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私の「インドの旅」総集編(4)
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遅くなりました。今回は「超自然宗教の誕生―『わたしはある』と名乗る神」です。
(1)導入
(2)インカルチュレーションのイデオロギー
(3)自然宗教発生のメカニズム
(4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神
(5)「超自然宗教」の「自然宗教」化
(6)神々の凋落
a)自然宗教の凋落
b) キリスト教の凋落
c) マンモンの神の登場 天上と地上の三位一体
(7)遠藤批判
(8)田川批判
(9)絵に描いた餅は食えない
(10)超自然宗教の復権
(4)超自然宗教の誕生―「わたしはある」と名乗る神
アダムとエヴァの失楽園 ミケランジェロ
では、宇宙の自然を超越したところに、人間の知らない神が存在しているとしたらどうだろう。
自然の一部である人間の思考は自然の枠内にとどまるから、人知の届く範囲の外に何かがあるか、無いか、については何も言うことができない。科学的にも138億年前にビッグバンが生起したところまでは推論が及ぶが、それ以前に何かあったか、無かったか、そしてビッグバンの原因は何かについて、人類には知る術がない。当然のことながら、自然の一部である人間が自分の想像力で自然に投影した神も、自然の枠組みを超えることは出来ない。
だから、自然界の埒(らち)外に、永遠の昔から卓越した知性と自由意思を備えた「わたしはある」と名乗る「生ける神」が存在していて、その神が自らの溢れる愛で宇宙を無から創造し、それ以来自然界を慈しみを込めて一瞬一瞬 ―従っていまこの瞬間も― 無から存在界に呼び出し続け、支え続けているという事実は、その「生ける神」自身が人間に説き明かさない限り、人間はこの驚くべき事実を永遠に知ることも想像することもできないはずだった。
他方では、人は、人知の及ぶ限りの全てのものに名をつけてきたが、知らない神に対しては、当然のことながら、名を付けることはなかった。だから、人間が名をつけなかったのに存在していて、予期せぬ時に圧倒的な存在感をもって迫ってきた神にはじめて出会ったとき、人はまずその名を問うしかなかった。 そして、「あなたは一体どなたですか」と言う問いに対して、相手は「わたしはある、あるというものだ」と答えたのだった(旧約聖書出エジプト記3章14節)。
「わたしはある」と名乗る神が、自然界を超越したところに生きて存在するという否定し難い事実を、人類はその時はじめて知った。そして、この答えは哲学的に見ても実に意味深いものだった。なぜなら、およそ理性が把握しうる概念で、「わたしはある」以上に根源的な名前は他に考えられないからだ。
以来、この神と人との関わりとして全く新しい「宗教」が生まれた。それは、自然とのかかわりの中で人間が生み出し、人間が名前を割り振った神々との関係を「自然宗教」と呼ぶとすれば、それと明確に区別して、自然を超絶した次元に人間の存在以前の永遠の昔から実在する神として、「わたしはある、あるというものだ」と名乗り出た神と人との関係は、「超自然宗教」と呼ぶに相応しいだろう。
ところで、人類の太古からの口頭伝承が紀元前4世紀ごろまでにパレスチナ地方で書きとめられたものとして旧約聖書という文書がある。その第一巻、創世記の中には、その第一ページから、自然を超えたところに存在する神が人類の歴史に介入して、人間に理解できる言葉で具体的個人に語りかけた場面についての記述がいろいろと知られている。
重要なポイントをプロットすれば、人類の最初のカップル=アダムとエヴァ=の誕生物語と、彼らが神から一つのテストを受けたこと。楽園に置かれた二人は、「園の全てに木から食べてもいいが、園の中央に生える善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われたこと。しかし、人は蛇の嘘に騙されて、その実を食べ、その結果、人祖も、そのすべての子孫も、死すべきものになってしまったこと。そして、人祖は楽園を追われ、こうして、神の創造と進化の業は、その最終段階で、人間の一つの不従順の結果、大失敗に終わってしまったこと、等々。
しかし、神による人祖の過ちの尻ぬぐいの業、つまり、人類の罪の贖いと救済の歴史は、人類の失楽園の直後から直ちに始まった。その意味で言えば、聖書はすべて「わたしはある」による人類の救いの歴史を記したものと言える。
聖書物語の中には、アダムとエヴァの子孫はセム族、ハム族などに枝分かれしていったが、セム族の伝承の中にはノアの洪水伝説、バベルの塔の建設と言語の混乱、それに続く人類の全地球的拡散、などが記されている。しかし、その初期の物語や出来事は、全体の流れはわかっても、今からどれぐらい前のことであったか、その歴史性を正確に把握するのは難しい。
ノアの箱舟
バベルの塔
そんな中で、創造主なる神がアブラハムという老人に個人的に語りかけたという話が出てくるのだが、現代人の感覚で言う歴史的出来事として辿れそうなものとしては、恐らくそれが最初(最古)のケースとして特筆されるべきではないだろうか(注-1)。なぜなら、このころになると、そろそろ地球上の様々な地域に古代文明が並行して興りはじめており、地理と歴史的年代考証の手掛かりがいろいろと生まれてきたからである。
アブラハムの世界 右下ペルシャ湾に注ぐ川の近くにウルの町が
イラク南部、ペルシャ湾にそそぐユーフラテス川を少し遡ったところに、ウルと言う町があった。そこに今から3千700年ほど前にアブラハムと言う裕福な老人がいた。彼は遊牧民の族長で多くの家畜と奴隷を抱えていたが、自分を葬ってもらう土地と自分の血を継ぐ息子を持たないために、決定的に不幸な老人だった。
神はこの歴史上の不幸な老人に、もし自分に従えば、永住の土地と命を受け繋ぐ息子とを約束する、と告げたのだった。
ところで、神が人間に語りかけるとはどういうことだろうか。そもそも、神はどのようにして人と話すことが出来るのだろうか。神がご自分のことを「わたし」と自称されるのは、神が理性と自由意思とを備えた「位格者」(ペルソナ=自我の主体)であることを意味している。また、語りかけられた人間=この場合アブラハム=も、造物主とその被造物とのあいだの大きな隔たりを超えて、同様に理性と自由意思を備えたもう一個のペルソナであることを前提としている。
神は、自然の進化の長い過程を導く中で、物質とそこから生まれた生命の進化の気の遠くなるような道程の最先端に、ついに理性と自由意思を花開かせ自我に目覚めたペルソナ(人間=人格の主体)を生み出すことに成功した。ここに初めて、自然を創った神の「わたし」と、神によって創造された被造物である人間の「わたし」との間に、互いに向き合って対等に対話する可能性が生まれたのだった。
では、「わたしはある」と名乗る創造主である神とアブラハムという名の一個の人間との間でどのように意思の疎通がはかられたのだろうか。それは人間の理解できる言語によらなければならなかったはずだ。
人間は自我の主体としての「不滅の魂」と「肉体」とから成る存在である。それは霊・肉の二つの部分の単なる連結・結合・合体によるものではなく、二つの要素が密接不可分に融合した一個のペルソナ=人格であって、しかも、肉体なしには魂は全く何も感知せず理解することも判断することも発信することも出来ない存在である。
だから、神の語りかける言葉も、自然に考えれば、音として人間の耳に届き、聴覚神経を伝って脳に達して初めて人間の魂、人格の理解するところとなる。もちろん、空気の振動である音を介さなくても、神が直接に聴覚神経や脳に物理的刺激を与えることによって神の言葉を人間に理解できる言葉にして伝えることも出来ただろう。いずれの場合も人間の存在の条件を定めた神にとっては、いともたやすいことだが、神が人間の肉体の介在を完全に無視して、直接に魂に働きかけることはあり得ないと考えられる。何故なら、それは霊・肉が不可分に融合してひとりの人格を形成すると言う人間存在の基本条件の否定につながるからだ。
ちなみに、人間の魂は不滅であっても、肉体には限界があり、罪の結果として必ず死によって破壊される。すると、不滅の魂は外界や他者とのすべてのコミュニケーション手段を断たれ、深い眠りに落ちて、存在はしていても、取り敢えずは実質上無に等しいものとなる。
とにかく、神は自然の創造主でありながら自然を超越し、万物を「絶対無」から創造された神だから、必要とあれば、人間の聴覚システムのどこかに触れて、人間の言語能力に適合した方法でご自分の言葉と意思を伝達することはいとも簡単なことだろう。
他方、神は人間の心身の創造主であるから、人間のあらゆる言葉を理解し、言語化されなかった人間の心の動きも全て瞬時に把握することがお出来になる。人間が心で思うことと異なったことを言ったとしても、神は決して欺かれることはない。こうして、神とアブラハムの対話は双方向にスムースに進むことができるのだ。
さて、時代が下って、アブラハムの子孫がエジプトに居留していた頃、モーゼがホレブの山で神に出会ったとき、神は初めて自分の名を「わたしはある、あるというものだ」と名乗り出たことは既にふれた通り (注-2) だし、神が自分の名を名乗ったことでその神ははじめて具体的な存在として人間に知られることになったことも、また、それ以来その神と人間との間に様々な交流が生まれ、この人間と超越神との関係が「超自然宗教」と呼ばれることもすでに述べた。
この生ける神は、人類の失楽園後の長い救済史の時が満ちるのを待って、自分の言葉=ロゴス=神のひとり子=を人間の姿に受肉させ、ナザレのイエスとしてこの世に送り、そのイエスは福音=善いメッセージ=を告げ、人々を回心して福音を信じるように招いた。
この間の一連の事情は、実に多くの説明を要する重要な点であるが、すでに私のブログ「私のインドの旅と遠藤周作の『深い河』(4)2021.05.21」に詳しく書いたのでここでは繰り返さない。興味のある方は、是非再読していただきたい。
結論的に言えば、30年間の私生活と3年間の公生活の後、イエスは最後に十字架に自由にのぼり、自分の苦しみを通して人類の全ての罪を贖い、自分の死を通して人類の死を滅ぼし、自ら復活して人類に復活と永遠の至福の命を得る可能性を開いた。
信仰の光に照らされて、神の無条件の愛と罪の赦しを信じ、イエスの復活と永遠の命を確信した信者たちの集い(教会)は、それまでの自然宗教にはなかった魅力と輝きを放ち、ユダヤ人ばかりではなく、多くのローマの市民をも惹きつけた。
しかし、初代教会では、キリスト教への入信を希望するものを簡単に受け入れたりはしなかった。これらの人々には、入信に先だって徹底的な信仰入門教育が施された。そして、その徹底した準備過程をとおして、自然宗教のご利益主義を脱ぎ捨て、超自然の神に帰依するために180度の回心の道程を、段階的に時間をかけてしっかりと歩み、確かな回心の証しを立てたものにだけに洗礼が認められた。
この入信の過程では、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」とか、「神と富に兼ね仕えることはできない」とか、「汝の敵を愛せ」、「罪を悔い改めよ」などの課題が与えられた。
ローマ帝国の最底辺で虐げられ喘いでいた貧しい民衆の間では、このような過程を経て、神の前に自分の罪の深さを痛感して改宗し、キリスト教に帰依する者の数はは急速に増えていった。
しかし、それまでギリシャ・ローマの神々を拝み、民衆には自らを「生き神様」として拝ませてきた皇帝にとって、ローマ帝国の版図の最下層の貧民など、言わば、生かすも殺すも意のままの女奴隷のような存在だったが、その「女奴隷」が、自分を袖にして神の子キリストの「花嫁」となって去って行くのを見たとき、皇帝はナザレのイエスとか言う「色男」に自分の側女を寝取られた思いがして、さぞ怒り狂ったことだろう。そして、そんな女は皆殺しにしてしまえとばかり、キリスト教徒を片端から捕え、拷問し、円形競技場に引き出して、ライオンに食い殺される姿を観衆とともに見物してサディスティックな楽しみに耽った。
ところが、神の無条件の愛と全面的な罪の赦しを信じ、イエスの復活と永遠の命を確信した信者たちは、迫害も殉教の死も恐れず、弾圧されればされるほど燎原の火のごとく燃え広がり、貴族や上流階級からも帰依するものが大勢現れた。このような状況の中で、キリストの死と復活の後、キリスト教の初代教会は300年余りにわたって、地中海世界のローマ帝国の版図で急速に広がって言った。
私が1964年に訪れたインド亜大陸には、既に紀元1世紀にキリストの12使徒の一人の聖トマによってキリスト教が南インドのマドラスにまで伝えられていた。私はスリランカからフェリーでインドに渡り、マドラスの丘の聖トマの殉教の教会を訪れている。
こうして、「わたしはある」と名乗る「生ける神」を信じるキリスト教は、それまでローマ帝国で栄えていた自然宗教(ギリシャ・ローマの神々崇拝)を圧倒してその存在感を示していった。
これが、超自然宗教の誕生の概要である。
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(注-1)アブラムの召命と移住(創世記12章1-4)
(注-2)神はモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と名を名乗り出た。(出エジプト記3:14)