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:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 舛添要一氏のこと キリストと姦通の女(完)

2016-11-12 19:44:48 | ★ 聖書のたとえ話

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舛添要一氏のこと

キリストと姦通の女(完)

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70年前、敗戦後の天皇の人間宣言以来、日本人は一切の「生ける神」への信仰を失ったといっても過言ではないでしょう。残ったのは、お金の神様、「マンモンの神」への信仰だけのように見受けられます。 

神のいない世界がどんなにひどい様相を示すか。共産主義的無神論社会が、賄賂と汚職にまみれた救いようのない腐臭に満ちた状況に沈んだことは、中国やロシアの為政者が一番よく知っています。彼らはそれを根本的に是正するには生半可な道徳主義では足りず、まじめな宗教の力を借りるほかに手はないことに気づき始めているでしょう。

では、日本の社会はどうでしょうか。イタリアに長く住んだものの目から見ると、一般庶民個々人の表層的モラルは一見イタリア人などよりも高いようにも見えます。しかし、いったん集団化すると、日本の「会社」や「官庁」が中国やロシアよりましだと言えるでしょうか。そして、悪いことに、日本人はその根本的原因と脱出の道にまだ気づいていないように思われます。 

中島氏は、先に取り上げた「舛添問題」では、私はむしろ「なんと舛添さんは素朴で天真爛漫なのだろう」と思い、それほど「汚い」とも「憎い」とも思いませんでした。むしろ、小池百合子現都知事の「小池旋風」がまだ予測のつかないころは、彼女に無礼の限りを尽くしておきながら、敵にしたらヤバイと判断した途端、露骨に擦り寄る都議会議員の面々、広大な地下空間の決定に関与した者は必ずいるはずなのに、絶対に名乗りを上げなかった都庁職員の面々のほうがずっと「汚い」という印象を持ちました。

と書いています。私に言わせれば、舛添さんが「セコ」いと言われるのは、何不自由なく暮らしている人が、ホテルの洗面台から髭剃りや櫛を持ち帰ったり、会社の消耗品のセロテープや消しゴムを家で使ったりの、「それぐらいのものは自分の金で買えよ!」と潔癖主義の庶民から言われそうな、わかりやすさのゆえではないでしょうか。中島氏はそんな一面を指して「なんと舛添さんは素朴で天真爛漫なのだろう」と言ったのだと思います。 

舛添さんよりずっと「汚い」連中は、すぐ言質を取られるようなわかりやすい嘘はあまりつかないかもしれないし、セコイことも注意深く避けて外見上隙を見せないよう細心の注意を払っているのかもしれません。しかしその裏では、庶民の血税を、会社の収益を懐に入れて私腹を肥やし、賄賂も取って知らぬ顔を通し続けるのです。政治家も多くは地位と権力を利用してうまい汁を吸うことに長けていると思われます。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の言葉どおり、会社ぐるみ、官庁ぐるみ常習的に不正にまみれ、その「汚なさ」を互いの身になすりあって同色に染まり、その発覚から各自を護るために互いにかばい合う世界を一致団結して構築しているのではないかと疑われます。豊洲の盛り土問題がそのいい例です。

他方、一緒になってその汚さにまみれることを潔しとしない者は村八分になり、疎外されて、結局その世界には住めません。舛添氏は都議会やその黒幕の汚い巨悪の共犯者にならず、隠された不正な談合に手を染めなかったのではないかと思っています。(もし手を染めていたら、そこをこそ第一に叩かれたはずですが、そんなことは何も起こらなかったではないですか。)そこが村社会では不協和音を奏でる異分子とされ、一線を越えない正しさが一緒にいて居心地の悪いオーラを漂わせることになったのではないでしょうか。

東大を出て、国際政治学者として「改革派」を名乗って頑張ったが、「一人の力では限界がある。東大と心中する気はない。」と、東大助教授の職を辞した彼は、参議院自民党政策審議会長、厚生労働大臣を歴任しました。年金問題ではいい働きをしたではないですか。自民党で孤立すると、「新党改革」を旗揚げして代表となり、その後東京都知事に就任したのでした。政治家として錚錚(そうそう)たるキャリアーだと言うべきでしょう。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、イタリア語の6ヵ国語を自由にし、53冊の著書、6冊の共著、13冊の翻訳書をあらわし、絵画に造詣が深く、乗馬を趣味とし・・・、と人並み優れた深い教養と学識を身に纏った彼は、そんなこととは縁遠い泥臭い田舎の政治屋の社会では、仲間として馴染みにくいセレブな風を漂わせ、どこか煙たく、何かあったら貶めてやろう、足を引っ張ってやろうという劣等感に裏打ちされた屈折した反感に付け狙われることなったのではないでしょうか。

そして、不幸にもあのタイミングでその点に火が着いた。あとはテレビやマスコミを挙げての集団ヒステリーの暴走で炎上していくしかなかったのだと思います。

そんな逆境の中でも、当初はあくまで都知事を辞任せず、都議会の解散も辞さぬ意思を貫いて、法の裁きに身をゆだねるつもりだっただろうと思います。彼が筋を通して頑張り続けたら、自民党は大打撃を免れないはずでした。だから、どんなに乱暴な手を使ってでも、一刻も早く彼をつぶさねばならないと焦った勢力がいても不思議ではありません。

あの日公用車に乗って出かけたかと思ったらすぐ引き返してきて、あっさりと辞意の表明に至りました。

車の中にどこからどんな話が飛び込んできたのか、私など知る由もありませんが、単なる美味しい裏取引の成立話などではなかったことはだけは想像に難くありません。私は巨悪の側からのぞっとするような恐ろしい脅しだったのではないかと勝手に想像をたくましくしています。例えば、暴漢を差し向けて射殺するぞ、とか、家族の命を奪うぞとか、交通事故死したいのか、とか言ったたぐいの露骨な脅迫の前に、かつて「東大と心中する気はない」と言って助教授を辞めた彼は、筋を通すためにそれほどの代償を払う価値はない、「都知事の椅子と心中する気はない」と、醒めた理性が納得したからではないでしょうか。

中島氏の説くカントの「道徳的善さ」やフコーの「パレーシア」と全く相いれない、「日本型村社会」の典型としての都庁の風土にあって、舛添氏が異色であったことが招いた悲劇だと思います。

私はいま、ギリシャの哲学者プラトンの「ソクラテスの弁明」を久々にひもといていますが、ソクラテスは真理のために敢えて毒盃をあおって死を選んだのは歴史に残るエピソードでした。イエスは避けて通る道と機会が十分にあったにもかかわらず、自ら選んで「天の御父」のみ旨に従って、全人類の罪を贖うために十字架上で壮絶な死を遂げ、3日目に蘇って復活の勝利に輝きました。舛添氏が最後まで志を全うしていたら、或いは日本の国全体が変わるだけのインパクトを持ち得たかもしれないし、氏自身も社会の第一線に「復活」したかもしれません。

舛添氏に最後まで徹底すべきだったと言うのは簡単ですが、彼を追い詰めたマスコミの競い合っての狂乱ぶりこそが、そもそも「セコイ追及」のエスカレーションだったことを思えば、問題はそんなに単純ではありません。ナザレのイエスの場合も、ローマの総督ピラトは、公平に見てイエスに非を認められず、無罪放免にしたいと望んだのに、ユダヤ人の嫉妬に狂った扇動者に煽られた群衆の凶暴な叫びに匙を投げて、不本意にもイエスの処刑を許さざるを得なかったことが思い出されます。

それにしても、舛添氏を引きずり降ろした後に、自分たちの品性とモラルのレベルに釣り合った同じ穴の貉(ムジナ)の政治屋を押し立てて、日本型村社会「都庁」の居心地の良さを取り戻そうとした面々の思惑は見事にはずれ、もっと厄介な「リボンの騎士」のまさかの登壇に道を開いてしまいました。自分たちの手でパンドラの箱を開いてしまったのです。

私はむしろ「舛添さん、よくあそこまで耐えた、よく頑張った、ご苦労さん」と言いたい。彼があそこまでやったから、小池百合子都知事が生まれたのだとは言えないでしょうか。舛添を降ろして溜飲を下げた連中は、改めて戦々恐々としながら、早速小池降ろしの秘策を練り始めているかもしれません。

中島氏は「舛添要一前東京都知事の 『あまりによくわかるウソ』と『目に余るセコさ』が目立った」と言い、「なんと舛添さんは素朴で天真爛漫なのだろう」と思い、「それほど『汚い』とも『憎い』とも思いませんでした。」と書いていますが、実はそれを目立たせたのはマスコミ間の「セコイ」競争ではなかったでしょうか。政敵とマスコミと情報機関が挙げて彼の身辺を洗いざらい調べて、湯河原の別荘へ公用車でとか、イタリアレストランでの飲食費15,000~円とか、絵画オークションで何万円とかの「セコい」あらしか見つけられなかったということは、裏を返せば、彼が地位を利用して巨額の公金を着服したというような法に抵触する重大な罪を一件も犯していない稀に見るクリーンな政治家であったことの明白な証拠をマスコミが明らかにしたようなものではなかったでしょうか。その面にこそ私は注目したいと思います。

ところで、このような私の論法を目くじら立てて批判し論難する人には、ご自分が「真理」とも「モラル」とも無縁な「会社」と「官庁」の世界の闇と巨悪を無意識のうちに擁護しておられることにふと気付かれることを願います。

宗教家としての結論として、ロシアにも中国にも日本にも、「本当の生ける神」への信仰が広く人々の間に根付くことなく、この世の唯一最高の「お金の神様」を拝んでいる限り、闇と死の谷をさまよう救いのない運命から逃れ出る道はないと言いたいのです。

私は舛添氏と一面識もないが、氏がこのまま葬り去られることなく、社会の第一線に「復活」を果たし、その卓越した能力と教養を存分に発揮して、社会に大きな貢献をされることを期待してやみません。

このブログを読まれた方は、あらためて4編の「キリストと姦淫の女」シリーズを通してお読みください。最初から舛添さんに触れています。先の3編は:

1)    独裁と魔女狩り? キリストと姦通の女-1

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/e10c32e52536195260de5e653c37cacb

2)    キリストと姦通の女-2 一つ前のブログ「独裁と魔女狩り?」の続き

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/79beed4a90e452f85c9af152a1f4b790

3)   キリストと姦通の女(再び)

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/b22394b8761244f48e9ff69d1e2d0d40

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★ キリストと姦通の女(再び)

2016-11-07 07:47:33 | ★ 聖書のたとえ話

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キリストと姦通の女(再び)

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私は、今年の6月6日と7日に「キリストと姦通の女」をテーマに2度ブログを書きました。しかし、書いたのが舛添都知事の辞職直前と言う最悪のタイミングだったためか、「お前、何馬鹿言ってんの?」みたいなコメントは幾つも戴いたが、賛同し、共感する意見は皆無でした。信念をもって書いた私は、ひどく傷つき、その傷は今もって癒えていません。

私の言いたかったことがようやく理解されたと感じたのは、最近「東洋経済オンライン」に載った中島義道氏の

企業の謝罪会見は『汚い精神』にまみれている

組織の一員として“道徳”とどう向き合うか 

と言う記事に出会った時でした。私はこういう意見をこそ待っていたのです。手っ取り早く中島氏の言葉を拾って、綴り合わせてみましょう。

少年のころから「会社」でだけは働きたくないと思っていた。当時はサラリーマンとは「気楽な家業」というイメージが定着していた。私はその“のんべんだらり”とした村社会的雰囲気を恐れていたのでしょう。(中島氏は「会社」に勤めることに対する恐怖から、えんえん先延ばしして、やっと37歳で大学助手になった、と告白していますが、私も同じ理由で30歳まで中世哲学の研究室でごろごろしていました。)

あらゆるホンネが潰される「会社」 になぜ勤める?

馴れ合いと談合が支配し、個人は「和」の名の下に抹殺され、あらゆるホンネは潰され、あくまでもタテマエがまかり通り…そして、その「日本型村社会」の典型が「会社」であり、「官庁」である。

カントは、道徳的よさは「誠実性=真実性の原則」のみであることを強調する。生命も、愛も、家族も、健康も、精神的陶冶も、芸術も、まして富も、社会的地位も、名声も…これに比べたらクズのようなもの。

会社にとって「道徳的よさ」は無価値だ

 フーコーが発掘したとも言える古典ギリシャ時代の「パレーシア」という概念がわかりやすいでしょう。

 「パレーシア」とは、自分が不利になっても真実を語るか否かという場面で開かれる。たとえ自分がいかなる損害を蒙ろうとも、それが真実であるから尊敬する、そして語るということ。

 まさに、これが「パレーシア」なのですが、これこそ現代社会ではまったく省みられないこと、いや想像さえできないことではないでしょうか? しかも、豊洲問題のみならず、やはり「会社」や「役所」といった組織こそ、際立ってこの原理に従いにくいと言えましょう。

 組織が総がかりで欺瞞の道を歩もうとしているとき、そこに属する個人はどういう態度をとればいいのか、という観点から「道徳的よさ」のすべてを見直すことができるような気がします。

舛添氏より都議会や都庁職員の方がずっと「汚い」

 むしろ、あるきわめて巧妙な仕方で社会的には認められない不正を犯し、しかもそれをひた隠しにし、ついにそれが暴露されたときには、「心からお詫びし、さらに誠意をつくして改善に努める」という姿勢を示す「会社」、ずらっと男たちがテーブルの向こう側に並び頭を深々と下げる光景。われわれが飽きるほど見たあの光景こそが、問題なのです。

 この光景のうちに、現代の会社組織とカントが力説する「真実性=誠実性の原則」との相性の悪さが象徴されている。誰も真実それ自体を尊敬することはなく、もはやここで真実を認めないとさらに自分たちがソンになるからしぶしぶ認めるという「汚い精神」が露出している。隠し通せたとしたら、真実などどこ吹く風で、真顔でウソを突き通し、バレたと思った瞬間にコロっと態度を変える。すべてがソン・トクで動いているだけであり、しかも、「心から反省している」という言葉を吐いても、なんの良心の痛みも覚えないようなのです。

 カントはこれこそ「根本悪」と呼んだのですが、現代日本ではこうした欺瞞があまりにもはびこっているので、誰もが「どこかおかしい」と思いながらも、大いなる怒りさえ覚えなくなってしまっているのではないでしょうか。

 先に取り上げた「舛添問題」では、舛添要一前東京都知事の「あまりによくわかるウソ」と「目に余るセコさ」が目立ったので、世論の怒りが炎上したのですが、私はむしろ「なんと舛添さんは素朴で天真爛漫なのだろう」と思い、それほど「汚い」とも「憎い」とも思いませんでした。むしろ、誰かはすぐわかるので言いませんが、小池百合子現都知事の「小池旋風」がまだ予測のつかないころは、彼女に無礼の限りを尽くしておきながら、敵にしたらヤバイと判断した途端、露骨に擦り寄る都議会議員の面々、広大な地下空間の決定に関与した者は必ずいるはずなのに、絶対に名乗りを上げなかった都庁職員の面々のほうがずっと「汚い」という印象を持ちました。

さて、皆さん。ここでもう一度私の二つのブログ「キリストと姦通の女」を読み直していただけないでしょうか?

私は、出口なし状態の舛添氏を弁明・擁護したくて書いたのではありませんでした。私が「キリストと姦通の女」の聖書のエピソードから疑問を抱き、苦言を呈したのは、連日連夜の番組で舛添氏を血祭りにあげ、世論を煽動したテレビ、マスコミに対して、また都議会の面々に対し、そして、物に憑かれたように舛添氏を火刑台にあげて囃し立て狂乱した大衆に対して、「貴方たちにそんなことをする資格がありますか?」と問うただけのことです。

それなのに、私の主張は「お前は馬鹿か?この期に及んでお前はまだ舛添を擁護するのか?」と言う見当違いの反論とともに、全く無視され不問に付されたのでした。その声は、私には恐ろしいファッショの熱に浮かされた重病人のうわごとのように聞こえました。

ここで聖書のエピソードをもう一度読んでください。

人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8章3節以下)

これを受けて私は書きました。

舛添氏に対するマスコミの質問は悪意の罠に満ちている。具体的に答えなければ、「説明責任を果たしていないから辞めろ」となる。「公私混同がありました、申し訳ありません」、と答えれば、「みずから非を認めたのだから責任を取って辞めろ」。「法に触れるようなことはしていません」、と言えば、「違法性の問題ではない、ここまで世間を騒がせたことに対して責任を取って辞めろ」、となる。何を言っても「辞めろ」言わなくても「辞めろ」の四面楚歌の罠。

では、イエスにならって舛添さんも「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、私に石を投げなさい。」と開き直ってみたらどうか?「ぬすっと猛々しい!」とばかりに、数分後に彼は血だらけの死体になって転がっていたでしょう。現代の日本人には2000年前のユダヤ人社会のようなモラルも抑制心もない。神を畏れることを知らぬ集団はなんと恐ろしいことか!

イエスの時代のユダヤ人と現代の日本人との反応の違いはどこから来るのでしょうか。それは、神が存在する社会神不在の社会の違いではないかと私は思います。

この話はまだ次回に続きます。ここで終わったのでは、私の腹の虫が収まらないからです。乞う、ご期待!

 バラ

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★ キリストと姦通の女

2016-06-06 07:57:04 | ★ 聖書のたとえ話

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キリストと姦通の女-2

一つ前のブログ「独裁と魔女狩り?」の続き

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キコのシンフォ二-も無事盛会に終わり、久しぶりに「キリストと姦通の女」をテーマにブログを更新したら、たちまち両極の反応があった。「品がない!」と叫ぶ人がいた一方で、冷静に「同感だ、その通りだ!」と言う人もいた。反応の二極分解は私の話が痛い問題の核心を衝いた証拠だと受け止めている。

それで調子に乗るわけでもないが、「キリストと姦通の女」の話しをもう一歩掘り下げてみよう。

舛添さん降ろしに血道を挙げているマスコミと世論については前のブログで書いた通りだが、そこに引用した聖書の言葉はこう始まっていた。

人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」そして続く)
         イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。

キリストの火を吐くような真理の言葉と、貧しい大衆からの圧倒的な人気に、恐れと嫉妬を抱いた当時のユダヤ教の指導者たちは、イエスを亡きものにしようと企み、執拗に付きまとって次々と罠を仕掛けていたのだ。今回のこの質問もそんな罠の一つだった。

モーセの律法は絶対だから、そんな女は律法通りに石殺しにするべし」、と答えたら、「聞いたか皆さん!この男は血も涙もない律法主義者だ!憐れみのかけらもない!そんなことを言ったら世の中から娼婦たちがみな消えてしまい、たちまち困るのは男たちだ。近所の人妻だって軒並みやられるかもしれない!」そんなイエスは亡きものにしよう!」と煽り立て、大衆の集団ヒステリーに火が着いたら最後、イエスの命は風前の灯になる。

では、憐れみをかけて「可哀想だからその女を赦してやりなさい」と言えばどうか?今度も「聞いたか皆さん!イエスはモーセの律法をないがしろにする、神をも畏れぬ異端者だ!亡きものにしなければならない!」となる。もはやこの質問の罠から逃れる術はない。「YES! と答えても地獄」、「NO! と答えても地獄」なのだ。

しかしイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石をなげなさい」と答えて、見事に難局をすり抜けた。

舛添さんの場合はどうか? 

 

マスコミの質問も悪意の罠に満ちている。具体的に答えなければ、「説明責任を果たしていないから辞めろ」となる。公私混同がありました、申し訳ありません、と答えれば、「みずから非を認めたのだから責任を取って辞めろ」。法に触れるようなことはしていません、と言えば、「違法性の問題ではない、ここまで世間を騒がせたことに対して責任を取って辞めろ」、となる。何を言っても「辞めろ」、言わなくても「辞めろ」の四面楚歌の罠。

では、イエスに倣って舛添さんも「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、私に石を投げなさい。」と言ってみたらどうか?数分後に彼は血だらけの死体になって転がっているだろう。現代の日本人には2000年前のユダヤ人社会のようなモラルも抑制心もないからだ。神を畏れることを知らぬ集団はなんと恐ろしいことか!

わたくし的に言えば、舛添さんは、上の絵で言えば、「姦通の女」ではなく「イエス」の立場に置かれた人のように思われてならない。

イエスの場合と同じように、邪な意志を抱いた人たちから抹殺のターゲットにされた犠牲者に共通の窮地の構図だ。

「姦通の女」の場を、そして他のいくつもの窮地を切り抜けたイエス・キリストでさえも、最後には最もエスカレートした同様の構図に呑まれて、十字架上の磔刑死という壮絶な最期を遂げることになった。この世の正邪の戦いでは、常に邪悪なものが勝利をおさめるように定められているのだろうか。

しかし、キリストは「復活」した! 夜明けの太陽のように復活したイエスは、邪悪の闇を打ち払い、死を打ち滅ぼして信じる人に永遠の命を与えた。これがキリスト信者の信仰告白だ。わたしはイエスの復活と人間の魂の不滅性と終末の日のわたしの肉体の復活を信じる。

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★ 独裁と魔女狩り?

2016-06-03 00:20:05 | ★ 聖書のたとえ話

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独裁と魔女狩り?

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磐梯熱海の温泉宿「永楽館」でキコのシンフォニーの郡山実行委員会の「反省会」兼「ご苦労さん会」があった。明けて宿のテレビをつけたら、どのチャンネルも舛添都知事引きずり下ろしの大合唱でうんざりした。新聞に目を移すと、消費税の延期決定の記事だらけで、もっとうんざりした。

 このやり場のない嫌な気分はどこから来る?

新訳聖書 にはこんなエピソードが記されている。

人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8章3節以下)

注:モーゼの律法による石殺しの刑とは、死刑の判決を受けた者を群衆が遠巻きに囲み、その者にに向かって皆が力いっぱい大小の石を投げつけ、死ぬまで投げ続けるという残酷な刑のこと。キリスト教の最初の殉教者ステファノはこの方法で殺された。

舛添さんは「姦通の現場で捉えられた女」か ?

毎日、毎日、テレビに出演して舛添おろしを煽るキャスター、街角でインタビューに応えてその火に油を注ぐ「したり顔」の市民たちに対して、イエスの答えは痛烈だ。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、舛添さんに石を投げなさい。」

しかし、聖書のエピソードは良心の欠けらをどこかに置き忘れてきた現代日本人には当てはまらない。そのイエスの声を聞いても、現代のマスコミは、また、それに踊らされて叫ぶ愚かな庶民たちは、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ろう」とする気配は全くないように見受けられる。狂ったように、憑かれたように、非難の石つぶてを投げ続け、ターゲットの政治生命を断つまで、まるで坂道を行くブレーキの壊れた欠陥自動車のように抑制がきかない。

法で裁けるほどの罪のない人を無理やり葬り去るる手段となったマスコミのヒステリー。中世の「魔女狩り」が思い出されて、おぞましさに身の毛がよだつ。道理が引っ込み、集団ヒステリーが勝ちを占める。背後でそれを操っているのは誰か。胸に手を当てて冷静に考えるならば、「あの立場にあっての舛添さんは、私やあなたほどにも悪くはない」、と言って彼を擁護する声は新聞にも、週刊誌にも、テレビにも全く現れないのは何故か。

さんざん国会で審議し、必用性が論証され、決議され、公約もされた「消費税増税」が、自分の延命を図る首相の鶴の一声で無責任にも簡単にひっくり返される。側近もそれを阻止できない。民主主義はどこへ行ってしまったのか。新しい専制独裁者の出現でなくてなんだろう。彼に導かれて平和憲法はやすやすと空洞化され、自衛隊員が海外で民間人を殺戮し、みずからも戦死することに道が開かれたのはつい先日のこではなかったか。 

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★ 強烈な反響 -「聖母のメッセージ」のブログに対して(オリジナル)

2012-03-24 11:10:39 | ★ 聖書のたとえ話

「全ての民の聖母」 オランダ、アムステルダム 

 

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★  強烈な反響 -「聖母のメッセージ」のブログに対して

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前回の「聖母のメッセージ」のブログには、早速いくつかのコメントがツイッターやメールなどで寄せられました。次のコメントなんかはかなり強烈ですね!:

 

       まあ、木像が涙流しても、歌うたってもいいけどさ、

       神さんが人間に復讐してどうなるんじゃい!

       お前の創ったもんじゃろうが、

       創った者が責任とれ!ちゅうんじゃ (J.K.)

 

上のは、いつも辛口のコメントをくれるお友達で、今回も 「あ、痛タタ!またやられた~」 と言う感じですが、いつもその後ろには理解と愛情がこもっています・・・。

しかし、次のは本当に重いですね:

 

       谷口神父さま

       湯沢台の聖母についての記事を興味深く読ませていただきました。

       以前湯沢台には2度ほど子供たちとお邪魔したことがあります。

       聖体奉仕会の修道院がもつ祈りの雰囲気は大変に気に入っているのですが、どうしてもわからないのがSr笹川へのメッセージの内容です。

       主イエス・キリストの犠牲と復活によって私たちは救いを得ました。その救いは人類全てに及ぶものであり、例外はないと思います。

       その人類・人間を、父なる神が再度罰するということがあり得るのでしょうか?

       もしあるとしたら、それは神学的な矛盾になるような気がいたします。(M.T.)

 

先ず料理しやすそうなJ.K.さんのコメントから検討します。


秋田の聖母の涙

 

「まあ、木像が涙流しても、歌うたってもいいけどさ」

 

と、彼はあっさりいうけれど、これだって大変ですよね。科学的に説明不可能な、自然には絶対起こり得ないはずのことが実際に起きたとしたら-本当に自然の法則に反することだと言わざるを得ないことが確認されたら-それは一大事ですよ!

法律に例外を設けたり、「超法規的」 決定を下したりできるのは、その法律の立法者だけです。かつて、よど号ハイジャック事件と言うのがありました。JALがまだ旅客機を数機しか保有しておらず、一機一機に愛称がついていた頃の話です。日本の国の法律は国交のない北朝鮮に向けて離陸する許可を与える権限を認めていなかった。しかし時の福田総理は、「人命は地球より重い」 と言って人質の安全を考慮し、立法府の最高責任者の権限で、乗っ取り犯「赤軍派」ゲリラの要求を容れ、「超法規的措置」 として獄中の赤軍派幹部を釈放し、飛行機には乗っ取り犯の亡命先への離陸許可を与えた。


神の定めた物理法則で動く衝突銀河 Arp273


では、自然の法則の立法者は誰か。それは天地万物を無から創造し、自然法則の秩序の中に今も一瞬一瞬それを保ち続けている神ではないか。神が自然法則を一時停止したり、例外を設けることを望んだ結果として生じた事象を、人は「奇跡」と呼ぶ。奇跡があれば、人はそこに神の存在とその意志の介入を見る。神を信じない人、神の存在を認めたくない人は、当然奇跡を目の前にしてあらゆる弁を弄して人間の知恵でその事象を説明し切ろうとしてあがく。無駄な抵抗だ。しかし、謙遜な純朴な魂は素直に認めて神の前に跪く。

何が奇跡なものか、自分がそのペテンを暴いてやろうと自信満々でルルドに乗り込んだ筋金入りの無神論者、血管縫合と臓器移植でノーベル賞に輝くアレクシス・カレル博士が、そこで正真正銘の奇跡に出会い、無神論を捨てて神を信じた話は有名だ。中途半端に頭が良くて、偏見に満ちた傲慢な魂が一番手に負えない。

J.K.君はクリスチャンではないが、あっさりと神を認め、自然も人間も神が創ったことをも認めてくれているから話は早い。神が木の像に涙を流させることも、聾者の耳を突然開くことも、芳しい香りをばらまくことも、望めばなんでもできることを認めてくれるだろう。

その神が自分の被造物である人間に(不用意にもと言うべきか)神の内面的生命の秘密である 「理性と自由意思」 までも与えてしまった。これは「心を尽くしてあなたの神を愛しなさい」また「隣人を自分のように愛しなさい」と言う神の掟を守り実行する上で必要な能力ではあったが、それはまた、悪を行い罪を犯すことの出来る能力でもあるという点で、プロメテウスの火(注1)のように危険なものでもあった。

人間はこのプロメテウスの火を手に入れた上に、ご丁寧にもパンドーラの箱のふたまで開けてしまった(注2)。キリスト教的に言えば、アダムとエヴァの失楽園の物語に相当する。そして、危険な火遊びに夢中になり、欲望の赴くままに人を殺し、奪い、富を蓄え、弱い人・貧しい人をしいたげ、飽食と快楽に耽り、神を冒涜した。犠牲者たちの救済を求める苦しみの叫びは神の耳にまで届き、神の怒りは頂点に達した・・・と言うストーリーが描けるのだが、その天罰 (J.K.君の表現を借りれば 「復讐」 ) がマグニチュード9の地震であり、津波であり、原発のばらまいた放射能であるとすれば、その犠牲者の大部分が「無垢な善良な小さな魂たち」であったことを神はどう弁明するのか。巨悪の元凶の大悪人共はちゃっかり難を免れ、安全なところでご馳走を食べていて反省の色すらないのに、神はそれをよしとするのか。神の罰は彼らには及ばないか。そんなことって・・・。



箱を手にしたパンドーラ

この不条理を見ていると、

 

       神さんが人間に復讐してどうなるんじゃい!

       お前の創ったもんじゃろうが、

       創った者が責任とれ!ちゅうんじゃ

 

というJ.K.君の吐き捨てるようなセリフにはド迫力と説得力がある。私はそれをとか復讐と言うよりも、回心への招き、より恐ろしい決定的滅びを回避するための厳しい警告、神への回帰への呼びかけと取りたいのだが・・・

さて、ここで一気に私の反論、「神の弁護」に移らせていただきたいのでありますが、実は、過去に書いて、すぐに封印して現在は眠っている-いささか野心的な-ブログがあります。それがJ.K.君とM.T.さんの疑問に対するピッタリの答えだと思うので、エイヤッと思い切って開封しようかと思います。

そもそも封印した理由は、納得して書いたはいいが、すぐにカトリックの異端説として糾弾され、ひどい目に遇うかもしれないぞ、という心配と恐れがあったからです。いまでもその不安はぬぐいきれません。(だからおかしいとこがあったらどうかご指摘を。すぐに撤回して謝る用意あり。あくまで仮説ですから。自説に固執する気はさらさらありませんから。)

問題の幻のブログの題名は「ともに罪を犯してくださる神」です。いささか挑発的であることは承知しています。

こんな当たり前の話、どうして今まで語られてこなかったのか。それが単なる私の浅学菲才の無知から来るもので、先刻世の常識になっているのを私が知らなかっただけだったら「恥ずかしい!」と言って穴に入れば済む話ですが、過去に議論され、神学的に欠陥がある異端説としてとっくに退けられ葬られたものであったとしたら、今頃知らずに蒸し返すのはいささか「やばい」ぞ、と言う思いが強くしています。

しかし、ディスプレイの隅に目をやると、もう12ポイントでA4三枚分になっています。ここへ古いブログを貼り付けて続けたら、一回分としては長くなりすぎます。それで、気を持たせるようで恐縮ですが、もう一度念のために内容を点検して数日中にアップしたいと思うので、ちょっとお待ちください。乞うご期待!


~~~~~~~~~~~~~~

 

(注1) 「プロメテウスの火」 ギリシア神話においてプロメテウスが人類にもたらした火。強大でリスクの大きい科学技術の暗喩として用いられる。

プロメテウスは天界の火を盗んで人類にもたらした存在として知られる。ギリシア神話において、人間はプロメテウスから火を与えられて幸福になったかというと、あながちそうとは言えず、高度な文明と共に争いや苦難も持つようになったという。(上の話では、神が人間に理性と自由意思を与えたことに対応する。)

原子力は、しばしば「プロメテウスの火」に喩えられる。チェルノブイリや福島第一原発などで発生した原発事故のように、人間の力では制御できない高いリスクを持ち、制御しとおせたとしても、オンカロのように人間の尺度を越えた膨大な時間の管理が必要となる。そのような技術でありながら、発電という側面においては半ば欠かすことができない技術となっているからである。(「新語時事用語辞典」より)

 

(注2) 「パンドーラの箱」 プロメーテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために「女性」というものを作るよう神々に命令したという。ヘーシオドス『仕事と日』によればヘーパイストスは泥から彼女の形をつくり、神々はあらゆる贈り物 (=パンドーラー) を与えた。アテーナーからは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテーからは男を苦悩させる魅力を、ヘルメースからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられた。そして、神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めて箱(壺ともいわれる 詳細は後述)を持たせ、エピメーテウスの元へ送り込んだ。ヘーシオドスは『神統記』においてもパンドーラーについて触れ、神々からつかわされた女というものがいかに男たちの災いとなっているか熱弁している。

美しいパンドーラーを見たエピメーテウスは、兄であるプロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚した。そして、ある日パンドーラーは好奇心に負けて箱を開いてしまう。すると、そこから様々な災い (エリスやニュクスの子供たち、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど) が飛び出した。しかし、「ελπις」(エルピス)のみは縁の下に残って出て行かず、パンドーラーはその箱を閉めてしまった。こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになった。ヘーシオドスは、「かくてゼウスの御心からは逃れがたし」という難解な言葉をもってこの話を締めくくる。(Wikipedia より)(アダムとエヴァの失楽園物語に対応する。)

(つづく)

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★ 10 / 7 (みぞべ)

2011-09-28 00:06:55 | ★ 聖書のたとえ話

10月7日受信

久し振りに15会のHPに投稿します。

リーマンブラザーズなどの外資系投資銀行で野良犬のような生活をしていた私の首に首輪をつけ、
カトリックの司祭に叙階してくださった恩人の深堀聡元高松司教様が
去る9月24日(木)午後3時27分、熊本のホスピスで、腎臓癌のため眠るように逝かれました。
85歳の誕生日直前でした。

亡くなる一週間前に一度危篤になられ、それで東京から急遽熊本へ飛んだのですが、
私が着いた日に持ち直され、意識も回復して、
それから1週間、親しく毎日お側に看護し、最後の交わりの時を持つことが許されました。恵みの時でした。

深堀司教様は、未だキリスト教の信仰に出会っていない1億2700万人の日本人の魂に福音を宣べ伝えるために、
1990年に高松に「レデンプトーリス・マーテル」国際宣教 神学院 を設立し、若い宣教師達を養成してきました。
私は彼の右腕として、その建設と発展のために一心に働きました。
その結果、香川県東かがわ市に 神学院 の建物が完成し、30人の若い宣教師司祭たちが誕生し、
いま福音宣教に邁進しています。

彼は、5年前に引退した後は、高松教区に留まり、牧した信徒や彼が叙階した司祭たちに囲まれて、幸せな老後を送れるはずでした。

しかし、彼は引退したあと四国を追われ、福岡、熊本を転々とし、ぼろ雑巾のように働き、
病を得てからは淋しく病院に、ホスピスに横たわることになりました。
信徒から世俗の裁判所に告訴され、不名誉と汚名を着せられても一切口を開かず、弁明せず、全てを神様にささげました。

死後になってやっと自分の教区四国に帰ることが赦されました。
私は熊本から8時間の道のりを、その遺体に付き添って霊柩車で高松入りしました。
長いドライブの終わりごろ、瀬戸大橋をわたり終えたところで、棺の蓋をたたいて、「深堀司教様、四国に入りましたよ」と告げました。感無量でした。謙遜にロバに乗ってエルサレムの城門をくぐられたイエスのように、
ダークブルーノ何の変哲もないワゴン車に積まれて無言で帰還しました。

無事葬儀を終え、火葬に付し、全てを見届けて、私は野尻湖の山荘に退きました。
葬儀ミサはカテドラルと呼ぶにはいささか小さい桜町教会に溢れる参列者の見守る中で執り行われた。
参列者の半分以上が、新求道共同体にゆかりの人たちでした。
教皇大使のほか、県外は勿論、遠くグアムやローマからもわざわざこの日のためにやってきた司祭たちもいました。

間もなく、私も四国を追われ、そして日本を追われて、再びローマにおける避難・亡命の生活に戻ります。

谷口幸紀拝




ここに一枚のちょっと不思議な写真を紹介します。
これは合成写真でも、いわゆる心霊写真の類でもありません。
ほんの短い時間でしたが、何人かの人が実際にこの光景に気付いていました。
まるで、深堀司教の聖なる魂が手前左の棺から光に包まれて真直ぐ天に上っていくように見えませんか。
そこから放たれる虹色の光、その光に中にかすかに見える彼の担った十字架。
棺の中には、預言者のように日本の福音宣教のために必要と考えて国際宣教 神学院 を開いた人の骸が、

そしてその向こうに佇んで首をうな垂れているのは、
そんな物は不必要として、 神学院 を閉鎖・廃校に追い込むために精力的に働き、
関係者とそこを出た宣教司祭たちを排除した、その人。


 故深堀敏下高松司教の死が意味することについて、別途 その-(2)を書きたいと思っています。

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★ 新春の喜び

2011-09-24 00:27:48 | ★ 聖書のたとえ話

 

 


      
ちょっと出遅れて
初春のお喜びを申し上げます。

神様のお望みか、運命の悪戯か、気が付いたら70年の人生のうち通算10年近くをローマで過ごしていました。
今年の冬は、普段の年より雨が多いような気がします。
何も肩に力の入らないローマの年の暮のスケッチをお届けしようと思います。

 

12月27日はイエスとマリアとヨゼフの聖家族の祝い日で、たまたま日曜日でした。バチカンの聖ペトロ大聖堂の足を運び、10時半のミサに与かりました。主たる部分はグレゴリアン聖歌で歌われるラテン語中心のミサでした。


11時半過ぎに聖ペトロ広場に出ると、大勢の人が教皇ベネディクト16世のアンジェルス(日曜の正午に教皇の居室の窓から広場の群衆に祈りと挨拶と祝福を送る)を待っていました。今年は、新求道共同体の創始者キコ氏の呼びかけで、この日スペインのマドリッドで「家族」の集いがあって、このアンジェルスがその集いとリンクされるという話でした。後で聞いた話では、キコ氏の呼びかけに答えて、ヨーロッパを中心に100万人がマドリッドの街を埋め尽くしたとのことでした。

窓から挨拶を送る教皇も、その集いを意識して話していたようでした。

 

         
昼下がりのナボーナ広場に足を向けると、そこは子供連れなどでいっぱいでした。

さっき聖ペトロ広場で別れたばかりの共同体の家族とまたばったり会って笑ってしまいました。

 

 ナボーナ広場にはいろいろなイベントがいっぱい。大道芸人が居る。似顔絵かきがいる。それを見つめる子供たちが・・・・

   

 パリのモンマルトルの丘のように、この広場にも似顔絵かきがいっぱい~。

 

  
町を歩いていると、今まで何度も通ったあたりに小さなアートミュージアムがあるのに初めて気がついた。運よく開いていた。中には誰もいなかった。いろんな顔の古代彫刻が沢山並んでいた。

 

              
子供たちと言えば、サーカス。サーカスには何か独特の哀愁が漂っている。ルオーもピエロを描いているが、その笑っている顔に涙の筋が読み取れるようなきがする。このサーカスでも貧しい中国の少年たちと思われる集団演技が光を放っていた。 

 

      
12月31日サンシルベストロの祝い日は大晦日の代名詞。レンズ豆にソーセージを煮込んだスープは、これを食べると来年はレンズ豆のように沢山お金が儲かるとの迷信。カトリック信者もおおらかにそれを食べて喜んでいる。民間信仰とはそんなものかと思った。

その夜、私は郊外に借りたホールで、自分の共同体のために夜9時過ぎからミサをした。ミサは元旦の「神の母聖マリア」のミサ。ミサ後あらかじめ用意して持ち込んだ料理でパーティーとなる。お金と行き場のある兄弟たちはここにはいない。若くて子沢山でお金のないのが、ここで一緒に年越しをする。40人ほどのうち半分が子供たち。
キリストは第二のアダム。マリア様は第二のエヴァ。第一のアダムとエヴァは神様に背いて楽園を追い出され、死ぬ運命を人類に招き寄せた。第二のアダムとエヴァであるキリストとマリアは、十字架の死に至るまで神のみ旨に背かなかったので、死は力を失い復活の命が人類に再び与えられた・・・・。

子供たちは僕のお説教など聞いてはいない。ミサの後の御馳走と、花火と爆竹と、午前0時のカウントダウンと、シャンペンの乾杯と、抱擁とキスの嵐を待っている。外は冷たい雨だったが、遠く、近く打ち上げ花火と爆竹の轟音で市街戦のような騒ぎになった。

 

前後の見境もなく、支離滅裂な写真の羅列を、どうぞお許しあれ。

 

   クリスマス休暇に入る前日、神学校では台所や掃除のスタッフに感謝する小さな集まりがあった。馬小屋の前で神学生たちが何曲も陽気に歌った。

そのあと、平山司教様のお部屋ではグラッパとリキュールと差し入れのドルチェで、しばらくホームステーに散る「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」の神学生たちが水入らずで歓談をした。(右端が平山司教、左の白い髭はスワレス元院長)。

ローマに亡命中でも、「元高松」の神学校は意気軒昂だというところを、どうしてもちょっと加えたかったのです。

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★ ブログ

2011-09-21 00:37:09 | ★ 聖書のたとえ話

谷口神父です

皆さま、大変ご無沙汰いたしました。
音無しの構えでしたが、まだ生きています。ご安心ください。

11月の頭から、またローマの「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」の仕事をしています。
ここしばらくは、大事な動きが続き、忙しくしていました。しかし、それもどうやら目処が立ちそうです。

さて、今まで私の母校「六甲学院」15期のHPに間借りして、細々と発信していましたが、
そろそろまたブログを始めようとしてます。既に3-4編アップしました。

http://blog.goo.ne.jp/john-1939 〔続〕ウサギの日記で入れます。 お気に入りに加えてください。

と言っても、当面、大部分は過去に一度公表したものか、上記HPに既に限られた範囲に公開したもので、
皆さんには新味がないかもしれません。
しかし、今後その中に全く新しいものもチョロチョロと混じるはずです。その時は、またこのような形でお報せしましょう。
他方では、「ツイッター」と言うものを組み合わせてブログ更新の案内に利用できないか検討中です。

まずはお知らせまで。
寒さに向かいます。皆様どうかご自愛ください。
なお、クリスマス休暇には日本に帰れることになりました。
お目にかかれれば幸いです。

ローマにて、
谷口幸紀拝

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★ 神父の願い

2011-09-18 00:22:31 | ★ 聖書のたとえ話

 

毎日新聞 09/12/11

 


毎日新聞 09/12/11

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★ 教皇への手紙

2011-09-15 00:30:39 | ★ 聖書のたとえ話

谷口神父メール 10/01/26


ローマ教皇に届いた手紙


日本語で「突然このような文書でお願いを差し上げる非礼をお許しください・・・・」という書き出しで始まる1ページ半の請願書が、203人の賛同者の署名とともに発送されたのは、昨年のクリスマス前夜あたりのことだったと推測されます。宛先は、

バチカン市国
ローマ教皇
ベネディクト16世聖下

となっていました。

 差出人は、東かがわ市の元市長と有志達で、閉鎖になった高松の国際宣教神学院「レデンプトーリスマーテル」の土地と建物が第三者に売却されるらしいという噂に対して立ち上がったものでした。

 ローマにいる私たちのもとにその事実が原文の写しとともに知らされたのは、クリスマス休暇明けの今年1月6日過ぎでした。それには、神学院設立当時から地元の人たちに良く知られていた当時の福音宣教省長官のトムコ枢機卿と、信徒省の副長官だったコルデス枢機卿(当時は大司教)に写しを届けてほしいという依頼が添えられていました。

 トムコ枢機卿は、神学校の建物の定礎式のためにわざわざローマから四国まで来られた、いわば神学院の生みの親のような方でしたが、それを受け取った時、近々教皇に会うと明言されました。

 そして今日(25日)、同枢機卿から電話があり、先週の土曜日(1月23日)教皇に会って親しく日本の神学校のことについて話し合った。目下いろいろ検討中で詳しいことは言えないが・・・・、という極めて含みのある話でした。

 アメリカの大統領に宛てて小学生が書いた手紙に大統領から返事が届いた、というような美談がありますが、それは、その種の手紙にきめ細かく対応するためにあるスタッフ集団が書いたもので、いちいち大統領が読んでいるはずはありません。世界にざっと10億と言われるカトリック信徒から、教皇に宛てられて届く手紙の数も半端ではないかもしれませんが、それらはほとんど教皇の知らないところで処理されているだろうと思われます。現に、後で東かがわ市から聞いたところでは、バチカン大使館を経由して送った請願文は確かにローマまで届いたとしても、それは恐らく秘書局止まりで、教皇自身にまで届いたとは思われません。まさに地元の人々の熱意が生んだ奇跡のようなものでしょう。


 



 ここに、その請願書の全文を披露いたしましょう。

~~~~~~~~~~

バチカン市国
ローマ教皇
ベネデイクト16世聖下
                          2009年12月25日

 突然のこのような文書でのお願いを差し上げる非礼をお許し下さい。

下に署名した私どもは日本の東かがわ市と香川県の住民であり、同市の国際宣教神学院「レデンプトーリス・マーテル」の創設と発展に大きな期待を寄せ、その発足以前から過去20年以上に亘り、いささかの貢献をなしてきた有志一同であります。

 私たちは神学院関係者の熱意とその最大の理解者であり協力者であった故長町光男氏らの絶大な努力に共鳴し、この神学院がローマと結ばれた東西文明の架け橋となり、国境を越えた若者たちの交流や人的な絆の深まりが遠い将来に向けての相互の精神文化に大いなる実りをもたらすものと信じ、その永続的な発展に夢を託したものであります。

 ところが、昨年10月には神学生が静かに姿を消し、今年11月には残っていた少数のスタッフも建物から退去しいなくなりました。噂によれば、近い将来その土地と建物は第三者に売り渡されるのではないかと言われています。私たちに対して何の正式な説明もないままこのような事態が進行しつつあることに、私たちは大きな失望と憂慮を禁じ得ず、緊急に直接お手紙を差し上げる次第です。

 私たちが永年に亘りこの神学校の成立と発展に期待し物心両面で協力を惜しまなかったのは、この地方の長い歴史に育まれ根付いている仏教とカトリック教会に代表されるキリスト教という世界の二つの偉大な宗教が、この神学院を介して出会い、その対話を通して世界の平和と精神文化の発展に貢献することを期待したからであります。

 にもかかわらず、私たちに対して何の説明も無いまま一方的に閉鎖され、第三者に売却処分されるようなことになれば、それは地元の私たちに対する重大な背信行為であり、カトリック教会の日本社会におけるイメージを大きく傷つけ、日本における教会の将来に対して修復し難い損失をもたらすことになるのではと危惧するものであります。

 私たちはこの土地と建物が、大勢の善意の人たちの浄財と努力によって出来上がったものであることを知っています。そのような貴重な施設が僅かな価格で、一私企業の利益に奉仕するために払下げられることに私たちは到底同意することはできません。

 とらまる公園から遠望される神学校の佇まいは、既に地元の一つのシンボルとなっています。神学校の入り口には、故長町光男氏の石像が教皇ヨハネ・パウロ二世の賞状と共に佇んでいます。神学院の玄関脇には、1994年に当時の福音宣教省長官のトムコ枢機卿が来日して自ら定礎式を司式した記念の石標が据えられています。神学校の奥庭にはイタリア大理石の聖母像が佇んでいて、早朝地元の敬虔な老婦人たちが崇敬に訪れています。海に向かって聳える大十字架は、夜間照明され高速道路を走る車の道標ともなっています。

地元有志がローマのレデンプトーリス・マーテル神学院を訪れた際にその庭に落ちていた地中海松の実を密かに持ち帰ったその実は芽を出し、今では3メートル余りに育って神学院を守っています。2004年には私たちの有志が、日本の桜の苗木30本を携えてローマを訪れてバチカン庭園に植樹し、時の教皇ヨハネ・パウロ二世に寄贈いたしました。

これらのささやかなひとつひとつが、神学院関係者や地元の人たちの熱い思いと交流、歩みの具体的な形になったものであり貴重な財産でもあります。この土地と建物そして国際宣教神学院「レデンプトーリス・マーテル」が、私たちの期待通りに末永く地元の文化的資産として残り、所期の目的に沿った役割を果たしていくことを強く期待しています。

聖下がこの小さな問題に目を留められ、直接関与することによって将来に禍根を残すことの無いように善処されますよう切にお願い申し上げます。

(署名者)

    藤井秀城    東かがわ市長
    上村 求    東かがわ市副市長
    黒田俊英    前東かがわ市国際交流協会会長、東かがわ市商工会長
    田中勝弘    東かがわ市国際交流協会会長、東かがわ市教育委員長
    矢野昭男    東かがわ市議会議長
    中條弘矩    前東かがわ市長
    長町廣幸    故長町光男氏長男、東かがわ市生涯学習課長 

(この後に賛同者の署名、計203名分が続く)

 
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