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ローマの休日
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私は一つ前のブログをローマで書いた。
それは、総勢17名のツアーの一員としてローマを訪れ、本隊が帰国した後も、我が人生最後になるかもしれないローマの休日を味わう中で、ブログを書くわずかなひと時を見出したからだった。
話は19年前に東かがわ市がバチカンの庭園に桜並木を寄贈したことにさかのぼる。
地元の人々は、大内町に「高松教区立国際宣教神学院」が開設され、過疎化が進む東讃地域に若い健全な外国人の青年たちが集う施設の誕生を、地域の国際化に資するものとして歓迎した。
そして、その感謝の気持ちを表すために、東かがわ市の中条市長以下90名余りがバチカン庭園に桜の苗木20本余りを寄贈した。植えた時は太さ1センチほどの苗木が、今は15センチほどの成木になり、春ごとに見事に咲いて人々の目を楽しませるまでに育っている。
聖ペトロ大聖堂のクーポラを背景にした日本のさくら
花見の頃には野生のインコが蜜を吸いに集まる
日本の桜を聖教皇ヨハネパウロ2世に献上した「東かがわ市国際交流協会」の新会長に選ばれた六車さんは、その桜の木が今どうなっているかを自分の目で確かめたいと思い、花見の季節ではなかったが今回の11月ツアーとなった。
19年前の植樹記念のプレート
今回のツアーに花はなかったが 参加者一同銘板と桜の木を囲んで
この桜植樹に最初から関わったキーマンの私は、今回もバチカン当局との折衝役として参加した。そして一行が無事に帰国した後も、ローマに残り、一人静かに「永遠の都」の休日を堪能したのだった。
ローマ後半のハイライトは、マリアンネとの再会だった。
マリアンネ・シュロッサ―嬢と初めて出会ったのは、もうかれこれ40年近く前のことだ。当時私は英国の名門銀行サミュエル・モンタギューを最後に、国際金融業からさっぱりと足を洗い、東京は瀬田の聖アントニオ神学院でフランシスコ会の志願者として受付に座り電話番をしていた。
瀬田の神学院には「ボナヴェントゥーラ研究所」があり、ミュンヘン大学の同名の研究所と日・独交互に総会を開く慣例があった。その年はデットロフ教授が秘書にマリアンネ嬢(当時大学院博士課程)を連れて東京での総会に臨んだ。
その時、私がドイツ語ができるということで、初めて来日したマリアンネの息抜きに、東京見物に連れ出す任務を院長から託された。それが、彼女との出会いの始まりだった。
当時、彼女は26歳の学者の卵、私は46歳の元銀行マンから修道者志願1年生だったが、その日は開放的で心楽しい「東京の休日」となった。以来、二人にはそれぞれに人生の紆余曲折はありつつも、心の交流はずっと続いた。
彼女は修道生活を望んでいたが、既存のどの会にも心惹かれるものがなかった。それで、ミュンヘンの大司教のもとで個人的に「終生乙女の誓願」を立てた。それは、初代教会に生まれ、中世に消滅し、第二バチカン公会議で再発見された女性信徒の正式な身分で、ドイツでは彼女がその第1号となった。彼女はミュンヘン大学神学部に教授職を得て祈りと研究の生活をしていたが、オーストリアのウイーン国立大学の神学部が学部長を公募しているのを知って応募し、女性神学者として見事に神学部長の椅子を射止めた。
一方、私は希望を持って入会したフランシスコ会をまわりの誤解と嫉妬で追い出され、落ちるところまで落ちて山谷で日雇い労働者をしていた時も、その後、高松教区の神学生としてローマで神学の勉強をしていた頃も、彼女との交流はずっと続いた。
ドナウ川に沿った美しい中世の街、ドナウヴェールト郊外の彼女の母親の家に泊まったり、ウイーンの彼女の居所を訪ねたりした。また、ローマの中心のサンマルコ教会で学生神父をしていた時は、彼女の弟の結婚式をドイツからやってきたお母さんの見守る中で司式をしたこともあった。
マリアンネの生まれたドナウヴェールト中心部の美しい街並み
マリアンネのお母さん 庭のフサスグリの実 ジャムのために摘むマリアンネ
ウイーンのマリアンネのアパートの建物はもと中世の修道院だった
よく見ると建物の左上の旗の下にはベートーベン終焉の家とある
その彼女が、聖教皇ヨハネパウロ2世の後継者となったラッツィンガー枢機卿改めベネディクト16世教皇の神学的教説を集大成し、その論文を教皇に献呈したのを機に、教皇と女性神学者マリアンネとの間にドイツ人同士の親密な私的交流が生まれ、それは教皇の最晩年まで続いた。
そして今、彼女はバチカンお抱えの最高神学者集団である「国際神学委員会」(約30名で構成)のメンバーの一人に選ばれ、バチカンの公費でウイーンとローマを往復し、ローマでは教皇フランシスコの私生活の場でもある「聖マルタの家」(ホテル)の一室に常宿している。要するに、彼女は教皇との特別に親密な個人的関係も含めて、カトリック界では女性として考え得る最高のキャリアーを登り詰めたと言っても過言ではない。しかも、「天は二物を与えない」というが、彼女の場合それは当たらないのだ。神学者として傑出した才能の輝きを発揮した彼女は、コロラトゥーラのソプラノ歌手としても知る人ぞ知る存在である。正規のコンセルヴァトワールは出ていないが、ミュンヘンの大聖堂で復活祭のミサでソロを歌うほどの実力者なのだ。
バチカンの衛兵に護られるフランシスコ教皇の居室のある聖マルタの家
マリアンネはローマではこの建物に住む
他方、私はと言えば、生涯にわたり無位無冠の貧乏神父として巷に埋没し、迫害され、数えきれない失意と挫折にまみれ、手負いの野良犬のように老いて朽ち果てようとしている。彼女のキャリアーと名声の頂点に立つ輝かしい姿と、みすぼらしい無名の敗残者老神父の間には、天と地ほどの身分の隔たりがある。しかし、40年前の若い可能性の卵の彼女と、まだ可能性を信じていた40男の神学生との間に生まれた友情だけは今も全く変わっていない。
今回、彼女は偶然「国際神学委員会」の公務でローマにやって来ることになっていた。彼女は多忙なスケジュールをやりくりして会議の始まる二日前に着き、グループを日本に帰して自由になった私とうまく時間がつながって、最後になるかもしれない二人だけの「ローマの休日」が実現することになった。
一緒に古い教会を巡り、食事を共にし、ワイングラスを傾け、話題は自然に神学問題になる。私は神学者ではないが、神学的にきわどい問題については妙に敏感なところがある。そして、それを彼女にぶつけると、彼女の博識と深い信仰に裏打ちされた手応えのある意見が返ってくる。今回も私は、素朴な体験の中から自分なりに得た強い心証と教会の伝統的な教えとの調和を求めて疑問を吐露した。そして、それに対する彼女のコメントは実に的確で、聞いていてこころ楽しいものがあった。
しかし、今回思ったのは、彼女の答えは常に教会の伝統的な立場を擁護するものではあるが、私の人生経験と直感に基づく大胆な新説に必ずしも理解を示すものではないことにいささかの失望を覚えた。
教会の教えが断固「天動説」であった時代に、ガリレオ・ガリレイは、同じく地動説を支持したブルーノが火刑に処せられたこともあり、自説を撤回し終身禁固の判決を甘受したが、退廷するとき、「それでも地球は動く」とつぶやいたと伝えられているように、今回、私もマリアンネのお説に対して、似たようなつぶやきを禁じえなかった。
(じつは、ここにその神学的疑問の具体的な内容を詳しく書き始めたが、長くなりそうだし、多くの読者には専門的すぎるので、思い直してバッサリ省略した。)
しかし、それは大したことではない。ローマの街を二人連れだってそぞろ歩き、教会をはしごし、ワイングラスを傾けること自体が心楽しかった。40年の歳月を飛び越えて、二人の初めての「東京の休日」の思い出に浸ることが出来ただけで、私の心はもう十分に満たされていた。
私が彼女の輝かしいキャリアーを称賛すると、「確かに私は最高のキャリアーを登り詰めた、しかしあなたの一見挫折と失敗に埋もれた惨めな生涯が、神様の目には大きな輝きを放つものでないと誰が言えようか。ナザレのイエス・キリストも人間的に見れば最大の失敗者、最も苦難に満ちた人生を生きて最後は無残に孤独に十字架の上で刑死した。しかし、天の御父は彼に復活の栄光で報われたではないか」と言って慰めてくれる。それが彼女の優しさだった。
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暇を見つけてこのブログの原稿を少しずつ書き進んでいたこの一週間の間に、NHKのテレビで「ローマの休日」をやっているのを偶然見た。
『ローマの休日』(Roman Holiday)は、1953年に公開されたアメリカ映画。主演はグレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーン。
1953年と言えば、私がまだ14歳、中学生の頃だ。無論白黒映画だった。今までに何度見たか数えきれない。ローマに住んだ通算20年近い日々の間に、あの映画のロケ地は全部巡ったりもした。
シェークスピア原作のロメオとジュリエットの物語は、私の理解が間違っていなければ、確かほぼ一昼夜の間に完結する出来事ではなかったかと思う。アーニャとブラッドレーのローマの休日も、夜に始まって次の日の夜にはほぼ終わる24時間の出来事だった。私とマリアンネの「東京の休日」も同様にたった一日の出来事だった。浅草で一緒にアイスクリームも食べた。隅田川で水上バスにも乗った・・・
ヨーロッパ某国の王女様とアメリカ人の新聞記者の物語と、ドイツ人の女流神学者と日本人のさすらい老神父の物語を同列に語るのは、とんだ場違いの艶消しものかもしれないが・・・
P.S. (追伸): 普通いただいたコメントはコメント欄に残すべきものですが、私の尊敬する人から素敵なコメントを頂いたので、匿名を条件に本文に追伸として転載させていただきます。
* * コメント * *
ブログ、拝読しました。
いつもながら読み応え充分でしたが、谷口神父様は、“無位無冠の貧乏神父として巷に埋没し、迫害され、数えきれない失意と挫折にまみれ、手負いの野良犬のように老いて朽ち果てようとしている〜〜みすぼらしい無名の敗残者老神父”ではありませんよ。
谷口神父様を知っている人は、誰もそのようには思っていないでしょう。
もし仮にそうだとしても、世の囚人となって真っ当な者を迫害する高名な現代のファリサイ人、より、よほど立派でイエズスの姿に近いというものです。(M.M.)
(本人の陰の声: M.M. さま。有難うございます。神父冥利に尽きます。)