朝早くバスから子供たちがぞろぞろ降りてきました。イタリア半島の南の端から
夜通しバスに揺られてやってきたようです。手にはみんなプレゼントを持って
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世の終わりは近いのか(その-5)
-あなたの死から復活までの時間は?-
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補足として明確にしておきたい点がまだ2-3あります。
(1)世の終わりは近いのか?
神は人類に「産めよ、殖えよ、地に満てよ!」と命じられた。と言うことは、宇宙にそこそこ人の子の種が拡散するまでは、世の終わりは来ないということだろう。
ところで、今の宇宙は見える範囲だけで140億光年の広がりがあるそうだ。
その1割だって14億光年だ。と言うことは、宇宙船が光の速さで旅をしても14億年かかってやっと宇宙の1割にしか届かないことになる。
光の速さは1秒間に30万キロメートルだから、時速に直すと時速10.8億キロメートルと言う恐ろしいスピートだ。そんな速さに人間の生身の体が堪えられるとは到底思われないから、まあ、その1パーセントほどの速さで旅行しても、宇宙をほんのチョコッと旅するだけで、すぐ何億年、何十億年とかかるわけだから推して知るべしだろう。
天地万物を無から創造し、存在界に呼び出された神様は、お好きな時に「ハイ、其処まで!」と言って世の終わり、終末を宣告する自由を留保しておられるとは言え、世の終わりはそう簡単には来るとは思えない。世の終わりは、遠い、遠い、気の遠くなるような未来のことになると私は思う。
賑やかなクリスマスソングで子供たちを迎える神学生たち
(2)では、あなたの死から復活までの時間は?
それは、この世界の時間の流れで言えば、上の気の遠くなるような長い時間に相違ないのだが、問題は、死ねば私の体は失われ、片われの私の魂は体を失って「深い、深い眠りに入る」と言う点だ。もしも復活がなかったとすれば、そのまま永遠に眠り続け、「眠っている」という表現さえも無意味なほどなんにも感じない、何にも意識しない無の中に在ることさえ分からない、要するに死滅し消滅したも同然の状態の中に消え失せたはずだった。
最初に言った通り、復活は世の終わりに起こることだから、この世の観測者の視点に立てば、あなたの死から復活までの時間は、上の宇宙の終わる時までの時間と同じ長い時間であるわけだが、死んだ途端にその時間は消えてしまうと考えた方がいいということは、つまり、人間が復活に遭遇する時は、死の瞬間に隣接する次の瞬間として意識される、と言う結論になる。
これは、ひょっとするとドえらいことかもしれないぞ、と私は思う。
死んだとき、これも寿命かと諦めて、あとは冥土で復活の日に神様の裁きの前に立つときに備えてのんびり心の準備でもしようか、なんて悠長なことを考えて油断をしていたら、ひどい目に遇うかもしれないぞ。そういえば、聖書には随所にそのことを暗示する話がばらまかれていたではないか。
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子(キリスト)も知らない。ただ、父(創造主)だけがご存じである。」(マタイ24章36節)「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」(マタイ24章44a節)
この類の言葉は新約聖書だけでも両手に余るほど出てくる。
普通人は、これを「自分はいつ死ぬかわからない」と言う意味だぐらいにさらりと聞き流してきた。
公園を散歩していたら、突然空から砂粒ほどの隕石の燃え残りが猛スピードで飛んできて自分の頭を貫通し、その場にばったり倒れて息絶える。本人は「あ痛っ!」と思う間もなく息絶えて、死の暗黒の中に消えていく。通行人は一体何事が起こったのか理解できずただ怯えて立ちつくす・・・・。とか、炬燵にあたりながら美味しそうにお雑煮を食べていたら、突然お餅が喉に詰まって、一、二度目を白黒させたかと思ったら、呆気なくご臨終、と言うような場面が目に浮かんでくる。なるほど、人はいつどんな風に死ぬかわからないものだと、すんなり納得する。
ところが、今までしつこく検討してきた話をこれに重ねて考えると、事は意外と深刻であるらしいことが見えてくる。
突然死ぬのはいい、まあ仕方がない。一応心の準備だけはしておいた方がいいと、思慮深い人なら普通そこまでは考えるかもしれない。
しかし、死んだと思ったら、次の瞬間にはもうすぐ世の終わり、世界の終末と復活に直面し、神様の前で直ちに人生の総決算を求められ、その場で審判が下って、あれよ、あれよという間もなく自分の永遠の命の有りようが決まってしまうと言うところまで考え及んでいる人が、一体どれだけいるだろうか。
これは、一度落ち着いてじっくりと考えてみる値打ちのある重大事ではないだろうか。
死んでから復活するまでの間に、ゆっくり考えて準備する時間の猶予なんて全くないのだとしたら、足元の明るいうちに奥さんと仲直りして、借金は返して、罪人は回心して、それからベッドに潜り込んだほうがどうも無難なように思う。
突然不意を突かれ、慌てて取り乱して醜態を曝さないで済むために・・・
一回目の死は、深い眠り、実質上永遠に無になるはずだった(復活がなければ)。二回目の肉体は不死身だから、自然死はない、自殺も叶わない。地獄を自由に選んだ人は、永遠にその状態にとどまることになる。これはえらいことですよ!
プレゼントを持ってやってきた子供たち
(3)死んで復活したら、みんな天国に行くべきもの
―神様はあらかじめ地獄を準備してはいない―
神様はご自分の愛を唯一の素材として人類を無から創造されたのだから、世の終わりの日、たった一つの魂も滅んで地獄に行くことは望まれないだろう。だから、あらかじめ地獄を用意して、人をそこへ陥れようと待ち構えてはおられることは絶対にないと私は信じる。
では、みな救われて誰も滅びないのだろうか?まことに残念ながら、どうもそうでもないらしい。半々か、四分六か、ほんの一部か、意外と大勢か、その割合は全くわからないが、地獄を選んで自らその中へ飛び込んでいく愚かな魂が結構大勢いるらしいことは、なんとなく察しが付く。
えっ?神様がお望みにならないのに、いったいどういうメカニズムでそういうことが起こり得るのかって?その答えは、聖書のルカ15章11-32節の「放蕩息子」のたとえ話に出ているので、じっくりお読みください。
エッ?!読んだけどさっぱりわからなかったですって?それは弱りましたね。その点にいま踏み込んだら、このテーマのブログをまだ何回も続けなければならない羽目になりますが、私はもういい加減疲れました。
そういう方は、仕方ないから「アマゾン」か「楽天」で検索して、亜紀書房刊の「バンカー、そして神父」と言う題の本を取り寄せて、第4章「放蕩息子の帰還」をじっくりお読みください。その問題については著者(実は私)がすでに懇切丁寧に解説していますから。《以上、「コマーシャル」終わり》
神学生たちがつくったイエスの降誕の馬小屋
(4)復活するのはキリスト教信者だけか?
これは意外と重要なポイントです。答えを先取りすれば、もちろんNO! です。世の終わりは待ったなしで全人類を同時に襲ってきます。そして、キリスト=メシアは栄光をおびて、輝かしい復活体を身に纏って再臨します。そして、難民キャンプで被災者に毛布を配るように、全ての死せる魂一人一人に、生きていた時と同じDNAの新品の肉体を渡して着せてくれます。
キリスト教なんて知らなかった、信じてなんかいない、洗礼?とんでもない、もちろん受けていない、と言う人にも無差別にです。
いやだ、俺はキリスト教が嫌いだ、そんな教義は否定する、と言う人にも、生前俺は確信的無神論者だった、今さらなんでそんなこと・・・と言う人も、私は回教徒原理主義者だった、キリスト教は戦ってでも滅ぼすべき宗教だ、今さら仲良くなんてとんでもない、ごめんだね、と言う人にも、私の教団の教祖様は〇×尊師だ、お伺いを立ててからでなければ、そんな服いただいていいものやら、私には何とも判断しかねます、と御託(ごたく)を並べるじれったい御仁にも、「いいから、つべこべ言ってないで、黙って受け取りなさい!」と叱咤してキリストは一人一人に着せていく。何しろ最後の審判の広場は、億の億倍、兆の兆乗のおびただしい数の魂がごった返すわけだから、柔和なキリストも切れる寸前かも知れません。そんなわけだから、「死んだときに渡しておいた肉体喪失証明書とよくDNAの照合するように!後で面倒が起きないようにちゃんと確認しなさいよ!」という天使たちの注意が飛んでくるかもしれません(笑)。
仏教には「一切衆生」と言う素敵な言葉があるが、その「一切衆生」つまり、はじめて理性と自由意思が十全に開花した最初の類人猿から、何十億年の人類の進化と文明の進歩の後に終末を迎えた最新鋭のサイボーグ人間まで、気の遠くなるような数の魂が肉体を纏って、この宇宙の彼方に新たに始まる天と地の中へ一斉に歩を進めます。なんという感動的な場面でしょう!
キリスト教の教えは、全ての人類を包む。宗教、信条の違いを無差別に超越し、あらゆる進化の段階の人間を包括する。大乗仏教には非常に近いものがあるようだが、この復活信仰の普遍的包括性はキリスト教以外の他宗教にはあまり見いだせない特徴といえるかもしれない。
友のために命を捨てるほど大きな愛はない。敵をも愛しなさい。右の頬を打たれたら左の頬も出しなさい。七の七十倍赦しなさい。悪に逆らってはいけない・・・・。と教えるキリスト教だけは、(それが本当に実践されればの話ではあるが)理論上は紛争の種を蒔かない唯一の宗教でもあるはずなのだが・・・・。
このあと 神学校の聖堂で子供たちとミサがあった
平和の王子様、幼子イエスのお誕生日おめでとう!
*** メリークリスマス! ***
まだ書き足りない気がするけれど、切りがありませんのでこの辺で「世の終わり」シリーズは「一巻の終わり」といたします。