:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 2020 クリスマスメッセージ

2020-12-24 00:00:01 | ★ 神学校の日記

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2020 クリスマスメッセージ

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 コロナもあって、私の身辺はひっそりとしています。今日24日のクリスマスミサは、都下某所で喜びいっぱいに祝われますが、それはひとまず置いておいて、遠くイスラエルのエルサレムから入った素敵なニュースがありますので、聖なるご降誕を待つ待降節に当たって、ガリレア湖のほとりにあるレデンプトーリス・マーテル神学院の院長が伝える現地の生活について最近の様子をお伝えしましょう。

 

 皆さん、

 新型コロナウイルスのために、12月8日の無原罪のマリア様の祝日に予定されていた叙階式が延期されるなど、イスラエルの神学校でもいろいろな影響が出ました。

 しかしながら、その間に、私たちの神学生たちは、フランシスコ教皇が新たにエルサレムのラテン教会の総大司教に任命されたピエルバッティスタ・ピッツァバッラ猊下の叙階式の典礼のお世話をさせていただくことになりました。以下にその時の写真を何枚かご紹介いたします。

 

エルサレムの教会で典礼の奉仕をするレデンプトーリス・マーテルの神学生たち

 

旧市街への行列が間もなく始まる 

 

旧市街の行列 十字架を持つものも、盛装した警護の男たちもほとんどみなマスクをしている 

 

新任のエルサレムの総大主教 白いケープ姿は聖墳墓騎士団か

 

聖墳墓教会内部 十字架から降ろされたイエスの亡き骸が横たえられた石に接吻する総大主教

 

中央の赤いのはカトリックの枢機卿 黒いのは東方典礼の司教たち 

 

 また、最近私たちの神学校をマロナイト典礼の大司教ムッサ・エル・ハゲ猊下が私たちの神学校を訪問され、私たちの活動をたいへん励ましてくださいました。

 数年まえに、ロディ・ノウラと言うマロナイト教会の神学生が私たちの神学校で養成を受けて司祭に叙階されましたが、今年はレバノン出身の同じマロナイト典礼の若者がここで養成を受けることになりました。

マロナイト典礼の大司教(中央)とレデンプトーリス・マーテル神学院の神学生たち

この中にマロナイト教会の神学生が一人いる

 

立っているのは若い院長のフランチェスコ・ボルタッジオ神父 ローマの神学校では私の後輩

頭の毛の薄い人物がマロナイト典礼の大司教だろう

 

 皆さん、待降節はまことに喜びに季節です。なぜなら、私たちは私たち人類全体の歴史の中で最も喜ばしい出来事である神の御子の聖母マリアからの誕生を迎える季節だからです。ですから、使徒パウロは「主において常に喜びなさい!主はすぐ近くに居られます(フィリピ書4章4-5節) と書いているのです。

 幼子イエスに会いに行きましょう!神の大いなる愛がこの小さな幼子の中に現れているのですから。

 

ガリレアのレデンプトーリス・マーテル神学院

院長 フランチェスコ・ヴォルタッジオ神父

 

 

 1988年にローマで最初のレデンプトーリス・マーテル神学院が設立された。聖教皇ヨハネパウロ2世と新求道共同体の創始者キコとの合作だった。1990年に第7番目の姉妹校が日本の高松教区に設立された。今、32年たって世界に125校以上の姉妹校がある。

 イスラエルのガリラヤ湖のほとりには2000年の頃からレデンプトーリス・マーテル神学院が存在している。エルサレムの総主教の理解の下で発展を遂げてきた。そこでは、中東の様々な典礼のキリスト教会と親密な交流が持たれている。

 日本の高松のレデンプトーリス・マーテル神学校は不幸にして設立者の深堀司教の後任の溝部司教によって閉鎖された。それを惜しんだベネディクト16世教皇は、それを自分の神学校としてローマに引き取られた。「将来の日本での福音宣教に資するために」と移設に関する公文書には明記されていた。

 溝部司教が他界し、状況も変わったと見たバチカンは、2019年秋にローマに亡命していた日本のための神学校を「アジアのための教皇庁立神学院」に格上げして日本に戻し、同年11月のフランシスコ教皇の訪日に合わせてその設置を祝うはずだった。ところが、またもや日本の司教方の反対で実現を見なかった。フランシスコ教皇は、日本の教会が要らないと言うのなら、と、その「教皇庁立アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の設置場所を、急遽マカオに変更された。

 ローマに移設された「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」は、一緒にマカオへは行かず、今もローマに残っている。今後それがどういう運命を辿るのか誰も知らない。神様のご計画には計り知れないものがある。

 世界の趨勢を眺めると、レデンプトーリス・マーテル神学院を受け容れた国は豊かな司祭の召命に恵まれ発展し、受け入れなかった国は召命不足と司祭の高齢化を抱えて衰退に歯止めがかかっていない。

♬ Silent Night! ♬ Holy night! ♬

 

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★ 教皇フランシスコ 今年も 日本のために新司祭叙階

2018-04-26 00:24:11 | ★ 神学校の日記

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教皇フランシスコ 今年も 日本ために新司祭叙階

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5月22日 今年も教皇フランシスコは聖ペトロ大聖堂で司祭の叙階式を執り行った。ローマの大神学校から4人、レデンプトーリス・マーテル神学院から6人ーそのうち2人が日本のためー、6人がその他の教区や修道会のための、計16人だった。過去10年間、歴代の教皇が意識的に特定の国のための宣教師を意図して自らの手で司祭に叙階するのは日本に対してだけだ。一体日本のどこが特別なのだろうか?それは、10年前に高松で閉鎖された神学校を、前教皇ベネディクト16世が救って、ローマに移植されたからだ。そして、フランシスコ教皇はそれを日本に返すことを決定された。

初夏を思わせる暑い日曜日、聖ペトロ大聖堂前の広場は人であふれていた。

裏口から早めに聖堂の中に入ると、まだ一般の参列者は外で待たされていて、がらんとして冷気が漂っていた。

私を含む一群の共同司式司祭たちには、長い廊下が着替え室として用意されていた。

以下、写真アルバム風に時の流れを追ってみよう。

私も皆と同じ祭服を着せられる

盛装のスイス衛兵が持ち場に散っていく

中央の大ドームの真下に、教皇フランシスコが司式する祭壇がある。

教皇は中央の天蓋の真下に着座する。

ウイーン少年合唱団は日本でも有名だが、バチカンにも同じような少年合唱団がある。声変わり前の少年のソプラノはさながら天使の声のよう。

報道カメラマンの一団。よーく見ると、中央の女性カメラマンが明らかに私を狙っている。カメラ同士のガチンコだ。 

長い行列の全容は私の定位置からほとんど見えなかった。最後に入ってきた教皇フランシスコ。

叙階式の入祭の祈り。

叙階を受ける日本ためのレデンプトーリス・マーテル神学院のファビオ神学生。

教皇から手に聖香油を塗られた日本のためのユライ神学生

按手を受けるファビオ神学生

祈りを捧げる教皇フランシスコ

諸聖人の名を連祷する長い祈りの間、床にひれ伏す16人の神学生たち

世俗の生活に死に、聖職者の生活に生まれるための荘厳な儀式

ユライの祖国クロアチアからだろうか。きれいな民族衣装の男女。

叙階式もクライマックス。ミサの中心、パンと葡萄酒が聖別されるとき、スイス衛兵たちは膝を折って敬礼した。私は長くローマに居たが、彼らのこの姿を近くで見たのは初めてだった。

16人の新司祭が生まれて無事叙階式は終わった。日本のためにまた新たに二人が教皇の手で叙階された。

彼らは、衰退の一途をたどる日本のカトリック教会の明日の再生を教皇から託された精鋭となるだろう。

日曜日とあって聖ペトロ大聖堂の広場は人であふれた。12時にアンジェルスの祈りがあって、教皇は宮殿の窓から信者に挨拶と祝福を贈ることになっている。私は祝賀昼食会の会場に急ぎ、12時前にバチカンを去った。

バチカン宮殿の最上階。右から二番目の窓が教皇の挨拶のために開かれている。しかし、長い慣例を破って、フランシスコ教皇はこの宮殿には住んでいない。彼は一般の職員と同じアパートホテルの二部屋に慎ましく清貧に生活している。宮殿には儀式の時だけ出かけるのだ。

これはちょっと巷で拝借してきた写真

車で30分。郊外のレストランに着いた。ここでユライとファビオの叙階記念パーティーが開かれる。

2人の関係者が一緒に入れる広間がない。私はユライの席に参加した。まずはワインで乾杯!

日本から駆け付けた共同体の兄弟姉妹も、一か所に固まって席に着いた。

クロアチアからやってきたユライのお姉さん。彼は6人兄弟の真ん中で、姉と妹に挟まれて、その結果神父への道を選んだと本人は言うが、意味やや不明。

ファビオの親友か?兄弟にしては似ていないから。コロンビアから遠路はるばる家族・友人大勢が叙階式に参列した。

祝宴も終わりに近づいた。ユライのお姉さんがテーブルの端で歌っている。ギターの伴奏でクロアチアの民族音楽の合唱が延々と続く。日本の民謡・唱歌ではこれほどの時間途切れなく歌うことはできないだろう。

今回は、難しい話は抜きで、ひたすら雰囲気を追いました。

ファビオ君、ユライ君、おめでとう!

(終わり)

 

 

 

 

 

 

 

 

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★ もう一つの 「銀」(ピョンチャンオリンピックの陰で)

2018-03-02 06:45:00 | ★ 神学校の日記

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もう一つの 銀」

(ピョンチャンオリンピックの陰で)

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都営新宿線の瑞江駅の駅前に、都内に3-400ある日本語学校の一つがある。そこに3人のコロンビア人の若者が日本語を学んでいる。彼らは徒歩15分ほどの所にある家に住み日本語の基礎をマスターしたらローマに行くことになっている。ローマには前の教皇ベネディクト16世が四国の高松から移植した「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」が彼らを待っている。

3人はローマの神学院を経て司祭になれば、将来宣教師として日本に派遣されることになっている。今現在、彼らの立場は語学留学生であるが、一之江の家での生活のリズムは神学校のそれとほぼ同じと言えるだろう。

昨年7月に日本にやってきて約半年。日本語学校に入学してまだ4か月余りだが、学校の行事の中にスピーチコンテストというのがある。初級の数クラスがひとまとまり、中・上級の数クラスがもう一つの塊で、それぞれのグループの中で予選があって、各クラス2人の代表が本選でスピーチをする。我が家の3人の若者のうち20歳のマテオ君が彼のクラス代表2人の内に選ばれた。私は父兄のような気分で聴きに行った。

マテオ君は休憩前のスピーチのトップバッターだった。

まずは彼のスピーチを聴いてみよう。

テーマ:「時間とともに変わった私の趣味」

マルティネス・マテオ

わたしの好きなことは今まで度々かわりました。

私はこどもの時ビデオゲームが好きでした。そして、アクションフィギュアで友達と遊ぶことも大好きでした。これから今の趣味について話したいです。

だい1は、がっきをひくことです。9歳の時おじさんは私にピアノのひきかたと、がくふの読み方を教えました。ちょっと面白くなかったです。それで、ギターがいちばん好きだったから、10歳の時にはじめてギターをひきました。またうたも好きでしたが上手じゃありませんでした。16歳の時ギターをひくことにつかれましたから、バイオリンを買いました。とても好きでした。今私はピアノとギターとチャランゴとバイオリンをひくことができます。でも、この楽器の中でバイオリンがいちばんできます。

第2は本を読むことです。私は高校をそつぎょうする時まで読むことがぜんぜん好きじゃありませんでした。でも、3年前に読むことをはじめて好きになりました。これはドストエフスキーの本を読んだ時からです。「つみとばつ」という本です。あとでドストエフスキーの本を多く読みました。1か月ごとに本を一さつ読むことをめざしました。去年15さついじょうの本を読みました。そして、さいきんぼうけんしょうせつを読みました。今まで、私の好きな本は3つです。アレクサンドル・デュマの「モンテクリストはく」と「つみとばつ」とC.S.ルイスの「ナルニア国ものがたり」です。どうぞ、皆さんこのような本を読んでいなければ、読んでみませんか。ぜひおすすめします。

はっぴょうをおわる前に、バイオリンでパイレーツ・オブ・カリビアンをひきたいとおもいます。 

 

彼はスピーチを終えるとおもむろにバイオリンを取り出してゆっくりと弾き始めた

全部で40人余りの発表者の中で楽器を弾いたのは彼ただ一人だった

弾き終えてかれは満足げにほほ笑んだ

かれは、原稿は持たず、全て空んじて堂々と話した

発表者の中には途中で詰まって、あとは紙を見ながらと言う者もすくなくなかったのに。金賞が一人、銀賞が二人。金賞には賞状の他に1万円、銀賞には5000円というささやかな賞金もついた。

右のミャンマーからの留学生が賞、マテオと左のベトナムの女子学生が銀賞だった。後半の中・上級のグループからも金賞一人、銀賞二人が選ばれた。たいてい日本での暮らし、日本で戸惑ったこと、人間関係などの生活の体験にテーマを選んでいたが、マテオのスピーチの内容は少し違っていて印象的だったのだろうか。最後に校長先生から一人一人のスピーチに対して丁寧な暖かい講評があった。

スピーチをした全員の集合写真。上の「ピー」の字の下、笑顔の背広の男性が若い校長先生。情熱家という印象を受けた。マテオ君は最後列右端。

ピョンチャンオリンピックで日本は過去最多のメダルを獲得した。

その蔭で、ささやかな銀賞に輝いたマテオ君を讃えたいと思って、ブログを書きました。

(終わり) 

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★ マチェラータの「レデンプトーリス・マーテル」神学院

2017-06-02 00:28:56 | ★ 神学校の日記

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マチェラータの「レデンプトーリス・マーテル」神学院

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キコの壁画の最終回の前に、一つ挟もう。私は5月30日に日本に舞い戻った。平山司教様がご一緒だった。彼にとっては、これがローマでの最後の日々になるかもしれないという予感のもとに、5月下旬に小旅行をした。投宿先がこのマチェラータの神学院だった。

ホールにはキコの自筆の壁画があった。真ん中は三位一体の神、左がキリストの降誕、右が復活と空の墓のモチーフで描かれている。これらは、形を変えてローマの大壁画の一部に組み入れられることになっている。

マチェラータはアシジから真東に向かってアドリア海の近くの丘の上にある。ちょうど昼食時に着いた。聖堂で昼の祈りをして、食堂に向かう。詩編はパイプオルガンとギターなどに合わせてメロディーをつけて歌う。

食堂には30人ほどの神学生がいた。ローマの神学院の姉妹校で、規律は良く守られているのが空気でわかる。

これは、現在世界に115か所以上ある姉妹校の中でもかなり早い時期、多分10番以内に建てられた神学校で、寄付された土地にゼロからすべてキコの設計で建てられた最初の神学校だったと思う。隅々まで彼の独自の建築理念が生かされている。

現在、この神学校には12か国からの30人余りの神学生がいるが、その中の5人は中国人の若者だ。実は、このマチェラータという土地は、有名な中国の宣教師マテオ・リッチの誕生の地で、それに因んでここで生まれる司祭は、全員中国の宣教のために特別な養成を受けている。キコは、将来中国の共産党一党独裁体制が崩壊する日を目指して、世界中で2万人の宣教司祭を養成するという野心的な計画を持っている。ここの神学校はそのためのモデルケースになっている。

5人の中国人は別として、他の11か国からの神学生は、すでに中国に留学して中国語が話せるようになっている。

聖書を勉強するみ言葉の大聖堂には、ローマの神学校と同じキコのステンドグラスがはめられている。

兵馬俑のコピーや

中国の貴人の服装をした往時の宣教師の胸像が置かれていた。どちらかがマテオリッチではないか?

 

実はこの神学校はまだ完成していない。円形の大ホールがまだ未完成のままだ。キコのイメージデッサンをが壁に掛けられていた。

実は、1990年には、日本にこれと似たような神学校が(土地はこれよりかなり狭いが)四国の香川県東かがわ市に計画されていた。世界で7番目の姉妹校「レデンプトーリス・マーテル」神学院だった。今もこれと同じような完成模型がケースに入って日本のどこかに保管されている。土地の造成まで設計図に従って完成していた。竹中工務店の手で本工事を待たずに仮校舎が建てられ、実際に神学校が開校し、1998年まで活動し、20名ほどの司祭を輩出した。いまその神学校は前教皇ベネディクト16世の手でローマに移植され、将来の日本の福音宣教のために、≪日本のための「レデンプトーリス・マーテル」神学院≫と命名され、平山司教様が教皇からその院長として任命されて現在に至っている。

(つづく)

 

 

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★ ローマ教区長ヴァリーニ枢機卿の来訪

2014-02-23 21:19:24 | ★ 神学校の日記

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ローマ教区長ヴァリーニ枢機卿の来訪

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ローマ教区の本当の司教はペトロの後継者である教皇フランシスコだが、

教皇は世界の教会のトップとしての任務に専念するために、ローマ教区内の司牧は自分の代理に任せている。

ベネディクト16世の時からローマの司教代理はヴァリーニ枢機卿だ。

彼は毎年神学校の保護の聖人の祝日の頃に合わせてやって来てミサを司式し、夕食を共にする。

 

年を重ねるごとにヴァアリー二枢機卿はこの神学校に対して好意的になってきた。

今日のミサのお説教も、ローマと全世界の福音宣教に果たすこの神学校の意義をあらためて称賛した。 

 

今日は私も祭服を着て目立つところに居るので、さすがにカメラを持つのははばかられた。

一連の写真は係りの2人の神学生が撮ったもの。

「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」の院長の平山司教と平和の挨拶を交わす枢機卿。

 

ミサはつつがなく進行していく

 

音楽はパイプオルガンの他、金管楽器とギターと打楽器で構成される

 

ミサが終って司式者が退堂すると、神学生たちは歌と音楽に合わせて祭壇を囲んで踊るのがいつものスタイル 

 

夕食が始まった。この日、私は手ぶらでで呑気にテーブルについたまま動かない。

 

コースが終ってデザートが出る頃、入り口の外から音楽が聞こえてきたかと思うと、

一団の神学生が、元気のいい歌を余興に披露するために食堂に入ってきた。 

 

スペインの民謡が歌われると、各テーブルの会食者は、ナフキンを取って頭上でクルクル回しながら唱和する。

 

食後の祈りの時、ヴァリーニ枢機卿は上機嫌でこう言った。

2月28日の教皇フランシスコの晩餐会にはあなた達も招かれている。

その夕べのサプライズに、この元気な歌を是非披露していただきたい。

アルゼンチンのタンゴを一曲加えることを忘れないように!

と付け加えた。思いがけない枢機卿の提案に神学生の中から喜びと同意のどよめきが上がった。

(おわり) 

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★ 〔一部補足〕 新ルクセンブルグ大司教の後日談

2014-01-28 15:00:58 | ★ 神学校の日記

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新ルクセンブルグ大司教の後日談

=新求道期間の道を導入=

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一昨年(2012年)12月25日に、

〔異例の抜擢〕 イエズス会日本管区のメンバー 「ルクセンブルグ大司教に叙階」

という短いブログを書いた。書いた後、その大司教の事は意識の表面から消えていた。ところが、今日の昼食時、神学院の楕円形のメインテーブルの対角線に座った神父の話に耳を傾けていたら、どうやら彼はケルンの大司教マイスナー枢機卿に会ってきたばかりらしかった。

そして、彼の口からルクセンブルグ大司教のオロリッシュイエズス会員(元日本管区)の話が出た。この新大司教は、新求道期間の道など第二バチカン公会議後に花開いた福音宣教のカリスマとは水と油のインカルチュレーションのイデオロギーの牙城のように私には思われた日本のイエズス会では異色の神父であったようだが、はたして、ルクセンブルグの新大司教になって以来、教区に新求道期間の道を導入し、見事に花を開かせつつあるとのことだった。

 

 

 

彼が、ケルンのマイスナー枢機卿の後ろ盾で大司教になったことは前にも書いたが、今日の食卓ではそのマイスナー枢機卿が日本の教会の事にも言及したとのことだった。

もともと、ケルン大司教区と日本の関係は極めて深かった。

その背景にはドイツの教会と政府の特別な関係がある。ドイツではビスマルクとバチカンとの協定で、カトリック信者の教会への献金は、ドイツの政府が教会に代って所得税の源泉徴収に合わせて自動的に徴収し、政府がその集まったお金を教会に納めることになっている。そのため教会税の徴収は取りこぼしが無く、極めて効率的で、そのおかげでドイツのカトリック教会は経済的に極めて豊かである。

その豊かな資金を背景に、日本の東京大司教区上智大学等には戦後ずっとかなりな額の宣教援助資金が送られてきていて、今もそれは続いている。

ところで、ルクセンブルグの教会の現状も実は全く予断を許さないようだ。昔250ほどあった教会は新しい司教が着任した時には50ほどに減少し、その後も30ほどにまで縮小せざるを得ないような実情を抱えている。

ケルンとルクセンブルグは目と鼻の先だ。マイスナー枢機卿が手厚く支援していることは想像に難くない。オロリッシュ大司教のようにマイスナー枢機卿のおめがねにかなった人物には支援の甲斐があるというものだろう。それに比べれば、日本の現状はまことにガッカリさせるものがあるというのが正直なところではないか。私は元銀行マンだった。銀行マンのセンスからすれば、宣教のために資金援助しているのに宣教が行われていないとしたら、その援助資金は何の目的に流用されているのだろう、と勘繰りたくもなる。

元銀行マンと言えば、私が一介の哲学の書生から、突如国際金融業のプレイヤーの一人になれたのは、マイスナー枢機卿のケルン大司教区のお蔭だった。当時―40年以上前の話だが―ケルン大司教区の宣教資金は、コメルツバンクのケルン支店から東京に流れていた。

私が全共闘の学生諸兄のシンパになったことの罪で上智大学の助手の職を追われた時、ヘルマン・ホイヴェルス神父(イグナチオ教会主任司祭)とビッター神父(イエズス会総会計)とチースリック神父(キリシタン史研究家)の3人の戦前から日本に宣教師として来ていたドイツ人の神父様たちが、「何も悪いことをしていないの首にされて可愛そうに」 と言って同情して、私の就職の心配をしてくれた。

当時、コメルツバンクの東京駐在事務所の所長のマンフレッド・ラッシェは、お人よしの赤ら顔の呑兵衛で、朝からアルコールの香りを漂わせていたが、ケルン教区資金の関係でビッター神父と飲み友達だった。「近い将来の支店開設を視野に、日本人の若い生え抜きを養成したいのだが、適当な候補はいないか」という言葉に、渡りに船とばかりに3人の神父連名の推薦で、国際金融業界に裏口入学した。推薦人が推薦人だったから、思想も、信条も、語学力も一切不問で採用されてしまったのだが、幸運と言えばこんな幸運な話も珍しい。

そこから叩き上げて、リーマンブラザーズまで行けたのも、時代の波の先端に運ばれた幸運のなせる業だったが、今は宗旨替えで、ローマで神父を張っている・・・

現実の歴史に、もしあの時別の道を選んでいたら、と仮定するのはあまり意味のないことだが、敢えて、もし私がイエズス会の修練院を飛び出していなかったら、今頃イエズス会でそれなりの役割を果たしていたに違いない。そして、まず間違いなくインカルチュレーションのイデオロギーの熱心な信奉者になって、新求道期間の道などの公会議後のカリスマを弾圧する動きに大いに力を発揮していたに違いない。運命とは不思議なものだ。

教皇フランシスコにしろオロリッシュ大司教にしろ、イエズス会の中では少数派と思われる人が、教会のトップの座につき、教会を指導していく姿は、感動的だ。教皇フランシスコはオロリッシュ大司教を将来枢機卿にするだろう。自分が教皇の座を去る前に、自分の後継者を選ぶ選挙人である枢機卿の過半数を自分の路線に忠実なもので固めるだろうから、第二バチカン公会議後歴代教皇の路線は今後も継承されていくに違いない。

オロリッシュ大司教の叙階に関する元のブログをご覧になりたい方はこれをクリックしてください↓

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/897e43379775f72557db0b0eb9633eae

 

と書いたが、何故かリンクがうまく張れていないようだ。短いブログなので、面倒だから下にコピーした。

 

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異例の抜擢  

イエズス会日本管区のメンバー 

ルクセンブルグ大司教に叙階

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 2006年4月1日以来、上智大学の経営母体であることで有名なイエズス会の東京都中野区若宮の司祭養成センター「三木ハイム」で責任者をしていたオロリッシュ・ジャン・クロード神父が、ルクセンブルグの新しい大司教に任命された。このニュースは小さなショックを伴って我々仲間の神父の間を駆け抜けた。 

 日本のイエズス会と言えば、元日本管区長で現総長のニコラス神父に代表されるような、インカルチュレーション路線のイデオロギーの理論的な指導集団と理解されてきた面があり、ケリグマ(福音)の告知をもっぱらとする直接宣教のカリスマの前に立ちはだかる厚い壁のように思われがちだったからだ。もしかすると、アジアだけでなく、今後はヨーロッパにもそのようなイデオロギーが伝播するのではないかと一瞬身を固くした。 

 しかし、その後伝わってきたニュースや解説はそのような不安を払拭するに充分であった。パリの新求道共同体のカテキスタのジュリアーナの話によると、彼の大司教任命の陰にはわれわれの大のお友達であるケルンのマイスナー枢機卿の尽力があったそうだ。ジュリアーナが大喜びしているという事実は、オロリッシュ新大司教が新求道共同体に対してきわめて友好的であることを示唆しているのではないだろうか。 

 この異例の人事が、今後日本の教会に対し、日本の新求道共同体の活動の上に、直接・間接に何らかの影響が現れるか否か、目が離せない。 

(終わり) 

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★ さようならクリスチャン -神学院を去る若者-

2012-03-24 15:05:48 | ★ 神学校の日記

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さようならクリスチャン

-神学院を去る若者-

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 今日は土曜日。平日の起床の鐘は5時半に鳴るが、大学の授業のない土曜日は7時半に鳴るはずだ。なのに、今朝は6時半に鳴った。なぜか?それは、今日サッカートーナメントの試合があるからだ。朝食が終わったらみんな大挙して応援に行く。

 7時。日本のための神学生は自分たちのチャペルに集まって、日本語のミサに与った。冒頭、司式するアンヘル神父は言った。「クリスチャン神学生は無事にエル・サルバドールの家に帰り着きました。みんなによろしくと言うメールが入りました」と。

 

ミサが終わって皆が食堂に去った後の日本の神学校の聖堂

 

 私にとっては孫のような世代の、まだ「少年」と言ってもいい可愛いクリスチャンが、私には別れの挨拶にも来ないままひっそりと去って行った。

 彼は、数百人の神学生志願者の集いのくじ引きで、80数校ある姉妹校のうち、この日本のための神学校に入ることになった。以来、半年余り、養成者側は注意深く彼を見守ってきた。信仰、道徳、社会性などの面でほかの子と比べても特に遜色はなかった。しかし、問題が残った。母国語はスペイン語で、イタリア語の日常会話も自然に覚えた。しかし、それ以上に進まないのだ。中年のイタリア人女性の家庭教師が付いた。彼女曰く、文法が全く頭に入らない。抽象的な概念が覚えられない。これではクレゴリアーナ大学の哲学の授業には無理だ。まして、日本語の文法と、特に漢字の習得については絶望的だろう、と言う評価が出た。

 昔、貧しい長崎の子沢山のキリシタン家庭からは、口減らしもあって、小神学校(小学生から入れる)は神父を目指す子供たちであふれ返っていた。養成者側は、100人のうち数人が司祭までたどり着けばいい、くらいの思いでおおらかに育てていた。ふるいにかける一つの基準はラテン語であった。ラテン語が覚えられない子は、容赦なく家に帰らされるのだった。

 また、昔、日本の一流都市銀行には、各大学でそれなりの成績を修めた同期生が毎春そろって入行した。一流大学出は支店長ぐらいまではみな轡を並べて一斉に昇進していく。ところが、平取締役に上がる段階で、ポストは極端に少なくなる。すると、支店長時代にその支店でなにか事故があると、支店長本人に過失や責任がある無しを問わず、「はい、お気の毒様!」とばかりに役員候補から外される。いわば運試しの×ゲームみたいなところがある。そして、同期の中から役員が出ると、皆一斉に第二の勤め先に天下る、と言う話を聴いたことがある。私がいた外資系とは異なり、年功序列による終身雇用制の古き良き時代の秩序と言うべきかもしれないのだが・・・

 不幸にして、クリスチャンはそういうスクリーニングに引っかかってしまった。

 まだ彼には国に帰って地元の神学校に入り直す道が残されているが、はたしてどうだろうか。めげるなよ、クリスチャン。神様はお前を愛しておられる。 

 さて、ミサが終わって朝食をとると、選手たちは出発の前に、この神学校に唯一の司教-日本のための神学院の院長-平山司教様に出陣の祝福を受ける。去年はこの祝福のお蔭か、常勝将軍の破竹の勢いで勝ち進んだ。しかし、今年はたまに取りこぼしてしょんぼり帰ってくることがある。上級生の優秀な選手たちが実習や病気で抜けたからだ。我が日本のための神学院のアルフォンソ君も、得点王で毎度複数ゴールを決めて勝利を呼び寄せていたが、心臓肥大症が見つかって出場停止となった。みんな出ていった後、「もうプレーしないのか」と慰めたら、「僕はもう年を取りました」とアルフォンソは答えた。相手チームの選手を救急車で病院送りにしたというような武勇伝も、最近はあまり聞かなくなった。


ロビーに集まった現役の選手たち


勝利を祈願して祝福をする平山院長

 

     

      優勝した年のキャプテンの雄姿 優勝した時のトロフィーは昔の神父の帽子をかぶってサッカーシューズを履いたボール


 

 しばらく自室で仕事をして、ロビーに降りていくと-あれから何時間たったか-選手たちが戻ってきた。大人しいのでまた負けたのか、と聞いたら、いや2対0で勝ちましたという。相手は南アメリカの神学生連合軍と言う強豪だったそうだから、大した成果だ。しかし、野性味が亡くなったというか、なんとも大人しくなったものだ。20年前のこの神学校は御し難い野獣のような神学生にあふれていたものだが、これも時代の変化によるものか。


勝って帰ってきた今の選手たち 左端は日本のための神学校のイスラエル神学生 新入生だが日本語ペラペラ 

 

 私が入った1990年ごろは、ローマの伝統ある神学校のコレジオ・ロマーノと、新興勢力の我々レデンプトーリスマーテルとは、いずれも80人ほどずつ神学生がいて競い合っていた。それが、この20年あまりのうちに、向こうは30人ほどに減り、こちらはローマと日本の連合軍で100人余りと(その中に将来の中国への宣教師の玉子も含まれるが)圧倒的な差がついてしまった。教皇のお膝元でこのありさまだ。他の国々は推して知るべしではないだろうか。

 今は世界中で神父のなり手が不足している。たまに、神父になりたいという奇特な青年がいると、「それ!金の玉子だ!」と言わんばかりに大歓迎。働きたくない症候群、結婚恐怖症、ホモの疑いさえも、取り敢えずは目をつぶる?かのようだ。そして、それを少子化家庭の一人っ子のように大切に育てる。辞められたらそれこそ大変だ、と甘やかす。養成者は無意識のうちに弱気の守りの姿勢をとる。これでは骨太神父は育たない。この世界の潮流の中で、日本だけは例外であればいいのだが。

 その点、うちでは寝坊して朝の祈りに遅れてでも来ようものなら、「この怠け者!明日朝一番の飛行機で国に返すぞ!」と院長の檄が飛ぶ。愛の鞭がふるえる強気の養成者は幸せだ。

(終わり)


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★ 神学院の認定式

2011-03-03 23:31:01 | ★ 神学校の日記

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神学院の認定式

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「教皇暗殺事件-5」の準備に手間取っている間に、報告事項が生じました。アルバム形式でお伝えします。

去る2月26日(土)の夕方、神学校の聖堂に教皇の代理、ローマ司教であるヴァリーニ枢機卿を迎えて、5人の神学生が認定式を受けました。認定式とは、通常2~3年間の試しの期間の後、正式に未来の司祭の卵として認定され、その印に黒い背広とローマンカラーを付けることを赦される式のことです。


 荘厳に式が始まる


認定される5人の候補者

中の3人がローマの 「レデンプトーリスマーテル」の神学生

両端の2人が日本のための 「レデンプトーリスマーテル」 の神学生


認定式の後半、ミサの中で手焼きの種なしパンを割く司祭達


ミサの後、復活の喜びに包まれて祭壇を囲んで踊る参列者たち

ギター、ヴァイオリン、フルート、トランペット、ボンゴ、チャランゴ、

もちろんパイプオルガンも、など様々な楽器の伴奏で


ジーンズを脱いで、認定式を終えて黒くなった日本のための神学生

左がアルフォンソ君(サッカーの名手)、右がロピート君(神学院のベテラン看護師)

ロピート君は数日前にサッカーで怪我をした


元高松の神学院は、今もローマで健在

皿洗いや、旅人の実習や、日本での語学研修でここに写っていない者を加えると20数名になる


お疲れ様。院長の平山司教様、元院長のスアレス神父様、そして私。


式後の食卓でご満悦のヴァリーニ枢機卿

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尚、5月14日には聖ペトロ大聖堂で教皇様司式の司祭叙階式が行われる。

前回の田中君、サミュエル君に続いて、この度はヨーゼフ助祭が

日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院から司祭に叙階される。


 


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