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津波の被災地は今-3
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何故か心が重く、ブログの更新が1日伸ばしになってしまいました。
津波の圧力で横倒しになり元の場所から移動した4階建てのビル
瓦礫の中からつぶらな瞳でこちらを見つめるお人形の首
砂に埋まった船。 瓦礫の端に放置された漁船。
この津波で無数の船が失われ、漁業の再開の目処は立っていない。
赤いゴム長の婦人。 すでに瓦礫が撤去された自宅跡(?)で無心に何を探す?!
震災から5カ月もたって・・・・・
海のすぐそばのゴーストタウンのような建物の群れの中に、目立って大きなビルの廃墟が一部を鉄板の塀に囲まれて幽霊のように建っていました。
海沿いのビルは、地震後の1メートル近い地盤沈下で、軒並みゼロメートルかそれ以下になった
我々のワゴン車がその前に停車すると、彼女のお母さんが車の中で居ずまいを正して両手を合わせ、建物に向かって恭しく頭を垂れて祈るではありませんか。
ビルの前で片側のキャタピラを上にして横転し塩水に浸かって使えなくなったパワーシャベル
それを見た時、東京からの道々、車の中で彼女が話してくれたことを、ハッと思い出しました。
その話と言うのは、大体次の通りです:
あの日、津波警報の中、ある会社の女性従業員が、最後の顧客を安全に避難できるように誘導し終えた時は、既に彼女自身に安全な高台に逃げるだけの時間も手段ももう残されていませんでした。それで、自社のビルの屋上に逃れるほかはありませんでした。屋上にいるその姿はテレビにも映っていたそうです。ところが、襲ってきた津波は無慈悲にもそのビルの屋上を越えて、そのまま内陸へとなだれ込んで行ったのでした。一瞬のうちに彼女の姿は画面から消え失せたのは言うまでもありません。
そうか、その女性社員と言うのが、実はこのワゴン車を運転してくれている男性のお嫁さんだったのだ、と鈍い私の頭の中でやっとストーリーが繋がったのでした。
彼は、自分の妻がその建物の屋上に居る姿をUチューブの映像で見たのを最後に行方不明のまま、遺体も発見できずに今日に至っていたのでした。彼は自分の妻が死んでしまったと言う現実を、その遺体が確認されるまでは受け入れることが出来ず、いまだにひょっこり帰ってくるのではないかと待っている様子で、-密かに遺体探しは続けていたのかもしれませんが-、この5ヶ月間、彼女の姿が最後に確認された建物の廃墟に、誰かと一緒に近づくことは決してなかったそうです。
それが、我々を案内して被災地をめぐるうちに、初めて現場に行く気持になったようでした。そして、その後は気持ちが楽になったのか、極めて自然に近くの避難所に立ち寄り、瓦礫の中から見つかった写真のアルバムや、誰かの遺品と思われるものが集められた場所を巡り、慰霊供養の祭殿の前では線香をあげて手を合わせたり、最近発見された遺体の報告資料に目を通したり、心の中で葛藤しながらも、気持ちの整理に努め、妻の死と向き合おうと努力しはじめているかのように見受けられました。
無造作に篭に集められたアルバムの数々
記念写真の数々。誰からも引き取られることなく、ずっとその日の想い出を伝えて・・・
羽織袴も ドレス姿も つのかくしも
1世代前 (?) のブルーインパルス 年輪を重ねた老夫婦のスナップ写真も
女川町・大原で発見された最初の10遺体。2体目と10体目は津波の翌日から2-3日以内に発見されたにも関わらず、まだ身元は確認されず、いまだに引き取られていないと言うことか?
11番目から20番目までは、氏名も判明し、遺族によって引き取られている。
最後のページ。521体目は女性。7月25日6時28分に女川港海上で発見された。まだ着衣は整っている。524体目は女性。海上で発見。着衣は右足靴下だけ。最後の526体目は、7月26日7時40分、市場東南訳200m、岸壁の瓦礫の中から発見された。9月に入った今、その後何体がこのリストに加わっていることだろうか。
打ち解けて話し合ったことが、彼の背中を一押しして、少しでも現実と向き合いそれを受け入れる助けになったとすれば、被災地を訪れたことも無駄ではなかったかと、振り返っていました。
石巻の町に入ると、先ず日本で最古のハリスト教会(ロシア正教会)の建物を見に行きました。北上川の川岸に別の場所から移築されていた木造の教会は津波に襲われ、かなり大きなダメージをうけていました。教会のすぐそばには辛うじて建物との衝突を免れた大きなクルーザーが二隻打ち上げられてどっしり鎮座していました。
教会の左側に一隻 もう一隻は教会の前の樹木を半分押し倒すように止まっていた。
町の中心に近づくと、浴衣に団扇姿の若い娘たちや、たこ焼きや、お好み焼きの匂い、生ビールやその他の屋台の呼び声、大勢の人出でお祭りのような賑わいでした。
お祭りの屋台と 道一杯に置かれた追悼の蝋燭
北上川の川岸の警察署前の広場には祭壇が設けられ、僧侶や、立正佼成会の婦人会、学生や子供たちの奉仕者が整然と慰霊・追悼の式を執り行っていました。
映像取材の若い二人 神戸から送られた竹蝋燭で作られた3.11の文字
並行して始まった灯篭流しを見に岸辺に行くと、暮れゆく北上川の川面を、無数の(確か1万個以上の)灯篭が、次から次へ川上から風に送られて、思いがけない速さで川下へと流れて行きました。
1万個以上の灯篭が、北上川の川面を風に送られて、思いがけない早さで海に向かって流れて行った
一つ一つの灯篭に震災・津波の犠牲者の魂が・・・・・
次の朝早く、東松島を発って、東京で車を返し、その足で長野新幹線に乗って野尻湖の家に戻りました。
その後、この野尻湖の家には、たまたま相次いで私の大切な知人、友人の訃報が届き、毎朝のように追悼のミサを捧げる日が続きました。
お盆を過ぎて、久しぶりに電話を入れたら、あの車を運転して女川まで連れて行ってくれた彼は、お盆で集まった親戚・知人に会うのを避けて姿を隠していたようだったということでした。自分の行方不明の妻の死をいまだに受け入れかねて、そのことに話題が及ぶのを恐れてのことでしょう。いちど心を捕らえたトラウマは、誰かに出会ったぐらいでは簡単に消えないのだな、とあらためて思い知ったことでした。
一日も早く彼が現実と向き合い、前に向かって一歩を踏み出すことが出来るために、私にはいま何が出来るのだろうかと自問しました。遠くからそっと見守り、彼の心のバランスの回復が一日も早いようにと祈りたいと思いました。
彼のケースは、私がたまたま接し得た一つの例にしかすぎません。何十万人の被災者の中には、形は様々でも、担い切るには余りにも重すぎた痛手に圧倒されて、いまも喘ぎ苦しんでいる人達が無数にいるだろうことにあらためて気付かされました。
(ひとまず、終わり)