:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 今年も広場で宣教 - 100の広場

2023-05-23 00:00:01 | ★ 福音宣教

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今年も広場で宣教

コロナは下火になったから

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今日は怠けて大きいカメラを持ってこなかった。そしたら iPhone もうっかり駐車場の車の中に忘れてきてしまった。だから写真は兄弟たちが撮ったものばかりで心もとない。ちょっと残念!

 

公園のモニュメントに登って始まるのを待つ子供たち 

 

 私たちは聖教皇ヨハネパウロ2世に励まされて、復活祭の後の6週間、日曜ごとに広場に出て直接宣教をする習慣がある。

 私は、今年の一回目は他の用で参加できなかった。二回目は雨にたたられて流れた。三度目の正直、東京郊外の公園に行ってやっと参加できた。

 

10年近く前から使っている横断幕

 

ギターに合わせてみんなで歌い

 

子供たちはボンギ(太鼓)をたたいて参加し

 

司祭のわたしは大したことをしなかったが

 

みんなで手分けして、ケリグマ(よい知らせ)が告げられ

兄弟の2~3人が信仰告白をし、自分のカトリック入信(回心)の歴史を語り

歌が歌われ 教会の祈り(朝の詩編)が唱えられ

主の祈り、平和のあいさつ(ちゃんとハグハグする)ect.

 

最後はいつも讃美歌に合わせて、みんなで楽しく輪になって踊る

 

 初めは恥ずかしくてちょっと勇気がいる。しかし、謙遜になり、元気を出してやり通すと、終わるころには達成感があり、信仰が強められたのを感じる。

 以前はよく原宿の代々木公園でやったものだが、日本ではいろいろうるさい規制がありヨーロッパのように繁華な場所で自由に活動することは出来ない。

 過去の広場での宣教の記録は以下のブログをみてください(ブルーのURLをクリックする:

日本版「100の広場に飛び出そう」(原宿の場合)

2015年4月のブログ記事一覧-:〔続〕ウサギの日記 (goo.ne.jp)

日本版 100の広場  (原宿ー2)

2015年5月22日のブログ記事一覧-:〔続〕ウサギの日記 (goo.ne.jp)

 

  私はすでにローマでの「百の100の広場に飛び出そう」について、3編のブログを書いています 本格的な拡声器を使って毎日曜日

道行く人と対話する、毎日曜日聞いて入信する人が毎年いる

興味のある人は下をクリックして覗いてみてください:

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/0c8f519565b6693d54ac0b6d5d94da6c 

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/5a1506a11996016b66cecc9a052ce5ef

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/dd5b401c3ec3c8fe7f083eea574a9d27 

 

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★ 「お金=神」 の時代をどう生きる?(そのー6)

2018-01-14 06:38:36 | ★ 福音宣教

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「お金=神」の時代をどう生きる? (最終回)

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写真のないベタ文字のブログが敬遠されることは、経験からよく知っている。それで、いつも恐る恐るアクセス解析を見るのだが、驚いたことに今回は逆に続伸している。それで、調子に乗るわけでもないが、もう一回だけ運を試してみようという気になった。 

 

これからする話は、我ながら出来すぎていると言うか、芝居がかっているというか・・・。わたしだって、人がこんなことを言ったら、「嘘だろう。そんなことってあり得ない!」と言って、信じたくない思いが先立ったかもしれないのだ。

だから、現実に起こったこととして信じられない人がいて、谷口の作り話だろうと言うなら、私は敢えてそれに抗弁はしない。しかし、「事実は小説よりも奇なり」なのだ。

 

振り返れば、この1週間の修練のあいだ、一日として安楽な日はなかった。とは言え、雨でも降らない限り日中は何とかなった。ただ、夜を過ごすのはつらいことが多かった。しかし、それも明日無事に汽車に乗れたら、あとは誰かが何か食べさせてくれるかもしれない。有終の美を飾るために、今日もう一日元気を出そう、と自分を奮い立たせた。

夕闇が迫るころ、都心に帰るにはもう遠くまで来すぎていた。この教会を最後に、あとは橋の下の風の当たらない場所でも探そう。そう心に決めて、戸を叩いた(呼び鈴がなかったからだ)。薄暗がりのなかでも、手入れの行き届かない小さなさびれた貧しい教会であることは歴然としていた。 

待つことしばし、疲れた顔をした初老の司祭が、物憂げに現れ「・・・・・」と、彼は無言だった。

だが、こちらはもう慣れたものだったから、お構いなしに、「主の平和が貴方とともにありますように!」「神父さん!神の国は近づきました。回心して福音を信じてください!」と一気にまくし立てた。

すると、その神父はガックリと膝を折って、我々の前に黙って跪き、目に涙を浮かべ、わなわな震える声で言った。

「ああ、やっと来てくれましたね。私は貴方たちが来るのを何年待ったことか!ありがとう。ありがとう、神様・・・。」後はもう言葉にならなかった。彼はさめざめと泣いていた。

この思いがけない展開に、私はただ呆気にとられた。

その夜、遅くまでかかった彼の告白を写実的に展開すれば、興味をそそるブログが3つも4つも書けただろう。だがそれはしない。

神父になって以来、彼の人生はずっとついていなかった。任された教会はもともと小さく貧しかった。説教が下手で人を惹きつけることに成功しなかった。世間の景気が良くなればなるほど、信者は教会を離れ、献金も減って、やり繰りがつかなくなった。神父の身分に強いられた独身生活の淋しさに耐えかねて、愛人をつくり、密かに肉欲に溺れる自分を恥じながら、やめられなかった。酒で良心を麻痺させようとしてアル中になり、わずかなお手当も殆んど酒代に消えるようになった。しらふの時には努めて善人を装ってみても、仮面の下の醜い素顔が魂を苛んだ。神などとっくに信じられなくなっていた。引き裂かれた魂のまま生きているのが辛く、死んだら楽になれると思ったが、いつも未遂に終わった。

そして、信じてもいない神に向かって叫んだ。「神様、もしあなたがいるのなら、人を送って私に回心を勧めさせてください。その印を見たら、もう一度人生をやり直せるかもしれませんから・・・。」

そして、何年も待ったが、誰も来なかった。私は完全に見捨てられたと思って人生を諦めていた。

だが、私は今、神様を再び信じる。彼は私を見捨てなかった。その憐れみと赦しと愛の印を見たからだ。

あなたたちがその印だ!

全てを語り終えて、彼の顔に微笑みが浮かんだ。私たちは抱き合った。私たちも泣いた。甘美な涙だった。彼の家にあったものを一緒に分け合って食べ、飲んだ。それはどんな豪華な食卓よりも素晴らしかった。

彼はもう大丈夫だ。きっと立ち直って再び生きはじめるだろう。

 

聖書という書物は実に不思議な書物だ。世の中には古典と呼ばれるものが無数にある。しかし、この一冊は全くの例外だ。他をすべて引き離して、ダントツ1位の超ベストセラーだから、だけではない。

それは、聖書に書かれた言葉に-聖書に書かれた言葉だけに-生命が宿っているからだ。聖書に書かれた言葉が死んだ言葉ではなく生きている言葉だというのはどういうことか。それは、その言葉に命があり、その命が活動し、その言葉が生き物として動き、働き、作用して結果を生まずにはおかない、ということだ。聖書のある場面と同等の状況で同じ言葉が告げられると、時間と場所を超えて同じことが起こり、同じ結果を生む、そういう不思議な言葉だと言ってもいい。

人間が(年齢も人種も異なっていても)、同じ状況で(たとえば見知らぬ土地で二人が連れ立って一銭も持たずに)、聖書に書いてある言葉と同じ言葉(たとえば、「神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい。」)を吐くと、2000年前にガリレア地方でイエスの弟子たちの身に起こったことと全く同じことが、現代のベルリンの秋の空の下で、私たちにも起こる、ということだ。私にとっては、自分の身に起こったことであり、見て触れたことだから、当然信じて生涯忘れないが、たった6編の私のブログを読んだ読者の皆様も、「ふーん、そうなんだ。そんなこと実際にありなんだ!」という気分になって納得されるのではないだろうか。生きている神の言葉だから、命あるものに固有の働きをして、その作用に見合った反作用を引き出す、と言ってもいいだろうか。

聖書には「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6章24節)という言葉がある。

今回の正味1週間の修練は、一人の主人(神様)だけに100%仕えたらどうなるかの人体実験だった。実験室の中でもう一人の主人(マンモンの神=お金)を完全に排除した時空を人工的に作りだし、その中で人間はどうなるか、神様はどう働くかを検証した、と言ってもいい。

ローマから1200キロ離れた人口300万人のドイツ最大の都市で、一銭も持たず、頼るべき知人もなく、ただ聖書の言葉を告げるだけで1週間過ごすとどうなるか。まるで広大な砂漠のど真ん中に放り出されたような状態に身を置くと、ふだんはどこに居るのか、居るのか居ないのか、雲をつかむような不確かな存在だった神様が、目にこそ見えないが、ピッタリ寄り添って、まるで召使のように衣食住必要なものすべての面倒を見て下さった、という実体験は、一度それを経験すると生涯決して忘れられるものではない。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイ6章25-31節)

という言葉は、命のある生きた「神の言葉」だった。言われた通り「回心して福音を信じなさい!」と言ったら、目の前であの神父が回心した。まさに奇跡が起きた。こんなわかりやすい事実はかつて経験したことがなかった。

(おわり)

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★ 「お金=神」 の時代をどう生きる?(そのー5)

2018-01-12 06:40:32 | ★ 福音宣教

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「お金=神」の時代をどう生きる?(その-5)

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何時間寝たか。日の出と共に目覚めたときには、野ウサギたちはもう巣穴に帰っていた。

二人とも冷静さを取り戻していた。どちらからともなく謝って和解すると、関係はそれまでよりずっと親密になった。人の気配が始まる前に朝の冷気をついて学校を後にした。公園の水道の水を腹いっぱい飲んで朝食に代えた。

臨機応変にヴァリエーションが加わるにせよ、平和のあいさつに始まって、「神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい!」と告げるのがこのミッション(宣教)の核心になる。毎日それ以外にすることがない。

相手は一律にカトリック教会を預かる主任司祭たちだが、反応はまちまち。嫌悪の情をあらわにして我々を拒む神父から、適当にあしらってバイバイの人、生真面目に対応して受け入れる司祭まで、10人十色だった。ひもじい日もあれば、お腹いっぱいの日もある。夜は何とか工夫して寒さをしのぐが、まともにベッドに寝られることはなかなか期しがたい。

その日の午後も足を棒にしたが、まだ夕闇には届かない中途半端な時間だった。ベルリン郊外の教会は互いに離れている。疲れは溜まってきたし、今日はもうこの辺でおしまいにしたいのだが・・・と期待しつつ教会の呼び鈴を押した。

紋切り型の「平和の挨拶」は無事パスした。玄関のやや長い立ち話もスムースだった。修行のためとは言え、いまどきバカ正直に聖書に書いてある通り「福音を告知」をするために、一銭も持たずに遠路はるばるイタリアからやってくるなんて実に奇特な話だ。まあ、冷たいものでも一杯飲んで休憩していきなさい、と応接間に通してくれた。期待したビールではなく、ジュースとビスケットが出た。

私は通訳に徹し、光男君を話の輪に加え、3人で対話する形に持っていくほどに私も成長していた。相手の神父がいい人だということはよくわかったが、さりとて話が盛り上がり熱が入るというわけでもなかった。何となくこの辺が潮時かと察して、暇乞いをして教会を出た。

二人で顔を見合わせて、さて、これからどうしよう?時計は6時頃を指していた。市の中心に戻って、浮浪者向けの炊き出しの列に並ぼうか、もう一軒教会を訪ねて運を試そうか。地図を見ると一番近い教会は4キロほど離れていた。7時前には着くかな?という感じだった。光男君も逞しくなっていて、もう一軒試すほうに同意した。

二人の関係はもうささくれ立ってはいなかった。日はとっぷりと暮れ、郊外の集落の窓々には団欒の灯がともっていた。マッチ売りの少女も、寒さに凍えながら、あの明かるい窓の中を切ない思いで覗いたにちがいないと、ロマンチックな気分に浸るころには、遠くに司祭館の灯が私たちを招いていた。

ピンポーン♪!すぐに中から戸が開いて、笑みを湛えた赤ら顔の神父さんが迎えてくれた。

「主の平和が神父さんと共に・・・」と言い終わらないうちに、「いいから、いいから、さあ入んなさい。外は寒いから早くドアを閉めて。」「遅かったね、待っていたんだよ。もう温かい食事の準備はできている。手を洗うかい?トイレはあっちだ!」

「????!」これは一体何の冗談だ?!思わず光男君と顔を見合わせた。神父は満面に笑みをたたえて、手を揉みしだきながら我々を眺めている。

「神様!サプライズもいいけどネ、あんた、こりゃちょっとやりすぎじゃないですか?」と心の中でつぶやいた。

暖炉の前のソファーに落ち着いた。平和の挨拶も、神の国は近づいた・・・、も省略。とにかくまずは乾杯!晩秋のベルリンでも、温かい部屋の中では、最初の一杯は冷たいビールがいい。

「私は日本人のジョン、こちらは光男君。イタリアから列車に揺られ、マルコ福音書の6章にある通り、イエスが弟子たちを二人ずつ、パンもお金も持たせずに町や村に宣教に派遣した故事に習って派遣されてきました。まず平和の挨拶をして、それから・・・。」 

「うんうん、それはわかっているよ。ところで今日で何日目?ほう、それで、あんたたちの勧めを聞いて改心した神父が一人でもいたかね?」

「ん?」と、想定外の角度からの質問に、一瞬答えに窮した。「さあ、それはまだ何とも・・・・。」

「それがいたんだよ、一人!」

「ん?」と、また詰まった。

「いや、実はね。一時間ほど前に電話が鳴って、友達の神父が言うには、『一風変わった二人のアジア人がやってきて、これこれ、こういうことだった。真面目な連中だとは思ったが、深く関わったら面倒なことになりそうだと思ったものものだから、努めて距離を置いて応対していたら、そのうちあっさり辞してどこかへ行っちまったのさ。ところが、送り出した後で急に気が咎め、もしかしたらあれは神様から送られてきた天使たちで、大切なメッセージを持ってきたのかもしれなかったのに・・・と、何とも後味が悪くて考えたんだが、この日暮れの寒空に、まだ行くところがあるとしたら、多分君のところかもしれないと思ったわけさ。だから、もしも来たら車に乗せて送り返してくれ。後は自分が何とかするから』と・・・。」「それで言ったんだ。『わかった。だが、もし来たら私が面倒を見よう。いま時、良い知らせを持って天使がやってくるなんて話、めったにあるものじゃないからね』と返事したわけさ。」

「神様、あんたなかなか粋なことをするじゃない?!それにしても短足にジーパンをはいた肌の黄色い天使なんて絵にならない」と、また独りごと。

さっきの神父は別れたあとで回心した。そして、この赤ら顔さんは会う前にもう回心していたなんて・・・。

その夜はベルリンに来て以来の人間らしいひと時になった。暖炉に燃える火は私の野尻湖の隠れ家のそれといずれ甲乙つけ難かった。美味しいドイツワインは白と相場が決まっている。炙(あぶ)った豚肉にはポテトサラダが似合う。

その後赤ら顔の神父さんと交わした話は極めて真面目なものだった。

もともと日本は「人格神」不在の自然宗教の世界で、戦後天皇が人間宣言をして以来、日本には「生ける神」への信仰は完全に消滅した。日本列島に生息するエコノミックアニマルが跪(ひざまず)き額を地に擦り付けて拝んでいる唯一絶対の神は「お金の神様」だ。古代オリエントの言葉ではこの世で最も力ある、「マンモンの神様」、別の名を「悪魔」という。

おかげで、日本はドイツを抜いて奇跡の経済成長を遂げた。それに驚いた西欧社会は、追いつき、追い越せとばかり、日本の模倣に走った。それは、生ける神を殺すこと、キリスト教の信仰を脱ぎ捨てて、マンモンの神様を拝むこと、だった。親はもう教会に行かない。生まれた子供には洗礼を授けない。それが劇的に進んだのは「壁」崩壊後の東ベルリンだったが、無神論の共産圏にいた間は信仰を守り続けていた東欧諸国の善良な市民たちも、今は我先に日本の真似をして信仰を脱ぎ捨てにかかっている。

そのような世俗化とグローバル化に敢然と立ち向かっているのが「キコ」と呼ばれるスペイン人のカリスマ的一信徒と、それに従う集団だ。私たちはその中からベルリンまでやってきた。ここ半世紀、歴代のローマ教皇はカトリック信仰の復権を託することのできるほとんど唯一の懐刀として、この運動を大切に庇護してきた。云々。

神父はじっと聞いていたが、自分もその運動に是非触れてみたいものだと真剣に言った。私はそのとき自分のベルリンでのミッションは具体的な成果を見た、と思った。

その夜は、ツォー駅に降り立って以来、初めてシャワーを浴びた。着の身着のままではあったが、皮膚に染みついた浮浪者特有の饐(す)えたようなあの独特の臭いは消えたように思えた。

清潔なシーツの柔らかいベッドに入って天井を見ながら思った。もし、光男君が街に帰って炊き出しに並ぼう、と言っていたら、僕はきっと彼の言う通りにしていただろう。そして、二人の神父の好意は空しくなっていたにちがいない・・・などと考えるうちに、安らかな眠りに落ちた。

(つづく)

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★ 「お金=神」 の時代をどう生きる?(そのー4)

2018-01-09 00:11:12 | ★ 福音宣教

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「お金=神」の時代をどう生きる?(そのー4) 

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1990年9月末のベルリンは秋の盛りだった。紅葉と落ち葉は素晴らしかった。しかし、日暮れからは寒さが身に染みる。何しろ、ローマは青森あたりだが、北緯52度30分のベルリンは札幌よりさらに900キロ余り北に位置しているのだ。さっそく「神様寒いよ!」と文句をたれた。それに答えて親切な神父さんが恵んでくれた上着がなかったら、本当に凍えるところだった。

(その夜をどうしのいだかは省略するが)、翌朝は柔らかい日差しの温かい日和だった。「神様ありがとう!」

お金がないからバスにもトラムにも乗らない。教会から教会へ、地図一枚を頼りに一日平均20~25キロほど歩き、神父を呼び出しては「神の国は近づいた。改心して福音を信じなさい!」を告げて歩く。

神父から問答無用の無情な門前払いを喰うことがある一方で、こちらが正気だとわかると、誰か、彼か、話を聞いてくれるものだ。午後には歩き疲れて、額に汗がにじみ、つい「神様、暑いよ。あなた、少しやりすぎじゃない?喉が渇いた、ビール飲みたい!」もう文句は言いたい放題だ。だが、いくら悪態をついても、たいがい誰かが神様に代わって、たらふくビールを飲ませてくれる、と言った具合だった。

別の日の夕暮、今日はもうこの教会で最後かな、と思う刻限になった。幸い主任司祭は留守ではなかった。

「主の平和が貴方と共に。」という挨拶に「また貴方たちと共に。」とすらすら型通りの挨拶を返すことを知っている神父は期待が持てる。(ダメな神父はまずこの挨拶が癇に障るらしい。)石で野良犬を追い払うような扱いを受ける時は、心に大きな喜びがあふれる。そんなとき、相手の上に願った平和が自分に返ってくる、と聖書に書いてあるのは嘘ではなかった(マタイ10章13節)。

打ち解けた会話は、地球規模の世俗化の圧倒的な潮流と、世界の教会の危機的な凋落に及ぶ。飽食の西ベルリンではとっくの昔に教会離れが進んで、神不在の日本の社会と大差なくなっていた。ベルリンの壁が崩壊するまで貧しい東側の教会を満たしていた民衆も、今はパッタリと教会に来なくなったという。たった1年の間の劇的な変化だった。

そんな中で、我々の運動が教会の刷新を担う希望の星として教皇(当時はヨハネ・パウロ二世)に大切にされていること、世界中で新しい宣教活動が進んでいることなど熱く語っているうちに、秋の日はとっぷり暮れてくる。我々がお腹を空かしていると察した人のいい神父さんは、ビールばかりか香りのいい白ワインも、チーズも、ソーセージも、黒パンも、たっぷりふるまってくれる。温かいスープにもありついた。

問題はそこからだ。このふたり、ひょっとして今夜の宿がないのではないか?という思いが神父の脳裏をよぎったと思われる瞬間から、事態は急変する。

神父は突然ソワソワし始める。時計をちらりと見て、実は何時から〇〇夫人の家で家庭集会がある。帰りは遅くなるだろう。今朝まで人を泊めていた客室はまだそのままで準備ができていない。50マルクずつあげるから、これで近くのペンションに泊まりなさい。この寒空に外で野宿なんてとんでもない。病気にでもなられたら寝覚めが悪いからと、彼はお金で問題を片付けようと必死になる。

それはそうだろう。家庭集会が本当の話かどうかはとにかくとして、我々が札付きの悪(わる)で、さっきまでの話はみんな信用させるための嘘でないとどうして言い切れる?教会の司祭館は、外からの侵入者に対しては金庫のように厳重な戸締りがなされているが、一旦中に入り込んだら、神父が寝静まるのを見計らって、窓の掛け金をはずし鎧戸を開けて外に出るのは造作もないことだ。

教会の祭壇脇の香部屋(ミサの準備室)には銀の燭台や宝石をちりばめた十字架、金の盃など金目の物が山ほどある。廊下のさりげない油絵だって十何世紀の値段の付けられない逸品かもしれない。司祭館は信徒の財産で、神父はよき管理者に過ぎない。だから、素性の知れぬ二人のアジア人を泊めるなんてリスクは誰も取りたくないのは当たり前だ。レ・ミゼラブルのジャンバルジャンが官憲に捕まった時のように、「あの銀器は私が彼に贈ったものだ」、なんて嘘をついて庇ってくれるような粋な神父はまずいない。

「さあ、これを受け取って行きなさい。一日歩いて疲れてもいるだろう。遠慮しないで!さあ!」と親切そうに言うが、さっきまでと違って、「私はあなたたちが信用しきれないから」と顔にはっきり書いてあるのを私は見逃さない。

それまで一人占めで神父と楽しそうにしゃべり続け、話の中身を一言も通訳してくれなかった私に対して、ストレスを極限までつのらせていた光男君が、おおよその空気を察して「一体どうなってるの?」と日本語で聞いた。ひそひそとかいつまんで事情を説明すると、彼は暗く寒い外に目をやって、「受け取ろうよ!」と言う。「だけど、出発する前に、食べ物も、飲み物も、一夜のベッドも、提供されるものは何でもありがたく受けなさい。ただしお金だけは絶対にダメ、ときつく言い渡されているではないか。」「それだったら、なぜもっと早くおしゃべりを切り上げて、駅の待合室に行くなり、浮浪者救済施設のベッドに申し込むなり、手を打とうとしなかったのか。こんな街はずれで遅くなって、雨でも降ったらどうするのさ」と私の段取りの悪さを責めてくる。それに「せっかくの親切を無にするのは悪くないか?」とも言う。

俺一人なら断固辞退するところだが、光男君にはちょっとひ弱なところがあるし、まだ半分以上の日程が残っている。彼に風邪でもひかれたらそれこそ厄介なことになる。それに、神父は苛立って急き立ててくる。納得いくまで彼と議論している時間はとてもなさそうだ。結局、こういう時は意思の弱いほうが勝つことに相場は決まっている。心ならずも大枚100マルクを受け取ってしまった。

さて、神父に礼を言って、外へ出てからが大変だった。

「お金はダメだとはっきり言われてきたではないか。どうして受け取ることにしつこく固執したのだ。」

「最後はお前が受け取る決断をしたくせに。」

「それはお前があきらめなかったからだ。それに、時間をせいている神父の手前もあったし・・・」と責任のなすり合いと弁解が延々と続く。

そんなところへ泣きっ面に蜂とはこのことか。冷たい霧雨が降り始めた。喧嘩は一時休戦。雨宿りの場所を求めて夜道を急ぐうち、小学校風の建物の前に出た。門をくぐって敷地内に入ると、グランドに面して広い庇(ひさし)の張り出した場所を見つけた。下のコンクリートは冷たく乾いていた。並んで壁にもたれて座ると、気まずい沈黙が流れた・・・。

雨に濡れてまで、宿を探しに行こうとは光男君も言い出さない。寒くはあるが、幸い体温を奪い去るほどの風はなく、お腹もいっぱいになっていた。そこへ歩き疲れから眠気が襲ってきた。

気が付いたら、いつの間にか眠っていたらしい。光男君は、そばで大きな寝息を立てている。

ふと目をやると、向こうの植込みの下に何やら不思議な光の点がたくさん見える。時々点滅したり、動いたりする。何だろう?と瞳を凝らすと、それはどうやら穴から出てきた野ウサギたちのようだった。少し離れた街灯の淡い光を、私たちを見つめる好奇の目が反射しているのだった。

そうだ、あの100マルクに決着をつけなければ、と考えて、神父宛てに手紙を書いた。「ありがたく気持ちだけは頂戴しました。しかし、お金はお返しします。私たちはお金を受け取ることをゆるされていませんので・・・。」その紙でお金を包むと、寝ている光男君を起こさぬように、そっと忍び足でその場を離れた。暗い道をたどるうち教会に着いた。ポストに投げ入れて最短コースで学校に戻った。

光男君は目を覚ましていた。そして腹の底から絶望していた。てっきり私に捨てられたと思ったらしい。言葉のわからない外国で、パスポートも帰りの切符も、それに「お金までも」私に持ち去られ、もう私とは永久に巡り合えないと悲観したのだろう。(「情けない!俺がそんなことするはずがないだろうが。1週間お互いに命を預け合った相棒ではないか。」という言葉は呑み込んだ。)私の顔を見て安心したか、彼の絶望はわけのわからぬ怒りに変わった。

だが待てよ!彼がパニクッて、焦って私を探しに当てもなくこの場から彷徨い出ていたら、一瞬のすれ違いで一生の「生き別れ」、国際孤児の誕生、も現実にあり得たかもしれなかったのだ。本当は紙一重の実に危険な場面だった。闇と孤独の中、不安と恐怖に打ちのめされて動くことすらできずにいてくれたことが幸いした。神に感謝! 

(つづく)

 

 

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★ 「お金=神」の時代 どう生きる? (その-3)

2017-12-29 01:18:32 | ★ 福音宣教

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「お金=神」の時代 どう生きる? (その-3)

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 私は《「お金=神」の時代をどう生きる? 》というテーマで(そのー1)を9月5日に、(そのー2)を9月19日に書いたあと、なかなか(そのー3)が書けなかった。それは、このテーマで書くべき原体験は第1回目は27年前、2回目は25年前という古いもので、しかも、すでに一度ブログで取り上げたことがあったからだ。(実は、本当はキコが今年の夏、実に20何年ぶりに、全世界規模で同じ宣教の試みを行いーもちろん日本国内でも行われてー本当はそのことをこそ書きたかったのだが、その体験はあまりにも生々しく、教会の内外に対する影響も大きいため、それについて書くことはわたしの嫌いな内部統制でまだ禁じられているから、やむなく古い話でお茶を濁している、という裏事情があることはあるのだが・・・。)  

だから、前に書いたものに一部手を加え、この数年の間にこのブログを知って読み始めた新しい読者には初めての話題として、また古いいおなじみさんには思い出しながらお付き合い願うことでお許しいただきたい。

さて、その古いはなしというのは、おおむね以下のようにして始まる: 

 

スイスアルプスの上は晴れていた

(書き出しを一部省略)最近、思いがけずベルリンを訪れる機会に恵まれた。テーゲル空港からバスで市内のツォー駅の前で降りた。その途端、懐かしい思い出がワーッとよみがえってきた。かれこれ25年ぶりのことだ。 気温0度。細かい砂粒のような雪がどんよりした冬空から微かに降ってくる。

当時、取り敢えずやくざな銀行稼業からは足を洗ったものの、50歳の誕生日を目前にして、教会のどの門を叩いても扉は固く閉ざされていた。齢を取りすぎて神父への道はもう完全に断たれたか、と一旦はすっかり観念したそのあとのことだった。やっと道が開け、私が神父を志してローマに来たのは1989年の10月だった。

まだ神学校には入れてもらえず、取り敢えず寡(やもめ)のアンジェラおばさんの家に下宿してグレゴリアーナ大学の神学部で勉強を始めたその数日後、目抜き通りで警官が整理するほどの大変な人だかりがしていた。見ると発泡スチロールの塊が山と積まれて道を塞いでいた。それを若い男たちが壊しにかかっていたのだ。それがベルリンの壁崩壊のニュースに呼応して行われた大がかりなストリートパーフォーマンスであったことが理解できるまでには、なおいささかの時間を要した。それほどイタリア語がまだよくわからなかったのだ。

 

1989年11月10日 ベルリンの壁崩壊の日 ブランデンブルク門の前の壁 上には東ベルリンの市民、下には西ベルリンの市民が

明けて1990年の9月末、アドリア海に面した漁村、ポルト・サンジオルジオの丘にある合宿所で開かれた神学生志願者たちの集いに私も招かれた。500人ほどの若者が世界中から集まっていた。一人ひとり皆の前で吟味され、世界中どこへ送られても、生涯そこで宣教に身を奉げる覚悟があるかを問われる。そして世界中の神学校にくじ引きで割り振られるのだが、その前に大事な試練が待っていた。聖書には、こうある。

「イエスは十二人を呼び集め、・・・神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。・・・。」十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。・・・(ルカ9章1-6節)

これをキコは500人の神学生志願者に文字通りやらせるというのだ。交通費などでこの企画ざっと2千万円はくだらないな、と元銀行マンは踏んだ。事故保険にも入らないこのプロジェクトは、まさに現代の狂気だ。足かけ9日間。正味7日間。イタリア、フランス、スペイン、ドイツ、オーストリア、それ以遠のイギリスや東欧も含めて、あらゆる都市に二人一組で一銭も持たせず送り出す。そして、「神の国は近づいた。改心して福音を信じなさい。」という決まり文句を、バカの一つ覚えのように告げて歩かせる。鉄道か飛行機の、往復切符とパスポートだけ持たされて、250組の若者たちが決められた町や村に送り出されるのだ。

組み合わせはくじ引きで決められた。ルールは、二人の間に意思疎通ができる共通言語があること。二人のうち少なくとも一人は送られた先の国の言葉が話せること。各人は皆自分の名前と所属、使える言葉を書いた紙きれをたたんで、言語別の籠に入れる。

老獪な私は考えた。自分の場合、英語かドイツ語か日本語だが、さて、英語だと相手が誰になるか皆目予想が立たない。ドイツ語なら、相方は若い優秀なドイツ人かオーストリア人の青年とだいたい相場が決まっている。その若者にくっついていけば楽ができる。そう読んで自分の紙きれをドイツ語の籠に入れた。

いよいよ組み合わせが始まった。キコは籠の一つを取って、大げさにガサガサと揺すって見せ、やおら一枚の紙を拾い上げた。マッテオ君。君はイタリア人で英語がわかのるだね?では相手は英語の籠から選ぼう。ランランラン、ホイ!フィリッピンのロピート君。君はマッテオとパレルモ(シチリア)に行きなさい。拍手がわいた。

次は、ランランラン、ホレ!ジュゼッペ。君はフランス語ができる?それではこの籠から、ランランラン、エイヤッ!オー、ギヨーム君。では、二人はマルセイユに行きたまえ。拍手。

イタリア語の籠がまず空になって、スペイン語の籠もほぼ空になって、いよいよドイツ語の籠になった。順調に組み合わせが進んで自分のカードが出た。誰であれ相手は流暢にドイツ語を話す優秀な若者と決まっているさ。楽勝、楽勝!とあさってのほうを向いて油断していたら、キコがどうも変なことを言っているらしいことにハッと気が付いた。ジョン!(私はここではそう呼ばれている)君は日本人だがドイツ語ができるのか?フム、フム!・・・ここに日本語しかできないのが一人いる。ちょうどいい、彼と一緒にベルリンに行きなさい。

しまった!英語にしておけばよかった、と思ったが後の祭り。この愛情飢餓症で服装もだらしなく、歯もちゃんと磨いてない光男お坊っちゃまと一週間も一文無しでベルリンの町をほっつき歩くなんてゾッとしない、と思ったが、こいつをクリアーしないと神学校に入れてもらえないとあっては観念するほかはなかった。(神様、あなたは今度もまた私の浅知恵の裏をかかれましたね!気に入らないな!と一発文句を垂れることは忘れなかった。)

一夜明けて、二人はベルリン往復の鉄道の切符と一人2000円相当ほどの現金を渡されて、車中の人となった。しかし、これから1週間、一文無しで生き延びる二人の運命を一人で背負わなければならない恐ろしい日々を思うと、気が滅入って車窓の景色も目に入らず、光男君と口をきく気にもならなかった。

夕方にミュンヘンに着いた。先に連絡が入っていたと見えて、共同体の兄弟たちに優しく迎えられ、一緒にミサにあずかり、温かい食事にもありついた。その夜おそく、まるで出征兵士のような歓呼の見送りを受け、夜行列車に乗り込み、いよいよベルリンへ。

オッ!と、その前に、一人の女性から一本の真新しいベルトが贈られたことを書き落としてはいけない。

ジーパンにしめていた私のベルトのバックルが目敏く見咎められたのだ。それはデュッセルドルフ時代にあるドイツ人の友人と別れる時に、彼が身に着けていたものをするすると抜いて形見に贈ってくれた思い出のベルトで、私の宝物だった。それは彼のおじさんが戦場で締めていたヒットラーのナチスドイツ士官のもので、バックルには大きなハーケンクロイツ(逆卍十字)に「ゴット・ミット・ウンス」(神我らと共にあり)と銘打ってあった。しかもその「ゴット」は「GOT」とスペルされ、キリスト教の神「GOTT」ではなくヒットラーが信奉する異教の神?だった。これからキリストの福音を告げに行く者が身に着ける小道具としては最悪、ドイツでは目立ちすぎる最低のギャグだったのだ。そんなことさえ気がつかない、神父志願の私の感性は当時まだその程度のものだったのだ。

予行列車は暗い森の中を進んでいた。同じコンパートメントに乗り合わせたイタリア人の紳士が我々に興味を持って話しかけてきた。ベルリンに事務所を持つ商人で、一週間ほど買い付けに行くという話だった。真面目なカトリック信者で、我々が聖書にあるとおり一銭も持たずに福音を告げて歩くのだと聞いて、いたく感心したらしい。ご親切にも1マルクと電話番号を書いた紙を、もし困ったことがあったらいつでも電話するようにと言って渡してくれて。私は深く考えもせず、有難くその紙で1マルクを包んで尻のポケットに入れた。

翌朝早く、同じツォー駅に降り立った。(その景色は今回もあまり変わっていなかった。)最初に持たされたお金でしっかり朝ごはんを食べた。残りのお金で詳しいベルリンの地図を一枚買った。それから、職業別電話帳のカトリック教会のページをコピーして、残った小銭は出発する前に指示された通り、最初に出会った乞食に一銭残らず施した。これで準備万端整った。

見まわして一番高い建物は、メルセデスベンツの巨大な輪を載せたビルだった。エレベーターで最上階までのぼり、そこからベルリンを見渡して、十字を切って厳かに街を祝福した。次に電話帳の住所と地図を頼りに司教座聖堂に向かい、司教様に面会を求め、宣教を始める許可と祝福を願った。

武者震いをして、いよいよ戦闘-いや宣教-開始。まず旧西ベルリンの中心の教会に向かった。イタリアを発つ前に、「目的地に着いたら、よそへは行かず教会を回りなさい。主任司祭を呼び出して福音を告げなさい」と指示されていた。

大きくて繁盛している教会と見受けられた。受付で申し入れると、やがて主任司祭が出てきた。

「汝(なんじ)と共に平和がありますように。」と聖書にある通り紋切り型の挨拶をした。すると、相手はキョトンとしてじろじろと私たち二人を見下した。私はジーパンにTシャツ姿だった。後ろでもじもじしている相棒も似たような恰好だった。ここで一発決めようと焦るのだが、どうしてもセリフがすらすらと口をついて出てこない。(ドイツ語が話せないわけではない。)「えーと、そのー、か、カ、神の国は近づいた。カ、か、回心して、ふー、福音を信じなさい。」とやっとの思いでいうと、神父はキッとなって、「お前たちは誰に向かってものを言っているのか分かっているのか?私は神父だぞ!それは私がお前たちに言うセリフだ。私は忙しいのだ。さあ、とっとと消え失せろ!」みたいな調子で追い立てられた。ケンモホロロ、とはこのことだ。短足のアジア人の我々は、多分「ムーン」(韓国統一教会)の一派かなにかと見間違えられたにちがいなかった。石ツブテで追われる野良犬のように、光男君と僕は街の人混みの中へ尻尾を巻いて逃げ込んだ。心臓はバクバク、膝は震えていた。

次の教会でも結果は同じだった。なんで言えない?言うべきドイツ語は分かっているのに。と落ち込んだ。光男君は、「この先大丈夫?おまえ本当にドイツ語できるの?」みたいな顔をするし・・・。

追い詰められてハタと気が付いた。そうか、まだお金を捨てきっていなかった。そのためかも知れない。駅前の乞食に持ってきた金の残りは言われた通り全部くれてやった。しかし、尻のポケットには万一の安全のために、あの商人の事務所の電話番号とコインがまだ残っていたのを思い出したのだ。

慌ててお乞食さんを探した。ベルリンの壁が崩れてまだ1年も経っていなかった。東から流れてきた貧しい失業者が、そこ此処で物乞いをしていた。最後の1マルクを帽子に投げ入れ、電話番号も破り捨てると、急に心が軽くなって勇気が湧くのを感じた。

次はやや中心を外れたそれほど流行っていないような教会だった。出てきた主任司祭に、「貴方に主の平和がありますように!」と切り出すと、「また貴方たちと共に!」ときれいに型通りの挨拶が返ってきた。「神父さん。私たちは今日あなたに良い知らせを持ってきました。神の国は近づいています。神様は貴方の隠された罪をすべてお見通しです。どうか改心して福音を信じてください!」実にまあすらすらと出てきたものだ。(これ全部ドイツ語のアドリブでやったんですよ!)まず光男君がびっくりして私の顔を見つめた。神父さんはもっとびっくりしたに違いない。韓国人か中国人かわからない中年のジーパン男の言葉が、グサッと神父の胸に刺さった確かな手ごたえを感じた。彼がそんな言葉を面と向かって吐く男に出会ったのは生まれて初めてのことだったろう。 

応接間に案内された。修行のため、イタリアから夜汽車で今朝ベルリンに着いたこと。聖書にある通り、一文無しで福音を告げるためにやってきたこと。神父志願の神学生の卵であることなどを話すと、主任司祭は真剣に耳を傾けた。時計を見ると昼をまわっていた。「お腹が空いているだろう。昼はどうするの?」と聞かれた。「神様任せです。」と答えると、女中さんに命じて三人で昼食ということになった。内心、「やったー!神様ありがとう!」と叫んだ。

無意識のうちにとは言え、たった1マルクであれ、お金を身につけて、それを最後のよりどころとしていた限り、神様は遠くの天の果てで手をこまねいて居られた。それが、最後の1マルクも捨てて、神様以外により頼むものが全くなくなるやいなや、神様は私のすぐそばまで降りてきて、跪いて給仕して下さることが身に染みてよくわかった。

(つづく)

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★ 「お金=神」の時代 どう生きる? (その-2)

2017-09-19 00:00:02 | ★ 福音宣教

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「お金=神」の時代 どう生きる? (その-2)

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人類と「お金の神様」との関りの歴史は実に古い。原始人類が狩猟・採集生活を脱して、定住し農耕を営み、富の蓄積が可能になった時代には、すでに人間の魂のお金の神様に対する隷属は始まっていたと思われる。

マンモンの神とその奴隷(ウイキペディアより)

そのお金の神様「マンモン」の奴隷として生きることを一時的に、人工的に、というか、暴力的に停止して、その奴隷状態から自分を解き放ったら人間は一体どういうことになるか?と言う興味深い実験を、今から2000年ほど前に行った人物がいた。

その人の名はナザレのイエス。イエスは自分の弟子たちをモルモットにその実験を行った。

12世紀末のアシジのフランシスコがそれを真似たことは有名だが、現代のフランシスコキコはスペイン語で「フランシスコちゃん」みたいな縮称形の愛称)がそれをやっていることはほとんど知られていない。

ではイエスは弟子たちに何と言ったのか。

聖書には、イエスが自分の弟子たちを派遣するにあたり、次のように命じた、と記されている。

「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。・・・町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、・・・その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」マタイ10章5-13節)

要するに、キリストの時は一か月とか、それ以上だったかもしれないが、の期間、一銭もお金を持たず、袋も、余分な衣服も履物も杖も、およそ身を護るものを一切持たずに、からだ一つでただひたすら、「あなたに神の平安がありますように」とか「神の国は近づいた、回心して福音を信じなさい」とか「神様は罪にまみれたあなたをそのまま愛している」とかの紋切り型の言葉を、バカの一つ覚えみたいに告げて歩くために、見知らぬ街や村に送り出す。ただそれだけのことだ。  

別の言い方をすれば、は明晰な頭脳とはっきりとした目的意識を持った生ける神「マンモン」が受肉した化身である紙幣や貨幣は言うに及ばず、クレジットカードや身を護るために金で買った一切のものを身につけないで、「天の御父」イエスキリストの父なる神の計らい以外に頼れるものが何もない境遇を人工的に作り出して、友人も助け手も誰もいない場所でサバイバルゲームを敢行するという実験だ。

私は27年前に51歳でその狂気の沙汰を大真面目にやってのけた。何しろ、散々苦労をしてローマにたどり着いたが、この人体実験をパスしないと正式に神学校に入れてもらえないとあっては、もう「やるっきゃない!」の心境だった。

2人ずつの派遣の組合わせを決める研修センターの建物

アドリア海に面したキコの研修センターに、その年に神学校に割り振られる500人ほどの神学生が世界中から集められていた。そして、これから抽選で二人一組、約250組の若者がヨーロッパ中に派遣されることになった。

籠が幾つか用意され、自分の名前と話せる言葉を書いた紙きれを、主な言語ごとに分けられた籠の中に入れる。また別に、派遣される国と町の名前を書いた紙が入った籠が用意された。

基本ルールは、くじ引きでペアーを決める際に、二人の間で意思疎通できる共通言語があること。二人のうち少なくとも一人は派遣先の国の言葉が話せることである。

ずる賢い私は考えた。日本語はヨーロッパでは役に立たない。イタリア語はまだちゃんと話せない。紙切れに書けるのはとりあえず英語とドイツ語だが、さてどちらにしようかと思案した。英語と書けば、パートナーの範囲がぐっと広くなって、相手が誰になるか見当がつかない。とんでもない国のとんでもない奴と組まされるリスクが高い。ドイツ語の籠に紙切れを入れておけば、パートナーはきっとドイツ人かオーストリア人の若い優秀な神学生に相場が決まっている。そいつの後ろにくっついて行けばきっと楽が出来るし、ドイツ語圏なら土地勘もあるから楽勝だと思った。

スペイン語圏、イタリア語圏が大体決まって、その他の言語の組み合わせに入っても、私はいたってのんびりと構えていたのだが、キコが突然変なことを言いだしたことに気付いた時は私の耳がピンと立った。キコ曰く、「あれ?困ったな!ここに日本語しかできないのが一人いる。どうしよう?ほかに誰か日本人はいないか?と言って籠を物色していたが、やがておもむろに、いたいた!この男はドイツ語を話すらしい。この二人を組みにしてベルリンに送ろう!」

はっ、と気がついたら、その男とはひょっとして私のことではないか?!冗談じゃない!全くの大番狂わせだ!若い優秀なドイツ人神学生の陰で楽をしようと当て込んでいたのに、全ての責任が年寄りの私の両肩にずっしりのしかかってきた。しかも相棒は札付きのミッチャン(光男君)ときたもんだ。彼は服装も物言いも全てだらしなく、彼の部屋はいつもゴミ屋敷同然で、神学校の鬼軍曹のクラウディア―ノ副院長も匙を投げた札付きの相手だ。彼の取り柄は、稀に見る魂の清らかさを別にすれば、壊れたパソコンを修理して蘇らせるという、神の手、奇跡の指の持ち主、と言う特殊技能以外に何かあっただろうか。

選りにも選って、ミッチャンとベルリンの街をお金を一円も持たずに1週間さ迷い歩くなんて、あり得ない。神様、いくら何でもこれはひどい、やってらんない。私は降りた、辞めます・・・!ときっぱり言えればいいのだが、それが出来ない弱みが私にはあった。

異星人のようなミッチャンとの一週間(いや往復の移動日を入れると9日間)が、いかに珍奇な泣き笑い道中になったか?それを次回以降に詳述しよう。

どうかお楽しみに。(つづく)   

マンモンの神とその奴隷(ウイキペディアより)

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★ 「お金=神」の時代 どう生きる?

2017-09-05 00:33:48 | ★ 福音宣教

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「お金=神」の時代 どう生きる? 

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私はある朝、野尻湖の家を出て、尾瀬沼の北、奥只見の田子倉ダムを通って奥会津の片貝温泉で体を休めた。

新潟を回って高速道路を走れば目的地の郡山(福島県)まで4時間余りの道のりだが、下道の国道を走ると、優に倍以上の時間がかかる。しかし、浮いた高速料金で一泊の温泉代をかなりカバーできるから、時間に余裕さえあれば、東北の農村地帯、山岳地帯をのんびりドライブするのも悪くない。かえって、自由で気ままな最高の旅になるというものだ。

魚沼産の米どころ、奥只見の山々、秘境の湯もこれが見納めかもしれないではないか。

田子倉ダム

郡山での用件を済ませて、翌朝なにげなく新聞に目を通していたら、表題の見出しの記事が目に入った。大見出しは「宗教から現代社会を問う」というジャーナリストの池上彰氏と作家の佐藤優氏の対談を軸にまとめた特集が5面いっぱいに展開されていた。

佐藤氏は言う。「1万円のもとは二十数円。それに価値を認めるのは《拝金教》と言う宗教を信じていることなのだ」と。私は納得したような、しないような・・・。

池上氏は言う。「私たちは、神と言った超越的な存在を信じるのを宗教と考えていますよね。ただ、お金にも《超越性》がある・・・《お金と言う神様》がいる資本主義。その中で、私たちはどう生きる?」これは、私も考えさせられる大問題だと思った。

人類と共に古い職業。それは女性の場合は《娼婦》、つまりお金のために自分の体を売る商売だが、一流大学出のエリートがお金のために職業上の機密を売る。つまり自分の良心と自分の魂を売り渡して《お金の神様》の奴隷となり、その神を礼拝し、その見返りに神のご加護(出世や昇給)を期待する。ところが、お金の神に見放されると人はいとも簡単に自殺する。

だから「お金=神」と言う池上氏の設定は正しいと思う。富を崇拝する世俗化した資本主義は、グローバル化した偶像崇拝の巨大宗教と言うことが出来る。その宗教の神は「マモン」または「マンモン」と呼ばれ古代シリアの偶像神にまでさかのぼるらしい。テレビゲームの世界ではお馴染みのキャラクターだ。

ちょっと立ち止まって、胸に手を当てて、正直に反省してみると、私を筆頭に、すべての現代人は国籍を問わず多かれ少なかれこのマンモンの神の礼拝者、その信者、その奴隷であることに気付くはずだ。これこそ世界最強、最大の宗教で、その前にはキリスト教も回教も仏教もかすんで見えるほどだ。

だが、聖書には「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」マタイ6章24節)とある。

これを読むと、私を始めとして、キリスト教を信じていますと告白する信者のほぼ全員が、実は「富に親しんで神を疎んじる」キリスト教者失格で、本当はマンモンの神の熱心な信奉者であるという本性が見えてくる。だから、神父やシスターを先頭に、キリスト教信者なんて、マンモンの神の奴隷が十字架を染め抜いた半纏(ハンテン)を着て歩いているような滑稽な姿をしていることに気付いていないだけだ。現金やクレジットカードと無縁な日常生活がほとんど不可能なほど、マンモンの神は私たちの存在の根底に深く食い込んでいる。神に親しむがゆえに富を疎んじる生活などもはや成り立たないかのようだ。

しかし、それは何も今日に始まったことではない。キリストの直弟子たちからして、今の我々と50歩100歩だったのだ。いかに教育し薫陶しても、一向に天の父なる神を信じ帰依しきれないでいる弟子たちを促して、イエスは一つの過激な実験に挑戦させた。それは、マンモンの神の奴隷状態から一時的に解放して、天の父なる神以外に頼るものがない状態を人工的に作り出したら、そこで人はどうなるか、と言う実験だった。二人ずつ組みにして、一銭もお金を持たせず(つまり、マンモンの神を身辺からきっぱりと遠ざけて)、福音を告げるために巷に放り出すのだ。

イエスは自分の12徒を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、・・・その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」マタイ10章5-13節)と聖書に記されている。

聖書にはその実験の期間についての記述がないが、3日や5日では効果が見えてこないことは容易に想像できる。多分、少なくとも半月、おそらく一か月以上はかけたに違いない。ジャングルや極地におけるサバイバルゲームを、人の住む町や村の中で行うのだ。

それを、現代文明社会で文字通り再現したらどうなるだろうか。何十人から数百人を、2人ずつ組みにして派遣するために、家族や仕事のある生活人に揃って一定期間の休暇を確保させるとすれば、せいぜい10日から2週間が限度だろう。一か所に集合して、抽選で組み合わせ相手と派遣先の町を決めるのに2-3日を要する。派遣期間が終わって帰ってきて報告会を開くのにまた2-3日を要すると考えれば、正味1週間、まる7日ぐらいが限界と言う事になるだろうか。2-3日なら公園やコンビニのトイレの水を飲んで飢え渇きに耐えることが出来るだろう。夜は公園のベンチや橋の下に段ボールを見つけて雨露をしのぐこともできる。しかし、1週間となるとやせ我慢にも限界がある。財布に一人5-6万円のお金があれば、コンビニやファミレス食べ、ビジネスホテルに泊まればいいからなんてことはないが1銭も持たされず、期間中、食べ物、飲み物、一夜の床は人の好意にすがってもいいが、お金だけは絶対に受け取ってはならない言われると、神様の計らいに対する最低の信頼なしには、足がすくんで出かける勇気がわいてこないのが普通だ。

ただ、やったら神様が実在すること、神様が細やかな配慮をもって必要なことをはからって下さることを理屈抜きに体験できるだろうと言う言葉を信じて、恐れながらも蛮勇を振るって出かけるしかないのだ。

私は四半世紀以上前に2回にわたってその実験に参加した。言われた通りにやったら、あら不思議、神様は実在した。それも、普段ポケットの中に居るお金の神よりも確かなものとして。彼は私を心にかけ、必要を十分に満たして下さった。お金の神様よりもはるかに頼もしい信頼のおける神様がいた、と言う事実を、理屈抜きに実体験出来た。生涯決して忘れることのできない、信頼の揺るぎえない基礎を与えられた。背骨にズカッと筋金が入ったと言ったらいいだろうか。

 

しかし、いくら抽象的な話を聞いても、ブログの読者には説得力のある実感が湧いてこないかもしれない。だから、遠い記憶をたどりながら、あの時、私の身にどんなことが起こったか、出来る限り忠実に、かつ具体的に記して納得していただこうと思う。次回以降を是非お楽しみに。

(つづく)

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★ 《異例の抜擢》  元イエズス会日本管区のメンバー  ルクセンブルグ司教に叙階

2012-12-25 23:03:09 | ★ 福音宣教

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異例の抜擢 

元イエズス会日本管区のメンバー

ルクセンブルグ司教に叙階

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 2006年4月1日以来、上智大学の経営母体であることで有名なイエズス会の東京都中野区若宮の司祭養成センター「三木ハイム」で責任者をしていたオロリッシュ・ジャン・クロード神父が、ルクセンブルグの新しい司教に任命された。このニュースは小さなショックを伴って我々仲間の神父の間を駆け抜けた。

 日本のイエズス会と言えば、元日本管区長で現総長のニコラス神父に代表されるような、インカルチュレーション路線のイデオロギーの理論的な指導集団と理解されてきた面があり、ケリグマ(福音)の告知をもっぱらとする直接宣教のカリスマの前に立ちはだかる厚い壁のように思われがちだったからだ。もしかすると、アジアだけでなく、今後はヨーロッパにもそのようなイデオロギーが伝播するのではないかと一瞬身を固くした。

 しかし、その後伝わってきたニュースや解説はそのような不安を払拭するに充分であった。パリの新求道共同体のカテキスタのジュリアーナの話によると、彼の司教任命の陰にはわれわれの大のお友達であるケルンのマイスナー枢機卿の尽力があったそうだ。ジュリアーナが大喜びしているという事実は、オルリッシュ新司教が新求道共同体に対してきわめて友好的であることを示唆しているのではないだろうか。

 この異例の人事が、今後日本の教会に対し、日本の新求道共同体の活動の上に、直接・間接に何らかの影響が現れるか否か、目が離せない。

(おわり)

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★ 自殺者統計 -なぜキリスト教の宣教は必要か-(一部変更・加筆版)

2012-01-24 08:12:14 | ★ 福音宣教


               

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自殺者統計 

-なぜキリスト教の宣教は必要か-

 (一部変更・加筆版) 

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 たまに日本に帰ってくると、人の多さに圧倒されます。渋谷のスクランブル交差点などでは、人の波に酔って目が回りそう。混雑した地下鉄のホームで「○×線は人身事故で運転見合わせ中」というアナウンスに出くわすと、また飛び込み自殺ではないかと思って心が凍るのは私だけでしょうか。


地下鉄丸ノ内線の四谷駅


 日本が先進国ではダントツの自殺大国であることは皆さんもよくご存じでしょう。パソコンを開いて「自殺 統計 世界」などのキーワードで検索すると、簡単に「2011年段階の最新データ」(原資料「国連人口統計年鑑」)というサイトに出くわします。それによると、例えば私が住んだことのある四つの国の人口10万人当たりの自殺者の数字は次のようです。

日本     24.4

ドイツ    11.9

アメリカ   11.0

 イタリア    6.3人 

 つまり、日本の自殺率はドイツ、アメリカの2倍以上、イタリアの約4倍ということになります。この顕著な違いはいったいどこから来るのでしょうか。 

 現代世界の特徴を言い当てたものに、「「グローバル化」と「世俗化」とい言葉があります。

 世俗化はもともと「聖なるもの」に属すると考えられていた場所や空間をこの世の人間的な目的のために用いることでした。例えば、キリスト教の教会堂を、礼拝のためだけではなく、幼稚園の遊び場、世俗の集会場などに用いたりすることです。

 「世俗化」は、第一義的には、聖なるものの俗化という宗教学的概念にほかならず、厳密には、西欧キリスト教社会の歴史的没落現象を意味するものとして理解されてきました。

 他方、もともとは戦後の多国籍企業の急成長に端を発した「グローバリゼーション」は、社会や文化の広い範囲にも影響を及ぼすようになり、それに伴って、本来キリスト教社会の現象であった世俗化も、仏教や神道の影響下にある日本の社会の類似の現象にもあてはめられるようになりました。かつて信仰の対象として考えられてきた寺社が、歴史的遺産として拝観料をとる観光資源になり変わるなどもその類と言えるでしょう。

世俗化には、呪縛的であった宗教からの人間の自己解放の過程という側面があり、より根源的には、神を棄却することを意味するという考えもあります。その意味では、「神」という超越概念の名の下で呪術的支配を行ってきた制度としてのキリスト教が全体的に没落していくのは、西欧社会における人間の「自律」追及の必然的過程であったのかもしれません。

キリスト教的超越神の概念を精神的土台にしていない日本の社会は、その限りにおいて、もともと世俗的であったわけですが、敗戦時になされた現人神(あらひとがみ)天皇の人間宣言によって唯一の神的な存在が消滅した後には、世俗化はもっとも純粋な形でなりふり構わぬ素顔を露わにしました。

 

日本の自殺者の人口比率は、ドイツやアメリカの2倍、イタリアの4倍であるというのは統計的事実です。

 

いずれの国もグローバル化した西側先進国の一員であるという共通項の中にあって、この顕著な差異はぜひとも十分に説明されなければなりません。

上の例の4つの国の間で、失業や、経済的破綻や、失恋や、孤独や、病の宣告、などの様々な逆境にある人の割合に、2倍も4倍もの差があるでしょうか。

わたしはドイツに生活した4年間、ナチスの強制収容所に異常な関心を抱いて生きてきました。そして、様々な情報から、同じ劣悪な極限状況にあって人の生死を分けるものは、結局は個々人の「生を肯定する意志、生きる願望の強さ」であったという漠たる確信を持つようになりました。

今回、それを裏付ける証言を求めていろんなキーワードでたくさんのサイトを渡り歩き、ついに「夜と霧」という本の紹介するこんな言葉と出会いました。

「あらすじと言えるものはありません。アイシュビッツに送られた後、そこを一歩も出られないのですから。ガス室、強制労働、貧しい食と住、凄惨な日々に感情を失っていく人々の毎日の記録なのです。家族のなかで、只一人生き延びたフランクルは書いています。収容された人の生と死を分けるのは、体格や栄養ではない、未来があると信じたものだけが生き延びられたのだ、と。」

ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』(みすず書房、1956年)という本の訳者は、故霜山徳爾(しもやま とくじ)先生です。臨床心理学者で、上智大学の名誉教授でした。50年前、私は中世哲学科に身を置きながら、心理学科で講義する先生の科目を全て聴講し、個人的にも可愛がっていただきました。先生自身フランクルの友人だったそうです。わたしのアウシュヴィッツに対する異常な関心と、「生死を分ける意志」についての確信は、霜山先生から受け継いだものでした。

 愛されたことのない人間は愛し方を知らない。本当の愛を知らない人は、自分の存在と自分の生を肯定する十分な根拠を見出さない。だからいとも簡単に死を選ぶ。死の誘惑の前に抵抗力がない。

 自殺者の統計が示しているのは、端的に言えば、ドイツ人やアメリカ人は日本人に比べて死の誘惑に対して2倍の抵抗力があり、イタリア人は4倍の抵抗力がある、ということではないでしょうか。

 グローバル化した現代社会において、物質的側面で4つの国の間に大きな格差は認められないとすれば、自殺率の違いは精神的な面での世俗化の度合いに由来すると考えるべきではないでしょうか。そもそも世俗化の原型がキリスト教圏にあったことを忘れてはなりません。日本など、世俗化されるべき神聖なもの、超越的な人格神の概念が初めから欠落していたのですから、その対極にあるお金の神様以外に、これと言って拝むべきもの、帰依すべきものはなかったと言っても反論は難かしいはずです。日本人はアウシュヴィッツで生き延びたフランクルのように「未来がある」という確たる信念を持ち合わせていないのが普通ではないでしょうか。

 旧約聖書には、 

            女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。  

母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。

たとえ、女たちが忘れようとも            

わたしがあなたを忘れることは決してない。    

(イザヤ書4915節)

という言葉があります。

 この神の言葉には、ユダヤ教やキリスト教、回教のように、旧約聖書を自分の信仰の書として戴かない日本人の心にも、共感を呼ぶ響きがあるのではないでしょうか。

 神がいる。神が貴方を愛している。この世の涙の谷の試練の後に、神の愛の中で喜びのうちに生きる永遠の命がある、と信じられる人は、アウシュヴィッツのような、一見絶望的な極限状況の中でも、最後まで死の誘惑に抵抗する免疫力を保ち続けることができるはずです。

 だとすれば、東京のラッシュ時の地下鉄ホームの縁に立って、ふらりと前のめりになろうとする人に向かって、「神はいる。神はあなたを愛している。死の向こうに復活と永遠の命がある。人生には意味がある。生きなさい!」と告げなければなりません。それがキリスト教の福音宣教であり、反世俗化の戦いではないかと思います。

 日本の社会に住む我々は、高圧電流の通う鉄条網に囲まれてはいません。しかし、一皮剥けば、そこにおける生は、アウシュヴィッツ同様に出口も希望もありません。都会の絶望的孤独の中に閉じ込められて、お金に、名誉に、セックスに、麻薬に、ギャンブルに、偽りの愛と絆を求めても、結局は裏切られるだけです。

 


 一見同じように世俗化が進んでいるようであっても、中世から1970年代までキリスト教に精神文化の根底を染めぬかれてきたドイツ、アメリカには、日本の2倍の、イタリアに至っては4倍の「神聖なもの」の残り香が生きているのでしょう。

 それに対して、日本はと言えば、1549年にフランシスコ・ザビエルが来日してわずか60年の間に、一旦は50万人(当時の人口1230万人の4%つまり当時の日本人の25人に1人)に達したキリシタンの数は、鎖国政策と厳しい迫害でたちまち歴史の表面から消えてしまいました。戦後の日本社会が完全な信教の自由を謳歌した後も、カトリック信者の数は最盛期にさえ50万人(人口比0.4%)を超えることはありませんでした。だから、日本の精神文化の土台は今もって圧倒的に仏教的であり、神道的であって、超越神を持たないという点では、もともと世俗主義と同質のものであったのです。

 歴史は逆には流れません。だとすれば、グローバル化した現代世界において、かつて中世にあったように、広い地域がキリスト教一色に染め上げられる時代はもう永久に戻っては来ないでしょう。

 日本の自殺率をせめてドイツやアメリカ並みに半減させるためにも、キリスト教の宣教は急務です。本当に福音を信じて回心する信者が増えるなら、日本の社会を反世俗化させるためにそれほど多くの数はいりません。

 鍋の中の料理に味を付けるために必要な塩の量ほど、家の中を躓かずに歩くために必要な蝋燭の数ほどの信者がいればいい。日本の場合、せめて人口の1%、100万人ほどがいてほしい。日本人100人に一人、本当の回心を遂げたキリスト者がいれば、社会に光を投げかけ、塩のように社会の腐敗を防ぎ、それに適当な味をつけることが出来るでしょう。

 この目標達成は決して不可能ではない。 しかし、そのために福音を宣べ伝えなければなりません。

(つづく)

 

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★ 現代のキリスト教ミッション - 〔小説〕 「大聖堂」 -

2012-01-20 22:02:45 | ★ 福音宣教

 

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現代のキリスト教ミッション 

- 〔小説〕 大聖堂 - 

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ヴァレンシアでのマヌエル君の叙階式に参加した後、半ばお忍びでクリスマスと正月を日本で過ごした。

ローマへの帰路はルフトハンザでフランクフルト経由だった。成田のフィンガーから搭乗するときになって、機材が最新鋭の総 階建て エアバス A380 であることに初めて気が付いた。


エアバスA380 第1号機のお披露目式


キャビンの総面積でボーイング747ジャンボ機の1.5倍、標準座席数で1.3倍の世界最大の旅客機なのだが、気が付いた限り、在来型のジェット機との最大の違いは外殻の厚さにあるように思えた。窓の二重ガラスの間隔は、一見したところ約10センチあまり、在来機の約3倍ほどはあるな、と思った。そのせいか、エンジン音と機体の外壁を擦る空気の音が小さく、機内が目立って静かだという点だった。

その静けさに気をよくして、読みかけていた小説 「大聖堂」(ソフトバンク文庫) を夢中になって一気に読み進んだ。ケン・フォレット作、上・中・下 三冊で合計1800ページほどの大作で、原題の “The Pillars of the Earth” は 「大地の柱」 とでも訳すべきか。

12世紀中葉、イギリスに最初のゴチック聖堂が建てられていく過程を通して、恋あり、戦争あり、王権と教会・修道院の権力のせめぎ合いを織り交ぜ、最後はイギリスの聖殉教者トーマス・ベケットの史実につながっていく。


三冊のうち 「上」 は日本で読み切ったので置いてきた


愛と詩情とグロテスクを織り交ぜた、スリルとサスペンスの息つく暇もない展開に、久しぶりに小説の世界に引き込まれてしまった。そして、昼間ボーっとして夜眼が冴える時差ボケを口実に、ローマの夜を徹して今朝ついに全巻読み終えたところである。

なぜこんなことを書くのか? それは、この長編小説を読みながら、自分の信仰観の歩みにまた一つの新しい襞(ひだ)が付け加えられたように感じられたからだ。

人の信仰というものは、年輪を重ねるにつれて広がり深まり変化するものなのだろう-またそうなければならない-。

わたしがカトリックで洗礼を受けたのは、中学2年の時だった。神戸のミッションスクールで、中学1年の終わりには同期生の十数人が洗礼を受けた。しかし、その時私は生意気にも 「まだ納得しないから」 と受洗を見送った。そして、その1年後、今度は 「納得した」 と思って受けた。今振り返ると、まだ14歳の子どもの幼稚な考えであった。高校を卒業するころには同期生の約3分の1が受洗していた。そして、最近ふと同窓会に出てみると、なんと同期生の約半数が洗礼を受けてカトリック信者になっていて驚いた。195060年代には、まだミッションスクールはキリスト教の 宣教の場 として立派に機能していたと言うべきだろう。初代の日本人校長のT神父は、父兄会当日の朝礼で、居並ぶ父兄を前にして、「わが六甲学院はキリスト教的人格教育を旨としております。東大合格を期待して子弟を送られたご父兄は、進路を誤っておられますので、早速に近くのN校に転校されることをお勧めします。」と豪語することを恐れなかった。

ところが、それから10年もしないうちに事情は一変する。2代目の外国人の校長は、父兄の圧力に屈して、遅まきながら受験校への路線転換を断行した。その効果はテキメンで、関西でもまずまずの成績を上げるようになったが、その裏で、生徒の受洗者の数はほとんどの年がゼロになった。あっという間の急展開だった。 

高等部を卒業した私は、イエズス会の神父になるべく上智大学に進み、2年後には入会準備のため修練院に入った。しかし、そのわずか23年のあいだに私の信仰は成長していた。自分の社会性の未熟さを痛感し、そこを去り、国際金融業に転じた。ドイツのコメルツバンクを皮切りにリーマンブラザーズなどを転々とするうちに私の信仰は新たな展開と深化を遂げ、改めて司祭職への道に入ることを決意した。

ローマで4年間の神学の勉強の後-という異例の速さで-1994年に神父になるのだが、そのローマでの体験は私の信仰のあり方をまた大きく変えた。さらに、最近の67年間のめまぐるしい展開 (その大半を再びローマで過ごす結果になったのだが) は、信仰内容のさらなる開眼を結果した。

中学2年の洗礼の時に芽生えた信仰は、60年近い歳月の流れの中で、大きく変貌していった。小さな苗木が大きな樹木に育つような連続的な成長というよりも、セミの幼虫が脱皮を通して全く別の形の成虫になるような劇的な変化を、人生の節目ごとに何度も繰り返して経験してきたと言った方が実態をより良く言い当てているように思う。

今朝、長編ロマン歴史小説「大聖堂」を読み終えたとき、この数年のローマでの生活を通して、私の信仰がまたまた大きく変貌を遂げていた事実に、はっと気付いて深い感慨に耽った。

今の私の信仰は、洗礼を受けた当時のような幼稚なものではない。最初に司祭職を志した時のようなセンチメンタルなものでもない。金融業に明け暮れた時期の遠い希薄なものでもなく、再度司祭職を志した時のように教会組織に過大な期待を寄せた熱烈なものでも、最早ない。

「大聖堂」 の小説の舞台であるヨーロッパ中世を含む太古からの歴史の流れと、宇宙物理学の果てしないマクロの世界から、素粒子の限りないミクロの世界まで、その全てを統べたもう神の 「創造的愛とゆるぎない救済の意志」 に対する無条件の帰依、とでもいうべき信頼に満ちた信仰的オプティミズムと言えばいいだろうか。そして、大切なのはそこから湧き上がる抑えがたい宣教への思いだ。

 

 

          

             聖トーマスの暗殺場面の描かれた装飾写本                 ヘンリー2世                     

 トマス・ベケットThomas Becket1118年12月21日 - 1170年12月29日)は、イングランド聖職者カンタベリー大司教。当初はイングランド王ヘンリー2世大法官として仕えた。しかし、大司教に叙階された後は教会の自由をめぐってヘンリー2世と対立するようになり、ヘンリー2世の部下の手で暗殺された。死後2年経ってから、殉教者としてカトリック教会より列聖された。(Wikipedia)             

 

では現実はどうか。日本の人口12500万人の中のカトリック信者の数は、

                 2008年  452138人 

         2009年  4497042434人)

         2010年  4484401264人)

と、年毎に確実に減少している。信者の親は子供に信仰を伝えない。現役信者が高齢化して死んでいく自然減に、新しい入信者の数が追い付かないためだ。

 上の数は全国の教会の洗礼台帳に記載されている信者の総数であるが、平素実際に信仰生活を実践している信者はその約4分の111万人ほどだといわれる。その数は日本の人口の約 0.1 パーセント、日本人の1000人に1人という、ほとんど無視していいほどの数でしかいない。そして、もしこの割合で減少を続ければ、やがて日本からカトリック信者は消滅するだろうと予測される。

 キリスト教の信仰は「大聖堂」の小説が描いた12世紀の中世のそれからすれば、今日ではずいぶんと進化し、変化している。それはまた。私の短い一生における個人的な信仰形態の変遷と重なるものがある。

 あの小説の時代、中世ヨーロッパでは、洗礼を受けていない人は救われないとか、懺悔をしなければ罪は許されないしそのまま死ねば地獄に落ちるとか、どんな大罪も形式的な懺悔の手続きを踏みさえすればべて赦されるとか教えていたようだ。そんなことを今日の日本の実情に当てはめれば、実に滑稽なことになる。それなら99パーセント以上の日本人が救われず地獄の滅びに入ることになるが、それでは愛と慈しみの神と全く相容れない矛盾に陥るだろう。

 すべての被造物とともに人間を創造した「愛と赦しと憐れみ」の神は、すべての人に救済と永遠の喜びに入る道を用意しているはずではないのか。(にもかかわらす永久に滅びる人がいるのも神秘だが・・・。)

 では、キリスト教の宣教は不要か?キリスト教は日本の社会からこのまま消えてしまって、それでいいのか?先輩の宣教師たちの努力は無益だったのか?このままで日本人は幸せか?日本の自殺者の人口比は、アメリカやドイツの2倍、イタリアの4倍と統計にあるが、それを一体どう説明すればいい・・・?

 (つづく)

 

 

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