:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 鐘の声

2022-07-28 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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鐘の声

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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在りし日の聖イグナチオ教会 (イラスト)

 

 イグナチオ教会では、このあいだも、鐘をならして荘厳な式をはじめました。鐘の音を聞くと、子供の頃のなつかしい故郷のことが私の胸に浮かんで来ます。鐘の音は何と不思議な力をもっているのでしょう。

 鐘の音を一番楽しく聞いたのは――それは中学生の頃でしたが――土曜日の午後、とくにお祝いの日の前の午後でありました。学校が終わってから町の広場に行きました。そこには中世の昔から残っているゴシック式の聖堂がそびえていました。その高い塔からあしたの日曜日を告げる鐘がなり始めました。四つの鐘です。まず高い音のがなると、段々に一番低い音のまでが鳴りだします。四つの鐘は仲よく調和的に鳴りました。腹わたにしみ通るような重い鐘の声、その振動で町中の空気はふるえました。高い声の鐘はこの重いどっしりした響の上におどり上るようでした。また、この音は天からの声、神の声のように響きました。六日間の苦労と勉強が終わって明日は喜びの日、日曜日なのです、私はじっと広場に立って、このやわらかい暖い音の波を浴びながら、永遠の喜びが確かなものであることを感じました。 

 私の兄もこの鐘の音を聞きます。しかし兄は機械に深い興味をもっていましたから、鐘の音よりも鐘そのものを見たかったのです。まもなく私たち二人は塔に登る許しをもらいました。条件としては今度の土曜日に少し鐘を鳴らす手伝いをしなければなりません。むろん私たちは喜んで約束しました。土曜日を一生けんめい待っていました。その日が来て、私たちは案内され、塔の中のほの暗い高い階段を登って行きました。てっぺんに着くととても広い「鐘の部屋」に入りました。まず目の前にある大きな鐘を眺めました。普通の教会でしたら、長い綱を下から引いて鐘を鳴らします。しかし、この鐘は大きくて違う方法で動かします。まだ電力のないときでしたから、鐘の上に丸太をつけて、その片方を足で踏みます。それにはまず梯子で鐘の上に登り、そのそばの台の上に立って両手で鉄の棒の手すりにつかまり、左の足は台の上においたまま、右の足で鐘の上の丸太を力いっぱい踏みおろします。すると段々に鐘は調子づいて動きだします。兄と私は一番大きい鐘には体力が足りませんでしたから、そのほかの方をうけもちました。そして小さい方は早く鳴りだし、大きくて重い方はあとからおくれてそれについてきました。これは鐘を鳴らすことの一つのわざであり美しさであります。このひびきをきく人は必ず町のあちこちに立ちどまってじっと耳をかたむけます。こうして私は一生けんめい鐘の音をつくり出して、塔の窓から四方に送りました。町の上をこえて、森までも、遠くの山までも。 

 その聖堂の鐘は風に運ばれますと、五、六時間はなれたところまでもよくきこえました。こうして鐘のことを実際に経験しましたから学校でドイツ文学の時間に鐘をたたえる詩や場面は前よりずっとよくわかったのです。たとえばゲーテの「ファウスト」の中で、聖週間すなわち教会の鐘がならない期間のあと復活祭の始めに鐘が鳴るとき、絶望するファウストはそれをきいてふたたび生命に対して希望がわいてきますが、これは何と実感のこもった場面となったことでしょう。あるいはシラーの「鐘の歌」。これは長い詩ですが、始めから終わりまでとても面白くよみました。これは人生のよろこびと悲しみにともなう聖堂の鐘のひびきをきくようでした。 

 私が若いとき聞いた鐘と日本で聞いた鐘とどちらがよいかなどきくのは、困った質問です。どちらもよいものでありますから。

 ハンザの都市リューベックにいたときのことでした。やはり土曜日の午後、どの教会からも無数の鐘がひびき、町中はそのメロディーにひたされました。私はうれしくてたまらず、そこに来ていたハンブルク領事館の日本人の友だちに「これはとてもいいではありませんか」といいました。その方はただ「まあ、やかましい」とこたえました。 

 またこれと反対に、私は最近ヨーロッパから来た友だちにお寺の鐘を紹介したいと思いました。するとその人はつまらなそうな顔つきで「たいしたことじゃない、単調すぎる」といいました。 

 でも、私は日本こそ西と東から世界のもっともよいものが集まって来るところだと思います。ふしぎにも鐘についてもそうなるらしいのです。 

 三年前の八月六日、原爆の記念日に、広島で行なわれた大きな平和教会の献堂式に参列しました。そのとき高い塔から四つの鐘が鳴り始めました。全く夢のような気もちでした。完全な調和のひびき、深い平安の感じをおぼえました。人類が、これから先あゆむ道に対して新しい希望が湧いてきました。ところで私のそばに立ってこの鐘のメロディーをきいていた人は誰でしょう。むかしふるさとの町で鐘のところに一緒にのぼったほかならぬ私の兄でありました。そして、この平和の鐘を作った者も、実は同じ兄だったのです。

 「鐘の声」これも私の好きな一編です。

 わたしが若いころに第二の故郷かと思って住んだデュッセルドルフも、50歳を目前に神学生として移り住んだローマも、教会の鐘の声に満ちた都会です。しかし、いまはほとんどが電気時計にプログラムされた通り時が来たら勝手に鳴り出す仕組みで、ホイヴェルス少年が塔に登って足で蹴って鳴らした時代のような人間の温もりは失われています。

 68年前にわたしが洗礼を受けた神戸の六甲教会は、東京の聖イグナチオ教会を設計した同じグロッタース神父の手によるもので、ひと回り小さいことを別にすれば形はそっくりでした。塔のうえには鐘があり、朝、昼、晩のお告げの祈りや、ミサの始まりを告げる鐘の音は、結婚式、お葬式にもそれぞれの表情で遠くまで鳴り響き、町の風物詩だったことを懐かしく思い出します。

 ある日など、NHKの音響技師たちが磁気テープの録音機材を広場の芝生に持ち込んで、聖イグナチオ教会の鐘の音を熱心に録音していましたが、きっと何かのドラマの効果音として使うためではなかったでしょうか。

 時間の流れは想い出の詰まった懐かしい六甲教会も聖イグナチオ教会も歴史の過去に押し流し、今ある楕円形のコンサートホールのような新しい建物には、神の家としての荘厳さは失われ、鐘楼は無くなり、二度と鐘の声は聞かれません。

 猛烈な勢いで世界を襲った世俗化の波は、人々に神様の存在を告げていた鐘の声もただの騒音として駆逐し、沈黙させてしまったのでしょう。それにしても、二度と鳴ることのなくなったあの鐘は、今どこで埃をかぶっているのでしょうか。

 広島の平和記念大聖堂の鐘楼からは、ホイヴェルス神父様のお兄さんが作って寄贈された鐘が今も現役で鳴り続けているのでしょうか。生きているうちにもう一度自分の耳で確かめてみたいものです。

 

 

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★ 「二人の女中」 ホイヴェルス著 =時間の流れに=

2022-07-11 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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「二人の女中」

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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 晩さんに招かれた私たち十三人の学生と学者は食卓につきました。主婦と手伝いの二人の女中はお給仕で一心でした。黙ってお給仕です。二人の女中は主婦の目と手を見て、何を命令し何を依頼するかを悟り、てきぱきと処置してゆくのでした。この二人はいんぎんであるばかりでなく、美しく給仕するためにお祭りの晴着をきていました。

 私たちは彼女たちの給仕を当然のことにして別に注意もせず、世界宇宙の意義や存在の悲劇的状態やプラトン哲学とその「饗宴」など、相当大きな問題について論じあっていました。

 その間、二人は謙遜な心で、私たちにお吸物を供し、ご飯を渡し、いろいろな品をとって来てはお辞儀をして私たちに差し出しました。そして自分のしていることはよいかどうかと、いつも気にかけ、あるいは動悸していたのかも知れません。食事が終わってからも、始めから終わりまですべてしたことを顧みるのでしょう。これはもっと早くしたらよかった、それは違った方法で供したらよかったのに、来賓の方々は満足なさったかしら、咎むべところはなかっただろうか、奥様は不満だったかしら、食事中、奥様の顔を見てどちらともわからなかったことが幾度かあった、などと。 

 それから、大分おそくなって、私たちは別れを告げました。ご主人も奥様も玄関まで見送り、二人の女中は門まで庭を走り出て、私たちが門の脇のくぐり戸で身を屈めないように、大門の扉を開いてくれました。そして深く挨拶して、給仕させていただけた事に心からのお礼を述べました。私たちはそのような深い挨拶もせず、ありふれたお礼の言葉を述べて帰りました。

 でも二人の給仕は忘れません。どうしてご恩返しをしたらよいのでしょう。王様や神様にでもするように私に仕えたのでした。ああ、私が二人の心で、あんなに注意深く、あんなに動悸した心で、自分の務めが神のお気に召すかどうかと案じながら、神に仕えられたなら。

 どうして二人はこの奉仕の心になったのでしょう。二人は喜んで仕えます。念をいれて仕えます。うやうやしく真剣に奉仕するのです。世の中では二人のする仕事は下等なものと思われていますが、今私には最上級の仕事だという気がします。

 帰り道、じっと星を仰ぎ見て、二人のための望みを星空のかなたへ吹き上げるのでした。人間というものは何と珍しい、奇妙なものでしょう。二人の心にもゆる奉仕への熱望などは奇蹟のようではないでしょうか。また二人の心のなかの寛仁の泉。二人はこの心の動きに従って真によい人間、完全な人間になるのです。 

 只今、二人の気持は、蜜蜂が始めて巣をたち、花の方へ飛び、蜜を集める、その楽しい働きさながらです。蜂はその後も毎日毎日飛び立っては働き、翼の切れるほど働き、どこかで斃れるまで忠実に働くのです。

 人生の途上、常に働いている二人は、手が固くなろうとも、心はかたくならないように。そして心の寛仁の泉は決して決して渇れないように。いつもいつも今日の気持で仕えるように。

 

 

 戦前の日本の裕福な家庭には、女中さんがいるのは普通のことでした。二人いることも例外ではなく、加えて、下男と呼ばれる下働きの男性がいることもありました。

 今日「女中」という言葉は、人によっては差別用語とみなして嫌われる向きもあるかもしれませんが、ただの『お手伝いさん』と呼ばれている職掌とは全くニュアンスを異にするものであったことは、ホイヴェルス師の上の随想を注意して読み返せばすぐにお分かりの通りです。また、その点を深く理解しなければ、せっかくの「二人の女中」の意味を全く読み違えることにもなりかねません。ホイヴェルス師の原文を壊さないためにも、ー問題の所在を承知の上でー 敢えて原文のままにしたいと思います。

 さて、私の父は東北各県の警察本部長を歴任していましたが、当時の警察部長と言えば、知事に次ぐナンバー2の役人で、勅任官と言って、直接天皇に任命される内務省の高級官僚でしたから、官舎に女中さんと下男がいるのは当然と言えば当然でした。父が部下をひき連れて宴会を張ったあとは、たいてい官舎で仕上げをするのですが、母と女中たちはその都度さぞかし大変だったことでしょう。こういう生活は、敗戦後占領軍のマッカーサー総司令長官の命令で父が公職追放になるまで続き、その後は戦後の混乱の中て惨めな転落失業者一家として、社会の最低辺の生活を長く経験しました。母が小さい私たち3人の子どもを残して、栄養失調と結核でまだ二十歳台の若さで他界したのもそのためでした。

 私の記憶する女中さんたちは、みんな優しい働きものでした。大抵は地方のいい家庭の賢い子女たちで、都会の教養のある上流家庭に数年間、嫁入り前の行儀見習いとして住み込むもので、決してお給金目当ての貧しい労働女性ではありませんでした。女中さんという言葉のひびきの蔭にこのような古き良き時代の社会的背景があったことを知ることは、ホイヴェルス神父様のこの一編を読むうえで非常に重要なことだと思います。

 そしてもう一つ、戦前の一高から八高までのナンバーのついた高校をはじめ、全国各地にあった旧制高等学校は、まだ進学するものが限られたまさにエリート校で、非常に学力が高く、特に外国語の読解力に関しては、戦後の新制大学卒が足元にも及ばない高水準が当たり前でした。私が20才台の頃、左翼運動に共感してデモやゲバルトのはなしを得意になってしていたら、父から「生意気なことを言うな、そもそもお前は ダス・カピタル(マルクスの資本論)をちゃんと読んだことがあるのか?俺たちはドイツ語で読破したものだ!」と一活されて、言葉を失ったものでした。その彼らが旧東大の法科を優等で卒業すれば、官僚や政治家として40才台でもう国家の屋台骨を背負う気概をもっ指導者になったものでした。

 さらに、蛮カラな大学生たちの間で熱唱された

    デカンショ、デカンショーで 半年暮らす ア、ヨイヨイ ♫ 

    あとの半年ャー、寝て暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ! ♫ 

 というデカンショ節が、ドイツの近代哲学者デカルト、カント、ショーペンハウエルのことであることからもわかるように、当時の大学生の間には、まじめに人生の意味を問い、哲学を研究する学生たちも多く、哲学教授と学生たちの交わりはプライベートにも及んでいました。ホイヴェルス師が女中を二人かかえた上流社会の裕福な家庭に13人の学生を引き連れて行ってご馳走になり、高尚な哲学・宗教談義に時を忘れると言うようなことが日常的にあったことも、この短編の時代背景にあります。

 それにしても、わき役、端役の女中さんたちを、主役のように光を当てて語るホイヴェルス師は、流石に劇作家ならではと納得しました。さらに、神様の前に、師がご自分の司祭職をこの女中たちほどに真剣に生きているだろうかとわが身を糺すところなど、さすがは謙遜な聖なる司祭ならではと恐れ入ります。

 どうかこの短編「二人の女中」を、このような背景に重ねてもう一度味わってみてください。ホイヴェルス神父の彼女たちの一挙手一投足と内心の心理に対する細やかな観察と、彼女らに対する師の暖かい思いが、一層強く迫って来るのではないでしょうか。

 

 

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