:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 泰阜村「カルメル会修道院」縁起(そのー2)

2023-11-27 18:04:56 | 私的なブログ

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泰阜村「カルメル会修道院」縁起(そのー2)

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公道から修道院へ入る道

 

私がこの修道院の客室に泊まって一連のブログを書き始めたわけは以下のとおりだ。

 

客室の窓からの信州の山並み

 私が司祭としてなおローマで神学の教授資格を取得するために大学院に残り、やっと日本に帰ってきたとき、当時の深堀司教様は私のために高松市内で司教館のある桜町教会に次いで大きな番町教会の主任司祭のポストを用意して待っておられた。

 これは、叙階されたばかりの新任司祭にとっては異例の待遇だったが、その背景にはこの教区特有の事情があった。話は司教区の誕生物語にさかのぼる。

 四国4県が大阪教区から分離独立して新しく高松教区が誕生したときの初代司教は田中英吉司教でその下に4人の日本人教区司祭がいた。田中司教が引退した後には、 事が順当に運べばその4人の一人が2代目の司教に選ばれるという期待が高まっていた。そして、すでに問題の焦点は4人のうち誰が司教に選ばれるかに移っていた。そして中でも番町教会の I 神父が、選ばれるなら自分だと自負していた。

 ところが、ローマは期待に反して、4人とほぼ同期の福岡教区司祭の深堀敏を横すべりさせて高松の新司教として任命した。この人事には4人とも釈然としないものがあったようだった。だから、深堀司教が赴任してくると、4人の司祭たちは着座のお祝いの席で「ようこそ深堀司教様。歓迎のごあいさつとして申し上げます。当高松教区にはすでに4人の司教がおることを夢お忘れになられませんように」という棘のあるものだった。

 そういう事情の教区とは夢知らない私が、新任の司祭としてローマから帰ってきた。4人の司祭のうち一番実力のある I 神父は、当然のことながら私を自分の配下の助任司祭として迎えて鍛え上げ、こき使うつもりだったのに、深堀司教はその I 神父を主任の座から降して幼稚園の園長にして、私をいきなり番町教会の主任司祭の座に据えたのだから、 I 神父は怒りではらわたが煮えくり返ったに違いない。

 しかし、そんなことは全く意に介さない元銀行マンの私は、 I 神父の目の前で着任早々教会の大改革に手をつけた。I 神父のもとで長い冬の時代を耐えていた信徒たちは、まるで春が来て氷が解けたように生き生きと活動を始めた。若い求道者が集まった。その中にたまたま一人の OL さんがいたー仮にO さんと呼ぼうーO さんは自分の父親の顔を知らない捨てられた母子家庭に育ち、水商売をしながら派手な生活を送っていた。母親とは折り合いが悪く、稼げるようになるとすぐ母親を捨てて独立し、自由奔放な生活を楽しんでいた

 私は、彼女の奔放な生活の一面に一抹の危惧を抱いた。彼女が洗礼を受けると、その生活の改善のために気を配り、普通の神父ならしないようなあらゆる手を使って信者としての真っ当な(?)道へ誘導しようとした。そして、彼女も私の勧めに従って聖人伝などの信心書をむさぼり読むようになった。

 そんなところに、馬場神父提供の土地に泰阜村の修道院が誕生したのだった。

 

修道院の隣に立つ故馬場神父の庵の茶室にはすぐにでもミサができるように準備されたままだった

 貧しい中で娘を厳しく育てた母に反発して一人で生活を楽しんでいたO さんは、私の勧めもあって、シスターとして入会を希望するようになった。新設の修道院にとっては期待される最初の入会志願者でもあった。

 2、3度修道院を訪れ、ついに入会を前提にした短期院内生活を経験するところまで進んだ彼女だったが、その体験期間の終わりに突然一つのはっきりした内面的照らしを体験した。それは、神様からの声のようだった。「あなたの召命は修道女になることではありません。この世で義絶している一人ぼっちのお母さんと和解し、お母さんを最後まで看取ることこそ貴女の召命です」と告げられたように思った。修道院にとっても彼女自身にとっても想定外の展開だったが、後ろ髪をひかれるような気持ちを抑えて、彼女は修道院を去った。

 母も娘もともに気性が激しく、一緒に住めば悪口雑言の喧嘩も絶えない中、彼女は新しい召命に忠実に、働きながら、次第に老いていく母親を見護り、養い、世話をした。まだらな痴呆も始まり、徘徊を繰り返し、警察のお世話になり、最後には大小のものを部屋中に垂れ流す後始末に追われる壮絶な生活が続いた。度々家の中で一緒に夜を過ごすことが難しくなり、彼女は車の中で寝る日々もあった。書けば立派に一冊の本になる、と彼女は私に言った。

 母親の心臓の傍に大動脈瘤が見つかった時は、私と相談した上で、そのまま放置して早死にさせるより、母親の生命力に賭けて大手術をし、一日でも長く生かす道を選んだ。

 手術は成功し、彼女の悪戦苦闘の日々はさらに続くことになった。しかし、彼女はすべてに耐え、最後のぎりぎりまで自分の手で母親を見守った。

 そうこうするうちに、まだらボケの合間に、フト正気に返った母と娘の間には徐々に貴重な心の通い合いがみられるようになり、彼女は母親の壮絶な生き方の中にも娘への愛とひたむきな思いがあったことを知るようになった。彼女はぼけた母親にも洗礼を授けることを私に願った。

無事に見取った後には、彼女は母親のことを隠れた聖人ではなかったかと述懐するまでになっていた。

 そしてこの度、晴れて「ここで悟った私の召命の誓いを、最後まで全うしました」という報告をしに、私と一緒に泰阜村の修道院を訪問することになった。

 

新院長と話す O さん

 

 彼女がアスピラント(見習い修道女)としてここで過ごした頃の修道院長様は、今は修道院から車で15分ほどの田舎の行き届いた老人施設で余生を送っておられた。私たちは新しい院長様に案内されて元院長様を施設に見舞ったが、コロナ対策のビニールのカーテンの向こうの車椅子に座った幼子のような透明な微笑みのお姿と涙の対面となった。

優しく話しかける元院長さま

 O さんは、東京から天竜川沿いの泰阜村までの長距離運転をためらう高齢者の私に代わって、車を運転して連れて行ってくれた。彼女の愛犬ルカちゃん( ゴールデンレトリバー種の大型犬)も連れてのドライブだったが、新しい院長様に向かって「こんなに年をとった私でも、そしてメス犬のルカちゃん同伴でも許されるなら、今こそこの修道院に入会したいわ」と叶わぬ願いを伝えて甘えていた。

 

可愛いルカちゃん

 私は私で、初対面の新しい院長様といろいろ話し合った。馬場神父と初代院長との蜜月関係は長く続かなかったようだったこともわかった。馬場神父には土地の提供者として、修道院のパトロンのような立場から修道院の運営にいろいろ口を出す権利があるという思い込みがあったようだ。それは毎朝のミサの説教の中にもにじみ出た。しかし、前院長はその恩義を忘れたわけではないが、修道院の責任者として、創立者の会則に忠実に外部の干渉を排して姉妹たちを指導する立場を守ろうとした。

 馬場神父には彼に思いを寄せた女性がいた。彼女はこの修道院に入会した。しかし、馬場神父との絆は切れず、会の中での共同生活にまで波紋が起きた。世俗にいた時の人間関係にけじめをつけて、神のみに仕えなければならない建前と、毎朝ミサで顔を合わせる神父への思いとに引き裂かれ、ある日彼女は馬場神父の庵の前に立つマリア像の足元で自死してしまった。私は、馬場神父の葬儀の後、彼の牛乳瓶の底のように度の強いド近眼用メガネなどの遺品を、シスターたちの見守る中で、そのマリア像の台石の下に埋めた。

マリア像の台座石の下に私は馬場神父の遺品を埋めた

 

 四国4県は大阪教区から分離独立して高松教区となったが、教会の教勢の衰退とともに、来年3月には一つの教区としては消滅し、新生大阪教区に吸収合併されるという発表がローマからあったのは数カ月前のことだった。もう高松教区に司教が生まれることはない。

 カルメル会の西宮修道院が相次ぐ若い入会者を迎えて大きくなり、泰阜村に分蜂して修道院を開いたころは、まだ日本のカトリック教会が短期間にこんなに衰退することになることを予測する人は少なかった。

 しかし、昨今の司祭、修道女の召命の減少は決定的になってきた。今全国に9か所あるカルメル会の女子修道院は早晩合併縮小を余儀なくされ、いくつかの修道院は閉鎖される運命にあるという。泰阜村の修道院は今9名で、分蜂して開かれた時から増えていない。初代院長様は今養老院生活。院内に留まっている姉妹の一人も高齢で車椅子生活。若い修道女も入ってきてはいるが、全体として昔日の面影はない。

 私は泰阜村の修道院の客室で書いた「修道院縁起」の後半を、いまこうしてローマの宿で書いている。ローマ時間で明後日には成田行きの便に乗る。

 なぜ、いま突然ローマにいるかは、次のブログに書くことになるだろう。

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★ 長野県泰阜村「カルメル会修道院」縁起

2023-11-16 00:00:01 | 私的なブログ

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長野県泰阜村「カルメル会修道院」縁起

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在りし日の馬場神父 納骨堂の写真

 馬場清神学生は、後に東京教区の補佐司教になった森一弘神学生とは別な意味で忘れられない親友だった。

 大阪府の地方公務員で労働組合の闘士だった彼は、九州の三井三池争議の応援ではストライキの座り込みの先頭にたって警官と渡り合った猛者だった。それが回心して上智大哲学科の教室では大阪教区の神学生として私と机を並べることになった。

 60年代にパリ大学に始まった学生運動の嵐は、昨今のコロナ旋風のように地球を駆け巡って日本にも及び、上智大学の神学部も無関係では済まなかった。司祭の卵の養成を巡って神学生たちは立ち上がった。するとこんな暴力神学生の世話はまっぴらゴメンととばかりに、イエズス会は神学校から手を引き、その運営は司教団の手に移った。多くの神学生が旧態然とした神学校の現状に抗議して暴れ、「神父になるのは辞~めた!」と言って、神学校に後足で砂をかけて出て行き、仕事について結婚し、その結果司祭の志願者数は激減した。そんな中で、馬場神学生は、しぶとく大学に残り、司祭養成課程の単位を全部履修し終えた。

 識別と判断能力を欠いた神学校の養成者たちは、そういう爆弾を抱えた神学生でもトコロテン式に司祭として叙階するしか能がなかったようだ。

 旺盛な正義感と反抗心を絵に描いたような危険極まりない野生の馬場神父とその仲間たちは「雑魚」(ざこ)というグループを結成した。雑魚とは、タイやマグロのような高級魚ではないが、骨が固く尖っていて、あなどって迂闊に吞み下すと喉に引っ掛かって酷い目に遭う羽目になる魚のことだ。

 その危ない「雑魚」の連中が X 神父裁判事件で大司教を向こうに回して原告の支援に回った。当時、X  神父(板倉神父)は大阪の田口大司教の教会運営の非を厳しく批判して小冊子をばらまいた。そしたら大司教は X 神父を幼稚園の園長職から解雇した。X 神父はそれを不当解雇として大司教を訴えた。その支援に回った「雑魚の会」の若い神父たちは、たちまち大司教から干されて教区外に飛ばされた。馬場神父と A 神父は障害者の夢のコロニー「あかつきの村」の設立趣意書を持って、支援を求めて全国の自治体を行脚した。私も賛同者の多様性の一翼を担って国際金融業を代表して趣意書に名を連ねていた。

 しかし、彼らがスポンサーの自治体を見つけるのを待たずに、私はコメルツバンクの社員としてドイツに赴任した。そして3年余りして帰ってきて「おーい!馬場ちゃんは今どこにいるー?」と叫んだら、遠く泰阜村の方角から「ここだよー!助けてくれ~!」と声が返ってきた。

 取るものも取り敢えず、飛んでいくと、彼は朝から大酒喰らって布団をかぶってふて寝していた。

 彼の話を要約すると、スポンサーを探して全国を行脚している間は彼とパートナーの A 神父との仲はすこぶる良好だった。泰阜村の村長さんは主意書を見て、この奇特な青年たちはカトリックの神父だ。カトリックは世界の大宗教だ。つまり、信用度において右に出るものは無い。この過疎の泰阜村にようこそ。この土地をタダで提供する。農協からは要るだけの金を借りてもらって結構。夢と未来のある実に素晴らしいい企画だ。大いに頑張ってくださいと、とんとん拍子に話が進んで具体化した。こうして、「暁の村」プロジェクトは順風満帆の船出をして障害児たちも集まった。

 ところが、金回りはよく、事業も安定すると、いろいろな人間の個性や欠点が頭をもたげるのは世の常だ。

 専ら神様の方に目を向ける理想主義者の馬場神父と施設運営の現実に神経を注ぐ A 神父との仲がぎくしゃくし始め、先に我慢が出来なくなった A 神父さんが、ある夜、障害児を連れてこっそり夜逃げしてしまった。馬場神父が朝目覚めると、誰もいない。村に出てみると、人々の目は昨日までと一変して、冷たい刺すような視線を彼に向ける。逃げた神父らは村を去る前にさんざん馬場神父の悪口をばらまいて彼を悪者に仕立て、借金は全部彼の背に負わせて行ってしまったらしい。プロジェクトは壊滅し、農協の借金を返す当てはなく、さりとて、責任感の強い馬場神父は彼らの後を追って村を逃げ出すこともできず、身動きの取れない自暴自棄の中で酒を食らってフテ寝するしかなかったのだ。見ると縁の下には一升瓶の空き瓶がごろごろしていた。

 「どうした?」「どうしたらいい?」と聞くと「金だ!」「金がないから首が回らない!」という。ドイツ帰りの銀行マンの私は幸い潤沢な金を持っていたので、借金は何とか返済された。

 やっと一息ついた馬場神父は、村から貰って今は自分の名義になっていたかなり広い土地を一人で黙々と耕し、無農薬野菜を育て、収穫物は段ボール箱に詰めて友人知人にめくら滅法タダで送りつける。無論、お礼の手紙と金一封の寄付を期待してのことだが、ただの野菜を送りつけられた側は、苦笑しながらも支援金を送る。こうして馬場神父は少し立ち直った。

 一方、ドイツから帰ってきたばかりの私はちょっとした有名人になっていた。

 ローマで知り合った毎日新聞の特派員の西川さんが、毎日新聞の夕刊一面トップ半ページを割いて、ひげ面の私がイタリアの共同体でミサをしている写真入りでバンカー(銀行マン)から転職した異色の神父として紹介したからだ。そしたら、後追いで「週刊東洋経済」が「人生二毛作」という連載に3号にわたって私の記事を書いた。産経新聞もその他のメディアも私を取り上げた。あちこちから講演会を頼まれた中で、西宮の女子カルメル修道会の院長様からは、シスター達の黙想会の指導司祭として招かれた。その時、私は院長様から相談を受けた。カルメル会の創立者の大聖テレジアの書いた会則によれば、ある修道院に新入会員の召命が相次いで人数が一定の数を越えると、分蜂して新しい修道院を開いて別れることになっている。

 そして、今の時代には珍しく西宮の修道院に入会者が相次ぎ、しばらく前からその決められた数を超えて30人近くに達していた。「しかし、会員の姉妹たちの間では意見が二分して纏まらない。会則を順守して分かれるべきだという声と、今は一時的に超えているが召命が途絶え高齢の姉妹たちが相次いで天国に旅立てばたちまち数を割り込むから慎重に様子を見た方がいいという声が拮抗している。神父様はどう思われますか?識別してください。」ときた。私の返事はもちろん決まっている。「将来のことは神様に委ねて、今は会則を守って修道院を分割すべきでしょう!」と言うと、どうやら院長様の心は決まったようだった。

 そこへ阪神淡路大震災が阪神圏を襲った。大阪教区の教会・修道院は軒並み多大な被害を受けた。教区から追放された流浪の身とはいえ、馬場神父は大阪教区の司祭だ。心配して八方電話を掛けるが、災害の混乱の中、回線が寸断されてなかなか電話が通じない。たまたま西宮のカルメル会の修道院と電話がつながった。「如何ですか?」という馬場神父の見舞いの声に、「聖堂の屋根が壊れ、修道院は大被害、助けに来てください」「ではすぐ参りましょう。待っててくださいね!」となって、馬場神父は軽トラックにスコップや大工道具やブルーシートに食糧まで積み込んで被災地に向かった。道路寸断の中、苦労をしてカルメル会の修道院に辿り着くと、男手がなくて難儀していたシスターたちからは大歓迎を受け、早速働き始めた。壊れた聖堂の中には、亡くなった近隣の人々の棺がいくつも仮安置されていた。馬場神父はその被災者たちを助け、棺の番をし、祈りを捧げて日を過ごしていた。

 災害後の混乱の中ではあったが、馬場神父の親友の谷口神父が修道院の分蜂に賛成だと言う話は聞いただろう。そこへ、亡くなった被災者のある遺族からは大変お世話になったからと、カトリック信者でもないのに大金の遺産の寄付の申し出が修道院にあった。そのことを知った馬場神父の頭には、修道院を建てるのなら泰阜村から貰った土地があるからそこを使えばいい、というアイディアが閃いた。

 谷口神父は分蜂を勧める。土地は見つかった、お金も降って湧いた。3拍子揃って、新修道院の設立の話はにわかに現実味を帯びることになった。そして新しい修道院が誕生した。

泰阜村の修道院の門柱

 あれから20数年の歳月を経て、私は今、その泰阜村のカルメル会修道院の客室に泊まりこのブログを書いている。どうして今、私がここに泊まっているのかについては、次のブログに譲るとしよう。

修道院のお告げの鐘と十字架

(つづく)

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