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フランシスコ教皇の「説教は10分」発言
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私が神戸のカトリック神戸中央教会に赴任して3か月が過ぎた。身を小さくしてスムースに溶け込むことに気を使ってきた。
カトリック神戸中央教会の聖堂
しかし、まもなく一部の信者さんから、今日のお説教は心に残った、とか、神父さんの話は具体的でわかりやすい、とか言って声をかけてくれる信者さんがちらほら。ああ、少しずつ受け入れてもらえているな、と思った。
ところが、一呼吸おくれて、神父、お前の説教は長すぎる、というお小言も届き始めた。私の説教はほぼ15分、たまに長くても20分を超えることは稀なのだが・・・?
とにかく、私は30年間神父をしてきたが、小教区教会で日曜のミサの説教が長いと言って信者さんから苦言を呈されたことは一度もなかったので、ひどいショックを受けた。
しかも、その苦言の理由が振るっている。教皇フランシスコが「説教は10分にしろ」と発言されたから、というのだ。そこには有無を言わさぬ高圧的な響きがこもっていた。しかし、牧者の本能的嗅覚には、それを持ち出して神父の説教を抑え込もうという別の魂胆が見え隠れして気になった。それで、いつどういう文脈でフランシスコ教皇はそのような「10分」発言をしたのか教えてくださいとお願いしたら、間髪を入れずメールの添付ファイルで教皇の発言を裏付ける文章が送り付けられてきた。2018年2月7日の教皇一般謁見で語られた言葉の中に確かに「10分」とあった。しかし、それを前後の文脈の中で落ち着いて読むと、印象は全く違うものであった。
文字通り引用しよう。「説教の間に寝ていたり、私語をしたり、外に出て煙草を吸ったりしている光景を幾度見たことでしょう。ですから、どうか説教は簡潔で、しっかり準備されたものにしてください。司祭、助祭、司教の皆さん、それではどんな準備をすべきでしょうか。祈り、み言葉を学び、簡潔で明快な要約を作って準備するのです。どうか、10分以内の長さにしてください。」
仮に翻訳が原文のニュアンスを正しく伝えたものであるとして、じっと眼を据えて行間を読むと、この「10分」発言の背後には、「説教の間に寝ていたり、私語をしたり、外に出て煙草を吸ったりしている」信者には、どんなにいい説教をしても「豚に真珠」だ。10分以上する必要はない。だが、「祈り、み言葉を学び、簡潔で明快な要約を作って準備」されていないずさんな説教も聞くに堪えないから、我慢は長くて「10分」が限度だ、というフランシスコ教皇の真意が見えてくる。それには私も大賛成だ。しかし、信徒が耳を開いて傾聴し、司祭はよく準備された中身の濃いいメッセージを届ける場合は、何分以内でなければならないという絶対的な縛りはない、あってはならないと考えられる。そしてもちろん教皇も同意見だろう。その証拠に、教皇がすべての説教の絶対的、普遍的な規範として「10分」に拘泥していないことを明白に示す事実がある。カトリック新聞4725号によれば、今年6月12日の一般謁見で同じ教皇は前言を覆して、「8分以内にとどめるよう」促した、と報じている。長さは短くなったが、言いたいことは上と同じだろう。そして、その延長線上に、聞く耳を持たぬ信者とちゃんと準備されていない説教の組み合わせなら、「いっそのこと説教のないミサがうれしい」という教皇自身の本音に行き着くのだ(フランシスコ教皇、2018年2月7日の一般謁見より)。
教皇の一連の発言の関連で、私が敬愛してやまないイエズス会士ヘルマン・ホイヴェルス師の話を思い出す。
故郷ドライエルヴァルデの主任司祭の説教はいつも退屈で非常に長かった。それで、最前列のベンチに陣取ったシタタカなご婦人たちは、もううんざり、いい加減にやめてもらいたいという限界に達すると、やおらスカートのポケットからハンカチを取り出して、目にもっていき、そっと涙を拭くシグサをする。すると、勘違い神父は、今日も敬虔なご婦人方は自分の名説教に感涙を流しむせび泣いてくれた、と満足げに長説教をやめる。
少年ホイヴェルスはこのくだらない茶番劇から悟りを得て、自分が神父になったら、説教は必ず7分以内に収めると決心され、生涯それを守り通された。
ホイヴェルス師の時代に建てられた在りし日の懐かしい聖イグナチオ教会
聖堂の巨大さは真ん中の入り口に立つ人影から察せられる
東京の看板教会、四谷の聖イグナチオ教会の初代主任司祭で、晩年も生涯名誉主任司祭に留まられたホイヴェルス神父様は、ご自分が建てた1000数百人入る聖堂を満たす信者たちを相手に、超然と、飄々と、珠玉のような7分間の説教をされた。その内容は俳句のように簡潔で、選びぬかれた言葉も研ぎ澄まされ、神学的、哲学的、詩的に格調の高いお説教をされたが、その内容の深さを理解し、味わい、糧を得、感謝することのできる上質の魂は非常に限られていたと思われる。現に、聖堂の中にあふれた人たちにはあまりにも高尚で、短かすぎて、なにがなんだかあっという間のお説教で、そのあいだ入り口の外では、恰幅のいいお金持ちの紳士たちが、葉巻の紫煙をくゆらせながら、「やっぱり世の中はお金だね」と豪語しているのがいつもの光景だった。
そのホイヴェルス神父様は、7分の説教を準備するのに一時間かかる、しかし、一時間の説教の準備は7分で足りる、と意味深長な言葉を私に残された。それは今も心の中に木魂している。そして、凡庸な私の場合、15 分の説教を準備するのに1-2時間ではいつも足りないのが現実なのだ。
若いころの私は、四谷の9時のホイヴェルス神父様のミサで7分の説教と歌ミサの調べを味わうと、その足で隣の駅の近くの信濃町教会に行って、有名な福田牧師の1時間にわたる説教に耳を傾けるのを日曜日の日課にしていた。プロテスタント教会では日曜の牧師の説教は礼拝の中心であり命だ。信濃町教会は大学教授や外交官などのインテリ信徒が集まる教会で、私はそこでホイヴェルス師からは得られない満足を味わっていた。
話は変わるが、近年人里離れた感想修道女会に毎朝ミサをたてに来る司祭を確保するのが困難になっている。彼女たちの心の耳はいつも開かれている。彼女たちは、忙しいなか犠牲を払ってきてくれた神父に向かって「教皇様がお説教は10分」と言われました、もう10分を過ぎています、早く説教をやめてください、などと言うわけは絶対にない。彼女たちの魂は常に魂の糧に飢え渇いているのだ。
また、私はローマに生活した長い間、数万人の大野外ミサに参加したことがある。炎天下でも、有名な枢機卿の時には20分を超える説教を大群衆が聞き終えると、大歓声と拍手の嵐が鳴りやまない光景に遭遇したことが一度ならずあった。大群衆だから説教の間も立ち歩く者、私語をする者、居眠りをする者もいないわけではない。しかし、その説教には大勢の人の心を捉え、揺り動かし、回心に駆り立てる力があった。
いい説教には磨かれた鏡のような作用がある。その説教を聞く人は、そこに自分の本当の姿が映って見える。それを正視できない者は、その鏡を嫌い、何とか早く終わらせたい、できればその鏡を壊してしまいたい、という衝動に駆られる。だから彼らは、フランシスコ教皇の「説教は10分(または8分?、0分?)」を前後の脈絡から切り取って、金科玉条 のようにかざして向かってくるのだ。いつも付け足しに何か理由を陳べ立てはするが、本心はあくまで別のところにある。持ち出された問題など工夫すればすべて簡単に解決できるものばかりではないか。
ある信者さんが心配して言った。前にこの教会に信者に慕われた神父さんがいた。彼は時に痛いこともズバリと言われた。いい神父さんだったから追い出された。どうか、あなたもそうならないように気を付けてください、と。
旧約の預言者たちは殺された。イエス・キリストも十字架上で非業の死を遂げた。使徒たちもみな殉教した。良い牧者は羊たちを守るために命を捨てる。私もこの系譜に連なることができれば、神父冥利に尽きるというものだ。
現教皇フランシスコは、時々信者の心を分断する危ない発言をすることがあるようだ。「同性愛者の祝福」発言などもその例だ。その言葉は独り歩きし、教皇の望まない文脈で好き勝手に借用される危険がある。この「説教は10分!」なども同種のきわどい発言だと言えるのではではないだろうか。
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