:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ バチカンで能 「復活のキリスト」 奉納

2017-06-28 00:00:42 | ★ インカルチュレーション

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バチカンで≪ 能「復活のキリスト」≫上演

本物の「インカルチュレーション」

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高松の114銀行のベンチで自分の番を待っている間、「四国新聞」に目を通していたら「バチカンで国交75周年祝い」と言う副題の記事が目に留まった。

配信元は【ローマ共同】とあるから、東京の各紙にも同類の記事があったに違いない。この記事にいささか個人的なかかわりがあったので、ブログに取り上げることにした。

記事の中では、「復活のキリスト」はドイツ人宣教師の原作を宝生流17世宗家の宝生九朗が演出して57年に初演されたが、63年の再演が最後となった「幻の演目」・・・とあったが、そのドイツ人宣教師とは私の恩師ヘルマン・ホイヴェルス神父のことだ。同神父は上智大学の2代目の学長で、戦時中に軍部の圧力で学長を下ろされると、以来ずっと四谷の聖イグナチオ教会の主任司祭をしておられた。

バチカンのカンチェレリア宮殿での上演風景

先日、6月9日に四谷の聖イグナチオ教会で、ホイヴェルス神父の没40周年記念ミサが行われた。一口に40年と言うが、一人の司祭が亡くなって、その遺徳をしのぶ信者たちが毎年大勢集まって追悼ミサを行い、それが40年も続いたなどという話を、私はかつて聞いたことがない。ホイヴェルス神父様はよほど特別な聖徳の鏡だったのではないだろうか、と私は思う。勿論その蔭には、H神父門下では私の兄弟子にあたる東京家裁判事森田宗一先生の息子の森田明氏の存在があったことも忘れてはいけない。森田明夫妻がずっとその幹事をしてこられたからこそ続けられた面もあるからだ。

その明氏が、昨年の追悼ミサのあと「来年は40周年の節目を迎える。自分も体力の限界を感じる。誰も引き継ぐ人がいなければ、区切りをつけて追悼ミサを終わりにしたい」と予告されていた。

ミサ後の茶話会で司会する森田明氏 左はホイヴェルス神父の遺影。確かではないが、当時からカメラ小僧だった私が撮った写真ではないかと思う。

そして今年のミサの司式司祭はイグナチオ教会の元主任司祭のカンガス神父、私は共同司式だった。実は、カンガス神父は私が20歳でイエズス会の修練者だった時の副修練長で、以来大変可愛がっていただいた仲だった。 

90歳とは思えない若々しいカンガス神父の姿

私はこの9年間、前教皇ベネディクト16世の手で「一時的に」ローマに移された高松の「レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」のスタッフとして、毎年多くの時間をローマで過ごしていたので、6月初めの追悼ミサの頃はいつも欠席を余儀なくされていたが、去年の6月は3.11東日本大震災の5周年を記念して東京のサントリーホールなどでキコのシンフォニー公演ツアー(5月1日―8日)があった関係で、久々に出席し追悼ミサを共同司式した。そして、明氏の話を聞きながら「もし誰も引き継ぎ手が現れなければ、元気な間は自分がホイヴェルス神父の追悼ミサを引き継ごう」と心に期するところがあった。

最後の追悼ミサとあって、普段よりも多い100人ほどの信者さんが集まっていた。ミサ後の茶話会では、ホイヴェルス神父の弟子たちの思い出話がひとしきりあって、司会の明氏は私に、少しまとまった話をするようにとマイクを振ってきた。

そこで私は、ホイヴェルス神父は宝生流の舞台で新作能「復活のキリスト」を上演され、城戸久平と言う能面師が打った世界にただ一枚のキリストの面が舞台で用いられ、神父没後も復活祭の頃になると宝生流の能楽堂ではキリストの「復活」能が上演されていたこと、これこそ本物のインカルチュレーション(キリスト教の土着化)の生き見本だと思ったことなどを話した。日本の伝統芸能の中にキリスト教の魂が宿ったからだ。

また、女形(おやま)歌右衛門を主役にして歌舞伎座で「細川ガラシャ夫人」の新作歌舞伎を一か月上演した話や、その後、デュッセルドルフのコメルツバンクで銀行マンをしていた私は、ウエストファーレンのドライエルヴァルデ(三ツ森村)に里帰りをした神父の生家で落ち合い、当時まだ健在だった姪のタンテ・アンナの手料理をH師の少年時代の勉強部屋で二人きりでいただいた。そのとき、来年は「細川ガラシャ」の歌舞伎一座を連れてドイツ公演ツアーをするから、お前は現地マネジャーをやれと指名されたのに、ついにその実現を見ぬまま他界されたこと、なども話した。

私は、話の結びに「もしよろしければ、来年以降は私が幹事役をお引き受けして、ホイヴェルス師の追悼ミサを私の健康の許す限り続けたい」と言って、話を結んだ。100名の参会者からは温かい拍手が沸き起こり、カンガス神父も目を細めて喜んで受け入れて下さった。

1964年と言えば、東京オリンピックの年だが、まだ25歳で上智の中世哲学研究室の大学院生だった私はホイヴェルス神父様と二人でインドのムンバイに旅行したことがあった。神父は、宣教師として一時ムンバイの私立学校で教鞭をとっていたことがある。この年、パウロ6世がローマ法王としては初めてヨーロッパ外へ旅行してインドで世界聖体大会を主催するということになり、H神父はインド旅行を決意され、私を連れて行ってくださった。その時、神父のもとに集まった昔の教え子たちと一緒の様子を私がスケッチした絵が今もどこかに残っている。 K.T. は私のイニシャル。

今偶然「四国新聞」で、去る23日、24日にホイヴェルス師の「復活のキリスト」能がバチカンで上演されたことを知って、胸がいっぱいになった。

(終わり)

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★ キコの壁画が出来るまで(そのー5)

2017-06-15 20:47:54 | ★ キコの壁画

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キコの壁画が出来るまで(そのー5)

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キコの壁画最終回は、軽いスライドショーで流しましょう。

お披露目にはローマ中の共同体の責任者が招かれた。キコの表情にも一仕事終えた安ど感が溢れている。

本当はフランシスコ教皇に見せたいところだが、ローマ教区の教皇代理のヴァリーニ枢機卿の、私が行く、の一言で話はおさまってしまった。彼は珍しく素直にキコの画をほめた。

ヴァリーニ枢機卿がほめたキリストの顔

壁画完成祝いのミサを司式する枢機卿

ギターを弾いて歌を導くキコ

キコから右に数えて二人目は、前教皇ベネディクト16世から指名を受けた日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院の院長平山司教(93歳) 

ミサで使うパンは手焼きの種なしパン。ぶどー種は参会者が皆たっぷり一口飲めるだけの量を大きな杯で用意する。この聖体拝領のやり方は、教皇ヨハネパウロ2世が2000年の聖年にイスラエルのドームスガリレアにヘリコプターでやってきて、キコと一緒のミサを司式して公に承認された。

ヴァリーニ枢機卿もこの6月にローマ教区長を退任する。

お祝いの食事の席ではいつも神学生の余興が入る。

ワインが適当に入っているから、頭上にナフキンを回してみんなで合唱になる。

ボストンのオマリー枢機卿も来賓として挨拶。フランシスコ教皇の教会改革8人衆の一人。

テレビの画面から。右の背の高い部分が、今回増築になった聖堂の部分。壁画はその正面に描かれている。

壁画はあくまでも典礼の一要素。ぎっしり人が入って初めて引き立つ。

今年の復活祭明け。今年も100広場の街頭宣教が世界中で行われた。今年のポスターとスケジュールの披露があった。

 集まりがあるとキコは必ずギターを取って自作の聖歌を一同と歌う。

聖堂の後ろ二階の聖歌席から見下ろすと、手前中央に洗礼盤があるのがわかる。1965年に幕を閉じた第2バチカン公会議の典礼改革では、イエスがヨルダン川で洗礼を受けたときのように、全身水に沈む浸しの洗礼が本来で、額に注ぐだけの洗礼は、状況次第では今後も許される、となっている。この洗礼盤は大人の浸しの洗礼に対応している。

キコの人生も最円熟期に入っている。画家としてのキコは、この壁画を彼の集大成と考えているのだろうか。今後は、彼の弟子たちの画家集団に、彼の開いた新しい宗教画のスタイルが受け継がれていくだろう。

(終わり)

 

 

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★ キ コ の 壁 画 が 出 来 る まで (そのー4)

2017-06-11 19:28:12 | ★ キコの壁画

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キ コ の 壁 画 が 出 来 る まで (そのー4)

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 そのー3 を書いてから、ひとつ「マチェラータの神学校訪問」を挟んだが、キコの壁画の完成までを書き終えておいた方がいいと思った。

部分、部分が仕上がっていく。どれもどこかで見たような絵だ。ちなみに、この絵は受胎告知じゅたいこくち)だが、新約聖書に書かれているエピソードの1つ。一般に、処女マリアに天使のガブリエルが降り、マリアが聖霊によってイエスを身ごもることを告げ、またマリアがそれを受け入れることを告げる出来事。

キコはそれを東方教会の伝統に近い様式で描いている。私は、個人的にはフラアンジェリコの最高傑作とも言われるフィレンツェのドミニコ会修道院の階段を上がった突き当りにある受胎告知が一番好きだが、キコのも悪くない。

その右はキリストのベトレヘムでの降誕の絵だが、これも東方教会の伝統様式にのっとり、嬰児キリストは飼葉桶ではなく、死者の棺桶にミイラのように布で巻かれて横たわっている。キコの弟子たちは、キコが以前に全部一人で自筆で描いた同じモチーフの絵の忠実な模写として描き、キコはその中の主要人物の顔などに手を加えるだけにとどまる。

完成が近付いているのがわかる

ある日、私は絵の足場に上るための移動式エレベータに乗せてもらった。この写真は上昇中に途中で撮ったものだが、ガクンと小さいショックと共に止まった最高点から下をのぞいた時は、高所恐怖症とは無縁のはずのわたしでさえ、いささか体がこわばった。

足場が取り除かれた。システィーナ礼拝堂のミケランジェロの最後の審判の絵はこれよりわずかに小さいが、彼がひとりで6年かかかって描き上げたものだった。ところが、キコの手法にかかると、正味半年もかからずに完成している。ルネッサンス期のものと、東方教会のイコン画様式のキコの画とではそこにも大きな違いがあると言える。

ところで、キコの画の作成過程で、私には初めから大きな技術的疑問が一つあった。それは上の写真の左にも映っている移動式エレベーターのことだ。キコの画が書かれる前から増築作業に必要だったから聖堂の中に二台入っていて、画の作成過程でも大いに活躍した。私も一度それに乗せてもらったことは先に触れたが、絵が完成したら一体どうなるのだろうか、不思議でならなかった。細首の壺の中の餌を握った猿の手が抜けなくなるように、大きな開口部の無いこの聖堂からこの大きな塊はどうやって出ていくのだろう?まさか分解して小さな部分に分けて担ぎ出すのではなかろうに・・・

 

ところがある日、職人たちが妙なことを始めるのに気が付いた。大壁画の左右と上辺には、採光用と外の自然の借景をかねて大きなガラス板がはめられている。その右側の最下段のガラスに8個の巨大な吸盤が吸い付いた。エレベーターはどうやら自走してガラスを外したその場所から外に出るらしいことがわかって納得した。

大任を果たして無事外に出たエレベーター。ご苦労さん。

バチカンのシスティーナ礼拝堂の祭壇画、ミケランジェロの最後の審判は、ルネッサンス期の人間中心主義、3次元の遠近法を使った写実主義により、画家の天才的個性を前面に出した自由な絵画だった。だから、同じものはこの世に二つと存在してはならないものだ。また復活したキリストは、筋肉モリモリの青年像として描かれているが、そこからキリストの聖なる内面性は伝わってこない。

それに対して、キコの画は頑固に11世紀までのイコン画の基本に忠実に、神中心主義、非写実的に様式化され、画家の個性を消して、二次元描写と逆遠近法の手法に徹し、信仰と職人的技術を身に着けた弟子たちによって、キコの没後も末永く世界中で描き続けられるように計画されている。

出来上がりは、キリストの受胎告知から聖母の被昇天まで、キリストの生涯の主な出来事を回りの14枚の絵に表し、中心の上段には世の終わりの再臨のキリスト、下段には三位一体の神を描いた、曼荼羅形式をとっている。

 完成した自分の画を孤独に見つめるキコの後ろ姿

早耳で、完成を知って取材に来たテレビ局のインタビューに答えるキコ

午後の日差しが受胎告知を照らしている。

(つづく)

(あと1回でこのシリーズは終わる予定)

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★ マチェラータの「レデンプトーリス・マーテル」神学院

2017-06-02 00:28:56 | ★ 神学校の日記

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マチェラータの「レデンプトーリス・マーテル」神学院

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キコの壁画の最終回の前に、一つ挟もう。私は5月30日に日本に舞い戻った。平山司教様がご一緒だった。彼にとっては、これがローマでの最後の日々になるかもしれないという予感のもとに、5月下旬に小旅行をした。投宿先がこのマチェラータの神学院だった。

ホールにはキコの自筆の壁画があった。真ん中は三位一体の神、左がキリストの降誕、右が復活と空の墓のモチーフで描かれている。これらは、形を変えてローマの大壁画の一部に組み入れられることになっている。

マチェラータはアシジから真東に向かってアドリア海の近くの丘の上にある。ちょうど昼食時に着いた。聖堂で昼の祈りをして、食堂に向かう。詩編はパイプオルガンとギターなどに合わせてメロディーをつけて歌う。

食堂には30人ほどの神学生がいた。ローマの神学院の姉妹校で、規律は良く守られているのが空気でわかる。

これは、現在世界に115か所以上ある姉妹校の中でもかなり早い時期、多分10番以内に建てられた神学校で、寄付された土地にゼロからすべてキコの設計で建てられた最初の神学校だったと思う。隅々まで彼の独自の建築理念が生かされている。

現在、この神学校には12か国からの30人余りの神学生がいるが、その中の5人は中国人の若者だ。実は、このマチェラータという土地は、有名な中国の宣教師マテオ・リッチの誕生の地で、それに因んでここで生まれる司祭は、全員中国の宣教のために特別な養成を受けている。キコは、将来中国の共産党一党独裁体制が崩壊する日を目指して、世界中で2万人の宣教司祭を養成するという野心的な計画を持っている。ここの神学校はそのためのモデルケースになっている。

5人の中国人は別として、他の11か国からの神学生は、すでに中国に留学して中国語が話せるようになっている。

聖書を勉強するみ言葉の大聖堂には、ローマの神学校と同じキコのステンドグラスがはめられている。

兵馬俑のコピーや

中国の貴人の服装をした往時の宣教師の胸像が置かれていた。どちらかがマテオリッチではないか?

 

実はこの神学校はまだ完成していない。円形の大ホールがまだ未完成のままだ。キコのイメージデッサンをが壁に掛けられていた。

実は、1990年には、日本にこれと似たような神学校が(土地はこれよりかなり狭いが)四国の香川県東かがわ市に計画されていた。世界で7番目の姉妹校「レデンプトーリス・マーテル」神学院だった。今もこれと同じような完成模型がケースに入って日本のどこかに保管されている。土地の造成まで設計図に従って完成していた。竹中工務店の手で本工事を待たずに仮校舎が建てられ、実際に神学校が開校し、1998年まで活動し、20名ほどの司祭を輩出した。いまその神学校は前教皇ベネディクト16世の手でローマに移植され、将来の日本の福音宣教のために、≪日本のための「レデンプトーリス・マーテル」神学院≫と命名され、平山司教様が教皇からその院長として任命されて現在に至っている。

(つづく)

 

 

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