:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 第44回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」のご案内

2021-05-30 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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第44回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」のご案内

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ヘルマン・ホイヴェルス神父

皆様! 早いもので、私が「偲ぶ会」のお世話役を引き継いで、はや4年が経ちました。「継続は力なり」と申しますが、こうして続けていけるのは神様のお恵みです。

 昨年の 第43回 はコロナ第一波のあとにも拘わらず、期待以上の参加者を得て無事に開催出来ました。今年は緊急事態宣言の再延長下で、より困難な状態にあります。しかし、東京の感染者数は減少に向かいつつあります。私は司祭ですから、いざとなれば一人でも「追悼ミサ」は出来るのですが、出来ることなら今年も同じ思いの皆様とご一緒に捧げたいと願っています。

 幸い、四谷の主婦会館は、昨年に続いてこれ以上は望めないほど完璧な予防対策を実施して迎えてくれます。

 最近では、どなたもミサに与かれる機会が少なくなっているのではないでしょうか。こんな時だからこそ、ホイヴェルス師を偲び、コロナ禍の早期収束を願いながら感謝の祭儀に心を合わせて参加するのはいいことかもしれません。

 生前の師のお姿を覚えておられる皆さまはすでにご高齢ですが、ご両親やご親戚から「ホイヴェルス師から洗礼を受けた」とか、「結婚式を司式していただいた」などの話を聞いたことを懐かしく思い出される世代はまだ多くおられます。また、書物などで教会がまだ輝いていた頃の秀でた宣教師のことを聞き知って、心魅かれておられる方もおられましょう。

 ホイヴェルス師の面影を懐かしむだけでなく、往時ほどの活気が感じられなくなった今日の教会の問題点を探り、明日の教会への課題を真剣に考えてみたいものです。それがミサ後の「分かち合い」のテーマです。

 このごミサにはどなたでも参加できます。どうぞお誘い合わせの上ご参加下さい。

  なお、会場「プラザフェ」にはズーム発信の設備があります。コロナのために出席を躊躇われる方、あるいは遠方で出席が困難な方で、ズームなら参加したいと希望される方が多ければ、検討も不可能ではありません。希望者は、このブログの「コメント欄」に住所、氏名、お電話番号、メールアドレス、とともに、「ズーム参加希望」とを書いてお早めに投稿してください。人数がまとまれば主婦会館と交渉してみます。コメントはこの記事の下の灰色のスペースの右端に小さく青字で コメント とあります。(分からなかったら私のメールアドレス宛てでもいいです。)

 また、当日の主婦会館の「ミサ」と「分かち合い」に直接ご出席を希望される方は、同様に「コメント欄」などを使ってその旨ご連絡下さい。ソーシャルディスタンスを守って席を配置するうえで、場合によってはより広い会場に変更するなどのため、あらかじめ人数を概略把握しておく必要がありますので・・・。

 はじめての方、老・若どの世代の方も歓迎されます。ブログ『〔続〕ウサギの日記』の書き手と直接会って話してみたいと思われる方にとっては、年に一度のチャンスです。

第44回ホイヴェルス師を偲ぶ会

    日 時:2021年6月9日 「追悼ミサ」午後3時から。引き続き「分かち合い」

    場 所:主婦会館《プラザフェ》 JR四谷駅 麴町口 徒歩1分 (双葉女学校の隣)

    連絡先:080-1330-1212;john.taniguchi@nifty.com  谷口幸紀 神父

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★ 私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(4)

2021-05-21 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(4)

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 では、宇宙の自然を超越したところに、人間の知らない神が存在しているとしたらどうだろう。

 自然の一部である人間の思考は自然の枠内にとどまるから、人知の届く範囲の外に何かがあるか、無いかについては何も知ることができない。科学的にも138億年前にビッグバンが生起したところまでは推論が及ぶが、それ以前に何かあったか、無かったか、そしてビッグバンの原因は何かについて、人類には知る術がない。

 自然界の埒外に、卓越した知性と自由意思を備えた「生きている神」が存在し、その神が自分の愛によって宇宙万物を無から創造し、その愛の力で慈しみを込めて今この瞬間にも万物を刻一刻と無から存在へと呼び出し続けておられると言うようなことは、神が自分の側から告げるまで、人間はその驚くべき事実を知ることも想像することもできなかった。

 人は人知の及ぶものには名をつけるが、知らない神に名を付けることはなかった。だから、人間が名をつけなかったのに存在していて、予期せぬ時に圧倒的な存在感をもって迫ってきた神にはじめて出会ったとき、人はまずその名を問うしかなかった。

  「あなたは一体どなたですか」と。すると相手は「私は在る、在ると言うものだ」と答えた。「私は在る」と名乗る神が自然界の外に存在するという否定できない事実を人類はその時はじめて知ることとなる。 

 以来、この神と人との関わりとして全く新しい「宗教」が生まれた。

 自然とのかかわりの中で人間が生み出し、人間が名前を割り振った神々との関係を「自然宗教」と呼ぶなら、それと明確に区別して、自然を超自した次元に人間の存在以前の永遠の昔から「実在する神」として自ら名乗り出た神との関係は、「超自然宗教」と呼ぶに相応しい。

 果論だが、実は、「私は在る」という名の神が自らの名を明かす決定的な出来事が起こる以前にも、その神から人に対して折にふれて働きかけがあった場面についての記述が、旧約聖書にはいろいろとあることが知られている。

 決定的な一例を挙げよう。イラク南部、ペルシャ湾にそそぐユーフラテス川を少し遡ったところに、ウルと言う町があった。今から3千700年ほど前にそこにアブラハムと言う裕福な老人がいた。彼は遊牧民の族長で多くの家畜と奴隷を抱えていたが、自分を葬ってもらう土地と自分の血を繋ぐ息子を持たないために決定的に不幸な老人だった。

 後に「私は在る」と言う名で知られることになる神が、初めて人間にはっきりと語りかけた事実について記録されているのは、このアブラハムに対してだった。神はこの不幸な老人に、もし自分に従えば永住の土地と命を繋ぐ息子を約束すると告げた。

 その言葉を信じたアブラハムは、神に従って行方も知らずに旅立った。そして、道すがら年老いていた不妊の妻から一人息子イザクを授かり、約束の地に入る。

 イザクの子ヤコブ=別名イスラエル=は12人の子をもうけ、イスラエル人の源流となった。

 12人の兄弟の末っ子のヨゼフは、父イスラエルの特別な寵愛を受けたために兄たちの妬みを買い、エジプトの隊商に奴隷として売られた。しかし、ヨゼフは幸運にもエジプトでファラオに取り立てられ、国のナンバー2である宰相の地位に上った。

 その頃、パレスチナに大飢饉が起きたが、イスラエルの一族は宰相ヨゼフの招きでエジプトに移住し、ファラオに厚遇され、そこで大いに繁栄し人口が増えた。その後、ファラオもヨゼフも死ぬと、エジプト人は増え続けるイスラエル人を警戒し、奴隷として酷使し、イスラエルの民はその苦しみに喘いでいた。

 そこへモーゼが現れ、民を引き連れてエジプトを脱出し、奇跡的に開いた紅海の底を渡り、追っ手の軍勢を逃れ、シナイ半島に渡った民は自由解放の身となる。イスラエル人はこの出来事を神の手に導かれた「過ぎ越し」(Pass Over)として記念し、今日でもそれを最大の祭りとして祝っている。

 道すがら、シナイ山に一人登ったモーゼに神が語りかけ、モーゼが「あなたの名は何ですか」と問うと、神は「私は在る、在ると言うものだ」と名を明かした。神の側から自らの名をはじめて人類に明かした決定的瞬間だ。

 それから40年間砂漠をさ迷った後、イスラエルの民はようやくパレスチナに入る。 

 神の約束の地に定住して自由を得たイスラエルの民ではあったが、エジプトやバビロニアなどの強大な国家に挟まれ、その存在は絶えず脅かされていた。そんな中でイスラエルの民を強大な国家として率いてくれる指導者「メシア」を待望する機運がうまれた。このメシアへの期待はイスラエルの国がローマ帝国の植民地支配下に入ったころ頂点に達し、そこへナザレのイエスが現れた。

 イエスは教えた。貧しい人は幸いだ。悪に逆らうな。右の頬を打たれたら左の頬も出しなさい・・・。互いに愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。人は二人の主人に兼ね仕えることはできない、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に帰しなさい・・・。

 自然宗教の信者は、この世で最後の頼りになるのはお金だと知っているから、あくせく働いて蓄財に励む。現代人も財産と命を守るために様々な保険に入る。しかし、そのお金で寿命を一秒も延ばせないことは考えない。

 「私は在る」の神は、この世では「一切ご利益を約束しない」とぶっきら棒に言う。そのかわり、人間の死期を自由に司る神は、自分を信じる者には、死後に永遠の復活の命を与えると約束する。

 笑い話のようだが、金持ちの自然宗教の信者が、あらゆるサプリメントを飲んで99歳で死に、神さまに「お陰様で長寿を全うできました」とお礼を言うと、神様は「バカだね、お前は。私は105歳までの健康を恵むつもりだったのに、金にあかせて無益な薬をたくさん飲んで自分で寿命を縮めたね」と返すだろう。

「私は在る」と名乗る「超自然宗教」の神と、人間の歴史の中に入ったその神のひとり子イエスの新鮮な教えは、イエスの魅力的人格と数々の奇跡とともに民衆の心を捉え、彼こそメシアでは、との評判が立った。

 しかし、イエスの教えはユダヤ人の指導者たちの期待に合致せず、政治的、軍事的に強力なリーダーのイメージから程遠いものがあった。だから、イエスは本物のメシアであってはならないし、偽メシアは排除されなければならないとして、ローマ軍の手を借りてイエスを十字架に磔にして殺してしまった。

 こうして、弟子たちを友と呼んだイエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言う言葉を身をもって実践し、その生涯の最後に、十字架の上の苦しみに満ちた死を自由に受け容れ、生前に予言した通り、葬られて三日目に蘇った

 死者が復活して永遠の命に生きると言う出来事は、旧約のイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から出て、死の象徴であった紅海の水を奇跡的に渡って自由な約束の地に「過ぎ越した」史実に因んで、教会によって「新約の過ぎ越し=復活祭」として今日も祝われている。

 キリストの復活の後、弟子たちが「回心して福音を信じなさい」と勧めると、この全く新しい教えの魅力に惹かれた人々―特に貧しい民衆―は、「自然宗教」を捨てて、相次いでイエスの教えを受け容れていった。こうして、「超自然宗教」はユダヤ人の間ばかりではなく、当時のローマ帝国の底辺の人々の間で急速に広まっていった。 

 の魅力の秘密は何か? それは、一言で言えば「超自然宗教」の教えが手垢に汚れた「自然宗教」のそれと真逆だったことだ。

 「自然宗教」の「神」は人間が名前をあたえた命の無い偶像にすぎなかったが、「超自然宗教」の「神」は人間の思いの届かなかった神、自分から名乗り出るまで知られることのなかった「すべての命の源」である生ける神だった。

 「自然宗教」の専らの「売り」は「現世利益」で、後のことは何も確かに約束できなかったが「超自然教」は「この世のご利益」は一切約束しないだけではなく「貧しいものは幸い」だと言い、おまけに、キリストのようにこの世では「必ず迫害される」ことを預言する。

 しかし同時に、貧しく生き、この世で迫害され殺される者には、死後に「復活の命」と生ける神の懐に憩う「永遠の幸福」を確約する。

 自然宗教については前回のブログでよく調べたとおりだ。行きつくところ人をお金の虜にし、その奴隷にするものだった。だが、超自然宗教は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神と富とに使えることはできない。」と言って、神を愛し富を軽んじることを教える。

 それだけではない。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養って下さる。あなたがたは鳥よりも価値のあるものではないか。」「野原の花がどのように育つかを考えて見なさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。草でさえ神はこのように装ってくださる。ましてあなたがたはなおさらのことである。」「なにを食べようか、何を飲もうかと思い悩むな。それらはこの世の『自然宗教』の信者が切に求めているものだ。『超自然宗教』を信じて、ただ神の国を求めなさい。」そうすれば、あとのことはすべては神が計らって下さる。

 回心して初代教会に入信した信者たちは皆心を一つにし、すべてのものを共有し、財産や持ち物を売り、各々の必要に応じて皆がそれを分け合った。初代キリスト教徒はマルクスやエンゲルスの理論を待つまでもなく、1800年も前にすでに原始共産主義を実践して生きていた。

 自然宗教にとって確かなのはこの世の命だけ。死んだ後は無に還るか、輪廻の輪にからめとられて、この苦しみに満ちた生涯を無限に繰り返すか・・・、確かなことは何もない。

 超自然宗教においては、この世の命は仮のもので、神とともに生きる永遠の復活の命こそ確かなもの。すべてに優って希求すべきもの。

 繰り返しになるが、このように自然宗教と超自然宗教は、あらゆる点で価値観が180度反対である。

 「私は在る」と名乗る天の父なる神によって地上に送られた神の独り子イエス・キリストの十字架上の苦しみに満ちた死によって、人類の罪はすべて贖われ、そのキリストは3日目に死者のうちから復活して、人類に呪いのように纏わりついて逃れられなかった死を打ち砕き、我々に永遠の復活の命を勝ち取ってくださった。

 復活したキリストは弟子たちを派遣して人々に告げさせた。「さあ、回心して―つまり、自然宗教の神々を捨て、お金の神様を拝む奴隷状態から抜け出して―イエス・キリストの天の御父であるまことの神様を信じなさい。」

 これは、今から2000年前の地中海世界の特に貧しい人々にとって、驚天動地、目からウロコの魅惑的な話、新しい教え、よい報らせ「福音」だった。

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★ 私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(3)

2021-05-07 00:00:03 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(3)

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 人間は自然の中に生きている。人間自身も自然の一部分であると言ってもよい。

 人間は長い歴史の中で自然界のあらゆる存在に名前を付けた。今でも、新しい存在―例えば新しい彗星や新種の生物などーを見つけると、必ずそれに名を付けずにはいられない。名前が付くと存在界にその「もの」の位置が定まる。

 神秘的で広大無辺の宇宙の片隅にある美しい地球に生きる太古の人間は、平時は恵みをもたらすが、ひとたび荒ぶると恐ろしい災厄をもたらす自然のはかり知れない力に畏怖の念をおぼえ、その力の背後に神を思った。思うだけにとどまらず、その神に名前を与えることで、あたかもその「神」が存在するかのように考えた。そして、名付けた神のために社を建て、神官・祭司を立て、供え物をし、祈りを捧げて、平穏な生活を祈願する。

 神道の場合、古くは、神とされたのは、自然のもの、つまり、岩であったり、巨木であったり、山そのものであった。それは、宗教としての素朴さを物語っている。現在の社殿を伴う「神社」の場合であっても、ご神体は神が仮に宿る足場とされた御幣や鏡であったり、あるいはまったくの空間であることもある。

 しかし、そもそもこれらの神は人間の心象に過ぎないから、「存在するもの」としての実在感がない。そこで、人間は見えない神に何らかの具象性を与えようと神々の像を刻んだ。

 ヒンズー教の場合は、人面のシバ神もあるが、象の頭のガネーシャ、猿やヘビの顔の神像もある。イスラエルの民が神としてつくった金の雄牛も同類だ。仏教の場合は好んで釈迦牟尼を像とした。

 しかし、木や、石や、ブロンズなどに細工して作った像には命がない。それらは足があっても歩けず、目があっても見えず、耳があっても音を聞分けることができない。のどがあっても声を発することもないただの物体、「偶像」に過ぎない。

 このように、宗教と言うものは、自然の一部である人間が生み出したもので、大自然の中で生起し、大自然の中で完結する。「自然宗教」と呼ばれるのはそのためだ。キリスト教の源流であるユダヤ教を生んだセム族も、もともとは「自然宗教」の神々を拝んでいた。

 自然宗教は、もともとは人間が自然の力に神を投影し、その神の像をつくり、供え物と祈祷でその神を制御し、恵みを引き出し、禍を遠ざけ、ご利益を得ることを目的とした。人々は神との交渉を神官・祭司に委ね、祭司らは日々の祭祀の報酬として人々の供え物を自分のものにする。ここに、神官・祭司が売るご利益を人々が買うと言う関係性が成立する。こうして、自然宗教は強大な集金マシーンと化していった。集まったお金で、壮麗な神社、仏閣、教会が建て、肥え太っていく。静岡県には国宝級の美術品を蔵する美術館が新宗教によって建てられたが、聖ペトロ寺院やバチカン博物館などはそのはるか上を行く究極の例だ。

 科学の進歩と共に大自然の脅威の仕組みが解き明かされ、予知や制御が可能になると、神々の神秘性は急速に色あせていく。地震、津波、台風などは未だに制御不能だが、人々はそこに得体の知れない恐ろしい神を思うことはもはやない。しかし、自然宗教から生まれたご利益への願望だけは人間のDNAの中にしっかり組み込まれた。今日、人間の不安や弱みに付け入って次々に新しい宗教が生まれ、ご利益を売りにして巧妙に金集めに走る。庶民は病気や貧困や心の悩みなどから逃れようと、現世のご利益を求めて宗教に金を注ぐ。宗教がご利益を売るのは金が目当てであるが、信者もあらゆる欲望を満たす万能・究極の御利益はお金であることに目覚める。こうして自然宗教は人類の歴史の中で進化し、変容し、いつの頃からか祭司も信者も挙げてお金を拝み、お金の神様の奴隷に身を落とすこととなった。 

 お金は一万円札や100ドル紙幣、金貨、銀貨とは限らない。今や預金通帳の残高や、仮想通貨の資産のように、偶像としての見える姿はなくても、人間の魂を支配し、奴隷にする現世最強の「神」としての確かな地位を確立した。現代社会の世俗化と拝金主義はお金の神様、別の名では「マンモン」の神様を、諸々の自然宗教の神さまを押しのけて別格のグローバルスタンダードとして拝む時代に突入した。

 無論、普段の生活の中で接する自然宗教は、荘厳で、崇高な、アリガタイ雰囲気を醸しだしている。仏教のお寺やキリスト教の教会には安らぎや神秘的静けささえも漂わせている。修練や修行を積めば高い精神的境地にも達することができる。芸術も文化も生み出した。

 しかし、原初の人類の間に芽生えた素朴で純粋な自然宗教心の奥には、最初から人間に自分を拝ませ、奴隷として跪くことを要求する意思を持った「お金の神様」が潜んでいたのだ。その神は集まったお金で建てられた壮麗な寺院、神殿、教会の中に巧妙にその本性を隠し、慈愛に満ちた有難い神仏の姿や抽象的偶像の背後に身を潜めている。

 意地悪い私は、四国の札所では、境内に賽銭箱が何個あるか、ヨーロッパの教会を訪れると、聖人像の足元に献金箱が幾つ置かれているかを数えるのを楽しみにしている。

 私の話は何処へ迷い込んでしまったのか。私は一体何のためにこんなことを書いているのか。方向感覚を失ったのか? 

 いや、そうではない!

 それは、私の「インドの旅」とのかかわりで、遠藤周作の「深い河」や「沈黙」の世界の背後にある「インカルチュレーション」のイデオロギーの危険性と指摘し、その誤りを正すためだ。

 ブログ2-3回分で簡単に片付けられるかと見くびって書き始めたが、そうは問屋が卸さなかった。あともう1-2回でケリをつけるつもりなので、もう少しだけ忍耐してお付き合い願いたい。

(つづく)

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