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「お金=神」の時代 どう生きる? (その-3)
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私は《「お金=神」の時代をどう生きる? 》というテーマで(そのー1)を9月5日に、(そのー2)を9月19日に書いたあと、なかなか(そのー3)が書けなかった。それは、このテーマで書くべき原体験は第1回目は27年前、2回目は25年前という古いもので、しかも、すでに一度ブログで取り上げたことがあったからだ。(実は、本当はキコが今年の夏、実に20何年ぶりに、全世界規模で同じ宣教の試みを行いーもちろん日本国内でも行われてー本当はそのことをこそ書きたかったのだが、その体験はあまりにも生々しく、教会の内外に対する影響も大きいため、それについて書くことはわたしの嫌いな内部統制でまだ禁じられているから、やむなく古い話でお茶を濁している、という裏事情があることはあるのだが・・・。)
だから、前に書いたものに一部手を加え、この数年の間にこのブログを知って読み始めた新しい読者には初めての話題として、また古いいおなじみさんには思い出しながらお付き合い願うことでお許しいただきたい。
さて、その古いはなしというのは、おおむね以下のようにして始まる:
スイスアルプスの上は晴れていた
(書き出しを一部省略)最近、思いがけずベルリンを訪れる機会に恵まれた。テーゲル空港からバスで市内のツォー駅の前で降りた。その途端、懐かしい思い出がワーッとよみがえってきた。かれこれ25年ぶりのことだ。 気温0度。細かい砂粒のような雪がどんよりした冬空から微かに降ってくる。
当時、取り敢えずやくざな銀行稼業からは足を洗ったものの、50歳の誕生日を目前にして、教会のどの門を叩いても扉は固く閉ざされていた。齢を取りすぎて神父への道はもう完全に断たれたか、と一旦はすっかり観念したそのあとのことだった。やっと道が開け、私が神父を志してローマに来たのは1989年の10月だった。
まだ神学校には入れてもらえず、取り敢えず寡(やもめ)のアンジェラおばさんの家に下宿してグレゴリアーナ大学の神学部で勉強を始めたその数日後、目抜き通りで警官が整理するほどの大変な人だかりがしていた。見ると発泡スチロールの塊が山と積まれて道を塞いでいた。それを若い男たちが壊しにかかっていたのだ。それがベルリンの壁崩壊のニュースに呼応して行われた大がかりなストリートパーフォーマンスであったことが理解できるまでには、なおいささかの時間を要した。それほどイタリア語がまだよくわからなかったのだ。
1989年11月10日 ベルリンの壁崩壊の日 ブランデンブルク門の前の壁 上には東ベルリンの市民、下には西ベルリンの市民が
明けて1990年の9月末、アドリア海に面した漁村、ポルト・サンジオルジオの丘にある合宿所で開かれた神学生志願者たちの集いに私も招かれた。500人ほどの若者が世界中から集まっていた。一人ひとり皆の前で吟味され、世界中どこへ送られても、生涯そこで宣教に身を奉げる覚悟があるかを問われる。そして世界中の神学校にくじ引きで割り振られるのだが、その前に大事な試練が待っていた。聖書には、こうある。
「イエスは十二人を呼び集め、・・・神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。・・・。」十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。・・・(ルカ9章1-6節)
これをキコは500人の神学生志願者に文字通りやらせるというのだ。交通費などでこの企画ざっと2千万円はくだらないな、と元銀行マンは踏んだ。事故保険にも入らないこのプロジェクトは、まさに現代の狂気だ。足かけ9日間。正味7日間。イタリア、フランス、スペイン、ドイツ、オーストリア、それ以遠のイギリスや東欧も含めて、あらゆる都市に二人一組で一銭も持たせず送り出す。そして、「神の国は近づいた。改心して福音を信じなさい。」という決まり文句を、バカの一つ覚えのように告げて歩かせる。鉄道か飛行機の、往復切符とパスポートだけ持たされて、250組の若者たちが決められた町や村に送り出されるのだ。
組み合わせはくじ引きで決められた。ルールは、二人の間に意思疎通ができる共通言語があること。二人のうち少なくとも一人は送られた先の国の言葉が話せること。各人は皆自分の名前と所属、使える言葉を書いた紙きれをたたんで、言語別の籠に入れる。
老獪な私は考えた。自分の場合、英語かドイツ語か日本語だが、さて、英語だと相手が誰になるか皆目予想が立たない。ドイツ語なら、相方は若い優秀なドイツ人かオーストリア人の青年とだいたい相場が決まっている。その若者にくっついていけば楽ができる。そう読んで自分の紙きれをドイツ語の籠に入れた。
いよいよ組み合わせが始まった。キコは籠の一つを取って、大げさにガサガサと揺すって見せ、やおら一枚の紙を拾い上げた。マッテオ君。君はイタリア人で英語がわかのるだね?では相手は英語の籠から選ぼう。ランランラン、ホイ!フィリッピンのロピート君。君はマッテオとパレルモ(シチリア)に行きなさい。拍手がわいた。
次は、ランランラン、ホレ!ジュゼッペ。君はフランス語ができる?それではこの籠から、ランランラン、エイヤッ!オー、ギヨーム君。では、二人はマルセイユに行きたまえ。拍手。
イタリア語の籠がまず空になって、スペイン語の籠もほぼ空になって、いよいよドイツ語の籠になった。順調に組み合わせが進んで自分のカードが出た。誰であれ相手は流暢にドイツ語を話す優秀な若者と決まっているさ。楽勝、楽勝!とあさってのほうを向いて油断していたら、キコがどうも変なことを言っているらしいことにハッと気が付いた。ジョン!(私はここではそう呼ばれている)君は日本人だがドイツ語ができるのか?フム、フム!・・・ここに日本語しかできないのが一人いる。ちょうどいい、彼と一緒にベルリンに行きなさい。
しまった!英語にしておけばよかった、と思ったが後の祭り。この愛情飢餓症で服装もだらしなく、歯もちゃんと磨いてない光男お坊っちゃまと一週間も一文無しでベルリンの町をほっつき歩くなんてゾッとしない、と思ったが、こいつをクリアーしないと神学校に入れてもらえないとあっては観念するほかはなかった。(神様、あなたは今度もまた私の浅知恵の裏をかかれましたね!気に入らないな!と一発文句を垂れることは忘れなかった。)
一夜明けて、二人はベルリン往復の鉄道の切符と一人2000円相当ほどの現金を渡されて、車中の人となった。しかし、これから1週間、一文無しで生き延びる二人の運命を一人で背負わなければならない恐ろしい日々を思うと、気が滅入って車窓の景色も目に入らず、光男君と口をきく気にもならなかった。
夕方にミュンヘンに着いた。先に連絡が入っていたと見えて、共同体の兄弟たちに優しく迎えられ、一緒にミサにあずかり、温かい食事にもありついた。その夜おそく、まるで出征兵士のような歓呼の見送りを受け、夜行列車に乗り込み、いよいよベルリンへ。
オッ!と、その前に、一人の女性から一本の真新しいベルトが贈られたことを書き落としてはいけない。
ジーパンにしめていた私のベルトのバックルが目敏く見咎められたのだ。それはデュッセルドルフ時代にあるドイツ人の友人と別れる時に、彼が身に着けていたものをするすると抜いて形見に贈ってくれた思い出のベルトで、私の宝物だった。それは彼のおじさんが戦場で締めていたヒットラーのナチスドイツ士官のもので、バックルには大きなハーケンクロイツ(逆卍十字)に「ゴット・ミット・ウンス」(神我らと共にあり)と銘打ってあった。しかもその「ゴット」は「GOT」とスペルされ、キリスト教の神「GOTT」ではなくヒットラーが信奉する異教の神?だった。これからキリストの福音を告げに行く者が身に着ける小道具としては最悪、ドイツでは目立ちすぎる最低のギャグだったのだ。そんなことさえ気がつかない、神父志願の私の感性は当時まだその程度のものだったのだ。
予行列車は暗い森の中を進んでいた。同じコンパートメントに乗り合わせたイタリア人の紳士が我々に興味を持って話しかけてきた。ベルリンに事務所を持つ商人で、一週間ほど買い付けに行くという話だった。真面目なカトリック信者で、我々が聖書にあるとおり一銭も持たずに福音を告げて歩くのだと聞いて、いたく感心したらしい。ご親切にも1マルクと電話番号を書いた紙を、もし困ったことがあったらいつでも電話するようにと言って渡してくれて。私は深く考えもせず、有難くその紙で1マルクを包んで尻のポケットに入れた。
翌朝早く、同じツォー駅に降り立った。(その景色は今回もあまり変わっていなかった。)最初に持たされたお金でしっかり朝ごはんを食べた。残りのお金で詳しいベルリンの地図を一枚買った。それから、職業別電話帳のカトリック教会のページをコピーして、残った小銭は出発する前に指示された通り、最初に出会った乞食に一銭残らず施した。これで準備万端整った。
見まわして一番高い建物は、メルセデスベンツの巨大な輪を載せたビルだった。エレベーターで最上階までのぼり、そこからベルリンを見渡して、十字を切って厳かに街を祝福した。次に電話帳の住所と地図を頼りに司教座聖堂に向かい、司教様に面会を求め、宣教を始める許可と祝福を願った。
武者震いをして、いよいよ戦闘-いや宣教-開始。まず旧西ベルリンの中心の教会に向かった。イタリアを発つ前に、「目的地に着いたら、よそへは行かず教会を回りなさい。主任司祭を呼び出して福音を告げなさい」と指示されていた。
大きくて繁盛している教会と見受けられた。受付で申し入れると、やがて主任司祭が出てきた。
「汝(なんじ)と共に平和がありますように。」と聖書にある通り紋切り型の挨拶をした。すると、相手はキョトンとしてじろじろと私たち二人を見下した。私はジーパンにTシャツ姿だった。後ろでもじもじしている相棒も似たような恰好だった。ここで一発決めようと焦るのだが、どうしてもセリフがすらすらと口をついて出てこない。(ドイツ語が話せないわけではない。)「えーと、そのー、か、カ、神の国は近づいた。カ、か、回心して、ふー、福音を信じなさい。」とやっとの思いでいうと、神父はキッとなって、「お前たちは誰に向かってものを言っているのか分かっているのか?私は神父だぞ!それは私がお前たちに言うセリフだ。私は忙しいのだ。さあ、とっとと消え失せろ!」みたいな調子で追い立てられた。ケンモホロロ、とはこのことだ。短足のアジア人の我々は、多分「ムーン」(韓国統一教会)の一派かなにかと見間違えられたにちがいなかった。石ツブテで追われる野良犬のように、光男君と僕は街の人混みの中へ尻尾を巻いて逃げ込んだ。心臓はバクバク、膝は震えていた。
次の教会でも結果は同じだった。なんで言えない?言うべきドイツ語は分かっているのに。と落ち込んだ。光男君は、「この先大丈夫?おまえ本当にドイツ語できるの?」みたいな顔をするし・・・。
追い詰められてハタと気が付いた。そうか、まだお金を捨てきっていなかった。そのためかも知れない。駅前の乞食に持ってきた金の残りは言われた通り全部くれてやった。しかし、尻のポケットには万一の安全のために、あの商人の事務所の電話番号とコインがまだ残っていたのを思い出したのだ。
慌ててお乞食さんを探した。ベルリンの壁が崩れてまだ1年も経っていなかった。東から流れてきた貧しい失業者が、そこ此処で物乞いをしていた。最後の1マルクを帽子に投げ入れ、電話番号も破り捨てると、急に心が軽くなって勇気が湧くのを感じた。
次はやや中心を外れたそれほど流行っていないような教会だった。出てきた主任司祭に、「貴方に主の平和がありますように!」と切り出すと、「また貴方たちと共に!」ときれいに型通りの挨拶が返ってきた。「神父さん。私たちは今日あなたに良い知らせを持ってきました。神の国は近づいています。神様は貴方の隠された罪をすべてお見通しです。どうか改心して福音を信じてください!」実にまあすらすらと出てきたものだ。(これ全部ドイツ語のアドリブでやったんですよ!)まず光男君がびっくりして私の顔を見つめた。神父さんはもっとびっくりしたに違いない。韓国人か中国人かわからない中年のジーパン男の言葉が、グサッと神父の胸に刺さった確かな手ごたえを感じた。彼がそんな言葉を面と向かって吐く男に出会ったのは生まれて初めてのことだったろう。
応接間に案内された。修行のため、イタリアから夜汽車で今朝ベルリンに着いたこと。聖書にある通り、一文無しで福音を告げるためにやってきたこと。神父志願の神学生の卵であることなどを話すと、主任司祭は真剣に耳を傾けた。時計を見ると昼をまわっていた。「お腹が空いているだろう。昼はどうするの?」と聞かれた。「神様任せです。」と答えると、女中さんに命じて三人で昼食ということになった。内心、「やったー!神様ありがとう!」と叫んだ。
無意識のうちにとは言え、たった1マルクであれ、お金を身につけて、それを最後のよりどころとしていた限り、神様は遠くの天の果てで手をこまねいて居られた。それが、最後の1マルクも捨てて、神様以外により頼むものが全くなくなるやいなや、神様は私のすぐそばまで降りてきて、跪いて給仕して下さることが身に染みてよくわかった。
(つづく)