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画家キコの新しい作品
「新求道共期間の道」活動50周年に寄せられた教皇フランシスコのことば
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先週の土曜日の晩、感謝の祭儀(ミサ)のあとでこの写真のようなカードが配られた。キコの最近の作品の写真の裏に、教皇フランシスコのことばを添えたものだ。
西洋医学の解剖学的な知識に裏打ちされたデッサン技量という観点から言えば、表面的にはミケランジェロに劣ると言われても素人の私は敢えて反論しない。そして、この絵を模写しろと言われたら、不肖この私の絵心でもかなりいい線を行く自信もある。まして、ビザンチンの修道院のイコン画作家たちなら、寸分たがわぬコピーを描き切るだろう。現に、キコ自身、大勢の器用に職人技を磨いた弟子の画家集団を抱えている。そのチームに手伝わせて、キコはローマの神学院の聖堂に、バチカンのシスティーナ礼拝堂正面のミケランジェロの「最後の審判」の壁画よりもさらに大きな壁画を描き上げた。
しかし、彼の絵は単なる写実画とは違う。実在のモデルを描くような写実性だけで他と比較できるものではない。彼のキリストの顔は彼の魂に映ったキリストの霊的な面影に創造的に形を与えたもので、ミケランジェロからは同じものは決して生まれない独自の霊的香りを伴っている。
キコはその絵の裏に教皇フランシスコの新求道共同期間の「道」に宛てられた言葉を各国語で印刷させた。その言葉は昨年の5月5日にローマで教皇フランシスコとともに世界120ヵ国から集まった20万人の道の兄弟たちが見守る中、ローマでの活動開始から50周年を盛大に祝って語られた教皇様のことばの一節だ。その集いには私も参加したが、その日の様子は下のURLのブログに詳しく書いた。
https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/c80ef4a2780a5b15df375a6c35d35827
教皇フランシスコは言われた:
親愛なる兄弟姉妹たち、あなた方のカリスマは、現代教会に与えられた神からの大きな賜物です。この50年間の故に主に感謝しましょう。この50年間のために拍手しましょう!また、神の父性的な、兄弟的な、そして情け深い忠実さを見ながら、決して信頼を失うことがないように。彼ご自身が、愛する弟子のように、あなた方を謙遜な単純さとともにすべての国民のもとに行くよう駆り立てられるその時、きっとあなた方を守ってくださるでしょう。わたしもあなた方に伴い、あなた方を励まします。前へ進みなさい!そして、どうかここに残るわたしのために祈るのを忘れないでください。
教皇フランシスコは、今日では世界中に展開している新求道共同体を賞賛し、保護し、推奨されている。教皇によって日本に送られ、日本で福音宣教に邁進している兄弟たちにもこの言葉は贈られた。現教皇だけではない。第2バチカン公会議終了以来、パウロ6世から始まって、聖教皇ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世も、全ての教皇様が一貫して評価し、推奨してきたこのカリスマが、恐らく世界で唯一の例外として、日本の教会に限って、挙げて一体となって、圧迫し、禁止し、あたかも教会の教えに反する悪しきものであるかのように宣伝されるのは何故だろうか。しかも、教会の片隅から、あるいは底辺から泡沫的にではなく、何となく日本の教会の中枢部から、上層部の奥の方から、組織的にそのような操作が行われているような空気が意図的に醸成されているかのような印象を受ける人が決して少なくないように思われるのはどうしてなのだろうか。
我々末端の信者たちは、何も知らない、知らされていない、判断の材料を持たない、その重苦しい空気を日々呼吸する以外に選択肢がない。陰湿な閉塞感が日々漂っている。
私はかねてから、これは信仰の問題ではなく、教義の問題でもなく、世界の教会のことでもなく、日本のカトリック教会という閉鎖的なローカルな村社会の中で何時の頃からか密かに醸成されてきた宗教的イデオロギーの問題ではないだろうかという疑念を抱き、これまでいろいろな角度からブログのテーマに託して繰り返し問題提起してきた。
それ、-つまりこの宗教的イデオロギー-は、世界のカトリック教会の2000年の普遍的な、正当な、教えの王道に合致するものなのか、例外的で問題の多い、偏った、危うい性格の傾きを内包するものなのか、あらためて冷静に注意深く分析し、識別される必要のある問題ではなかろうかと思っている。