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シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》 (完)
= ブダペスト編 =
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ドイツのシュヴァルツヴァルトを源流とするドナウ川は、ここハンガリ―の首都ブダペストを
西岸のブダと東岸のぺシュトに分けながら、黒海に注ぐヨーロッパ第二を誇る雄大な河川だ。
1858年創設のハンガリー国立歌劇場。 グスタフ・マーラーが音楽監督を務め、黄金時代を築いた。
以後、リヒャルト・シュトラウス、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤンなども客演指揮を行っている。
初演された主な作品には、コダーイの歌劇 「ハーリ・ヤーノシュ」(1926年)などがある。
オペラハウスの入り口わきにはフランツ・リストの石像があった。
血統的にも、母語も、主たる活動地域もドイツであったにも関わらず、
リストはハンガリア人の魂を持ち続けた。
キコが今回の東欧シンフォニーツアーの最後の会場にこのオペラハウスを選んだのは、ドイツ、ポーランドなどに並んで
ナチスドイツのユダヤ人迫害の激しかったハンガリーの歴史を意識してのことだったろう。
スティーヴン・スピルバーグ監督による1993年のアメリカ映画、『シンドラーのリスト』は日本でも有名になり私も見た。この映画は、第二次世界大戦時にナチスドイツによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が東欧のドイツ占領地で進む中、ドイツ人実業家でナチス党員のオスカー・シンドラーが、始めは自分の商売の利益が目的だったとは言え、1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で絶滅収容所送りを阻止し、その命を救った実話を描く。
杉原 千畝(すぎはら ちうね)は、日本の外交官だったが、第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していたとき、ナチス・ドイツの迫害により欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くが、ユダヤ系であった。海外では、「日本のシンドラー」 などと呼ばれることがある。
同様に、スウェーデンの外交官、実業家のラウル・グスタフ・ワレンバーグは、第二次世界大戦末期のハンガリーで、迫害されていたユダヤ人の救出に尽力し、外交官の立場を最大限に活用して10万人にもおよぶユダヤ人を救い出すことに成功した。
アウシュヴィッツに到着したハンガリーからのユダヤ人達
ハンガリーにはブダペスト郊外の他、少なくとももう1か所の強制収容所が存在したようだが、ここでは
ハンガリーで捕らえられたユダヤ人の多くがアウシュヴィッツなどの絶滅収容所に送られた事実を記すにとどめ、
早速演奏会に入ろう。
正面でロビーで開場をまつブダペストの紳士淑女たち。
廊下の壁にも天井にも大勢の芸術家たちの肖像がぎっしろ描かれていた。
観客席の天井は大きなシャンデリアとフレスコ画で飾られている。
ユダヤ教のラビの挨拶があった。
開演を待つ一瞬
最後のクライマックス。ヘブライ語で 《シェマー・イスラエル》 (聴けイスラエル) が歌われる時、
指揮者のパウがくるりと客席に向き直り、聴衆を唱和に誘うと、客席は総立ちになり、大合唱となった。
キコのシンフォニーが終ると、ユダヤ教の会堂のプロの歌手が、ここでも
ホロコーストの犠牲者を偲ぶ《哀悼の歌》を切々と歌い上げた。
オペラハウスのボックス席の紳士淑女も皆それに聞き入った。彼らは、服装からしてブダペストの社交界の星たちだと察せられる。
共産主義の支配を潜り抜けて生き延びたユダヤ人たちは、古き良き時代の伝統を失わずにいたのだろうか。
私もボックス席の一つから見守った。このオペラハウスのクラシックな雰囲気は、ニューヨークのエイブリ―・フィッシャー・ホールも
ボストンのシンフォニーホールもシカゴ交響楽団の本拠地もはるかに及ばな深いい味わいと輝きと落ち着きを保っていた。
野外大コンサートも悪くはなかった。しかし、クラシックなオペラハウスの雰囲気とは全く比べものにならない。
潮の退くように聴衆が場外に去った後、舞台の上のキコが、「おーい、日本人。記念写真だ!」と叫んだ。
私の事である。私はこのツアーでは楽器をやらない、コーラスでも歌わない。それなのに、キコは私を連れて歩く。
ツアー専属カメラマンなら別にプロが居るではないか。では何故?
それは、将来、日本にシンフォニーを持っていくときによく働けるよう、経験を積ませるためだろうか?
素人の私がいつもカメラを手放さない事を彼はよく知っていて、こんな時におどけて私を引っ張り出したというわけだろう。
キコは、顔が識別できる範囲では真ん中よりやや左、長い髪の女性の斜め右後ろ二人目に納まっている。
奥行きが深いのに広角で撮ったので、コーラスは豆粒よりも小さくなってしまった。ああ、失敗、失敗!
明けてローマに帰る日の朝、お世話になった教会の周りを散歩した。
ライラックの花が強い香りを放っていた。
おや?教会の前庭にヒョロリとした銅像があった。金色の三重宝冠は教皇の被り物のはずだが・・・
「教皇シルウェステル2世1000年記念」と読めた。はてな?1000年前にハンガリー人の教皇がいたっけか?
帰って調べてみたら、教皇シルウェステル2世(999-1003)はフランス人だった。彼はハンガリーの首長イシュトヴァーン1世をカトリックに改宗させてハンガリー王冠を授け(1000年)、東欧のカトリック教会を組織した、となっている。考えてみると、ここ数百年、教皇と言えば決まってイタリア人だったが、教皇ヨハネパウロ2世(ポーランド人)、教皇ベネディクト16世(ドイツ人)、そして今の教皇フランシスコ(アルゼンチン)と、このところイタリア人以外の教皇が相次いだ。カトリック教会のグローバル化の表れとして、歓迎されるべきことではないだろうか。
(東欧シンフォニ―ツアー 終わり!)
付記: 日本ではユダヤ人の存在が集団として目立つことはかつて無い。ナチスドイツの同盟国でありながら、
ホロコーストの事実はなかったし、杉原千畝の例にもある通り、むしろユダヤ人に対しては同情的であった。
では、もしキコが日本でも 《シンフォニー「無垢な魂たちの苦しみ」》 の演奏を望むとすれば、それは何故だろう。
広島、長崎の原爆犠牲者はクラシックな例だが、福島の原発事故の被災者の苦しみは過去の問題ではなく、
現在と未来何世代にわたる問題だ。格差社会の底辺に切り捨てられ、奴隷的労働に喘いでいる人達の苦しみ。
堕胎で日の目をみなかった声なき無数の命と、その数だけ地獄を見てきた母親たちの魂の罪責感・・・。
《今日の繁栄を生むための犠牲に闇に葬られた何千万の無垢な魂たち=日本のホロコースト=》
憐れにもお金の神様の奴隷として使役される苦しみ。それらの闇に沈んでいる1億2500万の日本人の魂に、
何か希望と喜びのメッセージを伝えたいという思いに駆られてのことではないだろうか。
死ですべては終わらない!
復活と永遠の生命の希望に満ちた喜びと愛のメッセージを全ての日本人に届けたいからではないだろうか?
私はキコに 少なくとも、東京、広島、長崎、福島 でのコンサートを提案したいと思っている。