:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 鶯と詩人 ホイヴェルス著 =時間の流れに=

2022-08-28 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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鶯と詩人

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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鶯と詩人

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 私は五歳のとき、よく鶯の歌を歌いました。 

      Nachtigall, Nachtigall !

      Wie sangst du so schön 

      Vor allen Vögelein !

      「鶯よ うぐいすよ 

      なんと美しくうたったことよ 

      どの小鳥よりお上手に」 

 などと母からならって――けれども鶯の声を聞いたことがありませんでしたから、この不思議な鳥の声を始めて聞けるのはいつかしら、とあこがれていました。二、三年たってからいろいろな鳥の声を聞きました。中には、森の中に自分の名を呼んでいる郭公鳥の声もありました。鶯もそうしたらいいのに、と私は思いました。 

 ところがある五月の朝、森を通って行くと、突然中から、何かのラッパの音なのか笛の音なのか、大きな喜びの叫びや、また悲しいさえずりなどが響きましたので、私は息を押えました。確かに鶯です。すべての鳥よりも美しく歌うのです。 

 五月の朝のそうした出来事のあとで、私はいろいろな国を訪れました。新しい国にはいると、その国では五月になると鶯が歌うかしらと、すぐ気にかかりました。ずっとあとになって日本に来たときに、日本も鶯の国だと聞いて非常によろこびました。私が万葉集の和歌を研究したときには、春とともに必ず鶯の名もそこに出て来るので、鶯という言葉は、もう一番美しい感情にみたされた日本語となりました。日本の鶯の声が始めて耳に響き、深く心にはいるのはいつのことでしょうか。 

 私が来朝したのはちょうど八月のことでしたが、秋になり冬になりました。それから春――春のある朝八時頃、庭の中で短い笛の音がしました。 鶯かしら、と立ち聞きました。しかしやはり一つの短い歌でした。もっともっと聞きたい。庭の中へはいって、ひそかに歌声の方に近づいて行きました。やはり鶯です。鳥は枝にとまって速かにその歌を終わりました。それからあちこち飛んで虫を食べ景色を眺め、もういっぺん短く歌いました。鶯よ、そんなに短く歌うのにお前を Nachtigall といってよいのでしょうか。 

 ある若い詩人が、私に一人の有名な詩人の著した本を寄贈して下さいました。それは七百五十五首の和歌を納めたものでした。中には春と鶯についても、かなり詠んでありました。七百五十五の和歌、どういうわけでそんなに短いものにしたのでしょう。詩人もやはり鶯のように、その製作をあまりに早くまとめてしまい過ぎます。日本の鶯と詩人の気持はいつになったらわかるのでしょう。 

 しばらくたって若い詩人は七百五十五首の和歌を詠じた詩人のところに私をつれて行きました。一見その詩人は決して詩人のようには見えませんでした。都会の美術家や文芸作家などのように長い髪をしていません。またその目つきも普通です。ある若い美術家などは、サムソンの力が髪の毛にあると思っているかのように、非常に長い頭髪をたくわえ、その歩き方や目つきは、いつもダンテとともに地獄のどん底をめぐり、あるいはファウストとともに魔女の厨を訪ねるもののようです。この詩人には何もこうした怖しいところがありませんでした。 

 初め私たちは応接間の安楽椅子に腰をおろしましたが、なかなか話がうまく進みませんので、居間に案内され、そこに坐って、やがて楽しい会話となりました。詩人は心よく自分のほかの著作を見せましたが、それもおおかた三十一文字の和歌でみたされてありました。この詩人は自然のうちに潜みかくれ、静かにしていて、自然の息を感じると、柔かい手つきで捉え、三十一の珠玉の言葉の中に花束のように包み、読者に献げるのです。

 詩人の夫人は茶菓をすすめて静かに詩人の後に坐りました。あとから詩人の合図でレコードを出し、作曲されたいろいろの和歌をきかせました。中には有名な蝶々の和歌もありました。また蝉の声、蛙の和歌を聞かせました。それがすむと、夫人は紅茶と菓子を新たに運んで来ました。そこで私は勇気をふるい起こして、詩人に私の悩みを言い表わしました。

「二、三日前に始めて鶯を聞きました。正直に申しますと、私は失望したのです。あまり早く歌い終わってしまいますから。もちろん歌うところは美しく響きますが。けれども日入る国々の鶯の荒々しい熱情、底しれぬ淵のような嘆き、あこがれの歓喜の声などはどこにあるのでしょう。そうしてまた日本の詩人たちも、失礼ですけれども鶯のように、何か軽く詩人の仕事を行うのではないかと思いますが、日本の詩人たちは、自然に沈み、ある景色と花とか、その魂にまで触れ、それから浮世のはかなさにあわれを覚えるなど、その感興を三十一文字の和歌に吹きこみます。この三十一文字は私たちには歌の表題としか思われません。歌そのものは与えられておりません」

 などと私は言いました。 

 詩人は忍耐強く終わりまで私の言葉を聞いていました。私は、机の上に置かれた詩人の右手の指先が軽く机を叩くのを見て、その不賛成がそれも詩人の力強い返事としてわかってくるのでした。

「平和な自然のうちにありながら、何だって埃を立てたり、感情を鞭打っていらだたせたりするのでしょう。また山の上に山を置いたり、森を根絶やしにしたり! 自然においてはすべてはなれなければならぬ状態にあるのです。自然世界が移りかわって行くならば、その印象を受け、三十一字なり、十七字なりで表現したら十分ではないですか。自然に反抗したって何のためになるのでしょうか。花が咲き花が凋落する。それをあわれと思う人は、その感じる所を、決して反抗的な気持でではなく、優しい感情を紙に書き、涙ぐみながらその和歌を桜の木の枝に結びつけたらいいではないですか。と、こうわれわれ詩人たちは思うのですが――。今日知ったばかりですが、わが国の鶯もその通りするわけなんですがね」

 詩人の夫人はもう一つ主人の歌のレコードをかけて、この対話の波をやわらげました。私たちはいい気持で別れを告げました。詩人は、しばらく私たちとつれだって歩み、草原を越えました。そこで私は三十一文字の謎をといたのであります。それはこういうわけなのです。小さい蝶々が詩人の袖に飛んで来てとまりました。私は日入る国の者として、すぐこの蝶が人類に与える害を思い、打とうとして手を上げました。けれども詩人は、さながらアッジジの聖フランシスコのように、この小さな生物を見えない力で自分の方にひきよせました。蝶は保護されたと感じて逃げません。詩人は、蝶の上に手をかざしてかばい、なでいとしみ、しばらくそのままで、歩いて小さい弟の蝶のために安全な場所をさがすのでした。ようやく手頃な所を見つけて、土にかがみ、小さいものを草の中に滑らせました。蝶はまもなく見えなくなってしまいました。 

 それは、どんなに美しい和歌になることでありましょう。

 

 ホイヴェルス師はウグイスに託して、東西の文化の違い、こころの持ち方の違いをさり気なく書いています。

 私もホイヴェルス神父様の祖国ドイツのデュッセルドルフに4年ほど住んで、その半分は市の中心のホーフガルテン(宮廷庭園)の森のそばに住んでいたので、この短編を読むと、短い夏の夜、夜通しさえずるサヨナキドリ・ナイチンゲールの美しい声を楽しんだことを懐かしく思い出します。

 ヨーロッパのヨナキウグイスと日本の鶯と比べて、日本のウグイスの歌声が余り短くあっさりしていることに、師は正直に失望したと言います。

 名は同じ「ウグイス」でも、ドイツのそれはスズメ目ヒタキ科ウグイス属の鳥であり、日本の鶯はスズメ目スズメ・ウグイス科の鳥で、日本三大鳴鳥の一つに数えられますが、種類が明らかに違います。たまたま「ウグイス」の名が共通したのでしょう。

 YouTubeでドイツ語でNachtigallと引けば、ヨナキウグイスの音声動画が幾つもヒットします。懐かしい美しい、途切れなく長い変化に富んだ歌声です。日本の鶯のホーホケキョ、ケキョケキョ、もYouTubeで聞けます。

 あとは、ホイヴェルス神父様の文章そのものが全てを語っているので、野暮なコメントは必要ないでしょう。

 ただ、ナイチンゲールと言えば、19世紀クリミア戦争に従軍したフローレンス・ナイチンゲールが有名ですが、赤十字と繋がって近代看護師の基礎を築いた女性です。日本で、もし初めてでなければ、極めて初期のナイチンゲール章を授与された井深八重子さんという看護婦さんがいました。彼女は、良家のお嬢様育ちだでした。不幸にも癩病と診断され富士の裾野の神山福生病院に隔離され、1年後ぐらいに誤診と判明して、自由の身になったのですが、入院時の院内の生活の悲惨で絶望的状態が忘れられず、看護婦の資格を取って同病院に戻り、生涯そこで奉仕の生活を送られました。

 私は、ホイヴェルス神父様と出会った学生時代、日本のカトリックの黄金時代の偉大な先達の跡を慕って、あちこち足を運びましたが、富士の裾野の神山福生病院には故岩下壮一神父の遺徳を偲んで訪れ、そこでまだ存命中だった井深八重子さんご自身に院内を案内していただきました。当時はまだかなりの数の癩患者が収容されていました。

 岩下壮一神父と言えば、東大の哲学科の俊秀で、天皇から恩賜の銀時計を受けた人物ですが、カトリックの司祭になり、東京の初代の大司教・枢機卿の任命を受けたのに、それを断って、関西の岩下財閥の財力で神山福生病院を設立し、生涯を癩病の患者のために捧げた人です。彼は少年時代に足を怪我して、以来ビッコだったのですが、日本のカトリック教会の顔になるべき人間がチンバでは絵にならないだろうというのが辞退の理由でした。

 聖書の翻訳では「癩病」は差別用語として避けられ、「重い皮膚病」などと訳されていますが、岩下師を語る場合に「思い皮膚病」の病院ではどうにもなりません。歴史的にも重い意味の込められたこの病気の聖書言葉の訳に「癩」の字が使えないというのであれば、一層のこと「レプラ」とカナ表示にすればよかったのに、と思います。

 癩病院と言えば、私が高松教区の司祭として働き始めたころ、高松港から公営無料連絡ランチで30分ほどの小島の癩病院「青松園」に、二週に一度ミサをささげに行くのが大切な務めでした。数名のカトリック信者の患者さんがいて、ミサ後のお茶の時間は貴重なものでした。現在は、入園者が高齢化で皆他界し、閉園後はリゾート地か何かに変身するのではないかと風の便りにききました。80年以上も生きると、いろいろ世の移り変わりをみることになりますね。

 

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★ 時間の流れに

2022-08-25 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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時間の流れに

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在りし日の聖イグナチオ教会

 

 私の仕事場は四谷見附の麹町通りに面しています。数しれぬほどの自動車が、それぞれの警笛をならしながら、物すごいスピードで走っていきます。みな、どこかへ、そして一刻も早く行きつくところへいきたいのです。その自動車群のあいだをトラックがわれ遅れじと重いからだをひきずっていきます。すると地震のときのように私の小さな家はゆれるのです。大型バスが猟犬の群れさながらにあえぎながらかきわけて走っていきます。中には駆けている猟犬のしるしが横腹についているのさえあります。都電もまけてはいません。警告するように大きな音を出して自分の軌道にはいってくる自動車や人を追い払います。ときどき明るい子供たちの一団が、遠足にでかけるのです。かたまって横断していきますが、まるで夏の森にいる小鳥のようにそれほどにさえずりながら通ります。

  先だって総選挙の時は、色とりどりの自動車から声をからして候補者の美徳をどなっていましたが、たしかにあの時は騒音がその極に達したときでした。私の友だちはこれは政治家のくだらぬ宣伝ですときめつけ、母親たちは子供がそのために怖がって困ると新聞にかいていました。それにくらべると筋向いにある消防署はもっと親しみがあります。義務とはいえ、防火週間中うっかりした人びとに「火の用心」をすすめています。むろん拡声器を使ってです。けれどもありがたいことに、うきうきするようなメロディーを聞かせていました。それに、私もときのたつのもわすれ、あらゆる騒音もゆるし、いつまでもこういう賑やかな波の中に生活したくなりました。そうです。こういう騒音は健康で気持ちがいいのです。世の営みは元気よく前進しつつあることを私に知らせてくれます。そうでなくてはなりません。怠けていることほど世の中の意味に反対するものはないからです。

 麹町通のごった返す流れのそばに広い芝生があり、まん中にその騒ぎを知らぬ顔な、しゅろの樹の一群がじっと立っています。そして聖堂の前で番をしています。ときどき人は往来の流れを渡って、このしゅろの樹を見上げ、それから教会の静けさの中へはいります。すると、世のざわめきは遠くの方に聞こえるだけです。時間の波は永遠に向かって潮が引いて行くように消えていきます。

 さて、私は照る日も曇る日も、通りに面したこの角の部屋で時間と永遠の間に坐っています。そして人びとに両方のことを説明する務めをもっています。つまり、時間だけのことを考えている人には永遠のことも考えなさいと、永遠のことだけを考えている人には時間のことも軽視してはいけませんと。幼い子供が来るときには苦労はしません。子供はおかあさんや代母のうでに抱かれて来ます。そして私は子供に「神の教会から何を望みますか」とたずねます。子供は大きな目で、まず私をそれから代母を眺めます。代母は「信仰を」と答えます。私はまた「信仰はあなたに何を与えますか」とたずねますと、代母が「永遠の命を」と答えます。子供たちが早くから永遠の命を知るように、私はこんどは少しの塩を口の中に入れてやります。「英知の塩をうけなさい、あなたが永遠の生命に入れるために役立つでしょう。」子供は塩を少し味わいます。めずらしい味がするので不思議に思い、口もとを歪めます。ときにはほおえむものいます。私がわざと意地悪く塩を入れたのではないと思うからでしょう。

 子供が大きくなりますと、毎土曜日の午後、公教要理の勉強にきます。彼らは時間と永遠をたやすく理解します。私は「みんなで時間をつかまえましょう。それはほんとにそうできるでしょうか。」といって、「さあ、いま!」叫びます。いまはつかまったでしょうか。いや、もう私たちのうしろへ逃げていってしまいました。それはちょうど流れの岸に私たちが立っているようなものです。山から水が流れて来て、私たちのそばを通るときに「いまです」と叫ぶと、もうその水は谷のほうに下っていってしまったのです。しかし私たち自身もそれと同じです。決して時の流れのそばに静かに立っているのではありません。みなさんは今若くて元気いっぱいです。しかし聖書にも書いてあるように、人間は野辺に咲く花のようなものです。朝には咲き、真昼の太陽にしぼみ、夕べに地面に倒れるのです。そのようにみなさんも神の思し召しで長生きすれば、やがてお爺さんやお婆さんになるのです。——子供たちの瞳の輝きがにぶります。時間のうちにありながら、心は永遠に向かって身をととのえる準備をしています。

 学生が私の角部屋へくるときには、真面目な顔で難しい問題をたずさえて来ます。彼らは時間のことがらを基礎の上に立てたいのです。すべてを新しく秩序づけて人間社会の真の幸福をうち立てたいのです。私が「人間の社会とは何ですか」とたずねますと、結局は人間が問題となるのです。私はつづけて「人間とは何ですか、人間の価値はどこにあるのですか」とたずねます。たいていだまってしまうか、あるいは「人間はまあ、やはり人間です」と答えます。もし人間に何の価値もないのなら、われわれのそばをざわめき流れるいとなみはどんな意味や価値を持っているのでしょう。そのことは人間にきいてもわかりません。神の教会にたずねてみなければなりません。教会は今なお昔の思想家の紡いだものを頭髪につけています。なかんずく、永遠からの音ずれをもっています(ゲルトルート・ル・フォール)。

 人間の花は花嫁と花婿です。すべてのほかの花と同じようにやはり時間のうちに咲きでます。ゲーテがいったように、どの草花もどの樹花も一つの驚きです。なにか思いがけないものであります。根や幹や葉からではどんな種類の花が咲くのかあてることはできません。朝につぼみは割れて花が開きます。その形、色、陽の光をうけて澄んだ空気の中にゆれているそのさまは驚くばかり妙なるものがあります。詩人はみな春を、花を、若い心が互いに愛しあうふしぎさを歌によんでいます。ふしぎなのは時間と永遠のためなのです。どの詩人も「とわに緑に栄えよかし、若き愛のうるわしき時よ」(シラー)を念願しています。

 若い二人が神のみ前に立ち、互いにかわらぬ愛の誓いを立てようとするとき、私は二人に彼らの心の「大切な時間Hochzeit (結婚)」の意義を説明しようと試みます。「あなたがたお二人は互いに贈り物として与えられたのです。今日から後はともに歩まねばなりません。それをあなたがたは望んでいます。神に向かってともに歩むのです。婚姻ミサの初めにはこう書いてあります。神よ、汝は選ばれしこれら両人をあわれみ給えり、彼らが汝をさらにもましてほめ讃えるようになし給え」花嫁と花婿には時間がいかに弱く、またどれほど粗いものであるかたやすくわかります。時間が花の若々しいつやをみなほろぼしてしまうからです。時間がこころのつやをほろぼしてしまうことが無ければよいのですのに!

 ごくまれに、歩みつかれたひとが私の角部屋おとずれます。その生涯中にただ時間のみを考えて暮らしてきた人たちです。永遠などはありえないと思っていた人たちです。しかし今やその心の花が開いたのです。おそ咲きの秋のはなのように。老年に咲くその花を彼らは少しはずかしがっているようです。しかし、彼らは次第に上手に神に話しかけることができるようになり、あるいは、克己の業が神への愛ゆえにうまくできるようになると、彼らはまるで子供のようによろこびます。これらすべては、われわれの時間が永遠によってつつまれることのうつくしい保証であります。

 ときの流れは毎日私の角部屋のそばを迅速に流れ去ります。本当をいえば、目の前のきまった目的に向かって走っていくこれらすべての人が、ちょっとここにとどまっていけばよい、そして四谷見附橋の交番ではなく、私の部屋へ来てすべての目的の目的についてたずねていけばよいと思うのです。

 

在りし日の聖イグナチオ教会内部

 

 この一編の表題は、ホイヴェルス神父様の初期の単行本「時間(とき)の流れに」のタイトルとしても使われています。

 この一冊には28編の小品が収められていて、それらは、

  • Kreatur —— 生きもの
  • Kind —— こども
  • Mensch —— 人間
  • Gott —— 神
  • Theater des Lebens —— 人生の舞台

の5つのテーマに分かれています。

 私はこのブログで今までに1.と2.のテーマから数編を選んで取り上げてきました。今回の「時間の流れに」は4.の「Gott —— 神」のテーマのもとに集められた8編の最初のもので、ホイヴェルス神父様の作品の中でも最も代表的な、内容の充実したものの一つ言えるでしょう。

 60年以上前に書かれたこの一編をよりよく味わうためには、その舞台となった聖イグナチオ教会の主任司祭室の環境を知ることが助けになるかもしれません。教会は東京・四谷の見附橋のたもとにあって、新宿の大ガードから皇居の半蔵門に至る都電通りに面しています。当時のこの通りは今のちょうど半分ぐらいの道幅で、その名のとおり都電がゴロゴロと音を立てて走り、雑多な車の騒音と人々の活気にあふれていました。

 師が初代主任司祭になられた時に建てられた教会は、正面の脇に一本の塔のある絵になる建物で、主任司祭の執務室は、米軍払い下げのカマボコ兵舎の端に小さな平屋を付け足した二部屋のちいさな建物にありました。そして、教会の前には、まん中にソテツの樹を配した広い芝生があって、そこは土曜学校の子供たちの遊び場になっていました。

 塔の上には、技術者になったホイヴェルス神父様のお兄様が作って贈られた四つの鐘があり、カランコロンと地上の喧騒の上に明るい天上のメロディーを降り注がせるのでした。しかし、1964年の第1回東京オリンピックを境に様相は一変しました。都電は廃止され、道は2倍に拡幅され、道沿いの二階建ての古い町並みは大きなビルに建て替わり、人間の臭いのする喧騒も消え去りました。そして今では日曜のミサの開始を知らせたり、アンジェラスの祈りや、結婚式やお葬式を告げる柔らかい鐘の音も、ただの騒音として住民のクレームに押されて沈黙したままです。

 師が日長いちにち座っておられた角部屋は、「時間」と「永遠」つまり、この世界と神とをつなぐ神聖は場所でした。

 わたしたちはホイヴェルス神父様の跡を継いで、時間と永遠を繋ぐ大切なお仕事を継承するように招かれています。なぜなら、日本人の大部分は時間のことばかり考えて、永遠を忘れているからです。

 一例をあげましょう。私より年若い畏友のT氏は、ビル・ゲーツとも面識のあるIT関係で一世を風靡した明晰な頭脳の持ち主でしたが、難病をわずらって仕事半ばに惜しくもこの世を去りました。晩年かれは私に、「死は少しも怖くない、自然の摂理で無に還るだけだから。しかし、自分が生きてきた証し、実現した価値までが、すべて虚しく消えてなくなるのかと思うと、限りなく寂しく思う。」と告白しました。彼は多くの理系の頭脳の人がそうであるように、神の存在も自分の体の復活も信じていません。だから、自分の存在の証しの永遠性を本能的に希求しているにもかかわらず、それが無慈悲にも無に飲み込まれて消えてしまう不条理の前に、無限の寂寥感を抱いても、それを癒すすべを知らないのです。 

 私は国際金融マンだった時代に、今の世の人々がいかに保険に依存しているかを興味深く見てきました。

 車の任意保険や健康保険はまあ普通として、生命保険、火災保険、地震保険、ゴルフ保険、葬儀保険?ペット保険?・・・あらゆることが保険の対象になっています。

 それなのに「あの世保険」だけは聞いたことがありません。これは、何か大きな片手落ちではないでしょうか。あの世の命なんてないに決まっているが、もしあった時にうろたえるリスクを回避することをどう担保すればいいのでしょう。

 せっかく何十年も火災保険をかけて来たのに、まだ一度も火事に遭ったことがない。だから、多額の保険金を払って損をした、金返せ、という人はいません。むしろ、火事に遭わなくてよかったと喜ぶことでしょう。反対に、もし保険に入っていなくて火事に遭ったら、それこそ大変です。後悔しても、もう後の祭りです。

 同じことは、あの世についても言えるのではないでしょうか。死んだら一巻の終わり、ただ無になるだけ、復活もない、あの世もない、神なんていないだろうと甘く見て、この世の幸せと安楽だけを追い求めてその日暮らしをしている大多数の日本人が、死んだ出会い頭にばったり神様と鉢合わせしたら、さぞ慌てふためくことでしょう。

 自己過信して、保険を掛けないで火事に遭った人と同じように、死んだらどうせ無になるのだからと高をくくって、死後の命のために生前から保険として生活を整えておかなかった人は、死んでから慌てふためいてももう手遅れ、後の祭りでどうしようもありません。それで、十中八九ないとは思うが、もし万一死後の命があった時に備えて保険を掛けておかないと大変とだ思って、大手の保険会社に飛び込んでも、「あの世保険」などという保険商品を売っている保険会社はどこにもありません。 

 では何処に行けばよい?それは四谷見附の教会の質素な角部屋に坐っているホイヴェルス神父様の所へ行けばよいのです。

 神様なんていないに決まっている、死んだら無に還るだけで何も残らない、復活なんてあるはずもないと人はふつう思うでしょうが、もしもの時のために一応保険だけは掛けておきたい、というのが保険好き人間の賢明な選択ではないでしょうか。

 四谷見附のホイヴェルス事務所にいけば、神父様は忍耐強く懇切丁寧に「神様保険」、「あの世保険」の手続きをしてくださいます。

 先日、久しぶりに銀行時代からの友達のS氏と昼食を共にしました。先にふれたT氏は彼の特別な親友でした。無論S氏も神様保険に入っていません。その彼、無二の親友のT氏に先立たれて、心のどこかに空洞ができて、何となくこころ寂しい日々を送っています。優秀な人ほど、また、現役時代は生き甲斐に満ちた充実した生活を満喫していた人ほど、定年後の天下りした先の仕事も終わると、上品な趣味で時間を満たそうと努めてはみるものの、そこはかとなく侘しい気分に襲われるのは避け難いようです。

 思うところあって国際金融業界から早くに足を洗って、勉強し直して今は神父をしている私ですが、教養もプライドもある立派な紳士をつかまえて、不躾にあの世保険のセールストークも気が引けます。

 そこへ行くと、あの根っからのベテラン宣教師ホイヴェルス神父様は、たぐいまれな人格的魅力の魔術で、さり気なく人の心を捉え、着実にあの世保険のセールスの成績を伸ばしていかれました。どれほど多くの日本人が、神父さまから信仰の手ほどきを受け洗礼に至ったか、神父に結婚式をあげてもらい、生きる意味を見失って懐疑と絶望の淵に立ったとき再び生きる希望を与えられ、また、犯した罪の重さに潰れそうになったとき、神との和解まで優しく手引きされたことでしょう。

 今の平和ボケした日本に、生きることの意味、目的、死の彼方に何が待ち受けているかなどの、人生にとって最も重要な問いに対して何の答えも持っていない人間が多すぎるのは驚きです。魂の盲目、霊的無知の暗闇に住む人は驚くほど多いのです。

 そんな世にあって。グッドニュース、「福音」の宣教は全てのキリスト者の使命です。

 聖書には全世界に行って福音を宣べ伝えなさい。あなたがたは「地の塩」、「世の光」である、と書かれています。私たちはみな、現代日本の偉大な宣教師だったホイヴェルス神父様から学んで、今の世代に福音を伝えるように招かれています。

 具体的にどうすればいい?どこからどう手をつけたらいい?それを共に学ぶのが「ホイヴェルス師を偲ぶ会」の存在意義ではないでしょうか。

 6月9日はもうすぐです。JR四谷駅の麹町口から徒歩1分。主婦会館3F「ソレイユ」の間で午後3時からです。詳細は2つ前、3つ前のブログに出ています。

* * * * *

注を一つ:ホイヴェルス神父様の「時間の流れに」の中にHochzeit(結婚)という言葉が出てきます。ドイツ語で hoch は「高い」Zeit は「時」という意味です。合わせて Hochzeit = 結婚はドイツ語では人生の最も「高い時」を意味します。

 

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★ 神学生の母

2022-08-20 00:10:47 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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神学生の母

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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神学生の母

 お祝いの晴れ着を着た人々が広い部屋部屋をあちこち歩いていました。私がこの家に着いた時、一人の若い神学生が迎えに出て、嬉しそうな顔で挨拶をし、人々の流れをよけて、静かな隅に私を導きました。 

 十年ほど前、時々私のミサ答えをしたと話して、私を驚かせました。その時の少年を、私はよく覚えていたのです。重いミサ典書を祭壇の書簡の方から福音の方へたいそう骨折って運び、聖体降福式のときに、私の肩にベールムを掛けるのに、かなり小さな体を相当伸ばさなければなりませんでした。 

 十年ぶりに会ったこの神学生が、あの少年とは思われませんでした。その頃、一言も話を交わしたこともないほど、静かな無口な少年が、今では元気な青年になって、長い黒のスータンを着ています。それは、今日の晴れ着でした。スータンには数えきれないほどの小さいボタンがあって、広いチングルム(帯)をしめ、ちょうどステファノや聖ラウレンシオのような姿でした。

 元気な、はきはきした口調で、私に勉強のこと、グレゴリアン聖歌の練習、大祝日の儀式のことなどを話してくれました。友だちの中でも、彼は儀式の指導者と聖歌隊から引っぱりだこにされています。どちらにも興味をもち、よくできる彼は、あるときは祭壇の前につとめ、あるときは聖歌隊に加わって聖歌を歌います。 

 私たちが、こうして楽しく話し合っているとき、愛のこもった目が、私たちの上に注がれているのを感じました。しばらくして目を上げて見廻すと、人びとの肩ごしに娘のように若々しい婦人がじっと私たちを見つめていました。その顔は大きな喜びに輝いています。私たちの目が会ったとき、彼女はよく人びとがするように目をそらせず、感謝のほおえみを満面にたたえて見つめていました。神学生は、向うの婦人の姿が、私の注意を引いたことがわかったのでしょう。元気に彼女の方を指さして「あれは私の母です」と言いました。私たちは人びとの間を横切ってゆきました。私は驚いて「あなたのお母様ですか!」と思わず言いました。「私はお姉様だと思ったのです。」神学生は「いやあ!」といって笑いながら、「私の姉もそちらにおります。こちらが父です」と教えてくれました。 

 神学生の母! 私は長い間人びとの後に立って、じっと私たち二人を眺めていた理由がわかりました。そしてこの母の顔に、世間の人びとには見られない深い深い喜びが溢れているわけもよくわかりました。 

 この母は、お乳を含ませていた頃から、大きな望みをこの子供の将来に託していたに違いありません。この子供が姉と「ミサの遊び」をするのを見たときの母の喜びはどんなであったでしょう。母の丹精でミサ答えをすることも学びました。母はときどき子供の後からそっと聖堂にはいると、仄暗い片隅から、子供が祭壇のおつとめをするのをじっと見守りながら、心の中で祈ったことでしょう。今では、この子供はラテン語や哲学を学んでいます。これからまた神学の勉強もしなければなりません。どれほど勉強しなければならないか、母にはよくわからないのです。母はこの愛する子供が、神の祭壇に登る日を日ごと待っていました。神はいずれきっとこの希望をみたし給うであろうと。

 今日こそ、母の目が私たち二人の上に注がれたとき、母はもう心残りもなく、ただ清らかな喜びばかりがあったでしょう。世の荒波をくぐりぬけて、この子供が光り輝く祭服を身にまとい、神の祭壇に登る姿を母は見たのです。天のみ使のように手を挙げ、神に向かって天使たちの栄誦「グローリア・イン・エクチェルシス・デオ」と歌うのを聞きました。

 子供は天と地の間に、すなわち永遠にして全能なる父、一切の物を造り給うた天父、一切を支配し給う天父と、キリスト信者の間に立っています。人びとは、神に讃美を献げるために、わが子を天父に遣わしました。母はみ堂で人びとの蔭に隠れて、子供の挙げる手を見ます。天父に差し伸べるその手は、母から受けた手、この声も母から受けたのです。この声は、今でもまだ少し母の声に似たところがあるようです。この声で、子供は神に何よりも大切な唇の讃美を献げるのです。母は心もちおののきながら、しばらく子供の真白な気高い姿を見守ります。心の中で母は「見よ、主のはしためを、すべてはみ旨のままに……」と誦えます。

 もしこの母の願いのようになるならば、もう世の中には悪もなくなり、あらゆる人びとの心の中には、清らかな善意のみが働くようになるでしょう。天と地、そして、この美しい地のみが存在し、ほかには何の汚れたものも存在しますまい。今も、また永久に……母はこの希望を実現するために、その子供を神に献げました。

   「われら、主を讃え、主をあがめ、

   主のみ栄えの大いなるがために、

   つつしみて感謝し奉る。」 

 母は群れ集う人びとの中に、子供のまぶしいほどに気高い姿を見いだしたとき、神が子供の心を強め給うことをかたく信じていました。その上、神が全能のみ力と豊かなみ心とをもって、子供が祭壇に登るその日までお守り下さるようにと願ったのです。 

 ちょうど同じ日の昼、食事のときに私は一人の友に「天国にも笑いがあるだろうか」という愚かなことを聞いたのでした。すると、その友は少しもちゅうちょせずに「もちろん、天国には笑いはない。ただ清らかな喜びがあるだけだ」と答えました。 

 私はこの夕方、この母の清らかな静かな喜びを見て、友のいったのももっともなことだと考えました。そうです。天国には、確かにこの母のような深い静かな喜びのみがあるに違いありません。フラ・アンジェリコの天使たちの顔に描き出されているあの喜び、確かに天使には大笑いはなく、ただ溢れるほどの深い喜びがあるのです。

 この母の喜びは、今はまだ心配が混っていましょうが、母が人びとの中に私たち二人を見いだしたとき、神はしばらくの間、この母の心配をお除きになりました。そのときの母の心には、静かな清らかな深い深い喜びが満ち溢れていたのです。

 このエッセイをよく理解するためには1965年に幕を閉じた第二バチカン公会議前夜の日本のカトリック教会の世界を知らなければなりません。

 まず、「ミサ答え」という言葉。現代的に言えば「侍者」とか、もっと適当なことばは「祭壇奉仕者」と言われますが、当時は赤いスカートの上に白いケープを着て、赤い広い襟を付けた少年のことを指していました。公会議前のカトリック教会では、司祭は一人でミサをささげることは原則として禁じられていて、必ず一人以上の信者がそのミサに与っていなければなりませんでした。その最小限度の条件を満たしていたのがこの「ミサ答え」だったのです。この神学生も小学生、中学生の頃ホイヴェルス神父様の「ミサ答え」をしている間に、司祭職への召命が心の中に育って行ったのでしょう。

 私も洗礼を受けて以来高等学校を卒業するまでは神戸の六甲教会で、上京してからは、イエズス会の志願者として上智大学のキャンパスの中の寄宿舎に住み、毎朝7時にホイヴェルス神父様のミサ答えをしました。最初の1年間の同室の神学生はイエズス会の志願者からカルメル会の神学生に転身し、後に東京の補佐司教になった森さんでした。同じ目覚まし時計で一緒に起き、二人して毎朝ミサ答えをしました。この奉仕は少年の心に司祭職への召命が芽生えさせよいる機会ではありましたが、ミサ答えの少年と、聖歌隊の声変わり前の少年は、しばしば聖職者によるペドフィリアの格好の餌食になるリスクもありました。ヨーロッパでは、今は若い金髪の娘たちが祭壇奉仕者をしているから、これも新手の女性機会均等かと、時代の変化には驚くほかはありません。しかし、ここからもカトリックでは女性の司祭の召命は芽生えないだろうと思います。

 さて、「重いミサ典書を書簡の側から福音の側へ・・・」というのは今の信者さんたちは何のことだかさっぱり分からないでしょう。公会議の前は、教会の祭壇は聖堂の内陣の一番奥の 階段を3段ほど上がったところにあって、司祭は信徒に背を向けてミサをささげていました。そして、ミサ答えはその段の一番下に跪き、司祭が左側で書簡(第1朗読)を読むと、ミサ答えは段を上ってミサ典書をうやうやしく捧げ持って、一度階段を一番下までおりて、中央で膝を折り、また捧げ持って反対側の祭壇の福音朗読の側に置くのですが、そのミサ典書の重さが半端ではありません。立派な表紙がついて厚さは8センチほどもあるずっしりと持ち重りする本で、小学生には重労働でした。しかも、全部ラテン語。司祭とミサ答えはミサの冒頭に階段祈祷というのがあって、階段の上の司祭と下のミサ答えがラテン語でやり取りをしたものです(「ミサ答え」という言葉はこのラテン語の応答から来る)。小学生でも、大学生でも、丸暗記のラテン語で意味も解らずにオウム返しに答えていたのです。私も森神学生も、ご多聞にもれず丸暗記のラテン語で毎朝ミサ答えの奉仕をしていました。考えられますか?

 ホイヴェルス神父様は背後に暖かい眼差しを感じます。その神学生の母です。当時、カトリック信者の家庭の多くには本当の信仰が息づいていました。母親は、男の子を生んだら、せめて一人は司祭として神様に捧げたい、と願って、朝夕密かにそうなりますようにと祈っていたものです。そして、その祈りが届いて、いま息子は神学生としてホイヴェルス神父様と二人きりで話している。母親の誇らしい気持ちと、神様への感謝の入り混じった眼差しです。

 一家庭の子供の数が平均で1.4人と言われるいまの日本では、男の子が一人いれば神様に感謝すべき少子化の時代です。男の子のいない家庭もたくさんある中で、信者の家庭であっても、どの母親がかけがえのない一人息子を司祭として神様に捧げたいと日夜祈るでしょうか。夫が働いてーあるいは共働きでー、ようやくローンを払い終わったこの持ち家はーこのマンションはー、当然この子が遺産として相続すべきもの、その代り自分たち夫婦の老後を託するのもこの子しかいない、と考えているとき、どの母が、この子をどうか司祭として召してくださいと神に祈るでしょうか。この家はどうなる?私たちの老後はだれが看る?

 栄誦「グローリア・イン・エクチェルシス・デオ」はラテン語で「天のいと高き所には神に栄光」という意味です。信仰の祈りです。

 当時、神戸の六甲学院の同期生130人ほどの中から卒業の頃には三分の一が洗礼を受けていました。名実ともにミッションスクールでした。そしてその中から3人がイエズス会の神父を志しました。中村神父は今故郷の六甲教会で働いています。同期で一番成績の良かった宋神父は、コロナ禍の中で面会もままならない人工透析専門の川崎の病院で長い苦しい入院生活の後、つい先日、天国に召されました。彼は母一人子一人の母子家庭の出でしたが、宋君のお母さまはこのエッセイの神学生の母のように、一粒種の愛する息子を神様に司祭として奉献されたのでした。いまこの母子は天国で再開し見つめ合ってほほ笑んでいることでしょう。

 私は一人落ちこぼれて、50歳で放蕩息子のように父の家に帰り、神様の憐れみとお目こぼしに拾われ、二人の同期生より20年以上遅れて第二の人生を送っています。風天の寅さんのように風の吹くまま、サマリア人のように隣人となるべき人を探し、99匹の羊をおいて一匹の迷える羊のあとを追う愚かな司祭として老いて行きたいものです。

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★ 隠遁者 ホイヴェルス師著 =時間の流れに=

2022-08-14 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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隠 遁 者

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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隠遁者

 隠遁者は世界のだれよりも好かれています。子供たちはその白いおひげのまわりで、ちょうど古い菩提樹の幹のまわりのように怖れ気なく遊びますし、大人たちは彼を見て天父を思い出すのです。そして彼には何でも心の秘密がいえます。彼はそれを聞きながら人びとの心の深みをせんさくもせず、彼らの目もみつめず、森の中の古い池のように終わりまできいています。いろいろな忠告などしません。神も忠告をなさるわけではありませんから。しかし隠遁者のそばにいると、人びとの心はのびのびとして健やかになるのです。

 隠遁者はあらゆる生物の動きを見るのがすきです。磨かれた人格者よりも子供や若い人びとを、人間より雀やカブト虫などが好きで、灌木や草花とは、人間同士のように対話さえもでき、讃めてやったり撫でてやったりするのです。そして森の中の池のような、ひげの深い顔には、愛想のいい笑いが、ちらと浮かびます。 

 隠遁者だからといって所定めぬ暮しをしているわけではありません。ちょうど、大木が同じ場所で苗から成長したように、この世の安住の地を見出しました。隠遁者は、星をあまり眺めず、その目をいつも近い物の上に注いでいます。物は物で、彼に愛撫されたくて、彼の方にとんできます。鳥や猫や、鳩や小鹿などは、みな隠遁者の所では仲よしです。人間たちは人間たちで、ようやく彼を見つけ出し、巡礼の礼所のように彼を訪ねてきます。そして人びとはお互い同士の間柄もまたよくなり、もっと気持よく世渡りができるようになるのです。

 こういうような隠遁者が、日本海に近い明るいいなか町に暮らしていました。その真中に造った自分の庵で、五十年あまりもずっと暮らしたのであります。彼はその町の者になりきり、全く城址の桜の大木のように、町の名物になってしまいました。彼は庵のまわりにたくさんの珍らしい灌木や草花などを植え、そこは美しい緑の花園となりました。ところが彼はその庭の木の中でも、二本の胡桃の木が一番好きでした。 

 五十年前のことです。その時分には自分が隠遁者になろうなどとは知らなかったのですが、日本に来て始めてクリスマスを祝ったときに、故郷からもらった胡桃を食べました。食べてみると故郷の味は非常になつかしいので、これがなくては長く生きられないような気がして、五つ六つの胡桃の実を残し、春になって庭の土の入れました。これは芽をだして大きくなりましたが、特に二つはよく伸びて、もう隠遁者の顔までとどくようになりました。彼はたいそうよろこんで、この二本の木をほめ、もっともっと高く伸びるようにすすめました。

そして「お前たちには特別のご褒美をあげよう」と、庭の東南の方に、広く間をおいて二本を植えかえました。植え終わってから、二本に向かって、「さあそれでは立派に大きく伸びなさい」といいました。 

 この二本の木は初めのうち非常に淋しくてなりませんでした。一体どういうわけで友だちから離されたのかわかりません。すると静かな緑の園の中に、たくさんの者どもが入って騒がしくなりました。建築材料が運ばれてくる、土は掘りかえされる、隠遁者も毎日見廻り、指図して、自分でも働きました。やがて一つの建物がたてられることになりました。二本の胡桃はおそろしくなってしまいました。自分の近いところまで土を掘りはじめ、それからずんずん高い壁をきずき上げたのです。でも隠遁者はこの二本の木に、「安心しておくれよ、皆できあがってからわかるよ」といいました。 

 建物がだんだんできあがってくると、それは聖堂となりました。その中は金と光りとが美しく輝いている上品な、全く隠遁者自身の心の中のように豊かなものであります。外は真白な壁に黒い屋根、すっかり隠遁者の姿のようになりました。 

 胡桃の木はまず非常に困りました。聖堂の東側が、胡桃の前にそびえ立っているのです。二本の胡桃は隠遁者に不満で、こんどは垣根の上、道の上に一生けんめいに枝を伸ばそう、そこで道の方で子供の遊んでいるのや大人が働いているのを眺めていてやれ、と決心しました。で、この二本の木は、道の方の枝に樹液を早くまわしたので、ぐんぐん道の方へ伸びていきました。この胡桃の悪戯を、隠遁者はしばらく知りませんでした。けれども六月ごろになってから、その悪い心を悟って、この二本の木に近づき、かわるがわる眺めました。その森の池のような顔は曇り、頭もひげも上下左右にふり動かしました。ようやくのこと、「お前はどうしてそんな悪戯をするのか」といって、しばらく猶予を与えてやりました。二本の木は非常に驚き、怖しさでいっぱいになってさっそく道の上の枝に、その樹液を聖堂の方へまわすようにいいつけました。隠遁者はもちろん、生物の動きを感じ、この木の悔みもすぐ悟って、またご機嫌がなおっていいました。 

「お前たちはあとでわかるだろうと、前にいっていたな。ここにどういうわけで立っているのか知っているのか。お前たちめいめいの前にあるひとつの高い窓はステンドグラスの窓だから、朝陽の光線はまずお前たちの青葉を通って聖堂の中にはいらねばならない、そうすれば聖堂の中は一番美しい色のシンフォニーになってしまう。だから力強く伸びるのだよ。主につかえなさい。もちろん人びとにもつかえてかまわない。ただ正しい心でつかえるのだ。すべてにおいて程を守るように」 

 二本の木はこの言葉をきいてたいそう喜びました。

「今度こそどんなことにも程を守ります」

 こうして二本とも立派な胡桃の木になりました。 

 胡桃は、夏には陽のあり余った光線を青葉で集め、それで甘い実をつくり、秋になるとこの実を隠遁者へ贈物にしてあげるのです。隠遁者はこの胡桃の実を人々に、特に子供たちに、いつも愛想のいい笑いとともに配ります。胡桃の一部を取りのけておき、それから強い飲物を製造し、自分の得意のものとしてお客にさしあげます。また町の病人にも分け与えます。病人は、他の高価な、苦い薬よりも、ずっとこの酒の方を信じて愛用しました。 

 私もこの酒を一杯飲んだことがあります。隠遁者は、飲物はいいかわるいかと、じっと私の顔を見ていました。私が飲み干してから、どうか胡桃の木を見せてくださいといいますと、非常に喜んで、さっそく庭につれていって、この二本の木の下に案内しました。彼は木のいただきの方を見あげました。それは三月の終わり頃で、無数の枝に黒い点のような、それこそ数限りない蕾があるのを私も見ました。それから隠遁者は胡桃の幹を軽く叩きながら、「この木は毎年同じように善い実がなります。これは天下第一の木ですよ」とほめました。そして私に、あとについてくるように合図しました。

「ちょうど去年また五つ六つの胡桃を植えたところ、小さい木になりました。この中の一つか二つを選びなさい」 

 私は一つを選びました。隠遁者は八十才なのに、シャベルで元気に一本を掘り出し、包んで贈物にしました。「いつになったら実がなるのでしょうか」と私がききますと、「十年たってから」と答えました。

「それなら最初の実はあなたに贈りましょう」

 隠遁者はほおえんでいいました。

「それは天国に送りなさい」

 私は注意深くこの包をいただきました。八日の旅の間、全国かなたこなたへ持ちまわりましたが、この小さい木を守る心配はたいへんでした。汽車の中では上の網棚にのせて、いつも上ばかり見て注意していました。ある時は乗客が重いカバンをその上に投げ上げようとしたので、私は稲妻のようにとび上がり、そのカバンを防いで大切な木を助けたこともあります。途中で根が枯れないように度々少しばかりの水をかけてやりました。この八日間に梢の蕾は葉を開いて伸びました。ようやくのことで無事に家についてから、さっそく、庭にもって行き、頃あいのところに穴を掘り、うやうやしくこの木を植えて、この小さい根のまわりに柔らかな土をかけ、あとで水を注いで、この小さい木に長年の成長と無事を望みました。そして毎朝、どれ位大きくなったかと、庭にいってみたのであります。 

 この小さな木は、私もいずれ隠遁者になるか、ならないかの運命を決定することでしょう。

薔薇.jpg

 いま思い返すと、私は確かにホイヴェルス師につれられて、ご一緒に丹後の宮津にこの隠遁者の教会を訪ねたことがあった。私のほかにたしかもう二人一緒だった。一人はホイヴェルス師の作品を集めて春秋社に持ち込み、「人生の秋に」という選集の出版にこぎつけ、それが縁で春秋社に就職した林幹雄君と、もう一人は記憶が定かではないが、確か安富君といったか、「紀尾井会」でしばらく顔を合わせた学生だった。

 「紀尾井会」という名は聖イグナチオ教会の住所、紀尾井町7番地からくるのだが、ここは昔、伊の守、張の守、伊 掃部頭(かもんのかみ)の江戸屋敷が並んでいた場所で、この「紀尾井会」は、毎週火曜日3時から、師が教会の主任司祭事務室に学生を集めて哲学、文学、信仰などの話を聞かせてくださる会だった。その紀尾井会、毎年夏に古くから師の薫陶を受けた先輩たちが一堂に会する。田中耕太郎、松田次郎、二代続けての最高裁判所長官、加藤信郎東大哲学教授、今道友信東大美学教授・国際形而上学会会長・国際美学会終身委員兼名誉会長、垣花秀武東大教授・日本の核物理学者、沢田和夫・粕谷甲一両神父ら、名をあげればきりがないが、100人近くがきら星のように名簿にならんでいた。私が「紀尾井会」の末席に連なったころは60年安保後の時代で、集まる学生も凡庸な小粒になっていたが、戦後の日本社会では優秀な人たちがホイヴェルス師のもとに集まっていたのが分かる。ある年の紀尾井会総会の席では、加藤教授と今道教授が師の前で進講するのを楽し気に見守る師の横顔が忘れられない。

胡桃の巨木と私と林君とホイヴェルス師

 話を隠遁者に戻そう。師と我々3人の学生は丹後の宮津の教会を訪れた。ホイヴェエルス師が隠遁者から贈られた胡桃の苗は四谷のイグナチオ教会の地続きのイエズス会管区長館 (そこが師の生活の場だった)の庭で実をつけるまでに育ったのだろうか。隠遁者は、その予言のとおりすでに帰天していた。私たちは教会の前の胡桃の木の前で写真を撮った。捨てないで雑然と箱に集めていたネガフィルムは50年以上経って劣化し、感光材が筒状に丸まったフィルムから剝離しかけて粒状のシミが広がり、見づらい写真になっていた。

隠遁者の墓の前でメモを取るホイヴェルス師

隠遁者のお墓では、師は誕生日、司祭叙階日、帰天日などを墓標からメモに書き留めておられた。一緒にお祈りをして、その足で、天橋立にも行った。

率先して股覗をするホイヴェルス師

 神父様は、丘の上で海を背にして立つと、やおら長いからだを二つに折って、股の下からのぞいて、これが天橋立だよ、やってごらんと言われた。真似て覗いてみると、確かに海が空に見え、松林の細長い陸地が天にかかった橋のように見えた。

 

 淡々と股覗きをする神父様の姿に、気おされるような意外性を感じたのを忘れない。

 ホイヴェルス師は好んで若者を旅に誘われた。その最も顕著な例がインドへの旅だった。  お誘いがあった時は我も我もと希望者が手をあげたが、いよいよ話が具体化する中で、一人降り、二人降り…して、一番可能性が薄そうだった私が最後に一人だけ残って実現を見た。1964年、東京オリンピックの年、まだJALがやっと国際線を飛び始めた頃で、私はもちろん船で行った。(詳細はカテゴリー《インドの旅から》40篇をご覧ください)

薔薇.jpg

 

 

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★ 哲学者 ホイヴェルス著 =時間の流れに=

2022-08-08 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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哲学者」

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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帽子のホイヴェルス師

 

哲学者」

「哲学者の住んでいたのは都会のはずれだったね」

「彼を驚かせちゃおうか」

「びくりさせようよ。驚異というものは哲学の出発点だからな」

「またその終点でもある」

「街はずれに哲学者の住んでいる都会は幸福です。なぜなら、哲学者は精神を弁明し、自然を守るからです。都会というものは精神の発達ですし、いなかは自然を守るものでしょう!」

 などと語り合いながら、私たちは武蔵野から都会の方へ、ぶらぶら歩いてゆきました。十一人の学生と二人の学者、合わせて十三人。 

 私たちは垣根のある小径に入って、ようやく竹屋の店についたので、哲学者が住んでいるのはこの辺りにちがいないとわかりました。

「竹は武士ばかりでなく、また哲学者とも関係があるものです。哲学者もまっすぐ成長せねばなりません。中正をはずれた思想はゆるせないのです」

 といっているうちに哲学者の家に着きました。その家は周囲の家と同じようなものでしたが、突然若い人たちの間に大笑いが起こりました。入り口のところに『防犯当番』と太字で書いてあったのです。 

「なるほど、これも哲学者の分野だね、彼は秩序と法律に基礎を与えるものだよ」

「哲学者は精神の番兵です。悪意の人たちが形而上学の聖堂の中に押入ったときに、警報を発して泥棒を追い出すのは哲学者にほかなりません」 

 私たちはベルを押しました。哲学者の若い妹さんは、出て来て驚きながら、私たちの用向きをたずねました。

「哲学者にお目にかかりたいのですが」 

「残念ですけれど、兄は外出いたしましたが」と妹さんは言いました。

(兄という言葉は哲学者にとって何と人間らしい懐かしい言葉でしょう)

 私たちは彼に会いたかったのでどこへいらっしゃったのですかと聞きました。

「遠くではありません。お友だちの所に参りました。お望みでしたら、呼びに行って参りましょう」という妹さんの言葉に、私たちはそう願えましたらと望んだので、彼女は呼びに行き、私たちは家にはいりました。 

 哲学者の書斎にはいって、私たちはまず驚異せねばなりませんでした。私たちは一つの精神的な砦の中にはいってしまったのです。書物は、普通の学者のように書架の中でなく、山のように部屋の中に積み上げられているのでした。床の間には特に大切にしている書物がおいてありましたが、これらの書物の表紙は詩人の書物のようにきれいではなく、鉱山で働く人の服のようでした。この哲学者も知識の深い堅坑から人類のために宝を運び上げたのであります。 

 哲学者は右側の壁に向かって自分の一番堅固な堡塁を築いていました。さながらトーチカで、書物を砂嚢のように正面と左右に高く積み重ね、真中には自分の机と座蒲団という具合ですから、立ち上らなくても必要な書物を便利にとれるのでした。机の上には厚い本が開いたままおそらく中世哲学書の一つでしょう。少し書きかけの原稿もおいてありました。 

「哲学者はこの机でむずかしい哲学の仕事をするんだね」

「もしかしたら人類の運命が決定されるのかも知れない」

「そこには見えない一つの織機があるのです。地球の方々から糸がこっちに流れて来て、また四方へ糸が走っていく、ほんとにヨーロッパまでも棹が、カタンコトンといったりかえったりするのですよ」 

 このトーチカの右手に一つの西洋風の脚高の机と椅子がありました。そのデスクの上の書物だけはきれいな表紙でした。 

「その机では哲学者がやはり詩人の著作を読んだり疲れた心を回復させるのでしょう。実際彼は詩人たちを大切にしますが、しかし詩人の仕事は自分の弟さんにまかせておきました。彼の思うのには、人類の最も高い所でも、仕事のきちんとした分業ということは必要なのです」 

 北側の壁には若くしてなくなった夫人の写真が額ぶちの中から同情深い顔をしてこの書物の塁の上を見おろしています。その写真の下にはあるドイツ人の友の慰めの手紙とおもわれる次のような言葉が読まれました。 

「『哲学者によりて選ばれしものは』早くも影と象徴なるこの世を去り、ダンテのベアトリーチェの如く『天国へのぼり』かしこにて至福直観に達したり。されど哲学者はなおしばしこの堅坑の中にありて勤めざるべからず。この仕事の間、彼女は保護者たり慰め主たらんことを」 

 誠にこれは真の哲学者にふさわしいことです。人間の心のあらゆるところを知り、頭も心も同様に存在の深いところを測り知らねばなりません。

 私たちは部屋の中のものを充分に眺めてから畳に坐り、しばらく黙って待っていました。まもなく入口の戸がガラガラあくと驚異の大きな声が響きました。哲学者です。その顔にはほんとに晴れやかな驚きが輝いていました。と、いつのまにやらトーチカ内の哲学者の玉座に納って、書物を背に、われわれの方に面と向かって坐りました。そしてすぐに、主人として茶菓を妹にいいつけました。私たち十三人は大勢すぎますからと断りましたが、しかし哲学者は妹に家中にあるだけのコップや茶わんを集めて出すように言いつけてしまいました。 

「本当によくいらっしゃいました」

 哲学者は快活に言いました。 

「皆さんがごらんになったら恐らくお笑いになるでしょうが、ちょうど今朝ほど私の批評を発表した雑誌が郵送できました、それはリルケの詩的物語りの訳文に因んでの批評の文章です。その本は表題の訳からしてもう問題なのです。Geschichten vom leben Gott と言う題を『神の話』と訳したのですが、全くものたりないのですね。本当の意味は、なつかしい神についての話と言ったらいいか、もちろんルッテルはドイツ語のリーベという小さな語を、外国語にもその音の響きを伝えたり心の深い所にまでしみ込ませたりするほど訳することはできない、といっていますが、しかしまあ、それはどうでもいいとして、最も大切なことは、神についてただ二人の人――司祭と詩人とだけが語るべきものなのです。司祭は神の神秘の管理者であり、その神秘を人びとに配るのです。司祭は人類のために糧を割って配る。これに対して詩人というものは神の鶯です。神のものについて歌って上機嫌になってしまう。しかしもし凡俗の人たちが神の言葉を無理に扱えば傷ましく損われます。神について語る資格のない人びとが神をかろんじようとするときに、こういう人びとに向かって、古い Procul este profani!(さがれ、汚れたる者どもよ!)の語が発せられねばなりません。つまり彼らは神の聖堂から追い出されるべき者なのです。まあ、こういうことが私の批評の打ち出しなのです」

「ところで哲学者はどうなのですか」と私たちは言いました。 

「ああ哲学者」と彼は言いました。「僕らはドン・キホーテのような悲劇的な恰好をした騎士ですよ。一体私たちは神について何を知っているのでしょう。また私たちの知識は、懐しい親しい神、あるいは怒りの神についてでないならば、価値のないものです。少なくとも私たちが神について論ずることは不敬です。ですから哲学において神に触れることはいつもはばかっています。どうも避けることはできないのですが、残念ながら、私たち哲学者は Vom lieben Gott(なつかしい神についての)話をする権利を有していない。あるいは私たちはすべての哲学を忘れ――(と書物の山のトーチカの潰滅させるような大きな大きな身ぶり手つきをして)――あらゆる哲学を忘れて子供のようにならなくては駄目です。詩人なら神について語ってさしつかえないのですが、しかし何人も自ら詩人たる性質を附与することはできないのです」 

「でも哲学者というものの存在理由は一体どういうところにあるのですか」と私たちは彼にたずねました。そのとき哲学者の眼は憧憬に満ちて美しく輝き、この部屋の四隅の壁に遮られずに、無限の空間の彼方を見廻しました。 

「ああそうですね、哲学――存在の根拠を探求し予感し、驚くこと、――そうです。驚くこと、ギリシャ語で言う thaumazein――感嘆し怖れ驚くこと、――どうもラテン語の admi-rari では力が足りませんね。そればかりか各々の人だって事物の存在について驚嘆するでしょう、少なくとも子供のときには。しかしそれだけではまだ哲学者とはいえない。哲学者は厳格でなくてはならない。精神に憧れつつ精神を発見し、そして精神を透明に照破しようと熱望するのが哲学者です。哲学者はつまり精神を守る者なのです。哲学する精神力とてもまた、天禀の問題です。あたかも詩人のと同じく。私はもちろん、小さな哲学者ですけれど――(私たちは皆笑いました)――アリストテレスによればまだ哲学者としての話をする権利がないのですが、まだ四十にはなりませんから。でも哲学的精神を少しばかり感じたと思うのです。この精神のためにもうじっとしていることができないのです。

 私の確信するところでは、いわゆる哲学者という者は詩人にまさるものです。人間においてロゴスの最も発達したものは哲学者なのです。でもご安心なさい、これは決して傲慢ではありません。

 私たちは哲学者として神に恵まれたことを感じています。私たちの授爵について聖ヨハネ福音書の一章一節に書いてあるとおりです。『元始(はじめ)に御言(みことば)(ロゴス)あり』……そして三節に『万物之に由りて成れり』と。私たちはこの言葉の重さを毎日毎日感じる。この言葉ゆえに私たちは絶対的な地位におかれるのです。私たちは不真面目な思想の研究に対しては慈悲を知らぬものの如くなるのです。私たちはロゴスに最も近い親戚だと思うのです。ロゴスを発見し、ロゴスを弁明することは私たちの最上の幸福です。すべての思想を軽卒にとりあつかう人びとをロゴスがその口の息で倒し消し去ってしまうでしょう。神のロゴス、永遠の神、世界宇宙はロゴスによって造られたものです。それがために私たち哲学者は、ロゴスに溺れている。私たちは事物を把握したい、物に名をつけたい、秩序を与えて整理したい。そしてもしできることでしたら物を新しく創造したい。しかしそれはできませんから、そこが哲学者の最も深い苦しみの存するところです。物を造る代りにシステムを造らねばならない。私はまだ体系を造っていません。まだ四十にはなりませんからね。まだ鷲のように自由です。しかし年とともに鷲もその巣を造らなくてはならない。この巣が、自分の死んだ後で毀されることはわかっています。にもかかわらず巣を造らねばならない。それはわれわれの悲劇です」

「この問題には信仰が先生の役に立つのではありませんか」とだれかが聞きました。

「人間性そのものを救い出すには救い出すのですけれども、哲学者はすべてのこの世のものと同様に、自分自身救われねばならないものです。おそらくは詩人は別として、詩人は作り出した作品のうちに何らか完全性を感じています。世の人びとは皆この世の形象と影 Bilder und Schatten を超越して、その彼方に生の希望を求めて行かねばならない。詩人だけはこの形象の存在を同じく神のものとして感じ、この形と影を用いて自ら作り上げるのです。ですから詩人はなつかしい神 Vom lieben Gott について物語るのです」

 妹さんはいろんな種類の茶碗とコップを集めて、私たちの前に茶菓を供しました。彼女が哲学者の耳に一言ささやいたので、鷲は高い蒼空からこの私たちの世の中におりて来て私たちをもてなしました。私たちは天使が焰の剣をもって精神の聖堂を守り、そしていささかの冒瀆をもゆるさないのを感じました。それもまたこの都会のはずれに――

 

 ここで言われる哲学者は、哲学者吉満義彦先生のことだ。

 吉満 義彦(よしみつ よしひこ 1904  - 1945) は、日本における最初のキリスト教哲学者。鹿児島県徳之島出身。一高文科丙類(仏語)を経て、1928年東京帝国大学倫理学科卒。在学中、岩下壮一に出会いプロテスタントからカトリックに改宗。フランスでジャック・マリタンに師事。1931年上智大学講師、東カトリック教神学校講師。雑誌『創造』、『カトリック研究』などに寄稿。また、戦時中の「近代の超克」企画に参画した。

 この一文のト書き(脚本で人物の動作や動きなどを指定する「ト言って泣く」など)と台詞(せりふ)を織り交ぜたテンポの速い対話の流れは、劇作家ヘルマンホイヴェルスの面目躍如たるものが感じられる。師は幾つもの戯曲を書き、上智大学の学生たちに演じさせ、自ら舞台監督をつとめた。オペラ細川「ガラシャ夫人」を原作演出し、歌舞伎座では、当時の名女形歌右衛門の主演で同じ「ガラシャ夫人」を一か月通しで上演した。私は歌舞伎座の初演日、中の日、落の日にホイヴェルス師の右隣りに坐って歌右衛門の演技を見守り、師に言われてカトリック新聞に劇評を書いた。また、ホイヴェルス師原作の新作能「復活のキリスト」は宝生流の能舞台では春、師の没後もしばらくの間、春の復活祭のころに毎年演じられていた。それが今年6月に日本バチカン修好75周年記念公演として、バチカン市国において演じられ、宝生和英宗家のシテによって正に「復活」した。

 それにしても、この短編の全体に漂う格調と洗練された日本語の味わいの深さに皆さんは舌を巻かれないだろうか。日本への宣教を志した時、渡航前に万葉集を勉強したという逸話を聞いたが、この日本語の造詣の深さは、日本人も脱帽するほどで、外国人宣教師の中では秀逸だと思う。

 また、吉満義彦教授は、若干41歳の若さで世を去ったが、日本における最初のキリスト教哲学者として、惜しまれる一生だった。ホイヴェルス師との親交の深さはこの一文ににじみ出ている。先生が亡くなられた時まだ6歳だった私は、先生のことは著書でしか知らない。まだ吉満先生を越えるカトリック哲学者は出ていない。」

 

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【映画評】「さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について」

2022-08-04 00:00:01 | ★ ウクライナ戦争

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【映画評】

「さよなら、ベルリン」

=またはファビアンの選択について=

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主人公ファビアン(トム・シリング)と恋人コルネリア(ザスキア・ローゼンタール)

 

 久しぶりに納得のいく映画を見た。

 ドミニク・グラフ(Dominik Graf)監督(68歳)の 最新作で、3時間にわたる大人向けの長編映画。

ドミニク・グラフ監督

 ベルリンの中心部から南西に6キロほどのところに、ハイデルベルガー・プラッツという地下鉄駅がある。映画は現在のその駅から始まる。人込みに混じってカメラがエスカレーターを降りていくと、レトロなアーチに飾られた古き良き時代のままのホームがある。そこから地下鉄に乗っていくと、1931年のベルリンの町に着く。地下鉄がタイムトンネルの役割を演じている心憎い演出だ。

 そして映画はいきなり当時の爛熟と退廃のベルリンの狂乱と喧騒の映像の連続になる。ドイツ語の分からない日本人が、かなりの早さで替わる字幕を追いかねて、映像と音楽に圧倒されていると、若い男女の愛しあうリアルな場面から、若い男の子を集めた有閑マダム相手の男娼の館や、男に裏切られた女たちを集めた娼館、ゲイバー、けばけばしいアトリエ、違法な麻薬パーティーなど、露出度の高い性の描写でいきなり濃厚なポルノ映画の世界に引き込まれたようななショックを受けるだろう。

 しかし、冷静に見ていると、それらは皆30年代のベルリンの何かを予感させる息苦しい熱気の描写であって、ストーリーとしては、作家を志する好青年ファビアン(32歳)が、ある日同じ下宿に越してきたばかりの女優を夢見るコルネリアと出会い、瞬く間に恋に落ちる、という物語りだ。

 ファビアンには資産家の息子、学者志向で革命家の友人ラブ―デがいて、3人はラブ―デの父親の別荘で遊ぶ。だがコルネリアは恋も大切だが、お金も名声も欲しい女性だ。

 ファビアンの母がドレスデンからやってきた。コルネリアを紹介して3人はレストランで食事をしていると、大物監督のマーカルトが入ってくる。コルネリアはマーカルトのテーブルに行って気にいられ戻ってこない。そして、女優への道を歩み始め、ファビアンとの関係は壊れていく。

 親友のラブ―デはデモで逮捕され、革命の夢破れ、同級生が悪質ないたずらで書いた教授資格取得の論文不合格の通知を見て、自殺する。

 ベルリンを離れドレスデンの両親のもとに帰っていたファビアンは、ある日雑誌でスターになったコルネリアの写真を見て、手を尽くして連絡を試みる。そして、初めて出会った思い出のカフェで再会を約束するが、心待ちにしているコルネリアの元にファビアンが現れることはなかった。その理由を書けば、映画の落ちを明かすことになるので、触れないほうがいい。

 恋愛、破局、打ち砕かれた再会の夢。ストーリーは単純明快だが、わき役たちや情景描写が織りなす様々なサブストーリーは、色濃くその時代の複雑は空気をリアルに描き出している。

原作者エーリッヒ・ケストナー

 この映画の原作は、エーリッヒ・ケストナー(Errich Kästner;1899-1974)の自伝的モチーフに沿って書かれた時代と風俗の痛烈な風刺小説「ファビアン」だ。この作品は当時のナチスによる焚書の対象にされ、ファシズムを非難していたケストナーは、大戦中は執筆禁止となった。

 この間にヒトラーは1938年にオーストリアに侵攻し、翌年9月にポーランドに侵攻した。

 ベルリンの地下鉄に乗って、ハイデルベルガー・プラッツ駅のエスカレーターを登ると、我々は今の世界に戻って現実と向き合うことになる。

 2014年にプーチンはクリミア半島に侵攻した。そして今年(2022年)の2月にウクライナに侵攻した。この先どうなるかは、歴史の未来だから誰も知らない。しかし、もう一度地下鉄に乗って1930年代のベルリン行けば、ベルリンの市民たちも得体の知れない不安の中で何が起ころうとしているのかまだ知らなかった。

 いま我々が見ているのは、2022にプーチンが行ったリミア半島侵攻と、2月から続いているウクライナ侵攻だ。これは、地下鉄に乗って辿り着いた1930年代にヒトラーが行ったオーストリア侵攻(1938年)と1939年9月1日のポーランド侵攻と並行関係にある。

 90年前、世界中の誰がヒトラーの侵攻を第二次世界大戦の始まりだと思っただろうか。我々も、このウクライナ戦争がどういう展開を遂げるか知らない。ただ知っていることは、かつてヒトラーが行ったことと、今プーチンがやっていることが酷似しているという事実だけだ。 

 ヒトラーは同じドイツ語を話すオーストリアに侵攻した。プーチンはかつての連邦共和国で今もロシア語を話す人の多いウクライナに侵攻したのだ。

 ヒトラーの野望は、東側に海・山脈などの自然の国境線を持たない国の宿命として、東側の国々の併呑に向かった。いまのプーチンの野望は、西側に自然の境界線を持たないロシアの誘惑として、西ヨーロッパの支配に向かおうとしている。

 このように、かつてのドイツと今のロシア、また、ヒトラーとプーチンの間には実に多重の相似性が読み取れる。

   

 ヒトラーの野望はプロイセン皇帝ウイルヘルム1世のドイツ帝国(ドイチェ・ライヒ)の再建、ドイツの第三帝国の樹立、ドイツ人によるヨーロッパの支配だった。とすれば、今のプーチンはピヨートル1世の築いたロシア帝国の夢を追い、ソ連邦の再興を企て、第三ロシア帝国を夢見るものではないか。

 そもそも、第三帝国(英語ではThe Third Empire、ドイツ語ではドリッテス・ライヒDrittes Reich)とは、古くからキリスト教神学で「来るべき理想の国家」を意味したが、それをナチスが自分たちの呼称としたことで有名になった。

 ロシアの文豪ドストエフスキーは、西ローマ帝国も東ローマ帝国も信仰が足りなくて滅亡した。だが、聖なるロシアは「第三帝国」とならなければならない、と論じた。プーチンはピヨートル1世の第一ロシア帝国、崩壊したソ連邦(債2帝国)、のあとを受けて、偉大なロシアの第三帝国の皇帝になることを夢想しているのではないだろうか。

 だとすれば、ベルリンの地下鉄の時間回廊の向こうの歴史的現実に照らして、ヒトラーが第二次世界大戦を惹き起こしたように、こちら側でも今のウクライナ戦争の延長線上に、第三次世界大戦が我々を待ち受けているということにならないだろうか。

 人類が歴史から学んだ真実は、「人類は決して歴史から学ばない」ということだというが、「ファビアン」の映画は、人類が初めて第三次世界大戦への運命を回避する英知を身に着けることが出来るか、と問うているように思える。

 映画「さよならベルリン、またはファビアンの選択について」の原作者、エーリッヒ・ケストナーは1899年に生まれ1974年に世を去った。私がいまブログに連載している短編の作者ヘルマンホイヴェルス師は1890年生まれで1977年没だから、ケストナーより早く生まれ彼よりも遅くに亡くなった全くの同時代人だ。そのホイヴェルス師は、第一次世界大戦に衛生兵として従軍した。

 また、この映画評を書いている私は、1939年9月1日にヨーロッパで第2次世界大戦が勃発した3か月あとに生まれ、原爆で真っ平になった広島に住んだことがある。だから我々はヒトラーとプーチンの二つの時代にまたがって生きていると言える。そして、ファビアンの身辺で起こった出来事は、私たちのまわりで起こっていることと同じだと言えるのだ。

 プーチンはウクライナをネオナチと非難するが、それはお門違いも甚だしい。プーチンこそ、90年のタイムトンネルを通って今日に現れたヒトラーの化身ではないか。

 とにかく、今のウクライナ戦争はまさに私たちの時代の緊急事態だ。ファビアンの時代の流れが今再び繰り返されて、第三次世界大戦が明日始まり、その後ヒトラーのようにプーチンも亡び、全世界は核戦争で滅亡し、辛くも生き残った少数の人類は、次の第4次世界戦争を石の武器で戦わなければならない運命は、果たして絶対不可避なものだろうか。

 現代から90年前のベルリンに行った我々は、ドイツが第二次世界大戦に突入していったことを歴史的事実として知っている。それならば、歴史のジンクスが我々の英知によっ初めて覆されることも在り得るとは考えられないだろうか。

 多くのことを考えされられた実にすばらしい映画だった。

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