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喜ばしいお知らせ(つづき)
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先のブログ「喜ばしいお知らせ」はまことに舌足らずの半端な記事に終わってしまいました。それで、つい続きを書きたくなりました。
神様は絶妙なおはからいで歪んだ定規を使ってまっすぐな線を引かれ、来るべきコロナに備えて「偲ぶ会」をあらかじめ安全地帯に移してくださいました。それは、偉大な宣教師であったホイヴェルス神父様を「偲ぶ会」には、まだ果たすべき役割があると神様が思われたからでしょう。それが日本の新しい福音宣教の始まりとなる小さな芽として護られ、育ち、やがて大きな樹に育つことが望まれているからに違いないと思います。
一口に「福音宣教」と言いますが、それがどういうものであるか、どうあるべきか、を正しく理解することは容易なことではありません。教会が言葉だけのスローガンとしてそれを掲げても、「福音宣教」の内実が深く理解されなければ、ただの空念仏に終わり、その結果として何事も起こりません。
聖書には「回心して福音を信じなさい」とか「全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16.15)とか、「信じて洗礼を受ける者は救われる」とかいうことばが散見されます。また、洗礼を受けたものに対しては、あなたがたは「地の塩」であるとか、「世の光」であると言われ(マタイ5章参照)る一方で、「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が着けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(マタイ5.13)という言葉もあります。
とは言え、これらの言葉が具体的に何を意味しているかを深く理解している人がどれだけいるかは、実に心もとないかぎりです。
一見すると、教会は単純素朴に、人は洗礼を受ければ救われる(受けなかった人は救われない)などと言って、ただ闇雲に洗礼を授けさえすれば、それでよしとしているかのようです。
たとえば、初代教会から中世を経てごく最近まで、乳幼児の死亡率が非常に高かったため、洗礼を受けないうちに死んでしまったら救われないから大変とばかりに、生まれる子供にすぐ洗礼を授ける習慣が支配的でした。実際に、洗礼が間に合わなくて死んだ嬰児の魂は、はたして救われて天国に入れるか、それとも入れなかったか、などという議論が大真面目にされてきたのです。実に馬鹿馬鹿しい話だと思われるかもしれませんが、これらはほんの一例に過ぎません。
また、教会人は気安く「福音宣教は大切だ」といいますが、成人した常識のある信仰者にとって「洗礼」とはなにか、「救い」とはなにか、洗礼と救いはどう関係しているかなどについて、正しく深い見識を持っている人が、信者の間でも、司祭でも、高位聖職者であってさえも、どれだけいるかを思うと、極めて心もとない話です。
洗礼を授ける条件としては、「地の塩」、「世の光」として生涯を生きる準備のある成熟した大人の信仰を想定しています。では、まだ物心のついていない幼児に洗礼を授ける場合、その子が将来成熟した信仰を持つようになることをどのように担保するというのでしょうか。
それは、子供の信仰養育に責任を負っている親たちの信仰と教会共同体の信仰がその子を大切に育て、信仰を十全に伝えていくことを前提としています。しかし、もし、その親たちと教会がその責任を果たさず、子供の信仰教育をないがしろにし、福音宣教に対しても曖昧な態度をとるならば、子供たちの洗礼は「塩味のしない塩」、「光りを放たない灯」を粗製乱造する結果となり、その子の魂の救済のためにも、世の福音化のためにも役に立ちません。
他方では、塩味のする真の塩として生きる信者に親しく接し、心で深く繋がっている人たちは、すでに塩味のついた人であり、彼らの灯に照らされてすでに闇から明るみに入っているので、洗礼を受ける前からすでに神の救いに与っています。
教会で信仰入門の手ほどきを受けている求道者が亡くなると、教会はその人を洗礼を受けた信者と同等に扱い、キリスト者として教会の墓地に葬る古くからの習慣は、その事と呼応しています。求道者が地の塩としての責務と世の光となる使命を理解して洗礼を望むようになるとすれば、それこそ天において大きな喜びとなるでしょう。
偉大な宣教師だったホイヴェルス神父を「偲ぶ会」に集い、祈り、ともにミサに与かる皆さんは、知らぬ間にホイヴェルス師の塩味によって味付けされ、師の宣教魂の灯に照らされて光の中を歩み始めているのです。
神の国は近づいています。十字架の苦しみの中で死に、葬られ、三日目に復活したイエス・キリストの救いの恵みと贖いの力は、信者だけではなく、まだ洗礼は受けてないがホイヴェルス師の魅力に引き寄せられて「偲ぶ会」に参加したお友達にも、すでに届きはじめていると確信します。
もし幸い、その人たちの中から、この世を腐敗からまもり味をつける塩となり、この世の闇を照らす光りとなる招きを感じて洗礼を望む人が現れたら、天のホイヴェルス神父様はどれほど喜ばれることでしょう。このホイヴェルス神父を偲ぶ会が、宣教の使命に生きる真のキリスト者を育て、世に送り出す場として受け継がれていくことを、ホイヴェルス神父は望んでおられます。「偲ぶ会」にとって、これほどの「喜ばしい知らせ」がほかにあるでしょうか。
「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(マルコ9.40)と聖書にあるように、ホイヴェルス神父様の追悼ミサに反対しない人は、みな神父様の友であり、神の国はすでにその人たちに届いているのです。
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ホイヴェルス師の 第45回 追悼ミサと懇親会
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日 時: 2022年6月9日(木) 午後3時から5時半ごろまで (ミサと懇親会)
場 所: JR四谷駅 麹町口1分 主婦会館プラザエフ (部屋は当日入り口に表示)
参加希望者はこのブログのコメント欄(右下の「谷口神父」のさらに下に小さな細い字で コメント とあるのをクリックして)に
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とお書きください。プライバシーは護られます。コロナ対策を万全にし、ゆとりのある広さの部屋を確保するために、あらかじめ参加希望者のおよその数を把握したいと思います。
谷口幸紀神父