:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 《一部補足》 そこまで言ってしまって大丈夫なの? フランシスコ様!

2015-07-30 19:01:48 | ★ 新求道共同体

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

《一部補足》

そこまで言ってしまって大丈夫なの?

フランシスコ様!

教皇の不謬権とは関係ないとしても・・・

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

日本のカトリックメディアでは絶対に報道されない記事であるが、外の世界では公然と流布されている実に興味深い情報を入手したのでお披露目しよう。

《ドミニカ共和国の旅人責任者チームの手紙から》 

 6月23日の晩、ここで旅人の集いをしている最中に、突然、サント・ドミンゴ大司教区の名誉司教であるラモン・デラロサ・カルビオ司教の訪問がありました。彼はわざわざ大雨の中、サンチャゴ市から来られ、こう語られました。

 「少し前(2015年5月28日)、わたしたちドミニカ共和国の司教たちは、アド・リミナ(教皇への5年毎の表敬訪問)を行いました。

 従来は各司教と15分ずつお会いになり、最後に司教団全体に短いメッセージを与えられる習慣でしたが、今回は、形式を変えて、司教たち皆と一緒にお会いになり、1時間以上、父親のように親しく私たちと語り合われました。

 私が今、この集いに来たのは、その謁見で語られたとても大切なことを詳しく皆さんに伝えたいと思ったからです。

 ファウスト司教が、ドミニカ共和国には全教区のための大神学校が一つあることと、その他に二つの教区にレデンプトーリスマーテル神学院があることを話したのを受けて、教皇様は「新求道共同期間の道」に焦点を絞って話されました。

その話がとても重要に思えたので、私はノートを取り出し、教皇様が話されることをメモしました。その内容は以下の7つのポイントにまとめられます。

 

1.         キコ・アルグエヨについてはいろんな事が言えますが、疑えないのは彼

     が聖人であるということです。

2.         新求道共同期間の「道」は、教会における聖霊のみわざです。

3.         ですから、このキリスト教入信の「道」を支え、励まし、見守るように

     あなた方に勧めます。 

4.         私は共同体の宣教の精神をとても評価しています。今年、私は教会の存

     在しない、または教会の存在が危うくなっている国に100組以上の宣教

     家族を派遣したところです。

5.         レデンプトーリスマーテル神学院について次のことを言います。この神

     学院なしにローマ教区はどうなることでしょう。ローマ教区の為に私は

     16人の司祭を叙階したばかりですが、その中の13人は新求道期間の

     「道」に属する人たちでした。あなたがたはこの結果から考えてみてく

     ださい。

6.         新求道期間の「道」は教会にキリスト教生活の中心となる復活徹夜祭を

     復興させました。(「これは私も証します。私自身1994年から共同体と

     一晩かけてその徹夜祭を祝ってきました。」ラモン・デラロサ・カルピオ

     司教)

7.         新求道期間の「道」はキリスト教入信について一番良く知っています。

     ですから、彼らと話し合い、もし必要ならカテキスタや共同体を正して

     下さい・・・(正すことは愛することですから)。ただし、あくまでその

     「規約」を尊重しながらにしてください。

 

 デラロサ司教はこの話を終えてから、わたしたちを祝福し、大雨の降り続く中、サンチャゴ市に帰って行かれました。同司教は、教皇様がわたしたちに対して持っておられる大きな愛を自分の声で私たちにただ伝えたくて、300キロの道のりを来て下さったのです。

 神様が彼を祝福し、私たちに善をもたらしたその言葉の為に報いてくださいますように。

 サント・ドミンゴから愛を込めて挨拶を送ります。

アロンソ神父

 

皆様は、このアロンソ神父のレポートから何を感じられましたか。

わたしはまず、上の第1点に度肝を抜かれました。聖教皇ヨハネパウロ2世は生前から聖人の誉れが高かった。私も身近にその人柄に接してその点に疑いを抱かなかった。マザーテレサについても同じことを感じた。この二人について世界中に異存のある人がいただろうか。

しかし、今生きているキコ、わたしと同い年のキコ、ある意味で日々きわめて近いところで親しく接しているキコが聖人か?彼の性格、限界、欠点も見てきた私は、個人的確信としては、彼はやはり聖人だろうと思うが、世の中にはそうは思わない人も決して少なくないだろう。特に、彼が提唱し、今世界に日の出の勢いで広がりつつある新求道期間の「道」を受け入れ難いと思っている少なくない数の人々にとって、キコを聖人と呼ぶことは強い抵抗があるし、世間が彼を聖人として持ち上げることを苦々しく思っているに違いない。さりとて、市井の一個人がそう思ってそう言って歩くのは勝手だし、誰もそれを止めさせることはできない。

しかし、カトリック教会の頂点に立つ教皇フランシスコその人がそう公言したとなると、話は全く違ってくる。教皇の口から出る言葉には計り知れない重みがあり、また責任もあるというものだ。

一人の信者が聖人の位に挙げられるためには、死後何十年もたって、教会の機関がその人物の生涯の言葉、行い、人となりの全てにわたって、恐ろしく厳密な調査と吟味を経なければならない。キコが今後どんな生き様、どんな人生の終わり方をするか、まだ全く未知数のうちに、こともあろうに教皇が彼を公然と聖人呼ばわりするのは穏やかではない。

1870年の第1バチカン公会議において、教皇の不可謬性が教義として正式に宣言された。それは、ローマ教皇が「信仰および道徳に関する事柄について教皇座から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づき、常に正しく、決して誤りえない」という教義のことだ。

このブログを読み返しながら思い出したエピソードがある。それは、教皇フランシスコがキコに初めて与えた謁見の場面のできごとだ。キコは自己紹介として言った。「私は罪人です」と。すると教皇が答えた。「私も罪人だ。二人して罪人だね。」これが、初対面の聖人たちの会話というものだろうか。

教皇フンシスコがある国の司教たちの集まりで、まだ生きているキコを聖人だと言ったからといって、直ちに間違いなくキコが聖人と決まったわけではないし、まして、その発言が不可謬だというものではないが、実にきわどい発言だとハラハラする。これが逆効果を生んで、新求道期間の道やキコに対する風当たりが今まで以上に強くならなければ良いが、と思う。

2.の《「道」は教会における聖霊のわざだ》というのは歴代の教皇が繰り返し述べていることで、第3点とともに今さらどうということはない。4.の宣教家族の派遣は、聖教皇ヨハネパウロ2世が先鞭をつけたものだが、ベネディクト16世に引き継がれ、フランシスコ教皇の代に至って、もはや「道」の問題ではなく、全教会の公式行事として定着した感がある。5.の神学校の問題は、今や世界中どこでも、在来型の神学校がどちらかと言えば司牧者の養成機関だとすれば、レデンプトーリスマーテル神学院は宣教者の養成機関として車の両輪のごとく必須のものとなりつつある。母なる教会の原型のような教皇のお膝元のローマ教区が既にそれを不可欠の重要な要素として教皇が認めるのであれば、それが全世界に及んで定着する日は近いに違いない。現に、すでに5大陸に103のレデンプトーリスマーテル神学院の姉妹校が展開し、主な国には少なくとも一つ存在している。日本のためにはベネディクト16世教皇の手によって、ローマに「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」というのが設立されている。

日本の教会だけが、世界の趨勢から取り残されることのないようにと祈る。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ キコからの電話 「シンフォニーは中止」

2015-07-15 09:28:45 | ★ シンフォニー 《日本ツアー》

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

キコからの電話 シンフォニーは中止

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2015年の梅雨の頃、深夜、午前2時 (マドリッドは夕方の7時?)、糖尿病教育入院で病棟に休んでいた私にキコから電話があった。

話し合った内容は、私が同意した結論から言うと、サントリーホールでの2016年5月7日のシンフォニー「罪なき人々の苦しみ」のコンサートは中止。従って9日の福島でのチャリティーコンサートも中止。その裏では、5月27日にソウルのカテドラル(司教座聖堂)で、29日にはソウルのオペラハウスで行うと言うものだった。

思い返せば、平山司教さまの推薦もあって、2012年のアメリカ東部のツアー以来キコは常に私をシンフォニーのツアーに同行させた。それは、東京でのコンサートのマネージメントを私に任せるための準備だった。私にとっては責任のある、しかし、心楽しい旅で、一生の財産になる恵まれた経験となった。

2016年5月の東京公演は二人の間では早くからの了解事項で、2014年11月にサントリーホールが取れたときも、キコは 「5月7日はポンペイのマドンナの祝日の前夜で縁起がいいから」 と、大いに喜んでいた。それなのに、練習会場も取れ、宿舎の目処も立ち、招待者のリストづくりに取り掛かろうとした矢先の、まさかのどんでん返し劇だった。 

一体どうしてこんなことになったのだろう。最初の兆しは2か月前、イスラエルのドームスガリレアにキコが世界中のユダヤ教のラビ(教師)を招いてシンフォニーを聴かせたときにさかのぼる。私も招かれていたことはブログに詳しく書いた。( シリーズ《世界史の奇跡?=ユダヤ教とキリスト教の和解(その 1ー5)》参照)

ソウルの枢機卿も新求道共同体の韓国の責任者に伴われて来ていた。すっかり親しくなって、私は当然のごとく枢機卿を東京のコンサートに招待し、彼は快諾した。しかし、その時、韓国の「道」の責任者の心の中では、全く別な思いが目覚めたことを私は見逃がさなかった。その証拠に、私に向かって直ちに日本の計画の凍結を迫ってきた。殆ど準備が終わろうとしているプロジェクトに、それはできない相談だったし、度を超した干渉に思えた。だが、キコがシンフォニーを日本でやって韓国ではやらないということが、どうしても承服できなかったのだろうか、その日を境に、ソウルでの公演を実現するために全エネルギーを集中して動きはじめた。

始めは、福島の直後にソウルで、という穏当な話で、それには私も大いに賛成した。しかし、それは枢機卿の日程に合わなかった。それなら東京の直前に、という話に変わった。それは、日本のスケジュールに少なからず影響のある迷惑な話だったが、それでも私は最大限譲歩した。ところがその案も枢機卿のスケジュールと調和しなかった。

事ここに及んで、先行してすでにほぼ出来上がっている日本の計画を破壊することになるのを承知の上で、全く両立不可能な独自案をぶつけてきた。

日本的な感性で言えば、連携が自分たちの都合でできないことが判明した時点で、先行している計画を護るために、競合を避けて他の時期を目標に独自の案を練るというのが常識だが、その常識が通用しない。結果的に日本が先行することになること自体がどうしても受け入れられないという情念に、一体どう向き合えばいいのだろう。

聖書には悪に逆らうな。右の頬を打たれたら左の頬も出せ、とある。キコも同じことを説く。正論をかざして相手を論難するのは昔の私の姿だ。今は奪うものに追い銭を渡そうとさえ思う。イエスの弟子同志が教会の中で争い闘ったら、キリスト教は外の世界に向かって平和を説くことができなくなるではないか。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)と説いたイエスは、人生の最後に十字架の上で壮絶な死を遂げて自らの言葉を実践して見せたが、その結果三日目にどんでん返しの復活の栄光に輝いた。

だから、無理が通れば道理が引っ込む、の言葉通り、私はあっさりと撤退を告げたのだが、心は自分でも信じられないほど平安だった。神がおられるのなら、またイエスが本当に復活したのなら、この選択は必ず相応しい実をむすぶはずではないか。ソウルのコンサートを祝福し、その成功のために祈ろう。韓国、こころからおめでとう!

韓国のカトリック教会は、キコのシンフォニーを誘致するために、200人の演奏家の宿泊費、食費、会場費など、一切の現地費用を引き受けることを切り札として申し出た。仮に物価を日本並と考えれば、その額は2000万円ぐらいのものではないか。これにはキコの心も動いたに違いない。

高松に神学校を建てたときは、1億の寄付を難なく集めた私だったが、今は老いぼれて、キコのシンフォニーのためとは言え、2000万円の寄付を求めて動き回る体力に自信がない。

だが、私の本当のアキレス腱はお金ではなかった。それは、韓国の教会の歓迎ムードとは裏腹に、日本のカトリック教会の後ろ盾が全く得られていない悲しい現実であった。高松の深堀司教が引退するや、私が資金を集め苦労して完成した神学校はあっさり閉鎖され、幽霊屋敷と化した。その神学校は、教皇ベネディクト16世の慈父の愛で辛くも救われて、一時的にローマに亡命してはいるものの、今もって日本への帰還の目処は立っていない。

それとは対照的に、新任の大司教は、日本では閉鎖された「レデンプトーリスマーテル」神学校の姉妹校をソウルにいち早く誘致した。それを受けて、フランシスコ教皇は彼を枢機卿に抜擢した。彼は来年5月、ソウル教区の司祭団の黙想会(研修会)を、キコが建てたイスラエルのドームスガリレアで催すという。

  

(ここにあったパラグラフは平山司教様の指示によって追加削除されました。15日20時00分)

 

「3.11」 の5周年に際して、その犠牲者を追悼し、被災者を支援するチャリティーコンサート 『罪のない人々の苦しみ』 は、フィナーレにサントリーホールを埋めた聴衆とオーケストラとコーラスが一体となって復興ソング 「花は咲く」 の大合唱をする夢と共に、一瞬にして消えた。

いずれにしても、今回のような結果に立ち至ったことは、全て私個人の罪と不徳の致すところであり、せっかく多大な支援を惜しまれなかった大勢の協力者の皆様には、不如意な結果に終わったことを深くお詫びお申し上げなければならない。

しかし、もし将来、仕切り直しの準備作業に入る日が来るとしたら、その時はまた、これまで以上のご支援とご協力を賜りますよう、あらかじめ心からお願い申し上げます。 

2015年7月13日

シンフォニー「罪のない人々の苦しみ」公演実行委員会

委員長 谷口幸紀

 

追伸: 「キコのシンフォニーをサントリーホールでやります!」 と公言し、インターネットでも発信を続けてきたものが、突然 「止めました」 のひと言だけ残して沈黙したのでは、社会的説明責任を果たしたことにならないと思い、敢えて起こった事実をありのままに書きました。善良な信者の皆様がた、また、カトリック教会に好意を抱いて下さている方々に、教会の内情の一部をさらしました。教会も所詮は人間の世界なのです。どうか躓かないでください。

尚、このブログの元の原稿はこれよりも長いものでした。しかし、平山司教様に検閲を求めたら、私が力を込めて書いた最も大切な部分をバッサリ削られてしまいました。見解の相違はあっても、ここは従順が優先される場面です。それでも残りをブログにして出さないよりはましだろうと思って、この辺で妥協することにしました。文字にならなかった部分は、時が来たらーあるいは信頼できる人には今すぐにでもー思いのたけを個人的に語ることでよしとしようと心に決めています。 

最後に、誤解の無いように申し添えますが、私が書いたのはあくまで実際に起こった事実です。事実を隠ぺいし、ただきれいごとを並べたのでは、説明責任を果たしたことにならないから、ゆがめることも、一層のこと全部削ることも許されません。しかし、だからと言って、これをもって私が愛する兄弟である韓国の「道」の責任者を非難するものでも裁くものでもないことは、平山司教様も十分わかっていただけると確信します。裁くのは神だけですから。ただ、今回のようなことが起こらざるを得ない歴史の今なお癒えない傷を、私はひたすら悲しみのうちに見つめるものであります。

以上、報告終わり。質問、コメントを歓迎します。 

*****

尚、このブログには後日談があります。

2015年9月18日のブログには

〔速報〕キコのシンフォニーは「復活」!!

という記事があるので併せ読んでいただくとわかるのですが、一旦は中止になるかと思われたコンサートは、3週間後には再度復活して、同じ来年5月に当初計画に沿って行われることになったのでした。現在、この騒ぎで失われた時間を取り戻すべく、鋭意準備に励んでいますので、乞う、ご期待!

まことにお騒がせしました。 

    

コメントが20も来ています(9月10日現在) 右下隅の コメント(20) をクリックしてください。↓

 

コメント (20)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 病院日記-3 《エックハルトについて》

2015-07-12 06:13:34 | ★ 病院日記

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

病院日記-3《エックハルトについて》

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

そろそろブログを更新しようと思うのだが、困ったことが起きた。それは、貼り付けるべき写真がないことだ。ローマなら、日本との距離のおかげで、何を撮っても絵になるのだが、日本人が読む日本語のブログに、日本の身の回りの写真では大概インパクトに欠ける。

梅雨の晴れ間に、「運動散歩」と目的欄に書いて「外出届」を出し、下落合界隈を散歩した。聖母病院から通称「アートの小路」を画家の「中村彝(つね)アトリエ記念館」を通って目白通りに並行した裏道を目白駅、学習院の先まで歩いた。

 気温は高かったが、空気は乾燥していて、暑さがさほど苦にならなかった。邸宅と呼ぶにはいずれもやや小ぶりながら、歴史と文化を感じさせる閑静な住宅地の庭先の花を撮ってきたので、写真はそれと決めた。

 

 

僅か5日ほどを211号の同じ病室で二人きりで過ごしたYさんとの時間は、実に濃密だった。

次第にわかってきたことだが、かれはギターを弾く。それも、かなりのレベルのようだ。かつては、フリーのジャーナリストをやっていた。有名人の対談記事も手掛けていたようだが、今はたっぷり自分の思索の時間を取れる仕事についていて、清貧のなか、大変な読書家でもあるらしい。

存在界について、生死について、仏教について、キリスト教について・・・、彼の投げかけてくる問題は、いずれも本質を捉えた重いテーマだったが、私は信仰、哲学、社会問題などに関しては、自分なりに思索し蓄積してきた中から、大概は確信を持って受け答えが出来た。そして、彼がそれを良く耕され大地が雨を吸いこむように受け止めてくれる確かな手応えがあって、この対話はお互いに大きな知的満足をもたらした。

さて、話がエックハルトのことに及んだ。

「先生はエックハルトをどう思われますか?」(彼は私を「神父さん」とは呼ばない。)

「あの神秘家のマイスター・エックハルトのことですか?若い頃に哲学史・思想史の中で通り一遍のことは習ったが、深くは研究しないままに終わったから、自説を展開できるほどの知識はありません。」と正直に告白した。

エックハルトについて思い出すのは、彼が中世ドイツの神秘主義者で、神を「無」とし、個人と神の直接の関係を説いて、教会から破門されたことぐらいで、その教説の詳細は何も記憶していない。

そんな私とは対照的に、Yさんは、日本語で読める限りのエックハルトの文献を絶版のものまで探して読み込んで、その思想を深く体得して、自分の精神的支柱にしているように見受けられた。砂漠のような大東京に住む市井の無名の探究者に、マイスター・エックハルトの達人がいたことを知って私は感動を覚えた。

エックハルトの教説には:

「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう。

というのがあるが、この分かったような、分からないような新プラトン主義的な思想が、教会軽視につながるとみなされ、異端宣告を受けることとなった、という。神との合一を説き、神性を「無」とするエックハルトの思想は、どこかで仏教の教えと一脈通じ合うところがあり、後世のヘーゲルや、ショーペンハウアーや、ニーチェに影響を及ぼしたのだそうだ。 

話は私が澤木興道師に師事して座禅に励んでいた頃のことや、十牛図(注)のことにまで及んだが、彼が強く反応したのは、私の国際金融マンからカトリックの司祭への転身のこともさることながら、特に、キコに出会うまでどこにも安住すること無く、絶えず移ろいゆく魂の遍歴についてだった。

彼は退院の前日、私の書いた本、「バンカー、そして神父」(亜紀書房)、「司祭・我が道」(フリープレス社)、「ケリグマ」(これはキコの本を私が翻訳したもので同じくフリープレス社)の3冊を私のパソコンから注文した。私の共同体の土曜の「感謝の祭儀」(ミサ)にも是非参加したいと言った。彼の好奇心、探求心はもう全開だった。

退院の日も朝から話し合って、昼食後、病院の玄関まで見送った。次の土曜日の午後私を見舞いに来て、一緒に共同体のミサに行くと約束して、握手して別れた。

この人は神に近いな、と思った。

 

 

この出会いがどんなに特別だったかは、彼が退院して数日一人で独占していた4人部屋に、その後相次いで患者が入り、しばらく前から満室だが、新入りさんたちはいずれも終日カーテンを巡らし、顔を合せても会釈一つなく、地下鉄で乗り合わせた隣の人のように、都会の孤独と無関心そのものの全く取り付く島のない状態にあることからもはっきりと分かる。

 

 

〔注〕十牛図(じゅうぎゅうず)は、禅の悟りにいたる道筋を、牛を主題とした十枚の絵で表したもの。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 病院日記-2

2015-07-05 00:19:35 | ★ 病院日記

~~~~~~~

病院日記-2

~~~~~~~

 

 

聖母病院の聖堂に至る廊下 雨でも病棟から傘なしで行ける

前のブログは:

《話が「・・・それは四谷で・・・」というところまで来たとき、私は思わず「いや、それは東中野です!」と口を挟んでしまった。自分でもびっくりしたが、見ると、もっとびっくりした二人の顔が、カーテンの隙間から無言でこちらを凝視していた。》

という一節で終わっていた。

聖堂入り口の聖母子像

大型の量産品だが なんとか鑑賞に堪える出来栄えだった 花が造花でなくてほっとした

 

それで、その話の続きは・・・

別にカーテンの向こうの話に聞き耳を立てていたわけではないが、同室の彼は、どうやらキリスト教、それも今はカトリックに興味があるようだった。そして、受け答えをしている白衣のTさんは、カトリック信者であるらしい。

二人の会話は、井上洋治という神父が、生前、「風の家」という庵を結んで、ファンの信者さんたちを集めていたという話に及んだ。同室のYさんは、「その家は四谷にあった」、と言った。そのとき私は、自分の記憶によればそれは東中野のはずだったと思って、つい余計な口を挟んでしまったのだったが、それがきっかけで事は急展開を遂げた。

YさんとTさんがカーテンのお城から出てきた。

三人はベッドの間に椅子を集めて向き合い、短い自己紹介があった。

彼は腸内ポリプの切除で入院していた。彼女は、白衣を着ているが、医師でも看護師でもない。では何者?患者の中には不安な人も、孤独な人も、退屈な人も、もろもろの悩みを抱えた人もいるだろう。そのような面に寄り添うのが、どうやら彼女の仕事のようだった。カーテンの外から聞こえた声の主が現役の神父だと知って二人は仰天した。

同室の彼は、若い頃から生きることの意味を真面目に探究してきた人のようで、その知識の広さ、深さは半端ではないことを知って、今度は私が仰天した。それがいかほどのものであったかは、このブログの中で次第に明らかになっていくだろう。

彼はプロテスタントの教会には深く出入りしたことがあったようだが、カトリックは敷居が高くて、まだ縁がなかったと言った。

彼女は、手始めに四谷のイグナチオ教会などはどうだろう。大きい教会だから、いろんなグループがあって、どこかに場所を見つけられるのではないか、と言った。

すると彼は、マンモス教会ではなく、本当の交わりのある「共同体」が欲しいと言った。彼は、生前井上洋治神父がやっていた「風の家」のミサに与ったことがあったが、彼はそのミサに疎外感を感じて溶け込めなかったそうだ。それが四谷のイグナチオ教会だったと言ったから、私はすかさず「それは東中野です!」と突っこみを入れたのだが、どうやらそれは私の早とちりだった。

私には、親戚に実の伯母のように慕う聖心女子大の一期生がいた。東中野に住んでいて、井上神父の大ファンとして、近くの「風の家」に入り浸っていたのを私は憶えていた。だから自信を持ってそう言い放ったのだが、井上神父が最晩年に四谷でミサをしていたことを私は知らなかったのだ。

井上師はカルメル会という修道会に入り、フランスで学び、神父になって帰国した後、会を出て東京教区の司祭になった。

彼の有名なお題目(お祈り)は:

アッバ、アッバ、南無アッバ

イエスさまにつきそわれ

いきとしいけるものと手をつなぎ

おみ風さまにつつまれて

アッバ、アッバ、南無アッバ

 

ということになっている。

これを、日本のインカルチュレーション(キリスト教の日本文化への土着化)を唱道するカトリック教会の一部は、まるで「土着化」の大傑作のように持ち上げるのだが、皆さまはどう思われるだろうか。ローマの正統派の神学者なら、きっと首をかしげ、眉をひそめるに違いないと私は思う。

私が「句会」の「辛口撰者」になったつもりで偉そうに講評するならば、三行目の

「いきとしいけるものと手をつなぎ」 

は字余りの生煮え表現で、前後のなめらかな流れを壊してよくない。ここは思い切って「一切衆生と手をつなぎ」とするのがいいだろう。そして、最後が何とも尻切れトンボで座りがわるい。重複を避ける意味も込めて、たっぷり余韻を持たせたいなら、この「お経」の完成された姿は:

アッバ、アッバ、南無アッバ

イエスさまにつきそわれ

一切衆生と手をつなぎ

おみ風さまにつつまれて

ナンマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ~~!  

とするのがいいだろう。

 

聖母病院の聖堂 天井が傾斜していて 祈る心が傾くような 不安定な感じを受けるのは私だけか 

しかし、問題が残る。井上神父が工夫を懲らしたこの「お題目」を、今日のカトリック信者にそのまま見せたら、正しく理解できるものは100人に一人、いや、1000人に一人もいるだろうか。では、仏教の教養ある人に見せたらどうだろう。1000人が1000人ともチンプンカンプンであるに違いない。また、渋谷のスクランブル交差点を渡る茶髪の若者に見せても、

「なーにコレ?ワケわかんねェ!」

と一蹴されること請け合いだ。解らないところが有難いのだ、と開き直ればそれまでだが・・・。

これは井上師の聖書の教養と、仏教理解と、古典語の知識から紡ぎ出された孤独な想念の産物で、彼の心の世界を共有できないものには解読不能だ。これをキリスト教の土着化、諸宗教対話の偉大な結晶ともてはやすのは如何なものかと思うが、遠藤周作らと共に、かつて知的カトリック人士の間で一世を風靡したことを、今は懐かしく思い返す。

おっと、脱線した。

井上師の「お題目」論は、もちろんYさんとの会話のテーマではなかった。彼はただ、井上師の没後、彼の「風の家」の精神を引き継いだ個人が四谷麹町の住所から「風」という冊子(一冊1000円)を出していることを知っていて、「風の家」も四谷に存在したと思い込んでいたことに、私が引っかかっただけのことだった。

ともあれ、ノンクリスチャンの彼が井上師の「風の家」を知っていたこと自体が驚きだった。

二人の対話は、夕食を跨いで消灯時間まで、それも彼が退院する日まで続いた。そして、その中身は実に興味深く多岐にわたったのだったが、それはまた次のブログに譲るとしよう。

つづく)

〔注〕:「アッバ」はフランス語では「パパー」=お父ちゃん、おやじ、トッチャンなどの意味。

      「おみ風」は「聖霊」のことだろう。

聖堂入り口わきのステンドグラス

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ わたし、入院しました (病院日記 ー1)

2015-07-01 06:27:43 | ★ 病院日記

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

わたし、入院しました(病院日記―1)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 東京 下落合二丁目

聖 母 病 院

 

1940年は私の生まれた翌年 上は 昭和15年の聖母病院の絵図だ

 

 植木の間に見えるのは二本の塔のひとつ よく見ると 75年前の上の絵図にすでに描かれている

この聖母病院を建てたのは 熊本の癩病院から奉仕活動をはじめた5人のフランス人の修道女たちだった

 

ドクター N、内科医長に入院を勧められて、素直に同意した。

東京の聖母病院には何かと思い出が多い。大の親友のシスター T がここの栄養士をしていた頃は、厚いステーキと極上のブランデーを目当てに、病院の厨房によく密かに通ったものだった。今は、姉 - やはりシスターの - が外国人患者の通訳として受付に座っているのも心強い。それに、チャプレンの D 神父は旧知の仲だ。心を病んだ ― 今は亡き ― 妹もしばらくここの修道院で世話になった歴史も忘れてはならない。

そのうえ、N先生の「教育入院」という言葉には、どこか牧歌的な響きがあって、まんざら悪い気がしなかった。

自分が糖尿病と知ったのは、30年も前のことだった。国際金融マンとして飽食の限りを尽くし奢り高ぶった生活に溺れていた頃のことで、知っても真面目に取り組んでいられる環境にはなかった。

その後、教区を追われて不遇な貧しい神父に転落し、辛くも野尻湖の山荘に一人蟄居していたときは、長野日赤病院の糖尿専門医の若い女医さんに「私の言うとおりにしたら、合併症を発症せずに一生を終えられることを保証するわよ」と言われて、本気で取り組んだが、彼女が、転勤する医者のご主人の後を追って名古屋に行ってしまってからは「振られた」ような気分で、ヤケになって努力をやめてしまっていた。

ローマでは、英国で看護師をしたのちに高松の神学生となったフィリッピン人のロピート君が、親身になって面倒を見てくれていた間は良かったが、彼が間もなく神父になるということで私の世話をできなくなってからは、また対応がいい加減になっていた。

昨年末、後期高齢者の仲間入りをしたのを期に、「合併症が出るならそろそろ潮時だ、明日かもしれない、来月かもしれない」と思うと、人様に迷惑をかけてまで生きていたくないという思いが急に強くなり、もう手遅れかもしれないが、ダメ元で糖尿病と初めて真剣に向き合ってみようと思ったのが今回の「教育入院」の動機だった。

さて、その朝、指定された10時に出頭し、右手首に囚人番号の入った腕輪をつけられ、二階の211号室に収監され、まっ昼間から囚人服(パジャマ姿)に着替えて、ゆっくりあたり見回した。

貧しい老司祭だから、勧められた差額ベッドの個室はお断りした。ここは4人部屋だが、先住民は一人だけだった。彼はカーテンの防壁をめぐらしてひっそりと音なしの構えだったので、つい挨拶をしそびれてしまった。

閉所恐怖症の私はと言えば、わざとカーテンをしないで、部屋の4分の3の空間を独占して心地よい巣作りに時間を費やしていた。

午後、部屋の4分の1の空間をカーテンで切り取った彼の世界に、ひとりの看護婦さん―あとでパストラルケアー室の T さんと分かった―が入って行った。カーテンの向こうの様子は見えないが、3メートルと離れていない場所での二人の会話はいやでも全部耳に入ってくる。聴くとはなしに聞いているうちに、いささか興味をそそられた。そして、話が「・・・それは四谷で・・・」というところまで来たとき、私は思わず「いや、それは東中野です!」と口を挟んでしまった。自分でもびっくりしたが、見ると、もっとびっくりした二人の顔が、カーテンの隙間から無言でこちらを凝視していた。

(つづく)

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする