:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(そのー1)

2021-03-23 00:00:01 | ★ インドの旅から

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(そのー1)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 「カトリック作家」として著名な遠藤周作の最後の長編「深い河」も、代表作「沈黙」にも、カトリックの正統な信仰の立場からは、根本的に重大な欠陥があると私は言いたい。それは、彼の小説家としての資質の問題ではなく、また彼のキリスト教=カトリックに対する姿勢や知識の問題でもない。問題は彼自身も気付いていないどこか奥深いところにあるように思われる。

 

ガンジス川の沐浴風景

 

それをわかりやすく説明するには、私の経験に基づく一つの隠喩が助けになるかもしれない。

 

「年の瀬の寒い夜、コートの襟を立てた男が、薄暗い四つ辻の掲示板の前にゆらゆらと立って、しきりに何かしようとしていた。よく見ると、彼は煙草を一本くわえ、街灯にぼんやり照らされた「火の用心」のポスターに描かれた焚火の炎にしきりに煙草を押し付け、何とか火をつけようとしていたのである。足元もおぼつかない彼は、なぜ火がつかないの?と首をかしげながら、なおも一心に火をもらおうとしていた。」

 

 古くから「絵に描いた餅は食えない」という。それは食える「餅」があることを前提としている。人は、ポスターに描かれた火にも、燃えさかる火にも同じ「火」という言葉を充てる。

遠藤の悲劇は、彼がキリスト教に対して並み外れた関心を抱き、実際に多くを読み、多くを書き、かつ語っているにも関わらず、その生涯を通じて一度も生きているキリストに出会って触れる機会を持たなかったことに尽きるのではないか。そのことは、彼の生い立ちを辿れば≪さもありなん≫と納得がいく。

 

若き日の遠藤周作

 

1923年生まれの周作が私より16歳上だと言うことを別にすれば、互いに似たような人生の軌跡を辿っている。

1932年、遠藤の父は関東州大連で妻と離婚し、愛人と再婚したが、周作は母に連れられて帰国し、19338月、神戸市の六甲小学校の4年に転入した。

私の父は旧内務省の高級官僚だったが、戦後の1947129日に公職から追放され、翌年母は他界した。父は2年後に再婚するが、私も小学4年で遠藤の校区に隣接する高羽小学校に転入した。

周作は12歳のときトリック夙川教会で洗礼を受け、私も12歳のとき近くの六甲教会で洗礼を受けた。周作は灘中学に進み私は六甲中学へ、周作は上智大学の予科へ進み、私は六甲の高等部へ、周作は慶応大学へ進むと、私は同じ私学の上智大学へ、といった具合に、二人とも同じ年ごろに、同じような場所で、パラレルな歩み方をしてきたことになる。

 

違いは何か。

 

遠藤の母郁(いく)は、姉の通うカトリック夙川教会で19355月に洗礼を受けた。彼女が帰国後の短期間に受けた信仰教育は当時の慣例どおり、カトリックの教理を平易な問答集にまとめた「公教要理」という小冊子の説明をひと通り聞くだけの簡単なものであったと思われる。3ヵ月おくれて周作にも洗礼が授けられたが、周到な準備が施されたとは考えにくい。

周作の学校環境は宗教とは無縁の私立灘中だった。1939年に中学を終えた周作が、複数の旧制高校を受験して軒並み失敗した。19414月にようやく上智大学予科に入るが、翌19422月にはそこを退学している。1943年に慶応義塾大学文学部予科に入学し、まもなくカトリックの学生宿舎白鳩寮に入寮したが、そこは東京大空襲で焼失している。1945年に慶応の仏文科に進学してようやく大学生になったものの、勤労動員で勉強どころではなかっただろう。

こうしてみると、大連での幼少期にはじまり、母親の受洗の成り行きで洗礼を受けた少年時代にも、また中学、予科(今の高校相当)、大学までの期間を通じて、カトリックの信仰が芽生え、根付き、育ちゆくのに適した肥沃な宗教的環境にはなかったものと思われる。

私の場合は、母方の親戚がみなプロテスタントのクリスチャンで、母は際立って純粋な信仰の持ち主だった。私は物心ついた頃からいつも母に連れられて礼拝に与かり、日曜学校にも通った。灯火管制の下でもクリスマスには母とツリーの飾りつけをしながら讃美歌を歌う非国民だった。父が山形県の警察部長をしていたころ、家族は倉蔵村(今は天童市の一部)の白田弥右衛門という庄屋さんの離れに疎開していた。父は妻子がひもじい思いをしないようにと、地位にモノを言わせてたっぷり調達した食料を毎週疎開先へ届けに来た。駅で借りた自転車の荷台に特大のリュックをくくりつけると、前の車輪が浮き上がるほどだったと父は笑った。それは、妻子が一週間生き延びるために十分なはずのものだった。だが、母は近所の貧しい人たちを見ると貴重な食料の一部を分かち与えた。そのあげく、三人の子供たちにひもじい思いをさせないために、自分は十分に食べずに我慢したのだろう。終戦の頃には栄養失調で体を壊し、やがて肺結核で帰らぬ人となった。人は、内務官僚トップの奥方が栄養失調で死ぬなんて、と信じられない顔をしたそうだ。

 

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ513)

 

という聖句があるが、母はそれを地で行った。当時は幼すぎて分からなかったが、そんな母の背中を見て育った私の魂には、彼女の中に燃えていた愛が、生きた信仰の火種としてしっかりと蒔かれていたのだと今にして思う。母が命に代えて子に残した信仰の遺産だった。

周作が通った灘中学は、当時から受験校だったが、私は近隣の六甲中学に進んだ。スイスでカトリック青少年教育を学んだ初代校長の武宮隼人(はやと)神父は、父兄会の日、居並ぶ父兄を前にして、「我が六甲学院はキリスト教的人格教育を旨としております。お子さんを東大に入れたいとお考えの親御さんは、学校の選択を誤っておられますから、早々に灘高に転校させるようにお勧めいたします」と大見栄を切った。今どき、校長がそんなことを言おうものなら、その私学は即座に潰れてしまうことだろう。

その校長の方針で一人の外国人神父―大抵は英語の教師―が、学年担任として6年間ずっと同じ生徒たちに寄り添う。また、キャンパス内にある修道院には10人ほどの神父が住んでいて、放課後に生徒たちの多くは彼らの書斎でじっくり信仰の手引きを受けた。

その結果、中学一年が3クラス165人の生徒からはじまり、高校3年で130人ほどが巣立っていく頃には、卒業生の約三分の一が洗礼を受けていた。さらに、50年もすると、同窓会出席者の半数が信者になっていた。在学中に蒔かれた信仰の種は、時限爆弾よろしく卒業後あちこちで弾けて実を結んだのだ。

周作の少年期や青年期から、信仰を命がけで生きる人物に出会って師事したという事実は見えてこない。彼自身も「生ける神」との決定的な出会いについて信仰告白をしていない。

コルコタのマザー・テレサの「死を待つ人の家」では、回教とヒンズー教とを問わず、誰でも受け入れられ看取られる。一人一人の信条が尊重されて、臨終の洗礼が強いられることはない。また、私が師事した澤木興道老師は、昭和の最後の雲水と呼ばれ、娶らず、寺持たず、生涯を流浪の日々に甘んじた高僧であったが、時おり京都は鷹が峯の破れ寺に草鞋を脱ぐと、京大の哲学の書生などを集めて参禅会を開かれた。東京から馳せ参じる私には、「お前は耶蘇(キリスト教徒)だな。まあよろしい、そこで座っていなさい」と言って、内弟子として可愛がってくださった。

マザー・テレサも澤木老師も実に寛容な人たちだった。しかし、遠藤のこだわるキリスト教の難点は、ただの寛容さの問題だけではなさそうだ。

 

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。」(1コリント122-23)と言う聖パウロの聖句がある。

 

ユダヤ人は信じるために奇跡を要求するが、それは与えられない。異邦人は自分の知恵と努力で宗教を追求するが、決して生きた信仰に辿り着くことはない。人間とは、《ケリグマ》(福音を説く人の肉声)に導かれて信仰に辿り着くものなのだ。

安泰時では、毎朝の勤行のとき、達磨大師から弟子へ、その弟子から弟子の弟子へ・・・と仏法伝授の不断の系譜が澤木老師に至るまで、禅師たちの名前が綿々と唱えられた。これも、信仰の神髄と悟りが生きた信仰者の魂から弟子の魂へ途切れなく受け渡されていくものであることを物語っている。

遠藤の場合、命を託するほどの信仰の導師、霊的指導者に生涯めぐり合うことがなかったと言うことではないか。

母の膝をはなれた私には、6年間担任のクノール神父、六甲教会のブラウン主任司祭、上京してからはホイヴェルス神父のような優れた導師が常にいてくださった。50歳でローマに神学を学ぶころには自分と同じ1939年生まれで世界的に有名なカリスマ指導者、キコ・アルグエイオ氏に間近に接し、聖教皇ヨハネパウロ2世にも、マザー・テレサにも直接触れる幸せを得た。 

「カトリック作家」を売りにして、小説家としてのキャリアーを順調に歩んだ遠藤周作は、小説の素材を求めて聖書を読み返し、西洋のキリスト教文学も広く渉猟しただろう。しかし、生きて信仰を証しする生身の人間から、魂の触れ合いを通じて「信仰」を伝授された体験を語っていない。

 

ベナレスのガンジス川岸辺の火葬風景

 

周作が「ヨーロッパで触れたキリスト教は、父性的原理を強調するあまり、母性的なものを求める日本人の霊性に合わない」と不満を抱いた、とか、それを「日本人としてキリスト教信者であることが、ダブダブの西洋の洋服を着せられたように息苦しく、それを体に合うように調達することが自分の生涯の課題であった」と言って、キリスト教を日本の精神風土に根付かせようと腐心したとされているが、これらはみな、インカルチュレーション(キリスト教信仰の土着化)というイデオロギーと深く関係している。

人はいとも簡単に「キリスト教的唯一神論と日本的汎神論の矛盾」が遠藤の生涯のテーマだったとか、遠藤が「深い河」で目指したものは「日本人のキリスト教」、別の言葉で言えば「世界に通じる普遍的なキリスト教」だったとか言うが、それは一体何を意味するのか?遠藤に深い影響を与えたジョン・ヒックの「宗教的多元主義」とはどういうものだろうか?は批判的に厳しく検証されなければならない。

 

 

しかし、今回もすでに長くなりすぎた。

遠藤の魅力と、危険性、彼の陥った誤りにつての考察は、次回のブログに譲るとしよう。

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 精神病院での新型コロナ感染拡大 ー 人権状況も危機的

2021-03-15 00:00:01 | ★ 新型コロナウイルス

~~~~~~~~~~~~~~~~~

精神病院での新型コロナ感染拡大

人権状況も危機的

~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

みなさん、《おりふれ通信》というのをご存知ですか。私は以前からの購読者です。

 昨日届いた3月号には、表題の通りの短い記事がありました。その内容は ≪続〕ウサギの日記≫の愛読者の皆様にも是非シェアーして頂きたいと思い、「インドの旅」をひとまず置いて、以下に転載いたしました。

 

 

精神科入院者が曝されている危機

 

新型コロナウイルス感染流行の中、精神科入院者はかつてない危機にさらされている。

1つ目は、精神病院では大規模クラスターが多発し、国内の感染率の4倍ものリスクにさらされている危機。2つ目は、コロナ対策の名のもとに面会も外出も極端に制限され、人権状態が危機にある。

 

閉じ込められながら国内感染率の4倍

 

私は「精神科病院・コロナ」などの複数のキーワードによるGoogleアラート検索と病院のWEBサイト、自治体のコロナサイトなどをチェックして、精神病院における新型コロナ感染状況を集計してきた。

 その結果、把握できた分だけで、2021216日時点で、73病院入院患者を含む院内感染があり21病院では収束していない。陽性患者数2,842人、死亡患者数47人、陽性職員ら802人で合計3,644人だった。報道されない院内感染も多く、病院のサイトのチェックで偶然見つかることも多い。したがって、全ては把握しきれないが、少なくとも入院患者の感染は国内感染率の4倍、死亡率4倍と驚くべき状態だったのだ。100200人のクラスターとなっている病院ほど、死亡などの転帰や指定医療機関への転院者数を明らかにしない傾向がある、実態の把握は困難だ。職員のみの感染は72病院よりはるかに多く、集計では省いた。

 感染率、死亡率は、東洋経済オンラインの「新型コロナウイルス国内感染の状況」の最新集計から。(報道でつかめない総合病院・大学病院の精神病棟入院者は含んでいない)

 

大規模クラスターが多発

 

 患者と職員を合わせた院内感染規模で5人以上が「クラスター」と呼ばれる。1~4人:13病院、519人:13病院、2039人:13病院、4059人:10病院、6099人:14病院、100人~199人:7病院。200人以上:3病院。私が把握した73病院のうち88%にクラスターがあり、40人以上のクラスターは47%にもなる。しかも、100人超が10、そのうち3病院は200人超と爆発的である。しかし、ほとんどテレビで報道されることはない。

患者のみの感染を見ていこう。精神科病棟は5060人規模なので、患者の感染が30人以上のところは病棟の大半が感染しているのが34病院、50人を超えると一病棟がほとんど感染で19病院、50人を超えると一病棟がほとんど感染で19病院、そのうち100人超は8病院で、190人超は2病院もある。2つの病院はぜん病棟の約7割が感染している。

 障害者施設、高齢者施設など自由を制限されている人たちの集団収容施設は、新型コロナ感染に極めてもろい。しかも、医療機関としての人員が少なく、防護具、感染症対策のトレーニングが十分ではない。

 

人権状況も危機的

 

昨年3月、神戸市の郊外にある神出(かんで)病院で長期にわたる意図的で悪質な入院患者への集団虐待が発覚して、6人の看護師らに実刑判決が確定した。おそれていたのだが、今年1月に病院で入院者59人を含む73人の新型コロナのクラスターが発生した。同病院では、過去にはインフルエンザに感染した患者4人を一部屋に閉じ込める違法な複数隔離が行われており、昨年、神戸市より改善命令が出ている。適切な医療の保障も心配されている。

三密状態で収容される精神病院はコロナ感染にとてももろい。閉じ込められながら国内感染率の4倍、死亡率4倍にさらされるのは極めて不条理だ。その上、感染対策で外出も面会も制限され、退院促進にも支障が出るなど、人権状況も危機的になっている。大阪精神医療人権センターでは、訪問や面会活動が困難な状況だが、リモート面会の実践と普及に向けて取り組んでいる。コロナ禍によりそのリモート面会さえ中止する病院も出ている。通信・面会は保障されないといけない。

 

精神病院中心から地域精神保健への転換を

 

人口当たり精神病棟数はOECD平均の4倍という収容率だ。約半数が強制入院で、人口当たりの強制入院率は欧州平均の10数倍、平均在院日数はOECD平均の約10倍、閉鎖病棟が7割。こんな国は日本の他にない。

はからずもパンデミックが日本の精神医療の転換すべき根本的な課題を浮き彫りにした。

 治安と医療経済優先の精神病院収容主義から抜け出して、病床を削減し、退院促進とともに医療人員も地域医療に出ていくべきだろう。そして尊厳を軸とした地域精神保健に転換すべきではないか。

 

 

上は《おりふれ通信》に載った有我譲慶(ありがじょうけい)(認定NPO法人大阪精神医療人権センター理事・看護師) の記事を (一部省略して) 転載したものです。

イタリアでは1998年に新たに制定された法律に基づいてすべての精神病院が機能を停止し、入院患者たちは巷間に大挙流出しましたが、イタリア社会はそれを寛大に受け止め吸収しました。それに引き換え、日本はソルジェニーツィンの言葉を借りればまさに「収容所列島」の観を呈しています。

有我氏のレポートを見ると、小池都知事や国の発表するコロナ患者の日ごとの数字が嘘っぽく見えてきませんか。保健所から上がってくる数字の中に、精神病院のクラスターや、自主的に民間のPCR検査を受けて陽性と判明した人の数は、正しく反映されていないに違いないことは誰の目にも明らかではありませんか。実際にはその何倍ものコロナ陽性患者が国内に潜んでいることを念頭に置いて行動しなければ、足をすくわれることにもなりかねません。

 

私は、古典的な呼び方では「早発性痴呆症」と呼ばれた不治の病(その後「精神分裂病」と呼ばれ、今は「統合失調症」と呼ばれて「不治」の烙印は取られましたが)の疑いで閉鎖病棟に入れられた妹を社会に奪還するために、家族や社会の偏見と闘いました。そして、20年ほどかかってやっと専門医から「寛解」(かんかい=精神病の症状が消えて安定すること)したとのお墨付きをもらい、一応≪成し遂げた≫と思って退院した妹を家族に託し、自分は長年温めていたカトリックの司祭職への理想を実現するためにローマに渡って神学の勉強を始めました。しかし、悲しいことに、家族は妹を再び閉鎖病棟に入れてしまったのです。私は夏休み毎に帰国し、妹を見舞って、毎年「あと○○年したら神父になって帰って来るから、そしたらまた一緒にやり直そう」と言って励ましてきたのですが、私が司祭になる1か月前に彼女は病院の中で自死してしまいました。

私は聖書のよきサマリア人と正反対の態度をとって、彼女を死に追いやってしまったのです。神父になる勉強をやめて、すぐに帰国して妹を引き取っていたら、今頃彼女は生きていたはずなのに、自分の都合で、妹は劣悪な環境に耐えながらも、待っていてくれるものと勝手に決めて、自己実現を優先していたのです。悔悟の念と罪意識は私の司祭職の裏に張り付いています。

現在、精神疾患による入院患者数は28万人(2017年厚労省調査)、内、入院1年以上17万人、5年以上9万人もいます。そこがコロナウイルスのクラスターの温床であり、死亡率は外の社会の4倍にものぼります。

私たちは、社会から忘れ去られた彼らのために祈ることしかできないのでしょうか。

 

 

妹の病との戦い、私の神父になる経緯は、私の最初に一冊「バンカー、そして神父」-放蕩息子の帰還―(亜紀書房)に詳しく書きました。興味のある方はお読みください。👇

 

https://books.rakuten.co.jp/rb/16471512/?l-id=search-c-item-img-01

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 友への手紙 インドの旅から 第19信 サンガムの沐浴

2021-03-10 00:00:01 | ★ インドの旅から

~~~~~~~~~~~~~~~

友への手紙

インドの旅から

19信 サンガムの沐浴

~~~~~~~~~~~~~~~

 

何という偶然か。

 

私がアラハバードに着いた翌朝は、ちょうど祭の初日に当たっていた。

ジャムナ川とガンジス川の合流するこの地は、何千年もの昔からヒンズー教徒らにとって最も重要な聖地であった。

 

 

何百万とも知れぬ巡礼の群れが、ヒマラヤの森から、デカン高原の奥地から、ケープ・コモリンの椰子の木陰から、星の暦を頼りにこの日に向かって巡礼の杖を進める。

一年に一度の祭り、そして六年に一度廻ってくるこの大祭に、インド人は必ず一度はやってくる。

早朝宿を出て、サンガムと呼ばれる合流点の砂州に向かった。

 

 

 

日の出を期して沐浴すべく、たくさんの人々が、手に手に花と真鍮の手桶を持って川に向かう。

サンガムまで小舟で近づく。外国人観光客のためには別の小舟が用意され、盛んに客引きをやっていたが、私は巡礼の群れにまじって行くことにした。小さな舟に年寄り、女、子供、田舎者、都会っ子、みんなここでは同じ人間。ぎっしりと乗れるだけ乗るともう沈まんばかりだ。

朱墨をとかしたような朝日が河霧の中に差し入ると、累代の王が岸辺に築いた城塞の壁がバラ色に染まる。

 

 

どの舟もどの舟も巡礼者の語らいを満載して静かに進む。

サンガムが見えた。

何処までが砂州で、何処から河なのか全然見当がつかない。ぎっしりと集まった舟は互いに舟べりを接するほどで、身動きもならない。人びとの叫び声、船頭の怒鳴る声、子供の泣き声。騒然たる中に、水上警察の拡声器の声が加わる。

 

 

 

川の水が干上がったかと思うほどの人の波。自然のスケールの雄大さといい、そしてまた伝統の持つ重さといい、30万人を動員したカトリックの聖体大会も全く影が薄くなってしまうほどだ。かえって、聖体大会を成功させたものの背後には、無意識のうちにインド人の血の中で騒いでいるサンガムの祭りへの郷愁があったのではないかとさえ思った。

 

写真を撮るのも忘れて、タダ呆然と眺めていると、船頭が「お前も早く着物を脱いで入れ」という。

さあ困った。不信心者の私にはどうしてもこの汚い河に入る気がしない。しかし、よく見ると同じ船で入らぬものは私だけ。

 

さっきまでサリーをまとい、白い腰布を巻いて世間話をしていた善男善女は、いつの間にか薄いものに着替えて水の中に入っている。浅瀬に立って朝日を礼拝し、何度も頭まで水の没し、花をまき散らし、水を口に含み、川底の泥をすくって指で歯を磨き、・・・聖なる河にはバイ菌は住まぬものと見える。最後に真鍮の手桶に水をいっぱい汲み取ると、彼らは舟に上がってくる。男も、若い娘たちも巧みに濡れた着物を着換えていく。素晴らしい芸術だと思った。

 

すっかり清められた彼らは、高く上った陽の下を晴れ晴れとした顔で元来た岸へもどっていった。

彼らはこれから生命の水をシバ神の神殿へ捧げに行くのである。

ヨルダン川のヨハネの洗礼。日本人もみそぎをする。身体を清める時、心も浄められるのであろうか。

 

川岸のガート(木浴場)

 

(今回のブログに添付の写真はウイキペディアから借用したものです)

 

 

1964年の旅には、勿論カメラを持参していた。しかし、まだフイルムカメラの時代で、そのネガは未整理のまま膨大な数のネガの間に眠っていて、見つけ出すことはできない。中には失われたものもあるだろう。

 

改めて調べてみると、このサンガムの沐浴は世界最大の祭りで、1億人とも1億3000万人ともいわれる巡礼を集めるのだそうだ。日本の全人口に相当する数が巡礼すると言うのだから半端ではない。

 

最後の長編小説「深い河」を1993年の発表した遠藤周作は、1990年2月にその小説の下調べのためににインドに旅行、ガンジス川のほとりの町ベナレスを訪れているが、アラハバードまで足を延ばしたと言う記録はない。ベナレスには私もアラハバードのあとに訪れたが、そこまでは直線距離で110キロ、今なら車で2時間余りの距離だろう。

 

ベナレスを流れるガンジス川の岸辺にもガートと呼ばれる沐浴場が連なっている。

遠藤周作は彼の代表作でもある「沈黙」を1966年に発表して以来、「深い河」に至るまで、一貫してキリスト教と日本人の心との関係について独特の解釈を展開してきたように思う。

私は、遠藤の理解したキリスト教と日本の精神風土との関係性に、ある意味で誘惑的な、しかし、極めて危険な思想が隠れていることを以前から見て取っていた。

 

しかし、ここにそれを展開したら、長くなりすぎるので、次回のブログで私の考えを述べてみようと思う。乞う、ご期待。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ インドの旅から 第18信 月夜のドライヴ

2021-03-03 00:00:01 | ★ インドの旅から

~~~~~~~~~~~~

インドの旅から

18 月夜のドライブ

~~~~~~~~~~~~

 

十字架の丘の僧院に別れを告げて、ダグラス機でハイデラバードへ夜間飛行。見下ろすとただ黒い地面ばかり。夜間、電灯がつくのは大都市の中心部だけなのだ。

回教徒の手で建てられた古い都市、ハイデラバード。ここの博物館は外にも名高く、古代インドのものから、イスラム文化時代、そしてとくに植民地華やかなりし大英帝国の文化遺産には、目を見張らせるものがあった。

 

お正月にはボンベイ(ムンバイ)の日本総領事館の新年パーティーに出た。美しく着飾ったきもの姿の女性が印象的だった。

 

汽車でアーメダバードへ。私はそこでインドの宇宙線研究所を見た。若い科学者たちの学寮で3日間を過ごした。彼らは非常に幸せそうに生き生きと研究している。

 

ニューデリー。ガンディーの墓。ネルーの墓。どちらも古墳のように大きく、献花の絶える日が無いのだ。

 

 

アグラ。タージ・マハール、美姫の追憶は今もここにある。私は貴重な一日をここに費やし、世界の七不思議のひとつである月夜のタージを味わった。

 

 

 

カジュラホ。

アグラから少し下がった辺鄙なこの地に、人呼んでセクシーテンプルと言う寺院がある。雲一つない瑠璃色の空を突き上げる四基の大寺院。その黒褐色砂岩の屋根、壁、そして内部の至る所には、まるで開放的でギラギラとまぶしい男女の合歓像がならんでいる。この一面に目を閉じると、インド全体に対する理解が狂ってくる。

 

 

カジュラホ寺院の近くの国営ホテルで、私は気の良いインド人紳士と仲良くなった。彼は石油会社の外交員で、各地のスタンドの経営状況を視察して回っている。何日も、日に何百キロも自分の車で移動すると言うことだった。

 

すっかり意気投合した二人は、次の目的地が同じなのを知って、コップのビールをグイと飲み捨てて、早速出発することとなった。

 

インドの道路は概して非常に良い。4車線ほどの広さの道の真ん中が分厚く舗装されていて、舗装されていない側道部の外側には古い立派な並木がどこまでも続いて、濃い緑の陰を落としている。この高原の半乾燥地帯にこれだけの樹木を育て上げるのは並大抵のことではない。大名行列を護った東海道の松並木もこれには及ぶまい。今の日本には、これにくらべられるほどの巨大な並木はどこにもない。

 

道路は英国人に敷いてもらっただろうが、この並木はインド人の愛情なしには育つはずがない。1-2ヵ月で枯れる草花を街角にちょこちょこ植える予算の一部で、100年、200年先を考えて、郊外の街道に樹木を育てるほどの心が日本人にも欲しいものだと思った。

 

道はどこまでもまっすぐである。対向車はほとんどない。私は名神ハイウエイの話を彼にした。自分の経験では、道が適当にカーブしていることは居眠り運転防止のためによいことだと思うと言うと、彼は「インドではどんなに長いまっすぐな道を敷いても心配はないよ。ドライバーが仮に熟睡してしまっていても、目的地に着けばちゃんと車が止まるように出来ているんだからね」と言った。

 

怪訝そうな私の顔を見て、ニヤリとした彼は、向こうからぐんぐん近付いてくる2頭の水牛に引かれた荷車を顎で示した。すれ違いざまに見ると、なるほど、馭者は荷台の幌の陰で高いびきであった。インドの主要交通機関は今もなおこれであったのだ。水牛は明朝無事に目的地について、ご主人様のお目覚めを忍耐強く待つことだろう。

 

落日荘厳。

 

月が昇った。

 

時速70マイル(112キロ)も速いとは感じない。話はいつか独身論に及んだ。彼はまだ結婚していなかった。インド人としては例外的に遅いほうだ。彼はカトリックの聖職者の独身生活は自然に反すると言って反対した。私も早くいい人を見つけて身を固めるようにとおせっかいなアドバイスをしてくれた。そう言えば、ボンベイでもヒンズー教徒の篤信な婦人から同じ勧めをいただいたことがあった。神父になるなら五十を過ぎてからにしなさい。家庭生活を十二分に堪能したあとで・・・と言うわけだ。カジュラホのセクシーテンプルの精神である。

 

私も司祭職を一つの職業として見たとき、独身は絶対的条件ではあり得ないと思う。イエスは独身のまま十字架の上で果てた。しかし、十二使徒の中で、若いヨハネ以外の何人が童貞者であったかは興味深い問題だ。聖書には使徒の頭のペトロに姑がいたと記されている。と言うことは彼には妻も子もいたことを示唆している。

 

どの宗教にも独身の隠遁者はいる。しかし、キリストの浄配としての修道的孤独、あの限りなく豊かで奥深い孤独の真の価値に対する理解は、恐らく最も正統的で円満なキリスト教の中以外では見出すことは難しいのではないだろうか。

 

多くのカトリック者にとってさえ難解なこの理想は、召されたものにだけ啓き示される神秘であるのかもしれない。インド人の常識に合わないのは当然であろう。

 

我々は車を止めた。平原の一本道。夜の11時を回っていた。車外に出て降り注ぐ青白い満月の光にぬれていると、気がふれそうになる。

 

彼は隠し持っていたウイスキーの瓶を取り出した。インドの多くの町には禁酒令が敷かれている。私が一口付き合うと、彼は安心して楽しげに飲んだ。

 

すっかり良い気分になった彼に代わってハンドルを握った私は、月夜の道をアラハバードへ向かって疾走した。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする