:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 私の「インドの旅」総集編 (8)悲しき雀

2021-12-29 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編 

(8)悲しき雀

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     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

       b) キリスト教の凋落

       c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)悲しき雀

          (9)田川批判    

     (10)超自然宗教の復権

 

 

「悲しき雀」の著者 H・ホイヴェルス師

 

(8)悲しき雀

 私は、流れから言って、(7)「田川建三による遠藤周作批判」の次(8)のテーマは、「田川健三批判」であろうと思い込んでいたが、そうではないことに気が付いた。何故なら、田川建三を批判するツールとして、どうしても(9)の元の題「絵に描いた餅」の話が必要だったからだ。しかし、「絵にかいた餅は食えない」という命題は、一方では、自明の理であって全く説明を要しない点はいいのだが、他方では、あまりにも陳腐で通俗的すぎて面白くもなんともない。

 何かもっと品のいい話はないものか、と思案するうちにふと心に浮かんだのが、私が敬愛してやまないホイヴェルス神父様の次の短編随筆だった。

 心の洗濯のために謹んでご一緒に味わっていただきたい。

 

 

  拾われた時は何の鳥かわらなかった

 

 ホイヴェルス師の初期の随筆集「時間の流れに」(ユニヴァーサル文庫‐21‐) の中に「悲しき雀」という短編がある。

 それは、次の言葉で始まる。

 「友だちの家の縁側には、鳥籠の中に一羽の小鳥がさえずっていました。鳥籠は朝かぜの中にゆりうごき、鳥の声は悲しそうでした。私が見にゆきますと、鳥は黙り込んでしまいました。・・・」

 そして、少し先で「しばらくして、雀の鳥籠での生活は、とても退屈に違いない、と同情しました。この雀のために遊び仲間を工面してやりたいな、と思ったものの、もちろんできっこありません。でもある哲学者によれば、現象の世界と実在の世界との差別はありませんから、この雀はなおさら現象と実在を分けることなどできまい、と思いつきました。

 私は鳥籠を縁側から私の部屋のテーブルの上に運び、そこでうまく一つの鏡を鳥籠の側に立てました。それで鏡の中にも鳥籠と一羽の雀が現れました。それからわたしは静かに部屋の隅に退きました。すると雀は、たまたまぐるりと向き直って鏡の中の雀を見つけます。自分の種類とすっかり同じ鳥です。私は、雀がすぐこの新しくつくられた雀のところに遊びに来るだろうと思いました。けれども、わが雀は哲学者ではなく詩人で、物を所有することよりも、物に対する希望を大切にしますから、その胸をふくらませ、嘴を天にあげて翼をバタバタと打ち、そして喜びにあふれて一心に歌い出しました。長く長く歌いました。

鏡の中の雀も歌います。翼をバタバタと打つ、それで熱心はいよいよ増してくるのです。ようやく歌い終わってからお互いの挨拶のために、ぼつぼつ近づき、嘴でつつきあうのでした。それからまたさえずる。戻っては飛びまた近づきあいます。近くになってもいつもいつもただ嘴だけなのです。そのためにこの二羽の鳥は驚きあいました。疑い深くなったのです。またはなれて、少し遠くから、じっと互いに睨みあい、またもういっぺん歌いましたが、もはやそんなに希望にみちた歌ではありませんでした。もう一度挨拶をしてみようととんでゆきました。しかしこの固いガラスは同情を知らないので、この二羽の友達は一緒になれませんでした。哀れな雀は現象の世界の悪戯に失望し、早くも詩人は疑い深い哲学者になってしまいました。そしてこの贋物の鳥から、なるべく遠くとびはなれて背中をむけ、時々ピーピーと嘆くのでしたが、でもたまにはそっとふりかえって、鏡の中の鳥をぬすみみていました。

 わたしも雀に同情しました。また現象と実在の相違をそんなに早く見て取ったことにいくらか感心しました。ある哲学者たちはこう早くは現象と実在の差別を悟らないものですから。」

 ここまでで、師の短編のちょうど半分。残り2ページの展開を惜しみながら、話を先へ進めたいと思う。

 ホイヴェルス師は、世の並みの哲学者たちがなかなか悟ろうとしない「実在と現象の明白な違い」を小鳥が賢くもいち早く認識するに至った事実を、この随筆にーいささかの皮肉を込めてー綴られたものと思う。

 問題の理解をさらに深めるために、師の詩的な格調を穢すことを敢えて恐れず、ここに私が好んで使う短い挿話を加えたい。それは、私が杉並区の夜の街角で見た光景についてである。

 「師走の寒い夜、裸電球に照らされた町内会の掲示板に、一枚の『火の用心』のポスターが貼ってあった。そこへ、足元のおぼつかない忘年会帰りのおじさんがゆらゆらと通りがかり、立ち止まってポケットをまさぐって煙草を取り出して口にくわえ、ポスターに描かれた火に近づけて、煙草に火を貰おうとしている。うん?と怪訝そうに首をかしげながら、なおもしきりに煙草を火にくっつけるが、もちろん火は着かない。何度か同じ仕草くりかえしたのち、やがて火のついていない煙草をくわえたまま、首をすくめ、ゆらゆらと闇の中に消えていった。」如何か。

 ポスターに描かれた、或いは、印刷されたカラー写真の「火」は、絵に描いた餅に相当するのに対して、食えば腹が膨れる「食える餅」に相当するものは、「光と熱を放って燃えている生きた焚火の火やマッチの炎」のことであろう。酔っぱらいは、咥え煙草にポスターの火から火をもらおうとして、なぜ火が着かないか理解できなかったのだ。

 実在と虚像、または実存と現象の違いを一早く見抜いた小鳥は、並みの哲学者よりも、またこの酔っぱらいよりも、よほど洞察力に優れていたのだろうか。

 「絵にかいた餅」も、「ポスターの火」も、「鏡の中の小鳥」も、みんな「食える餅」「燃える火」、「生きた小鳥」に対応している。一つは「実在」で、もう一つはその単なる「写し」に過ぎないということだ。ドイツ語では「“Sein“=存在」「”Schein”=虚像」という。

 ここで大事なのは、食べられる餅も絵に描いた食べられない餅も、燃える火もポスターの火も、生きている小鳥も鏡に映った小鳥も、全て自然の中の存在であり、自然の中の現象だということだ。加えて、その事を区別し、その区別を認識するわれわれ人間自身も、全て自然界の存在である点では共通している。

 では、宗教の世界はどうだろうか。これこそ、今回のブログの決定的に重要なポイントだから、よく注意して、緊張して、読んでいただきたい。

 先ず「自然宗教」の世界を見ると、神々とは、そもそも自然現象の圧倒的な力の背後に人間の畏怖する心が投影したもので、大自然の実在性よりもさらに希薄でより抽象的な存在であって、自然界を超えるものではない。その神々の像を刻み寺社・神殿に安置してみても、神々はその像を刻んだ人間と共に自然の一部を構成するに過ぎない。言葉を変えて言えば、食べられる餅の対応する諸宗教の神々も、絵に描いた餅に対応する神々の絵も像も書物も知識も、全て自然の世界の中に包含され、自然の中で自己完結している。それが「自然宗教」と言われる所以でもあろう。

 では「超自然宗教」の場合はどうだろうか。神を礼拝する聖堂、会堂、教会も人間の手になったもの、神について書かれた経典・聖典も、そこで執り行われる祭儀もそれに与かる信者たちも自然の一部を為す人間とその営みであり、神に関する観念も教えも宗教の歴史も全て自然の枠を超えるものではない。それらは皆、いわば現象の世界、生ける神に関する現象に過ぎない。しかし、自然の中のどこを探しても、「わたしはある」と名乗る「生ける神」はそのなかに包含される自然の部分としては存在していないのだ。言葉を変えて言えば、超自然宗教の神は、自然現象の中にふくまれない、自然界の存在の部分としては存在していないからこそ、超自然の神と呼ばれ得るのだ。

 「超自然宗教の神」が森羅万象を無から創造した生ける神であって、自然の一部ではないのであれば、自然の中に生きる我々が創造主、生ける神について知っている全ては、絵に描いた餅、ポスターに描かれた火、自然という鏡に映った虚像であって、食える餅、煙草に火のつく光と熱を放って燃えている火、動き囀る生きた小鳥に対応する「生ける神」そのものではない。この神は、自然を超越し、自然の埒外に、即ち、「超自然の領域」に存在している。

 要約すれば、「自然宗教」の世界では食える餅としての神も、絵に描いた食えない餅としての神も、共に自然界の中に見出されるが、「超自然宗教」の世界では、自然界で捉えられる神はすべからく絵に描いた食えない餅としての神であって、食える餅としての「生ける神」「自然界を無から創造した神」は自然の埒外の「超自然の世界」にあるということである。

 ホイヴェルス師の随筆の中の小鳥は「ザイン”Sein”=現実」と「シャイン”Schein”=現象」の違いをあっさりと区別することが出来た。しかし、師走の街角のおじさんは、酔っていたから、ポスターの火は虚像の火であって、タバコに火をつけることのできない火であることの簡単な理を理解できなかった。ホイヴェルス師の上品な皮肉よれば、世の大学の哲学の先生方の中には、ザインとシャインの初歩的な区別が分からない、酔っぱらい哲学者が名声を覇することが出来るほど、世のなかは迷妄の淵に沈んでしまっているのだ。  

 あなたは大丈夫ですか?酔っ払っていませんか?あなたは食える餅も、絵に描いた餅も、両方とも自然の中に見つけられるし、自然宗教の神々も、その現象も、両方とも自然界の中に見つけられるが、超自然の神だけは自然界には見出されず、超自然の領域にのみ実在し、自然の中に見出される神に関する事象はすべて超自然の神を廻る現象、観念、虚像にすぎないことを十分に納得し、はっきりとご理解いただけただろうか。

 このブログの筆者が言い立てることは、何かひっかかる。俄かには承服できない。と、この期に及んでなおもブツブツつぶやく吾人の脳みそは、ホイヴェルス師の短編の中の雀の脳みそよりも小さいと言われても文句は言えない。スズメの脳みそは小さいですよ。5mmにも遥かに届かないのではないか?

 

 真に「Sein = 存在」 の名に値するものは「私はある、あるという者である」と名乗る超自然の神以外にはない。その神「私はある」についての思弁も考察も含めて、他の自然宗教の神々も、全ては自然の中の現象「Schein=虚像」と呼ばれるにふさわしい。「わたしはある」の神は一切の自然界、現象の世界を凌駕した「超自然」の中に生きていて、自然の一部には還元され得ないのだ。

 このことは、次の「(10)田川批判」にとって決定的な鍵になるので、是非しっかり頭に刻んでおいていただきたい。

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★ 2021年のクリスマスにサンタさんからのプレゼントを贈ります

2021-12-24 00:00:01 | ★ 日記 ・ 小話

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2021年のクリスマスにサンタさんからのプレゼントを贈ります

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 私の母は熱心なプロテスタントの信者でした。

 彼女は空襲が激しくなった灯火管制下でも、12月には1辺40センチほどの大きな桐の箱から色とりどりのガラスの玉や、小さなサンタクロースの人形や、天使たちや、煙突のある小さなお家や、ローソクや星の飾りと、キラキラ輝く長いモールや、雪を表す白い綿を取り出し、父がどこからか切ってきた子供の背丈よりも高い松の木に、母と私と姉はワクワクしながらクリスマスツリーの飾りつけをしたものです。そして、クリスマスの讃美歌を歌って聖夜が来るのを待つのでした。これは厳しい戦局の中では,非国民の誹りに値する英雄的な行為だったろうと今思います。

 クリスマスの祝い日、12月25日の朝目覚めると、枕元にはサンタクロースからのプレゼントが置かれていました。

 国際金融マンをやめて、50才になってローマで神学生になり、以来、延べ20年近くもイタリアに住んで、イタリア人のクリスマスの習慣もよく観察しました。そして、4歳、5歳ぐらいまでの子供たちが、バッボ・ナターレ(Babbo Natale)、つまりサンタクロースに一生けんめいお祈りして今年プレゼントとして欲しいものをお願いすると、クリスマスの朝目覚めたときにそれが枕元に届いているのでした。子供たちは3歳か4歳ぐらいまでは、サンタクロースが願いの祈りを聞き入れて持ってきてくれたと本気で信じているようでした。

 しかし、4歳か5歳ぐらいになると、実はお父さんやお母さんが自分のサンタの叔父さんにしている祈りを聞いていて、家計をやりくりしてプレゼントを用意して、寝ている間においてくれたらしいことに、うすうす気づいているようでした。しかし、気付いてもすぐにはプレゼントを買ってくれたのはサンタさんではなく、本当はお父さんでしょう?とは訊ねません。そのからくりを見破ったことを告白してしまったら、もう来年はプレゼントが枕元にないかもしれないと思うからでしょう。

 さて、カトリックの教会には数多くの聖人たちがいます。聖人に執り成しの祈りをすると、聖人はそれを聞き入れて、願い事を叶えてくれるという信心が今も教会の中に広く行き渡っています。

 聖アントニオ様は失せもの専門の聖人で、何かを失くして出てこないときにはアントニオ様にお祈りをすると見つかる、とか、この病気はこの聖人に、あの病気はあの聖人にお祈りすると、治していただける、とかです。

 ところで、生前から聖人の噂の高かった人が亡くなると、その人を教会によって聖人として認めてもらおうという、いわゆる列聖運動が起こります。日本でも、長崎で殉教した26聖人も、そのような列聖運動の賜物でした。

 中世ヨーロッパ、例えばイタリアでは、教会が聖人と認定した模範的信者の墓に巡礼をして懺悔や一定の祈りをした者には、"いわゆる“「免罪符」、厳密には罪の償いの義務を免除する「全贖宥」を与えるとローマ教皇庁が宣言することが頻繁に行われました。たとえば、日本でも有名なアシジの聖フランシスコが死ぬと、アシジの町と隣のより勢力のある町ペルージアが、その遺骸争奪の暗闘を繰り広げた、などという騒ぎです。それもそのはず、聖者の墓に詣でてローマから「全贖宥」をいただこうと善男善女が巡礼に押し寄せると、その町は経済的に大いに潤うことになるからです。教会も儲かる、町も繁栄する。ここにお金の神様、マンモンの論理が見え隠れします。

 さて、教会が聖人と認定するためには、その人の取次によって2つ以上の奇跡が起こったことが教会によって確認されなければなりません。だから、列聖運動の推進団体は、取次を求める祈りのチラシを配って、亡くなった聖人候補者にお祈りをして、奇跡を求めるよう人々に勧めます。

 しかし、聖人候補の死者は自分が聖人として認められるために奇跡を行うでしょうか。奇跡が自然法則に例外をもうけることだとすれば、それが出来るのは自然法則の立法者の神様だけではないでしょうか。死者である聖人候補が、神に代わって自らの意思で自然法則に手を加えることが許されるかどうか、ちょっと考えればすぐわかりそうなものです。奇跡は神様の専権事項で人間の立ち入るべき領域ではありません。

 この一連のちぐはぐな考察から、私は大きな疑問を抱き、叫びました。

 チョーっと待った!キリスト教は旧約聖書の時代から、人は死んだら一巻の終わりではなく、体が滅んで土に帰ろうとも、火葬されて灰と水蒸気になって消えようとも、死んだ人の魂は深い眠りに落ちて、世の終わりの日には再び肉体を取り戻して復活し、長い眠りから目覚めてまた生きはじめる、と教えられています。これは信仰箇条、ドグマです。信者はそれを毎日曜日のミサで信仰宣言として高らかに唱えます。この教義を信じない人は正統なキリスト教信者とは認められません。

 ところで、私は若い頃ドイツで一回、そして中年を過ぎて日本で二回、全身麻酔を経験しています。麻酔が効いてきて、ドクターと看護婦さんの会話がふっと聞こえなくなってから、「○○さん、目覚めましたか?」というナースの声を聞くまで、私にとって、それは一瞬の出来事でした。私が麻酔にかかって意識を失っている間に、1時間経過したのか、2時間だったのか、複雑なオペで5時間もかかったのか知りませんが、その間、わたしは完全に深い眠りに入り、時間の経過も、私の身に、また回りで何が起こっていたかも、一切知ることはありませんでした。

 人が死んで、体が土に返り、あるいは煙と灰になって、五感も、五感が備わった肉体そのものも壊れて失われた後は、人は全身麻酔よりもはるかに深い眠りに入って、時間の流れも、周囲の出来事も、文明の進化も世界の歴史も、何も感じることがないはずではないでしょうか。

 人間の魂、霊魂は、物質的な存在ではなく、いわば霊的な現実ですから、時空の世界のどこにも、位置や場所を占めず、この世の私たちにとっては全くつかみどころのない、どこにもいないのと同じような存在になります。確かに懐かしい母の想い出は今も私の心の中に生きているし、墓石にはその名が刻まれています。しかし、経験的には彼女の肉体の消滅と共にまるで宇宙から消えてしまったかのごとくです。

 5歳、6歳以上の子供たちにとって、サンタクロースはすでに消えてなくなって、存在しないように、天国で罪人のために執り成しでいそがしい姿の聖人たちの魂も、実は深い眠りの中で、この世とかかわりのない世界に消えてしまっているはずです。私たちが麻酔から覚める時に感じたように、聖人たちも目覚め、意識を取り戻し、人や世界とのかかわりを取り戻すのは、「終わりの日」、つまり、終末の復活の日に肉体を取り戻した時ではないでしょうか。

 死んで、肉体が滅んで、そのあとに残された人間の「霊魂」は、思考も、知覚も、外界の認識も、意思の疎通も、完全に停止するのですから、深い、深い眠りの闇に生きる者として以外に存在の可能性はあり得ません。

 それとも、聖人たちだけは、世の終わりの復活を待たずに、死んですぐまた肉体を取り戻し、聖人たちのためだけに特権的にしつらえられた別の宇宙空間に意識を持って生きているのでしょうか。そして、聖人たちが生前に生き、私たちが今生きているこの宇宙と、聖人たちのためだけに用意されたもう一つの宇宙の間に、聖人だけに特権的に与えられた通信手段で交流する可能性があるとでもいうのでしょうか。

 「それはあり得ない」、と私は大声で断言します。すると、私のまわりの信者たちや神父たちは動揺して、騒然となって、まるで異端者を見るような目で私を見ます。

 彼らは激しく反論するでしょう。では、教会が聖人たちの祝日を定め、諸聖人の通功を信じさせ、とりなしの祈願をするよう盛んに勧めてきたのに、それは一体どうなるのか?もし、聖人たちがほかの凡人たちと同様に、復活の日まで完全な眠りに就いて、この世で執り成しを願う信心深い罪人たちの祈りに気付くことも聞きとることも出来ないとしたら、彼らはどうやって我々と神様との間を取り持ち、仲介することが出来るのか。教会は長年にわたって信者を騙し、ペテンにかけてきたのか、と怒りを爆発させる人がいるかもしれません。

 教会が数年に一握りの人数の死者を聖人として認定し、荘厳に列聖し、人々に彼らを尊崇しその模範に倣って清い生活を送り、毅然として信仰を証しせよ、と言ってハッパをかけたからと言ってどこが悪い?教会は何も間違ったことをしていない、と、わたしは逆に開き直りたい。

 また、教会が勝手に聖人と認定して定めた祝日を祝い、盛んに取次の願いをし、それが叶った、まだ叶わない、何故?などと言って、人々が一喜一憂している間も、その聖人たちの霊魂は深い眠りの中にあり、彼らを廻るこの世の騒ぎをよそに、安らかに復活の日を待っている、としても何の不都合がある?と、反論したい。

 善良なクリスチャンの両親が、3歳、4歳の子供たちに、実在しないサンタクロースの話をし、子供たちはそれを信じて、いい子でいるように努め、サンタのおじさんに向かって可愛いお祈りをして欲しいプレゼントを願い、両親はその品をそっと用意して枕元に置き、クリスマスの朝、「よかったね、いい子にしていたからサンタのおじさんが届けてくれたのよ」、とほほ笑んで、子供がそのとおり信じても、どこに問題がある?

 親がサンタクロースの実在をハナから信じていなくても、それはそれ、別にかまわないではないですか。

 5歳、6歳の曖昧な時期を過ぎたころ、学校の少し大人びた同級生から、「お前、まだサンタクロースなんか信じているのか?バーカ!」と言われて、ハット気がついたら、それは子供の成長として喜ばしいことではないですか。

 しかし、もし死んで聖人に挙げられた人の霊魂が深い眠りに落ちているのなら、どうやって私たちの願いに気付き、聞き取ることが出来たのか、また、私たちの祈りと願いをどうやって神様にとりなすことができたのか、希にだが、願ったことが叶えられたのはどうしてか?やっぱり聖人たちは眠ってなんかいない!そう言う人がいるかもしれない。

 しかし、その人は忘れています。子供の両親は、サンタさんに教えられなくても、またサンタさんの宅配に頼らなくても、自分たちで子供の欲しがる贈り物を買ってきて枕元に置くことが出来るのです。神様も同じことをなさっているに過ぎません。

 神様は私たち一人ひとりをこよなく愛しておられることを忘れてはいけない。また、神様は、死んだ聖人が眠っていて、あなたの願いを聞き、それを神様に取り次ぐことができなくても、神様ご自身がそれをちゃんと聞き取り、直接にかなえて下さることを。

 神様はあなたの願いを知るために聖人からの報告を待つ必要がない、あなたの願いをかなえるために聖人の力を借りる必要もない方ではなかったでしょうか。

 教会から晴れがましく聖人の位に挙げられた少数の聖人たちも、人知れずこの世を去った無数のより偉大な聖人たちも、無限大の数の平凡な死者たちと同列に、クリスマスの夜も静かに深く眠らせておいてあげようではありませんか。

 世界のキリスト者が、3歳児、4歳児レベルの幼稚な信仰を脱ぎ捨て、今年のクリスマスこそ、大人の背丈に合った理性的でより強固な信仰に目覚めることを願って、クリスマスプレゼントとしてこのブログを書きました。

 蛇足ながら、この点に関しては、プロテスタントの兄弟達はカトリックの大衆よりいささか大人だといえるかもしれません(笑)。(注)

 今日24日はクリスマスイヴ。わたしは、オミクロン騒ぎにも拘わらず、降誕祭の前晩のミサを共同体と一緒に荘厳に祝います。

(注) 私はカトリックの信仰箇条(クレド)の中に「聖徒の交わり」という一句があるのを知らないわけではない。「カトリック教会のカテキズム」という本の中には「この箇条(『聖徒の交わり』)は、いわば前節(第4節、『キリスト信者』——聖職位階、信徒、奉献生活)の説明です。」とあり、それは専らこの世の教会の様々な立場のキリスト者の交わりについてであった。だが、付帯的には死者のこと、聖人たちのことにもわずかに触れている。しかし、それらはわたしを納得させるものではなかった。

 また、三つの教会ー①地上を旅する教会 ②すでにこの世を去って清めを受けている教会 ③栄光を受けている教会ーは、全く違う条件の人間、①この世に今現在体をもって生きる私たち ②死んで体を失って眠っている人間たち ③世の終わりに目覚めて復活して新しい天と地に体をもって蘇る人間、という質的にも時系列的にも全く存在条件の違う様態の人間を、同一条件で並列した3つのグループに共生しているかのように捉える実態にそぐわない観念的な仕分けは、私には説得力がない。

 私の学生時代には、日本にも「煉獄援助姉妹会」という女子修道会があって、神戸の六甲でも修道院を開いて社会福祉活動をしていた。しかし、第二バチカン公会議後は会の名前から「煉獄」の2文字が消え、単に「援助修道会」と改めた。なぜ? また、私が神学を学んだローマの教皇庁立グレゴリアーナ大学は、カトリックの最高学府の名を博しているが、わたしは、この種の問題に正面から積極的に取り組んだ科目(講義)について何も、一度も聞いたことがない。

 何れにしても、第2バチカン公会議以後の教会では、死者の魂のあり様の従来の捉え方は全否定はされてはいないものの、意図的にそっと脇に置かれ、なるべく触れないよう、議論されないようにしている感がある。そして、死者の魂が、また、教会によって選ばれ聖人に認定された魂が、それぞれ死後どのような状態にあるのかについては、曖昧なまま何も積極的に語られていない。

 その一方で、死者は復活して肉体を回復する日まで「眠りに就く」という固い事実は、新・旧約聖書に度々書かれていて、誤りのない確かな真実として教会は最初から堅持してきた

 

★ 右下に目立たない小さな字で コメント(3) という文字があります。「新米信者」さんから、私の上のブログの書き足りない点を鋭く指摘したコメントが入り、それに、私が必要な補足と弁明をしています。是非合わせてお読みください。→ ーーー下の コメント(3) をクリック! →

コメント (3)
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★ 私の「インドの旅」総集編(7)遠藤批判

2021-12-11 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編 (7)遠藤批判

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

       b) キリスト教の凋落

       c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

               (10)超自然宗教の復権

 

 

若き日の遠藤周作

 

(7)遠藤批判 

 去る11月6日と11日に

NHK心の時代 ~宗教・人生~

遠藤周作没後25年

遺作「深い河」をたどる(前編・後編)

という番組を私は見た。

 遠藤周作というカトリック作家の没25周年記念にNHKが作成した番組である。

 NHKは、放送法(昭和25年法律第132号)に基づいて設置された総務省所管の放送事業者で、実質的には日本の政権与党に忖度する国営放送局ということが出来るだろう。

 今回の特集番組は、周到な構成と金のかかった映像の素晴らしいもので、さすがはNHKならではの出来映えであった。

 若松英輔(批評家、随筆家)と山根道公(日本の近代文学研究者)の対談を軸に展開する番組は、対談場所として遠藤ゆかりの—そして、私にとっては学生時代の懐かしい日々の祈りの場であった—上智大学の古い木造洋館二階の和風チャペル「クルトゥールハイム」を使っている。

               

若松英輔        山根道公

 もし、この番組に問題があるとすれば、それは、対談者の話が遠藤周作流のキリスト教理解、つまり、キリスト教の日本固有の精神文化・風土への土着化という特異な「イデオロギー」の全面的肯定と、キリスト教の本来の教えを知らない日本の一般市民に、「キリスト教とは遠藤が小説の中で展開したような世界なのだ」、という偏見を植え付けてしまう危険性だと言えよう。

 天下の公器であるNHKがそういうキリスト教の正統信仰から遠く離れた解釈を敢えて取り上げるということは、結果的にキリスト教に対する誤った理解をNHKの暖簾の力で広く世に浸透させる効果を生むことになるのではないかと私は危惧する。

 だから、誰かが「それは違うよ!」という批判的意見を述べて、カトリックの正統信仰は別のところにある、ということを世に知らしめなければならないと思った。

 遠藤が時流に乗って「カトリック作家として世の脚光を浴びたのは事実だが、彼が信仰の真面目さと伝統の重さに配慮することなく、自分の心の赴くままになんでも自由に書き放ったことや、カトリックの伝統神学の立場からも、まじめな聖書学や歴史研究の立場からもとても容認され得ないようなことを乱暴に書き連ねたことについては、厳しく批判され糺されなければならないだろう。

 私はすでに、2021年7月17日の「田川建三の遠藤周作批判」というブログを書いている。ここでは、その記述を反芻し、要約しながら、あらためて問題点を明らかにしたいと思う。

  

田川建三

 私より4才年上の田川建三は、東京大学宗教史学科から、同大学院博士課程3年目にストラスブール大学に留学し、そこで宗教学博士号を取得した碩学である。田川の遠藤批判は、私の厳しい遠藤評価に、論理的かつ聖書学的な裏付けを与えてくれて実に胸がすく思いがする。

 田川は先ず、遠藤のイエス像を、「ずぶの素人がいわば出版資本の要請に応えて書き流したものに過ぎない」と切って捨てる。

 そして、「それにしては既にあまりにも多く売れて人々に読まれ、数多くの日本人がイエスという人物について思い描くイメージを大きく規定してきてしまったし、そこに含まれた実に数多い欠陥は、それぞれ、イエス伝を描くという行為にまつわる諸問題を典型的に示しているので、取り上げて論じる意味は十分にあろうかとおもわれる。」と付け加えている。

私がNHKの先の「心の時代~宗教・人生~遠藤周作没後25年」の特別番組を見て危惧するところは、まさに田川が言うように、「既にあまりにも多く売れて人々に読まれ、数多くの日本人がイエスという人物について思い描くイメージを大きく規定してきてしまっている」点に関わっている。

 つまり、NHKが遠藤周作の描くキリスト教観を肯定し、礼賛する2名を対談者として選ぶことによって、遠藤の実に欠陥の多いイメージをNHKの権威を持って肯定し、さらに広く喧伝する結果を招いているということだ。

 日本のカトリックの教会は、ここに重大な問題が潜んでいることを指摘し、正統なキリスト教の教えを擁護し主張しなければならない立場にありながら、現実には、教会の指導部自体が既に遠藤流のキリスト教観に深刻に汚染されていて、NHKの果している役割の危険性を指摘し正統信仰を擁護する機能がすっかり麻痺しているのではないかと危惧される。

 田川は聖書学者の緻密な分析に基づいて、私の力ではとてもなし得ないほど深く、適格に、遠藤の作品の問題点を指摘しているので、田川による遠藤批判をもう少し辿ってみよう。

 田川は「作家が良く知らないことに関して知ったような顔をして口を出し、しかも、作家の書くことが不当に多く評価されすぎる今の日本においては、作家の書きなぐる無責任な著述が人々の『知識』の内容を形作ってしまう、という世相に対して、一つの警鐘をならしておく必要があろうかと思われ。」(P.171)(注)と指摘する。

 さらに、「実際『イエスの生涯』は駄作である。『キリストの誕生』には例の遠藤周作特有の甘ったるい『弱者の論理』があちらこちらの頁に散りばめられている。(P.172)」と続く。そして、

 (人は)イエス像を描くときには、自分の期待する理想的な人間像を思い入れたり、無自覚のうちに自分の未熟な思いをそのまま投影してしまう。それは、自分の現在のあり様を何らかの意味で肯定してくれる権威で、直接的にお前はそのままでいいのだぞ、と肯定してくれる場合もあるし、お前のような奴はダメだが、ダメなままで我慢して救ってやろう、という形で、「だめ」な自分は「だめ」なままでいいのだ、と居直ることになるので、ずぶずぶの自己肯定に終わることは間違いがない。(内容のない自己卑下は、一般に日本人がやたらと好む奇妙な道徳である)しかも、「自分はだめだ」と言い立てることによって、その「だめな自分」を肯定することができるのだから、二重の自己満悦に耽ることができる。遠藤の「弱者の論理」は、世のなかにはそういう自己満足に耽りたがる人間が大勢いるから、その分だけよく売れることになる。(P.274)

「イエスの生涯」は歴史記述の力量がまるでないのに歴史記述に手を出したから、イデオロギーのみがむき出しに露出してしまった。しかし、遠藤はイデオロギーで勝負できるような著者ではない。遠藤周作はただ彼のセンチメンタルな「負け犬」の信条に原始キリスト教の歴史を引き付けて「解釈」することができればそれでよかった。「犬のように」、「弱さ」「惨めさ」「ふかい自己嫌悪」、「生涯は無意味」、「恥ずかしさに震えんばかり」――遠藤ブシの得意の語り口である。 「キリストの生涯」P. 27) 

 「普通、人は自己嫌悪していることにはふれたがらない。ところが、遠藤の書くものを読んでいると、『弱さ』『惨めさ』『空しさ』の『自己嫌悪』がやたらと大量にどの頁にも出てくる。こんなに嬉しそうに自慢げに語られる自己嫌悪が自己嫌悪であるはずがない。弟子たちは『イエスの受難の意味、その惨めな死の謎を解き明かそうと、もがき苦しんだ』あげく、イエスの死の意味付けに到達した」と言うのが遠藤の結論であるが、これも田川には「絵空事に思える」 しかし、遠藤ブシが歴史記述に支えられない間違いだらけであることを知らずにこの本を通俗本として読めば、(人は)遠藤ブシまでも歴史記述の一環なのではないかと思い違いしてしまう。」(P.198)

 遠藤は自分の遠藤ブシを学問的スタイルと歴史記述の体裁で展開し、「お前の『弱さ』はそのままでいいのだと現実における居直りをすすめてくれる宗教的愛の場を説く。そこには現代日本人の生活の、ゆがんではいるが執拗な、現実に居直りたい日本人の心に共鳴する心地よい響きがある。それは、ゆがんだ社会の現実に何の変更も加えさすまいとする現実の力にとって、大いに役立つ。」(P.201)

 「遠藤は、いかにも歴史的知識があるかの如くに学問的スタイルで、断言的に正反対の間違いを言い張って、知られている事実を捻じ曲げてまで作り話をする。それを、歴史記述のスタイル、しかも断定的な文体で書いている。知らないくせに、よく調べて知っているかの如き文体で書くのは正しくない。」(P.202)

 「遠藤は福音書の文章を自分の気に入ったものだけは無批判にそのまま歴史の事実とみなして引用する。しかし遠藤は、福音書の引用であると言いながら、全然正反対の意味に内容を変えたりする。これは、他人の文章に言及する著者の最小限のモラルに違反している。著作権によって保護されている現代の同業者であろうと、福音書の著者であろうと、同じことなのだ。」(P.206-7)

 「何故遠藤がおよそ初歩的な文章の読み違いをやらかしたかというと、そもそも文章に書いてあることを読もうとしなかったからである。この著作の全体がほとんど読まずに読んだふりをしている思い入れ、に満ちているのだ。(P.207) 

 田川は続いてもう一つだけ、いかに遠藤が福音書の記述を平気で作り変えるか、という実例を挙げる。それはこう始まる。「『エマオの旅人』という話がある。レンブラントが絵にしたので、キリスト教徒でない日本の読者にもよく知られていよう。」(中略)「遠藤はこれをそのまま歴史的事実とみなす。ところが遠藤は素朴に史実として信じているかの如きスタイルで書きながら、肝心なところで、ルカ福音書のテクストとはおよそ異なる我田引水をやらかしている。」(P.210)「この話のどこにも、二人の弟子が『イエスを裏切り、自責の念と絶望とに苦しんでいた』(『生涯』P.39)などと言うことは書いていない。」(P.210)

 長い記述を要約すると、福音書によれば、「義人イエスをユダヤ教当局(とローマの官憲)が死刑に処した」のに、遠藤の描く弟子たちにとっては、イエスの十字架とは、「自分たちがイエスを裏切った『卑劣な』事件、ひたすら自責の念に駆れるばかりの事件」であり、「イエスの直弟子がイエスを殺したかのごとくである。」それはまさに、「事柄の責任者を追及することなく、一億総ざんげ的に自責の念に駆られる、まさに日本体制多数派の心情である。だからイエスの復活とは、お前たちは『卑劣』であっても赦してやるよ、というおなじみの遠藤ブシの宣言に収斂されてしまう。」それは「自分たちの卑劣な裏切りに(イエスが)怒りや恨みを持たず、逆に愛をもってそれに応える」(P.248)ことなのだそうだ。一億総懺悔は、責任の所在をあいまいにし、そして、懺悔したものがみな赦されて、元のもくあみに終わる。遠藤の「弱者の論理」は一見、弱い人間のための思想のようでありながら、実は日本ファシズムの体質を戦後にもそのまま保存した日本国民の思想体質が、そのままイエス記述に名を借りて表現されているのである。(P.211)

 ルカの福音書のキリストは「苦難を受けたのち、栄光にはいる」が、それは決して遠藤の言う如く、イエスが永遠の「同伴者」としていつでも自分達の「卑劣さ」を「いいよ、いいよ」と言って赦してくれる、などというけち臭いことではない。近代日本人文学者好みの、ただじめじめと、「自分の卑劣さに対する自責の念」などにとじこもるのとわけが違う(本当は自責の念ではなく、それでいいのだよと自ら赦す居直りの念なのだが)。(P.212)

 しかし、「全体としてマルコの描くイエスは、生き生きと自信に満ちて活動する一人の人間の姿であり、じめじめと『無力』に居直って、無力こそ本物の『愛』だ、などとうそぶく退廃した人間の姿ではない」。(P.220)

 田川はこれだけ正反対の像を提供しつつ、しかもそれを福音書を資料とした歴史記述であるかの如きスタイルで書くのは詐欺である。と言い切っている。(P.220)

 残る問題は、どうして遠藤のこういう『愛の無力さ』のイデオロギーが現代日本では俗受けするか、ということである。こういう退廃した思想がはやるのは、現代日本の大衆社会の病的状態の一つの兆候であろう。

 どこが間違っているかというと、我々の毎日の生活も、一つ間違えば病気や飢えの危機に転落しかねないこと(コロナ騒ぎを観よ!)、また、我々の毎日の平穏な生活が、地球の半分の人々に常に病気と飢えの中に生きることを強いる抑圧の構造に支えられているという現実を捉えることができなくなっているということだ。食って寝る生活はけち臭い目先の『現実』として抽象化され、それとは別に『精神的』な側面が意味ありげに尊重される。そこに現代の日本人の精神生活の歪んだ病的な状態がある。そして、この状態は広く蔓延しているので、誰も自分は歪んで病的だとは思わない。こういう病的な精神状態にうまく乗って俗受けしたのが遠藤周作の『弱者の論理』なのだ。(P.224)

 要約すると、[遠藤の書いていることは福音書の記述そのものとも、またその背景にある歴史的事実ともおよそ合致しない、しばしば正反対の無茶苦茶] (P.224)だということになる。

 田川は遠藤の「イエスの生涯」と、「キリストの誕生」を中心に遠藤批判を展開している。田川が「宗教とは何か」で上の遠藤周作批判を書いたときには、遠藤の最期の長編小説とされる「深い河」はまだ出版されていなかった。

 田川がもし「深い河」を読んだ上で遠藤批判を書いていたら、それはもっと辛辣なものになっていたであろう。私はそれを読んだし、その映画も見たが、それは、遠藤が半ば燃え尽きて小説家としての力量も二流、三流作家のレベルに落ちてしまったか、と目を疑う駄作になっている。遠藤の中に未消化のまま残っていた幾つかの素材の脈絡のない陳列と、カトリック作家の知名度にものを言わせて、キリスト教の中に何とか「輪廻転生」の概念をどさくさに紛れて強引に持ち込もうとした意味不明の駄作であると言って切って捨てれば足りるだろう。自然宗教の「輪廻」と、キリスト教の「復活」という超自然宗教に固有な概念とは、遠藤が釈迦力に頑張ってもどうにもならない対立概念なのだ。

 遠藤は少年時代にたまたまカトリックの洗礼を受けたことを売りにして、文壇に「カトリック流行作家」として躍り出たが、死ぬまでイエスが誰であったか、イエスの死と復活の本当の意味が何であったかを深く理解することなく逝ったことを明白に告白した確かな証拠として「深い河」を残して死んで行ったといえば、実態を正確にとらえたことになるだろう。

 これで、長かった私の「インドの旅」シリーズも、ようやく終わりを迎えられる目途が立ったのではないかと思う。

今年も「万物の贖い主」イエス・キリストの 降誕祭 が近づいた。

 しかし、銀座のクラブのママは、クリスマスは赤頭巾に白髭のサンタクロースを祝う稼ぎ時のお祭りだと信じているように、遠藤の描くキリスト教は女々しい転びや棄教を礼賛する典型的自然宗教の一つとして日本人に刷り込まれた思想であり、「沈黙」がスコセージ監督のハリウッド版になって世界中を駆け巡ると、ローマの進歩派の神父たちやカトリックインテリたちに、斬新なキリスト教解釈としてもてはやされる危険な効果を遺憾なく発揮している。世俗主義はキリスト教の多くの祝日を商業主義のチャンスに転嫁していくが、さすがにキリスト教最大の祭りである 復活祭 にだけは手が付けられないでいるらしい。それは、キリストの「死者の中からの復活」の教えだけは、何とこじつけようとも、自然宗教化を寄せ付けない「超自然宗教」の本質部分が硬く露出した史実だからに違いない。

(注)(P.○○)は田川建三著「宗教とは何か」の引用ページを指す。

   文中の文字の色分けは、筆者(私)のランダムなアクセント付けです。

(つづく)

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