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初聖体の夜
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ひと月近くブログの更新を怠ると、さすがに読者から忘れられ、アクセスが減る。
わかってはいたのだが、このところ身辺超忙しく、思うに任せなかった。
今日やっと、向こう1週間ほどの目星がついたので、取り敢えずどんなに小さな出来事でも、短いブログの材料にして書いてみたいと思った。
さて、去る6月23日の日曜日にカトリック教会では「キリストの聖体」の祭日が祝われた。その日、世界中のカトリック教会では子供たちの初聖体の式を行う習慣になっている。聖体というのは、ミサの中で聖別されキリストのからだと血に変わったパンとぶどう酒のことで、この日、子供たちは初めてキリストの聖体をいただくのだ。パンとは名ばかりの白い紙みたいな「しるし」の見えないもので済まさず、パンは実際に手で焼いたパンで、ぶどう酒も金の杯からたっぷり一口、秘跡の「本質」と「見えるしるし」がしっくり調和した形の「聖体」をいただく。
今年、わたしから初聖体を受けたのは、4人の子供たちだった。男の子2人、女の子2人。
女の子は白いドレス。男の子はネクタイや蝶ネクタイを締めている。
前列の初聖体を受けた4人を中心に
両親や代父母やお友達とケーキの前で記念写真(左寄りの黒シャツに白髪がわたし)
わたしたちは、その式を土曜日の晩に祝った。え?なぜ日曜日ではないの?と不審に思われる方がおられるかもしれないので、一応説明しておこう。
キリスト教の歴史はナザレのイエスの十字架上の死と復活の直後から始まった。紀元314年ごろコンスタンチヌス1世ローマ皇帝が洗礼を受けてキリスト教に改宗するまでは、キリスト教徒の群れはまだイエスが生涯その中に生きたユダヤ教の伝統をしっかり守っていた。
まだ皇帝の迫害下にあった教会では、成人の入信希望者は、カテケージスと称して、求道者の洗礼準備期間の教育を徹底的に受けて、入信(洗礼)前にすでに旧約聖書、新約聖書、福音的勧告の何であるか、人類の救いの歴史、旧約の「過ぎ越し」(エジプトの奴隷の状態から約束の地での自由な解放の状態への移行)、そして、キリストの苦難と十字架上の死と、復活の栄光への「真の過ぎ越し」についての理解を身に着け、それに伴う回心(生活の改善)を遂げた上で、晴れて洗礼を受け、信者の群れ(教会)に迎え入れられた。
だから、初代教会ではユダヤ教の伝統が良く守られていた。彼らにとっては、一日は日没の頃から始まり、次の日の日没までと考えられていた。初代教会のキリスト教徒にとっては、週の初めの日、太陽の日、日曜日、安息日、主の日は、わたしたちの現代の生活感覚から言えば土曜日の日暮れからすでに始まっていた。日付が変わるのは夜中の12時ではなかったのだ。正確な時計が普及していなかった時代には当たり前の話だった。
ところが、コンスタンチヌス大帝がキリスト教をローマ帝国の国教化して以来、様子が一変した。中世を経て我々に伝わったミサは、荘厳だがラテン語で意味が分からず、信者にとっては教会から課された退屈な習慣、参加しなければ罪になる「主日の義務」に堕してしまった。神父が大勢いた頃は、日曜は朝から立て続けにミサがあるのが普通だった。
1965年に幕を閉じたキリスト教会史上最大の改革、第二バチカン公会議が、主日、つまり日曜日のミサを土曜日の晩に祝うことを認めたのは、日曜日がゴルフやショッピングや娯楽で忙しい現代人に「主日のミサに与る義務」を土曜日の晩にさっさとかたずけて、日曜日は教会に煩わされることなく、丸一日を寝坊や気晴らしや娯楽に費やすことができるようにするため、ではなかった。
第2バチカン公会議は、初代教会の伝統に戻って、土曜の日が暮れて「主の日」が始まると、まずゆっくりと落ち着いて「主の過ぎ越し」、つまり「感謝の祭儀」、「主の日のミサ」をみんなで祝うことができるために、道を開いたのだった。それは「喜びであり、神への感謝の集い」であり、神への「賛美の捧げもの」を捧げる日にになるはずだった。ミサの中に「爆発する復活の喜び」、「こみ上げる賛美の叫び」を取り戻すためだった。
それは決して個人の世俗的な日曜日のスケジュールに合わせて、忙しくない人は朝寝坊して遅いミサに与り、世俗的な楽しみや仕事が詰まっている人は早朝のミサに与って、さっさと「主日の義務」を片付ける、という考え方に、さらに、「主日の義務」を土曜の晩のうちに済ませてもいい、というオプションを増やすため、日曜は丸々遊びか仕事に打ち込めるようにする、という世俗的な妥協に道を開くためではなかった。
第2バチカン公会議のこの大きな改革により、深夜0時に日付が変わるという世俗感覚に敢えて挑戦し、キリスト者は、初代教会の典礼的伝統に立ち返って一日の始まりを日没の頃と定めたのは、週の初めの日の夜のうちに、つまり、世俗の暦の土曜日の晩に、先ず第一に、イエス・キリストの「過ぎ越し」の「ミサ」を心を込めて祝うこと、魂を込めて「キリストの復活」と「永遠の命への希望」を喜びと神への感謝のうちに祝うことに再び道を開くためだった。
ところが、教会による説明と教育が足りなかったために、10億以上のカトリック信者は、上から下まで、公会議のこの改革をこぞって誤解して、教会の世俗主義へのさらなる妥協、譲歩と考え、日曜日に「主日の義務」を果たすことに困難を感じるものは、土曜日の晩にミサに与ることによってそれに替えることができるよう、選択肢を増やしたのだと理解してしまった。
世俗化が進み、日曜日は安息日、仕事をしないで神を賛美する日、というキリスト教的伝統は地上から消えてしまった。日本には始めからなかった。また、カトリック信者にとって、日曜日のミサは面倒な「義務」になってしまった。義務を果たさなければならないのなら、せめてその選択肢は多い方がいい。意味も分からない、特に喜びも感じないただの「義務」なら、なるべく簡単に片付けて、早く解放されて休むなり、楽しむなりするのがいい、という安易な考えに流れるのも自然の成り行きだった。
それでも、私の少年時代、青年時代は、教会にはまだ人がいっぱい集まってきた。クリスマスや復活祭には通路に立ち見の信者があふれていた。それが半世紀後には見るも哀れな閑古鳥の鳴く状態に立ち至った。
今では、名簿上の信者の10人に1人が教会に来ていれば多い方になってしまった。イタリアでも、ヨーロッパのどこへ行っても、50歩100歩の有様だ。しかも、最近では、自分のその日の都合に合わせて、好きな時間にミサに行けばいい、という贅沢な時代でもなくなってきた。司祭の高齢化と召命の枯渇で、一人の司祭が幾つもの教会を掛け持ちしなければならなくなった。毎日曜にせめて一回ミサがあるとも限らなくなった。土曜の晩にミサを出来る司祭はほとんどいなくなった。気がついたら、義務を果たす機会が限りなく少なくなってしまっていたのだ。今や、教会は緩やかな自然死、安楽死への道をたどっていると言っても過言ではない。それも日本だけではない。ナザレのイエスの天の父なる神はどこかに置き忘れられ、世俗主義とお金の神様の前に全身全霊を傾けて跪く風潮が世界中で勝利を収めている。信者の心はすでに教会から離れているというべきではないだろうか。
おやおや、初聖体の報告のつもりが、話はあらぬ方向に展開してしまった。
それはともかく、上の写真の子供たちは、思春期の困難で誘惑的な時期を乗り越えて、立派な大人の信仰を守り続け、キリストの福音を世に伝える逞しい信者に成長していくだろう。
彼らは、この初聖体の晴れやかな感動的祝いの夜のミサの思い出を生涯忘れないだろう。避妊や産児制限を正しいとしないカトリック教会の教えに忠実に5人、8人、10人以上の子宝を神の手から寛大に喜んで受け取り、大家族を営み、多くの立派な信者の子孫を世に送り出すだろう。教会の発展と希望はこの子供達にかかっている。かれらはきっとその期待に応えてくれるにちがいない。
(終わり)