:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 〔完全版〕 教皇のインタビュー(その-4)

2014-02-26 18:59:25 | ★ 教皇フランシスコ

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〔完全版〕 教皇のインタビュー(その-4)

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 一回分の量をすこし少なめにしました。

これぐらいでいかがですか?


教会と共に感じる

 教会のテーマの一環として聖イグナチオが自分の霊操の中で書いている《教会と共に感じる》ということは、教皇フランシスコにとって何を正確に意味しているか理解しようと試みた。教皇はためらいもなく一つのイメージからその答えを始めた。

 「私の気に入った教会のイメージは神に忠実な聖なる民である。これは私が度々用いる定義であり、Lumen gentium(教会憲章)12番の定義でもある。一つの民に帰属するということには神学的に強い価値がある。救いの歴史の中で神は一つの民を救われた。一つの民への帰属なしに完全なアイデンティティーはない。孤立した個人として救われるものは誰一人おらず、神は共同体の中で生じる複雑な人間関係の絡み合いを考慮しながら私たちを引き寄せる。神はこの民の躍動性の中に入られるのだ。」

 「主体はあくまでも民だ。そして教会とは喜びと苦悩をもって歴史の中を歩んでいる神の民だ。だから、私にとってSentire cum Ecclesia(教会と共に感じる)とはこの民の中にいることだ。そして信者と共にいるということは、信じることにおいて誤謬に陥らないということで、infallibilitas in credendo(信じることにおける不謬性)は、歩んでいる民全体の信仰の超自然的な感性を通して明らかになる。つまり、これが聖イグナチオも言うところの《教会と共に感じる》の今日的な意味だと私は理解する。人々と司教と教皇の対話がこの道の上にあり、またそれが誠実なものであるなら、その時その対話は聖霊によって助けられている。だから、感じるというのは神学者たちだけを指しているのではない。」

 「それはマリアについても同じで、彼女が誰であるかを知りたければ神学者に聞きけばいいが、彼女がどのように愛しているかを知りたければ民に聞かねばならない。彼女の場合、Magnificat(聖母マリアの頌歌)にある通り、マリアはイエスを民の心で愛した。従って、《教会と共に感じる》の理解は、単に位階制度がどう感じるかだけの問題ではないことは、考える必要もないことだ。」

 そして教皇は、ちょっと間を置いた後、誤解を避けるために乾いた明確さでいった。「そして、私が公会議の光に照らして言おうとしているこのすべての信者のinfallibilitas(不可謬性)は、明らかに民衆主義の一種として考えるべきものではないと言う点に良く注意する必要がある。そうではなくて、それは聖イグナチオが言うところの《聖なる母である位階制的教会》、神の民としての教会、牧者と民を一つに合わせたもの、の経験である。」

 「私は神の民のなかに聖性を、民の日常的な聖性を見る。そこには、マレーグがそれについて語っているように、みんながそれに参加できるような、一種の《中級的な聖性》がある。」

 教皇は彼のお気に入りのフランスの作家、1876年生まれ出1940年没のヨーゼフ・マレーグについて話している。特にその未完の三部作Pierres noires(黒い石たち)について。Les Classes moyennes du Salut(救いの中流階層)。或るフランスの批評家たちは彼の事を《カトリックのプルースト》と定義する。

 「わたしは忍耐強い神の民の中に聖性を見る-と教皇は続ける-:子供を育てる女のなかに、家にパンを持ち帰るために働く男の中に、病人たち、たくさんの傷を負いながらも主に仕えてきたために微笑みを忘れない年老いた司祭たち、たくさん働いて隠された聖性を生きている修道女たちの中に。これが私にとってみんなの聖性だ。私がしばしば忍耐と結びつける聖性:ただのhypomoné(我慢)としての忍耐ではなく、生活の中の出来事と状況の重荷を担っていくこと、また毎日毎日前に進んで行く粘り強さ。これが聖イグナチオも語っているIglesia militante(戦っている教会)の聖性だ。これが私の両親:私の父、私の母、私をいっぱい可愛がってくれたローザお婆ちゃん、の聖性だった。聖務日祷書にローザお婆さんの遺訓を挟んでいて、私は度々それを読むが、私にとってそれは一種の祈りのようなものだ。彼女は倫理的にもたくさん苦しんだが、いつも勇気を持って前に進んで行った聖女だった。」

 私たちが《共に感じ》なければならないこの教会は、みんなのための教会で、選ばれた人たちの小さなグループだけしか入れないような狭いチャペルではない。普遍教会のふところを私たちの凡庸さを護るための巣に矮小化してはならない。そして、教会は母なのだから-と続ける-、教会は多産なものであり、またそうでなければならない。見るがいい、教会の神父や、修道士や修道女のダメな振舞いが目に止まると、真っ先に考えに浮かぶのが、《なんだ、この男やもめ》とか《この行かず後家》とか言う言葉だ。彼らは父親でも母親でもない。命を与えることの出来ない無能者たちだ。それに対して、例えば、パタゴニアに行ったサレジオ会の宣教師たちの生涯を読むと、命の物語り、子沢山の話を読む思いがする。」

 「最近の別の例を見よう。私が私に手紙をよこした一人の青年にかけた電話のことについて新聞がたくさんの記事を載せたのを見た。私が彼に電話をかけたのは、その手紙の内容が実に美しく素朴だったからだ。私にとってそれは実り豊かさの行為だった。私には彼が成長しつつある一人の若者であることが分かったが、彼は一人の父親を知り、彼に自分の人生についてなにかを語った。父親として《それは私にとってどうでもいいことだ》とは言えない。このような多産さは私に多くの良い結果をもたらした。」


 

若い教会と古い教会

 教会のテーマに留まりながら、教皇に最近の世界青年大会に関連して質問をした。「この大きな催しは、若者たちの上に、従ってまた、《霊的な肺》であるより最近に設立された教会の上にもスポットライトを当てることになった。あなたにとって、これらの教会から普遍教会にもたらされると思われる希望とはどのようなものですか?」

 「若い教会は、より古い教会によって展開されてきたものとは違う形で、信仰と文化と生成する命の新しい総合体を発展させる。私にとっては、より古い時代に設立された教会とより新しく設立される教会の関係は、一つの社会における若者と老人の関係に似ている。一方は力によって、他方は知恵によって未来を築きあげていくのだ。常に危険がつきまとうのは明らかだ。若い教会には自己充足的であろうとする危険性があるし、より古い教会はより若い教会に彼らの文化的モデルを押し付けようとする危険性がある。しかし、未来は共に築いていくべきものだ。」



(つづく)

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★ ローマ教区長ヴァリーニ枢機卿の来訪

2014-02-23 21:19:24 | ★ 神学校の日記

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ローマ教区長ヴァリーニ枢機卿の来訪

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ローマ教区の本当の司教はペトロの後継者である教皇フランシスコだが、

教皇は世界の教会のトップとしての任務に専念するために、ローマ教区内の司牧は自分の代理に任せている。

ベネディクト16世の時からローマの司教代理はヴァリーニ枢機卿だ。

彼は毎年神学校の保護の聖人の祝日の頃に合わせてやって来てミサを司式し、夕食を共にする。

 

年を重ねるごとにヴァアリー二枢機卿はこの神学校に対して好意的になってきた。

今日のミサのお説教も、ローマと全世界の福音宣教に果たすこの神学校の意義をあらためて称賛した。 

 

今日は私も祭服を着て目立つところに居るので、さすがにカメラを持つのははばかられた。

一連の写真は係りの2人の神学生が撮ったもの。

「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」の院長の平山司教と平和の挨拶を交わす枢機卿。

 

ミサはつつがなく進行していく

 

音楽はパイプオルガンの他、金管楽器とギターと打楽器で構成される

 

ミサが終って司式者が退堂すると、神学生たちは歌と音楽に合わせて祭壇を囲んで踊るのがいつものスタイル 

 

夕食が始まった。この日、私は手ぶらでで呑気にテーブルについたまま動かない。

 

コースが終ってデザートが出る頃、入り口の外から音楽が聞こえてきたかと思うと、

一団の神学生が、元気のいい歌を余興に披露するために食堂に入ってきた。 

 

スペインの民謡が歌われると、各テーブルの会食者は、ナフキンを取って頭上でクルクル回しながら唱和する。

 

食後の祈りの時、ヴァリーニ枢機卿は上機嫌でこう言った。

2月28日の教皇フランシスコの晩餐会にはあなた達も招かれている。

その夕べのサプライズに、この元気な歌を是非披露していただきたい。

アルゼンチンのタンゴを一曲加えることを忘れないように!

と付け加えた。思いがけない枢機卿の提案に神学生の中から喜びと同意のどよめきが上がった。

(おわり) 

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★ 〔完全版〕 教皇のインタビュー(その-3)

2014-02-19 17:40:33 | ★ 教皇フランシスコ

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〔完全版〕 教皇のインタビュー(その-3)

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教皇のインタビューはあまり間延びさせないで早目に完結したいのだが、

そればっかりでは飽きる読者もおられることだろう。

それで、妥協の産物として、ほゞ一回おきぐらいに何くれと軽い話題を見付けながら、

ゆるゆると進むことにしよう。

さて、前回の続きは:

 

イエズス会

 だから識別は教皇の霊性の一つの柱だ。そのことの中に彼のイエズス会員としてのアイデンティティーが独特な形で示されている。そこで今日の教会にイエズス会はどのような役割を果たすことが出来るか、その独自性はなにか、また起こり得る危険性は何か、について教皇に訊ねた。

 「イエズス会は緊張の中にある団体、常に徹底的に緊張状態にある団体だ。イエズス会員は非中心的だ。イエズス会もそれ自体として同じように非中心的だ。中心はキリストとその教会だ。つまり、もしイエズス会がキリストと教会を中心に持つとすれば、周辺に生きるための自己のバランスの拠り所として二つの基準点を持つことになる。それに対して、もし自分自身を見つめすぎて、自分を十分にしっかりし非常によく《武装された》構造として中心に据えるなら、自分を確かで充足したものと思い込む危険に陥る。エズス会は常に自分の前に常により大いなる神(Deus semper maior)、常により大いなる神の栄光の探求、我らの主キリストのまことの花嫁である教会(Chiesa Vera Sposa di Cristo nostro Signore)を持つべきであり、我々がたとえ粘土の壺、不相応なものであるにしても、我々を征服するもの、我々の全人格とすべての労苦を捧げるべきものである王たるキリスト、を持たねばならない。この緊張は絶えず我々を自分の外に引き出す。更に、まさにより良く宣教に打って出るために非求心的なイエズス会を真に強める手段としては、父性性と兄弟性とともに《良心の究明》がある。」

 ここで教皇は、イエズス会の会憲の特別な点、即ちイエズス会員は《自分の良心を明かさなければならない》こと、即ち、長上が誰かを宣教に派遣するに際してより自覚的で慎重であることが出来るために、生きられた内面の状態を明かすことに言及する。

 「しかし、イエズス会について話すのは難しい-と教皇フランシスコは続ける。あまりはっきり言葉にすると、誤解を招く危険が生じる。イエズス会については、ただ物語り風にだけ言うことが出来る。議論の余地が生じる哲学的神学的解明においてではなく、物語りの中でのみ識別が出来る。イエズス会のスタイルは、過程においてはもちろんに議論も想定するが、議論ではなく識別のスタイルである。神秘的なオーラは決してその輪郭を確定することはないし、その思いを完結することもない。イエズス会員は思いを完結することのない人、思いが開かれた人でなければならない。イエズス会には、より閉鎖的で厳しく、より教条的-禁欲的な考え方の時代があった。こうした精神的歪みが会憲の要約 (Epitome Instituti) を生んだのだった。」

 ここで教皇は、会憲の代用品として見做されるようになった20世紀に作られてイエズス会の中で用いられた一種の実戦的要約について言及している。イエズス会におけるイエズス会員の養成はある時期この文書によってなされ、人によっては、基礎的なテキストであるべき会憲を一度も読んだことがないほどであった。教皇にとっては、イエズス会のこの時期には規則が精神を押し潰し、カリスマを過度に強調し主張する誘惑が勝利を収めたと考えられた。

 そして続けた。「そうではない、イエズス会員は、キリストを中心に据えて、常に継続的に、行かねばならぬ地平を見つめながら考えるものだ。これがその本当の力だ。これがイエズス会を、探求的、創造的、かつ寛容であるように仕向けてきた。さて、今日はかつてなかったほどに活動において観想的でなければならない。《神の民》として、また《聖なる母である位階的教会》と言う意味で理解された教会全体との深い親密さを生きなければならない。このことは特に、無理解の中を生き、或いは誤解や中傷の対象となるときに、多くの謙遜さと、犠牲と、勇気とを要求するものではあるが、それはより実り豊かな態度である。それは中国の典礼やマラバル典礼を巡っての、またパラグアイにおける活動縮小のときに起きた過去の緊張について考えてみるとわかる。」

 「私自身が、最近になってからもイエズス会が生き抜いた無理解と諸問題の証人である。これらの事の中には教皇に対する従順の《第4誓願》を全イエズス会員に拡大する問題を取り扱った際の困難な時期があった。アルーペ神父の時代に私に安心を与えてくれたものは彼が祈りの人、多くの時間を祈りのうちに過ごした人だったと言う事実であった。私は彼が日本人のするように床に座って祈っていた時のことを思い出す。それによって彼は正しい態度を保ち正しい決定を下した。」


 

モデル:ピエトロ・ファーブル《改革された司祭》

 ここで私は、イエズス会の最初から今日までで、かれの心を特別に捉えた人物がイエズス会員の中にいたかと質問した。このようにして、もし教皇にそういう人が居たら、だれがどういう理由でそうであるかを訊ねた。教皇は私にイグナチオ、フランシスコ・ザベリオと名を挙げはじめたが、そのあとイエズス会員なら知っているが一般的には確かにあまり知られていない一人の人物、サヴォイ人の福者ピエトロ・ファーブル(1506-1546)の上で止まった。聖イグナチオの最初の頃の仲間のうちの一人、というより、二人がソルボンヌ大学で学生であった時、彼と最初に部屋を共にした仲間だった。同じ部屋の3人目がフランシスコ・ザベリオだった。ピオ9世は1872年9月5日に彼を福者として宣言し、その後も列聖調査が進行中である。

 教皇は自分が管区長だった時にミゲル・A・フィオリートとハイメ・H・アマデオの二人のイエズス会員の専門家に監修を委ねた彼の回顧録(Memoriale)の事を引き合いに出した。教皇に特に気に入った版はミシェル・ド・セルトーが監修したものだ。そこで、何故他ならぬファーブルが彼の心を打ち、彼の人物像のどのような特徴が彼に印象を与えたのかと聞いた。

 「全ての人との対話、一番遠い人や敵対者とのも含めて。単純な信心、多分ある種の純真さ、すぐに役立とうとする心、注意深い内面的識別、偉大な力強い決断力の人でありながら、同時にとても甘美な、甘美な・・・。」

 教皇フランシスコが彼のお気に入りのイエズス会員の個人的な特徴のリストを挙げている間に、私はこの人物像が彼にとってまことに生き方のモデルとなっていることを理解した。ミシェル・ド・セルトーはファーブルを簡単に《改革された司祭》と定義したが、彼にとって内面的経験と、教義的な表現と、構造的改革は密接不可分なものであった。だから、教皇フランシスコはまさにこのような種類の改革から霊感を得ているのだということが理解できるように思えた。続いて、教皇は 創立者 の真の素顔の省察へと話を進めた。

 「イグナチオは神秘家であって苦行者ではない。霊操が沈黙の中で行われるという理由だけでイグナチオ的だと言われるのを聞くとき、非常に腹が立つ。実際には霊操は沈黙なしに営まれる日常生活の流れの中でも完全にイグナチオ的で有り得るのだ。この禁欲主義と沈黙と贖罪を強調する風潮は、イエズス会の中で特にスペイン地方で流布してはいるが、それは歪められたものである。それに対して、私はルイス・ラレマントやジャン-ヨゼフ・スーリンらの神秘主義的な流れに近い。そしてファーブルも神秘主義者だった。」


 

統治の経験

 まずイエズス会の長上として、次いで管区長として得たどのようなタイプの統治の経験がベルゴリオ神父の受けた養成を成熟させるのに役立ったか?イエズス会の統治スタイルとは長上の側の決定を意味するが、それはまた彼の《顧問たち》の意見を諮問することをも意味する。それで教皇にはこのように訊ねた。「ご自分の過去の統治の経験は現在の普遍教会の統治活動に役立つと思われますか?」教皇フランシスコはしばらく考える間をおいて、まじめに、しかも非常に平静に答えた。

 「イエズス会における長上としての私の経験はと言えば、本当のところを言うと、私はいつもこのように、つまり、必要な諮問を行いながら、というわけではなかった。そして、それは良いことではなかった。私のイエズス会員としての統治は初めのうちは多くの欠陥があった。それはイエズス会にとって難しい時期のことだった。イエズス会の一世代全体の消滅の時期だった。その時期私はまだとても若い管区長だった。36歳で、狂気の沙汰だった。難しい状態に立ち向かわねばならなかったが、私は荒々しい態度で個人主義的な決定を下した。そうではあったが、一つの事を付け加えなければならない。或ることをある人に託すときには、私はその人に完全に信頼した。私がその状態から立ち直るために、本当に大きな誤りも犯さなければならなかった。しかし、それにも関わらず、最終的には人々は独裁主義に疲れてしまった。私の独裁的で即断的なやり方は私に深刻な問題を引き起こし、超保守主義者として非難されることとなった。私はコルドバにいたときに大きな内面的な危機を体験した。そうだ、私は福者イメルダのように確かだったわけではないが、私は決して右翼ではなかった。私が決定をときに私流に独裁的であったことが問題を引き起したのだ。」

 私はこれらの事を人生経験として、またどんなことが危険かを理解するために話している。時間と共に私は多くの事を学んだ。主は私の欠点と罪を通して統治に関して学習することをお許しになった。こうしてブエノスアイレスの大司教になった時から、15日毎に6人の補佐司教と会合を持ち、一年に何度か司祭評議会との集まりを持った。質疑を行い、討議のために余地を開いた。このことは私がより良い決定をするのを助けた。今は何人かの人が私に「相談し過ぎないで、決めて下さい」と言うのを聞いた。しかし、相談することは大変重要なことだと信じる。例えば、枢機卿会議や司教会議は真の能動的な諮問を行う重要な場所である。しかし、その形はなるべく硬直的でないことが必要だ。私は形式的でなく実質的な諮問を望む。この8人の部外者(Outsider)のグループからなる枢機卿の諮問会議の設置は、私一人の決定ではなく、教皇選挙に先立つ全体集会で表明されていた通り、枢機卿たちの意志の結果であった。私はそれが形式的なものではなく実質的な会議であることを望む

(つづく)

 

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★ ローマ =自然の力に意外と脆い都=

2014-02-16 18:21:22 | ★ 自然・いのち

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ローマ

= 大自然の力に意外と脆い都 =

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雨続きのうすら寒い日々の合間に珍しく晴天。所用あってアペニン山脈を越えて長靴のふくらはぎのあたりのアドリア海方面へ。

峠のトンネルを抜けて振り向くと、グラン・サッソ(巨岩岳)の雄姿が見えたが、こんなことはまことに珍しい。

生半可な晴天の日は、周りの山に雲がなくても、この頂上だけはいつも厚い雲のヴェールに覆われて、姿を隠しているからだ。

 (グラン・サッソ ヨーロッパ最南の氷河があるアペニン山脈の最高峰2,915mは北アルプスの大天井岳より6.3m低い)

 

しかし、晴天も束の間、ローマに帰り着く夕刻には、空は既に雲に覆われ、西陽に虹が立つということは、

アペニンの山々にはすでに冷たい雨か雪が戻ってきた印だ。

 

神学校に帰り着くためには、公道を逸れてすぐ汚いどぶ川を橋で渡らなければならない。

以前ブログに取り上げた巨大土筆(つくし)の生息地だ。

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/5619b56211419a9dc6c3d1b4fc01f20e

普段の川幅は広くてせいぜい3メートル余り。生活排水や近くの工場の廃液で、夏は常に悪臭を放っている。

その夜、いつにない激しい嵐が襲ってきた。絶え間なく閃く稲妻と轟く雷鳴。窓や鎧戸をガタガタと鳴らし、

雨脚にビュービュー、ゴーゴーと風の音が混ざって、なかなか寝付けない。

やっとうとうとした頃、突然閉じた瞼の下の眼球が白い光で満ちた。そして耳を聾する雷鳴が響き渡り、

しばらくゴロゴロ、ゴロゴロ、と遠く長くエコーを引いた。

起き上がったが外はまだ暗く、部屋の灯りがつかない・・・? 停電とわかった。

手探りで自室のトイレに立つと、なんと、観音開きの窓が片側だけ雨風の中に開け放った状態だった。

強風にあおられて留め金がはずれ、一晩中強風にもてあそばれていたのだろうか。

これで寝られたら大した大物だ。

空が白んでも起床の鐘は鳴らない。それも道理、電動式なのだから。

見当をつけて部屋を出るが、聖堂も、食堂も薄暗く、ところどころにローソクが灯されていた。

神学校は丘の上だ。好奇心から傘をさして門の外に出て丘を下りてみた。

なんと、そこには全く見知らぬ光景が広がっていた。

 

エッ?!これがあの幅3メートルのどぶ川の変身???

夜中に偵察してきた神学生の話では、今はすっかり退いたが、

最盛期にはまだこれより40-50センチ水かさが高かったと言う。川幅もさらにこの倍ぐらい。橋は手すりまで水没。

テベレ川よりも広い大河の様相だったことだろう。まさに超異常な集中豪雨のなせる業だった。

 

  

午後、また見に行った。

すぐ足元でも、まだ小さな段差で水が泡立っている。しかしこれでも水嵩はだいぶ減った後だ。

 

つい数時間前まで、このポールの下の赤い線まで水に浸かったという話を聞いた。

 

  

水が引きはじめた後には、公道に通じる道には漂流物の堆積の山が。

このゴミを取り除かなければ外には出られない。

あの遮断機の向こうの橋が渡れなければ神学校は陸の孤島も同然だ。

神学校には外出禁止の通達が回った。


その夜、

夕食のメインテーブルの雰囲気は中世の騎士たちの晩餐風景と言ったところか。意外とロマンチックだ。

 

これは平山司教様の隣の私の席に坐ったままの写真。

 

3階の私の寝室への階段の壁際には一本のローソクが灯されていた。これで深夜までもつのだろうか?

 

次の日。

外界への道は橋の手前でゴミの山に20-30メートル塞がれ、相変わらず人も車も通行止め。

しかし、橋の右たもとの農家の庭を迂回すれば、公道に出られることが分かった。

それで、車で街に出た。

 

 

ローマ市内を流れるテベレ川。普段はアーチが出会う位置の下に高い石の橋脚があり

水面はその橋脚の下の土台のあたりにある。

今は橋脚はおろか、アーチも出会う前に水に沈んでいるではないか。

 

右の護岸は見える部分よりまだ2倍近くが水面下に隠れている。

そして、そこに左の並木の外側までの広い壇があり、散歩道やサイクリングが出来る回廊になっている。

普段の川の水は、下の並木の左側にあるもう一段下を流れているはずなのだが・・・ 

 

ローマのミニ「シテ島」(セーヌ川のノートルダム寺院のある中州)。ここでテベレ川は二つに分かれ川中島を作る。

中世からの古い病院は一階が水没寸前まで来ている。

 聞いたところではすでにコレジオ・クロアートは地下室に浸水がはじまっているようだ。

 

更に次の朝、同じ川中島を見に行った。水位が下がり、ビフォー・アンド・アフターの写真の対比を期待したが、

水位はほとんど変わっていなかった。土砂降りから普通の雨に変わったからと言って、

上流に今も降り続いている雨のため、一日ぐらいで水量は簡単に減るものではないのだろう。

 

水没寸前の川中島の病院を絵に描いている人がいた。長い階段の中間の踊り場の位置まで水が上がっている。

 

  

例外的な水位に水鳥たちも戸惑ったか。リオの岩山の上で羽を広げたコンドルを見てブログに書いたが、

同じように見栄を張っても、あちらは広げれば3メートル強。こちらの川鵜は目いっぱい広げて1メートルがせいぜいか?

右は、鴨と川鵜の仲良し昼休み。

 

さらに2日ほどがった。しばしの晴れ間にさすがの大河も退いた。送電線の鉄塔の左手前の白っぽく乾き始めた土地は

上流から送られてきた砂に育ち始めた牧草が埋まったあたり。手前は埋まったのではなく、土壌が削られて流された部分だ。

洪水の前はこの視野全体が緑濃いい牧草地だった。これで今年の牧草の収穫は壊滅的か。


実は、この雨でローマ中の道路があちこちで寸断され通行止めになっていた。

路面の陥没もあったが、大部分は切通しや盛り土の法(のり)面の崩壊だ。

神学校周辺地域の停電は約24時間にわたった。

文明度の指標の一つに停電率の国際比較がある。1年間にその国で平均何分間停電するかを比べるものだ。

                            日本   16.0 分

                            ドイツ   36.5 分

                           フランス   57.7 分

                            米国   65.5 分

                            英国   81.9 分

 とくれば、ローマの今回の約24時間(1,440 分)は(もちろん局地的な事ゆえ単純比較は出来ないが)異常に長い。

どちらかといえばイタリアの停電率はアフリカやアジアの共産圏グループに近いのではないか?

と言われても、たいていのイタリア人は笑って意に介さない。

そのほか、ちょっとした雨で道がすぐ灌水し、

遊園地のウオーターシュートよろしく車が大げさな水しぶきを上げて走り回るのもローマの風物詩だ。

これらが今回のブログ「ローマ」に、=大自然の力に意外と脆(もろ)い都=と副題をつけた所以だ。

イタリア人の名誉のために付け加えるが、停電率の低い国の日本人の方がより幸せかと言うと、むしろ逆なのだ。

(おわり)  

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★ 〔完全版〕 教皇フランシスコのインタビュー(その-2)

2014-02-11 17:02:07 | ★ 教皇フランシスコ

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〔完全版〕教皇フランシスコのインタビュー(その-2)

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1月21日に「教皇フランシスコとは何者か?」と言う題でブログを書いたら、かなり好評でたくさんのアクセスがあったのですが、すかさず「残念賞!貴男のブログは二番煎じでした」 と言わんばかりに、3-4人の方から「中央公論」の1月号に同じような内容が出ている、とのご教示が相次ぎました。

当方の事情としては、去年の割合に早い時点で訳し終えていたものの、依頼主の版権交渉が宙に浮いたために、見切り発車で試しにブログに載せてみたまでの事で、「中公」の事はローマに居てもちろん知りませんでした。

そこへ追いかけるように、親切な方から同記事をスキャンしたものがメールに添付されて来たので、早速比べてみた所、あちらは全体の3分の1ほど、それも雑誌の読者を意識してか、一般向けの部分しか載せておらず、キリスト教と教皇フランシスコの人となりに興味のある人にとって面白そうな肝心の部分の多くが全く反映されていないことが分かりました。

 それで、そのことをブログに書いたら、「ではぜひ全文掲載を」と言う要望が多く寄せられたこともあって、原文通りの順序による完全紹介に踏み切ることにしました。

 なお、翻訳のベースは、この際 “La Civiltà Cattolica” の雑誌ではなくバチカンの公式サイトで自由に見られるイタリア語版(一語一句まで同じ)をダウンロードしたものに依拠しました。

 

さて、最初の小見出しは:

「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオとは何者か?」

でしたが、それは見出しだけ「教皇フランシスコとは何者か?」という言葉に捻って既にブログに紹介しましたので繰り返さず、早速その続きから入ります。

 

なぜイエズス会員になったのか?

 このような形での受諾(訳注:教皇職の受諾)は、教皇フランシスコにとっては一つの身分証明書のようなものだと私は理解した。そこにはそれ以上何も付け加えることはなかった。そこで、あらかじめ第一番目の質問として選んでおいたことに移った。「教皇様、イエズス会に入ることを選ばせた動機になったものは何だったのですか?イエズス会の何に惹かれたのですか?」

 「私はなにか普通以上のものを望んだのです。だけどそれが何であるかわかりませんでした。神学校に入りました。ドミニコ会員たちのことが気に入ったし、ドミニコ会員の友達もできました。しかしその後、神学校がイエズス会に委託されたので、その結果よく知るようになったイエズス会を選びました。イエズス会について3つの点に心を打たれました。宣教精神と共同体と規律でした。奇妙なことに、私は生来規律のキの字にも全く縁遠い存在でした。けれども、時間を秩序付けて用いる彼らの規律は私をとても惹きつけました。」

 「さらに、私にとって本当に根本的だったのは共同体性でした。私は常に共同体を探し求めていました。私は自分を一人で居られる司祭だとはみなしていません。私は共同体を必要としています。そのことは私がこのサンタマルタの建物に居る事実からも理解できます。私が選ばれた時、私はくじ引きで207号室に住んでいました。私たちが今居るこの部屋は客室用の部屋でした。私はここの201号室に住むことを選びました。なぜなら、教皇のアパートに入った時、私は自分のうちにはっきりとした《ノー》を感じたからです。《使徒的宮殿》の教皇のアパートは豪奢なものではなかった。古典的で趣味が良い広いものではあったが贅沢なものではなかった。しかし、詮ずるところ、漏斗(じょうご)をひっくり返したようなものでした。中は大きく広々としているが、入り口は本当に狭かった。まるで一人だけスポイトで吸い入れられるようなもので、人と一緒でなければ生きられない私には、とにかくノーでした。私は自分の生活を他の人と一緒にすることを必要としていたのです。」

 教皇が宣教と共同体について話しているあいだ、私の頭には「宣教のための共同体」について語っているイエズス会の文献のすべてが浮かんできたが、それらは彼の言葉の中に再発見されたのだった。

 

一人のイエズス会員にとって教皇であるということは何を意味するか?

 私はこの線に沿って話を進めたいと思い、彼がローマの司教に選ばれた最初のイエズス会員だという事実を出発点として、教皇に一つの質問をした。「イグナチオの霊性に照らして、あなたが行うように呼ばれている普遍教会への奉仕をどう理解しておられますか?教皇に選ばれるということは、一人のイエズス会員にとって何を意味しますか?ご自分の職務を生きる上でイグナチオの霊性のどんな点がより助けになりますか?」

 それは「識別」だ、と教皇フランシスコは答えた。「識別は聖イグナチオが内面的に最も深く探究したことの一つだ。彼にとって主をより良く知り、主により近い位置で従うための戦いの道具の一つだ。私の心を常に最も強く打ったのはイグナチオのビジョンを描写する《最大》という言葉だ。“Non coerceri a maximo, sed contineri a minimo divinum est.” (最大を要求するのではなく最少で満足するのが神のやり方だ)と言う言葉だ。統治するに際して、目上の立場にあって、この言葉について熟慮した。より広い裁量の余地の中で狭量にふるまうのではなく、より厳しい状況の中でも余裕を持って振舞うこと。大きいことと小さいことに関するこの能力は、我々が置かれている立場から常に地平線を見渡すことのできる度量の大きさを意味する。それは、毎日の小さなことを神と他の人々に開かれた広い心で行うこと。小さなことを神の国という大きな視野の中で評価すること。」

 「この《最大》は、神の事柄を《神の視点から》感じ取る識別の正しい立場を身につけるための判断基準を与えてくれるものである。聖イグナチオにとって、これらの大きな原則は、場所と時と人の状況に受肉しなければならないものだ。ヨハネス23世は、この《最大》を繰り返し言うとき、ご自分なりのやり方で統治の地位に身を置いた際に、omnia videre, multa dissimulare, pauca corrigere,(すべてを見て、多くの事に目をつぶり、僅かなことだけ矯正する)と述べているが、それは、全て(omnia)を見る、それも《最大限に》見るが、僅か(pauca)なことについて《最小限度に》行動する、という意味でそう言ったのだ。大きな企画を持つことが出来るが、それを実現するのはわずかな極く小さなことを行うことを通してだ。あるいは、聖パウロがコリントの信徒への第1の手紙に言っているように、弱い手段を用いながら、強い手段を用いるよりもより効果的な結果を生むことが出来る、と言ってもいい。」

 「この識別には時間が必要だ。例えば、多くの人は諸々の変化と改革は短期間に達成できると考えるが、私は本当の効果的な変化の基礎を置くためには常に時間が必要だと信じる。これは識別するために必要な時間だ。時には、識別の結果として、当初は後ですればよいと思われていたことを、すぐにやるべきだという結論になることもある。それは、この数カ月の間に私にも起こった。識別と言うものは、常に主のみ前で、印を見ながら、起こってくる出来事に聞きながら、人々の、特に貧しい人々の声に耳を傾けながら、実現していくものだ。つつましい車を用いるなどの生活の規範に結ばれたことなどに関する私の選択も、事柄や、関係する人や、時の印の読み取りなどからの要請に答える霊的な識別と結ばれている。主における識別が私の統治形態を導く。」

 「だから、その反対に即興的になされた決定には信を置かない。もし何か決定をしなければならない場合は、いつも最初の決定、つまりこうしようと最初に頭に浮かんできたことは信用しない。たいていの場合、それは間違っている。待って、内面的に評価するために必要な時間をかけなければならない。識別の知恵は、生活に必然的に付きまとう曖昧さから解き放ち、大きくて強く見えるものと常に結びつくとは限らない適切な手段を見つけさせてくれる。」

(つづく)

 

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★ ローマから見た世界(2) =キリストへの感謝のために命を捧げる=

2014-02-06 22:35:32 | ★ 教皇フランシスコ

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ローマから見た世界(2)

「ミッシオ・アド・ジェンテス」

"Missio ad gentes"

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キリストへの感謝のために命を捧げる

世界のあらゆる場所に福音を告げるために教皇に派遣された家族の証し

 

バチカン市国の通信社 ZENIT は、2月1日の新求道共同体の謁見について記事を配信した。コメントを要しない明快な内容なので、私が下手に手を加えるより、そのまま翻訳して伝えるのが適当と思った。ZENIT をはじめとして、カトリック報道の世界ではどこでもその日のトップに扱っているのに、日本の教会では全く扱われないところに、何か問題の根が潜んでいると思えてならない。写真は当日私が撮ったものだ。



(バチカン市国発=ZENIT)2014年2月1日(Zenit.org) Salvatore Cernuzio, Junno De Jesús Arocho Esteves | 

「愛をもって宣教しなさい。あなた達は熱意に燃え、喜びにあふれた宣教者です。喜びを失ってはいけません!」これが復活したキリストの福音を地上のあらゆる隅まで伝えるために今日派遣された「新求道期間の道」の400組以上の家族に与えられた教皇フランシスコの派遣の言葉だった。特に、ヨーロッパとアメリカとアジアの最も非キリスト教化した地帯に対する40の新しい「ミッシオ・アド・ジェンテス」(異邦人への宣教団)の中核をなす174の家族は、この教皇の言葉を大切に心に納めた。

 


派遣される宣教団毎に壇上に上がって跪き教皇の派遣の祝福を受ける


キリストを信じない人と教会から遠ざかった人たちを教会に再び近づけるためには、家族間の愛と完全な一致の証しに頼るほかはないと考える司教達に対して、この「非キリスト者」への宣教は「道」が提供する強力な手段だ。大勢の母親と父親と子供たちが、人が受ける事のできる最大の恵みはイエス・キリストの愛を知ることだという確信に基づいて、今日、家を棄て、仕事を棄て、愛する者たちを棄てて、この召命に応える。 

 

6の子持ちで、そのうち一人はダラスの神学校に入っているニュージャージーの夫婦、ペドロとカルメンは、この同じ愛をまず彼ら自身が直接に体験し、教皇から今日フィラデルフィアへの宣教に派遣された。ペドロはZENITに語った。「神は死の状態にあった私に手を差し伸べて下さいました。私はギャングたちの仲間に入って、麻薬漬けになり、街を彷徨っていました。主はそんな私に妻と子供を与え、何よりもキリスト教的家庭を与えて新しい人間に変えて下さいました。だから、神がわたし達を愛してくださったその愛を告げるために、世界に旅立つ召命を感じたのです」と。


 


「確かに怖くないわけではない-それは認めます-しかし、さっき言ったように、神は死の中にいた私に道を開いて、私に幸福を与えて下さったのを経験しましたから・・・。私たちは、確実に遭遇するに違いない困難を越えて神に信頼を置きます。」妻がその後を引き取って、「私は宣教の困難よりも私の罪の方を恐れます。けれども、私は神がどんな状態から私を救い上げて下さったかを、また、私にはもったいないような具体的な恵み-18歳での結婚と6人の子供たち-を与えて下さったことを忘れません。子供たちは両親のこの選択に満足しているのか、との質問には、直接小さい子供たちが「もっちろ~ん、私たちは大満足よ!」と声をそろえて答えた。「私たちはこの宣教をすることをとても幸せに思う-とカルメンは結論付け-決行の日のことは考えないで、主が私たちのために用意してくださったことだけを見るようにしています」とも言った。


 


教皇が今日の話の中でも言われた通り、主は「常に私たちに先立って行かれ」、「最も遠い場所にも」、また「最も異なった文化の中にも」道を準備してくださっている。この事を確信して、4人の子供と、7人の子供を「天国」に持つミゲルとベアトリスの家族は、1年前にスペインを離れてマンチェスターへと旅立った。「初めのうちは厳しかった-とミゲルはZENITに語った-言葉のこと、生活習慣のこと、食べ物のこと・・・。1年ほどは話すことが出来ず、話かけられても解らず・・・実に《惨めな》状態だった。だけど、神様は私たちの信仰を強めて下さるだけではなく、家や仕事など具体的なものを与えながら、いつもわたし達を助け、何も不足することがないようにはからって下さった。」


 

「私たちが一番心を打たれたのは、-と夫は続けた-子供たちがどんなにうまく適応し、着いたばかりですぐに満足し、英語も見事に覚えていったかを見たことだった!」結論として、この宣教では「私たちの言い方によれば、神様がなさったすべての事、私たちと私たちの子供たちに与えて下さった命に対して、ただただ感謝するばかりです。」

 

壇の上では教皇が一人一人の子供にキスをして、愛撫して・・・私の席からは見えないところは、テレビの大スクリーンから

 

ドリックとクリスチーヌと彼らの4人の子供たちも、感謝のためにインドのラージコットへ宣教に旅立つ決心をした。それは、この国がキリスト教徒に対する根強い迫害で有名であることを考えると、並外れた信仰の行為だと言わなければならない。「危険がたくさんある」ことを、インド人は臆病なイタリア人に対して隠さない。「人口の大部分はヒンズー教徒で、中には狂信的なのもいる。何もかも困難だ。インドに踏みとどまるにしても、新しい言葉を習わねばならないし、文化も異なる。何もかもが違うのだ!」ではどうして出かけるのか?「なぜなら、神に対する感謝がとても強く-とセドリックは言う-私たちはあまりに多くの奇跡とあまりにも多くの愛を見てしまったので、それを他の人々と分かち合わずにはいられないからです。」彼は一つの例を語った。「私の妻は何度も困難な妊娠をして、非常に危険な目に遇いました。しかし私たちは信仰をもって祈り、神様は私たちに4人の子供たちを恵んで下さいました。本当に奇跡でした。一人一人の赤ん坊が贈り物でした!子供たちも、彼らに命を与えたのは主であることを知っているので、彼らはみな旅立つことを幸福に思っています。」


   

教皇ヨハネパウロ2世が試みに初めて宣教家族の公式派遣を行われた時は4家族だった。その後も数十家族家族までの派遣式では、一家族ずつ壇上に招き、手ずからこの銀の十字架を授与された。しかし、今回のように400家族ともなれば、最早、時間的に不可能になった。それで、代表として選ばれて十字架を直接授与されない各家族は、あらかじめ十字架を受け取り、会場で一斉にそれをかざし、教皇の祝福を受けることになった。

う一つの美しい証言をしたのは、トリエステのとても若い夫婦(彼は28歳、彼女は25歳)だった。小さい二人の赤ん坊の父親と母親で、今日アジアに派遣されることになった家族の中の一組だ。「私たちはイエス・キリストに出会いました。私たちは愛されていると感じて、世界中どこであれこの愛をもたらすために出かける準備が出来ています。」何が彼らをすべてを棄てて出発するように突き動かしたのか、という質問にパオロは簡潔に答えた。「いつも簡単だというわけではない、時には生活は苦しい」と言ってから、「しかし、聖霊に信頼しています。それなしには何も出来ないのですから。」と付け加えた。


     

 

       

「これらの人たちが皆、自分の家も生活の安定も何もかも捨てて旅立っていくのは、本当に奇跡だ」とグアム島のアガーニャの大司教でカプチン会員のアンソニー・サブラン・アプロン師はZENITに話した。「何よりも私の心を打ったのは、新しい言葉と、全く反対の文化を学び、自分たちの命をかけて中国に送られる家族たちの姿だ。主が彼らを助けて下さることを確信する。」


  

 

12家族が今日「異邦人への宣教」に派遣されて出発することになったフィラデルフィアの補佐司教のジョン・マッキンタイル師も同意見だ。「この集まりはとても美しく感動的だった-と同補佐司教は言う-、特に教皇の家族に対する心遣いと、彼らの子供たちに対する思いやりを見ること、また何よりも、教会の宣教のためにこのように驚くべき形で自分を奉献するこの人たちの寛大さを見るのは感動的だった。」「私たちは-と彼は続ける-これらの家族と、司祭たちと、そして神学生たちにとても感謝している。特に、彼らの前に立ちはだかるであろう人間的な困難、それは単に言葉や新しい文化のみならず、仕事を見つけ彼らの子供たちのために学校を見つけること、などに立ち向かう彼らの勇気に心を打たれた。私は彼らが諸問題や、罪や、死に打ち勝ったキリストに対する信仰に支えられて、全ての困難を乗り越えていくものと確信している。」

(01 Febbraio 2014) © Innovative Media Inc.

あとから知らされたことだが、教皇フランシスコの謁見開始が遅れたのは、午前中に終わるはずだったポーランドの司教団の個別謁見で(5年に一度、各国の司教団は教皇に表敬訪問をし、教皇は司教一人一人と個人的に話す慣例になっている)かなり多くの司教が通訳付きだったので全体が長引き、予定を大幅にオーバーしたためと報道された。

そのために、新求道共同体の謁見は全体で30分短縮されたが、それを埋め合わせるために、異例の措置として、今回派遣式が出来なかった14組の宣教団をあらためて14日に招いて、派遣の銀の十字架を授与し、派遣の祝福を与えることを約束された。これは、教皇にとっても初めての体験のこの派遣式が、彼の心をしっかり捉えたことの印と考えられている。

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★ ローマから見た世界 =教皇フランシスコ「新求道期間の道」を謁見=

2014-02-04 16:15:00 | ★ 教皇フランシスコ

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ローマから見た世界

教皇フランシスコ「新求道期間の道」を謁見

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パウロ6世ホールで414家族が宣教に派遣される 

その内174家族が「異邦人」への宣教に

 

 

2月2日に私は教皇フランシスコの謁見の模様の第一報を書いた。

実は、謁見に先立って、バチカン市国の通信社 ZENIT が予告記事を発表していた。 

私は、今回の謁見について続報とコメントを書こうと思っているが、明日の午後からアドリア海に面したポルトサンジオルジオで開かれるキコとの集いに参加することになっているので、そこでキコが謁見についてどんな話をするか聞いた上でゆっくり書くことにして、ここでは ZENIT の記事を全文紹介するにとどめたい。

  

 

「ローマから見た世界」 

バチカン市国(ZENIT=ゼニット発) 編集2014年1月31日(472号)

明日12時、バチカンのパウロ6世ホールで教皇フランシスコは約1万人の「新求道期間の道」のメンバーと会う。教皇がこの2008年に聖座から正式に認可された「成人のキリスト教入信の道」の何千人ものメンバーを謁見するのは、教皇に選出されて初めてのことだが、昨年の9月9日には教皇フランシスコは既に使徒的宮殿における私的謁見で「道」の創始者であり責任者であるキコ・アルグエイヨ、カルメン・エルナンデス、とマリオ・ペッツィ神父を迎えていた。

教皇ヨハネパウロ2世とベネディクト16世の前例に倣って、教皇フランシスコは新しい宣教家族を全世界、今回は特にアジアの国々に宣教のために派遣する。より詳しく言えば、414家族が宣教に派遣され、その内の174家族は40の新しい「異邦人への宣教団」の構成員として、既存の52の宣教団に加えられる。謁見には参列者の全家族の約900人の子供たちも出席する。そのほかに、世界の様々な国ですでに宣教に携わっている100家族も出席する。

パウロ6世ホールでの教皇との出会いには、「新求道期間の道」の創始者兼責任者の他に、世界中にある100の「レデンプトーリスマーテル宣教神学院」の院長と、ヨーロッパ圏内の神学院で養成を受けた司祭たちと現在養成中の神学生も出席する。さらに、カテキスタのチーム-「道」の国際宣教者たち、そしてスペインとイタリアの各第一共同体の責任者やヨーロッパの多くの小教区の共同体の代表者も参加する。

異邦人への宣教、つまり「非キリスト者への宣教」とは、まだ福音が届いていない「初めての宣教」が基礎から行われなければならない場所での福音宣教を意味する。教皇フランシスコが今回派遣する家族の大部分は、ヨーロッパ人の家族、特にスペインとイタリアの家族だ。各宣教団は4つの家族と、一人の司祭と彼の協力者(一人の青年か神学生)、一人の年配の協力女性と宣教を助ける3人の若い女性(誓願を立てていない)で構成される。

初代教会の使徒的モデルに倣った「異邦人への宣教団」は、洗礼を受けていない人々のただ中に住んで、家庭から宣教活動を始める。彼らは一団となってキリスト教的共同体を創りだし、非キリスト者のただ中で信仰の印を示す::愛の印(「私があなたがたを愛したように」)と、完全な一致(「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」)

現在「道」は5つの大陸の124か国に存在し、1479の司教区の6,272の小教区に2万432の共同体が展開している。この教皇フランシスコの謁見の結果として、「新求道期間の道」には:100の教区立「レデンプトーリスマーテル」宣教神学院と、この「道」を歩みながら司祭職を目指す2300人の教区神学生と、それらの神学校での養成を終えた1880人の司祭と、93か国に展開する1000以上の宣教家族と、92の「異邦人のための宣教団」が存在することになる。

(31 Gennaio 2014) © Innovative Media Inc.


 

 

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★ 教皇フランシスコの宣教家族派遣式

2014-02-02 23:34:28 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコの宣教家族派遣式

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2014年2月1日(土)10時30分から、バチカンのパウロ6世ホールで、1万人の新求道共同体のメンバーを招いて、教皇フランシスコは宣教家族の派遣式を行うことになっていた。我々の神学校からは、ほぼ全員が参加した。

教皇ヨハネパウロ2世が共同体の最初の家族を宣教に派遣された時以来、派遣される宣教家族には教皇様自身から銀の十字架が渡され、「この十字架を荷って宣教地に赴きなさい」と言って派遣されることが習わしになっている。


教皇が銀の十字架を渡すところ

 

午前10時半を待たずにパウロ6世ホールは満席となった。外には入りきれなかった大勢の仲間があふれたが、どうしようもない。

 

ホールの正面の壇の右手には赤いキャップの11人の枢機卿と紫のキャップの53人の司教達が控えていた。

この数は、教皇ヨハネパウロ2世やベネディクト16世のどの宣教家族派遣式の時よりも多いと思われる。

手前左は日本人でただ一人参加した平山司教。

 

教皇のお出ましは12時きっかりと告げられていた。それまでの1時間半、キコが中心になってリードし、派遣式の次第を説明したり、式の間に歌われるべき歌の練習をしたり、この式の歴史的意義を説いたり、注意事項を確認したりするうちに、雰囲気はいやが上にも盛り上がっていった。

 

 舞台の左、司教・枢機卿の一団の更に左端にキコのオーケストラの縮小メンバーが控えている。彼らの中からは「オイ、ジョン(私の事)。日本公演はいつになる?」などの雑談が飛んでくる。

 

           

正面ステージの左右の大型ディスプレーには外の聖ペトロ広場の様子や、会場の中の家族ずれの様子などが映し出されている。

 

12時数分前になった。数台のテレビカメラが一斉に緩やかに後ろにせり上がっている会場の中央通路の一番奥の扉にレンズを向けた。それを合図にそれまで、ざわざわと雑談で賑わっていた人々が一斉に真ん中の通路に寄り始めた。教皇に触ろう、握手をしよう。祝福をしてもらおうと言うわけだ。柵まで寄れない人たちは、かまわず靴のまま椅子の上に立ち並んだ。私は背が低いので、初めから諦めて床に立って人のお尻や足を眺めることになった。何も見えないまま、3分が経った。今や遅しと会衆は熱していって、ビーバー・パーパー(教皇万歳!)とか、調子をつけたフランチェスコ!フランチェスコ!の大コールが盛り上がった。キコが教皇歓迎の歌を先導して、一万人の大合唱になった。5分が経過した。そのまま10分が経過した。まだみんなは中央通路の柵を押し倒さんばかり。椅子の上に立った若いお父さんが小さい子供を肩車したまま後ろの扉を凝視している。

そこへ、背後からキコの声が聞こえてきた。教皇様は少し遅れられる模様だから、みんな席に戻って座るように。この時間を使って、列席の司教様方を紹介しよう。あとで時間が無いかもしれないから。と言うことになった。世界中から司教様方が集まっていた。

たいていは、宣教家族の派遣を教皇様に依頼した教区の司教方だ。

 

予定を30分以上オーバーして、12時半を回ったところで、突然会場の正面に向かって左前方の群衆から歓声が上がり、たちまち会場が総立ちになった。事前の打ち合わせにはなかった番狂わせなのだろう。後ろの扉ばかりをマークしていたどのテレビカメラも不意を突かれて教皇の入場の瞬間を捉えきれなかったのではないか。教皇は向かって左手の袖から全く唐突に入場してきた。

キコは話を中断した。

私はまたしても椅子の上に立つ男女のお尻と足しか見えない谷間に沈んだ。カメラも全く役に立たない。会場はタダ騒然としている。

 

  

一番見晴らしが効いたのは恐らくこの女の子のような肩車族だっただろう。

 

ビーバー・パーパーのコールや、フランチェスコ、フランチェスコの連呼が終り、一同が席に着き、私語が収まって、やっと私の前にこのような景色が展開した。柱を一本も使わない特殊な巨大ホールだ(イタリア人の設計による)。正面の大きなオブジェは復活のキリストをイメージしている。私はこれで前から7分の1ぐらいの位置にいる。

 

キリストは裸で、髪を横に流し踊るような手つきをしている。私は個人的にはあまり好きになれないのだが・・・

 

キコの感謝と歓迎の挨拶。新求道期間の道の歩み方の説明。今日の派遣式の参加者の紹介。等に耳を傾ける教皇の顔には、トレードマークのフランシスコ・スマイルが絶えることはなかった。

  

やがて、教皇は手渡された原稿に従って、短い今日の挨拶を読み上げた。前半3分の1ほどは、教皇フランシスコの人柄と調和した心のこもる挨拶だったように思う。後半は、写真を撮るのに気が散っていた私はあまり気に留めなかったが、あとで聞いた話では、新求道共同体が定着し発展し、存在感を増している地域に対する、2-3の助言、注意事項に終始したのだそうだ。私は、それを式後バチカンのインターネット公式サイトからダウンロードして印刷してじっくり読んだ。

先ず、以下に教皇フランシスコの謁見の様子を伝えるバチカン機関紙オーッセルバトーレ・ロマーノのバチカン放送版から訳して載せよう。

 今朝、2月1日の土曜日、パウロ6世ホールで、教皇様の周りでは本当にその名にピッタリの「家族の祭典」が展開した。その主役が何百人もの子供たちだったことは全く議論の余地がなかった。この170組の家族にとって今日の教皇様との出会いはとても特別な意味合いを持っていた。なぜなら彼らは教皇様自身から《ミッシオ・アド・ジェンテス》(異邦人への宣教)の任務を託されたからだ。この派遣命令の授与こそ、何千人もの新求道期間の道のメンバーに対する謁見の中心的瞬間だった。

(中略)

教皇フランシスコは、新しい宣教者たちを派遣するに際して、世界のあらゆる場所に、とくに「最も非キリスト教化した場所に」、福音をもたらすように励ますことを忘れなかった。


このあとに、今日の謁見のハイライト、「ミッシオ・アド・ジェンテス」(異邦人への宣教団)の派遣式が続く。一つの団は4家族(それも8人、10人、13人の子沢山の若い家族も少なくない)と、一人の司祭と、3-4人の独身女性の協力者と、司祭を補佐する若い青年信徒からなっている。子供を入れると一つの団で40人から50人になることもある。

今回特筆すべきは、アジアへの派遣が多かったことだ。中国に4チーム。トナムに3チーム(だったかな?)。インドにも2チーム?そして蒙古のウランバートルにも1チーム。等々。ヨーロッパにはベネディクト16世の時代にすでにかなりの数が入っているが、今回もなお多数の補強がなされた。

日本にはまだ「ミッシオ・アド・ジェンテス」(異邦人への宣教団)の形はとっていないが、すでに歴代の教皇から派遣されて25家族(だと思う)が入っており、今回も名を挙げて紹介される時間はなかったが、大勢にまじって1家族が派遣された。

クライマックスの派遣式の様子は写真アルバムの形で、今回の謁見の歴史的な意味についての考察と合わせて次回のブログに譲るが、すでに私のブログにはこの派遣式について匿名のコメントが前のブログのコメント欄に入っていたので、それを改めてこの本文のの中で紹介して一区切りとしたいと思う。

 

2月1日の謁見 (MG)2014-02-02 12:38:57

谷口神父様

YouTubeで見せていただきました。
アジアへ相当数の派遣があるようですね。
もちろん、日本にも??(笑)

それにしても、Radio Vaticanaを見ると、
何語版をみてもトップ記事で伝えているのに、
今のところ、日本語版だけ扱いがないのが不思議です。
(中国語版でさえあります!)
意図があってのものか、
単に翻訳が間に合わなかっただけかはわかりませんが、
これでは、ますます世界の動きから遅れてしまいますね。
大丈夫でしょうか?

当日の詳しいようす、
お伝えいただけること楽しみにしています。

 

 

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