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ウランバートル(モンゴル)発=アジアの宣教師の集い
《厳しい宣教事情》(そのー2)
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先日都内のある女子修道院の朝ミサを頼まれて出かけたら、帰りにモンゴル出身のシスターから、「昨日モンゴルの司教様がお亡くなりになった、お祈りください」と言われて耳を疑った。モンゴルの司教様と言えば、この8月中旬に首都ウランバートルでお目にかかったばかりだ。まだ60歳台とお見受けしたが、かくしゃくとしておられた。それが朝椅子に座った姿勢で亡くなっているのを発見されたと言う。心臓麻痺ではないかということだった。78歳のわたしなど、いつお呼びがかからないとも限らないと、身の引き締まる思いだ。
司教様の追悼もかねてブログを続けよう。
黙想の家のチャペルは居住棟から少し離れて斜面に建っている。斜面はお花畑のようで、日本の高山にも見られる豹紋蝶が乱舞している。
足元には、なんとエーデルワイスが群生しているではないか。エーデルワイスといえばスイスやオーストリアなどドイツ語圏のアルプスに咲くものと思っていた私は大感激だった。日本アルプスで見たことがないが、北海道の山にはあるのだろうか?
一人一人の紹介を受ける司教様
ミサの中で説教をする司教様
パンと葡萄酒を奉献する司教様
手焼きの種なしパンを人数分に割く
12角形の角取りをした大きな杯でブドー酒(キリストのおん血)を皆で回し飲みする。
ミサが終わると皆で祭壇を囲み手を打ち鳴らしながら輪になって踊る。
司教様とモンゴルの国旗を囲んで記念写真
昼食はスズの容器のなかで熱く熱した石と羊肉を一緒に入れて蒸し焼きにするモンゴルの独特の料理。
ワイルドで美味しい料理の出来上がりがそれぞれのテーブルに。
食後、リキュールが入って、ペットボトルをマイクに見立てて熱唱する司教様は、もうこの世にいないのだ。
集いの合間を縫って合宿所を抜け出した。道端で運よくヤクと出会った。羊をちょっと大きくしたものを想像していたが、どっこい、大きい。オスは体長3メートル、肩の高さ2メートルにも及ぶと言う。牛の仲間だが牛よりさらに大きい。長い毛は柔らかい肌触りのカシミヤの原料だ。
30分も行くと広大な草原地帯にはいる。これだ!私はこの景色を見たかった!
遠くに長い細い糸のようなものが動いている。ズームレンズで引き寄せると2両のディーゼル機関車に曳かれた貨物列車だった。手前のゲル(移動用の白いテント家屋)の周りには家畜が放牧されている。
羊もいる
一軒のゲルに近付いた。
中に入れてもらった。最低限の家財道具が揃っている。
何人家族だろう?いま中には3人しかいないが・・・
真ん中にストーブが。これで煮炊きをし、極寒の冬には暖房になるのだろう。
どのゲルも同じ大きさに見える。これでは貧富の差はあり得ないか?大きなホームセンターに行けば、ゲルの全てのパーツが売られていると言う。
モンゴルと言えば、英雄ジンギスカンの騎馬軍団。フン族の戦士たちは東欧のハンガリーにまで版図を広げ国を築いた。
騎馬で子牛を追う少年
騎馬で羊の群れを牧する青年
私の姿を見て穴に逃れようとする小動物。プレーリードックみたいだが、別にちゃんとした名前があるだろう。空港の免税店の毛皮の装身具の材料だろうか。
話し合いの中でアジアの宣教事情は各国各様に厳しいものがあることがわかってきた。モンゴルでの宣教は初代司教を失って、大きく後退を余儀なくされるだろう。マレイシア、インドネシアは回教からの締め付けで厳しい。パキスタンはもっと厳しい。キリスト教徒を一人殺せば天国に行けると信じる過激さがある。パキスタンにレデンプトーリス・マーテル神学校が開設されたとき、高松の神学校から優秀なのが一人、リーダー格の先輩神学生として送り込まれた。クリスマスには狂信的な回教徒が神学校を襲撃する恐れがあると言う情報に、政府は銃を持った兵士を複数送って神学校を護衛しなければならなかった。そんな緊張の連続に耐えられず、高松から派遣された神学生は神経を壊して国に帰って行った。宣教に入って命を落とす「殉教」のリスクが現実の可能性としてあるのだ。タイやビルまでは仏教を実践している人たちへの宣教と改宗は極めて困難だ。仏教の締め付けの弱い僻地の少数民族には期待が持てると言う。中国は無神論的共産主義の一党独裁で、愛国教会とバチカンとつながる非合法化された地下教会の問題は今も解消されていない。教皇フランシスコはいろいろ模索しているようだが・・・。
日本はではカトリック教会を取り巻く環境は格段にいい。信教の自由は大幅に保証され、国としては宣教師の入国も比較的容易だ。だから、バチカンがアジアのための宣教拠点として「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」を東京に置くことを決めたのは当を得ている。問題は、世界最先端の最も純粋な拝金主義(マンモンの神)の存在と、「イデオロギー化したインカルチュレーション(土着主義)と、ナショナリズムと、ほとんど自然宗教に近いエコロジーへの傾倒」だと思う。これは私の私見には終わらない。最近UCAニュースかどこかで教皇フランシスコの文章の中に類似の言葉を読んだ。