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「患者」
ホイヴェルス著 =時間の流れに=
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観測史上もっとも速い梅雨明けのあと、連日の猛暑です。いかがお過ごしですか。記念すべき第45回目のホイヴェルス師の追悼ミサも無事終わり、平常に戻りました。また師の「時間の流れに」の復刻とコメントに戻ります。今回の題は「患者」です。一番短い一編かもしれません。味わってみてください。
「患者」
病床にふるえるあなた。まるで引きしぼった弓のようです。射手が矢を放とうとしているときの弓――ああ、あなたの生命はちょうどその矢のようなのです。
あなたが生まれたとき、母君はどれほど喜ばれたことでしょう。母君の周囲で遊び大きくなったあなたは、どれほど母君の心を喜ばせたことでしょう。その母君は今、どこにましますのか。今は知らない人ばかり、ベットの周囲に立ちならび、助ける手段もなく、いたずらにあなたのふるえる身体を眺めているのです。ほかのベットの患者たちはみな、息をひそめて、眼をあなたの方に向けています。こんど彼らの間から運び出されて行かなければならない者は――あなたなのです。
同情心の深い人はあなたの枕もとに私を呼び寄せました。がたがたふるえながら私をじっとみつめるあなた――死んでから後どうなるのでしょう。せひとも永遠の生命をえたいものです。
死の神秘におそれおののいている娘よ、この世で受けた幸福は少なく、今は生命さえ最後の分しか残っていません。このみじめな分さえ、まもなく捨てなくてはならないのです。ああ主により頼み奉る。願わくは、この娘がみ前にいで立つとき、多くの喜びを与え給わんことを、ひたすら願い奉る。主よ、限りない喜びをこの娘の上に注ぎ給え――もはやこの世に生くべきものではございませんから。主がかつてヤイロの娘にされたことは、ここではおそらくなされないのでしょう。
永遠の生命の恵みを受けるため、娘ははげしくふるえながら、なおも起き上がろうと思うのです。しかし力は足らず、再び頭は枕に落ち、詫びるような面持ちで周囲の人をあわただしく見る。お詫びはなさらないでもよろしいのです。静かにして寝たままで生命の恩寵をおうけなさい。そうしてあなたの最善の心で、神の贈り物をいただきなさい。
私は娘の額の上に水を注ぎ生命の言葉を発し、そして布切れで洗礼の水と喜びの涙を額にほおにぬぐいとる。神もまた、こうしてさらにさらに優しく、あなたの一生涯の苦しみの涙をふき給うように。愛する娘よ。
これ以上、何をあなたにあげましょうか。
できることならまず健康を、健全な肺をあげたい。あなたが春の屋外へとおどりゆき、神の造り給うた空気がどんなに人間にとって善いものであるかを感じるように。それは今、あなたの胸をあわれにも苦しめていますけれども。
さて、いたしかたもなく今はあなたをベットに残します。力ない身体は慈悲を知らぬ熱に焼けて乾いています。しかしもう身体はふるえず、あなたは静かに小さなほおえみを浮かべ寝たまま神に感謝しています。
私もまた主に頼みまいらせる。この子供の上に最も善い喜びを下し給うように。主はこの子供の唯一のよりどころでございます。世界宇宙を造り給うたこと、広大な海岸も全能のみ手によってできたことは疑いはいたしません。また主はすべてのお造りになった生物に対して寛大なお心をお持ちになることも固く信じております。それゆえにこの子供にも天国においては、普通よりたくさんの歓喜を、小さな心に溢れるばかりおいれ下さい。しかもその十五年の生活によって、それも病苦に悩むあわれなわななきによって、この洗礼の恵みをとりいれたのですから、驚くばかりの豊かな喜びをお与え下さいませ。
さて娘よ、今はお別れです。いろいろな用事があって、帰らねばなりません。母君が枕辺におられないのは、――おそらくもはや、みまかりしものか、悲しく思います。私は母君の代わりをしてあげることができません。でもあなたは今落ちついて、お別れに際しては、全く天国からのような美しいほおえみをお顔に浮かべて下さる。ではいたしかたありません。――さようなら。ドイツ人の私は心の中でAuf Wiedersehen!「またおめにかかるまで!」と低くささやきました。
師は死にゆく人の生命を、まさに放たれようとする矢にたとえます。一直線に的に向かって飛ぶために。人の命は死に飲み込まれて無に還るのではなく、輪廻の輪に取り込まれて永劫に流離(さすら)うのでもなく、愛と慈しみの神様の懐に向かって真っすぐに飛んでいくのです。
まだしばらくこの世に留まる人々に見守られながら。
迫りくる得体の知れない「死」の前に恐れおののくまだ若いいのち。
善き牧者であるホイヴェルス神父は、この幸薄かった娘の上に永遠の喜びを祈念しながら、師は牧者のつとめに従って洗礼を授けます。そして、娘は静かに小さなほおえみを浮かべ寝たまま神に感謝しています。
師は万物の造り主なる神に、驚くばかりの豊かな喜びをこの薄幸な娘の上に祈り求めます。そして、淡々と次の牧者の務めに向かって娘のもとを去って行きます。心の中では
Auf Wiedersehen!「またおめにかかるまで!」と
ドイツ語で低くささやきながら。
キリスト教の確信は、人間の生命の不滅、世の終わりに体を取り戻して復活することへの確信です。新、旧約聖書を通して数十回述べられている通り、人は死とともに深い眠りに落ち、復活の日に肉体を取り戻して蘇ります。
私も、幼い時に死別した母と再会します。Auf Wiedersehen! です。
それまで、深い眠りの中に居るでしょう。世の終わりの日までにこの地上で、また大宇宙で、なお何億年もの長い進化の時間が経過したとしても、死者にとっては死の次の瞬間に復活です。
ちょうど、全身麻酔のとき、麻酔のドクターと看護師の会話が聞こえなくなってから、看護師に「○○さん!気がつきましたか?」という声をきくまで、一瞬の出来事であったように、死と復活の間の時間の経過は死者にとってはゼロ、死と復活の間はコインの裏表のように一瞬の出来事と感じられるでしょう。全身麻酔で一時的にー人工的にー五感が封じられた時に時間の経過を感じなかったとすれば、それ以上に完璧に、死んで五感が停止して間もなく火葬されて煙と水蒸気とわずかな灰になって体を完全に失った後、人は五感の窓が閉じた中でどうして時間の流れを知覚することができるでしょう?
私は今日のカトリック世界で最高学府とも言われるローマのグレゴリアーナ大学の講義の中で、私の上の確信を覆す有効な反論をどの教授からも聞いたことがありませんでした。
人にとって、ホイヴェルス師の本の題名の「時間の流れ」はこの世の生の時間のこと。ひとは、復活の後は神の命の中に生きる「永遠の至福の時間」「永遠の今」に熔け入るのです。