:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 教皇フランシスコのインタビュー記事 (後日談)

2014-01-29 18:25:34 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコのインタビュー記事 (後日談)

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今日こんなメールを発信しました。

K.K.さま

頂いた情報にもとづき、早速手配していたら、そのルートより早く思いがけない方から、中央公論の1月号の「教会は野戦病院であれ」とその関連対談記事が手元に届きました。

ちょっと字数を数えてみましたが、中公の「野戦病院」1万2000字余りでしたが、私の手元の訳では3万4000字余り (オリジナルのイタリア語の月刊誌 "LA COVILTA' CATTOLICA"  ではびっしり29ページに及んでいました) で、約2.7倍の大ボリュームでした。

結果的には、カトリック信者(クリスチャン一般にも)にとっては美味しい教皇の詳しい肝心の情報が大部分カットされたものでした。

やはり、「中公」の一般読者向けにわかりやすいところだけを一部抜粋したのでしょう。

実態が分かったので、意を強くして、あらためて私のブログで 「シリーズ」 を組んでじっくり紹介していくことにしました。

楽しみにお待ちください。ご主人様によろしく。

谷口幸紀拝


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★ 〔一部補足〕 新ルクセンブルグ大司教の後日談

2014-01-28 15:00:58 | ★ 神学校の日記

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新ルクセンブルグ大司教の後日談

=新求道期間の道を導入=

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一昨年(2012年)12月25日に、

〔異例の抜擢〕 イエズス会日本管区のメンバー 「ルクセンブルグ大司教に叙階」

という短いブログを書いた。書いた後、その大司教の事は意識の表面から消えていた。ところが、今日の昼食時、神学院の楕円形のメインテーブルの対角線に座った神父の話に耳を傾けていたら、どうやら彼はケルンの大司教マイスナー枢機卿に会ってきたばかりらしかった。

そして、彼の口からルクセンブルグ大司教のオロリッシュイエズス会員(元日本管区)の話が出た。この新大司教は、新求道期間の道など第二バチカン公会議後に花開いた福音宣教のカリスマとは水と油のインカルチュレーションのイデオロギーの牙城のように私には思われた日本のイエズス会では異色の神父であったようだが、はたして、ルクセンブルグの新大司教になって以来、教区に新求道期間の道を導入し、見事に花を開かせつつあるとのことだった。

 

 

 

彼が、ケルンのマイスナー枢機卿の後ろ盾で大司教になったことは前にも書いたが、今日の食卓ではそのマイスナー枢機卿が日本の教会の事にも言及したとのことだった。

もともと、ケルン大司教区と日本の関係は極めて深かった。

その背景にはドイツの教会と政府の特別な関係がある。ドイツではビスマルクとバチカンとの協定で、カトリック信者の教会への献金は、ドイツの政府が教会に代って所得税の源泉徴収に合わせて自動的に徴収し、政府がその集まったお金を教会に納めることになっている。そのため教会税の徴収は取りこぼしが無く、極めて効率的で、そのおかげでドイツのカトリック教会は経済的に極めて豊かである。

その豊かな資金を背景に、日本の東京大司教区上智大学等には戦後ずっとかなりな額の宣教援助資金が送られてきていて、今もそれは続いている。

ところで、ルクセンブルグの教会の現状も実は全く予断を許さないようだ。昔250ほどあった教会は新しい司教が着任した時には50ほどに減少し、その後も30ほどにまで縮小せざるを得ないような実情を抱えている。

ケルンとルクセンブルグは目と鼻の先だ。マイスナー枢機卿が手厚く支援していることは想像に難くない。オロリッシュ大司教のようにマイスナー枢機卿のおめがねにかなった人物には支援の甲斐があるというものだろう。それに比べれば、日本の現状はまことにガッカリさせるものがあるというのが正直なところではないか。私は元銀行マンだった。銀行マンのセンスからすれば、宣教のために資金援助しているのに宣教が行われていないとしたら、その援助資金は何の目的に流用されているのだろう、と勘繰りたくもなる。

元銀行マンと言えば、私が一介の哲学の書生から、突如国際金融業のプレイヤーの一人になれたのは、マイスナー枢機卿のケルン大司教区のお蔭だった。当時―40年以上前の話だが―ケルン大司教区の宣教資金は、コメルツバンクのケルン支店から東京に流れていた。

私が全共闘の学生諸兄のシンパになったことの罪で上智大学の助手の職を追われた時、ヘルマン・ホイヴェルス神父(イグナチオ教会主任司祭)とビッター神父(イエズス会総会計)とチースリック神父(キリシタン史研究家)の3人の戦前から日本に宣教師として来ていたドイツ人の神父様たちが、「何も悪いことをしていないの首にされて可愛そうに」 と言って同情して、私の就職の心配をしてくれた。

当時、コメルツバンクの東京駐在事務所の所長のマンフレッド・ラッシェは、お人よしの赤ら顔の呑兵衛で、朝からアルコールの香りを漂わせていたが、ケルン教区資金の関係でビッター神父と飲み友達だった。「近い将来の支店開設を視野に、日本人の若い生え抜きを養成したいのだが、適当な候補はいないか」という言葉に、渡りに船とばかりに3人の神父連名の推薦で、国際金融業界に裏口入学した。推薦人が推薦人だったから、思想も、信条も、語学力も一切不問で採用されてしまったのだが、幸運と言えばこんな幸運な話も珍しい。

そこから叩き上げて、リーマンブラザーズまで行けたのも、時代の波の先端に運ばれた幸運のなせる業だったが、今は宗旨替えで、ローマで神父を張っている・・・

現実の歴史に、もしあの時別の道を選んでいたら、と仮定するのはあまり意味のないことだが、敢えて、もし私がイエズス会の修練院を飛び出していなかったら、今頃イエズス会でそれなりの役割を果たしていたに違いない。そして、まず間違いなくインカルチュレーションのイデオロギーの熱心な信奉者になって、新求道期間の道などの公会議後のカリスマを弾圧する動きに大いに力を発揮していたに違いない。運命とは不思議なものだ。

教皇フランシスコにしろオロリッシュ大司教にしろ、イエズス会の中では少数派と思われる人が、教会のトップの座につき、教会を指導していく姿は、感動的だ。教皇フランシスコはオロリッシュ大司教を将来枢機卿にするだろう。自分が教皇の座を去る前に、自分の後継者を選ぶ選挙人である枢機卿の過半数を自分の路線に忠実なもので固めるだろうから、第二バチカン公会議後歴代教皇の路線は今後も継承されていくに違いない。

オロリッシュ大司教の叙階に関する元のブログをご覧になりたい方はこれをクリックしてください↓

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/897e43379775f72557db0b0eb9633eae

 

と書いたが、何故かリンクがうまく張れていないようだ。短いブログなので、面倒だから下にコピーした。

 

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異例の抜擢  

イエズス会日本管区のメンバー 

ルクセンブルグ大司教に叙階

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 2006年4月1日以来、上智大学の経営母体であることで有名なイエズス会の東京都中野区若宮の司祭養成センター「三木ハイム」で責任者をしていたオロリッシュ・ジャン・クロード神父が、ルクセンブルグの新しい大司教に任命された。このニュースは小さなショックを伴って我々仲間の神父の間を駆け抜けた。 

 日本のイエズス会と言えば、元日本管区長で現総長のニコラス神父に代表されるような、インカルチュレーション路線のイデオロギーの理論的な指導集団と理解されてきた面があり、ケリグマ(福音)の告知をもっぱらとする直接宣教のカリスマの前に立ちはだかる厚い壁のように思われがちだったからだ。もしかすると、アジアだけでなく、今後はヨーロッパにもそのようなイデオロギーが伝播するのではないかと一瞬身を固くした。 

 しかし、その後伝わってきたニュースや解説はそのような不安を払拭するに充分であった。パリの新求道共同体のカテキスタのジュリアーナの話によると、彼の大司教任命の陰にはわれわれの大のお友達であるケルンのマイスナー枢機卿の尽力があったそうだ。ジュリアーナが大喜びしているという事実は、オロリッシュ新大司教が新求道共同体に対してきわめて友好的であることを示唆しているのではないだろうか。 

 この異例の人事が、今後日本の教会に対し、日本の新求道共同体の活動の上に、直接・間接に何らかの影響が現れるか否か、目が離せない。 

(終わり) 

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★ 教皇フランシスコのインタビュー記事

2014-01-23 14:40:48 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコのインタビュー記事

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1月21日に「教皇フランシスコとは何者か?」と言う題でブログを書いたら、早速、ブログを読んだ親しいご婦人の K. K. さんから、以下のようなメールをいただきました。

 

          谷口神父様:

        ブログ「教皇フランシスコとは何者か?」拝読しました。

        実は同様の記事が 中央公論2014年1月号に記載されています。

        題名は「教皇フランシスコ・インタビュー 教会は野戦病院であれ」

        質問者:アントニオ・スパドロ神父

        翻訳者:門脇佳吉神父

        大変な長文で素晴らしいものです。

        こちらでは U.さん等と読んで 感銘を受けました。

        K. K. 拝

 

それで早速お返事を書きました:

 

        アハハ、出ましたか。今頃になって?!

        私は、去年のわりあい早い時期にある出版社の社長さんに頼まれて訳したのですが、

        彼の版権取得の交渉が宙に浮いてそのままになっていたので、痺れを切らして試しに

        ブログにちょっと使ってみた矢先でした。

        中央公論の事を知らせていただいて助かりました。

        それでないと、つまみ食いの飛び飛び掲載で、次は「野戦病院」かな?

        なんて呑気にやっていたら、無知をさらして恥をかくところでした。

        Civilità Cattolica の原文では30ページほどで、長いと言えばまあ長いですね。 

        版元も私の友人の中小出版社にではなく大手の「中公」に版権を渡したのは理解できます。

        とにかく、門脇師訳で「中公」から一応出たことが分かったので、

        こちらはこちらで自分の訳の使い道をひと工夫しましょう。

        私のブログの読者の全員がわざわざ「中公」を買って読まれるわけでもないでしょうから。

        とにかく、お知らせ有り難うございました。

        寒さの折柄お大切に。

        谷口幸紀拝

 

 

 門脇佳吉師と言えば、日本のイエズス会の大御所の一人。3年間だけイエズス会の釜の飯を食った私にとっても大先輩です。もう88歳になられたかと思いますが、今も翻訳を手掛けられるとは大したエネルギーだと敬服いたしました。

 教皇様のインタビュー記事は、日本のイエズス会の機関誌に出してもどうせ読者が極めて限られるから、「中央公論」は発表の場所として正解でしたね。

 それに比べれば、私の友人の場合は中小出版社(おっと失礼)に属し、版権が取れたとしても、原文で30ページの独立したインタビュー記事は単行本としては半端に短く、かといって自前の月刊雑誌もなく、商品化に困難を伴ったかもしれません。

 ただ、中央公論や文芸春秋などは、読者がある階層に偏り、私のブログの読者の多くが毎月読んでいるとは限りません。その上、2月号が出れば、1月号は図書館にでも行かなければたちまち読めなくなります。

 そこにブログの利点が浮上します。パソコンを開けばいつでもすぐにタダでアクセスできるからです。下手な素人訳で恐縮ですが、私の手元ではすでに完成して久しい全訳の中から、特に面白そうなところを私の主観で拾って、多少の解説を添えて独自性を出しながら、折に触れて順不同で紹介することを今後も続けたいと思います。原文は(内容は全く同じですが)バチカンの公式サイトからダウンロードして入手したものということにしましょう。改めてよろしくおねがいいたします。

(おわり)

自分で言うのも何ですが、近頃コメントが面白い!ぜひ下をクリックして読んで下さい!コメント者に感謝!

                       

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★ 教皇フランシスコとは何者か?

2014-01-21 18:49:25 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコとは何者か?

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 このやや尊大な設問は、実は私の考え出したものではない。それはイエズス会の機関誌の一つ “La Civiltà Cattolica” の編集者でイエズス会士のアントニオ・スパダロ が昨年8月29日(月)9時30分聖マルタの教皇の住居で行った教皇の単独インタビューの冒頭の質問

ホルヘ・マリオ・ベルゴリオとは何者か?

にヒントを得たものだ。日本の多くの読者には念のために説明するまでもないことだが、ベルゴリオ とは教皇の本名の事だ。

このインタビュー記事は、直ちに世界中のイエズス会の機関誌に翻訳掲載されたが、何故か今もって日本語で発表される気配がない。バチカンの公式ホームページではタダで自由に読める公開された資料だし、印刷し有償で配布するなど商業目的でなければ、自由に翻訳引用できる物だとその道の専門家に教わったので、今後折にふれてブログのなかで私の関心を引いたページを紹介していこうと思う。

ここですぐに、表題の質問と教皇の答えに入ってもいいのだが、編集者アントニオの導入の言葉もなかなか味があって捨てがたいので、それも一緒に載せることにした。

 

編集者アントニオの導入 

 今日は8月19日の月曜日。教皇フランシスコは私に聖マルタで10時の約束をくれた。しかし、私は父からいつも予定より早く着くことの必要性を受け継いでいた。私を迎えた人々はひとつの小部屋に私を坐らせた。待った時間は短く、1-2分で私はエレベーターに乗せられた。その2分ほどの間に、私はリスボンで開かれたイエズス会の幾つかの雑誌の編集者たちの会合で、教皇のインタビュー記事を一緒に出版しようという提案が浮上したことを思い出していた。私はみんなの関心を反映すると思われる幾つかの想定質問について他の編集者と話し合ったのだった。エレベーターから出ると、教皇がドアのところで私を持っているのが見えた。と言うよりも、実際には、むしろ敷居を跨がないで控えていたことに好ましい印象を受けた。

 彼の部屋に入ると教皇は私を肘掛椅子に座らせた。彼は背骨の問題のためにより高く固い椅子に腰を下ろした。飾り気のない質素な雰囲気だった。机の仕事面積は小さかった。備品ばかりでなく、万事が必要最小限であることに強い印象を受けた。少し本と、少しの紙と、すこしだけの物しかなかった。その中には、聖フランシスコの絵と、アルゼンチンの守護のルハンの聖母像、十字架と眠っている聖ヨゼフ像など、どれも聖ミカエルのマキシモ会にあった彼の管区長兼院長室で見かけたのとよく似たものばかりだった。ベルゴリオの霊性は、彼が言うところの「調和の取れたエネルギー」からなるものと言うよりは、むしろ、キリスト、聖フランシスコ、聖ヨゼフ、マリア、などの人間の顔から成り立っているように思われる。

 教皇は今では世界中を何度も駆け巡って人々の心を開かせたあの微笑みで私を迎え入れた。私たちはたくさんの事を話し始めたが、中でも特に彼のブラジル旅行について話し合った。教皇はその旅行を本当に恵みであったと考えていた。休息をお取りなったかと聞いた。かれは休んだ、調子はいいと答えたが、特に「世界青年大会」(WYD)は彼にとって一つの「神秘」であったと言った。大勢の人の前で話すのには全く慣れていなかったと言った。「わたしは一人一人の顔を、一人ずつ見ることが出来て、私の目の前の人と個人的な形でコンタクトを取ることができた。大群衆には慣れていなかった。」私は、その通りだ、それは見て取れた、そしてそれがみんなの心を打ったのだ、と言った。彼が人々の中に居る時、彼の眼は実際に個々の人の上に向けられているのが見て取れる。そして、テレビカメラはその映像を映し出し、それをみんなが看ることが出来るのだが、こうして彼は、少なくともアイコンタクトとしては、彼の前に居る人と直接の触れ合いに留まる自由を感じることが出来るのだ。つまり、コパカバーナの浜辺で起きたように何百万の人の前に居ても、他の人と対話する普段の自分のやり方を変えることなく、あるがままの自分でいることができることに彼は満足しているように見えた。

 わたしが録音機のスイッチを入れる前に、他のことについても話し合った。私のある出版物に関してコメントとするなかで、彼は自分が愛好している現代のフランスの思想家はアンリー・ド・リュバック(この人は次のブログで登場する予定なのでお見知りおきいただきたい)とミシェル・ド・セルトーの二人だと言った。他にも彼に何かより個人的なことを言った。彼もまた、自分について、特に彼の教皇選挙について話してくれた。彼は、3月13日の昼食時に、自分が選ばれる恐れが高くなったことに気付き始めたとき、言葉に表しがたい内面的な深い平和と慰めが彼の上に下って来るのを感じるとともに、完全な闇、それ以外のすべてのものの上に下る深い暗がりを感じた。これらの感情は選挙の時まで彼に付きまとった。

 実際のところ、私はこのようにまだずっと親しい対話を続けたいとは思ったが、幾つかの質問を書き留めた紙を取りだし、録音機のスイッチを入れた。そして、何よりも先に、このインタビューを出版するイエズス会の雑誌の編集者たち皆の名において彼に感謝の意を表した。

 チヴィルタ・カトリカ誌のイエズス会士たちに賜った去る6月14日の謁見の少し前に、教皇は私にインタビューの許可を出すことに対する大きな困難につて話した。彼はインタビューに対して一気に答えを出すよりも、じっくり考える方が好きだと言った。適切な応えは口をついた最初の答えの後にやってくるように感じるからだ。「リオ・デ・ジャネイロから帰る機中で、質問してくる記者たちの質問に答えながら、自分の事が良くわからなかった」と私に言った。それは確かにそうだ。このインタビューの中で、教皇は度々ある質問に答えて話していることを中断して、前の質問に対して言ったことに何かを付け加えることを平気で行った。実際のところ、フランシスコ教皇との話しと言うものは、互いに結び合った考えの爆発的な流れのようなものだ。メモを取る作業には、湧き出るような対話の流れを中断する不快な気分にさせるほどのものがある。教皇フランシスコは講義よりも対話に慣れているのは明らかだ。



ホルヘ・マリオ・ベルゴリオとは何者か?

 

 私には準備した質問があった。しかし、あらかじめ決められた筋書きには従わず、多少はぶっつけの質問をする事にしていた。「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオとは一体何者でしょうか?」教皇は沈黙のまま私をじっと見つめた。私はそれが許される質問だったかどうかを聞いてみた・・・彼は質問を受けいれたことを身振りで示しながら私に言った。「わたしはどのような定義がより相応しいか知らないが・・・私は罪人だ。これがより適当な定義だ。それは物のたとえとしてではなく、文字通りに意味においてだ。私は罪人だ。

 教皇は熟慮を続け、まるでこのような質問は予期していなかったかのように、まるでさらに深く考えるよう強いられたかのように、考えに耽った。

 「そうだ、少しばかり抜け目がない、身の処し方を心得ている、と言ってもいいかもしれないが、またちょっと馬鹿正直なところがあるというのも本当だ。そう、だがよりよい、より内面から出てくる、より真実に思われる要約は 《私は主が目を止めて下さった罪人》 だということではないかと思う。」そして、繰り返した。「私は主から見られているものだ。憐れみをもって選ばれた者 と言う私のモットーは、いつも私にとってとても真実なことと感じられる。」

 教皇フランシスコのモットーは聖ベーダ尊者の 説教集 から取られたものであり、それは聖マテオの召命の福音的エピソードに注釈をつけたもので、「イエスはある徴税人を見て、愛情をこめて彼を見つめ、彼を選んで 《私に従いなさい》 と言った」と書いている。

 そして「ラテン語の 憐れむ の分詞形の miserando は、イタリア語にもスペイン語にも翻訳不可能と私には思われる。わたしはむしろそれを実際には存在しない別の分詞形の misericordiando と訳したいところだ。」と書き加えた。

 教皇フランシスコは彼の内省を続けながら、とっさには意味不明の飛躍をしながら私に 「わたしはローマの事は知らない。ほんの少ししか知らない。そのわずかなことの中にサンタ・マリア・マッジョーレ教会がある。そこにはいつも行ったから。」と言った。私は笑って「教皇様、とても良くわかりましたよ!」と言った。「ほら、その通り-と教皇は続ける-サンタ・マリア・マッジョーレ、聖ペトロ大聖堂・・・だけど、ローマに来るたびに私はスクロファ通りに宿を取った。そこから度々フランス人のサン・ルイジの教会を訪れ、そこへ行ってカラヴァッジオの聖マテオの召命の絵を黙想した」と言った。私は、教皇が何を私に言いたいのかを理解し始めた。

 「イエスのこんな風な・・・マテオに向けられたあの指。私はそのようなものだ。私はそんな風に感じる。マテオのように。」ここで教皇は彼が探していた自分のイメージをついに捉えたかのようだった。「マテオの身のこなしにとても心を打たれる。自分のお金をしっかり握って、《駄目です、わたしは駄目!いけません、これは私のお金です!》 ほら、《主がご自分の目を向けられた一人の罪人》これが私です。私が教皇職を受けるかどうか聞かれた時私が言ったのはこの事でした。」そして小声で(ラテン語で)「Peccator sum, sed super misericordia et infinita patChristi confisus en in spiritu penitentiae accepto.我、罪人なれど、我らの主イエスキリストの憐れみと限りなき忍耐の上に信頼を置き、償いの精神をもって受けたてまつる。)」とつぶやいた。

(つづく)

 

 

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★ 一部追加補足版 〔速報〕 教皇フランシスコ新枢機卿の名前を発表

2014-01-16 18:32:49 | ★ 教皇フランシスコ

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一部追加補足版

〔速報〕 教皇フランシスコ新枢機卿の名前を発表

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新枢機卿がかぶる赤い帽子

(バチカン放送) 日曜日のお告げの祈りの後、教皇フランシスコは最寄りの機会に枢機卿として任命される人のリストを発表した。以下に教皇のアナウンスの全文を掲げる:

すでに以前に知らされた通り、2月22日のペトロの椅子の祝い日に、私は枢機卿会議を招集することを喜びとする。その中で私はローマの教会と世界中の教会の深い教会的関係を代表する世界のあらゆる部分からの12の国の16名の新枢機卿を指名するだろう。その次の日(2月23日)私は新枢機卿たちとの荘厳な共同司式ミサを主司式するだろう。他方、2月20日と21日にはすべての枢機卿たちと枢機卿会議を開き、家庭のテーマについて考察するだろう。

以下が新枢機卿の名前である:(全員の名前が続くが、私は関心のある2-3の名前にコメントするにとどめる。)

ピエトロ・パロリン:アクアペンデンテの大司教(国名はないがイタリアだと思う)。ベルトーネ枢機卿の後任として教皇フランシスコが国務長官に任命した人。就任直後病気を理由にすぐに職務に着かなかったので心配したが、今は順調に教皇を補佐している。

ゲルハルト・ルードヴィッヒ・ミューラー(ドイツ):教理省長官。 

英国、スペイン、ニカラガ、カナダ、アイボリー・コースト、ブラジル、イタリア、アルゼンチン、韓国、チリー、ブルキナ・ファソ(アフリカでも最貧の小国)、フィリッピン、ハイチ、(そのほか私には国が良くわからなかった人もいて、とにかく合計16人)

詳細は1週間後にはカトリック新聞にも出るだろうから、そちらに譲るとして、今日神学校の夕食のメインテーブルの司祭たちの雑談から拾ったことも含めると、軽い話としては、ハイチの候補の事だと思うが(もし聞き違いだったらごめんなさい)、長髪でジーンズ姿の若者向けには実に恰好のいい枢機卿が生まれるとか・・・・。 

ブラジルの Orani Cyprine Lacroix リオ・デジャネイロ大司教は、先のWYDのホスト役だったが、レデンプトーリスマーテル神学院を誘致し新求道期間の道を積極的に進めている。私はキコがイスラエルのガリレア湖のドームスガリレアに司教達を招待した時、たまたま食卓を共にし、親しくなり、2012年夏にリオに招待されたが、諸般の事情で実現しなかった。

アイボリーコーストとブルキナ・ファソのアフリカの二人の新枢機卿も、何れも新求道期間の道を自分の教区に導入しており、第2バチカン公会議の教会改革路線に忠実な司教達だ。(この赤字部分は1月16日に追加補足したもの)

私が、一番注目するのは韓国のソウルの大司教になってまだ2年ほどにしかならないアンドリュー・ヨム・スジョン新枢機卿の誕生だ。実は私はこの人物をいささか知っている。(私はその前任者のキム枢機卿の形骸に触れたこともある。)

日本では東京の白柳大司教が1994年に、浜尾枢機卿が2003年に枢機卿に挙げられ、一時は信者50万人に満たないカトリック小国が、経済大国の威光を反映してか、一国2人枢機卿体制にあったが、前者が2009年に死去して以来5年間というが、高齢と病気があってそれ以前から退位同然、後者が2007年に死亡してからは7年間枢機卿のいない状態が続き今日に至っている。

一方韓国は、1969年にキム・スーハン大司教が46歳の若さで枢機卿になっているが、2008年に死去して以来6年間、枢機卿空白が続いて、日本と似た状態にあった。

折しも日本で高松の神学校の存在の是非が問題になった時、バチカンはキム枢機卿を選んで日本に派遣したが、彼は初めから同神学校の対しては反対の立場で、公平な報告は期待できなかったように聞いている。

ところが、新しいソウルの大司教は、私のブログ イエスの町カファルナウム ―アジアの教会の未来を占う―」

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/b3a1349fcdb41fc3051ea6a38bb99426

でも書いたように、キコの「新求道期間の道」に対して極めて好意的で、レデンプトーリスマーテル神学院のソウル誘致についても前向きに発言をしていた。(思い出していただきたい。レデンプトーリスマーテル神学院は福者教皇ヨハネパウロ2世が世界に先駆けローマで開設した全く新しい理念に基づく神学校で,現在世界の100以上の司教区にその姉妹校が存在する。)

 教皇フランシスコが、同じような枢機卿の空白が長く続いている日韓両国に対して、新求道期間の道に好意的なヨム・スジョン大司教をわずか2年ほどで枢機卿に登用し、新求道期間の道に対して一貫して反対してきた日本のカトリック教会のベテランの司教達からは枢機卿を誰一人も選ばなかったという、際立った対応の違いに世界の消息通は注目している。

 ここからは私の全く個人的な感想だが、今回の教皇フランシスコの対応は、2010年12月13日の教皇ベネディクト16世の御前会議で「その決定は無効」を告知された《「新求道期間の道」の5年間全面禁止》の決定に同意していた全司教様たち、そして、教皇の明白な意思表示にもかかわらず、その後に自分の教区で新求道共同体の禁止をあらためて文書で確認された司教様たちに対する教皇フランシスコの最初の明白な回答として、今回の枢機卿任命に伴う日韓の明暗が分かれたと考えることは出来ないだろうか。

 バチカンから車で15分の近さに住む風見鶏としては、この3-4年の間に任命され、2010年の司教団決定に関与しなかった新しい日本の司教様の中から、ローマの方針に協調的な(つまり、新求道期間の道などに代表される新しい福音宣教のカリスマに理解を示す)勇気ある司教様が生まれたら、その人物こそ次の枢機卿任命に際して最も有力な候補になり得ると観測するのだが・・・。日本的な年功序列など、この際バチカンの気にするところではないだろう。

 ブルキナ・ファソ(面積は日本の7割、人口日本の1割強)のようなアフリカ内陸の小国からさえ、この度枢機卿が生まれた。栄光の26聖人を生んだ日本の教会に、今後さらに何年も枢機卿空白時代が続くとすれば、それは極めて異常な事態と言わざるを得ないだろう。

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★ 〔また速報〕 1月15日の水曜 《一般謁見》 で教皇フランシスコ日本の隠れキリシタンに言及。

2014-01-16 01:06:48 | ★ 教皇フランシスコ

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 〔また速報〕 1月15日の水曜 《一般謁見》

教皇フランシスコ日本の隠れキリシタンに言及。 

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私たちは皆、教会の中では使徒であり宣教者だ

 

バチカン市国、2014年1月15日 (VIS=バチカン情報サービス) 

  洗礼は「わたしたちをキリストの体の肢体とし神の民とする(・・・)。第二バチカン公会議の教えるところによれば、今日わたし達は洗礼が私たちを神の民に加入させ、旅する民、歴史の中を巡礼する民のメンバーにする」ことを、教皇フランシスコは「洗礼の秘跡」を主題とした水曜日の一般謁見で確認した。「事実、世代から世代へ生命(いのち)が受け継がれていくように、-と教皇は説明する-恵みは世代から世代へ洗礼の泉からの新たな誕生を通じて恵みを受け継がれ、この恵みによってキリスト教の民は、川が地をうるおすように世界に神の祝福をひろめながら時間の中を歩んでいく。」

 「弟子たちが洗礼を授けるために出かけた時から今日まで、洗礼を通して信仰の鎖が繋がっている。そして、私たち一人一人はその鎖の一つの環として、地をうるおす川のように絶えず一歩前へと進む。そのように、神の恵みも私たちの信仰も、私たちの子供たちに、赤ん坊に、彼らが大人になった時に彼らの子供たちに受け渡すことが出来るよう受け継がれていかなければならない。私たちを子の神の民に入らせ私たちに信仰を伝える洗礼も。同じように受け継がれなければならない。」

 「わたし達は洗礼の力によって福音を世界にもたらすために呼ばれた宣教する弟子となる。洗礼を受けた各人は、教会の中でどのような役割を受け持っているにしろ、またどのようなレベルの信仰教育を受けているにしろ、福音宣教の活動的主体でなければならない・・・。新しい福音宣教は、全ての人、神の民全体が新しい主役になることを意味しなければならない。それは洗礼を受けた各自が主役になるということだ。神の民は-信仰を受けたから-弟子の民であり、-信仰を受け渡すから-宣教者である。洗礼は私たちに恵みを与え信仰を受け継がせる。洗礼は私たちの中でそのように働く。私たちはみな、教会の中でいつまでも、生涯にわたって弟子であり、私たちは皆、各人が主によって与えられた場所において宣教者である。」

 「みんな、最も小さいものも、宣教者だ-と教皇は続ける-。そしてより大きいと思われるものは使徒だ。司教は何でも知っているから弟子ではないし、教皇も全てを知っているから弟子ではない、と誰かが言うかもしれない。しかしそれは違う。司教達も教皇も弟子でなければならない。なぜなら、もし弟子でないなら、善をおこなうことは出来ず、宣教者であることは出来ないし、信仰を受け渡すことも出来ないからだ。分かりますか?このことが解りましたか?大切なことです!私たちはみな弟子であり宣教者です。

 「一人で救われるものは誰もいません-と教皇は聖ペトロ広場に集まった何千、何万の人々に言った-。私たちは信仰者の共同体、私たちは神の民であり、この共同体の中で私たちは私たちに先立つ愛の体験を互いに分かち合うことの美しさを経験すると同時に、私たちの限界と罪にもかかわらず、互いに恵みを伝え合うパイプであることが求められています。共同体的拡がりは単なる《枠組み》または《輪郭》ではなく、キリスト教的生活と証しと福音宣教の総合体なのです。

  教皇フランシスコは、この神の民にとっての洗礼の重要性に関するカテケージスを終えるに際して、日本のキリスト教共同体の歴史を想起させた。この共同体は「17世紀の初めに激しい迫害を経験した。そのとき数多くの殉教者が生まれ、聖職者らは追放され、何千人もの信者が殺された。司祭は全員日本から追放され、一人も残らなかった。共同体は地下にもぐり、信仰と祈りを隠れて守った。赤ん坊が生まれると、父親か母親が洗礼を授けた。なぜなら、特別な状況の中ではすべての信者が洗礼を授けることが出来るからだ。約2世紀半、つまり250年ほど後に、宣教師たちが日本に戻った時、何千人ものキリスト教徒が発見され、教会は再び花開くことが出来た。彼らは洗礼の恵みによって生き残ることが出来たのだ!これは偉大なことだ。神の民は信仰を伝え、子供たちに洗礼を授け、こうして前進した。そして、秘密裏に強い共同体精神を保った。なぜなら、洗礼が彼らをキリストにおいて一つの体にしたからだ。彼らは孤立し隠されはしたが、かれらは常に神の民のメンバー、教会のメンバーだった。私たちはこの歴史から多くの事を学ぶことが出来る!」



(急いで訳したので生煮えの日本語でごめんなさい)


 

 

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★ シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》 = ブダペスト編 = (完)

2014-01-12 16:08:48 | ★ シンフォニー 《ハンガリー》

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》 (完)

= ブダペスト編 = 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

ドイツのシュヴァルツヴァルトを源流とするドナウ川は、ここハンガリ―の首都ブダペストを

西岸のブダと東岸のぺシュトに分けながら、黒海に注ぐヨーロッパ第二を誇る雄大な河川だ。

 

     

  1858年創設のハンガリー国立歌劇場。  グスタフ・マーラーが音楽監督を務め、黄金時代を築いた。  

以後、リヒャルト・シュトラウス、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤンなども客演指揮を行っている。

初演された主な作品には、コダーイの歌劇 「ハーリ・ヤーノシュ」(1926年)などがある。

 

オペラハウスの入り口わきにはフランツ・リストの石像があった。

血統的にも、母語も、主たる活動地域もドイツであったにも関わらず、

リストはハンガリア人の魂を持ち続けた。 

 

キコが今回の東欧シンフォニーツアーの最後の会場にこのオペラハウスを選んだのは、ドイツ、ポーランドなどに並んで

ナチスドイツのユダヤ人迫害の激しかったハンガリーの歴史を意識してのことだったろう。

 

スティーヴン・スピルバーグ監督による1993年のアメリカ映画、『シンドラーのリスト』は日本でも有名になり私も見た。この映画は、第二次世界大戦時にナチスドイツによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が東欧のドイツ占領地で進む中、ドイツ人実業家でナチス党員のオスカー・シンドラーが、始めは自分の商売の利益が目的だったとは言え、1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で絶滅収容所送りを阻止し、その命を救った実話を描く。

杉原 千畝(すぎはら ちうね)は、日本の外交官だったが、第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していたとき、ナチス・ドイツの迫害により欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くが、ユダヤ系であった。海外では、「日本のシンドラー」 などと呼ばれることがある。

同様に、スウェーデンの外交官、実業家のラウル・グスタフ・ワレンバーグは、第二次世界大戦末期のハンガリーで、迫害されていたユダヤ人の救出に尽力し、外交官の立場を最大限に活用して10万人にもおよぶユダヤ人を救い出すことに成功した。

 

アウシュヴィッツに到着したハンガリーからのユダヤ人達

 

ハンガリーにはブダペスト郊外の他、少なくとももう1か所の強制収容所が存在したようだが、ここでは

ハンガリーで捕らえられたユダヤ人の多くがアウシュヴィッツなどの絶滅収容所に送られた事実を記すにとどめ、

早速演奏会に入ろう。 

 

正面でロビーで開場をまつブダペストの紳士淑女たち。

 

廊下の壁にも天井にも大勢の芸術家たちの肖像がぎっしろ描かれていた。

 

観客席の天井は大きなシャンデリアとフレスコ画で飾られている。

 

ユダヤ教のラビの挨拶があった。

 

   

開演を待つ一瞬

 

  

最後のクライマックス。ヘブライ語で 《シェマー・イスラエル》 (聴けイスラエル) が歌われる時、

指揮者のパウがくるりと客席に向き直り、聴衆を唱和に誘うと、客席は総立ちになり、大合唱となった。

 

キコのシンフォニーが終ると、ユダヤ教の会堂のプロの歌手が、ここでも

ホロコーストの犠牲者を偲ぶ哀悼の歌》を切々と歌い上げた。

 

 

オペラハウスのボックス席の紳士淑女も皆それに聞き入った。彼らは、服装からしてブダペストの社交界の星たちだと察せられる。

共産主義の支配を潜り抜けて生き延びたユダヤ人たちは、古き良き時代の伝統を失わずにいたのだろうか。

 

  

私もボックス席の一つから見守った。このオペラハウスのクラシックな雰囲気は、ニューヨークのエイブリ―・フィッシャー・ホールも

ボストンのシンフォニーホールもシカゴ交響楽団の本拠地もはるかに及ばな深いい味わいと輝きと落ち着きを保っていた。

野外大コンサートも悪くはなかった。しかし、クラシックなオペラハウスの雰囲気とは全く比べものにならない。

 

潮の退くように聴衆が場外に去った後、舞台の上のキコが、「おーい、日本人。記念写真だ!」と叫んだ。

私の事である。私はこのツアーでは楽器をやらない、コーラスでも歌わない。それなのに、キコは私を連れて歩く。

ツアー専属カメラマンなら別にプロが居るではないか。では何故?

それは、将来、日本にシンフォニーを持っていくときによく働けるよう、経験を積ませるためだろうか?

素人の私がいつもカメラを手放さない事を彼はよく知っていて、こんな時におどけて私を引っ張り出したというわけだろう。

キコは、顔が識別できる範囲では真ん中よりやや左、長い髪の女性の斜め右後ろ二人目に納まっている。

奥行きが深いのに広角で撮ったので、コーラスは豆粒よりも小さくなってしまった。ああ、失敗、失敗!

 

明けてローマに帰る日の朝、お世話になった教会の周りを散歩した。

ライラックの花が強い香りを放っていた。

 

おや?教会の前庭にヒョロリとした銅像があった。金色の三重宝冠は教皇の被り物のはずだが・・・

「教皇シルウェステル2世1000年記念」と読めた。はてな?1000年前にハンガリー人の教皇がいたっけか?

帰って調べてみたら、教皇シルウェステル2世(999-1003)はフランス人だった。彼はハンガリーの首長イシュトヴァーン1世をカトリックに改宗させてハンガリー王冠を授け(1000年)、東欧のカトリック教会を組織した、となっている。考えてみると、ここ数百年、教皇と言えば決まってイタリア人だったが、教皇ヨハネパウロ2世(ポーランド人)、教皇ベネディクト16世(ドイツ人)、そして今の教皇フランシスコ(アルゼンチン)と、このところイタリア人以外の教皇が相次いだ。カトリック教会のグローバル化の表れとして、歓迎されるべきことではないだろうか。

  

(東欧シンフォニ―ツアー 終わり!)

  

付記: 日本ではユダヤ人の存在が集団として目立つことはかつて無い。ナチスドイツの同盟国でありながら、

ホロコーストの事実はなかったし、杉原千畝の例にもある通り、むしろユダヤ人に対しては同情的であった。

では、もしキコが日本でも 《シンフォニー「無垢な魂たちの苦しみ」》 の演奏を望むとすれば、それは何故だろう。

広島、長崎の原爆犠牲者はクラシックな例だが、福島の原発事故の被災者の苦しみは過去の問題ではなく、

現在と未来何世代にわたる問題だ。格差社会の底辺に切り捨てられ、奴隷的労働に喘いでいる人達の苦しみ。

堕胎で日の目をみなかった声なき無数の命と、その数だけ地獄を見てきた母親たちの魂の罪責感・・・。

《今日の繁栄を生むための犠牲に闇に葬られた何千万の無垢な魂たち=日本のホロコースト=》

憐れにもお金の神様の奴隷として使役される苦しみ。それらの闇に沈んでいる1億2500万の日本人の魂に、

何か希望と喜びのメッセージを伝えたいという思いに駆られてのことではないだろうか。

死ですべては終わらない!

復活と永遠の生命の希望に満ちた喜びと愛のメッセージを全ての日本人に届けたいからではないだろうか?

私はキコに 少なくとも、東京、広島、長崎、福島 でのコンサートを提案したいと思っている。


 

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★ シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》  = ルブリン編 =

2014-01-06 18:57:02 | ★ シンフォニー 《ポーランド》

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

  シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》

= ルブリン編 = 

~~~~~~~~~~~~~~~~~

WYDは思いがけず長くなり、最後の《秘話》を入れると全8編になった。

ここで、今まで中断していた 《シンフォニー》 のテーマに戻って完結しようと思う。

あれから旅の一座はアウシュヴィッツを発って、ルブリンに向かった。

約360キロの道程は高速道路が無いので、バスで6時間ほどの長旅だ。

 

途中クラカウの街で小休止。クラシックな馬車がお似合いの美しい街だ。

小雨でなければ、白い幌は後ろに倒してオープン馬車になるのだが・・・

 

     

クラカウの司教館は前回のポーランド巡礼(ブログ参照)でも紹介したが、入り口の上には今でも

教皇ヨハネパウロ2世の写真が飾られている。そして、中庭の回廊には教皇暗殺の瞬間の写真パネルがまだ残されていた。

 http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/ccc56dc64253860d0e70aa67f3ba9e35

 

 

夕方ルブリンに着いた。私にとっては二度目の訪問だ。

一度目は、私が神学生としてローマに来て2度目のクリスマスだったと思うが、

休暇中ポーランド人の若い神学生 コンラード・チュバ 君の実家に世話になった。

20年前のコンラードはまだ初々しい色白の少年だったが、その後神学生を辞めて国に帰り、

結婚して7人の子持ちになり、再会した時には、顎鬚に白いもののまじった立派な父親になっていた

 

キコは何故ルブリンをシンフォニーの演奏地に選んだのか?

それは第二次世界大戦のさなかに起きたナチス・ドイツによるユダヤ人への迫害の追憶のためだ。

 ルブリンは緑豊かな閑静な街で、ヨハネ・パウロ2世が教鞭をとったことで有名なヨハネ・パウロ2世・ルブリン・カトリック大学がある。そして、日本ではあまり知られていないが、郊外のマイダネクには、ナチス・ドイツによって建設されたルブリン強制収容所があって、

その規模はアウシュヴィッツ=ビルケナウに次ぐ大きさだった。

 ルブリンにはもともと人口のおよそ40%を占める活発なユダヤ人社会があったが、1939年、ドイツ軍に占領され、1941年に郊外に巨大な絶滅収容所建設されると1942年に町のユダヤ人の大半が殺害された。

 

 高さ4メートルの支柱を2列に立ててその間を有刺鉄線で結んでフェンスとし、2列の柱の間に対角線に渡された有刺鉄線には高圧電流が流れていた。一定間隔に機関銃を備え付けた監視塔を設け、警察犬として200頭のシェパードも飼われていたという。


 

マイダネクにある慰霊碑の建材には犠牲者の遺灰が混ぜられている。

20年前、コンラードは私をここに案内した。そのとき私が撮ったフイルムは既に散逸して無いが、

それは、クリスマスの頃、マイナス20度のどんよりと曇った雪景色の慰霊碑の写真だった。

凍てついたコンクリートの巨大なモニュメント。急な階段を上って中に入ると、吹きさらしの中に

やや黄味を帯びた白い大きな砂山のように見えたが、実は全て人間の屍体の焼却灰だった。

右手の階段を上り切った黒い影の部分が、人間の背丈の二倍近くあると言えば、全体の巨大さが想像できよう。

 

 様々な国籍の人々がマイダネクに収容されていた。囚人は総計50万人に及んだという。このうち全体の60%以上にあたる36万人が死亡したといわれる。その内訳は、21万5000人が飢餓・虐待・過労・病気により、14万5000人が毒ガス・銃殺によるという。

 1942年4月頃のルブリン・ゲットーの解体、1943年5月頃のワルシャワ・ゲットーの解体の際にはそこで暮らしていた大量のユダヤ人がマイダネクに移送されてきている。

 ガス殺にはチクロンBと一酸化炭素が併用されていた。1度に1914人をガス殺することが可能であった。現在このガス室は一般に公開され、天井に沈着する青々としたチクロンBを今でも眺める事が出来る。

 マイダネクでは銃殺による虐殺も数多く行われた。規模が一番大きかったのは1943年11月3日の「収穫祭作戦」(囚人からは「血の水曜日」)と呼ばれるユダヤ人大量銃殺だった。マイダネク収容所にいた8400人と他の収容所や町から連れてこられた1万人の合わせて1万8000人のユダヤ人がこの日に銃殺された。

 マイダネクのガス室については、1944年8月12日のソ連の通信員ローマン・カルマンの次のような報告がある。 「私はマイダネクで今まで見たことのないおぞましい光景を見た。これは強制収容所などではない。殺人工場だ。ソ連軍が入った時、生存者の多くは既に他に移されていて、収容所は生ける屍になった収容者が1000人程度が残されているだけだった。ここのガス室には人々が限界まで詰め込まれたため、死亡したあとも死体は直立したままであった。私は自分の目で見たにもかかわらずいまだに信じられない。だがこれは事実なのだ。」(この10行余りはウイキぺディアを要約して書いた)

 

キコはここで亡くなった人々の魂に捧げるために

 シンフォニー 《無垢な人々の苦しみ》

をユダヤ人の兄弟たちの前で演奏したかったのだ

  

   

王城前の貝殻状の広場は、芝生の緩やかなスロープも含めて理想的な自然の野外コンサート場になっている。 

  左の写真の後列に見える青い椅子席のあたり    その青い椅子の後ろから眺める舞台はかなりのスケールだ

 

指揮者のパウがリハーサルに入った頃はまだ晴天で、Tシャツがピッタリの暖かい日差しに包まれていた。

 

   

バイオリンも、ソロでマリアを歌う彼女も、ハープも、管楽器も、みんな最後の調整に入っていた。

 

 

    

 ルブリンやクラカウのカトリックの高位聖職者も歓談しながら開演を待っていた。

 

    

しかし、今日の主賓は何と言ってもユダヤ人のラビたちやユダヤ人社会のリーダーたちだ。右端のキコは彼らを心から迎える。

 

  

おや? この娘は一体何をしている? 大きながまぐち風のハンドバックを頭に載せて? そうです。にわか雨です!

 

 急に頭上を黒雲が覆い、鋭い稲妻が走り、つんざくような雷鳴が轟き渡った。キコの後ろの垂れ幕も、流れ落ちる水で縞模様になった。楽屋のエンジニアは、落雷や漏電を恐れて、機材を護るために電源を切った。マイクが死んでは会衆に呼びかける手だてもない。

さあ、キコどうする?

彼は間を持たせるために、オーケストラに共同体のコミカルな元気の出る曲の演奏を命じた。

一同は楽譜の用意もなかったのに、即興でそれに応じた。

 

  

 ひらめく稲妻、絶え間なく轟く雷鳴。土砂降りの雨。司教さんたちは不安顔。しかし、イタリア人の参列者は陽気なものだ。

 

20分経ち、30分が経っても一向に止む気配がないのに、椅子席や芝生を埋めた観客は立ち去ろうとはしない。

 

    

小1時間して、さしもの雨も弱まり、電源が戻った。キコが挨拶をし、パウがシンフォニーを演奏し始めた。

だが、演奏が始まると無情の冷たい雨脚は再び強まり濡れた衣服に吹き付ける風で体温を奪われ、震える人もいた。

 

  

シンフォニーは、クライマックスを迎え、 「シェマー・イスラエル」 《聴けイスラエルよ!》 を、

客席のユダヤ人もキリスト教徒も心を一つにして高らかに歌い上げた。

それを受けて、ユダヤ教会堂のプロの歌い手による「ホロコーストの犠牲者を悼む哀歌」が、

切々と詠唱された。

 

 

夜、ホテルの庭の特設テントの中では、ユダヤ教のラビたちや紳士淑女を招いて

キコのオーケストラのメンバーとの懇親会が開かれた。暖房が十分効いて快適な気分だった。

 

共同体のキコの歌の中には、ユダヤ教から借りてきたものが多数ある。

ラビたちの歌の数々を、キコの共同体はミサなどの祭儀でヘブライ語を随所に交えて日常的に歌っているのだ。

 

キコのメインテーブルに着くラビたちは、驚きと感激をもって、次々と繰り出される彼らの歌に聞き入っている。

 

  

やがての事に、ステージでホロコーストの哀歌を歌ったラビたちが、自ら立ってユダヤ教の歌を歌い始めた。

夜も更けて、ユダヤ人の客人たちは感激と喜びのうちに退出していった。

2000年間相互に反目し合ってきたユダヤ人とキリスト教徒が、こんなに打ち解けて仲よく交歓する景色はかつて

この地上に存在しなかった。これは、少年時代からユダヤ人を友として育ったポーランド人教皇ヨハネパウロ2世と、

それにぴったり呼吸を合わせて働いたキコの共同作業が起こした、歴史上の奇跡といえるだろう。

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/af28860920e0e8f809dab37c43c1cbdb

 

明日は最後の会場、ハンガリーの首都ブダペストのオペラハウスに向かう。

一旦クラカウに戻り、国境を越えて、昨日の倍ほどの行程の大強行軍が待っている。

 

(つづく)

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★ WYD 〔秘話〕 ブラジルでの再会 -ホイヴェルス師の結ぶ縁-

2014-01-01 16:46:13 | ★ WYD 世界青年大会

★ 新春の初夢にかえて贈ります。

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WYD 〔秘話〕 リオの再会

- ホイヴェルス師の結ぶ縁 -

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 2008年秋、私は見知らぬご婦人から初めての手紙を頂いた。ブラジルからだった。彼女は私の本の書評を見て、わざわざ日本から取り寄せて読んだのだそうだ。

 そのお手紙はこう始まる。  「今、ブラジルは8月13日、午后2時半。 《バンカー、そして神父》 を読み終わりました。感動!そして激しい歓喜の涙!今の私の気持ちをどう表現していいのか、術を知りません。こんなに感動して読んだ本は今までありません。こう書きながら涙がとめどなく流れます。有り難うございました。・・・」 さすが情熱の国、ブラジルからのお手紙だ。

 読み進むうち、戦後、写真見合いだけで決意して、単身ブラジルに渡り、リオで獣医をしていた青年と結婚し、2男、1女を授かり、幸せな生涯を送り、数年前にご主人を亡くされたことが解ってきた。ご主人はまじめを絵に描いたようなカトリック信者で、彼女にも結婚式の前に洗礼を受けることを求め、それまでシスターの修道院に預けられたのだそうだ。


 

愛するご主人の遺影に添えられた彼女の最初の手紙

 

 ご主人は、日本ではある著名な政治家の秘書になったが、酒が飲めなくては政界での出世は難しいだろうということになり、獣医として新天地に夢を賭けたのだとも書いてあった。そして、そのご主人を信仰に導いたのが、当時麹町教会の主任司祭だったヘルマン・ホイヴェルス神父だった。

 ホイヴェルス神父と言えば、私の青年時代を通しての霊的指導司祭で、ある時期、このご主人と私は面識こそなかったが、四谷の聖イグナチオ教会の境内で間違いなく空間を共にしていたのだった。そして、いつも師の側にいる私を年上の彼が見知っていた可能性は高い。


1964年にインドのボンベイでローマ教皇が史上初めてヨーロッパの外に出る記念すべきイヴェントがあった。

ホイヴェルス神父は司祭になる直前、ボンベイ郊外のハイスクールで教鞭を執ったことがある。

教皇パウロ6世が国際聖体大会のために来ると言うので、ホイヴェルス神父も行くことになった。

弟子の中では私ただ一人、カトリック新聞の臨時特派員の肩書で参加し、会期中は行動を共にした。

上のペン画は、私が神父とその昔の教え子たちをスケッチしたもので、カトリック月刊誌の片隅を飾った。

 

 「生来の筆不精で、めったに手紙など書いたことがなかった私が、一体どうしたことでしょう?」、と自分でも驚きながら、それ以來彼女から毎月一通以上の手紙が届くようになり、私もまめに、長男のHさん宛のメールの添付ファイルでせっせとお返事を送り続けた。

 その後の手紙には、結婚のために横浜を船で発った時の写真や、ウエディングドレスの初々しい写真など、時代を感じさせる白黒の写真数枚と、ご主人がホイヴェルス神父からもらった神父直筆のドイツ語の詩までいただいた。私はそれを大事に額に入れて野尻湖の家においている。


恐らくホイヴェルス師の自筆の詩とは別に、もう一枚の紙に縦書きの訳があったのだろう。

彼女のご主人はその訳文をばらばらに切って、原文の余白に糊で横向きに貼り付けたものと思われる。

カッコの中に「古いドイツのことわざ」とあり、日付はH師と私がインドに行った3年後だ。

 

 その彼女が、2009年5月末に私に会うためにわざわざブラジルからの巡礼団に便乗してローマにやって来た。私は、彼女を神学校に案内し、聖ペトロ大聖堂に伴い、郊外のネミ湖までドライブして野イチゴのトルタを一緒に食べた。

 そのときだったか、ご主人の形見のア・ケンピス著「キリストに倣ひて」(光明社刊)を私に託した。ビニールとセロテープで表紙はしっかり補強されていたが、紙はぼろぼろに黄ばみページもばらばらにはずれた、書き込みで一杯の小さな一冊だ。彼は1951年に第一回目の通読を終えている。その後も読むたびに表紙裏に記録して、2001年6月15日に80歳で18回目の通読を終えるまで、実に半世紀にわたって肌身離さず持ち歩いていたのだ。当時の日本人男性にとっては、新約聖書以外では数少ない信仰書の古典だった。

 彼女とは正味1日半の短いローマの休日だったが、「次は貴男がブラジルに会いに来る番よ」と言い遺して帰っていった。

 あれから4年、WYDの野外ミサの会場、コパカバーナの浜辺は、彼女の家から歩いてものの3分とかからない至近距離だった。キコの召命の集いが終ると、彼女が予約してくれていたホテルに移った。彼女の家には独身の長男と孫娘二人が同居していて、私のために部屋が無かったからだ。ホテルは彼女のマンションからは歩いて1分のところだった。

 それから4日間、彼女はリオをゆっくりと案内してくれた。 息子のHさんの運転でドライブにも出かけた。  


あとは、その時の写真アルバムだ。


ミニストロ・ヴィヴェイロス・デ・カストロ通りを右に行くとすぐ彼女の家。直角に左手前が私のホテルかな?

 

朝、暗いうちに申し合わせてコパカバーナの砂浜を2人で散歩。汗ばむ頃に太陽が昇ると、真冬とは思えない日差しになる。

 

  

教皇フランシスコの370万人ミサのステージも、はや取り壊しにかかっていた。 南大西洋はアフリカから打ち寄せる波。

 

のどが渇いた。 あのキオスクでヤシのミルクを飲もう。 ストローをさすばかりにカットしてもらう。 商品は頭上で量産中。

 

おや?早朝から浜で衛星中継? 教皇はもう居ないよ!

  秘密警察に消された活動家の死に抗議するパーフォーマンスだと聞かされた。

行方不明のアマリルドは今どこに?

    

              

左の岩に髪の毛ほどの白い線が縦に。 命知らずのロッククライマーたちだ。 私ももと山岳部員で多少の心得はあるが・・・

              ・・・やらないね! こんな危ないことは!!      

 

   

クライマーを尻目に、一足先にロープウエーで頂上に。左の写真のゆるくカーブしたところがコパカバーナのビーチ。

目の下をリオの空港に降りる飛行機が通り過ぎた。

 

着陸して羽を休めているのは、まさか? コンドル!?! 毛のない頭、少なくともその一種らしい?? 

広げた翼は3メートルを優に超えているだろう!

 

イパネマの浜辺に行った

見つけたぞ! トム・ジョビン作曲のボサノバ 「イパネマの娘」 の現物を!!!

 

リオのカーニバルのサンバ祭りは、もとは市内の金融街の目抜き通りで踊られていたそうだが、弊害もあって

今では年に一度のお祭りのために、このような特設巨大スタンドが設けられている。左の M が終点。

この右ずっと、対のスタンドが5-6組、遠くまで直線状にずらっと連なっている。審査員たちはどこで観るのか?

阿波踊りとはまるでスケールが違う。

 

スタンドの裏の急斜面を這い上がる貧民窟。道もなく下水管も埋設されていない。電気はあるようだが、飲み水は?

不動産業者が商品とは見做さない急斜面に夜中にブロックを積んで小さな一間でも建てて8年(だったかな?)

住み続ければ居住権が生まれるのだそうだ。カーニバルのサンバの女王はこんな極貧の場所から生まれる!

教皇フランシスコはリオに数多くあるこの手のスラム、犯罪と麻薬とセックスの巣窟、の一つを訪れた。

 

   

彼女の娘、つまり同居する二人の孫の母親は、リオからバスで1時間の高原、テレソポリスの町に住んでいる。

リオの街にも巨大な奇岩が多く、ランドマークの十字架像も海を見下ろしているが、ここも負けてはいない。

私の後ろは「神様の指」の岩。 左手の親指を握りこんで人差し指を立てるとこの形になる。

右は「横たわる乙女」。西日に照らされた胸のあたりにはまだ固い乳房がつんと立っている。

遠くだからよく解らないが、頂上のすぐそばまで車で登れるほどの大きな岩山だそうだ。

じつは彼女のご主人の遺骨はこの乳房に先、岩山のてっぺんに葬られている。

だから彼女は私をここまで案内したかったのだ。最初の写真、追悼のしおりの

  浴衣姿のご主人の左上の写真、真っ赤な朝焼けの黒いシルエットが   

         この岩山であることに気付いて私は感動した。                        

    

リオに戻った。 コンドルを見た岩山から望遠で撮った十字架像の岩に登った。ロープウエーで行くものだとばかり思っていたら、

歯車でレールを咬みつつ登るアブト式自走登山電車で頂上直下まで、最後はエレベーターで十字架の足元に出た。

突然日本語で僕の名を呼ぶ者が。振り向くと、なんとアルバロ神父ではないか。何年ぶり?実に奇遇だ。

彼は高松教区立のレデンプトーリスマーテル神学院を出て神父になった若者の一人。

しかし、今は自分の教区で働けないので、アフリカの宣教に旅立って久しい。

かれの後ろには数人のアフリカ人の青年がついてきていた。

彼は私に、早く日本に帰って宣教したいと言った。

これも、もう一つの「リオの再会」だった。

    

植物園にも案内してもらった。 日本庭園があった。 池に睡蓮の花も咲いていた。 見ると葉っぱにはギザギザ、トゲトゲがあった。

 

                            

木の幹にへばりついた奴、一体何者? 手足の間に膜が無いから、ムササビでもモモンガ―でもないらしい。

しかしまあ、なんと立派な腰だこと、と感心していたら、ひょいと枝に移った姿は、なんだ、ただのリス君だった。

 

 蜥蜴(とかげ) の夫妻に見送られて、日本に帰ることにした。

 

〔後日談〕

リオから日本に帰り、今またローマに来ているが、その後、彼女からの手紙がピタリと途絶えた。

心配して電話したら、「昔の筆不精に戻ったみたい」 だとさ。

彼女との出会いのきっかけになったわたしの一冊目の本。

「バンカー、そして神父」(亜紀書房)

このブログを読んで興味の湧かれた方は下をクリックしてみてください。

 http://books.rakuten.co.jp/rb/4122150/ 

 

(WYD は本当に お・し・ま・い

コメント (4)
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