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6月23日(日曜日)のミサの説教
カトリック神戸中央教会
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先ず、今日の福音を聞きましょう。
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。(マルコ4・35-41)
この嵐を鎮める話は、イエスが弟子たちを集め、例え話を使って教えを説き、病人を癒す奇跡をおこないながら宣教を始めてまだ数カ月の間の出来事ではなかったでしょうか。
イエスに召し出されて、弟子としての生活を始めてまだ間のないガリレア湖の漁師たちは、突然の自然の猛威を前に死の恐怖に駆られ、自然の神の怒りだと思って、先生のイエスに助けを求めます。自然宗教の日常的発想がそこに読み取れます。
人は、自然の脅威の背後に神の力を思い、その神を祀(まつ)るために神殿を建て、お供えをし、豊かな恵みだけをもたらし、禍は遠ざけてもらうためにたくさんお祈りをささげます。とは言え、みなそれぞれ日々の生活の営みに忙しいので、それらの祭祀を行う専門家の神官・僧侶を立て、お金を納めて儀式や祈祷を任せます。
弟子たちはこの一大事にのんきに昼寝をしているイエスをたたき起こし、海の神、風の神に祈ってなだめてくれること、率先して手あたり次第に桶や杓子を使って船の中の水をかい出し沈没・溺死から護ってくれることを期待したかもしれません。ところが、イエスは風を叱って、その一言で凪(なぎ)になったのです。
弟子たちは、イエスが普通の自然宗教の祭司とはどこか根本的に違っていると直感し、深い畏怖の念に駆られたに違いありません。
イエスはその後、3年間の弟子たちの教育を通して、アダムとエヴァが原罪の結果として人類に死を招き寄せ、天が閉じられたこと、そしてご自分の死にによって死を滅ぼして復活し、閉ざされていた天を再び開かれましたことを少しずつ悟らせていきます。
そして、「回心して福音を信じなさい」、「信じて洗礼を受け、古い人間に死に、罪を脱ぎ捨てて新しい命に生きなさい」、と命じられました。
昨日の土曜日(6月22日)に読まれたマタイの福音には、「あなた方は、神と富に兼ね仕えることは出来ない。」とあり、別の聖書の個所では、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」とも言われました。
イエスの死と復活、それに続く聖霊降臨の後、初代教会の信者たちは、回心して福音を信じ、復活を信じて洗礼を受け、死を恐れず、お金と皇帝に仕えることをやめて、教えられた通り福音宣教に励みました。
ローマ帝国の底辺で抑圧され絶望的な苦しみに喘いでいた貧しい人々は、イエスの全く新しい「福音(よいしらせ)」に希望をつなぎ、こぞって回心してキリスト教を信じました。人々はもはや偶像の神々を拝まず、皇帝をも「生き神」として拝まず、天地万物の創造主の父なる神と、贖い主であり神である復活したキリストと、その聖霊だけを信じて、殉教を恐れず勇敢に信仰を証ししました。
ローマ皇帝にしてみれば、生かすも殺すも自分の思いのままにしてきた奴隷女にも等しい帝国の底辺の貧しい庶民が、自分に背を向け「キリストの花嫁」になって去って行ったような思いがしたことでしょう。もう自分を神として拝まない、もしかしたら税金も納めなくなるかもしれない、戦争になったら敵側に寝返るのではないかと考え、帝国の基盤が流動化するのを恐れ、何としてもそれをたたき潰すために迫害に狂奔します。しかし、復活を信じるキリスト教徒は死を恐れず、殉教者を尊び、ますます増えていくばかりです。
力でねじ伏せることが出来ないと悟った権力者が考えることは、いつの時代も同じです。「押してダメなら引いてみな」とばかりに、懐柔して取り込み、骨抜きにする戦略に転じます。
迫害はやめ、みずから進んでキリスト教に改宗し、貧しいガリレアの漁師たちだった無教養なキリスト教の祭司たちには、ローマの元老院の議事堂の壮麗な建物―バジリカ―を教会堂として与え、元老院の議員たちのきらびやかな礼服を祭服として着せ、宮殿に住むことを許し、豊かな富も与えました。
自分を捨ててキリストの花嫁になった奴隷女―つまり「教会」―を、伊達男(だておとこ)「キリスト」から奪い返し、自分の側女として手籠めにしようとした誘惑の手に、教会は実に弱かった。
キリストが「人は神と富に兼ね仕えることは出来ない」とか、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」とか、厳しく戒め教えられたにもかかわらず、教会は皇帝の側女の地位に身を任せ、こうして「聖」と「俗」が結婚してハネムーン状態になってしまったのです。
皇帝はキリスト教の迫害をやめ、神々の神殿を壊してその跡にキリスト教の教会を建てます。そして、そこにあった神々の偶像の代わりに十字架を立て、こうしてパックス・ロマーナ、「ローマの平和」が実現したのです。
そうなると、今まで皇帝を神として崇め、皇帝が拝むギリシャ・ローマの神々を拝むことによっていい目を見てきたローマの市民は、利に敏く風見鶏のように身を翻し、これからのご時世では、帝国でうまい汁を吸いたければキリスト教徒になるべし、とばかり、我れ先に洗礼を受けて教会になだれ込んできました。こうして短期間にローマ帝国はキリスト教化されていったのです。
しかし、これは、大問題です。何が問題かと言えば、キリストは「回心して、福音を信じなさい。信じて、洗礼を受けなさい。」とハッキリ言われたのに、コンスタンチン大帝の時代に教会になだれ込んだローマ市民は、回心していないのに、福音を理解し信じてもいないのに、自然宗教のメンタリティーは全くそのままに、形だけ洗礼を受け、名前だけキリスト教徒になったことです。
北イタリアのアドリア海に浮かぶヴェニスと、その先の国境の町トリエステとの中間に、アクイレイアいうローマ時代の港町があります。そこで私は不思議な教会の遺跡を見つけました。
双子のような教会堂が並んで建ち、その中間の中庭に8角形の洗礼堂がある。左側が「求道者の教会」、右側が「信者の教会」です。左の「求道者の教会」で時間をかけてしっかりキリストの福音をたたき込まれ、回心して生活の改善の証を立てたものだけが、中間の洗礼堂で水に沈み、古い罪の人に死んで、新しい人間―キリスト者―として立ち上がり、右の信者の教会に迎えられる流れ作業の仕組みです。
これが、初代教会のすがたでした。つまり、キリストの教えが純粋に守られていた時代、すなわち、人々が福音を文字通り信じ、心から改心して洗礼を受け、激しい皇帝の迫害の下にあった教会にあえて命がけで加入し、多くの殉教者を輩出していた時代の教会の姿です。
ところが、迫害が止み、皇帝と教会が結婚し、パックスロマーナの時代が到来すると、この「求道者の教会」が無用の長物として消滅してしまいます。そして、回心しないまま、福音を理解して忠実に実践することのないまま、ただ形だけ洗礼を受けて信者になる者たちで教会はいっぱいになってしまったのです。
天地万物の創造主である超越神、三位一体の神、人となった神の「みことば」―キリスト―を信じないで、自然界の神々を拝んでいた時と同じメンタリティーのままの十字架の御利益を拝む「自然宗教キリスト派バージョン」の教会の誕生です。そしてその状態は、多かれ少なかれ今日の教会にまで影を落としています。インカルチュレーション(キリスト教の土着化)のイデオロギーや、イタリアのアシジと比叡山とで交互に開かれた宗教サミットに代表される「諸宗教対話」などは、この「自然宗教キリスト派」運動の典型と言うことができるでしょう。
自然宗教のあられもない裸の姿は「お金の神様崇拝」の一語に尽きます。
せっかく、キリスト教に出会って、聖書を読んで、カトリック信者になったのに、実体としては相変わらずの「自然宗教キリスト派信者」のままで終わってはもったいなくないですか。本当の回心をして福音を信じる本物の「超自然宗教」の信者に一歩でも二歩でも近づくことのないまま死んでいくのでは情けなくなくないですか。あたら一回限りの人生を、キリスト教の包み紙にくるまれた自然宗教の信者で終わるのは、いかにももったいないと思いませんか。
「めくら」が「めくら」の手引きをしたら、二人ともお金の神様の偶像崇拝のドツボにおちてしまう(マタイ15:14)という、キリストの言葉があります。文字通りには、もうちょっと上品に「盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」とさらりと書かれていますが、意味は全く同じです。
信者さんが羊で神父が牧者であるというのであれば、たとえ多くの信者さんがまだ盲人のような自然宗教状態にあったとしても、牧者は決してただの盲人であってはならない、命がけでキリストの福音を説け、という厳しい戒めです。
七色の可視光線で見える世界は物質的な世界、お金の神様の支配するこの世の姿です。牧者は、虹色の可視光線の現象だけでなく、肉の目では見えない、霊の目でなければ見えない信仰の奥義をしっかりと見据えて、それをできる限りわかりやすく信者さんと分かち合わなければなりません。それは、自分も信者さんも一緒に同じ穴に落ちないために絶対に必要なことです。
ああ、もうそろそろ時間です。しかし、まだまだ話し足りません。
ミサの後に、場所を集会室に移して、話をもっと深く豊かに掘り下げて分かち合いたいと思います。御用とお急ぎでないかたは、どうぞお残りになって下さい。お茶を飲みながらゆっくり味わって余韻を楽しもうではありませんか。
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この日のお説教はこのように終わりました。
東京や神戸の夜空を見上げると、星の姿はまばらです。不夜城のような都会の虚飾の明かりが空中の塵に反射して遠い星の姿をかき消し、大気の揺らぎは星々をチラチラと瞬かせます。だから、そこに無数の美しい星雲(ギャラクシー)が蒔き散らされていることに人の思いははるかに届きません。
しかし、ハップル望遠鏡やジェームスウエッブ宇宙天文台のおかげで、私たちはこんなに美しく神秘的な渦巻き星雲が無数に存在することを知っています。
実は、この星雲の美しい姿は、七色に分光できる可視光線だけでは決して見ることは出来ないものです。人間の肉眼では決して見えない、赤外線、紫外線、X線などの幅広い波長でとらえた映像を重ね合わせ、合成し、それぞれに色を割り当て、輝きを添えることによって描かれた天体の姿なのです。
信仰の世界も同じです。肉の目で見える七色の光線の世界は、この世の世界、お金の神様が支配する世俗の世界にしかすぎません。しかし、信仰の世界、霊の世界、神様の世界は、肉の目ではなく、心の目、魂の目にしか見えない波長の霊的光に照らされて初めて見ることのできる世界であって、そこは神様の愛に満ち溢れた、隣人を己のごとくに愛する人々の交わりの場としての大宇宙なのです。