろう。神様はこれをどう裁かれるのだろうか。

 東京ドームで「ビーバー、パパー!」の歓声に包まれた教皇は、そのような楽屋裏を知らずに、一体どんな思いで日本を去って行ったのだろうか。

 

トヨタ自動車ご謹製、水素エンジン搭載の白いパパモビレに乗って東京ドームを一巡するフランシスコ教皇

 

 それにしても、フランシスコ教皇が、公会議後の歴代の教皇の例にもれず、「新求道期間の道」を瞳のように大事にし、愛してくださっていることは、大きな慰めである。

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★ お待たせしました。キコの二冊目の著書が翻訳出版されました。

2019-09-02 00:05:00 | ★ 新求道共同体

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 お待たせしました。キコの二冊目の著書が翻訳出版されました。

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キコ・アルグエヨ著 「覚え書き」 谷口幸紀訳

 

イタリア語版 "Annotazioni" の表紙

写真は貧しき人々の間に住んでいた若いころのキコ

 

私は、新求道共同体というカトリック教会の中の新しい動きより前に、その創始者であるキコ・アルグエヨという男に個人的興味を抱いた。

フランシスコ教皇は、彼のことをどう思うかと記者に問われて、「彼についてはいろいろなことが言えるが、一つ確かなことは彼が聖人だということだ」と言い放ってしまった。私は、思わず両手で耳をふさいで、「教皇様、あなた、それを言っちゃあお終いだよ」と叫びたい、衝動にかられた。

だってそうでしょう!ローマ教皇と言えば、非常に厳格な特殊な条件のもとでとは言え、その人の語ることは聖霊(つまり神)に護られて、決して誤ることはない(教皇の不可謬性)と教義で定められているのだから。棺桶の蓋に最後の釘が打たれ、死が確定する前の生身の男「キコ」について、私が「彼は聖人だ」と思うというのとは重みが違う。それを、教皇の地位にある人が、軽く口にしてもいい言葉だろうか、と思った。

かく言う私は、かれの人柄に触れ、近しく観察して、もしかしたら、こういう人を「聖人」というのかもしれない、という感慨に浸ったことは度々ある。しかし、それにしても、全く型破りの聖人だ。

タバコは吸う、ワインも結構たしなむ、美味しいご馳走を喜んで食べる。およそ禁欲主義的な聖人のイメージからは程遠い。宣教のためなら、そして支援者が提供してくれるなら、ためらわずプライベートジェットで世界の空を飛び回る。絵を描く、大壁画も描く、まあ、それは、もともとプロの画家だから当たり前だが、評論家やジャーナリズムから酷評されると、哀れなほど落ち込む。人間味丸出しだ。旺盛に多数の歌を作曲をする、オーケストラ用のシンフォニーまでも作曲する、楽譜が読めないくせに・・・。建築を手掛ける、彫刻もする、本を書く。まさに、ルネッサンス期の巨匠を彷彿とさせる総合的芸術家である彼は、教会の今日までの聖人の系譜からは、全く逸脱した、異色中の異色な「聖人」というべきだろう。

その彼が、密かに自分のために霊的な内面を綴った「覚え書き」(Annotazzione) を書きとめていた。もともとは、公表、出版を意図して書かれたものでなかったことは、そこここを読めばすぐわかる。それが本になって出版されることになったとき、私はまだローマを生活の拠点としていた。そんなある日、キコは私の寝起きしているローマの神学校にやってきた。改装・増築なった神学校の聖堂正面に、バチカンのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの「最後の審判」の大フレスコ画よりさらに大きい壁画を描くためにやってきたのだ。その機会に私は、直接彼に会って、一冊目の「ケリグマ」に続いて、今度の本も私が訳したいと思うがいいか、と申し出た。そして、彼は快諾してくれた。

こうして、私のこの本との取り組みは始まった。途中、一年ほどのスランプがあって中断したが、この春から気を取り直してようやく完成にたどり着いた。

キリスト者であるとは、真の回心とは、神との霊的一致、自分の罪人であることの自覚、愛することの奥義、キコの魂の内面の光と闇、愛、・・・私は訳しながらーそのために繰り返し読み返しながらー祈りながら、個人的に多くを学び、照らされた。翻訳に没頭していると、まるで自分が彼と同じ心境、同じ霊的状態に溶け込んだような錯覚を覚えた。 506の短い断章、その3分の1は詩の形で書かれている。初めから順を追って読むようにはなっていない。むしろ、手にするたびに、ランダムにパッと開いて目に留まった番号から読むがいいだろう。

十字架の聖ヨハネなどに代表されるカトリック霊性文学の古典の一冊として、末永く歴史に残るものになることは疑いない。

 

 

イタリア語版もスペイン語版も定価20ユーロだった。 それは、今日のユーロ=円のレートの中値で2347円だから、消費税が10%になったとしても、定価2000円+税 はいい値段ではないか。

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★ 初聖体の夜

2019-07-04 00:03:00 | ★ 新求道共同体

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初聖体の夜

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ひと月近くブログの更新を怠ると、さすがに読者から忘れられ、アクセスが減る。

わかってはいたのだが、このところ身辺超忙しく、思うに任せなかった。

今日やっと、向こう1週間ほどの目星がついたので、取り敢えずどんなに小さな出来事でも、短いブログの材料にして書いてみたいと思った。

 

 

さて、去る6月23日の日曜日にカトリック教会では「キリストの聖体」の祭日が祝われた。その日、世界中のカトリック教会では子供たちの初聖体の式を行う習慣になっている。聖体というのは、ミサの中で聖別されキリストのからだと血に変わったパンとぶどう酒のことで、この日、子供たちは初めてキリストの聖体をいただくのだ。パンとは名ばかりの白い紙みたいな「しるし」の見えないもので済まさず、パンは実際に手で焼いたパンで、ぶどう酒も金の杯からたっぷり一口、秘跡の「本質」「見えるしるし」がしっくり調和した形の「聖体」をいただく。

 

今年、わたしから初聖体を受けたのは、4人の子供たちだった。男の子2人、女の子2人。

女の子は白いドレス。男の子はネクタイや蝶ネクタイを締めている。

 

前列の初聖体を受けた4人を中心に

両親や代父母やお友達とケーキの前で記念写真(左寄りの黒シャツに白髪がわたし)

 

わたしたちは、その式を土曜日の晩に祝った。え?なぜ日曜日ではないの?と不審に思われる方がおられるかもしれないので、一応説明しておこう。

キリスト教の歴史はナザレのイエスの十字架上の死と復活の直後から始まった。紀元314年ごろコンスタンチヌス1世ローマ皇帝が洗礼を受けてキリスト教に改宗するまでは、キリスト教徒の群れはまだイエスが生涯その中に生きたユダヤ教の伝統をしっかり守っていた。

まだ皇帝の迫害下にあった教会では、成人の入信希望者は、カテケージスと称して、求道者の洗礼準備期間の教育を徹底的に受けて、入信(洗礼)前にすでに旧約聖書、新約聖書、福音的勧告の何であるか、人類の救いの歴史、旧約の「過ぎ越し」(エジプトの奴隷の状態から約束の地での自由な解放の状態への移行)、そして、キリストの苦難と十字架上の死と、復活の栄光への「真の過ぎ越し」についての理解を身に着け、それに伴う回心(生活の改善)を遂げた上で、晴れて洗礼を受け、信者の群れ(教会)に迎え入れられた。

だから、初代教会ではユダヤ教の伝統が良く守られていた。彼らにとっては、一日は日没の頃から始まり、次の日の日没までと考えられていた。初代教会のキリスト教徒にとっては、週の初めの日、太陽の日、日曜日、安息日、主の日は、わたしたちの現代の生活感覚から言えば土曜日の日暮れからすでに始まっていた。日付が変わるのは夜中の12時ではなかったのだ。正確な時計が普及していなかった時代には当たり前の話だった。

ところが、コンスタンチヌス大帝がキリスト教をローマ帝国の国教化して以来、様子が一変した。中世を経て我々に伝わったミサは、荘厳だがラテン語で意味が分からず、信者にとっては教会から課された退屈な習慣、参加しなければ罪になる「主日の義務」に堕してしまった。神父が大勢いた頃は、日曜は朝から立て続けにミサがあるのが普通だった。

1965年に幕を閉じたキリスト教会史上最大の改革、第二バチカン公会議が、主日つまり日曜日のミサを土曜日の晩に祝うことを認めたのは、日曜日がゴルフやショッピングや娯楽で忙しい現代人に「主日のミサに与る義務」を土曜日の晩にさっさとかたずけて、日曜日は教会に煩わされることなく、丸一日を寝坊や気晴らしや娯楽に費やすことができるようにするため、ではなかった。

第2バチカン公会議は、初代教会の伝統に戻って、土曜の日が暮れて「主の日」が始まると、まずゆっくりと落ち着いて「主の過ぎ越し」、つまり「感謝の祭儀」、「主の日のミサ」をみんなで祝うことができるために、道を開いたのだった。それは「喜びであり、神への感謝の集い」であり、神への「賛美の捧げもの」を捧げる日にになるはずだった。ミサの中に「爆発する復活の喜び」、「こみ上げる賛美の叫び」を取り戻すためだった。

それは決して個人の世俗的な日曜日のスケジュールに合わせて、忙しくない人は朝寝坊して遅いミサに与り、世俗的な楽しみや仕事が詰まっている人は早朝のミサに与って、さっさと「主日の義務」を片付ける、という考え方に、さらに、「主日の義務」を土曜の晩のうちに済ませてもいい、というオプションを増やすため、日曜は丸々遊びか仕事に打ち込めるようにする、という世俗的な妥協に道を開くためではなかった。

第2バチカン公会議のこの大きな改革により、深夜0時に日付が変わるという世俗感覚に敢えて挑戦し、キリスト者は、初代教会の典礼的伝統に立ち返って一日の始まりを日没の頃と定めたのは、週の初めの日の夜のうちに、つまり、世俗の暦の土曜日の晩に、先ず第一に、イエス・キリストの「過ぎ越し」の「ミサ」を心を込めて祝うこと、魂を込めて「キリストの復活」と「永遠の命への希望」を喜びと神への感謝のうちに祝うことに再び道を開くためだった。

ところが、教会による説明と教育が足りなかったために、10億以上のカトリック信者は、上から下まで、公会議のこの改革をこぞって誤解して、教会の世俗主義へのさらなる妥協、譲歩と考え、日曜日に「主日の義務」を果たすことに困難を感じるものは、土曜日の晩にミサに与ることによってそれに替えることができるよう、選択肢を増やしたのだと理解してしまった。

世俗化が進み、日曜日は安息日、仕事をしないで神を賛美する日、というキリスト教的伝統は地上から消えてしまった。日本には始めからなかった。また、カトリック信者にとって、日曜日のミサは面倒な「義務」になってしまった。義務を果たさなければならないのなら、せめてその選択肢は多い方がいい。意味も分からない、特に喜びも感じないただの「義務」なら、なるべく簡単に片付けて、早く解放されて休むなり、楽しむなりするのがいい、という安易な考えに流れるのも自然の成り行きだった。

それでも、私の少年時代、青年時代は、教会にはまだ人がいっぱい集まってきた。クリスマスや復活祭には通路に立ち見の信者があふれていた。それが半世紀後には見るも哀れな閑古鳥の鳴く状態に立ち至った。

今では、名簿上の信者の10人に1人が教会に来ていれば多い方になってしまった。イタリアでも、ヨーロッパのどこへ行っても、50歩100歩の有様だ。しかも、最近では、自分のその日の都合に合わせて、好きな時間にミサに行けばいい、という贅沢な時代でもなくなってきた。司祭の高齢化と召命の枯渇で、一人の司祭が幾つもの教会を掛け持ちしなければならなくなった。毎日曜にせめて一回ミサがあるとも限らなくなった。土曜の晩にミサを出来る司祭はほとんどいなくなった。気がついたら、義務を果たす機会が限りなく少なくなってしまっていたのだ。今や、教会は緩やかな自然死、安楽死への道をたどっていると言っても過言ではない。それも日本だけではない。ナザレのイエスの天の父なる神はどこかに置き忘れられ、世俗主義とお金の神様の前に全身全霊を傾けて跪く風潮が世界中で勝利を収めている。信者の心はすでに教会から離れているというべきではないだろうか。


おやおや、初聖体の報告のつもりが、話はあらぬ方向に展開してしまった。

それはともかく、上の写真の子供たちは、思春期の困難で誘惑的な時期を乗り越えて、立派な大人の信仰を守り続け、キリストの福音を世に伝える逞しい信者に成長していくだろう。

彼らは、この初聖体の晴れやかな感動的祝いの夜のミサの思い出を生涯忘れないだろう。避妊や産児制限を正しいとしないカトリック教会の教えに忠実に5人、8人、10人以上の子宝を神の手から寛大に喜んで受け取り、大家族を営み、多くの立派な信者の子孫を世に送り出すだろう。教会の発展と希望はこの子供達にかかっている。かれらはきっとその期待に応えてくれるにちがいない。

(終わり)

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★ 「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の誤解を解く(そのー3)

2019-04-16 00:05:00 | ★ 新求道共同体

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アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」

の誤解を解く(そのー3)

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結論を先取りして簡単に要約しましょう。

 

今回の【教皇庁立】「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」(東京)設立の聖座決定に関しては、

 

  19 年前に日本の司教団の総意に基づいてせっかく閉鎖に追い込んだはずの高松教区立「レデンプトーリス・マーテル」神学院は、その消滅を望まれなかったベネディクト16 世教皇の手によってローマに移植され、教皇あずかりの「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」としてローマで生き延びてしまった。

 その後、新求道共同体の熱烈な支持者のフィローニ枢機卿は、新教皇誕生のどさくさに紛れて教皇の名を語って個人プレーで同神学院の東京への強襲上陸を画策した。しかし、日本の司教団は再び団結して、それを無事水際で阻止した。それが今回の「保留」の背景にある真実だ。この「保留」により、高松の神学校問題は、やがて永久に忘れ去られていって最終決着を見るだろう。20 年もかかったが、やっと終わった。

 

と言う空気が流れているように思われます。

 しかし、私に言わせてば、これは、全くのとんでもない「誤解」の数々の上に築かれ た、真実を全く見誤った考えのように思われてなりません。 

 以下の文章がそういう視点から書かれたものであったということを念頭に、もう一度 読み直していただけるとありがたいです。 

 ~~~~~~~~~~~~~

 

 

コの2 作目の本「覚え書き」(Annotazione) のカバーの半分を展開したもの。左端の縦の細い部 分が本の背。真ん中が表紙。人物は若かりし頃のキコ。右はカバーが内側に折りこまれる部分。

 

 私はいま、キコの第2 作目の本題名を直訳すれば「覚え書き」(1988-2014) ですが、実際は「霊的日記」とか「魂の叫び」とか言う題がふさわしい本の翻訳中 です。

イタリア語版は2016 年の末にはローマの一般書店に並びましたが、私が著者の 同意のもとに翻訳に取り掛かって以来、様々な出来事のために何度も長い中断を余 儀なくされました。いま束の間の静けさに恵まれ、ようやく日本語の3 度目の推敲を 終えようとしています。今日、500 編余りの断章の中の211 番を読み返しながら、 急にブログに取り上げたいという衝動に駆られました。まずその部分を味わってください。

  

211 私たちはアフリカで、テントの中に居る。昨日、素晴らしく美しい大自然の只 中で、黒人たちは木の枝と花を持った腕を動かしながら私たちを歓迎するために歌っ てくれた。私たちはキリストを告げ、かれらは私の言葉に喝采しながら、驚きをもって 聞いてくれた。

 今日、この時、良い知らせを信じなさい!約束された霊を今受け取ることが出来る よう回心して信じなさい。その霊はあなたの中に住んで、人を赦すことが出来る力を あなたに与え、新しい形で人を愛することが出来るようにしてくださいます。この十字 架をご覧なさい。彼はあなたのために死なれ、ご自分の不滅の命とご自分の霊につ いて、あなたのために御父に遺言されまし。今それを信じなさい。

 私があなたたちに話している間にも、イエスご自身が御父の前であなたのためご自 分の栄光の傷をお示しになっています。

 今日、私は大天使ガブリエルで、あなたはマリアです。彼女と一緒に言いなさい。「は い、あなたの告げたことがお言葉通りに私の中で成就しますように」と。

 信仰は聞くことから来る。聴きなさい!神はあなたを愛し、あなたを罪の奴隷から、愛 情に飢え渇く苦しみから、利己主義から、絶えず自分の快楽を追い求める恐ろしい奴 隷状態から、傲慢から、色欲から、賭博から、飲酒から、憎しみから、対抗意識から、 妬みから・・・開放することを望んでおられます。これら全ては苦しみのもとだ・・・。

 主の霊は私たちに伴い、私たちの言葉が虚しく消えることを許されない。私たちが語 ることは、主がそれを成就される。彼は全ての君主、全ての権能と支配の上に揚げら れた主(キュリオス=Kyrios)である。彼は諸聖人を伴って生きているものと死んだ ものを裁くために栄光のうちに帰って来られる主である。ご自分の体においてすべて の正義を成し遂げるために、すべての人のために死なれた彼は、彼において、彼の 体によって、罪のため捧げられ嘉納された芳しい香りの生贄としてご自分を捧げ、罪 の赦しのために回心を説かれた。

 私たちの解放と罪の赦しの保証としてキリストは復活された。人類はキリストにおい て赦された。また、私たちを新しい被造物とする霊を受け取ることが可能になった。私 たちを彼に似たものとして、聖霊を通して、神の子として、ご自分の本性に与らせて下 さった。すべての貧しいもののための勝利!回心して良い知らせを信じなさい!洗礼 を受けて、聖霊を受けなさい。無償で!私たちの業によってではなく、ご自分の血とご 自分の受難の果実として、彼に栄光がもたらされますように。

 アフリカ!神はお前を愛しておられる。聖霊に歌を捧げるあなたの貧しいひとたちを どうか受け入れてください・・・。彼らがどのように聞き、どのように祈ったか、それはと ても素晴らしかった。

 アフリカ!ここはケニヤ、過去19 年間の宣教で一番特筆すべきことは、それが徹底 的に失敗だったことだった。常に拒否された。宣教師たちは我々を望まず、我々を 「競争相手」と見なした。司祭が替わると、共同体を少しずつ、少しずつ殺していくの だった。19 年後の今日、ケニヤ全体でたった7 つの共同体が存在するだけだった。 しかし、すぐにすべては変わるだろう。失敗することはキリストに倣うこと。失敗するこ とは勝利すること!

 212 失敗の中で耐えしのぶことは命を与えること。命を与えることは福音を告げ ること。

 

私はこれらの言葉を読んで、とても他人事とは思えませんでした。日本における新求 道共同体の活動は、私がこの「道」と出会って以来、私の関わった部分に限って言え ば、失敗に次ぐ失敗、挫折に次ぐ挫折の連続でした。

  私はいま理解しました。キコがケニヤで19 年間経験したのと同じ挫折を、私もいま 日本の教会の中で経験しているのだということを。

 つまり、失敗することはキリストに倣うこと、失敗することは勝利すること!失敗の中 で耐えしのぶことは命を与えること。命を与えることは福音を告げること、だということ を。

 1988 年に聖教皇ヨハネパウロ2 世が世界で最初のレデンプトーリス・マーテルの 神学校をローマに開設されて以来、この30 年間でその姉妹校は世界中で増え続 け、今日では120 校以上を数えるまでになりました。今や、主要な国でその姉妹校 を持たない国は日本ぐらいなものでしょうか。

 実は、日本では1990 年に他の国々に先駆けて世界で第7 番目の姉妹校が高松 教区に生まれました。私はその誕生の最初から関わってきました。しかし高松の司教 様が替わられると、その神学校は日本の全司教の一致団結した反対で閉鎖に追い 込まれました。それを惜しまれたベネディクト16 世は、慈父の愛で「日本の将来の 福音宣教に役立てるために」とそれをローマに移植され、以来、同神学校は10 年余 りにわたり教皇預かりの「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」として命 脈を保ってきました。

 しかし、ベネディクト16 世が生前退位されると、新しい教皇フランシスコは熟慮の「教皇庁立」「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」東京に設置する方針を打ち出されたことは、昨年8 月の東京教区のお知らせで公に知らされた 通りでした。

 それが、その後の東京教区ニュースには、「8 月末にお知らせした、教皇庁福音宣教 省直轄の神学校設立の通知に関しては、現在、保留となっているとのことです が・・・」と、まるで他人事のように小さく触れられていることに目を留められた方がど れだけおられたでしょうか。

 私は咄嗟に、10 年前に高松の神学校が、教皇様の慰留を押し切って、日本の司教 方の一致した固い意志によって閉鎖に追い込まれたときのことがフラッシュバックしま した。

 現教皇様が熟慮の末に決断され通知され、すでに日本の信徒に公けに発表された 決定が、理由も告げられず「保留」になるなどということは、その裏によほど深刻な事 情がなければ決してあり得ないことだと直感しました。

  今起きている誤解と混乱は「教皇庁立のアジアのための神学院」「レデンプトーリ ス・マーテル」という言葉を名称の一部にを含んでいたことからおこったとおもわれま す。そのために、この教皇庁立の神学院が、世界に展開する120 余りの「司教区立」の神学院と同列、同格のものの一つに過ぎないと誤解されたのでしょう。しかし、 もしもそうであったら、あえて「教皇庁立」にする理由がないことぐらい、教皇であれば 見誤るわけがないではありませんか?

 では、この度の教皇が設立を決意した「教皇庁立」「アジアのための神学校」とはど ういう性格のものになるはずなのでしょうか。

 歴史をふり返ると、世界中の宣教地域の聖職者の高等教育を一手に担ってきた機関 としては、ローマにウルバノ大学を持つ「教皇庁立」の歴史と伝統に輝く養成機関が ありました。アフリカでも日本を含むアジアでも、およそ宣教地域と認定されたところ からのエリート司祭、将来の司教や枢機卿の候補者の多くが、「教皇庁立」ウルバニ アーノ神学校で養成されてきました。

 今回の「教皇庁立アジアのための神学校」計画は、そのウルバノ神学校の機能を二分し、東京にその分身を置くことにより、地球の西半球の宣教地は従来通りローマのウルバノ神学校で、東半球は新設の東京の「教皇庁立アジアのための神学校」でカ バーしようという、第三千年紀に向けたバチカンの壮大な宣教戦略転換の根幹をな すフランシスコ教皇自身の英断だったと私は見ています。

  なぜなら、ベネディクト16 世に救われてローマに移されたまでは良かったが、その 10 年間、一向に日本への帰還の目途が立たなかった元高松の神学校を、いっそ のこと「教皇庁立」として戻しては、という進言が寄せられていたのに、福音宣教省長官のフィローニ枢機卿は「前例のないことはできない」と再三にわたって選択肢から 除外されてきた経緯から見ても、それがフィローニ枢機卿から出たアイディアだという ことは、絶対にあり得ないと思われるからです。

 2000 年の教会の歴史に前例のない新しい選択をするということは、忠実な一高級 官僚レベルでは無理で、やはりトップである教皇様自身の発想と決断が不可欠だっ たのでしょう。

 聖教皇ヨハネパウロ2 世が奇しくも予言された通り、2001 年からの第三千年紀が 「アジアのミレニアム」であるとすれば、その中心拠点としてフランシスコ教皇様が東 京を選んだのは全く理に適っていると私には思われます。過去数百年の歴史を顧み れば、文化的にも、国際政治・経済・技術・金融のどの面をとっても、要するに「地政 学」的に見て、「日本・東京」以上にバランスの取れた候補地をアジアの他の場所に 見つけることはほとんど不可能でしょう。

 いま葬り去られるかもしれない危機に瀕しているのは「ネオの司祭を作る神学校」どと言う次元の低いスケールの小さい話ではなく、聖座が教会の未来の命運をかけ て描いた「第三千年紀のアジアの福音宣教の拠点」という重大な構想ではないでしょ うか。はじめは小さく生まれるかもしれませんが、やがて聖座のアジアでの活動の中 核となる可能性を秘めた大きな構想であると私は理解しています。これが日本にでき るということは、大変名誉なことであり、これが、アジア近隣の別の場所に行くことに なれば、日本の教会にとって大きな損失になることでしょう。

 もしこの「保留」が長引けば、教皇の今年11 月の訪日計画の中の重大な目的の一 つかもしれないの神学校(ウルバノ神学校の分身)設立のお披露目という大きな目的 を欠くことになるのが惜しまれます。

まだ水面下で動きがあり、最終決着がついていないのだとすれば、今後の展開から 絶対に目が離せません。

 最後に断っておきますが、いま私が書いているこの一連のコメントは、「道」の内部に見られる共通認識を 反映するものではなく、ましてや「道」の公式見解などでは全くありませんので誤解の ないようにお願いいたします。

 

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★ 「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の誤解を解く(そのー3)

2019-03-25 00:05:00 | ★ 新求道共同体

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「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」

の誤解を解く(そのー3)

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このブログの本文を読み始めて「アレ?これ、どこかで読んだ気がするゾ!?と不審に思われる方がおられたら、私は嬉しいです。あたりー!です。 

事実、私は1月28日に「アフリカに学ぶ -失敗は成功のもと-」の題で酷似した一文をアップしました。今回、それを別の題のもとに採録するのは、前回「アフリカ・・・」という書き出しに惑わされて、後半の内容がこの「誤解を解く」シリーズに直結した私からの重大なメッセージに気付かれた方が少なかったように思われたからです。 

結論を先取りして簡単に要約しましょう。 

今回の【教皇庁立】「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」(東京)設立の聖座決定に関しては、 

≪19年前に日本の司教団の総意に基づいてせっかく閉鎖に追い込んだはずの高松教区立「レデンプトーリス・マーテル」神学院は、その消滅を望まれなかったベネディクト16世教皇の手によってローマに移植され、教皇あずかりの「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」としてローマで生き延びてしまった。 

その後、新求道共同体の熱烈な支持者のフィローニ枢機卿は、新教皇誕生のどさくさに紛れて ―教皇の名を語って― 個人プレーで同神学院の東京への強襲上陸を画策した。 

しかし、日本の司教団は再び団結して、それを無事水際で阻止した。それが今回の「保留」の背景にある真実だ。この「保留」により、高松の神学校問題は、やがて永久に忘れ去られていって最終決着を見るだろう。20年もかかったが、やっと終わった。≫ 

と言う空気が流れているように思われます。 

しかし、私に言わせてば、これは、全くのとんでもない「誤解」の数々の上に築かれた、真実を全く見誤った考えのように思われてなりません。 

以下の文章がそういう視点から書かれたものであったということを念頭に、もう一度読み直していただけるとありがたいです。 

~~~~~~~~~~~~~

 

キコの2作目の本「覚え書き」(Annotazione) のカバーの半分を展開したもの。左端の縦の細い部分が本の背。真ん中が表紙。人物は若かりし頃のキコ。右はカバーが内側に折りこまれる部分。

私はいま、キコの第2作目の本 ―題名を直訳すれば「覚え書き」(1988-2014)ですが、実際は「霊的日記」とか「魂の叫び」とか言う題がふさわしい本― の翻訳中です。

イタリア語版は2016年の末にはローマの一般書店に並びましたが、私が著者の同意のもとに翻訳に取り掛かって以来、様々な出来事のために何度も長い中断を余儀なくされました。いま束の間の静けさに恵まれ、ようやく日本語の3度目の推敲を終えようとしています。今日、500編余りの断章の中の211番を読み返しながら、急にブログに取り上げたいという衝動に駆られました。まずその部分を味わってください。

211. 私たちはアフリカで、テントの中に居る。昨日、素晴らしく美しい大自然の只中で、黒人たちは木の枝と花を持った腕を動かしながら私たちを歓迎するために歌ってくれた。私たちはキリストを告げ、かれらは私の言葉に喝采しながら、驚きをもって聞いてくれた。

≪今日、この時、良い知らせを信じなさい!約束された霊を今受け取ることが出来るよう回心して信じなさい。その霊はあなたの中に住んで、人を赦すことが出来る力をあなたに与え、新しい形で人を愛することが出来るようにしてくださいます。この十字架をご覧なさい。彼はあなたのために死なれ、ご自分の不滅の命とご自分の霊について、あなたのために御父に遺言されまし。今それを信じなさい。

私があなたたちに話している間にも、イエスご自身が御父の前であなたのためご自分の栄光の傷をお示しになっています。

今日、私は大天使ガブリエルで、あなたはマリアです。彼女と一緒に言いなさい。「はい、あなたの告げたことがお言葉通りに私の中で成就しますように」と。

信仰は聞くことから来る。聴きなさい!神はあなたを愛し、あなたを罪の奴隷から、愛情に飢え渇く苦しみから、利己主義から、絶えず自分の快楽を追い求める恐ろしい奴隷状態から、傲慢から、色欲から、賭博から、飲酒から、憎しみから、対抗意識から、妬みから・・・開放することを望んでおられます。これら全ては苦しみのもとだ・・・。

主の霊は私たちに伴い、私たちの言葉が虚しく消えることを許されない。私たちが語ることは、主がそれを成就される。彼は全ての君主、全ての権能と支配の上に揚げられた主(キュリオス=Kyrios)である。彼は諸聖人を伴って生きているものと死んだものを裁くために栄光のうちに帰って来られる主である。ご自分の体においてすべての正義を成し遂げるために、すべての人のために死なれた彼は、彼において、彼の体によって、罪のため捧げられ嘉納された芳しい香りの生贄としてご自分を捧げ、罪の赦しのために回心を説かれた。

私たちの解放と罪の赦しの保証としてキリストは復活された。人類はキリストにおいて赦された。また、私たちを新しい被造物とする霊を受け取ることが可能になった。私たちを彼に似たものとして、聖霊を通して、神の子として、ご自分の本性に与らせて下さった。すべての貧しいもののための勝利!回心して良い知らせを信じなさい!洗礼を受けて、聖霊を受けなさい。無償で!私たちの業によってではなく、ご自分の血とご自分の受難の果実として、彼に栄光がもたらされますように。≫

アフリカ!神はお前を愛しておられる。聖霊に歌を捧げるあなたの貧しいひとたちをどうか受け入れてください・・・。彼らがどのように聞き、どのように祈ったか、それはとても素晴らしかった。

アフリカ!ここはケニヤ、過去19年間の宣教で一番特筆すべきことは、それが徹底的に失敗だったことだった。常に拒否された。宣教師たちは我々を望まず、我々を「競争相手」と見なした。司祭が替わると、共同体を少しずつ、少しずつ殺していくのだった。19年後の今日、ケニヤ全体でたった7つの共同体が存在するだけだった。しかし、すぐにすべては変わるだろう。失敗することはキリストに倣うこと。失敗することは勝利すること!

 212. 失敗の中で耐えしのぶことは命を与えること。命を与えることは福音を告げること。

私はこれらの言葉を読んで、とても他人事とは思えませんでした。日本における新求道共同体の活動は、私がこの「道」と出会って以来、私の関わった部分に限って言えば、失敗に次ぐ失敗、挫折に次ぐ挫折の連続でした。

私はいま理解しました。キコがケニヤで19年間経験したのと同じ挫折を、私もいま日本の教会の中で経験しているのだということを。

つまり、失敗することはキリストに倣うこと、失敗することは勝利すること!失敗の中で耐えしのぶことは命を与えること。命を与えることは福音を告げること、だということを。

1988年に聖教皇ヨハネパウロ2世が世界で最初のレデンプトーリス・マーテルの神学校をローマに開設されて以来、この30年間でその姉妹校は世界中で増え続け、今日では120校以上を数えるまでになりました。今や、主要な国でその姉妹校を持たない国は日本ぐらいなものでしょうか。

実は、日本では1990年に他の国々に先駆けて世界で第7番目の姉妹校が高松教区に生まれました。私はその誕生の最初から関わってきました。しかし高松の司教様が替わられると、その神学校は日本の全司教の一致団結した反対で閉鎖に追い込まれました。それを惜しまれたベネディクト16世は、慈父の愛で「日本の将来の福音宣教に役立てるために」とそれをローマに移植され、以来、同神学校は10年余りにわたり教皇預かりの「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」として命脈を保ってきました。

しかし、ベネディクト16世が生前退位されると、新しい教皇フランシスコは熟慮の末、「教皇庁立」「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」を東京に設置する方針を打ち出されたことは、昨年8月の東京教区のお知らせで公に知らされた通りでした。

それが、その後の東京教区ニュースには、「8月末にお知らせした、教皇庁福音宣教省直轄の神学校設立の通知に関しては、現在、保留となっているとのことですが・・・」と、まるで他人事のように小さく触れられていることに目を留められた方がどれだけおられたでしょうか。

私は咄嗟に、10年前に高松の神学校が、教皇様の慰留を押し切って、日本の司教方の一致した固い意志によって閉鎖に追い込まれたときのことがフラッシュバックしました。

現教皇様が熟慮の末に決断され通知され、すでに日本の信徒に公けに発表された決定が、理由も告げられず「保留」になるなどということは、その裏によほど深刻な事情がなければ決してあり得ないことだと直感しました。

今起きている誤解と混乱は「教皇庁立のアジアのための神学院」「レデンプトーリス・マーテル」という言葉を名称の一部にを含んでいたことからおこったとおもわれます。そのために、この教皇庁立の神学院が、世界に展開する120余りの「司教区立」の神学院と同列、同格のものの一つに過ぎないと誤解されたのでしょう。しかし、もしもそうであったら、あえて「教皇庁立」にする理由がないことぐらい、教皇であれば見誤るわけがないではありませんか?

では、この度の教皇が設立を決意した「教皇庁立」「アジアのための神学校」とはどういう性格のものになるはずなのでしょうか。

歴史をふり返ると、世界中の宣教地域の聖職者の高等教育を一手に担ってきた機関としては、ローマにウルバノ大学を持つ「教皇庁立」の歴史と伝統に輝く養成機関がありました。アフリカでも日本を含むアジアでも、およそ宣教地域と認定されたところからのエリート司祭、将来の司教や枢機卿の候補者の多くが、教皇庁立」ウルバニアーノ神学校で養成されてきました。

今回の「教皇庁立アジアのための神学校」計画は、そのウルバノ神学校の機能を二分し、東京にその分身を置くことにより、地球の西半球の宣教地は従来通りローマのウルバノ神学校で、東半球は新設の東京の「教皇庁立アジアのための神学校」でカバーしようという、第三千年紀に向けたバチカンの壮大な宣教戦略転換の根幹をなすフランシスコ教皇自身の英断だったと私は見ています。

なぜなら、ベネディクト16世に救われてローマに移されたまでは良かったが、その後10年間、一向に日本への帰還の目途が立たなかった元高松の神学校を、いっそのこと「教皇庁立」として戻しては、という進言が寄せられていたのに、福音宣教省長官のフィローニ枢機卿は、「前例のないことはできない」と再三にわたって選択肢から除外されてきた経緯から見ても、それがフィローニ枢機卿から出たアイディアだということは、絶対にあり得ないと思われるからです。

2000年の教会の歴史に前例のない新しい選択をするということは、忠実な一高級官僚レベルでは無理で、やはりトップである教皇様自身の発想と決断が不可欠だったのでしょう。

聖教皇ヨハネパウロ2世が奇しくも予言された通り、2001年からの第三千年紀が「アジアのミレニアム」であるとすれば、その中心拠点としてフランシスコ教皇様が東京を選んだのは全く理に適っていると私には思われます。過去数百年の歴史を顧みれば、文化的にも、国際政治・経済・技術・金融のどの面をとっても、要するに「地政学」的に見て、「日本・東京」以上にバランスの取れた候補地をアジアの他の場所に見つけることはほとんど不可能でしょう。

いま葬り去られるかもしれない危機に瀕しているのは「ネオの司祭を作る神学校」などと言う次元の低いスケールの小さい話ではなく、聖座が教会の未来の命運をかけて描いた「第三千年紀のアジアの福音宣教の拠点」という重大な構想ではないでしょうか。はじめは小さく生まれるかもしれませんが、やがて聖座のアジアでの活動の中核となる可能性を秘めた大きな構想であると私は理解しています。

もしこの「保留」が長引けば、教皇の今年11月の訪日計画の中の重大な目的の一つかもしれないの神学校(ウルバノ神学校の分身)設立のお披露目という大きな目的を欠くことになるのが惜しまれます。

まだ水面下で動きがあり、最終決着がついていないのだとすれば、今後の展開から絶対に目が離せません。

最期に断っておきますが、いま私が書いているこの一連のコメントは、司祭谷口幸紀一個人の私的見解であって、「道」の内部に見られる意見を反映するものではなく、ましてや「道」の公式見解などでは全くありませんので誤解のないようにお願いいたします。

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★ アジアのための「レデンプトーリス・マーテル」神学院の「誤解」を解く(その-2)

2019-03-12 00:05:00 | ★ 新求道共同体

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アジアのための「レデンプトーリス・マーテル」神学院

の「誤解」を解く(その-2

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私はあるシスターから「福音宣教省長官のフィローニ枢機卿はネオカテクメナートの熱心な信奉者・擁護者として良く知られている」と言われるが、あなたはどう思われるか、と聞かれた。

そこで私は答えた。私はフィローニ枢機卿に何度かお会いして、その人柄に接することができたが、それらの体験から言うと、私は必ずしも彼がネオカテクメナートの熱心な信奉者・擁護者だとは思っていない。

フランシスコ教皇と話すフィローニ枢機卿

2008年6月27日付け、バチカン公文書番号が付された書簡で、当時の国務省長官ベルトーネ・タルチジオ枢機卿は次のように述べておられる。

1.      高松の「レデンプトーリス・マーテル」神学院は、教区立の神学院としては閉鎖されますが、この神学院に対する教皇様の父性的配慮を明らかにし、将来この神学院が日本の教会の福音宣教活動に貢献することができるようにとの期待を込めて、その構成員全員をローマの「レデンプトーリス・マーテル」神学院に「同居」するかたちで移転させます。(注:その一環として私もローマに移り住むことになった。) 

(2.3.省略)

4. ローマの「レデンプトーリス・マーテル」神学院に同居するこの神学院は、「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」と呼ばれ、平山元大分司教様を院長に任命することを通して、日本の教会との絆を維持します。(注:私はその平山司教の秘書として彼の手足耳口の奉仕をした。)

(以下省略)

当時、フィローニ枢機卿は国務長官ベルトーネ枢機卿のもとで働いていたから当然この文書の作成にも関わられたわけだが、その後フィローニ枢機卿は福音宣教省の長官となり、日本を含む世界の宣教地の教皇に次ぐ最高の責任者の要職に就かれた。したがって、今や、高松の神学校の経緯の最初から今までのすべてに関り、全てを知っている唯一のバチカン高官と言うことができる。

先のベルトーネ枢機卿の書簡は、高松の神学校のローマへの移転をあくまでも一時的な措置と位置付け、近い将来日本に戻すことを当然の前提とするものであったが、フィローニ枢機卿はバチカンの能吏として、決定されたことは私見を交えず誠実に実行する人ではあるが、リスクを取ってまで自身の意思で行動するタイプの人ではない。

早く日本に帰してほしいという思いから、日本に受け皿を買って出る司教様が現れないのなら、いっそのこと「教皇庁立」の形で帰してくれてはどうかと言う要望に対しても、そのような話な「全く前例がない」ので検討の対象になり得ない、と言う返答しか返ってこなかった。そして、彼がその案を決して上に上げなかったことは想像に難くない。彼の上司と言えば、ベネディクト16世教皇が一人いるだけだが、その老齢の教皇は相応しいタイミングで下から提案が上がってくるのを待つ姿勢を取ったため、ローマに置かれた「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」にはその後10年間、全く進展がなかった。

それが突然、一昨年9月のフィローニ枢機卿の訪日となり、ローマに帰る最後の日の午前に、日本の司教様たちの前で神学校を日本に帰すバチカン側の意向をかなりはっきりと伝えられたと聞いている。私たちにとって、それはまさに晴天の霹靂だった。「前例のないあり得ないこと」として黙殺し続けてきた彼が、自分の判断で「教皇庁立」として日本に戻すなどと言うことは太陽が西から昇っても絶対にあり得ない。だから、彼が「教皇庁立」の案を携えて訪日した背景には、新教皇フランシスコの英断があったとしか考えられない。

教皇フランシスコはバチカンの官僚機構とは無縁の地球の南半球から彗星のように現れた人だ。トランプ大統領と比べるのは不遜の極みだが、共通するところは、旧弊に囚われず自分の創意で決断し、自分から行動に打って出るのを妨げる何の縛りもないと言う点ではないかと思われる。バチカン官僚出身でない彼は自由に物事を決められる。

前教皇から引き継いだ諸懸案を処理していくうちに、ローマで宙に浮いていた日本のレデンプトーリス・マーテル神学院のことが彼の目にとまったのだろう。事実関係の聴取の上、ご自身で即決されたのではないだろうか。

思い返せば、レデンプトーリス・マーテル神学院の第1号をローマ教区立の「宣教神学院」として設立されたのは、聖教皇ヨハネパウロ2世だった。それは預言的だった。その姉妹校はこの30年間に世界に120校以上を数えるが、思い返せば聖教皇の励ましを受けて故深堀司教が1990年に高松に開設したそれは最初期の第7番目だった。いま世界の主要な国でその姉妹校が無いのは日本ぐらいのものだ。

この度、唯一の直属上司であるフランシスコ教皇が責任を取って決断したとあれば、今まで「あり得ない」として自分では否定し続けてきた案であっても、忠実に、最も効果的に実施するのがバチカンの能吏、フィローニ枢機卿の真骨頂だ。

ネオカテクメナートの熱心な信奉者・擁護者の枢機卿が、贔屓の引き倒しで職権にものを言わせて「教皇庁立」をでっち上げ、元高松の神学校を強引に東京に持ってきたと言わんばかりのシナリオは、東京にアジアのための宣教の拠点を設置するという第3千年紀の未来を見据えたカトリック教会の画期的な基本計画を一官僚の個人プレーの産物として無理やりに矮小化しようとするものとしては週刊誌的な面白さのあるストーリーかもしれないが、事実からは全くかけ離れた空物語りとしか私には思えない。

現に、先に東京大司教区から出された文書に引用されている福音宣教省長官からの書簡の一節によれば、「福音宣教省はアジアにおける福音宣教の重要性を説く歴代教皇の示唆に学び、同神学院の設立を決定された」とある。つまり、この度の決定はネオカテクメナートの熱烈な信奉者フィローニ枢機卿自身の個人的思い付きではなく、聖教皇ヨハネパウロ2世から教皇ベネディクト16世、そして教皇フランシスコへと3代にまたがる教会の最高牧者の一貫した宣教方針の結果であるということを如実に物語っているのではないだろうか。

特筆すべきことが一つある。閉鎖された高松教区立神学院は、ローマに移されて教皇預かりの「日本のための神学院」になったが、この度東京に上陸するに際して「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」という名を戴いたことだ。これはもはや日本のためだけに限定されないインド以東のアジア全体のための神学院になったということだ。西はローマの「ウルバノ大学」、東は東京の「レデンプトーリス・マーテル」という位置付けの礎石が置かれたと言う意味に私は解している。

さて、フィローニ枢機卿と言う人は、これまでも職務上の必要とあればネオカテクメナートのことを常に公正に処理してきた。それはバチカンの誠実な官僚として当然のことをしたまでのことであって、だからそれをもって彼がネオの熱心な信奉者・擁護者である証拠だと結論づけるのは当を得ていない。

フィローニ枢機卿はネオカテクメナートを正しく評価し、多くの善をおこなわれたことは疑いない。だから、枢機卿の人柄や手腕を過小評価したり、これまでの賢明な問題対処の仕方を批判する理由はいささかもない。前例のないことには敢えて自ら手を染めないと言うのも、彼の権限の範囲ではけだし当然のことだったのだ。

カトリック教会の中にネオカテクメナートの熱心な信奉者・擁護者を敢えて探すなら、それは公会議後の歴代の教皇、パウロ6世、ヨハネパウロ1世、聖教皇ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世、フランシスコ教皇だろう。

この9月の上旬、イタリアでネオカテクメナートの神学生の集いがあり、江戸川区一之江で日本語を勉強中だった神学生3名も参加したが、世界中の神学生の卵たちが集っている会場にフランシスコ教皇からの激励の電話が入った。キコはその肉声をアイフォンのスピーカーからマイクに拾って集った大群衆に聞かせ、会場のどよめきは同じ携帯を通して教皇の耳に届いた、と帰ってきてから興奮して報告してくれた。

なぜ歴代の教皇が擁護するのか?それはネオカテクメナートが第二バチカン公会議(1965年閉幕)の決定を忠実に実行に移したものだからに他ならない。

因みに、フィローニ枢機卿は久しぶりのイタリア人パパビレ(次期教皇候補)と噂されている。何百年、ローマ教皇はイタリア人と相場が決まっていた。それがポーランド人、ドイツ人、アルゼンチン人と3代続いた。次はアフリカか、アジアか、と取りざたされる中で、イタリア人も決して黙ってはいないことだろう。

(つづく)

 

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★ アジアのための「レデンプトーリス・マーテル」神学院の「誤解」を解く(そのー1)

2019-02-24 00:05:00 | ★ 新求道共同体

 

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アジアのための「レデンプトーリス・マーテル」神学院

の「誤解」を解く(そのー1)

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私がかつて表題のブログをアップしたら、まもなくローマから「お前のブログには重大な問題が含まれているという嫌疑が掛けられているが、いったいどうなっているのか」と言うような、全く身に覚えのないお咎めが届きました。日本から何らかの告発がローマにまで届いたのでしょう。それもかなり高いレベルから高いレベルへ。

さて、それからが大変でした。私のブログが過去にさかのぼってローマの意向を体した日本語のわかる検察官みたいな人達によって、徹底的な取り調べが始まったのです。どんなお咎め、処分が来るかと超緊張し観念しました。ちょっと大げさですが、中世の異端審問か魔女狩りにあった気分でした。ところが、それから3か月余り、何のお咎めも届きませんでした。

そればかりか、「心配するな、お前の書いたことは当たり前のこと、何も問題はなかった」というねぎらいの声さえも届きました。それまで、生きた心地がしなくて、身を縮めていましので、ホッとしました。

日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識、と言う古い言いまわしがふと心をよぎりました。

心晴れて、いったん削除したブログをほぼ文字どおり再現して、あらためてアップしたいと思います。

 

 

わたしは、「アジアのためにレデンプトーリス・マーテル神学院」の目的は、「新求道期間の道の信徒を、アジアにおける福音宣教のための司祭として準備することにある。」という言葉の解釈には、多くの場合、微妙な誤解と誤りが含まれていることに気付きました。

「誤解」というのは、「・・・だから、この神学院は《新求道期間の道の司祭》を養成する神学院である」と結論づける声のことです。そもそも、《新求道期間の道の司祭》と言うものは有り得るのでしょうか?

元来、司祭には大きく分けて「教区司祭」と「修道司祭」の2種類しかありません。東京教区司祭、長崎教区司祭とかが前者で、イエズス会司祭、フランシスコ会司祭、サレジオ会司祭、などが後者です。この分類は教会法上の司祭の帰属(Incardination=司祭籍)に関するものですが、上記の「アジアのための神学院」から生まれる司祭も、「教区司祭」か「修道会司祭」のどちらかしかあり得ないのです。

「新求道期間の道」は「司教区」や「修道会」のような組織または団体としての性格を持たず、それはあくまでも「道」であり、「道」であるかぎり、人々が通り過ぎていく両端の開いた細長い通路のような性格のもので、教会法上は固定メンバーを持った輪郭のある閉じられた団体として位置付けられていないからです。

組織でも団体でもなく、法人格もない「道」と呼ばれるバーチャルな存在に司祭が帰属する(籍を持つ)ことは教会法上あり得ません。ですから、たとえ召命は「道」を歩む子沢山の家庭から生まれるとしても、彼らが「教区司祭」や「修道会司祭」と並列される意味での「新求道共同体の司祭」になると言うことは原理的にあり得ません。

また、「新求道期間の道」は、新しい大阪の補佐司教になられた酒井神父様が所属するオプス・デイのような「属人区」でもありません。「新求道期間の道」は、カトリック信者が「成人のための信仰教育」を受ける過程、信仰を深めるための方法論、つまり幾つも有り得る「道」=信仰教育課程=の一例にしか過ぎないのです。

例えば、私はれっきとした教区司祭です。そして私の教会法上の帰属先()は依然として高松教区と言う堅固な存在であって、決して「新求道期間の道」と呼ばれる輪郭の無い雲のような存在の司祭ではありません。

1990年に深堀敏司教が聖教皇ヨハネパウロ2世に励まされて高松教区に教区立の神学校を設立されて以来、30人余りの司祭が生まれましたが、全員深堀司教様から司祭叙階を受けて「高松教区」に入籍したれっきとした「教区司祭」です。従って、彼らを「新求道期間の道の司祭」と呼ぶのは明白な誤りです。

この高松教区立の神学校が教皇ベネディクト16世の手でローマに移植されたとき、名前は「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」と変わりましたが、それ以後、高松から移り住んだ神学生たちはローマで勉強し、司祭になるときはローマ教皇の手で叙階され、多くは「ローマ教区司祭」として入籍しました。入籍後は原則3年間ローマ教区で奉仕しますが、その期間が過ぎれば、宣教地(例えば日本やアジアの他の国々)に「ローマ教区司祭」の身分のまま派遣されることができます。このようにして養成された日本のための司祭の数は、高松時代を加えるとすでに40名を超えています。

しかし、最近では、ローマ教区でも司祭不足が深刻化して、「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の出身であっても、一旦「ローマ教区司祭」として入籍してしまうと、ローマ教区に縛り付けられて、なかなか日本やその他の宣教地に出してもらえない現実が顕在化しました。

そのため、養成が終わるとローマ教区への入籍を避けて、それぞれの出身国、出身地の司教様にお願いして、一旦は故郷の教区に教区司祭として入籍し、叙階後直ちに宣教師として日本などの宣教地に派遣してもらう道が開かれました。

この度、「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」が予定通り東京に設置されれば、神学生の司祭職への養成が終わると、教皇庁の福音宣教省はその責任においてその神学生を叙階して一旦は自分の教区の教区司祭籍に受け入れ、叙階後は日本などアジアの宣教地に宣教師として派遣してくれる世界各地の理解ある司教様に司祭叙階をゆだねることになるはずです。

もし日本のどこかの司教様が、ある神学生に目をとめ、彼を自分の教区の司祭として迎えたいと望まれるなら、教皇庁と話し合ってその新司祭をその司教様の教区に入籍することも可能だろうと思います。教皇庁は日本の教会や他の宣教地の司祭不足、司祭の高齢化、召命の枯渇などの緊急の課題に対応する特効薬として、この神学院の設立を決断されたのでしょう。

フランシスコ教皇の心には、約40万人の日本人カトリック信者の司牧をどうするかという内向きの心配だけではなく、60万人以上とも言われる在日外国人カトリック信者のケアーや、12700万人の神をまだ知らない日本人への福音宣教をどうすべきかと言う大きな課題が視野にあるのだと思います。目的は、内向きに現有信者を司牧することに専念する司祭ではなく、外に向けて打って出る宣教精神に燃えた「教区司祭」の養成であると考えられます。

一方では、世俗主義に犯された少子高齢化社会において、一般のクリスチャンホームからはそのような司祭職への志願者がほとんど育っていないという厳しい状況があります。他方では、子沢山の家庭からなる「新求道期間の道」が豊かな召命を生み出しているほとんど唯一の源泉だと言うのも現実です。

新求道期間の道の信徒たちは、その道を歩む過程で次第に福音的に目覚め、「回心」し、夫婦が和解してあらためて愛し合い、夫婦生活の営みが神からの新しい生命の恵みに対して寛大に、おおらかに開かれようになり、4人、5人は当たり前、8人も10人も13人もの子供を産み育てることも決して例外でない状態に導かれていくのです。そのような新しい福音的家庭に対する神様の祝福と恵みとして、司祭職への豊かな召命が芽生えるのです。

フランシスコ教皇が東京に設置することを考えられた「教皇庁立の神学校」で行おうとしているのは、日本とアジアの福音宣教の熱意に燃えた「教区司祭」を生み出すために、「新求道期間の道で育まれた若い青年たちの豊かな召命」をこのレデンプトーリス・マーテル神学院に受け入れ、「教区司祭として」養成しようと言うものと理解すべきだろうと思います。

箱ものとして神学院を設立することは簡単ですが、それを宣教の熱意に燃えた若い神学生で満たすことはほとんど不可能に近いのが今の世界の実情です。第二バチカン公会議の決定を信仰生活の原点として受け入れかねて、古い信仰生活にとどまっている家庭の子供の数は、一家庭当たり平均1.4人と言われます。だから一家に男の子が一人いたら「神に感謝」の実情です。その子を生涯独身で通す司祭として神様に捧げようと言う発想はその親にはありません。親の遺産は自分のもの、そのかわり親の老後を看る者も自分しかいない、と言うマインドセットが幼い頃から刷り込まれている若者に、福音的勧告を受け入れて、「親も家も捨てて生涯独身の司祭としてわが身を神に捧げる」などという発想は全く湧いてこないのです。

冗談のようですが・・・長兄は東大を出て官僚になった。次男は医者になった。三男はオペラ歌手になると言う。うーん、四男の僕は何になって存在をアピールしようか?そうだ!神父になろう!神様に身を捧げて宣教者になろう!!と言う「乗りの良さ」が、子沢山の家庭の豊かさをよく表しています。

聖教皇ヨハネパウロ2世がレデンプトーリス・マーテルの神学院の第1号を原型として「ローマ教区立」として設立して以来、この30年余りの間に世界中に展開された10以上の姉妹校が、情熱にあふれる若い神学生たちで満ちている現実は、この「新求道期間の道」と言う肥沃な召命の苗床なしには考えられません。

その名誉ある第7番目の姉妹校として1990年に設立されたのが、「高松教区立レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」でした。聖教皇ヨハネパウロ2世の励ましを受けて日本最小の教区の深堀司教が慄きながらそれを設立する姿を私は自分の目で見ました。この神学院が危機に瀕したとき、この神学院の消滅を望まれなかったベネディクト16世教皇が、それをご自分のものとしてローマに移されました。そして、フランシスコ教皇はそれを「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」として日本とアジア全体のために東京に返そうとされたのです。

思い返せば、高松の神学校の初代の院長ミゲル・スアレス神父はスペイン人の「イエズス会士」(修道会司祭)でした。今、実質上の院長職を担っているアンヘル・ロメロ神父はスペイン人の「ローマ教区司祭」です。いずれも身分としては「新求道期間の道の神父」ではありません。

つまり、「新求道期間の道の神父」と言うものは教会法上存在し得ないのです。

お分かりになられたでしょうか?

誤解は少しは解消されたでしょうか?

いま、諸般の事情で同神学校の東京設立が「保留」になっていますが、この秋のフランシスコ教皇訪日を控えて、その成り行きから目が離せません。

(つづく)

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★ 教皇フランシスコのメッセージ=新求道期間の道の50周年記念式典で

2018-06-14 00:00:20 | ★ 新求道共同体

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新求道期間の道の50周年記念式典での

教皇フランシスコのメッセージ

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ローマのトール・ヴェルガータの草原にて

2018年5月5日(土)

 親愛なる兄弟姉妹のみなさん、こんにちは!

 あなた方に出会い、あなた方と共に「感謝!」と言えるのは、わたしにとって大きな喜びです。神様に、また、遠くから旅してきた人々をはじめ、ここに集う全ての皆さんに心から感謝します。あなた方が福音を生き、福音を告げ知らせるために、神からの呼びかけを受け入れ、「はい」と答えてくれたことに対して感謝します。そして、50年前に新求道期間の道を始めた方にも深く感謝します。

 「50」という数字は、聖書の中で大切な数字です。復活された方の霊は50日目に使徒たちの上に降り、世界に教会を現わされました。それより以前に、神は第50番目の年を聖別され、「50年目の年はあなたたちのヨベルの年である」(レビ記25章11節)と言われました。それは聖なる年であり、その年に選ばれた民は、解放と圧迫された者の帰国などの新しい事実に手で触れることができました。「全住民に解放の宣言をする。・・・あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(10節)と主は言われました。さて、「道」の50年間の歩みを経て、あなた方各自が「主よ、あなたはわたしを本当に解放してくださったこと、教会の中に自分の家族を見出すことができたこと、あなたの洗礼によって古いものが過ぎ去り新しい命を味わっていること(2コリント5章17節参照)、この「道」を通して、あなたの父としての優しい愛を発見するための道筋を教えてくださったことを、あなたに感謝します」と言えたら何と幸いなことでしょう。

 親愛なる兄弟姉妹たち、あなた方は最後に「神の愛と忠実の故に感謝するためにテ・デウム」を歌うことになっています。神の愛と忠実の故に神に感謝するということはとても美しいことです。多くの場合、わたしたちは、神がわたしたちに与えてくださる恵みや贈物のために神に感謝します。そうするのはいいことです。しかし、神が愛において忠実であられることそれ自体の故に神に感謝するのは、更にいいことです。神の愛はわたしたちによるものではありません。わたしたちがどんなことをしても、神は忠実にわたしたちを愛し続けられます。これこそが、わたしたちの信頼の源であり、人生の大きな慰めです。だから、元気を出して、悲嘆にくれることがないように!そして、問題の雲があなた方の日々を重苦しく覆うように見える時も、神の忠実な愛が沈むことのない太陽のようにいつも光り輝いていることを思い起こしなさい。神の善はあらゆる悪よりも強いのです。そのことを思い巡らしなさい。そうすれば、神の愛の甘美さを想起することは、すべての苦悩の時にあなた方の助けとなるでしょう。

 感謝しなければならない大切なことがまだ一つ残っています。それは宣教に出かけようとしているあなた方のことです。今日の教会の最優先課題である宣教について、一言言及したいと心から望んでいます。宣教とは、神の忠実な愛について語ることです。そして、たとえ私たちが愛することに疲れてしまうことがあったとしても、主は、わたしを、あなたを、わたしたちを、そしてわたしたちのこの世を愛することにおいて、決して疲れることがないということを告げ知らせることです。宣教とは、わたしたちが受けたものを与えることです。宣教とは、今耳にした「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という主の命令を果たすことです。あなた方と共にこの言葉について少し考えてみたいと思います。

 「行きなさい。」宣教は出かけることを要求します。しかしながら、人生においては、安住し、リスクを取らず、状況を掌握するだけで満足する誘惑には強いものがあります。自分を愛してくれる人々に囲まれて家に残る方が簡単ですが、それはイエスの道ではありません。彼は、「行きなさい」と言って派遣されるのです。彼は中途半端な態度を許しません。彼は、旅費の一部の支給や、立て替えた旅費を後で埋め合わせることを保証すことなく、ご自分の弟子に、ご自分のすべての弟子に、ただ一つの言葉「行きなさい!」しか話されません。「行きなさい」とは、キリスト教生活の隅々にまで響き渡る力強い呼び掛けで、常に出向いて行くように、神の愛の喜びをまだ知らない兄弟を探しながら世界中を旅する巡礼者になるように、というはっきりとした招きです。

 しかし、出かけるためにどうすればよいのでしょうか。身軽に行動する必要があるので、すべての家財道具を持ち運ぶことなどできません。聖書もそれを教えています。神は、選ばれた民を解放されたとき、神への信頼という手荷物ただ一つだけを持たせて、荒れ野を行かされました。神ご自身も、人となられると、彼には枕する所もない(ルカ9・58 参照)という状態で、貧しさの中を歩まれました。彼はご自分の弟子たちにも同じ態度を要求されます。出かけて行くためには身軽でなければなりません。告げ知らせるためには捨てる必要があります。この世を捨てる教会だけが、良く主を宣べ伝えるのです。教会は、権力とお金に束縛されず、勝利主義や聖職者至上主義から解き放たれたときにだけ、キリストが人間を解放される方であることを説得力をもって証しすることができるのです。キリストへの愛のために過ぎ去る物を捨てることを学ぶ人は「自由」という大きな宝を抱きしめます。もはや、絶えずより多くを求めながら決して心の平和が得られない執着心への隷属状態から解き放たれて、落ち着きの中で心が広くなるのを感じながら、神と兄弟のために身を捧げる用意ができるのです。

 宣教の動詞である「行きなさい」は、わたしたちにもう一つのことを語っています。この「行きなさい」は複数に活用されている動詞なのです。主は「あなたは、行きなさい。次にあなたも、それからあなたも……」とは言わないで、「行きなさい、あなた方みな一緒に」と言われるのです。円満な宣教師とは、一人で行く人ではなく、ともに歩む人なのです。共に歩むということは常に、毎日修練すべき技能なのです。例えば、相手に自分の歩幅を押し付けないように気配りをしなければなりません。むしろ、相手の歩み方が自分のそれとは同じでないことに心をとめ、相手に寄り添い、相手を待つことが必要です。人生においては、他者と全く同じ歩幅の人が一人もいなように、それは信仰においても宣教においても同様です。自分で孤立したり、自分の歩み方を押し付けたりすることなく、一緒に前進するのです。抜け駆けをしたり、自分よりペースの遅いものに文句を言ったりすることなく、牧者たちも兄弟姉妹全員も共に、教会として整然と前進するのです。わたしたちは兄弟たちに伴われながら、他の兄弟たちに寄り添う巡礼者であり、神への応答は偽りのない真摯な自由の中にのみ成熟するのですから、一人ひとりの歩みに配慮し、それを尊重し、誰に対しても成長を強いることなく、個々人に対してしっかりと対応すべきです。

 復活されたイエスは「人々を弟子にしなさい」と言われます。宣教はこれです。「征服しなさい」とか「占領しなさい」などと言わないで、「人々を弟子にしなさい」、つまり「受けた賜物、あなた方の人生を新たにした愛の出会いを他の人々と分かち合いなさい」と言われるのです。これこそ宣教の核心です。つまり、神がわたしたちを愛し、神が共におられると、真の愛、すなわち、家庭でも職場でも、奉献された者としても結婚した者としても、如何なる場においても命を与えるように駆り立てる愛が可能でることを証しすることです。宣教とは、イエスの新しい弟子たちとともに、自分も弟子にもどるということです。それは、自分がキリストの弟子なる教会の一部であることを再発見することです。言うまでもなく教会は教師なのです。しかし、まず娘でなければ母にはなれないのと同様に、教会はまず弟子でなければ師にもなれません。御父の娘でありながら、師の弟子であり、人類の姉妹であることを喜びとする謙遜な教会、これこそがわたしたちの母なのです。弟子である者が他の人々を弟子にするという「弟子のありかた」のダイナミズムは、強引な改宗活動のダイナミズムとは全く別物です。

 ここに、世が信じるようになるための告知の力があります。役に立つのは説得的な論証ではなく、人を引き付ける生き方であり、押し付ける能力ではなく、奉仕する勇気なのです。そして、あなた方は聖家族の模範に倣い、謙遜と、素朴さと、賛美をもって家庭生活を営みながら、この[福音を]告げ知らせる召命をⅮNAの中に持っています。荒廃し愛情に欠ける多くの場所に、この家庭的な雰囲気をもたらしなさい。イエスの友として知られるようになりなさい。すべての人を友と呼び、すべての人の友でありなさい。

 「行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。」イエスは「すべて」と言われるとき、その心にはあらゆる国民のために場所があるということを強調しておられるように見受けられます。誰も除外されることなく。父親と母親にとって自分の子供たちがそうであるように。たとえ大勢であろうとも、大きい人達も、小さい人達も、一人ひとりが心を込めて愛されています。なぜなら、愛は配られることによって決して減少することなく、かえって増加するものだからです。愛はいつも希望しています。両親がまず気にするのは、子供の欠点や過ちではなく、子供自身であり、その視点の中で子供の問題やその困難を受け止めるように、宣教師たちも神に愛された民に対して同じ態度をとります。彼らは否定的な面や改善すべきことを前面に置くのではく、「心で見る」、つまり、尊重する眼差し、尊敬するアプローチ、忍耐する信頼を持つのです。あなた方もこのように、「ホーム試合」のつもりで宣教に出かけなさい。なぜなら、主にとってどの国民もご自分の家の民であり、あなた方が着く前から聖霊が既に種を蒔いておられるからです。そして、この上なく世を愛してくださるわたしたちの御父(ヨハネ3章5節参照)を思い起こしながら、人間そのものに情熱を傾け、皆の喜びのために協力する者(2コリント1章24節参照)になり、身近にあって信頼できるもの、近くにいるから聞き入れやすい相手でありなさい。予め作った理想像を押し付けることなく、あらゆる国民の文化と伝統を愛しなさい。理論や計画からではなく、具体的な状況から出発しなさい。そうすれば、聖霊ご自身がその時や方法に沿って宣教を形成されます。そして、教会も聖霊の似姿として、つまり、国民、賜物、カリスマの多様性における一致として、成長することになるのです。

 親愛なる兄弟姉妹たち、あなた方のカリスマは、現代教会に与えられた神からの大きな賜物です。この50年間の故に主に感謝しましょう。この50年間のために拍手しましょう!また、神の父性的な、兄弟的な、そして情け深い忠実さを見ながら、決して信頼を失うことがないように。彼ご自身が、愛する弟子のように、あなた方を謙遜な単純さとともにすべての国民のもとに行くよう駆り立てられるその時、きっとあなた方を守ってくださるでしょう。わたしもあなた方に伴い、あなた方を励まします。前へ進みなさい!そして、どうかここに残るわたしのために祈るのを忘れないでください。

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★ 「新求道共同体」 50周年記念祭典

2018-06-11 07:59:42 | ★ 新求道共同体

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「新求道共同体」 50周年 記念祭典

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私は4月20から約一か月間ローマにいたが、10年住み慣れた神学校の部屋を片付けて明け渡すことの他、スペインやフランスに旅したのは、いわば刺身のつまのようなもので、本命のマグロのトロに当たるのは、5月5日の大祝祭典だった。スペインで始まった新求道共同体の歩みは、1968年に初めて教皇様の教区、ローマに入ってから今年の5月でちょうど50年、半世紀を迎えた。

2008年の40周年の祝いは、ローマの共同体のメンバーを中心に、バチカンの聖ペトロ大聖堂を満員にして、教皇ベネディクト16世の隣席のもと、盛大に祝われたのだったが、この50周年は全世界の120余りの国々から、ローマ警察の発表では20万人の共同体のメンバーが集まり、ローマ郊外の草原に教皇フランシスコと世界中の枢機卿・司教ら多数と共に盛大に祝われた。

数日前からの天気予報では、この日雷を伴う荒れた天気が予想されていたが、幸い夕方まで一滴の雨も降らず晴れ間さえも覗いた。

この日、私のためには、1枚の特別席のチケットが用意されていた。会場正面の大ステージの上の席だった。

赤いカーペットで覆われた正面の巨大なステージの上から見ていると、開会2時間半以上前から、世界からこの日を目指してやってきた共同体の兄弟姉妹がそれぞれの国の旗を掲げてステージにより近い場所をめざして続々と集まってきた。20万人と言えば単純にバスに換算して約4000台に相当する。バスの駐車場だけでも広大な土地がいる。自家用車ならなおさらのことだ。 

巨大なバックスクリーンはキコの壁画を拡大して布に印刷したものだ。私の席の目の下には、右に降りていくスロープがあり、スロープの向こうの小集団はキコのオーケストラの一部の演奏家たちだ。

前列のバイオリンの女性の横顔がちらりと見えた。アッ、彼女は第一バイオリンのコンサートマスターではないか。2016年東京のサントリーホールのコンサートでは、あす生まれてもおかしくないほどのポンポンのお腹で堂々とコンサートマスターを勤めていたが、その時の縁で結婚式の花嫁の証人を頼まれてその次日本に来た時にはペッタンコのお腹で、エレガントなドレス姿は見とれるほどのスタイルだった。 

その彼女が目の前で立ち上がった。エーッ!また膨らんでいる???キコの薫陶をうけた共同体の女性たちは避妊をしない。何人目だろう?

ちなみに、今朝、夜中の3時ごろ、何かの虫の知らせか目が覚めた。寝付けぬままにパソコンを立ち上げると、一件のメールが目に止まった。6月10日22:00、ベルリンフィルのコンサートホールで、キコのシンフォニー「罪のない人々の苦しみ」が演奏され、それが YouTube のライブ中継で世界中で見られると書いてあって、URLが添えられていた。時計を見たら今まさに始まろうとしていた。親切な天使が起こしてくれたのだと納得した。ベルリンフィルの晴れの舞台で、彼女は颯爽とコンサートマスターの役を演じていた。5月5日で上のお腹だった。6月10日の舞台の上ではサントリーホールの時と同じで、また、突き出したお腹ははち切れんばかりだった。 

式典開始の時間が近づくにつれ緑の草原は人であふれ始めた。遠くの人は胡麻粒のようだ。彼らから見れば、わたしも壇の上のゴマ粒に見えているのだろう。かれらは、教皇やキコの姿を何台か設置された巨大スクリーンで見ることになる。

左右に2台のテレビカメラが人の頭の上の中空に陣取っている。

ズームを引っ張って遠く会衆の最後部を引き寄せて見ると、裸眼では青い一本の線にしか見えなかったものは、会場を取り巻く万里の長城のような簡易トイレの列であることが分かった。20万人分のトイレとはこういうものかと感心した。絶えず人が出入りしている。

どちらを眺めても人、人、人、・・・

どこの国だかわからない旗がいっぱい翻っている。

私の位置からは群衆の半分しか見えないが、見渡す限り人で埋め尽くされた。これだけの群衆が平和的に一堂に会する機会は、現代世界でも極めてまれなケースではないだろうか。少なくとも、ローマにおけるカトリック教会の中のイヴェントとしては、ヨハネ・パウロ二世教皇の列聖式以来だろう。

頭上には、さっきから入れ替わり立ち代わり、ヘリコプターが2-3機低く旋回しているが、よく見るとパイロットの顔が見える。教皇の到着を待っているのだろうか。

少数ながら、礼服に身を包んだ男女の憲兵もちらほら。出番を待っている。いつ見ても恰好よく絵になっている。

定刻に遠くの方で歓声が上がった。パパモビレに乗ったフランシスコ教皇の到着だ。聖ヨハネパウロ2世はヘリを使うことが多かったが、清貧をモットーにするフランシスコはご自慢の中古のフォードか何かで地上を走ってここまできたのだろう。

聖教皇ヨハネパウロ2世は二発の凶弾を腹部に受けて絶対に死ぬべき状態から奇跡的に生還したが、ベネディクト16世はファチマの予言にある教皇暗殺を恐れてか、群衆から極力距離を置いているように見受けられた。しかし、フランシスコは全く無頓着、無防備に群衆と接触する。

壇の下でパパモビレを降りた教皇は、私の目の前のスロープを上がってきた。

人々の視線を意識しているときのフランシスコ教皇は、俳優のように若々しく表情豊かだ。しかし、彼が周りの視線を感じていない時、また一人祈るとき、全く別の顔の疲れたお爺ちゃんであることも私は知っている。

だからと言って彼の笑顔が作り笑いだとも思わない。

何はともあれ、今日の主役はやはりキコだろう。

壇の上には10人余りの枢機卿と、100人ほどの司教たちが参列している。手を口にやっているのが、昨年9月日本にやってきた福音宣教省の長官、フィローニ枢機卿。かれは日本の新しい福音宣教に力を入れている。その手法は、もっぱら新し司教人事を通して教会を変えると言うものだ。

前の二人は左が元典礼省長官のリルコ枢機卿、右の白髭はアメリカはボストンの大司教のオマリー枢機卿。

柔和に微笑んでいるのはヨーロッパからの教皇候補として現フランシスコと教皇の座を争ったウイーンの大司教シェーンボルン枢機卿。その右のアリエタ大司教はバチカンの法務関係の要職にある。

韓国のソウルの大司教は今や韓国の教会を代表する枢機卿にあげられた。巷には彼が新求道共同体の神学校を誘致した功績が認められた印だという声がある。そういえば、新しい大阪の前田大司教が最近枢機卿にあげられたのも、教区内で新求道共同体を公認し受け入れたたことと関係があるという声をローマで聞いた。また、戦後初の外国人司教として沖縄司教に選ばれたアメリカ人も、大阪の補佐司教になった二人も、新求道共同体との関係がいい人達ばかりだ。語らずして教皇フランシスコの意向とそれに沿ったフィローニ枢機卿の人選が、教会の向かっている新しい方向性を指し示している。世界から教会の要人を集めたこの祝いの席に、日本の教会の代表者が一人もいないのは実に寂しい。

海外旅行が生活の一部になっている日本の庶民と違って、中南米やアフリカからここに集う共同体のメンバーは、一生一大のローマ詣での旅費を工面するのに全生活をかけているのだ。

旗、旗、旗、熱狂は頂点へと向かっている。

歓呼する新求道共同体のメンバーたちにメッセージを贈るフランシスコ教皇

教皇のメッセージの全訳は、長くなるのでこの次のブログに譲ることにしよう

この日教皇は、共同体の道の歩みを終えたローマの共同体のうち、準備の出来た25の共同体を、慣れ親しんだ自分たちの教会を出て、まだ教会の無いローマの周辺地区の移民や外国人労働者の貧しい人たちの住む地域に共同体ぐるみ宣教に送り出した。その共同体の責任者の司祭達に銀の十字架を渡して、派遣式を行される教皇。

上は、十字架と祝福を貰うために並んで跪いた司祭たち。

また、この日教皇は新たに35組の異邦人のための宣教団を全世界に向けて送り出した。子沢山の4組の家族に一人の司祭と数名の独身男女を加えたチームを宣教地のまだ教会の無い土地にパラシュートダウンさせて、そこに新しい共同体と教会を建設する橋頭保とするためだ。

警察や救急隊、教皇のシークレットサービスの他に、多数のボランティア―がこの大集会の成功を支えた。

長いアームの先のテレビカメラが大集会の模様をリアルタイムで全世界に中継した。

40周年はバチカンの聖ペトロ大聖堂でベネディクト16世と共に祝った。この日の50周年は野外の草原で20万人を集めてフランシスコ教皇と共により盛大に祝われた。

60周年には、もはやキコも私もこの世には居ないかもしれない。しかし、フランシスコの次の教皇のもとで、次の世代の共同体のメンバーたちと、もっともっと盛大に祝われることを信じていたいと思う。

(つづく)

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★ 【速報】 キコ=カルメンの後継者を選ぶ (そのー2)

2018-02-12 03:24:09 | ★ 新求道共同体

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【速報】 キコカルメンの後継者を選ぶそのー2)

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先の【速報】ブログとの関連で、私には言いたいことがありました。それをブログの末尾に簡単に要約して添えればいいと考えて「1時間後にもう一度戻ってきてください」、などと軽口をたたいてしまいました。

しかし、いざ書こうと思うと、私の思いは根深く、1時間やそこら、10行や20行で簡単に纏められるものでないことに気付き、結局すぐにフォローすることをあきらめてしまいました。

今、広島に向かう新幹線《のぞみ》の車内で時間があるので、あらためて自分の思いをまとめてみようと思い書き始めたのですが、果たして広島までに書き終えられるでしょうか・・・。

 

私は、カルメンが逝った日、カルメンの死のニュースが世界を駆け巡ったこと、フランシスコ教皇がマドリッドの司教座大聖堂で執り行われたカルメンの葬儀に弔文を寄せたこと、葬儀の模様が世界中のテレビで同時中継されたことをブログに書きました。

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/2ef3d4b7e0fb34b87ef0026f817217cc

その翌日、教皇がポーランドで開く世界青年大会に参加するために、中継地モスクワに着いた日、モスクワの大聖堂でもカルメンの追悼ミサが行われ、私も参列したことも、すでにブログでも報告しました。

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/8a9ec160f19de0a7b0306e93bf257e07

ところが、この世界的なニュースが日本では全く報じられませんでした。それは、日本の社会がキリスト教世界の動きに全く無関心だから当たり前といえばそれまでです。

しかし、日本のカトリック教会の中でも全く話題にならなかったのはなぜでしょうか。私が問題に思ったのはその点でした。

ラジオでもテレビでも、それが受信できる周波数帯、チャンネルは決まっています。日本の教会をそれに例えると、どうやら世界の教会のスタンダードでグローバルな周波数帯の大切な部分を、日本の教会の受信機はカバーしていないらしいのです。カルメンの死のニュースが日本の教会に届かなかったのはそのためだと思います。

では何故周波数が偏しているのか、どの部分が届かないのでしょうか。それは、第2バチカン公会議後にカトリック教会が採用したグローバルスタンダードに日本の教会の周波数帯が適合していないことと関係があるようです。

それだけではありません。日本ではある特定の周波数帯を受信しないようにあらかじめセットされているように思えます。それは、キリシタンご禁制・鎖国以来、とりわけ戦中、戦後の頃から、日本のカトリック教会を支配してきたある種のイデオロギーのせいではないかと私は考えています。

日本の土壌、日本の精神風土に外来宗教、特にキリスト教は合わない。移植しても日本の土壌では根が腐って枯れてしまう。特に、第二バチカン公会議後に花開いたカリスマは、日本の教会の実情に合わない。それを取り入れると教会は分裂し崩壊してしまう。日本には、日本の土壌に合う固有の在り方があって、それ以外の形のものは日本の列島の水際で阻止されなければならない、という、カトリック教会自身の中に深く根を張ったイデオロギーです。そして、それと軌を一にしているのが、インカルチュレーション(土着化)のイデオロギーです。キリスト教を換骨奪胎して、仏教や神道のような日本古来の伝統宗教と調和するものにキリスト教を組み替えなければ、日本には土着化できない、と言う考え方だと言えるでしょう。「南無阿弥陀仏」に準じて、「アッバ、アッバ、南無アッバ!」というような祈りを、大真面目に教会の中で唱えようとする、などがその好例と言えます。

私は、もう一つのわかりやすい例として、映画「沈黙」の世界に現れたイデオロギーをこのブログでも詳しく取り上げました。

ブログ】聖書から見た「サイレンス」(1)~(7)

(2017.01.27.~04.25.)

遠藤周作の世界は、聖書と伝統に根差した「神学」ではなく、文化論と自由な小説家の創作に基づく典型的な「イデオロギー」です。

このイデオロギーの最も大きな問題は、同じ言語、同じ言葉が異なる周波数の世界では違う意味を持つと言う点にあります。具体的に言えば、グローバルな世界で「福音宣教」というとき、同じ言葉は日本の教会社会では全く別の異なった意味を持つということです。

昨年の九月、福音宣教省の長官フィローニ枢機卿が、フランシスコ教皇の日本の教会宛ての親書を携えて来日したときに起こった例を見るとよくわかります。

フィローニ枢機卿は、教皇と異口同音に「日本の教会は新しい福音宣教に励まなければならない」という意味のことを強調されましたが、日本の教会はその同じ言葉を「日本の教会は新たに福音宣教に励まなければならない」と聞いてしまったのではないかと思います。それは「新しい」「新たに」と取り違えた、通訳の誤り、翻訳上の誤りというような、表面的・技術的問題ではありません。それは、イデオロギーに基づくフィルター効果というか、思考回路の産物と言ってもいいかもしれません。

その結果、日本の教会は、かつて頑張ろうとしたがうまくいかず、とっくに投げ出してしまっていた古典的「福音宣教」のスタイルを復活し、それを新たに再構築し、推進しようという方向に向かう恐れがあります。いったんは廃止した委員会を「新たに」掘り起こし、再び同じ土俵で会議を重ねようという方向です。

問題は、それがフランシスコ教皇の親書に託され、フィローニ枢機卿が提唱した方向とはまったく違うという点にあります。教皇が、そして世界の教会が 「新しい」福音宣教というとき、それは、第2バチカン公会議後にその果実として生まれた全く新しいタイプの諸カリスマを受け入れ、それを神の聖霊の働きとして認め、それに将来の教会の福音宣教を託そうと言う趣旨のものです。

ですから、それらの新しいカリスマを排して、休眠していた旧来の宣教路線に戻ろうとするのは、教皇やフィローニ枢機卿のメッセージに180度反対するものであることに、私たちは早く気付かなければなりません。

それを妨げているのが「日本の文化、風土を特殊なものとして捉え、キリスト教をそれに土着化させ、脱西欧化を追求しなければならない」と言うイデオロギーです。このイデオロギーは聖書に根差さず、教皇の教えも合致していません。

幸いにも今、わたしたちは一時教会で支配的だったイデオロギーが勢いを失い、教会が外に向かって開かれ始めた変化の兆しを見ています。日本の教会はようやく自らの送受信機の周波数帯をグローバルスタンダードに合わせようと言う機運が芽生え始めたのを感じます。長い困難な時代は間もなく終わろうとしてると思うのです。

*****

私はカルメンの没後、ローマに居てキコの様子を見守ってきましたが、彼は大きな喪失感の中で深く落ち込んでいたように私には見受けられました。それは、彼がカルメンを深く愛し、彼女を頼りにしていたからでしょう。

彼はカルメンの墓の隣に、自分が死後入るはずの同じ形の墓を造りまし。彼は聖パウロのように、早くカルメンのもとに行きたいという思いと、まだ地上で果たさなければならない使命との間で葛藤しているのだろうと思います。

聖教皇ヨハネパウロ2世の勧めで起草され、教皇ベネディクト16世が最終的に承認した新求道共同体の「規約」34条2項によれば、「前項にあげた2名の創始者(キコとカルメン)の1名が死亡した場合、・・・欠員補充の手続きを行う。」とあります。

しかし、カルメンの亡き後、ぽっかりと残された大きな空洞を埋めることの出来る者は誰もいないでしょう。事実、キコは新求道共同体の数名の女性をその候補として検討した様子がうかがえました。しかし愛するカルメンの代わりになるほどの女性を見出し得なかったとしても不思議ではありません。

とは言え、教会の承認した「規約」の文言には重みがあります。暫定的ながら、今回の後任の選定と共に共同体は新しい時代に入ったと言えましょう。

カルメンの後任に選ばれたマリア・アスセンシオン・ロメロ

***** 

このブログの原稿は、やはり新幹線の中で書ききれませんでした。旅先で、二晩がかりでようやくここまで書きました。まだ書ききれていませんが、残りはまたの機会に譲ります。

ここまで書いてふと見ると、広島は雪景色でした。

(つづく)

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