:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 二度あることは三度ある (その-4)

2008-07-23 23:17:45 | ★ 回想録

2008-07-23 16:25:46




〔終 幕〕 または「従順の勧め」 -第1場-  


  ここでは、キリスト者にとって「従順」とは何か、と言うテーマを、今回の一連の体験を通し、社会学的、神学的に考察してみたいと思う。
 「従順」の一語に呪縛され、虫のように苦しんできた多くの底辺の司祭たち、修道者、修道女たちに、小さな慰めと解放のメッセージとなればとの思いもある。 
  
 (このテーマ、一回で書き切ろうと思ったが長くなった。多分2回、場合によっては3回に分けてアップすることになるだろう)

(1)「従順」の歴史
 「従順」、それは、人類の歴史の中で最も古い、最も重いテーマである。
 旧約聖書の第1巻「創世記」の第2章以下によれば、天地万物の創造主なる神に対する人祖アダムとエヴァの「不従順」のために、人類は一人残らず「死」の運命を身に引き受けることになった。不従順は「原罪」、そしてあらゆる「罪」の根源である。
 ナザレのイエスの、死に至るまで、しかも十字架上の死に至るまでの「従順」によって、人祖の原罪の呪いは既に力を失い、復活の命が全ての人類に届いた。全ての人類とは、縦は、アダムとエヴァから世の終わりに生きている全ての人に。横は、西の端から東の端まで、いまこの宇宙船地球号に乗り組んでいる65億の人類全てのことである。つまり、第二のアダム「キリスト」の従順によって、キリストを信じる人にも、信じない人にも、全ての人に平等に復活の命に与るチャンスが与えられた。
 神様はご自分の内的生命の秘密の中で最も本質的なもの、つまり「理性」と「自由意志」のひとかけらを、ご自分の愛する被造物界の花、人類、にお与えになった。これは、神様からの人類への最高の贈り物、しかし、人間にとって最大のチャレンジとなった。
 このブログの途中で開店休業状態の「知床日記」=悪の根源について=シリーズ(2007年10月7日以来17回でまだ未完)★詳しくはここをクリック★ も、今回の「従順」問題も、元を糺せば全て、人間の人格の本質的特性であるこの「理性」と「自由意志」の問題に帰着する。

(2)「従順」の原点
 そもそも、「従順」の原点は、創造主なる神のみ旨に対する被造物の側からの信仰の行為であって、地上の人間社会における権威に対す「服従」とは似ていながら全く次元の異なるものである。「従順」とは、人間が神の前でのみなしうる最も高貴な信仰の業であると言い換えてもいい。
 ナザレのイエスが、ご自分の死に至るまでの従順を向けたのは、天の御父ただお一人に対してだけであった。イエスは、ローマ総督ピラトや、大祭司やファリサイ人たちに対して、「服従」も「屈服」もされることは無かった。まして、ご自分の「崇高な従順」を彼らに向けられることは決して無かった。「神の子」としての自由と尊厳は、地上の人間の権威の下に屈することなど、断じてあり得なかったのである。
 我々イエスのみ跡に従う信仰者も、「神の子供たち」として、この点において全く変わるところが無い。教皇であれ、司教であれ、修道会の長上であれ、彼らに「従順」するか否かは、命令を発する彼らが、同じ崇高な信仰の深みから、自らを透明な道具として、神のみ旨の伝達者として、正しく機能しているか否かにかかっている。彼らが、その信仰に照らして、自分が今下す命令は、神のみ旨を誤り無く伝えるものであると確信しているときに限り、それを受ける側も良心的に納得して、自由に心安んじて「従順」を向けることが可能となる。たとえ、その内容が自分の意思に完全に死ななければならない苦しい決断を伴う場合であっても、である。
 「従順」とは、明らかな神のみ旨を前にして、人間がその固有最高の能力である「理性」と「自由意志」を行使して、「知りながら」、「自由」に神のみ旨に自らを委ねることである。
 聖母マリアの受胎告知に対する応答については、このブログ 『マリア』 シリーズの中で詳しく書いた★詳しくはここをクリック★。これも処女マリアの命がけの「従順」であった。
 キリストのゲッセマネの血の汗を流すほどの葛藤も、おなじ「従順」の壮絶なドラマだった。
 「従順」とは、深い信仰に根ざした、人間のなしうる「最も高貴で神聖な行為」である。その意味において、我々が日常生活において「従順」の問題と正面から向き合うことは、生涯において一度あるかないかの、極めて稀な厳粛な場面においてのみありうる。
 教会の中では、「従順」がしばしば軽薄に人の口に上るが、実はそのほとんどの場合、世俗の会社や組織の中での日常的な人事の辞令とその受理、又は拒否、のレベルの話であって、厳粛かつ高貴な「従順」とは、およそ無縁の話である。
 教会、教会と言うが、通常その実態は世俗法に基づく団体、組織化された人間集団の事を指す。目に見える教会は、宗教法人○○司教区とか、修道会なら、宗教法人××会とか言う任意加盟の団体である。代表もいれば役員もいる、本部があれば幾つかの支部もある。そこで通常行われているのは、会社や役所の人事以上のものではない。そこへ「従順」と言う異次元の言葉を持ち込むから話はややこしくなるのである。

(3)「従順」の実践面について
 では、現実生活における「従順」はどのようにすれば直接天の御父に対する「従順」であることを保証することができるだろうか。また、「従順」が常に高貴な信仰の行為であることを、いかにして確保し、維持することが出来るか。
 それは、人の言葉、人の命令に対してではなく、常に良心の声、良心の命ずるところに従うことによってのみ保証される。つまり、人(上長)の命令と良心の命令とが相反するとき、人間は常に葛藤の中に立たされるが、その場合、上位に立つ命令は常に良心の命令でなければならない、という原則に忠実であることである。
 良心が人間の命令と反対のことを命じるとき、我々は人の命令に従うことに本能的に抵抗を感じる。その時、人は、受けた教育や、規則や、利害や、毀誉褒貶を気にして、安易に人の命令に従ってはならない。信仰ある人は、あくまでも良心の命令のみに従うべきものである。
 良心の命令に背いて人の命令に従うことは、ことばを替えて言えば、神に対する「不従順」に他ならない。だから、たとえこの世でいかに非難され、社会からいかなる制裁を受けようとも、また、時には大げさに教会に対する「不従順」の廉で宗教裁判にかけられ、火炙りにされようとも、従ってはならないのである。
 こう言えば、中世ならいざ知らず・・・、と反論する向きもあろう。しかし、現代は現代なりに、火炙りに勝るとも劣らぬ陰湿な制裁、蛇の生殺し、も十分ありうるのである。それでも、-たとえあらゆる不利益、不名誉を偲んでも-自分の良心に反しては、絶対に人の命令に従ってはならない。そして、この場合の人とは、司教であり、修道会の長上であり、時には教皇であってさえも・・・・、要するに、あらゆる宗教上の地上の権威を指している。
 幸い、教会と言えども、民間の会社や役所と同様に、通常は適材適所の常識が支配し、大きな問題に発展することはむしろ稀である。ただし、派閥の力学や、私怨による報復や、非合理ないじめなどが入ってくると、事はにわかに複雑になる。
 まして、歴史の大きな節目に当たって、「古い酒と古い皮袋」 対 「新しい酒と新しい皮袋」 の図式★詳しくはここをクリック★に嵌った妥協の余地の無い衝突ともなれば、事は極めて深刻である。
 既に終わっているコンスタンチン体制の夢になおしがみついている旧守派と、コンスタンチン体制後の新しい時代を生きようとする新しいカリスマとが対峙するとき、この問題-即ち「真の『従順』とは?」の問題-は、具体的な場面でたちまち深刻な問題として顕在化する。
 今回の、哀れな usagi を巻き込んだ 「現代の棄民」 の出来事は、まさにこのケースに属するのである。
(つづく)

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★ 二度あることは三度ある (その-3)

2008-07-19 22:03:27 | ★ 回想録

2008-07-19 09:52:14



 
〔第二幕〕 「二度目の棄民」 (二年の追放)

 
 ローマでの1年間のサバティカル(休暇年)も残り少なくなった或る日、司教から一通の手紙が届いた。「引き続き2年間の教区外生活を命ず!」
 晴天の霹靂とは、まさにこのことを言う。サバティカルが終わったら、元の通り三本松教会の主任司祭に戻す、と言う約束はどこへ行ったのか。信者たちが司教に会って、その約束を確認したのではなかったか。書いたものが残っていなければ、約束など何とでもなると言うのか。約束違反も、嘘も、司教なら何でもありか。しかし、そこはぐっと押さえて、次のような手紙を書いた。

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2006年3月22日
溝部脩司教様

主の平和

 3月16日付のお手紙、今日拝受いたしました。喘息でお悩みとのこと、お見舞い申し上げます。

 昨年5月、不本意にも教区を去らなければならなかったときは、正直に申し上げて、いささか苦しく思いましたが、ローマでの生活は、結果的には恵の時であったと思います。
 1年後に三本松の主任司祭で戻ることは、司教様のお約束であったのに、その通りにならないと言うことは、余程の事でしょう。
 深堀司教様に見出され、高松で司祭に叙階されたときは、生涯、深堀司教様と、その後継者に従順を誓い、教区のために働き、骨を埋める覚悟で居りましたので、引き続き2年、通算3年教区の外に出されることは誠につらいことではありますが、そのほうが司教様にとってやりやすいからと言われれば、従順のためにお受けするしかありません。
 私は、司教様がお求めになれば、誰に対してであれ、またいかなることに関してであれ、身を低くして赦しを乞う用意があります。私は、教会のため、神の国のために良かれと思って、いろいろ働いてまいりました。福音のために辱めを受けることは、私の喜びとするところであります。
 2年間も教区の外に留まる以上、三本松に現住所を残すのは不適当と思います。幸い、野尻湖に自分の家があります。三本松の荷物はそちらに移します。あわせて、現住所もそちらに移すつもりです。これは、ご了承下さい。
 いつまでに、教区のどのポストに、という期限のある人事異動ではないようですから、帰国の時期は多少弾力的に考えさせてください。実は、6月11日(日)を第一候補に、日本の銀行のパリ支店にいる友人の息子の結婚式の司式を、パリですることを頼まれています。現在、結婚講座をリモコン方式と、本人のローマ出張などでこなしています。出来ればそれを済ませて、6月下旬を目処に帰国したいと思います。それもご了承いただければ幸いです。
 祈りのうちに、
                      谷口幸紀拝

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 それに対して、次のようなメールが届いた。

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From: Mizobe Osamu [mailto:xxxxxx@xxxx.ocn.ne.jp]
Sent: Wednesday, April 05, 2006 9:34 PM
To: 谷口幸紀
Subject: Re: お手紙の件

主の平和     

お手紙確かに受け取りました。 私は本当に恥ずかしい気持ちであなたの手紙を読みました。 おそらく反抗的な、または皮肉めいた返書が来るものと思っておりました。 全く感心し、そして頭が下がりました。 ありがとうございます。 (以下、実務的な話は省略)

    感謝の中に       溝部


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 このメールは、自分にとっては勲章のようなものだと思っている。一人の司祭の信仰に基づく従順の行為に対し、一人の司教として率直に反応したものだと思った。
 その後の展開、つまり「第三の棄民」については、機会をあらためて詳しく書くこととして、今は、こうして始まった2年間がどんなものであったかに触れたい。

 まず、住むところである。ローマでのサバティカルの一年間、神様はローザのマンションを摂理的に計らって下さった。
 同様に、国内での2年間の追放に対しても、場所は用意されていた。野尻湖の山荘がそれであった。
 私は、司祭になった翌年、この山荘を或る未亡人から「生前贈与」されて、個人で所有していた。
 Y夫人としておこう。Y夫人との出会いはほとんど半世紀前にさかのぼる。その頃、私は上智の学生で二十歳前後であった。当時、私は夏毎に、野尻湖国際村の親戚の別荘に遊びに来ていた。彼女には、東大の理科から慶応の医学部に進んだ私と同い年の優秀な一人息子がいた。その息子が自殺をした。彼女は、それを機に信仰を求め、カトリックの洗礼を受けた。わたしを見るたびに彼女は息子を思ったかもしれない。その後、約30年、忙しい銀行マンになった私の姿は野尻湖から消えた。そして、司祭になった夏、久しぶりにわたしはY夫人を訪ねたのだった。
 そのとき、彼女の心の中に何かが閃いた。
 休暇を終えて、勉強のためにローマに戻った私を追って、Y夫人から一通の手紙が届いた。
 「息子の思い出の別荘を貴方に贈りたい。」
 一存では返事しかねて、前司教にローマからお伺いの手紙を書いた。
 「将来きっと役に立つから、戴いておきなさい。」
 実は、Y夫人、息子の思い出の染み付いたこの別荘を、教会のために役立てたいと思っていた。東京の白柳枢機卿に相談したら、野尻湖は横浜教区だから、と断られた。浜尾横浜司教に相談したら、うん、よしよし、と資料を受け取って、10年返事が無かった。野尻湖に研修所を持つサレジオ会の当時の管区長、今の高松司教に相談したら、いろいろ条件が難しく、修道者としては・・・・、と二の足を踏まれた。その時、彼が受けなかったのも神様の計らいか。
 帰国後は、毎年2週間ほど、Y夫人と二人で野尻の夏を過ごした。
彼女は、3度目の夏はもう車椅子であった。
 「人様の世話になってまで行きたくない!」
 気丈な彼女はガンとしてあらゆる説得を退けて、ついに行こうとしなかった。
 このブログの冒頭の写真について一言。
 私が最後に彼女を高級有料老人ホームに見舞ったとき、ベッド脇の小さなテーブルに、5センチほどの短い鉛筆があるのがふと目に留まった。カバンの中をごそごそ探ると、たまたま友人のメールをプリントアウトしたA4の紙があった。裏返して鉛筆を走らせた。Y夫人は、早く見せろと何度もせがんだが、10分、いや10数分焦らせて、パッと裏返して見せた。
 彼女、にっこりと笑った。
 まんざらでもなかったのだろう。また来るね、と言って別れた。それが最後だった。
 その野尻湖の別荘。まさか、こんな使い道を神様が考えておられたとは。
 夏は天国。しかし、冬は地獄。板一枚にトタンを被せただけの屋根。板一枚の壁と床。隙間だらけの夏用の建て付け。外がマイナス10度になると、一切の暖房は役に立たない。夜、電気毛布に包まれば、身体は何とかなる。しかし、首から上は零下の室温に晒される。ちょうど家庭用冷蔵庫の冷凍庫に首を突っ込んで寝るようなものだ。朝、襟元に息が白く凍り付いていた。
 この2年間、どのように神様が計らって下さったか、どうやって生き延びたか。それは、この一連のブログの前半を読んでいただけば、およその想像は付くに違いない。

(Y夫人を描いた素人の鉛筆画はこの小屋の居間の暖炉の上にある)

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★ 二度あることは三度ある(その-2) 

2008-07-16 21:46:34 | ★ 回想録

2008-07-16 08:36:28




  二度あることは三度ある(その-2) 


 〔第一幕〕 「一度目の棄民」 (一年の流刑)
     続き  〔ローマでの苦難の生活〕

 ルルド祭が終わると、格安航空券とパスポートと銀行の国際キャッシュカードと小さな旅行カバンだけ持って成田からローマに向かった。
 
 前のF司教様のときは、司祭になる前の4年間と、司祭になってからの4年間、毎夏ローマから帰国したが、出発の挨拶に行けば、いつも執務室に迎えられ、その前にひざまづき、派遣の祝福をもらい、握手し笑顔で送り出されるのが当たり前の習慣になっていた。
 司教様が替わると事態は一変した。大内町の三本松教会を一人でひっそりと出ると、後は全てを神様の計らいに委ねる以外になす術はなかった。何の当てもなかった。何の保証もなかった。司教様からは、司祭の身分証明書も、推薦状も、何も与えられなかった。
 しかし、心は平安。何の恐れも無かった。何故か?
 それは、わたしが50歳で神学生としてローマに送られた次の年、秋9月末、もう一人の神学生と二人で、ベルリンに宣教に派遣されたときの経験があったからだ。
 聖書にもある。「イエスは12人を宣教に遣わすにあたり、次のように戒められた。・・・行くさきざきで、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。・・・帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。・・・働く人が生活のかてを得るのは当然だからである。・・・家に入ったら、平安を祈りなさい。・・・」(マタイ10章5節以下)2000年前、イエスが弟子たちにした同じ訓練を、私も受けた。
 8日間、一銭のお金も持たされず、パスポートと国際列車の往復切符だけを持って、アドリア海に面した小さな漁村から、ベルリンの町の人々に福音を告げに行くのが任務だった。ドイツの銀行に長年勤めた私に、言葉の不安はなかった。
 普段ポケットに幾ばくかのお金があると、神様の存在など、どこか遠くにあって、ほとんど意識することは無い。しかし、一銭も身につけないでいると、神様が手で触れられるほど近くに下りてきて、何から何まで、まるで召使が主人に仕えるかのように、全てを計らってくださる。
 8日間、一銭のお金も無く、しかし、ほとんどひもじい思いをしなかった。夜、誰も泊めてくれず、野宿を強いられたのはただの一夜だけだった。信仰ゆえに、お金の神様に一切信頼を置かず、ただひたすら福音を告げて歩くなら、天の御父は細やかに一切を配慮してくださるものだということを、その時、骨身に沁みて体験した。これは一生忘れることのない貴重な宝である。(この8日間の体験だけでも、数回分のブログを満たすに足るドラマに満ちていたが、それは、いつかまた書くとする。)
 さて、前回の8年間のローマでの生活のときは、まだECの通貨統合以前であった。円はリラに対して強かった。1万円の購買力は、ローマではほぼ1.5倍であった。ところが、今回はイタリアの通貨はすでにユーロだった。イタリアの物価はユーロへの切り替えに便乗して跳ね上がり、庶民の生活を直撃していた。それに加えて、円はユーロの対して弱い通貨に成り下がっていた。まさにダブルパンチだった。
 日本で月々振り込まれる9万円ちょっとのお手当ては、ローマでは5~6万円ほどの購買力しかなかった。東京よりは家賃が安いとは言え、住居費だけで吹き飛ぶほどの額でしかなかった。外国で孤立無援、常識的に考えれば、物乞いでもする以外に、生き延びるすべはなかった。
 そうだ、またローザの家に行こう!
 わたしは、ローマの8年間の学生生活の最後の数ヶ月を、共同体の姉妹のローザの家で過ごした。ローザとローザの家のことは、わたしの書いた唯一の本「バンカー、そして神父」=ウオールストリートからバチカンへ=(亜紀書房)の18ページ以下「チャイナバタフライ ― メディアの威力 ②」の項にある。
 電話の向こうのローザの反応は歯切れが悪かった。「わたしはいいけど・・・・、先住民がいるからねェ・・・・」
 例の本の中では、「1989年11月からほぼ8年間、わたしは司祭になるための勉強をしながら、ローマに住んだことがある。その悲喜こもごもの年月の最後の4ヶ月を、既に司祭になっていた私は、このローザの家で、穏やかに、幸せに過ごしたのであった」と書いたが、今回は、どうやらそんなに穏やかにも、幸せにもいきそうにない予感がした。
 「先住民って、また7羽の黄色いカナリアのこと?」「いいえ。若い二人のアフリカ人の神父たちよ。」
 白目が目立つ、くりくりの4個の目玉と、分厚い黒い唇から覘く大きな二組の白い歯が目に浮かんだ。
 今は年金生活の、元小学校教員の、独身女性ローザが一人住むにはゆったりしたマンション、かつて私が一人で優雅に過ごした家の寝室に一人、書斎に一人、体格のいい、真っ黒な肌の若い神父が住んでいた。空いているのは広い居間一室だけであった。彼らと交渉してそこに簡易ベッドを入れて住まわせてもらうことになった。ザンビアから留学にきた彼らも、私同様に、この広いローマで他に行くところが無かった。彼らの国の司教さんは貧しかった。留学生神父が普通住むはずの学寮の寮費が払えなかったのだ。そこで、ただで住めるローザの家に転がり込み、主食のとうもろこしの粉で作ったお団子を食べていた。彼らよりもさらに貧しい私は、彼らのお団子で養われることになった。正直なところ、パサパサで全く口に合わなかった。しかし、文句を言える身分にはなかった。私は、料理が出来ない。それで、月に一度ほど、見栄を張って彼らを日本レストランに連れて行った。彼らにしてみれば、大変な大ご馳走である。手放しで、大喜びであった。
 私は、長い外資系企業での生活を通して、かなりのコスモポリタン、人種的偏見の少ない日本人だと思っていた。しかし、彼らの体臭、洗面台に残る無数の黒いちぢれ毛、二人の意味不明の大声の会話と高笑い、テレビの娯楽番組の高いボリューム、頻繁な黒人の来客には、正直参った。マンションの入り口からひと続きの居間と彼らの居住区を仕切るものは一枚のカーテンだけで、プライバシーはなかった。
 秋も深まる頃、その彼らが相次いでローザの家から姿を消していった。外国人の神父が民間のアパートに住んでいること自体、もともと普通のことではない。私は日本人だから、ビザ無しでも何とかなるが、彼ら第三世界の人間は、神父だと言っても、ちゃんとした身分保障書と、それらしい学寮か、修道院か、教会に住所を持っていなければ、ビザの更新が出来なかったのだ。
 ローザの家に静寂が戻った。とうもろこしの粉の味気ないお団子ともお別れだった。
 この1年、前半はラテラノ大学付属のヨハネ・パウロ二世研究所で真面目に勉強をした。しかし、自分より年若い教授の型にはまった退屈なゼミと、親子ほど年の離れたクソ真面目な学生たちとの付き合いに、すぐ飽きてしまった。数え切れない美術館と、寄席や小さな芝居小屋と、コンサートめぐりで時間を潰す日々が続いた。
 前述の本は、その頃から本腰を入れて書き始めたものであった。
「バンカー、そして神父」=ウオールストリートからバチカンへ=(亜紀書房)。本当の副題は「放蕩息子の帰還」だが、心を病んだ妹の幸薄い生涯と、日本の精神医療の問題点を問う内容でもある。(まだお読みでない方は是非★ここをクリック★してみてください。そして、カートに入れてご購入ください。)


(冒頭の青い花の実です。誰か名前を教えてくださいませんか?)

MMさん。早速教えてくださって有難う。ニゲラですってね!(学名:Nigella damascena; 原産地:地中海沿岸; キンポウゲ科)

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★ 二度あることは三度ある(その-1)

2008-07-13 21:34:27 | ★ 回想録

2008-07-13 09:45:05




           二度あることは三度ある
「神よ!神よ!どうしてわたしを見捨て給うのか?」(マルコ15章34節)

 このブログは、
         =現代の棄民、またの名を、従順とは?=

の副題のもとに、「二度あることは三度ある」というテーマの舞台構成で書きます。
 少しずつ書き進みます。公開した後も時々、元に戻って推敲・加筆しながら進みます。思いついたことがあれば、随時、自由に関連の話題を割り込ませることもあるでしょう。(本文中のブルーの太字は今日加筆した部分です。)
 基本構成は:
    〔序  幕〕
    〔第一幕〕 「一度目の棄民」 (一年の流刑)
   〔第二幕〕 「二度目の棄民」 (二年の追放)
   〔第三幕〕 「三度目の棄民」 (無期の禁錮)
   〔終  幕〕
です。

               〔あらすじ〕

〔序 幕〕
 高松教区にM司教が着任したのが正確に何時だったか、思い出さない。
 彼は着任早々各小教区教会、各修道会、各施設を精力的に回って、そこの責任者たちとじっくり話し合った。
 当時三本松教会の主任司祭だったわたしには、「後回しにして申し訳ないが、その内必ずいくから」と言っていて、ついに来なかった。そういえば、わたしが交通事故で一時入院したときに見舞いに来たことがあった。しかし、数分の見舞いと司教の公式訪問とは同じではない。結局、ずるずる日がたって、ついに訪問は無かった。わたしは教区のために司教に話したいことが山ほどあったのに・・・・。これが最初の公約違反。最初の嘘であった。

〔第一幕〕  「一度目の棄民」 (一年の流刑)

 そうこうするうちに、「前司教様の下でよく働いてくれた。ご苦労さんだった。ご褒美に1年間のサバティカル(休暇)をあげよう」ときた。寝耳に水だった。休暇など願い出た覚えはなかった。前司教の遺産を受け継ぎ、それを守り、発展させるのは自分の仕事だと心得、大いに働こうと意気込んでいた矢先だった。
 「どこで何をすればいいのですか?」と聞くと、「ローマにでも行って、好きな勉強でもしてくれば?」との答えだった。「留守中の教会はどうなるのですか?」「神学校を手伝うN神父が兼務するからなんとかなるだろう。」「なるほど。」「では、帰ってきたらどうなるのですか?」「もちろん、もとの三本松教会の主任司祭に戻してやる。」55歳で司祭になったとき、F司教様とその後継者に従順を誓ったわたしは、何の疑いも無く従うことにした。
 だが、治まらなかったのは三本松教会の信者たちであった。着任当時、三本松教会の日曜のミサは、10人も来れば多いほうであった。それが、2年ほどで倍以上になっていた。聖堂も改築して50人までは入れるようにした。新しく教会に近づいた求道者の多くは、わたしと個人的に強く結ばれていた。彼らの間に不安が走った。 「神父さん!1年たったら本当に帰ってきてくれるのですか?」
 「司教さんがそう言っているから大丈夫だろう。」「私たちを置いていかないでくださいよ。」「司教さんの命令だからそうはいかないな。」
 「司教さんに直訴しよう!」実際、何人かが、司教さんに遭いにいったらしい。もちろん、休暇の取り消しには至らなかった。しかし、「1年たったら、貴方たちの神父は必ず帰ってくる」との確約は取りつけられたと言う。
 わたしがローマへ発ったのは、2005年5月、三本松教会の年に一度の大イベント「ルルド祭」の直後だった。
 (ローマでの苦難の生活は、次回以降に追加しよう。)

〔第二幕〕  「二度目の棄民」 (二年の追放)

 1年が過ぎて、ルルド祭の応答日も近づいた頃、それまで一通の手紙、一本のメールも無かった司教から突然メールが入った。読んで見て、我とわが目を疑った。「引き続き2年間教区外居住を命ず。」「教区外ってどこ?」「生活の原資はどうするの?」ローマでも無論そうであったが、今回、ジプシーのように車に身の回りのもの乗せて、広い日本、一体どこへ流れて行けと言うのか?教区が振り込んでくれる手取り9万円ちょっとのお金で、どうやって生きて行けと言うのか。支援してくれる友人、知人の多くは東京だが、屋根付きガレージひとつ借りても9万では足りないだろう。どこに住み、何を喰らって生き延びればいいのか。せっかく神父になったのに、教会も無しに、誰を牧し、誰に福音を宣べ伝えよというのか。20年前の、年収ウン千万の国際金融マンも、いよいよ落ちぶれたものだ。 これが司教の二度目の公約違反。二つ目の嘘であった。
 辛くも、2年間を、日本国内で、しかし自分の帰属する高松教区の外で、生き延びた。(どうやって生き延びたかは、また追い追い書くとしよう。)その間、司教からは一通の手紙、一本のメールも届かなかった。教区報が発行されても、それも送られては来なかった。
 二年目の応答日、ローマに行く直前のそれから数えて、3度目の「ルルド祭」の日が近づいたが、それでも何の音沙汰もなかった。
 二年間の教区外生活を命じられた。二年間教区の外に生活するのが「従順」と言うものだ。しかし、二年を越えて勝手に教区外生活を続けることは、逆に「従順」に反することになるではないか。
 3年目の応答日を期して、あらかじめ司教に手紙を書いて、司教館に帰った。司教は留守だった。スタッフが用意してくれた一室で、じっとその帰りを待った。
 やっと司教に会うことが出来た。彼が教区に着任から4年たって、やっと始めてのご対面が実現したというわけだ。
 徳島の山奥で、又は、愛媛の西の端のほうで「開拓宣教をしないか」と言う話になった。山で小鳥に説教をしろというのか?海で魚に説教をせよとの命令か?人のほとんど住まない過疎の地で、開拓宣教も何も無いだろう。「宣教というものは、そこそこ人の住んでいるところでするものではないのですか?」と反論すると、以外にもあっさりとこの2地点は引っ込めた。人が住んでいて教会の無いところ・・・・・。こちらから、例えば四国霊場86番の札所「志度寺」のあたりなどは?と水を向けると、ああ、そこそこ、志度がいい、志度がいい、と言うことになった。志度がどんなところか知っているの?本当はどこでも良かったのではないか、と思った。そして、一枚の紙切れをもらった。ただ、「志度で開拓宣教をせよ。当面は三本松教会に住め」という趣旨であった。日付も無い、司教の署名もない。すぐピンときた。ああ、第三幕の「三度目の棄民」の始まりだ。今回は「無期の禁錮刑」だ。

〔第三幕〕  「三度目の棄民」 (無期の禁錮)

 これは、今まさに始まったばかりのこと。これについては、これから書くことも多かろう。

〔終 幕〕
 ここでは、キリスト者にとって「従順」とは何か、と言うテーマを、今回の一連の体験を通し、神学的、社会学的に考察してみたいと思う。
 ハイペースでは進まないだろう。一度書いてしまったことでも、あとで振り返って消すこともあろう。書き足りなかったところは補足もしよう。行きつ、戻りつ、このテーマを膨らまして行きたいと思う。
 「従順」の一言に呪縛され、虫のように苦しんできた多くの司祭、修道者たちに、小さな慰めとなればとの思いもある。

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