:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 泰阜村「カルメル会修道院」縁起 (そのー3)

2024-01-03 00:00:01 | 私的なブログ

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泰阜(やすおか)村「カルメル会修道院」縁起

(そのー3)

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 馬場神父を大阪教区から不正にして無慈悲にも追い出したのは、第2次世界大戦中から戦後にかけて37年の長きにわたって大阪大司教区に君臨した田口芳五郎大司教・枢機卿だった。

 戦勝国アメリカは、戦後の日本統治の手段の一つとして、キリスト教を大いに保護・優遇した。カトリック教会も占領軍を後ろ盾に日本各地の一等地にたくさんの土地を取得した。そして戦後の土地神話のもとで巧みに土地ころがしをして、教会に大いに富をもたらしたことで田口大司教は知る人ぞ知るの存在だった。

 しかし、一人の人間が長期間、しかも終身にわたって権力の座についていると、様々な弊害が生じるのは聖俗を問わず世の常だ。大阪教区の板倉神父が大司教の教会統治の問題点を批判してパンフレットを作り流布した。それに対する制裁として大司教は同神父を幼稚園園長職から解雇した。首にされた神父は大司教を相手取って不当解雇撤回を求めて裁判に打って出たが、その神父を馬場神父ら「雑魚の会」のメンバーの若手神父たちが支援して立ち上がったのだ。

 カトリックの大司教と言えば、教会の中では絶対権力者だ。田口大司教の逆鱗に触れた「雑魚」どもが、教区外に追放されたのは当然と言えば当然のことだった。しかし、彼らが何か不正を働いたとか、悪徳に走ったとかいうわけではないから、一部の人々の同情は彼らに集まっていた。神様の目からすれば、彼らの方が正しく、正義と愛徳に反したのは大司教の方だったのではないか。

 泰阜村縁起のそもそもの発端は、この若手造反神父たちの追放にあった。無慈悲にも教区を追われた馬場神父らが、司祭としてのアイデンティティーと生き甲斐を求めて、もがき、苦しみ、手探りで障害児のコロニーの企画書をー私をもその賛同者に巻き込んでー作り、それをもって全国を巡り、やっと見つけたスポンサーが泰阜村だった。

 その後の展開については「泰阜村縁起」(そのー1)と(そのー2)に詳しく書いたからもう一度読んでいただきたい。

 田口大司教が1978年に亡くなると、安田大司教がその後を継いだ。

 安田大司教は正しい人だったのだろう。田口大司教の圧政の犠牲になって散らされた羊たちを探して、救済と名誉回復のために動いた。そして、馬場神父の好きな洋酒を一本下げて、わざわざ泰阜村までやってきた。不正に教区を追われた馬場神父に司祭としての身分を認証し名誉を回復するから教区に戻るようにと説得するためだった。

 しかし、馬場神父は過去の問題には蓋をして、ただ教区に戻れればそれでめでたし、めでたしという考え方には同意しかねた。そして、田口大司教の横暴に忖度して、馬場神父らに対する不当なイジメに手を貸した実行犯たちに対する何らかの処分を求めた。これにはさすがの安田大司教も怯んだ。田口大司教亡きあとも、それらの重鎮神父たちは教区の実権を握っていた。新任大司教といえども彼らに一目置かなければ教区の掌握は難しかったからにちがいない。 

 安田大司教は持参した酒を残して、成果なく帰っていった。こうして、馬場神父の処分解除と名誉回復の貴重なチャンスは失われ、引き続き泰阜村に放置されることになった。

 その後、馬場神父は体調を崩した。精密検査の結果、かなり進行した癌が見つかった。神父の身柄は泰阜村から大阪のカトリックのガラシャ病院に移されたが、この時の大阪教区による馬場神父への処遇には手厚いものがあったと思われる。

 馬場神父が田口大司教から迫害を受けて苦しんできたことを、心ある人々はみな知っていた。彼の葬儀は、教区を挙げて盛大におこなわれたと聞くが、彼の復権と名誉回復は死後になってやっと実現したと言えるかもしれない。

 私は今なぜこのことを書くのだろうか。

 それは、私がいま、あの時の馬場神父ときわめて類似した状態にいるからだ。

 私は、恩人の深堀司教引退後、同司教の路線を継承する使命を自覚し、新求道共同体のさらなる発展と、設立された「高松教区立レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」の存続基盤を確かなものとする責任は自分に託されたと自負していた。

 一方、新任の溝部司教は「新求道共同体」の解体と「レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」の閉鎖を目標にして、自信満々乗り込んできたのだった。

 溝部司教が着任後初めて私に会ったとき、開口一番「谷口神父さん、あなたは神学校の建設や、深堀司教様の裁判問題の解決のために、教区に大変貢献してくださった。有難う。さぞご苦労が多かったことだろう。少し休息が必要ではないか。ついては一年間のサバティカル(休養年)を贈りたいと思う。ローマにでも行って少し羽を休めてはどうか。一年後にはまた元の三本松教会の主任司祭として続けてもらいたい」と切り出した。言葉は優しいが、魂胆は見え透いていた。 

 一方、その時の私は休暇どころではなかった。東讃地区の拠点である三本松教会の主任司祭になって、聖堂を改築・拡充し、地域の住民に呼びかけてカテケージス(信仰入門講座)を開いて、キコと聖教皇ヨハネパウロ2世が始めた「新求道共機関の道」の新しい小さな共同体が誕生したばかりだった。それらを捨て置いて、のんびりローマで休暇などあり得なかった。

 しかし、これは優しい勧めなどではなかった。新司教にとっては、新求道共同体の弾圧と神学校の閉鎖のプログラムの障害を取り除くために、私の排除は最初に実行しなければならない不可欠な一手だった。だからこの休暇案は司教権限による私への絶対命令だった。

 拒否すれば司教に対する不従順を口実に、聖職停止、教区外追放が待っているのは火を見るよりも明らかだった。受けても、断っても嵌められる諸刃の罠だった。

 三本松の信者たちーとくに新しい共同体のメンバーたちーは不穏な気配を察して、いくつかのグループに分かれて、それぞれ司教に面会を求め、「谷口神父は本当に一年後に私たちの主任司祭として戻って来るのですか?」と確認しに行った。そのたびに、司教はにこやかに「もちろんですとも。休暇が明けたら谷口神父さんは必ず皆さんのもとに帰ってきます。ご心配なく。」と確約した。

 一年間をローマでどう過ごしたかは省略するが、11カ月余りが過ぎたころ、司教から初めて届いた短いメールには、「残念ながら教区の事情は改善されていない。したがってあと2年間の教区外生活を命じる」と記されていた。

 「飢えるなり、野垂れ死にするなり、どうぞご自由に」という冷たい響きがそのメールにはあった。初めから経済的支援は司教の頭には全くなかったし、私の手持ちの金も底をついていた。しかし、何よりもひどいと思ったのは、三本松の信者たちにした司教の確約があっさりと反故にされたことだった。

 そうだ、日本に帰ろう。帰ればなんとかなる。

 私には日本にただ一か所、誰にも奪われることのない、秘密の隠れ家があった。

 新潟県との県境に近い長野県の北端に野尻湖という静かな湖がある。そのほとりにNLA(野尻湖国際村)と呼ばれるプロテスタント各派合同の外国人牧師らの集落があった。戦時中は敵性国の外国人の収容所にもなった場所だが、一山に300戸ほどの夏用の別荘がある。もともとは明治の時代に欧米からはるばる船で来日し、一生故国に帰ることもないかもしてないという覚悟で日本の宣教に献身した牧師たちの家族が、夏の休暇を一緒に過ごすために開いた村だった。

 その別荘の一つがアメリカ帰りの私の大叔父のもので、大学生の頃はよく遊びに行ったものだった。その近くに一人の未亡人が住んでいた。彼女には私と同じ年齢の一人息子がいた。東大から慶応の医学部に進んだ俊ちゃんという優秀な若者だった。その彼が自殺した。

 山尾夫人は愛する息子の思い出の詰まった野尻の家を手放しかねていた。そこに長い間姿の見えなかった私がふいに神父姿で現れた。私は午後のお茶を頂いて、懐かしい思い出話をした後、神学の勉強を続けるためにローマにもどった。その後から手紙が追ってきた。曰く、「あなたに会って心に閃くものがあった。息子の思い出の詰まった野尻の家をあなたに贈りたい。」

 私はすぐ高松の深堀司教様に手紙を書いた。「これこれだが、私は神父になる前に銀行マン時代に持っていた家も資産も全部処分して無一物になって聖職についたのに、今さら別荘など所有していいものか」と相談すると、「その家はきっといつかあなたを護ってくれるものになる。ためらわず受け取りなさい。」という返事が返ってきた。

 その司教様の予言がまさかこんな形で的中するとは夢にも思っていなかったが、私はローマから帰るとまっすぐこの山小屋に潜り込んだ。私を護ってくれるものはこの地上にこの家しかなかった。余談だが、その前後の数年間、不思議なことに私は新求道共同体の責任者たちから何の接触も、支援も受けなかった。全く孤立無援だった。

 最初の冬は厳しかった。板一枚の上をトタンで葺いただけの屋根。壁や床は夏の別荘としては十分だが、上越の豪雪地帯で気温零度以下、1.5メートル以上の根雪に埋もれると、隙間風の寒さを防ぐ術がない。朝起きたら布団の襟元に吐く息が凍って白くなっていることも稀ではなかった。

 根雪の上に新雪が30センチも積もると、買い物には雪の斜面を泳ぐようにして公道に出るしかない。寒さに震えながらひたすら遅い春が来るのを待ちわびる孤立無援の毎日が続いた。春のある日、地方の新聞に、「国際村の別荘に死後数週間の男性の凍死体発見」という小さな記事が出ていても不思議ではなかったが、冗談にもならない。

 初めての厳冬を辛くも生き延びた。しかし、恐ろしくて次の冬に立ち向かう勇気は湧かなかった。幸い、親友のシスターが施設長をしている養老院に、小金持ちのおばあちゃんがいて、山小屋の冬仕様への改造資金を出してくれた。200万円 近い額だった。

 こうして2度目の冬も一人寂しく雪に埋もれて耐えて、やがて2年間の教区外追放生活が終わろうとしていた。しかし、今度は司教から何の指示も来なかった。だからと言って、言い渡された二年間を超えてそのままいれば、今度は従順に反して勝手な生活をしていると、あらぬ言い掛かりをつけられる恐れがあった。そこで、満期の日に野尻湖の別荘を発って高松に向かって車を走らせた。

 京都を過ぎたあたりで、司教館に電話を入れて、2年の追放が終わったからいま司教館に帰るところだと告げると、「司教は東京に行って留守だから、引き返せ。来るな。」と司教館の職員が言う。私は、「もう目と鼻の先まで来ている。今さら引き返す気はない。このまま司教館に乗り付け、そこで司教の帰りを待つ。」と言って一方的に電話を切った。司教館の駐車場で車に寝泊まりをしながら司教の帰りを待とうと腹をくくっていたが、着いてみると、事務職員は客室を空けて待っていた。急ぎ東京の司教と相談したのだろう。

 私が司教館に住み着いて動こうとしないのに業を煮やした司教は、私を追い出すために一計を案じた。深堀司教の時代にアントネロ神父が司教の許可を得て高松市の郊外に宣教拠点を開いていた。溝部司教はその例に倣って、八十八か所の名刹「志度寺」で有名な志度町に開拓宣教拠点を開け、支度の一時金として150万円を支給する、と提案してきた。

 私は「準備が整ったらそこへ移る」と言ったが、「それはだめだ。今すぐ司教館を出て、それから準備にかかれ」ときた。それで、当時まだ存在していた神学校に私物をまとめて移り住み、そこから宣教拠点開設の準備を始めようとした矢先に、「計画は変わった、宣教拠点の話は白紙に戻す。150万円の支度金ももう渡す必要はないだろう。」と言ってきた。全ては追い出すためのだまし討ち、大嘘だった。

 ごたごたしているところへ、ローマ教皇に任命された全権特使のハビエル・ソティル神父が高松にやってきた。司教は私を旅人神父として教区外に放出すると提案し、ハビエル神父は、司教が書くべき派遣状の文面を用意したが、司教は自分ではそれにサインせず、司教館事務局長の信徒にサインさせた。

 以来、今日に至るまで、私はその紙切れ一枚を根拠に国際放浪神父の生活をしている。

 本来、サバティカル(休暇年)は長年の功労に対する報奨として、本人の請求に基づいて許可されて与えられるものではあるが、司祭不足の昨今、普通にはそう簡単に与えられる贅沢ではない。まして、教区外に追放するための口実として、命令で取らされるべきものではない。

 同様に、旅人神父の身分も、本人が心にそのカリスマと召命を感じて、申し出て、許可されて与えられるものだ。本人がそのカリスマを感じず、希望も出していないのに、教区外追放のために、司教命令で取らされるものではない。

 馬場神父たち「雑魚」は田口大司教を批判して教区外追放にあった。しかし、最後には名誉は回復され大阪教区の司祭と認められて死んだ。

 私の罪状は「新求道共同体」と「神学校」という深堀司教の遺産を護ろうとしたことだ。私が教区に居て正当な地位・職責にとどまっていたら、新任の司教が前任者の遺産を乱暴に破壊しようとしても、抵抗して簡単にそれを許さないだけの自信がわたしにはあった。

 私は誰も攻撃したり批判したりしなかった。それなのに、私は教区外追放にあった。私は死んだらどうなるのだろう。打ち捨てられたままの野垂れ死にが目に浮かぶ。キリストはそうなった。そして、天の御父は彼に復活をもって報われた。

 私は正直なところ、溝部司教に司祭の給料を打ち切られて教区外に追放された時、これからどうやって生活すればいいかと先行きを恐れた。世俗に戻って働かなければならないかと心配もした。しかし、その後の生活を通して聖書の言葉に偽りがないことを、身をもって体験した。

 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ 6:26)「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」(マタイ6:28-30)

 しかし、イエスはまたこうも言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ8:20)私もそうなった。

来し方を振り返るいま、これらの言葉はまさに文字通り真実だということを納得した。馬場神父もきっと身をもって同じ体験をしたに違いない。

 

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★ 泰阜村「カルメル会修道院」縁起(そのー2)

2023-11-27 18:04:56 | 私的なブログ

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泰阜村「カルメル会修道院」縁起(そのー2)

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公道から修道院へ入る道

 

私がこの修道院の客室に泊まって一連のブログを書き始めたわけは以下のとおりだ。

 

客室の窓からの信州の山並み

 私が司祭としてなおローマで神学の教授資格を取得するために大学院に残り、やっと日本に帰ってきたとき、当時の深堀司教様は私のために高松市内で司教館のある桜町教会に次いで大きな番町教会の主任司祭のポストを用意して待っておられた。

 これは、叙階されたばかりの新任司祭にとっては異例の待遇だったが、その背景にはこの教区特有の事情があった。話は司教区の誕生物語にさかのぼる。

 四国4県が大阪教区から分離独立して新しく高松教区が誕生したときの初代司教は田中英吉司教でその下に4人の日本人教区司祭がいた。田中司教が引退した後には、 事が順当に運べばその4人の一人が2代目の司教に選ばれるという期待が高まっていた。そして、すでに問題の焦点は4人のうち誰が司教に選ばれるかに移っていた。そして中でも番町教会の I 神父が、選ばれるなら自分だと自負していた。

 ところが、ローマは期待に反して、4人とほぼ同期の福岡教区司祭の深堀敏を横すべりさせて高松の新司教として任命した。この人事には4人とも釈然としないものがあったようだった。だから、深堀司教が赴任してくると、4人の司祭たちは着座のお祝いの席で「ようこそ深堀司教様。歓迎のごあいさつとして申し上げます。当高松教区にはすでに4人の司教がおることを夢お忘れになられませんように」という棘のあるものだった。

 そういう事情の教区とは夢知らない私が、新任の司祭としてローマから帰ってきた。4人の司祭のうち一番実力のある I 神父は、当然のことながら私を自分の配下の助任司祭として迎えて鍛え上げ、こき使うつもりだったのに、深堀司教はその I 神父を主任の座から降して幼稚園の園長にして、私をいきなり番町教会の主任司祭の座に据えたのだから、 I 神父は怒りではらわたが煮えくり返ったに違いない。

 しかし、そんなことは全く意に介さない元銀行マンの私は、 I 神父の目の前で着任早々教会の大改革に手をつけた。I 神父のもとで長い冬の時代を耐えていた信徒たちは、まるで春が来て氷が解けたように生き生きと活動を始めた。若い求道者が集まった。その中にたまたま一人の OL さんがいたー仮にO さんと呼ぼうーO さんは自分の父親の顔を知らない捨てられた母子家庭に育ち、水商売をしながら派手な生活を送っていた。母親とは折り合いが悪く、稼げるようになるとすぐ母親を捨てて独立し、自由奔放な生活を楽しんでいた

 私は、彼女の奔放な生活の一面に一抹の危惧を抱いた。彼女が洗礼を受けると、その生活の改善のために気を配り、普通の神父ならしないようなあらゆる手を使って信者としての真っ当な(?)道へ誘導しようとした。そして、彼女も私の勧めに従って聖人伝などの信心書をむさぼり読むようになった。

 そんなところに、馬場神父提供の土地に泰阜村の修道院が誕生したのだった。

 

修道院の隣に立つ故馬場神父の庵の茶室にはすぐにでもミサができるように準備されたままだった

 貧しい中で娘を厳しく育てた母に反発して一人で生活を楽しんでいたO さんは、私の勧めもあって、シスターとして入会を希望するようになった。新設の修道院にとっては期待される最初の入会志願者でもあった。

 2、3度修道院を訪れ、ついに入会を前提にした短期院内生活を経験するところまで進んだ彼女だったが、その体験期間の終わりに突然一つのはっきりした内面的照らしを体験した。それは、神様からの声のようだった。「あなたの召命は修道女になることではありません。この世で義絶している一人ぼっちのお母さんと和解し、お母さんを最後まで看取ることこそ貴女の召命です」と告げられたように思った。修道院にとっても彼女自身にとっても想定外の展開だったが、後ろ髪をひかれるような気持ちを抑えて、彼女は修道院を去った。

 母も娘もともに気性が激しく、一緒に住めば悪口雑言の喧嘩も絶えない中、彼女は新しい召命に忠実に、働きながら、次第に老いていく母親を見護り、養い、世話をした。まだらな痴呆も始まり、徘徊を繰り返し、警察のお世話になり、最後には大小のものを部屋中に垂れ流す後始末に追われる壮絶な生活が続いた。度々家の中で一緒に夜を過ごすことが難しくなり、彼女は車の中で寝る日々もあった。書けば立派に一冊の本になる、と彼女は私に言った。

 母親の心臓の傍に大動脈瘤が見つかった時は、私と相談した上で、そのまま放置して早死にさせるより、母親の生命力に賭けて大手術をし、一日でも長く生かす道を選んだ。

 手術は成功し、彼女の悪戦苦闘の日々はさらに続くことになった。しかし、彼女はすべてに耐え、最後のぎりぎりまで自分の手で母親を見守った。

 そうこうするうちに、まだらボケの合間に、フト正気に返った母と娘の間には徐々に貴重な心の通い合いがみられるようになり、彼女は母親の壮絶な生き方の中にも娘への愛とひたむきな思いがあったことを知るようになった。彼女はぼけた母親にも洗礼を授けることを私に願った。

無事に見取った後には、彼女は母親のことを隠れた聖人ではなかったかと述懐するまでになっていた。

 そしてこの度、晴れて「ここで悟った私の召命の誓いを、最後まで全うしました」という報告をしに、私と一緒に泰阜村の修道院を訪問することになった。

 

新院長と話す O さん

 

 彼女がアスピラント(見習い修道女)としてここで過ごした頃の修道院長様は、今は修道院から車で15分ほどの田舎の行き届いた老人施設で余生を送っておられた。私たちは新しい院長様に案内されて元院長様を施設に見舞ったが、コロナ対策のビニールのカーテンの向こうの車椅子に座った幼子のような透明な微笑みのお姿と涙の対面となった。

優しく話しかける元院長さま

 O さんは、東京から天竜川沿いの泰阜村までの長距離運転をためらう高齢者の私に代わって、車を運転して連れて行ってくれた。彼女の愛犬ルカちゃん( ゴールデンレトリバー種の大型犬)も連れてのドライブだったが、新しい院長様に向かって「こんなに年をとった私でも、そしてメス犬のルカちゃん同伴でも許されるなら、今こそこの修道院に入会したいわ」と叶わぬ願いを伝えて甘えていた。

 

可愛いルカちゃん

 私は私で、初対面の新しい院長様といろいろ話し合った。馬場神父と初代院長との蜜月関係は長く続かなかったようだったこともわかった。馬場神父には土地の提供者として、修道院のパトロンのような立場から修道院の運営にいろいろ口を出す権利があるという思い込みがあったようだ。それは毎朝のミサの説教の中にもにじみ出た。しかし、前院長はその恩義を忘れたわけではないが、修道院の責任者として、創立者の会則に忠実に外部の干渉を排して姉妹たちを指導する立場を守ろうとした。

 馬場神父には彼に思いを寄せた女性がいた。彼女はこの修道院に入会した。しかし、馬場神父との絆は切れず、会の中での共同生活にまで波紋が起きた。世俗にいた時の人間関係にけじめをつけて、神のみに仕えなければならない建前と、毎朝ミサで顔を合わせる神父への思いとに引き裂かれ、ある日彼女は馬場神父の庵の前に立つマリア像の足元で自死してしまった。私は、馬場神父の葬儀の後、彼の牛乳瓶の底のように度の強いド近眼用メガネなどの遺品を、シスターたちの見守る中で、そのマリア像の台石の下に埋めた。

マリア像の台座石の下に私は馬場神父の遺品を埋めた

 

 四国4県は大阪教区から分離独立して高松教区となったが、教会の教勢の衰退とともに、来年3月には一つの教区としては消滅し、新生大阪教区に吸収合併されるという発表がローマからあったのは数カ月前のことだった。もう高松教区に司教が生まれることはない。

 カルメル会の西宮修道院が相次ぐ若い入会者を迎えて大きくなり、泰阜村に分蜂して修道院を開いたころは、まだ日本のカトリック教会が短期間にこんなに衰退することになることを予測する人は少なかった。

 しかし、昨今の司祭、修道女の召命の減少は決定的になってきた。今全国に9か所あるカルメル会の女子修道院は早晩合併縮小を余儀なくされ、いくつかの修道院は閉鎖される運命にあるという。泰阜村の修道院は今9名で、分蜂して開かれた時から増えていない。初代院長様は今養老院生活。院内に留まっている姉妹の一人も高齢で車椅子生活。若い修道女も入ってきてはいるが、全体として昔日の面影はない。

 私は泰阜村の修道院の客室で書いた「修道院縁起」の後半を、いまこうしてローマの宿で書いている。ローマ時間で明後日には成田行きの便に乗る。

 なぜ、いま突然ローマにいるかは、次のブログに書くことになるだろう。

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★ 長野県泰阜村「カルメル会修道院」縁起

2023-11-16 00:00:01 | 私的なブログ

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長野県泰阜村「カルメル会修道院」縁起

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在りし日の馬場神父 納骨堂の写真

 馬場清神学生は、後に東京教区の補佐司教になった森一弘神学生とは別な意味で忘れられない親友だった。

 大阪府の地方公務員で労働組合の闘士だった彼は、九州の三井三池争議の応援ではストライキの座り込みの先頭にたって警官と渡り合った猛者だった。それが回心して上智大哲学科の教室では大阪教区の神学生として私と机を並べることになった。

 60年代にパリ大学に始まった学生運動の嵐は、昨今のコロナ旋風のように地球を駆け巡って日本にも及び、上智大学の神学部も無関係では済まなかった。司祭の卵の養成を巡って神学生たちは立ち上がった。するとこんな暴力神学生の世話はまっぴらゴメンととばかりに、イエズス会は神学校から手を引き、その運営は司教団の手に移った。多くの神学生が旧態然とした神学校の現状に抗議して暴れ、「神父になるのは辞~めた!」と言って、神学校に後足で砂をかけて出て行き、仕事について結婚し、その結果司祭の志願者数は激減した。そんな中で、馬場神学生は、しぶとく大学に残り、司祭養成課程の単位を全部履修し終えた。

 識別と判断能力を欠いた神学校の養成者たちは、そういう爆弾を抱えた神学生でもトコロテン式に司祭として叙階するしか能がなかったようだ。

 旺盛な正義感と反抗心を絵に描いたような危険極まりない野生の馬場神父とその仲間たちは「雑魚」(ざこ)というグループを結成した。雑魚とは、タイやマグロのような高級魚ではないが、骨が固く尖っていて、あなどって迂闊に吞み下すと喉に引っ掛かって酷い目に遭う羽目になる魚のことだ。

 その危ない「雑魚」の連中が X 神父裁判事件で大司教を向こうに回して原告の支援に回った。当時、X  神父(板倉神父)は大阪の田口大司教の教会運営の非を厳しく批判して小冊子をばらまいた。そしたら大司教は X 神父を幼稚園の園長職から解雇した。X 神父はそれを不当解雇として大司教を訴えた。その支援に回った「雑魚の会」の若い神父たちは、たちまち大司教から干されて教区外に飛ばされた。馬場神父と A 神父は障害者の夢のコロニー「あかつきの村」の設立趣意書を持って、支援を求めて全国の自治体を行脚した。私も賛同者の多様性の一翼を担って国際金融業を代表して趣意書に名を連ねていた。

 しかし、彼らがスポンサーの自治体を見つけるのを待たずに、私はコメルツバンクの社員としてドイツに赴任した。そして3年余りして帰ってきて「おーい!馬場ちゃんは今どこにいるー?」と叫んだら、遠く泰阜村の方角から「ここだよー!助けてくれ~!」と声が返ってきた。

 取るものも取り敢えず、飛んでいくと、彼は朝から大酒喰らって布団をかぶってふて寝していた。

 彼の話を要約すると、スポンサーを探して全国を行脚している間は彼とパートナーの A 神父との仲はすこぶる良好だった。泰阜村の村長さんは主意書を見て、この奇特な青年たちはカトリックの神父だ。カトリックは世界の大宗教だ。つまり、信用度において右に出るものは無い。この過疎の泰阜村にようこそ。この土地をタダで提供する。農協からは要るだけの金を借りてもらって結構。夢と未来のある実に素晴らしいい企画だ。大いに頑張ってくださいと、とんとん拍子に話が進んで具体化した。こうして、「暁の村」プロジェクトは順風満帆の船出をして障害児たちも集まった。

 ところが、金回りはよく、事業も安定すると、いろいろな人間の個性や欠点が頭をもたげるのは世の常だ。

 専ら神様の方に目を向ける理想主義者の馬場神父と施設運営の現実に神経を注ぐ A 神父との仲がぎくしゃくし始め、先に我慢が出来なくなった A 神父さんが、ある夜、障害児を連れてこっそり夜逃げしてしまった。馬場神父が朝目覚めると、誰もいない。村に出てみると、人々の目は昨日までと一変して、冷たい刺すような視線を彼に向ける。逃げた神父らは村を去る前にさんざん馬場神父の悪口をばらまいて彼を悪者に仕立て、借金は全部彼の背に負わせて行ってしまったらしい。プロジェクトは壊滅し、農協の借金を返す当てはなく、さりとて、責任感の強い馬場神父は彼らの後を追って村を逃げ出すこともできず、身動きの取れない自暴自棄の中で酒を食らってフテ寝するしかなかったのだ。見ると縁の下には一升瓶の空き瓶がごろごろしていた。

 「どうした?」「どうしたらいい?」と聞くと「金だ!」「金がないから首が回らない!」という。ドイツ帰りの銀行マンの私は幸い潤沢な金を持っていたので、借金は何とか返済された。

 やっと一息ついた馬場神父は、村から貰って今は自分の名義になっていたかなり広い土地を一人で黙々と耕し、無農薬野菜を育て、収穫物は段ボール箱に詰めて友人知人にめくら滅法タダで送りつける。無論、お礼の手紙と金一封の寄付を期待してのことだが、ただの野菜を送りつけられた側は、苦笑しながらも支援金を送る。こうして馬場神父は少し立ち直った。

 一方、ドイツから帰ってきたばかりの私はちょっとした有名人になっていた。

 ローマで知り合った毎日新聞の特派員の西川さんが、毎日新聞の夕刊一面トップ半ページを割いて、ひげ面の私がイタリアの共同体でミサをしている写真入りでバンカー(銀行マン)から転職した異色の神父として紹介したからだ。そしたら、後追いで「週刊東洋経済」が「人生二毛作」という連載に3号にわたって私の記事を書いた。産経新聞もその他のメディアも私を取り上げた。あちこちから講演会を頼まれた中で、西宮の女子カルメル修道会の院長様からは、シスター達の黙想会の指導司祭として招かれた。その時、私は院長様から相談を受けた。カルメル会の創立者の大聖テレジアの書いた会則によれば、ある修道院に新入会員の召命が相次いで人数が一定の数を越えると、分蜂して新しい修道院を開いて別れることになっている。

 そして、今の時代には珍しく西宮の修道院に入会者が相次ぎ、しばらく前からその決められた数を超えて30人近くに達していた。「しかし、会員の姉妹たちの間では意見が二分して纏まらない。会則を順守して分かれるべきだという声と、今は一時的に超えているが召命が途絶え高齢の姉妹たちが相次いで天国に旅立てばたちまち数を割り込むから慎重に様子を見た方がいいという声が拮抗している。神父様はどう思われますか?識別してください。」ときた。私の返事はもちろん決まっている。「将来のことは神様に委ねて、今は会則を守って修道院を分割すべきでしょう!」と言うと、どうやら院長様の心は決まったようだった。

 そこへ阪神淡路大震災が阪神圏を襲った。大阪教区の教会・修道院は軒並み多大な被害を受けた。教区から追放された流浪の身とはいえ、馬場神父は大阪教区の司祭だ。心配して八方電話を掛けるが、災害の混乱の中、回線が寸断されてなかなか電話が通じない。たまたま西宮のカルメル会の修道院と電話がつながった。「如何ですか?」という馬場神父の見舞いの声に、「聖堂の屋根が壊れ、修道院は大被害、助けに来てください」「ではすぐ参りましょう。待っててくださいね!」となって、馬場神父は軽トラックにスコップや大工道具やブルーシートに食糧まで積み込んで被災地に向かった。道路寸断の中、苦労をしてカルメル会の修道院に辿り着くと、男手がなくて難儀していたシスターたちからは大歓迎を受け、早速働き始めた。壊れた聖堂の中には、亡くなった近隣の人々の棺がいくつも仮安置されていた。馬場神父はその被災者たちを助け、棺の番をし、祈りを捧げて日を過ごしていた。

 災害後の混乱の中ではあったが、馬場神父の親友の谷口神父が修道院の分蜂に賛成だと言う話は聞いただろう。そこへ、亡くなった被災者のある遺族からは大変お世話になったからと、カトリック信者でもないのに大金の遺産の寄付の申し出が修道院にあった。そのことを知った馬場神父の頭には、修道院を建てるのなら泰阜村から貰った土地があるからそこを使えばいい、というアイディアが閃いた。

 谷口神父は分蜂を勧める。土地は見つかった、お金も降って湧いた。3拍子揃って、新修道院の設立の話はにわかに現実味を帯びることになった。そして新しい修道院が誕生した。

泰阜村の修道院の門柱

 あれから20数年の歳月を経て、私は今、その泰阜村のカルメル会修道院の客室に泊まりこのブログを書いている。どうして今、私がここに泊まっているのかについては、次のブログに譲るとしよう。

修道院のお告げの鐘と十字架

(つづく)

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★ 森司教を悼む

2023-09-05 01:22:52 | 私的なブログ

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森司教を悼む

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今日2023年9月5日は我が畏友森一弘司教の葬儀が行われる。

 

* * * * *

* * * * *

一つの時代が終わった感をしみじみとかみしめている。

 

 アルバムから懐かしい写真を引っ張り出して、ああ、こんな日もあったな、と感無量だ。

左から 私 工藤神学生 森神学生

 この写真を撮った場所を思い出さない。しかし、一緒にあった別の写真から、日本アルプスの槍が岳の麓だと思われる。この時、三人ともすでに全く別の未来を予感していた。当時私は19歳、工藤さんと森さんは20歳のはずだ。

 

槍が岳を背に 左から森さんと工藤さん 

3本目のピッケルは写真を撮っている私のもの

 

 私たち3人は上智大学のキャンパスの中にあった上智会館の学生寮に住んでいた。最初の一年は私と森さんはルームメイトだった。私たちは確かに同じ高嶺を目指していた。

 イエズス会の志願者として上智に入った森さんと私は、毎朝同じ目覚ましで目を覚まし、そろって聖イグナチオ教会のホイヴェルス神父様のミサ答えの奉仕をした。ミサはまだラテン語で、私たちは意味の分からない長い祈りを丸暗記して、ホイヴェルス神父様と掛け合いで階段祈祷を唱えたものだ。

 ミサが終わると、ホイちゃん ーと我々はホイヴェルス神父を愛情と尊敬を込めてそう呼んでいたー と三人で香部屋を出て聖堂の正面から入りなおし、最後列のベンチに並んで跪き、数分間黙って感謝の祈りをして外に出る。そこで3人は初めて声を出してしばし立ち話をして、ホイちゃんは聖堂の裏の3階建ての管区長館へ、我々は寮の食堂へ向かう。

 工藤さんは寮の中のチャペルで舎監の神父のミサに与っていた。ドミニコ会志願者の工藤神学生は、やがてカナダの修道院へ神学の勉強をしに旅立った。以来、彼とは今日まで音信が途絶えている。まだご存命か。どこで何をしておられるのだろうか・・・。

 ある嵐を呼ぶような雲行きの朝、ミサの後の感謝の祈りを終えて聖堂の外に立つと、ホイちゃんは森さんに告げた。「あなたの召命はイエズス会ではありません。自分の道を行きなさい」と引導を渡された。私は呆気にとられた。

 間もなく森さんはカルメル会に入会し、ローマに送られて司祭になり、日本に帰っては、上野毛のカルメル会の修道院に住まわれた。何があったかは知らないが、しばらくして、森神父さんはカルメル会を退会し、東京教区の司祭になり、白柳大司教に見出されて東京の補佐司教になった。白柳大司教が定年で退かれると、自分も補佐司教を辞め、真生会館の館長になられた。

 私はラテン語と一般教養を2年学んでから、広島の祇園の修練院に送られた。修練院の生活はまるで天国のように平和だった。しかし、その夏、私はホイちゃんに手紙を書いた。「私はイエズス会を辞めたい。辞めて社会に出て自分を試したい」という趣旨だった。(しかし、内心では、世間知らずのまま純粋培養されてイエズス会で偉くなったら、自分はきっ傲慢な偽善者神父になるだろうと先が見えていて、このまま進むわけにはいかないと思っていた。)

 ホイヴェルス神父様は驚いて、まだ新幹線のなかった時代にはるばる汽車で広島まで来て、夏の日差しの下、丘の上の墓地の中を二人で行ったり来たりしながら、「あなたは将来イエズス会にとって貴重な人材になる人です。決して辞めてはいけません。これは悪魔の誘惑です。私のことばに従順して会に留まりなさい。」と懇々と言われ、私は素直に「ハイ!」と答えた。

 しかし、神父様が東京に戻られるとすぐ同じ内心の声を聴いた。「僕は司祭になるのを辞めるのではない、本物の司祭になるためにしばらくだけ修行に出るのだ」、と自分に言い聞かせていた。

 広島に来てちょうど一年後、私は一人で決めて退会し、東京に舞い戻った。ホイちゃんは不従順な弟子を破門にすることもなく、昔の狭い都電通りを挟んでイグナチオ教会の向かいの消防署の裏の信者さんの家に、4畳半の部屋を借りて待っていて、「今日からここに住んで毎朝私のミサ答えをしなさい」と優しく言われた。

 ホイヴェルス神父さんの口利きかどうかはわからないが、上智では特待生として学費を免除され、奨学金と家庭教師のアルバイトで生計を立て、上智の大学院を博士課程修了まで進むことが出来た。

 そのホイヴェルス神父様は、いつも私をカバン持ちにしてどこへでも連れて歩かれた。1964年の第1回東京オリンピックの年には、私をインドのムンバイ(ボンベイ)で開かれた国際聖体大会にも連れて行ってくださった。

 上智の助手をしていた時、パリに発した怒れる学生たちの運動は日本にも及び、上智にも飛び火した。東大から移籍されたばかりの守屋学長の学問の自由と大学の自治を掲げる高貴な東大アカデミズムに感激したわたしは、左派暴力学生の全共闘諸兄と学長との粘り強い対話による学園紛争解決の努力に全身全霊を傾けて奉仕したが、私学の経営にしか興味のない若いアメリカ人やスペイン人の神父たちで構成された理事会からにらまれて、助手を首になった。

 そしたら、戦前、戦中を通して上智を守って苦労をされたホイヴェルス神父様と、イエズス会日本管区総会計で外為法違反で臭い飯を食ったビッター神父と、キリシタン研究の大御所のチースリック神父の三人の古参のドイツ人神父が共謀して、私にドイツの銀行に裏口入社の段取りをつけてくださった。

 ほんのしばらくのつもりが、国際金融業が面白くてドイツ、アメリカ、イギリスの銀行を渡り歩きウツツを抜かして、浦島太郎のようにはっと我に返った時は、もう50歳が目前だった。教会の門はどこもみなピタリと閉まっていた。主だった教区の司教様も、修道会の管区長様も、私の「どうか神学生として受け入れてください」の嘆願に対する答えは、異口同音に「No!」だった。

 一人、ベネディクト会の管区長様が受け入れる約束をしてくれたが、会の長老の司祭たちは管区長の決定に同意しなかった。

 気が付くのが遅すぎたかと、がっくり肩を落として、藁をもつかむ思いで森司教様に相談したら、フランシスコ会の本田管区長に推薦してくださった。上智では本田神学生は私の後輩で、かつて学生会の議長として目立っていた頃の私のことを覚えていた。

 時あたかも、ブルジョワ化していたフランシスコ会日本管区の清貧改革に取り組んでいた本田さんと私は、すぐ意気投合して、私は希望に満ちて3年間フランシスコ会の飯を食った。しかし、本田管区長の清貧改革路線についていけない保守派の司祭たちの反対で、私はフランシスコ会を去らなければならなかった。

 そこで、また森司教さんに泣きついた。彼は、今度は私を高松の深堀司教に推薦した。深堀司教様は私をローマのグレゴリアーナ大学に送り、4年間の短い神学の勉強の後、高松で私を司祭に叙階し、引き続きローマで神学の教授資格を取るまで勉強させられた。その間に、深堀司教様は高松に「レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」を開設し、若い司祭たちが排出し始めていた。

 このように森さんは私の人生の一番ピンチな時にいつも私を助け、支え、道を切り開いてくれた恩人となった。彼が砕氷船のように厚い氷をこじ開けてくれなければ、今の私の司祭職はなかったと言ってもいい。

 しかし、私と森さんが受けた教育の違い、もっと言えば、二人が生い立った環境の違いは、長い年月の間に二人を全く正反対の方向に導いていった。

 森さんの先輩には、やはりカルメル会を辞めて東京教区の司祭になった井上洋治神父がいる。井上神父は、後にキリスト教を日本の精神風土に土着化させるためのインカルチュレーションのイデオロギーに沿って仏教的精神を取り入れた「風の家」を主宰するようになるが、彼は遠藤周作と同じ船でパリに留学した仲で、その思想には遠藤の沈黙や深い河などの小説の世界と相通ずるものがある。

 またドミニコ会の司祭に押田成人師がいるが、八ヶ岳の麓に高森草庵を結び、そこで座禅と瞑想を中心に、やはりキリスト教の土着化を追求していた。

 イエズス会ではホイヴェルス神父と同じ故郷ウエストファーレンの出身で、8歳若いフーゴ・ラサール神父がいるが、広島での被爆体験を持ち、後に座禅に傾倒し、自ら広島市可部町に座禅道場「神瞑窟」を開き、自ら老師として曹洞禅の流れをくむ瞑想を指南した。後にラサール神父は日本に帰化して、愛宮真備(えのみやまきび)を名乗った。

 私が「昭和の最後の雲水」とあだ名された曹洞宗の高僧澤木興道老師に内弟子のように可愛がられるようになり、ホイヴェルス師を澤木老師にお引き合わせしたのも、元はと言えば森さんの手引きがあったからだった。

ホイちゃん 澤木老師 私

 ホイヴェルス師は同郷のイエズス会の後輩の愛宮真備老師のもとで座禅を体験されたが、あとで微笑みながらそっと私に「私はすぐに悟りを開いたよ」といたずらっぽく言われた。その悟りとは、「この道は私のための道ではない」とすぐわかったというものだった。

 ホイヴェルス師は、澤木老師に会うなり肝胆相照らしてくつろぎ、神父はウエストファーレンのドイツ民謡を老師に歌って聞かせ、それを聞く老子はとても喜ばれたのを昨日のように覚えている。

 森さんは、私にはあまりはっきりとは示さなかったが、どちらかと言えば遠藤周作や、井上洋治神父や、押田成人神父や、帰化して愛宮真備老師を名乗ったラサール神父らのように、日本の精神風土に優しいキリスト教の創出、インカルチュレーションのイデオロギーの側に立とうとしておられたのではないかと今にして思う。

 私は、澤木老師に可愛がられるほど曹洞禅の修行を真面目やったけれど、結局は伝統的なカトリックの王道に留まり、ホイヴェルス師の悟りを我が悟りとして、最後にはキコさんに出会ってネオカテクメナルウエイ(新求道期間の道)に落ちついたのだが、結果的には森さんと真反対の極に立つことになった。

 森さんは第2バチカン公会議前後にヨーロッパで花開いた様々なカリスマに対して、フォコラーレも許容できる、聖霊刷新運動もいいだろう、しかし「ネオ」(新求道共同体)だけは絶対に受け入れられない、と考えておられたのではないかと思う。

 日本の司教団が、私の命の恩人である高松の深堀司教様が心血を注いで誘致された「レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」を閉鎖に追い込むために一時的に完全に一枚岩になって団結したのも、その背後に強烈なイデオローグの森一弘名誉司教の存在があったのではないかと想像している。(確たる証拠はないが・・・)

 わたしと森さんはどこでどう違ったのだろうか。それは、凡庸な私が、母の代の前から ープロテスタントではあったがー 三代にわたるクリスチャンの血を引いていたのに対して、森さんは秀才でありながら高校の終わりごろに初めてキリスト教に出会って洗礼を受けたクリスチャン一世であったことではないかと思う。それは遠藤周作にもはっきり言えるし、多くのインカルチュレーショのイデオロギーの信奉者にも往々にして見られる傾向ではないだろうか。

 これは「血」の問題であって「知」の問題ではない。

 今こうして森さんの訃報に接し、懐かしい兄貴であり私の人生の一番厳しかった時に私の司祭職への道を切り開いてくれた恩人を思うとき、言い尽くせない感謝の念に浸るとともに、あなどり難い強烈な壁の崩壊を思はずにはいられない。

 一つの時代が確かに閉じられた、ということだろうか。

 

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★ 「おりふれ通信」をご存知ですか?

2023-07-27 00:00:01 | 私的なブログ

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「おりふれ通信」ご存知ですか?

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今日もまた「おりふれ通信」が届きました。

このブログの読者にはそれを知る人は皆無でしょうね!

 それは、日本では超マイナーな、しかし、超まじめに日本の精神医療を良くしようと孤軍奮闘しているグループ「おりふれの会」の機関誌です。

 私は、精神病院の中で長年を過ごした妹の治療と退院と社会復帰のために、カトリックの司祭職への道に踏み出すまでの半分人生を賭けてきた中で、この「通信」と出会いました。

 日本の精神医療行政の後進性。精神医療現場の非人道的な現実、その恥部、暗部、を告発し、必要なら国を、国立病院を、悪徳私立病院を相手取って、裁判も辞さない積極性に、私は強い共感を覚えました。

 編集スタッフの中には、外国語に堪能な人もいるらしく、海外の進んだ現場の報告も常に紙面を飾っています。

 その私の「おりふれ」との出会いのきっかけを思い出させてくれたのは、私のホイヴェルス神父様の短編を取り上げたブログに対する、数日前の コスモス さんからのコメントでした。

〔コメント〕 

お母様のお写真  (コスモス)

2023-07-25 23:37:54

 和服姿の27、8歳の頃のお母様のお写真がブログの下の方に出てきて、どなたかしらとクリックすると、この記事が出てきました。
 お母様でしたか。若きシスターのお姿のお姉様に似ておられると思いました。神戸女学院をご卒業だったのですね。お姉様が中学受験で女学院に合格されたことを、お母様は病床でお知りになられたのでしょうか。或いは、既に他界されていたのでしょうか。女学院は阪神間では私の時代でも別格でした。阪神間の模試で二桁の順位をとらないと、入学してからが大変だと私の時代は言われていました。
 私の父が、昭和9年、3歳の時に実母を妹のお産で失い、継母が5歳の時に来ました。そしてその人に男の子が生まれました。こういう話は、1つの家の中で経験した人しかわかりませんが、家の中に他人がいるような感じ、いい意味では、とても家中がきちんとしていて、親子でも敬語で話すのが当たり前で・・・、私の父は、下着姿で家の中を歩くことはなく、自分の洗濯物は、自分でしていました・・・。私の実家は、いつも整えられたお茶室のようでした。
 私の本当の祖母(父の実母)も31歳で他界しています。
 それも摂理だったのでしょうが、若い31歳のお母様が子供達を残して亡くなられるというのは、本当に胸がいたみます。

    

    私を生んだ頃の母  修道女になった姉  

 

それに対して、私は次のようにお返事を書きました。

コスモスさんへ (谷口 幸紀)

2023-07-27 22:03:11

 コメント有難うございました。お返事が遅くなってごめんなさい。
 姉が神戸女学院に入学したのは、多分1950年の春だったと思います。
 母、喜久代は1948年10月22日に肺結核で亡くなっていますから、姉の神戸女学院入学の晴れ姿を見ることがありませんでした。しかし、父は妻の母校に長女を入れたかったのでしょう。
 しかし、妹の素子が中学に入るころには、父はすでに再婚し、その母から弟が生まれていたので、家族の関心はそちらに向いていて、新しい配偶者に対する配慮からも、妹を先妻のゆかりの学校に入れることなど問題外で、地域の学費の安い市立中学に入れられることになりました。
 兄の私も私立カトリックミッションスクールの六甲学院だったので、自分も当然姉と同じ神戸女学院に行かせてもらえるものと思っていた妹は、言葉や態度にこそ出さなかったものの、内心は大いに傷つき失望したであろうことは、想像に難くありませんでした。
 そのような挫折感は、後日妹が統合失調症と判断されるような言動に走ったことの一因ではなかったかと思うと、とても不憫でなりませんでした。
 その後私は、姉も含まれる家族全員を向こうに回して闘いながら、家裁で妹の保護義務者の地位を取得して、妹の退院、社会復帰のために半生を賭けて、ようやく妹の寛解と不完全ながらの社会復帰を見届けて、国際金融業から足を洗い、司祭職への道に進んだのは50歳の時でした。
 妹の社会復帰のニュースを聞き知った姉は、すでにカトリックの修道女として宣教地、アフリカの最貧国ブルキナファソで働いていましたが、妹の面倒を見るためにという名分で帰国しました。しかし、入れ違いに私がローマに神学の勉強をしに行っている間に、姉は再び妹を精神病院に入れてしまいました。
 すでに仕事もお金も捨てていた私は、遠いローマで貧乏学生。夏休みごとに帰国し、妹を病院に見舞い、「あと〇〇年したら一人前の司祭になって帰ってくるから、また退院して自由な生活が出来るようにしようね」、と慰め励ますほかになす術がありませんでした。
 しかし、妹はその○○年が待ちきれず、私の司祭叙階式のわずか1カ月前に、病院で自死してしまったのです。
 私は、抜け殻のような虚ろな心で自分の司祭叙階式を迎えました。心の中で、「神様、もしあなたがこのカードを前もって私に見せていたら、私は決して司祭になどならなかっただろうに」と恨み言を言っていました。
 今の私の司祭職のスタートには、このような出来事が秘められていたのでした。 

* * * * *

 わたしもコスモスさんのお父様と同じような境遇で多感な青春時代を過ごしました。私は父が再婚したときーそれは私の10歳の頃でしたー私は生涯このご婦人とコトを構えることはすまい、と心に固く誓い、それを守り通しました・・・。 

 しかし、長い話はやめて「おりふれ」に戻しましょう。素子を巡る私の半生の闘いについては、私の最初の本「バンカー、そして神父」(2006年、亜紀書房)にすでに詳しく書いている。興味のある方はそれを読んでいただきたい。

 たまたま、最近の「おりふれ通信」には、以下のようなチラシが折り込まれていました。これも妹、素子、と無関係ではありません。

* * * * *

 スマホやタブレットで私のブログをお読みの皆さんには、上の3コマ漫画の吹き出し文字は小さく不鮮明で読み取れないだろうと思い、ここに書き出します。

先ず左のコマから:

〇 40年間、意思がない生活でした。

〇 ご飯を 食べなさい 仕事をしなさい 寝なさい

〇 ただただ、言われたことを やりました。

右上のコマ:

〇 退院したいと 何度も 相談したけれど

〇 御家族の 同意なしには 退院できません

右下のコマ:

〇 え、退院に 家族の同意?

  治っても?

〇 退院後、

  家族への 支援が 少ないの

 私の愛する妹、素子も、死んで棺桶に入らなければ病院から出られなかった。これについては、もっと、もっと、書けるけのだけど、あまりにも重い課題なので・・・。それに、ある部分は前出の「バンカー、そして神父」にも詳しく書いている。

「おりふれ」は家族でもないのに、日本中の何十万人、もしかしたら百万人台の「素子」たちのために、日夜地道な活動を続けてくださっている。実に頭が下がる。私は、死ぬまでその読者として購読料を払い続けたいと思っています。

 

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★ ホイヴェルス師来日100周年記念第46回「師を偲ぶ会」は無事開催されました。

2023-06-13 00:00:01 | 私的なブログ

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ホイヴェルス師来日100周年記念 第46回「師を偲ぶ会」

は無事開催されました。

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 去る6月9日、ホイヴェルス神父さま来日100周年を記念して、第46回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」は無事開催されました。

  つゆの雨は午前中に上がり、参加を申し込まれていた40名余りの方のほとんどがご出席になりました。

 6年前に当時までの世話役だった森田明氏から引き継いだ参加者の名簿は200名を超えていましたが、お亡くなりになったり、老人施設に入られたり、健康状態が悪くなったりで、毎年10数名の方が名簿から消えていき、今は140名ほどになっています。

 名簿に沿って案内状をお送りしても、戻ってくる返信ハガキのかなりの部分が、ご高齢やご病気を理由に「出席したいが思うにまかせない、祈りで参加します」のようなお返事でした。

 それもそのはず、名簿の皆様の平均年齢は90歳近くですから、これからますますその傾向は加速されていくのは自然の摂理だと思われます。第50回の「偲ぶ会」がもし有り得るとしたら、名簿に生き残った人の数は50人にも満たないかもしれません。

 

若き日のホイヴェルス神父様

 しかし、幸いその自然減を補完するかのように、ここ数年、生前のホイヴェルス師を知らない世代が、師の遺徳と偉大な足跡の片鱗を知って、師に学び、師に倣って、これからの教会のあるべき姿を摸索するために参加されるようになり、会の存続と発展に希望を与えてくれています。

 年に一度のミサですから、できるだけ心のこもったものにと、毎回工夫をしてきましたが、今年はたまたま参加者の皆さんの中から是非ミサでご聖体のパンだけではなく葡萄酒(キリストのおん血)も拝領したいという声が上がり、さて、参会者の皆さん全員に強制することなく、しかし、希望者の期待を裏切らないようにするにはどうすればいいか、いささか迷うところがありましたが、結果的には参会者の半数以上が極めて自然に一つの杯(カリス)から「お濃茶」(おこいちゃ)の要領でおん血を拝領されて、安堵しました。来年はもう少し大きなカリスを用意いたしましょう。

 平和のあいさつも、日本の教会一般のようにただ消え入るような声で「主の平和」と言って軽く会釈するだけでなく、アメリカ人のようにニコニコ身を乗り出して握手するだけでもなく、両隣の人と優しく温かくハグしあうなど、これも、スムースにことが運びました。

 また、会場の制約でキーボードの持ち込みが出来なかったのですが、ホイヴェルス神父さまの時代に歌い馴れた懐かしいカトリック聖歌集から、ホイヴェルス神父様が愛唱された数曲を選んでアカペラで歌いました。一時、カトリック教会の唯一の正式聖歌のように支配的になっていた典礼聖歌集は、今では若い世代を中心に、もう何か古臭くなじみにくいと敬遠される中、かえってホイヴェルス神父様が朗々と歌われたカトリック聖歌の方が、明るくメロディアスで新鮮な感じがして懐かしく、皆に喜ばれました。文語調の歌詞を口語に改めるだけで、まだまだ歌えるな、と思いました。

 奉献文は第二奉献文を使いましたが、後半の聖変化の部分は、バチカンの聖座に認可され、いま世界中の司祭の間で普及しつつある新しいメロディーで歌いました。

 共同祈願も、一人が盛式の4つの祈願を唱えた後、参会者が自由に共同祈願をするように招き、幾人かが自発的に祈られました。

 ミサに引き続いて、わずか1時間という制約の中で、一人残らず自己紹介や自由な発言で盛り上がり、心が通い会うものとなりました。

 今回も、たまたま同じ電車に乗り合わせた他人の集まりのようによそよそしい孤独なミサにしないためにどうすればいいかを模索し工夫しています。その結果、加した皆さんは、自然に心から溶け込めるとても新鮮なあたたかいミサだったと感想を述べて喜んでおられました。

 先見の明があり、世界の教会の新しい動きに特別敏感だったホイヴェルス神父様は、日本の教会のほとんどの人がその歴史的な重要性にまだ気付いていない中、第二バチカン公会議の動きに鋭く注目されていました。そして、公会議を導いている教皇パウロ六世がインドのムンバイで「国際聖体大会」を開催されることが決まると、おそらく日本からはただ一人、教皇様の形骸に直接触れるためにそれに参加することを決断されました。そして、若い学生たちにも同行するように招かれ、大勢が手を挙げた中で、実際にインド旅行を実行に移したのは結局私一人だけでした。

 1964年と言えば、東京オリンピックが開催された年で、日本の一般人の海外旅行が戦後初めて解禁されたばかりのことでした。当時私は上智の大学院生で25歳。庶民の海外旅行の手段は当然まだ船の時代でした。ちなみに、私は「国際聖体大会」を取材するカトリック新聞の「臨時特派員」の資格で参加したのでした。この貴重な体験が私の視野を広げ、活動を国際的に自由に開放し、今日の自分があるのだとしみじみ思います。

 

インド旅行の頃のホイヴェルス神父様

 もし、ホイヴェルス神父様が今の時代に生きておられたら、イグナチオ教会の空気も師の信仰に貫かれてもっと清らかな魅力的なものであったことでしょう。

 この問題だらけの世の中で師がどのように行動されただろうかを、生前の師のお姿から想像力を逞しくして思い描き、その線に沿って、私より年若い世代の人たちを巻き込みながら、誰でも実行できる具体的な福音宣教の在り方を模索していきたいものだと思います。

 神様がお許しになるなら、来年も同じ6月9日第47回目の「ホイヴェルス師を偲ぶ会」を開きます。その日が近づいたら、またブログで案内をいたしますので、関心のある方はこのブログを思い出して、自由に参加してください。

 

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