:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ バチカンに10年目の恋 愛媛の盆栽五葉松

2014-10-30 11:09:02 | ★ バチカンの桜

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バチカンに10年目の恋

愛媛の盆栽五葉松

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 先日、ローマへの出発を目前にして、徳島に向かった。

 10年前の2004年にバチカン庭園に桜の苗木を植えた人たちが、しばらくぶりに集まるということだった。

     会の名前は晴れがましくも「谷口神父を囲む会」  

 今の東かがわ市(当時は大内町と言った)にカトリックの国際神学院ができた(1990年)のを記念して-それが過疎の地元の国際交流と町おこしに大いに貢献するだろうと期待して-、誘致に熱心だった町会議長さんらの旗振りで、神学院の設立と、3町合併による「東かがわ市」誕生を記念して、バチカンとの親善交流のために、日本の花ソメイヨシノの苗木を当時の教皇ヨハネパウロ2世に献上しようという計画が浮上した。

 バチカン庭園には、世界各国から寄贈された樹木が多数植えられているが、日本からはこれが初めてのことで、実に画期的な試みだった。

10年目には立派に花開くようになったソメイヨシノの花

 このプロジェクトは1998年ごろにスタートして、2004年に、実に6年にわたる粘り強い努力が実を結んで実現したものだった。しかも、最終段階で徳島の文化人グループが合流して、徳島藩士原田家の庭に伝わる「蜂須賀桜」も一緒に植えようということになった。

 その後10年、徳島からは「ローマに桜の花見に行こう!」という話が何度か持ち上がり、その都度実現を見ているが、上の会合では、次は2015年2月に満開の蜂須賀桜を見て、ついでにヴェニスのカーニバルでパッとやろうという話が具体化した。徳島の阿波踊りの乗りの良さというべきか。

 しかし、それだけではない。

 実は、すでに10年前、愛媛の盆栽農園から徳島の桜と一緒に日本の伝統的な五葉松の盆栽を、今や聖人に列せられた当時の教皇ヨハネ・パウロ2世に献上しようという話が持ち上がっていた。

 一口に盆栽といっても並のものではない。高さ1メートル強。樹齢300年前後の五葉松の盆栽、当時の時価2000万円はくだらない稀少で超高価な盆栽を、ぽんと無償でローマ法王に献上しようという豪快な話しだった。

来年こそはと、熱く夢を語る愛媛の盆栽農園の社長さん

 それが、日本の地中菌を移転させないために、土を完全に滅菌しなければヨーロッパに輸入できないという厄介な代物で、技術的に極めてハードルの高い計画だった。

 6年がかりで実現した桜の植樹の場合でさえも、農園で苗木を選んで吟味すると、一本、一本根を洗って土を完全に落とし、滅菌した水ごけで巻いて段ボールの箱に梱包したのだが、真冬の根が眠っている間なら、航空貨物で運んでも死なないでローマに植樹ができたのだった。私はその全過程で現場に立ち会った。

 ところが、松は桜の苗のように冬眠していないから、300年からの老木の盆栽、それも鉢にしっかり根が馴染んだものは、土を洗い落として乱暴に根を裸になどしようものなら、たちまち弱って移動中に枯死を免れないという、実にデリケートな生き物なのだ。

 それで、2004年の桜の植樹の時は、「技術的困難を克服した暁には必ず献上いたしますから」という約束付きで、立派な写真入りの目録書だけを贈呈するにとどまった。

 その後のバチカンへの観桜ツアーの折にも、重ねて同様の目録の献上があったのだが、この熱い思いと技術的困難との板挟みの不完全燃焼から生まれた「目録贈呈」は、バチカン側にしてみれば、何が何だか訳のわからない謎のように思えたに違いない。(これは内輪話だが、「あの日本人たちは大風呂敷を広げた空約束ばかりで、一向に本物を持ってこないではないか」と、バチカンの実務レベルでは、半ばオオカミ少年的に思われていたとしても致し方なかった。)

 しかし、如何せん、鉢の中の土が完全に無菌状態であることが実証された盆栽を実現するには、どうしても最短1年以上の準備期間が必要なのだった。それがここへ来て、中国やヨーロッパでの盆栽ブームにつれて、土の滅菌期間が技術的に半年ほどに短縮できるようになったのだそうだ。だから、もしかしたら、来年の春には10年の片思いの恋が成就することになるかもしれないのだ。

 この10年の間に、ローマ教皇は3代入れ替わっていた。教皇ヨハネ・パウロ2世は没後異例の速さで聖人の位に列せられた。そのあとを襲ったベネディクト16世も異例の生前退位を決断された。今や、世界の10億のカトリック信者を牧するのは、清貧の教皇フランシスコだが、かれはヴィンテージものの稀少高価な日本の盆栽にどう反応するかが見ものだ。

 盆栽の栽培のもっとも盛んな香川県の鬼無地方の農園では、200年、300年ものの盆栽がすでに枯渇し始めている。今回、愛媛の農園がバチカンへの献上を考えているのは、高さ1メートル余り、樹齢約150年、時価800万円ほどの伝統的な5葉松の盆栽だ。今度こそ、カタログではなく本物を届けたいものだ。それにしても、日本の職人気質の園芸職人の熱い思い、「10年目の恋」には心を打たれるではないか。

 そもそも、香川県の東かがわ市に、カトリックの国際宣教神学院が開設されたことがすべての始まりだった。

カトリックといえば歴史的にも世界の業界ナンバーワンの大宗教。その進出は地元の活性化と国際交流に多大な波及効果をもたらすに違いないと、地元の人々は大きな夢と希望を託して、純粋に、熱烈に、神学院を歓迎し、その思いは遠くバチカンにまで及んだのは自然の成り行きだった。

 その人々は、一時的にローマに移された神学院だが、いつか必ず地元に戻って来てくれることを、今も真剣に願っておられるのだ。それを思うと、有難くて心が熱くなる。はたして神様のみ旨はどこにあるのだろうか。

 「神様、この心優しい人々の思いを、どうか無駄にしないでください!」と、日々祈らずにはいられない。

 

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★ 忘れられた中世の町「アナーニ」-その(3)

2014-10-08 00:01:00 | ★ 神学的省察

 

このブログは、実は今年の4月24日にほぼ書き上げていた。

ところが、心のどこかで、まだ時期尚早との声がした。それで保留のままにした。

その後、いろいろなことがあったのも事実だ。

今、時が満ちたかどうか知らないが、

いつまでもお蔵にしておくわけにもいかないし・・・

 

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忘れられた中世の町「アナーニ」-その(3)

「第二バチカン公会議」と「トレントの公会議」

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 アナーニの町に行ってボニファチウス8世と言うとんでもない俗物の教皇に出会った。

この悪徳教皇を興味をもって調べている内に、初代教会の300~400年ほどの間、ほとんどの教皇が聖人であって、

その数50人以上にも及ぶことが判ってきた。

ところが、その後の1600年ぐらいの間の200代ほどの教皇には聖人は例外的に少数いただけで、

殆どが俗物か悪徳の人たちだった。

ところが、ここ半世紀ほどの間に、また聖人教皇が輩出し始めた。

そして、まだ列聖されていない教皇たちも、みな例外なく有徳の士で、悪徳の俗物は一人としていない。

これは只の偶然か、それとも、歴史の深い必然のなせる業か。

そんなことをあれこれ考えているうちに、見えてきたものがあった。 

その辺にメスを入れてみよう。



「第2バチカン公会議の教えを受け入れる人と、

それを認めようとしない人との間の亀裂には、

カトリックとプロテスタントの間の亀裂よりも深いものがある」


 という意味のことを公会議に深く関わったフランスの神学者アンリ・ド・リュバックが言ったということは、今まで諸先輩からの伝聞として何度も耳にしてきた。

 ド・リュバックはフランスのイーヴ・コンガールやドイツのカール・ラーナーやポーランドのカルロ・ヴォイティワ(今回列聖された教皇ヨハネパウロ2世)などとともに第2バチカン公会議を牽引した神学者の一人として知る人ぞ知る。

 とは言え、上の件は伝聞ばかりで、アンリ・ド・リュバックがどの著作にそのようなことを書いたのか直接確認できないでいる(知っている人は教えてください)。いずれにしても、現教皇フランシスコミシェル・ド・セルトーと並んで、ド・リュバック自分が最も愛好している現代のフランスの思想家の一人だと言っていることからしても、恐らく教皇フランシスコも等しくその考えを共有するものであると推測している。

 そして何よりも、私は様々な体験から「本当にそうだな」 とつくづく実感しているので、ド・リュバックの出典から切り離した私自身の思いとしても 「第2バチカン公会議とその果実として生まれたカリスマを受け入れる人と受け入れない人の間の亀裂(以下、亀裂=A)には、カトリックとプロテスタントの間の亀裂(以下、亀裂=B)よりも深いものがある」 と言いたい。

 浅学菲才の身ではあるが、私の思いが届く範囲の知識を動員して、何故私がそう思うか、以下にその理由を書いてみたいと思う。

 なお、手法としては―今回初めての実験として―思いつくままに未完の問題提起の形でブログの骨子を最初にアップし、日を追って逐一それを自由に補足・修正しながら発展させ、時間をかけて完成していきたいと思った。

 つまり、過程では右に、左に、揺れることはあっても、結論的には誰でも認められる妥当な線に納まることを願っている。

 しかも、その実験の過程で、コメント欄に自由に意見や助言や補足や資料の提供を募り、それらを完成作業に反映したいと考えている。ただし、頂いたコメントは参考に用いさせていただくに留め、全てを生の形での公開はしないつもりでいる。

以上、基本ルールをご理解いただけただろうか?では、さっそく実験にかかろう。



 出発点としての問題提起

《亀裂=A》 が 《亀裂=B》 より深い理由は

1) 《B》 コンスタンチン体制の枠組みの中での保守と革新の間の亀裂であるのに対して、《A》 「コンスタンチン体制内残留か、決別か」の未来に向けた決定的な選択を含む亀裂だからだ。

 イエスの弟子たちの時代からコンスタンチン体制までは、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6章24節)とか、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22章21節)とか言うイエスのラディカルな教えに忠実に、政教分離はもとより、「神」「この世の価値、金、富」とを峻別・対峙させ、一切の妥協を拒んで貧しさ《霊的・物質的》を生きようとした時代だと理解するとしよう。

2)それに対して、コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の宗教に取り立てた時から第二バチカン公会議の改革までの、実に1600年以上の長きにわたる期間は、「神聖ローマ帝国」と言う言葉や、近くはヨーロッパの保守政党名の「キリスト教民主同盟」などに象徴されるように、「キリスト教と地上の覇権との結合、融合、蜜月関係が当たり前の時代」、また「『イエスの天の御父の神』と『地上のお金の神様』との両方に兼ね仕えようとする折衷・妥協の時代」であったことを意味する。

 

整理すると、まず教会史の中では2つの大きな節目、転換点があった:

第1の転換点:「ローマ帝国によるキリスト教の国教化」「初代教会」から「コンスタンチン体制へ」の移行を促した(312年)。 

第2の転換点:「第二バチカン公会議」「コンスタンチン体制との決別」「第二バチカン公会議後の新時代」への移行を促した(1965年)。

 

もう一つの顕著な特徴は

①   初代教会が「キリストの弟子たち主導」の時代であったのに対して、

②   コンスタンチン体制を始め、それを導いたのは「地上の覇者コンスタンチン大帝」であったこと、

③   第二バチカン公会議後の時代を開いたのは教会のトップ「ローマ教皇ヨハネス23世」であり、その後、パウロ6世、ヨハネ・パウロ1世、ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世、そして今のフランシスコ教皇が一貫してその改革路線を踏襲していること(上からの革)、

④   それに対し、コンスタンチン体制内宗教改革とその結果生まれた分裂を主導したのは教会のいわば底辺の一司祭、「マルチン・ルター」とその追随者たちだったこと(下からの改革)

ルターは初め教会を割る気はなかったのではないか。ルターは公会議を提唱(要求)したのではないか?ルターの場合、錦の御旗=教皇が保守の側に残った以上、その保守の側に追い詰められれば、心ならずも先鋭化し異端の烙印を押されるところまで突っ走らざるをを得なかったのではないか?トレントの公会議は、ある意味でルターの導き出した(ルターの望みが叶った)ものとは言えないか?ルターが望んだ公会議は教会がカトリックとプロテスタントに決定的に分裂をする以前に開かれるべきではなかったのか。しかし、教皇が保守の側に残り、ルターの多くの正しい改革の主張を退けた結果、教会分裂の悲劇は避けがたいものとなったのではないか。

⑤   言葉を換えて言えば、トレントの公会議は「錦の御旗=教皇」が保守の側に残ったが、第二バチカン公会議の場合は「錦の御旗=教皇」は革新の側に移ったため様相が逆転している。

また、(亀裂=B)プロテスタント改革の場合は、教会のトップ、即ち時の教皇が保守の側に残ったので、保守が改革者「ルター」一人を破門することになったのに対し、

(亀裂=A)第二バチカン公会議を境とする亀裂の場合は、教会のトップが革新の旗手になり、改革を牽引したので、それに抵抗する保守の最右翼の「ルフェーブル司教」一人が改革派教皇ヨハネ・パウロ2世によって破門されることになった。これも様相逆転の表れとは言えないか。



 以上の事の理解を助けるために、下手な図を描いてみた。コンスタンチン大帝からヨハネス23世(第二バチカン公会議)までの時間(黄色線が点線の下にある時代)を「コンスタンチン体制下の時代」、それ以前を「初代教会」、それ以後を「公会議後の時代」と考えていただきたい。 

 

 

 

《コメント歓迎》

 ◎ このブログはこのままでは未完成である。ただの問題提起にしかすぎない。読者の協力を得て変更・補完して妥当な線に収めて完成したい。

 ◎ だから、こういう設問の仕方に反対、賛成の意見がおありの方は自由にコメント頂きたい。

 ◎ 誤りがあったらご指摘いただきたい。

 ◎ 見落としている大事な観点に気付かれた方はご教示いただきたい。補足資料として採用したい。

 なお、今回の試みは、私のコメント欄に最近集中的にコメントを寄せられたある匿名の方(その方のコメントの多くは保留のまま残り公開されていない)に対する私流のお答えでもあるつもりだ。(私が「アナーニ」シリーズ その(1)、その(2)を書いていたころ、コメントが相次いでいた。)

(つづく) 


コメント (4)
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