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菩提樹
西のふるさと、東のふるさと
私はなぜマカオに行ったのか(その-3)
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まず、今までの続き具合を思いだすために、話を少し巻き戻そう。
私がローマから帰国したとき、高松の神学校はまだ貸ビル住まいで、毎月家賃分ほどの赤字を垂れ流していた。それが司教や支援者たちのヘソクリで補填できる限界を超えて教区の財政を圧迫し始めるのは時間の問題だった。教区の会計主任になったばかりの私は、このままでは深堀司教が定年で引退すれば、その後に誰が司教になっても、赤字神学校の維持は無理と判断して、必ず閉鎖すると読んだ。日本中の司教たちも一様に、ドン・キホーテ司教の分不相応な「夢想」に始まったこの神学校は、放置しておいてもやがて自滅するのは必定で、全く相手にするに足りないと冷ややかに無視していたに違いなかった。
神学校の存続を図り、さらに発展させるためには、自前の建物を建設し家賃の垂れ流しをストップする以外に手はない、と元銀行マンの私は考えた。そして、「神学校の建物を安いプレハブで一刻も早く作りましょう、お金は私が何とか工面しますから」と関係者に迫った。すると、新求道共同体の責任者や神学校の院長らは異口同音に、「ローマの第1号神学院に続く6つの姉妹校は、何れも神様のはからいで立派な建物に納まっている。なのに、7番目にはプレハブの安っぽい校舎を建てるなどという恥ずかしい案は、信仰のない元銀行マンの世俗的浅知恵に基づくバカげた話だ」と言って反対した。しかし、深堀司教は私の耳元に小声で、「私は谷口神父さんの考えに賛成だ。よろしくお願いします。」と囁かれた。
大手ゼネコンで働く友人の協力を得て、プレハブながら高品質の立派な建物が設計された。私は祈った。「神様。教区にはお金がありません。この神学校の建設があなたのみ旨に叶ものであれば、必要な資金を用意するのもあなたのお仕事です。私はあなたに信頼します。」という私の祈りは聞き入れられた。手持ち資金ゼロで発注して、一年後の引き渡しの日には、神様にお願いした一億円の寄付が私の手元にあった。相手は世界一の大宗教カトリックさんだから取りっぱぐれはあるまいと、頭金も中間支払いも要求しなかったゼネコンは、まさか私が手持ち資金ゼロで一億の契約書にハンコを押したとは夢にも思わなかっただろう。知っていたら、友人も稟議書を上司に提出する勇気はなかったに違いない。世界一の大宗教カトリックの暖簾を笠に着た私の詐欺・ハッタリは、神様の目には罪と映るだろうか、と首をすくめるしかなかった。
神学校の恒久的な建物が建ったという噂が広まると、司教会議の空気が激変した。ほっておいてもどうせ潰れるだろうと高をくくっていたが、ひょっとするとあの神学校はしぶとく生き延びて発展するかもしれないぞ、という心配がにわかに現実味を帯びてきた。東京と福岡の神学校を統合し東京一校体制にするという司教協議会のヴィジョンに逆らって、事もあろうに3番目の神学校を新設するとは何事か!協定違反ではないか?絶対に認めるわけにはいかない。力づくででも潰してしまえ!という高ぶった空気が司教協議会を支配した。
司教協議会でこの件が初めて秘密裏に議論された時、少なくとも4-5人の長老格の司教たちが、高松の神学校の設立は関連教会法の第1項に叶っていて適法なのだから、他教区が一致団結して介入し潰しにかかるというのは如何なものか、という異論が出て、その回の協議は秘密会としその内容を部外秘とすることが決まったはずだった。しかし、不幸にしてその内容は意図的にリークされた。私はそれが誰の仕業であったかはおよそ見当がついているが言うまい。そのリークに端を発して「高松の司教は怪しからん、協定破りだから村八分にすべし」との陰湿な雰囲気が教会内に醸成されていった。
しかし、深堀司教様には協定破りや抜け駆けをしたという良心の曇りは一点も無かった。司教団の申し合わせはあくまで申し合わせであって、個々の司教の自由を縛るはずのものではなかった。そもそも、各国の司教協議会なるものは、地方教会の相互関係を調整する連絡機関に過ぎず、司教協議会の会長を頂点に会員司教の行動を拘束する決議機関ではあってはならない。個々の司教はローマ教皇から直接に任命を受け、直接ローマ教皇に対してだけ従順を誓うものである。教皇と個々の司教とはその間に立つ司教協議会の会長を介して間接に結びつくものではなく、また教皇を差し置いて司教協議会の決定が拘束力を持って傘下の司教を縛るものでもない。もし、そのようなことになれば、「シスマ」(教会分裂)の危険な臭いが立つことになる。深堀司教は教皇の意向を確認し、教皇の望みに沿って神学校を適法に開設したに過ぎない。それを、司教協議会の決定違反とし叩くとすれば、各司教の独立した責任と自由を破壊することになると言わざるを得ない。それは日本独特の村意識、裏を返せば何事もみんなで渡れば・・・の無責任体制、そして、単独行動をとるものを村八分にして潰す因襲の支配する未成熟社会の正体を露呈したことになる。
そんな空気に媚びて、高松教区の二名の信徒が深堀司教を裁判に訴えた。私は司教に代わって弁護士と共に公判に臨んだ。裁判長は「訴えの内容はもっぱら宗教内部の問題で、世俗の法廷に馴染まない」と言い、「カトリック教会には優れた『教会法』があるではないか。それに則って問題を処理し、是非和解するように」としきりに訴えの取り下げを勧めた。しかし、原告の信徒はあくまでも世俗の法廷での判決を求めて譲らなかった。裁判長は不本意にも判決文を書く羽目になった。
その時、法廷外で意外な展開があった。裁判長は被告人司教の代理である私と弁護士を呼んで、異例の提案をした。曰く、「原告の身辺を調査した結果、原告が訴訟マニアであり、今までに多くの裁判沙汰を起こしていることが明らかになった。本件は本来なら原告全面敗訴とすべきところだが、それでは訴訟マニアの原告が意地になって最高裁まで上告を続ける恐れがある。それでは、カトリック教会の品位を損なう醜態を世に晒すことになり、望ましいことではない。もし可能なら、裁判費用の10分の1だけ司教様も負担することに同意してもらえないか。そうすれば、原告の全面敗訴に若干のニュアンスを添えることになり、上告への圧力のガス抜きが期待できる」。司教様に確認したら、その取引に反対されなかった。裁判所とは法律が支配する弾力性に乏しい冷たい世界だと思っていたが、意外と人間臭い面があることを私は知った。
私はローマ総督ピラトによるイエスの裁判を想起した。ピラトはユダヤ人に訴えられたイエスが義人であり何の罪もない正しい人であることを見抜いて、何とかしてイエスを無罪にして釈放しようと腐心した。しかし、訴えるユダヤ人指導者に扇動された群衆の狂乱は収まらなかった。そこで、不本意にも罪のない聖者イエスを半死半生になるまで鞭打って、十字架刑に処する責任をユダヤ人に転嫁し、自分には関りのないことの印として、衆人環視のうちに水で手を洗う式をして見せた。この度の裁判長の法廷外の提案は、ピラトの選択に似ていると思った。
プロの法律家の目には、裁判費用の90%の支払いを命じられた原告が「実質敗訴」した事は火を見るよりも明らかだった。しかし、負けた原告は卑しい三流宗教新聞に、全面勝訴の虚偽の談話を発表し、騒ぎ立てた。日本の教会の責任ある立場の人たちも、裁判長の真意を理解せず、虚偽のキャンペーンの前に深堀司教の「実質勝訴」の事実を擁護しなかった。私は、司教様に真実を明らかにして身の潔白を証明し、虚偽の宣伝を封じるように進言したが、彼は右手の親指と人差し指を閉じて口の前で横に引き、ご自分は事実無根の誹謗中傷を前に一切弁明しない強い意思を明らかにされた。その時私は、ピラトの前で「屠所に引かれる仔羊のように黙して口を開かれなかったイエス」の姿を見る思いがした。
その後の展開はすでに皆さんのご存知の通りだ。深堀司教様は不名誉を背負ったまま高松を追われ熊本に蟄居し、そこで他界された。私は司教の棺を運ぶ業者の地味なワゴン車に一人添乗し、瀬戸大橋を渡るとき、棺を叩いて「司教様、やっと高松の地に戻りましたよ」と話しかけた。
その後、深堀司教様の後任司教はバチカンに神学校の閉鎖を申し出た。福音宣教省の長官は、何とか神学校を救い高松に残そうと腐心されたが、日本の司教たちの固い結束に押し切られた。見かねた教皇ベネディクト16世は、嵐が去り、期が熟したらまた日本の地に戻そうと、一時ローマに避難させご自分の神学校として大切に庇護する決断をされた。私も、神学校のスタッフの一員としてローマに移り住んだ。ローマに仮寓する「日本のための神学校」の院長には、日本の教会との絆の象徴として、元大分の平山司教様が任命され、私はその秘書となった。
神学校を強引に閉鎖した司教も他界し、年月が流れ、期が熟したと判断したバチカンは、同神学校を「教皇庁立アジアのための国際神学院」に格上げして、東京に設置する計画を立て、福音宣教省のフィローニ長官が二度にわたって訪日し、日本の司教団に計画を披露し根回しをした。そして二度とも反対の声が上がらなかったのを見極めて、機は熟したと判断して最終決定を下した。
「教皇庁立」の神学校の日本上陸の日程が固まり、私たちが密かに具体的設置場所の検討に入った矢先、そして、ローマ教皇訪日が既に決まった土壇場になって、司教団から突然拒否の意向がバチカンに届いた。象徴的に言えば、教皇と神学校を乗せた飛行機はすでにローマ空港を飛び立って、羽田に向かい、日本では新しい「教皇庁立神学院」の教皇による祝別も想定されていた矢先に、その飛行機は羽田の滑走路にタイヤの焦げる紫の煙を残してタッチ・アンド・ゴーで再び舞い上がり、アジアの空をしばし旋回し、やがてのことにマカオに着陸した。
東京に振られてマカオに落ち着いた「教皇庁立アジアのための神学院」は、開設直後にコロナ禍に見舞われ、一時台湾に避難した。コロナ禍が収まってマカオに戻った神学校は、ようやく古いコロニアルスタイルの教会とその付属施設に収まった。文化遺産に指定されていて外観に手を加えることは禁じられた半ば廃墟のような建物ではあったが、内装を施し、近代化され、私が訪れる1週間前に工事が完了し立派な神学院に変身していた。
文化遺産の古い教会 その左の建物が神学校の校舎
神学校の食堂
神学校内の小さなチャペル
日が暮れた 時あたかも春節 教会の前の広場にも大きな飾りが
夜には教会のファサードをスクリーンに映像がプロジェクトされた
この映像の主催者はどうやら市当局のようだ
遠くカジノの方角から春節を祝う花火が上がった
マカオと香港を含む中国駐在のバチカン大使にもお会いしたし、マカオの大司教の姿にも接することができた。分かったことは、高松に起源をもち、長年ローマで教皇の保護のもとにあった神学院は、東京に「教皇庁立」として着地するはずが、土壇場で日本の教会に拒絶され、緊急避難的にマカオに着地した。しかし、その後、「教皇庁立」のタイトルは外されて、直接マカオの大司教の傘下に入り、広くアジアの神学生を受け入れる神学校の形に落ち着いていた。高松の「日本のための神学院」の神学生たちのうち、司祭叙階を間近に控えた数名はそのままローマに残ってローマでの叙階に備え、まだ神学生歴の浅いものはマカオに移籍した。彼らがそれぞれの場所で司祭になり卒業すれば、高松に深堀司教が開設したレデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院の痕跡は最終的に消滅する。今回の私のマカオ行きは、その厳しい現実を確認する旅となった。
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高松の神学校は、聖教皇ヨハネパウロ2世がローマに開設した神学校「レデンプトーリス・マーテル」の名誉ある7番目の姉妹校だった。今や、同じ姉妹校の数は全世界に125校以上にまで増えている。そして、一連の経緯を経て主要国でその姉妹校を持っていないのは結果的に日本だけになった。いつか、必ず同じ姉妹校が再び日本に誘致されることになるだろう。それが歴史の必然だ。しかし、私はその開設をこの世で見ることはもう恐らくないだろう。
私は、自分がその設立に微力を尽くした高松の神学校のなれの果てとしてマカオに開設されたこの神学校の実際の姿を、ぜひ自分の目で確かめ見届けたかったのだ。
日本の将来の宣教のために絶対必要と考えて、深堀司教と共に信念と愛情を傾けて建てた神学校の建物は、庇(ひさし)を貸して母屋を乗っ取られ、今やダルク(薬物依存症の患者のサポート施設)に占拠されたまま放置されている。新生「大阪・高松大司教区」はその現実にどう対応するのだろうか。
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ローマ教区立の「レデンプトーリス・マーテル神学校」の7番目の姉妹校だった高松教区単立の「レデンプトーリス・マーテル神学校」は、一時美しく花開いた。ピーク時には30人ほどの神学生を擁し、多いときは年に6人の司祭を輩出した。
それは当時日本の11司教区の「諸教区立」東京大神学校に引けを取らない存在だった。いったん統合した東京と福岡の「諸教区立」神学校は両者の体質の違いから亀裂が入りすぐまた分裂した。最近改めてまた一つに統合されたようだが、もはやかつての高松教区立「レデンプトーリス・マーテル」神学院ほどの勢いは見られないのではないか。
歴代の教皇たちに大切に保護され、素晴らしい可能性を秘めながらしぶとく生き延び、ローマで帰国の機をうかがっていた元高松の神学院が、マカオの地で最終的に完全消滅の運命をたどらざるを得なかったのは何故か。私は、その原因が私の不徳の致すところ、私の罪の結果ではないかと考えて、自責の念に堪えない。そのことは、世の終わり、最後の審判の時、神様と復活したすべての魂たちの面前で明らかになる。深い畏れのうちにマカオを後にした。
現在ローマには二つの主要な神学校がある。一つは多くの司教や聖人を産んだ歴史のある「コレジオロマーノ」で、第二バチカン公会議前の司祭養成体制を象徴する。もう一つは聖教皇ヨハネパウロ2世が新たに設立した「レデンプトーリス・マーテル」神学校で、第二バチカン公会議後の教会の精神に基づく司祭養成体制を具現したものだ。今や世界ではどこでもこの二つのタイプの神学校が共存することが常識になった。日本も他国に先駆けてこの共存体制に入ろうとしたが、その後、日本の教会はローマの制止を振り切って、生まれたばかりの新しい第二の神学校を闇に葬った。日本には1965年に幕を閉じ新しい教会の歴史を開いた大教会改革である第二バチカン公会議がまだ届いていない状態に留まろうとしているのだろうか。
〔完〕