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教皇暗殺事件-3
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わたしは前回このテーマで書いた時、次のように結びました。
ではこれで一件落着でしょうか?
① 仮に、わたしの好奇心をいたく刺激したこの写真が、偽物、贋作であるとしても、ではあの写真の不思議な(ある意味で怪しい)魅力は一体どこから来るのでしょうか。まずこの点に対して答えを出さなければなりません。
② 次に、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの狙撃事件を機に封印が解かれ、発表に踏み切られた「ファティマの第三の予言」が、既に成就し、本当に過去のものとなってしまったのかどうかにつても、答えなければなりません。
わたしは ① と ② の二つの疑問に挑戦する前に、まずあの日、つまり1981年5月13日に本当は何が起こったのか、どう展開したのかを、伝聞でもなく、断片的報道を総合した推察でもなく、ぜひとも事件の第一資料から検証したいと思いました。そこで、バチカンの傍の一番大きい本屋さんに行って、資料を探し始めた。書店に備え付けの端末にかじりついて、色んな角度から検索しましたが、教皇狙撃事件それ自体を直接取り扱った独立した資料にはついに辿りつくことができませんでした。ちょっと不思議な気がしたし、また腑に落ちませんでした。そこで、いろいろ観点を変えて、探りを入れて行く中で、「あっ!これだ!」と思わず叫んでしまうような材料に辿りつきました。冷静に考えれば、それは当然あるべき場所にあったと言えるでしょう。
「カルロと共に生きた生涯」(スタニスラオ・ジヴィツ著) 19章 「あの2発の弾丸」(P.117~122)
スタニスラオ・ジヴィツと言えば、教皇と同じポーランド人で、教皇の秘書として、教皇の在位中最も密接に彼に寄り添ってきた人です。狙撃事件の時ももちろん同じジープに乗っていたし、手術にもその後の回復期にも誰よりも近く長く彼とともに居ました。あの忘れようとしても忘れ得ぬ出来事について何も書き遺していないはずはなかったのです。
初め、私はこの教皇暗殺のテーマをこの回でまとめ上げようと考えていました。しかし、その準備として問題の記事を読み進むうち、気が変わりました。1億2700万の日本人の中で、私がようやく探し当てたこの本に出くわす人は皆無に等しいでしょう。仮にたまたま出くわしたとしても、それを読みこなせる人はさらに少ないことでしょう。そうならば、この事件に関する貴重な第一資料を、まず皆さんに生で接して頂いて、それから結論に向かっても、決して無益な試みではないと思うに至ったのです。
それで、原文で6ページの章を2回に分けて、原文に沿ってご紹介いたしましょう。
スタニスラオ枢機卿の著書 「カルロとの生涯」
《2発の銃声》
あの日の事を思い起こすたびに、私は何時も同じ思いに浸る。一瞬一瞬が、最初から生々しくよみがえる。今だに、どうしてあのようなことが起こり得たのか信じることができない。教皇を殺そうとなどと、それもあの教皇、ヨハネ・パウロ2世を、あのキリスト教の中心的な場所において・・・
あの日、ジープは聖ペトロ広場の二周目を終わろうとしていた。青銅の門に終わる右側の柱列のところだった。教皇は彼に向って差し出された金髪の赤ん坊に向かって車から身を乗り出していた。その子の名前はサラと言った。やっと二歳になったばかりだった。彼女は色風船の糸をしっかりと握っていた。彼はその子を両腕に抱き取り、みんなに見せるかのように空中に持ち上げ、その子にキスをして、微笑みながら両親に返そうとしていた。
あとから再確認したところによれば、それは17時19分、素晴らしい天気に恵まれた水曜日の午後、屋外の一般謁見のあいだの出来事だった。そして、日付は1981年5月13日だった。
私は母親と父親の手が、このバラ色のぽっちゃりした子を受け取ろうと差し伸べられている光景に魅了されていた。
一発目の銃声が聞こえた。それと同時に、数百羽のハトが突然舞い上がり、驚いたように飛び去っていった。
そして、すぐその後で二発目の銃声が響いた。その時、教皇が私に向かって横向きにへなへなと倒れこんでくるのを感じた。
私はと言えば、-それは後で写真やテレビの映像で見て知ったことだが-本能的に銃弾が発射された場所に目をやっていた。そこには大混乱があった。色の浅黒い青年が身をくねらせていた。後で分かったところによれば、それがトルコ人の犯人、メハメット・アリ・アグサだった。
今にして思えば、あの場所からあの大混乱に目をやったのは、起こった恐ろしい出来事に対する、見たくない、受け止めたくないという私の思いの産物だったのではないだろうか。しかし、私の両腕はその現実をしっかりと「感じて」いた。
私は彼を、教皇を支えようと努めた。しかし、彼はまるでなるがままに任せようとしているようだった。優しく。彼は痛みに顔をゆがめていた。にもかかわらず安らかだった。私は尋ねた「どのあたり?」「腹をやられた」と彼は答えた。「痛みますか?」「痛む」と答えた。一発目の弾はかれの腹部を台無しにした。結腸に穴を開け、小腸の複数個所をずたずたに引き裂き、貫通してジープの床に転がった。二発目の弾丸は、右肘を傷つけ、左手の人差し指を骨折させ、二人のアメリカ人観光客を傷つけた。
誰かが「救急車に向かえ」と叫んだ。しかし、救急車は広場の反対側にあった。ジープは全速力で鐘楼の門を通り、フォンダメンタ通りを通って、大聖堂の内陣の外側を迂回して、バチカンの救急隊の待機する場所に向かった。そこには連絡を受けた教皇の侍医のレナート・ブッッオネッティ博士がすでに待機していた。
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