【書評】「LGBTとキリスト教――20人のストーリー」(下)
評価分かれる「LGBT」について聖書はどう語るか
評者/司祭 谷口幸紀
気になる本書「はじめに」の一節
神が創造した性は二つだけ
「神はご自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された。」(創世記1:27)。神が人間の体に与えた性は、創造のはじめから男と女の二種類しかない。女体の中で卵が一個の精子を受け入れた瞬間に新しい人間の形成が始まり、その性染色体が女 (XX)か男 (XY)かのどちらかによって性別が確定し、胎生8週間ごろには既にXX染色体の女性には膣・子宮・卵巣が、XYの男性には前立腺・精嚢・精管などの内性器が、また12週ごろまでには女性の陰核や男性の陰茎などの外性器が成長し始める。人間の性は出生届の際に親が割り振るものではない。性別は人間の存在開始の最初の瞬間に神が決めたものであって、人間による変更はあり得ない。
身体的性が二つしかないという事実は誰も否定できないのに、LGBTの人が自分を好きになれなくて、「私の心に与えられた“生まれつきの性”は体の性と整合していない」と言い、まるで自分が自認する性が宿命的所与であるかのように思い込んでいるとすれば、それは正しくない。
神は動物のオスにはオスとして、メスにはメスとして生きる本能を与えられた、神が人間をご自分の似姿として創造された時、人間には本能に代えて理性と自由意思をお与えになった。それは、人間には自分が神からいただいた性を正しく認識した上で、従順にそれを生きることを期待されたからだ。
ところが、中には、自分が戴いた体の性を知った上で、それを好きになれないとき他の性、つまりLGBTを自由に選び取ろうとする人もある。この“自認された性”は、人が自我に目覚め成長し成熟していく過程で形成されたものであって、決して天賦(てんぷ)のものではない。不可分の一者である人間の体と魂に異なる性を埋め込んで人格を分裂させることは、全能の神といえどもおできにならない。神も自己矛盾を犯すことはできないからだ。LGBTの人が自分を好きになれず、生きづらさを感じるのは、それなりの理由があってのことではあるだろう。しかしそれを、自分をこの世に生み出した神の所為(せい)だと考えるのならお門違(かどちが)いと言わざるを得ない。
こうして見てくると、気になるのは、本書の「はじめに」の中で、「この本で伝えたいことは、性がこんなにも多様であり、それを織りなす一人ひとりを神様がお創りになったという、神の創造のみ業(わざ)の豊かさです。」(P.5)という一文だ。そこには〈神がLGBTを創造した〉というニュアンスが滲み出ている。
この発言は、「神はご自分にかたどって人を男と女に創造された。」(創世記1:27)という神のみ言葉と整合しない。したがって、この「はじめに」の表現は正しくない。
「結ばれて二人は一体になる」の神秘
「交尾」と「生殖」の不可分性
動物は造物主の手により脱着不能の毛皮や羽毛をまとった姿で創造され、哺乳動物は発情期に交尾して子供を産む。この一連の行為はひたすら本能に従って行われるのであって、自動的に種の繁栄を結果する。だから動物の世界にはジェンダーの問題がない。
人間の場合も男と女の結合は、自然に任せれば生殖と種の繁栄に直結するが、理性と自由意思を備えた人間だけが、性と生殖を分離することを思いついた。
人間には性の快楽から生殖を切り離すために避妊の手段を熱心に開発してきた長い歴史がある。しかも、人間の場合、普段は衣服をまとっているが、生まれつきは裸で、性行為の時に服を脱げば、体の表面がすべて性感帯となる。その上、人間は一年を通して発情期にあり、いつでも愛に引き寄せられて抱きあう時、あたかも一つの体になったかのように全身全霊で融合して、聖書にあるとおり「二人はもはや別々ではなく、一体である」(マルコ10:8)が実現する。
さらに、神は人間を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、知の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:28)と言われた。これらの言葉は、右のマルコや創世記2:24と呼応し合う一連の「神のみことば」であって、その有機的結びつきを壊してばらばらな解釈を自由にすることは許されない。
また、神が太祖アブラハムに「あなたを豊かに祝福しあなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」(創世記22:17)と言われた言葉も、それと深く結ばれている。神が「地に満ちて地を従わせよ」と言われるときの「地」は、地球の大地のことだけを指しているのではない。
人類はすでに1969年に月の地面を踏んだが、今世紀中には再び月に人を送り、月を足掛かりに太陽系の他の惑星に降り立ち、やがて人類は太陽系外の銀河の星々へ、さらに銀河系の外の広大な宇宙にある他のギャラクシーへと“目指す目的地”は拡散する。目的地はいつか全宇宙(広義の「地の果て」)まで拡散するだろう。
そして、それは神の計画どおり男と女の自然な愛の交わりと密接不可分に結ばれ、自覚され同意された生殖活動によってもたらされる人類の増殖によって成し遂げられる何十億年にもわたる神の壮大なご計画だ。LGBTがそのご計画に具体的な形でどのように参加し貢献できるのか、あるいはできないのかこそ、本書の中心課題だったはずではないだろうか。
結ばれて二人は
聖書の「二人は一体となる。」(マタイ19:5)の理解を助けるために、分かりやすい例を挙げよう。
鉄の原子核のまわりを電子が廻っている。電子の動きは一種の電流で、電流があれば鉄の原子は磁気を帯びる。が、各原子の極性がバラバラな方向を示して打ち消し合っているとき、鉄の棒全体は極性を持たない。しかし、いったんそれを包んで大きな電流が流れると、各原子の極性は一斉に同じ方向に揃い、全体として一個の電磁石となり、鉄などの磁性体を引き付ける。そしてその接触面が密着すると、その結合力は絶大で、容易に引き離すことができないほどになる。しかし、接合した二つの極面の間に僅(わず)かでも夾(きょう)雑物(ざつぶつ)が入ると、結合力は大幅に減殺され、簡単に引き離すことができる。
人間の体も同じだ。各細胞は、異性の細胞に惹(ひ)かれる性質をもっているが、普段は何も起こらない。ところが、男女が好意を抱いて接近し、そこに愛という電流が流れると、その強い愛の磁場の中で二人の体の全細胞が力を合わせて引き合い、合体して、あたかも一つの肉体になったかのように融合する。聖書の「結ばれて二人は一体となる」とは、まさにこの状態を指している。それを戸隠神社の参道であった彼女は日々体験している。〔本誌323号本稿(上篇)参照〕
ところが、LGBTでからだの自然の性と自認された性とが乖離(かいり)している場合は、愛し合い求め合うパートナー同士がぴったりと完全に身体を接合させることができない。強いて一体化を追求すれば、ハドリアヌス帝とアンティノウスの絵のように、四つん這いになった若者の肛門に皇帝が男根を挿入するようなことになるしかないのだ。また、男と女が正しく結合しあっても、コンドームの薄膜が決定的な部位において二人を厳しく隔てている場合とか、ピルによるホルモンのアンバランスが生むストレスのもとでは、引き付けあった二つの磁石の極面の間に夾雑物が挟まった場合と同様に、結合の快感は脆(もろ)く弱いものに終わる。避妊を常習としている夫婦は、動物の本能レベルの性的興奮は味わうが、神様が人間のために取っておかれ、戸隠の彼女が知った霊的恍惚感、至福の一体感を生涯知ることなく生を終えるだろう。
理性と自由意思をまとった「神の似姿」
人間が造り出したLGBT
聖書には、「神はご自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された。」(創世記1:27)とある。神は御父(神的存在そのもの)と御子(神の理性)、聖霊(神の自由意思)の三位一体の唯一の位格神(パーソナルゴッド)であり、神にかたどられた人間も、神の似姿として肉体を存在のベースに理性と自由意思を備えて自我に目覚めたパーソナルな主体で「インディヴィデュアル」(individual)と言われるが、否定の接頭語「イン」(in-)と「ディヴァイド」(divide)分割するという動詞が合わさって「不可分割のもの」と言う意味であるから、一人の人間が性を異にする体と魂に引き裂かれることはあり得ない。
また、生物の中で人間だけが自分の性を認知し、それを自由に受け容れる可能性を持っている。だからLGBTの問題は人間の理性と自由意思の目覚めの結果として生じるものである。神が与えた性を生きるか、それを拒んでほかのジェンダーを選ぶかは、その人の自由であって、強いられた宿命ではないことをしっかり押さえておかないと話はややこしくなる。
神の創造の御業(みわざ)の継続に参加する人類
神は138億年に及ぶ宇宙の進化の歴史を、常にお一人で孤独に導いてこられた。しかし、神は人類を創造された後、更なる宇宙の歴史を切り開く作業をお一人で行われることをやめ、人格的存在である人類を創造的進化という大事業のパートナーとして招き入れることをお望みになった。
人類は、はじめは神が造られた自然の洞窟に住んだが、やがてそこを出て地面に家を建てることを覚えた。しかし、人は一人でその家を建てたのではない。神はあらかじめ家の材料の木や石などのすべての素材を準備され、人間が望んだ家になる可能性もその中に潜ませ、人がそれをどのように実現するかを人間の自由に委ねられた。掘っ立て小屋から始まって、高層ビルも、リニア新幹線も、宇宙ロケットまで、神は全て人間に主役の座を譲りながらご一緒に創造しておられるのだ。だから、人間が神を除外して一人だけで作ったものは何ひとつない。
人類には、自らの意思で命の源である神の御計画に積極的に参与し協働することによって命の文明を繁栄させることも、神の摂理に逆(さか)らって命の源である神との繋がりを断って死の文明を築き、滅亡の道を辿ることもできる。だから、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言って人類の種の保存と繁栄を強く望まれた神のみ旨を知った人類は、命の文明を防衛し、死の文明を広めようとする勢力と闘って勝利しなければならない。
ジェンダーと神
何度も述べたとおり、神は人間を男と女に創られ、その人間に産めよ、増えよ、地に満てよ、と言われた。創造主なる神のこの御意志を背景にして初めて、LGBTの問題を正しく識別することができる。
人間の二つの個体が愛しあった結果、それが生殖につながるのは、男と女のカップルの場合に限られる。自分の本来の性とは異なるジェンダーを選んだ人が自分に好ましいパートナーを求める場合、完全な一体化と生殖が可能なケースは希ではないだろうか。
自然界ではすべての命あるものは本能に従って神の御旨のままに調和的に生きているが、最後に創造された人間には、神の三位一体の生命の秘密である理性と自由意思までも与えられた。それは人間が神の創造の意図を知り、それに自由に参加することができるためだった。しかし、この神の最高の贈り物は、神の望みに反して自分の意志を神の意志より上に置き、自分の欲するままにふるまう可能性も孕んでいた。
人が敢えてLGBTを選んだ場合、自然の性に伴う神の祝福と恵みは得られず、予期せぬ不都合を引き寄せる結果になるのだが、その不都合の中には健康上、衛生上の問題も含まれる。アフリカのような性のモラルが未分化で衛生状態もよくない世界や、その対極にあって文明が爛熟(らんじゅく)し退廃(はい)した世界では、性にまつわる特有の疾病が知られている。梅毒がそうだった。それが医学の進歩である程度抑えられようになると、エイズがそれに置き換わった。今、サル痘がその種のものではないかと言われている。
救いの歴史とLGBT
失楽園――悪魔の勝利
旧約聖書の創世記第3章は、人類の「失楽園」の物語である。神は宇宙を創造され、天地万物の進化の頂点にご自分の似姿として人間をお創りになった。男と女にお創りになった。そして、人間がその理性と自由意思を正しく使うかどうかをテストするために、楽園の中心に生えている木の実を食べることを禁じられた。ところが、“嘘の父”である悪魔が蛇の姿で現われ「神様は噓つきだ」「神様はその木の実を人間が食べて神様より偉くなると困るから、禁じられたのだ」という巧妙な大嘘で人間騙(だま)した。
この嘘にはたまらない魅力があった。神の上に立てば、世界を思いのままにできるからだ。そして、人は善悪を知る知識の木の実を食べてしまった。これを原罪と言う。
原罪の不都合な結果として、人は死んで亡びる運命を背負い込み、楽園から追放された。その時、男は額に汗して糧を得、女は産みの苦しみを味わう罰を受け、その罰はわれわれにまで及んでいる。
神の創造の御計画はこうして挫折し、悪魔が勝利を収めた。
十字架――悪魔の敗北
しかし、神は、人祖の原罪によって破綻した宇宙創造のご計画を立て直すため、人類の救済に着手された。アダムとエヴァの不従順によって罪と死が人類の歴史に入ったが、第2のアダムであるキリストと第2のエヴァであるマリアの従順によって、死は打ち滅ぼされ、天の門は再び開かれ、キリストの復活によって人類に「復活の命」が取り戻された。
こうして、天地万物の進化の歴史は立て直され、人類が、空の星、浜辺の砂のように増え、宇宙の果てまで拡散することが再び可能になった。
これは悪魔の大敗北だった。
LGBTは第二の失楽園――悪魔のリヴェンジ?
人類が増えて繁栄し、宇宙に拡散していくためには、男女が愛しあって結婚し、子供を産み、数においても増加することが必要だ。ところが前述したように、LGBTの人たちのカップルの多くは、愛しあっても生殖と出産を介した人類の繁栄にはつながらない。
合計特殊出生率(一人の女性が一生の間に産む子供の数。以下「出生率」)が2・1を下回ると、国の人口は減少する。現在日本の出生率は1・4。201ヵ国中184位で、人口が急速に減りつつある。
一方、LGBTのカップルは生殖と種の繁栄には繋がらないから一代で消滅するはずなのに、実際には急速に増加している。それは、正常な組み合わせの男女から生まれた子供たちが、様々な理由で相次いでLGBTとしてカミングアウトするからだ。
特に教育の現場にLGBTの教育者が進出して子供たちを意図的に啓発する場合、新しいLGBT人口の再生産は大幅に加速されることが予測される。日本の場合、出生率が1・4しかないところへ加えて、一人のLGBTが生涯に一人以上のLGBTをリクルートすれば、総人口の減少に対して、LGBTだけが加速度的に増加することになる。このままでは日本人は将来、太平洋の藻屑として消滅する恐れがある。
では、世界人口の今後の推移はどうだろうか。近年、世界の出生率は、1975〜80年に平均3・92だったのが2000〜05年には平均2・65にまで下がり、国連の予測では、2045~50年には2・05になる。つまり、二一世紀の中頃を境に、人類は減少に転じるということだ。今のところ人口減少の主たる要因は避妊と堕胎だが、将来LGBTの増加は新たなファクターとして人口減少に大きく貢献するだろう。
生命の源である神のご計画――産めよ、増えよ、地に満ちて宇宙の果てまで拡散せよ――に協力するように招かれていることを知りながら、神の御旨の上位に人間の意志を置いて人口減少を招く文明は、「命の文明」の対極にある「死の文明」であるが、これこそ悪魔のリヴェンジの試みではないか?
本稿(上篇)で述べたとおり、私は映画「おくりびと」を観て留男の家族の生きづらさに同情し、戸隠神社の参道でめぐり会った若いカップルが期せずして神の豊かな祝福を受けて幸せに生きている姿に学び、さらに、神なしに生きようとしたイタリア人インテリ夫婦が挫折を通して回心に導かれた例を参考にして、人類のこれから進むべき方向性を探るなかで、LGBTと正しく向き合う必要性を強調したいと思う。
LGBTの二面性 ——「犠牲者の側面」と「悪魔的な側面」
「犠牲者の側面」
LGBTを選び取る人たちの多くが、こころの底に「生きづらさ」を抱えていることは、ウォルト・ハイヤー氏の「なぜ自分が好きではないのですか」の問いへの答えから見えてくる。そこには、ほとんどの場合、性的・肉体的暴力、精神的暴力などのPTSD(心的外傷後ストレス障害)や、ポルノ依存症、幼児期に受けた洗脳教育などによる性と心の統合の破綻がみられ、かれらはある意味で犠牲者であると言える。
だから、そのような理由でLGBTに引き寄せられた人々は、社会から手厚く護られ、支援の手が差し伸べられなければならない。しかし、彼らが本当に必要としているのは、性転換手術のような誤った対応ではなく、ハイヤー氏のような正しい同伴者との出会いである。
「悪魔的な側面」
人間には誰からも指示されたくない、何でも自分で決めたい、という心の傾きがある。人類の歴史の最初の瞬間の原罪の出来事がまさにそれだった。自分の体に刻まれた性を神の意思として素直に承諾したくない、あらためて自分で自由に選び直したい、という誘惑もそこから来ている。
思い返せば、原罪の結果男は額に汗して糧を得、女は産みの苦しみを受けるという不都合な結果を引き寄せてしまった。しかし、人間は深層心理のどこかで、それを受け容れ難いとする反抗心を抱き、男は、労働の重荷から解放されるためには女になればいい、女は、産みの苦しみから逃がれるためには男になればいい、というジェンダーへの誘惑の声を、心の奥底で聞いているのではないか。
〈男性はセックスの快楽を享受しても、妊娠や出産の負担を引き受けないというのは不公平だ。だから、女性もそれらの負担から解放され自由にセックスを楽しむために妊娠中絶、ピルによる避妊とアフターピルによる受精卵抹殺は女性の権利である〉というのが、女性解放運動の主張ではないか。
だからと言って、誕生した嬰児を殺せば法で罰せられるのに、出産前なら殺人ではないと強弁できるだろうか。“受精したばかりの卵子は小さくて目にも見えないほどだから、アフターピルで処分しても気にならない”と言えるのか。神の目から見れば、卵が受精した瞬間から、理性と自由意思を備えた神の似姿である人格と不滅の魂の歴史はすでに始まっているのに……
失楽園のとき以来、人類は常に悪魔の嘘に翻弄されてきた。いまLGBTの新たな手口で人類を欺こうとしている。これに対して教会は警鐘を鳴らし、毅然とした対応をしなければならない。
右に見るように、LGBT問題にはこのように全く性質の異なる二つの面が混在しているから、それぞれに則した次元の異なる対応が必要である。
アメリカの先進的な動き
米連邦最高裁は2022年6月24日、アメリカで長年にわたって女性の人工妊娠中絶権は合憲だとしてきた1973年の「ロー対ウェイド判決」を覆す判断を示した。この判決を受けて、アメリカでは女性の中絶権が合衆国憲法で保障されなくなった。並行して、最近では一部の州が独自に中絶を制限もしくは禁止する州法を成立させている。賛成意見を書いたトーマス判事は、中絶権の見直しに加えて、「今後は避妊や同性愛行為の自由、同性婚などの合法性を認めた過去の判例を見直すべきだ」と書き添えた。中絶を妊娠の最も早い時期に実行する手段はアフターピルだが、それは中絶全体の無視できない部分を占めているといわれる。アフターピルの是非もいずれ再検討されなければならないだろう。
この判決により、今後アメリカの各州はそれぞれ独自の州法で中絶を禁止できるようになるが、半数以上の州が、新しく規制を強化したり、禁止したりすることになるとみられている。これを受けて、アーカンソー州やルイジアナ州などでは、中絶手術を提供していたいわゆる「中絶クリニック」が診療を中止し始めた。同じ方向性の中で、性転換手術という生きながらにして人を殺す詐欺行為も法律で禁止されるべきだろう。
要約すれば、LGBTを増やすことによって世界の出生率を下げ、人類を滅亡に導こうとする企(たくら)みは、神の創造と進化の壮大な計画に真っ向からから挑戦するものであり、これは、人類の「失楽園」を演出して神の創造の計画を挫折させいったんは、“大勝利”を収めた悪魔が、キリストの十字架上の死と復活による神の勝利の前に一敗地にまみれたのに懲りず、体制を立て直して再び反撃攻勢に出はじめた徴ではないか。問題の本質は、聖書の神の十戒の「殺すなかれ」に遡(さかのぼ)るのだ。
むすび
「すべての人が当事者」だからこそ
今回取り上げた書籍『LGBTとキリスト教』の冒頭で、日本基督教団出版局編集部は「マイノリティーというと自分は当たらないと思う人が多いかもしれませんが、マイノリティーの要素というものはだれもが持っていて、その意味ではすべての人が当事者だと言えるのではないでしょうか」と問うている。本稿の冒頭で確かに私は「それもある意味で正しいと思う」と言った。
この“誰もが持っているマイノリティーの要素”を正しく理性で認識した上で、それを自由意思で適正にコントロールし、天賦の性の自覚に留まった者をマジョリティーと言い、マイノリティー的要素を自分の嗜好の中で育(はぐく)んでいる中で、いつの間にか自認された性として人格の全体を支配するに任せた者が、LGBTと呼ばれる性的マイノリティーを構成する。『ハリー・ポッター』の作者ローリング女史は、身に受けた性的暴力にも拘らずマジョリティーの側に留まった。ウオルト・ハイヤー氏は48年間の苦闘の末、「性転換悔悟」によって自力で抜け出し、今は救済者の側で働いている。
詳しく調べれば分かることだが、実はLGBTは人格形成の過程で受けた精神的、肉体的外傷の結果、自然が自分に与えた性を嫌悪し、受け入れ難いとして、意識下でそれを拒絶したことに起因する場合が殆(ほとん)どだ。住環境の貧しさからの寝室の共有は、幼い兄に小さい妹への性的悪戯を誘う。あってはならないことだが、父親が自分の娘に手を出したり、教育や課外レッスンの現場で女の先生が生徒の少年を犯したり、幼児の性への好奇心が不自然な方向に助長されたりと、要因はたくさんある。
しかし、誰もが持っているマイノリティー的要素に目をつけ、ことさらに未成熟な子供の意識を呼び覚まし、教育の力でそれを誘導して意図的にLGBT人口を増やそうとする企みは邪悪である。
具体的原因が何であれ、彼らは生きづらさから解放されなければならない。問題の核心に迫り、解決に向かう唯一の正しい方法は、ウオルト・ハイヤー氏の「どうしてあなたは自分を好きになれないのですか」と言う問いかけに始まる道を歩むことである。
カミングアウトの難しさ
性的マイノリティーは、カミングアウトすればいろいろな軋轢(あつれき)や不都合が生じるのではないかという恐れの前に躊躇(ためら)う。『LGBTとキリスト教』の一冊に記事を寄せた20人の筆者の中の幾人かも、その難しさを告白している。
しかし、自分の都合で積極的にカミングアウトする者もいる。女風呂に入りたい自己申告のトランス女性や、なりすましの女子大受験生、そして自称女性の筋肉マンアスリートなどはその典型ではないか。たとえば、今年7月、ニューヨーク市の女子大会で13歳と10歳のライバルを破って優勝を果たしたトランスジェンダーのスケートボーダー(29)は、まんまと5000ドルの賞金を手にしたが、彼は離婚した元海軍の3児の父で、昨年のオリンピック女子予選で不合格になった人物だった。
視点を変えれば問題の所在がよりはっきりする。「トランスジェンダーができます」という詐欺療法に騙(だま)されて、美しい乳房を切り取られ、平らになった胸に横一文字の残酷な傷痕を刻まれて「はい、あなたは男に生まれ変わりました」と言われた女性が、裸で男風呂に入れるだろうか。
また、性転換手術を受けた女性が有罪の判決を受けた場合、今さら女性の監獄に入ることは叶わず、だからと言って男たちの監獄に入ればたちまち看守や同房者にレイプされるのは目に見えている。彼女たちにはもうどこにも心休まる場所がなく、自死の誘惑の瀬戸際に立たされる。自分の性自認は女だと主張する囚人が、女子刑務所に入ってレイプ事件を重ねた例と好対照だ。
神が与えた性を転換することはだれにもできない。その意味で、LGBTは虚構の上に築かれた世界だと言えよう。
生きづらいのはLGBTだけか
そもそも、生きづらさを感じているのはLGBTだけであるかのように語るのは正しくない。それは、いつの時代にも世界中で難民問題があるのに、特定国で発生する難民だけに注視せよと言うに等しい。生きづらさは、さまざまな形のマイノリティーのすべてに共通する問題なのだ。
歴史を振り返れば、聖パウロが宣教していた時代のパレスチナでは、女性はまだ半ば男の所有物で、完全な人権を認められていなかった。弱者の地位にあった女性は2000年の歴史の中で戦いながら、次第に性の平等を勝ち取ってきた。
その女性たちからすれば、男たちの間では劣後している者が、女としての性自認と体格にものを言わせ、女性たちが歴史の中で勝ち取ってきた権利を踏みにじるのを見れば、LGBTのジェンダー論は、偽装した男性による新手の女性支配、女性搾取の攻撃に他ならないと言われても、反論できないだろう。
出発点を「LGBTとキリスト教」に置いた本書は、キリスト教の神を度外視して性を語ることはできないはずだ。神は人間の男には男の、女には女の臓器と性徴(せいちょう)を与えて、裸の状態に創造した。本能で生きる動物とは異なり、人間だけが自我に目覚め、自分の性を知り、それを自由に生きる道を賜物(たまもの)として戴いた。
睾丸とペニスを持った人間が、自分の性が男であることは神の意思であることを知りながら、「私の選んだ性自認は女だから」と倒錯した主張を展開する時、無意識のうちに神の明らかな意思より上位に自分の意志を置いている。
その状態から抜け出すためには、自分を好きになれなくなった原因と向き合い、それと格闘して克服し、再び自分を好きになれる道を辿る以外に方法がない。
自分の選択に対する責任能力を自覚する以前の、幼く未熟な時期に気まぐれで選んだ性のため生じた「生きづらさ」からの解放を求めて当人がSOSを発信するなら、その時できる限りの支援に乗り出すのは成熟した社会の正しい対応だろう。
しかし、幼児教育の場のみならず、一般教育の場でも行政・市民サービスの場でも、時流に遅れまいとする軽薄な人々の心につけ入り、ジェンダー論というイデオロギーのウイルスによる既成秩序の破壊が世界中で広がっている。これは目に見えない闇の力―悪魔―による“神の創造の意思への挑戦”であると筆者は考える。
悪魔と聞けば、人は荒唐無稽な馬鹿げた話として一蹴するかもしれない。神を信じなければそれは当然だ。しかし、いまLGBTという性的少数者の存在を社会に広めようとする「レインボーフェスタ」が世界中で開催され、「プライドパレード」とも呼ばれる性的少数者のパレードは、欧米をはじめ世界各地で開催されていて、中には参加者数100万人を動員するものまであるといわれる。そして、そのお祭り騒ぎの中では、普段は隠れている悪魔(サタン)がうっかり尻尾を出す場面が見られる。ツイッター上に現われたこれらの写真はその一例に過ぎないが、現状は悪魔の実在を認めるのに十分ではないか。
先頭に堂々と陰の主催者が名乗り出た?
この異様な姿の男は幼い子供たちに何を吹き込んでいる?
キリスト教会は、聖霊に導かれて識別能力を発揮し、神の創造の御計画の側に立ち、キリストの「復活の勝利」に挑んでくる悪魔のリヴェンジを、断固退けなければならない。軽薄にも「差別反対! 全ては平等! 虹色の多様性万歳!」のスローガンの裏に隠された美味(おい)しそうな嘘にうっかり食いついたら、人類は再び「失楽園」の憂き目をみることになる。
神はご自分の命の秘密である理性と自由意思を人間に分け与えられ、人間は神の似姿になった。それは、人類が神の創造の計画を知り、それに能動的に参加・協力し、その完成に貢献するためである。間違っても悪魔に唆されて理性と自由意思を濫用し、傲慢にも神より偉い者になろうとしてはならない。
(おわり)
ついでに次の「正平協」のブログもお読みください。