:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 友への手紙「インドの旅から」 第20信 大乗経典とキリスト教

2022-02-22 00:00:01 | ★ インドの旅から

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第20信 大乗仏教とキリスト教

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 2年前の夏、2020年7月30日に、私は《友への手紙》というテーマでブログを書き始めた。

それは、1964年の東京オリンピックの開会式の夜、当時25歳だった私が横浜を発って、半年近くインドを放浪した時、旅先から友人に送った手紙を「聖心の使徒」というカトリックの月刊誌に連載したものに、今の視点から若干のコメントを添えたものだ。

 一連のブログは、去年の春までには完結する予定だったが、第19信「サンガムの沐浴」まで順調に書いて、あともう一回という時に、思わぬ脱線をしてしまった。

 聖なるガンジス川で展開されるヒンズー教最大のお祭りについての報告が、遠藤周作の最期の長編「深い河」とショートして、遠藤批判に嵌ってしまったのだ。しかし、それも今、10カ月ぶりに元の流れに戻って無事完結することになった。

では、再び1965年の「聖心の使徒」の記事にタイムスリップしよう。

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友への手紙「インドの旅から」

第20信 大乗経典とキリスト教

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 この手紙もいつの間にか20編になった。その間、ベトナム戦争も、中・印国境紛争も、インド・パキスタンの争いも旅行中には夢にも考えられなかった形で展開した。当時私が自由に行動できた多くの地点は、もはや安全ではなくなっている。歴史というものは、一寸先も確実な予測を許さない。しかし、歴史の過去について考えることは、専門家でなくても興味ある作業である。

左がホイヴェルス師 中央が澤木興道老師 右は私

 先日、夏の休暇が明けて大学へもどる途中、久しぶりに京都の破れ寺(安泰寺)に旅の草鞋(わらじ)を脱いだ。

 座禅をし、すっかり足の弱くなられた澤木興道老師の居室に参じて、お茶をいただき、お精進ものの食事を共にして、身も心も本物の仏教の修道院の雰囲気に浸った。

 食後、縁側のくつろいだひと時、澤木老師の高弟の内山興正先生と日ごろの消息を交換している中で、カトリック通の先生はこんなことを言われた。教会が本来の普通名詞としてのカトリック(普遍的)な宗教に立ち返るならば、宗派としての仏教などその中に包摂されてしまっても一向に差し支えないのだが、現実のカトリックは固有名詞化して、党派根性で他宗教と同じ土俵で張り合う一宗派に成り下がっている。これが本来の「普遍的世界宗教」の姿なのだろうか、と。

 私はまことに尤もな話だと思った。聖パウロ以来、聖アウグスチヌス以来、すべての精神的宝は皆、神の御子の生命の中に生かされるべきものであり、教会こそは真理と価値ある一切のものの友であるという考えがあったのではなかろうか。聖霊の導きによって変貌を遂げつつある教会が、カトリック的包容力によって自らを解放する日の来るのを、まじめな仏教者と、良心的であるがゆえに教会の門前でためらうすべての人は待ち望んでいるのである。

 兄弟子の興正先生との話は私のインドの旅行に及んだ。

 私が南インドで見た古いシリア典礼の伝統に生きる農民たちの美しい姿について話をすると、内山先生はハタと膝を打ち、長年の疑問に一条の光が射したと言われた。つまり、先生は仏教経典の客観的な研究の結果、仏陀の説いた根本仏教の教えと、南インドに伝播してそこから起こった大乗仏教との間には、どうしても越えがたい飛躍があることに以前から気付いておられたのである。中でも、後代の観音菩薩、あみだ、浄土、他力思想などとして展開する大乗経典の内容は、根本仏教に見られない全く異質な要素の影響を仮定せずには、了解不可能だと言うのである。先生は、以前からそこにキリスト教の影響を考えておられた。つまり、後に日本において、特に道元や親鸞の手によって深められることになる仏教の一面は、一般に説かれているように、中国におけるネストリウス派のキリスト教(景教)の影響によるだけではなく、もっと古くインドにおける混合を予想させると言うのである。何故なら、景教の影響を受け容れる素地が大乗経典の中にすでに見出されるからだと言う。

 渡辺照宏著の「仏教」(岩波書店)のなかにも、次のような暗示的部分がある。

 「南インドでは、紀元前一世紀ごろからアンドラ王朝が出現した。この王朝も物質文化の上で栄えたのみではなく、あらゆる文化を保護奨励したので、仏教もバラモン教その他の宗教とあい並んで栄えた。したがって、ここでは仏教は他の宗教と自由に交流し、新しい行きかたを発展させた。この行きかたを一口に<大乗>(マハ―ヤーナMAHAYANA)という。これは『(解脱に達するために)すぐれた乗りもの』という意味である。」(146ページ)

 また、同じ西暦紀元初めごろ、西北インドのガンダーラを拠点に支配した王ゴンドファルネス(Gondopharnes)は、イエスの12使徒の一人の聖トマスの教化によってキリスト教を信じていたと伝えられ(世界文化史体系)、また、同じ使徒聖トマスは当時のギリシャ、ローマとの通商路を下り、南インドの布教に乗り出し、アンドラ王朝時代にはキリストの降誕に近い年を紀元元年として用いられた例もあり、すでに宗教、哲学、芸術の分野でかなりのキリスト教文化を誇っていたと考えられている。

 「とにかく、アンドラ王朝を背景として新しい仏教運動が盛んになったことは事実であり、現に南インドのアラーヴァ―ティー出土の遺物の仏教美術にも、その一端がうかがわれるが、この時代を代表する仏教学者としては、ナーガールジュナ(竜樹、1世紀後半~2世紀前半)がある。彼の『中観論』(または『中論』)は、すべての大乗の根本的な理論を述べた書として、極めて重要視されている、云々。」(仏教。147ページ)

 このように、大乗仏教の成立期に、すでにインドにおいて仏教文化と接して、高いキリスト教文化が存在していたという事実は、当然その両者の思想的交流を予想させるものであり、後にトマス・アクイナスが、イスラム圏に伝わるアリストテレスを取り入れてスコラ哲学・神学を大成したように、仏教のスコラ学者と言われる竜樹尊者も、キリスト教思想の一部を頭に置いて「中論」を書き、大乗仏教に方向性を与えたと言うことは全くあり得ることである。

 無論、これは一つの仮説にすぎず、この仮説の妥当性を立証する仕事は、極めて専門的で労苦の多いものとなるだろう。特に、何でもかんでもすぐ自分のものとして取り込んで、あたかも自分のオリジナルなもののように語ってしまうインド的仏教的特質は、その作業を一層困難なものにするだろう。

 しかし、このキリスト教と仏教との根本的な出会いに対する研究は、仏教とキリスト教の今後の対話、融合のために、極めて重要な意味を持つものと思う。

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 最後になっていささか堅苦しい話になってしまった。後半の便りでは多くの面白い出来事をはしょってしまったが、それはそれとして、とにかくこれでインドの便りは終わる事とする。

 今読むと、何と大風呂敷を広げてしまったことかと恥ずかしくなるが、以上をもって58年前の私のインドの旅の記録は全て終わった。

 ただ一点、おや?と思ったのは、「聖心の使徒」に確かに書いたと思っていたことが含まれていなかったことだ。私の記憶違いだろうか?

 どこかに活字にして発表したはずのものが、このシリーズに含まれていなかったとすれば、記憶を辿って再現を試みるしかない。それは、この第20信のテーマ「大乗経典とキリスト教」と密接に関連するおよそ次のような内容だった。

 「わたしはインドの旅を通して、日本に伝来した仏教には膨大な量のキリスト教的要素が含まれているに違いないと直感にするようになった。

 広大無辺の大宇宙には、少なくとも二兆個以上の銀河系が存在していると言われる。天の川のような銀河は宇宙のあちこちで絶えず接近し合い、時には衝突している。しかし、衝突といっても実際には星と星がぶつかることは希で、ほとんどはスーッとすり抜けていくらしいが、その過程で互いに重力を及ぼし合い、双方の銀河全体を大きく変形させずには終わらない。

 地上の人類の歴史においても、異なる文明が接近し、干渉し合う場合には、必ず双方に多大な影響を及ぼし合うものであり、宗教の場合も例外ではない。

 バラモン教からヒンズー教が生まれ、仏教に影響を与えた。ユダヤ教からキリスト教が生まれたときも、すぐにギリシャ・ローマの自然宗教や哲学の洗礼を受けた。仏教は、遺跡だけ残してインドでは完全に消滅し、東南アジアと中国には姿を変えて広まった。日本に到来するまでに、まずインドにおいて原始キリスト教に、次いで中国では景教に出会って大きく変貌を遂げていたにちがいない。

 もちろん、そのような視点は井上靖の「天平の甍」に描かれた遣唐使の時代のように、一人の僧「業行」が生涯をかけて写経に打ち込み、しかも、その大半が嵐の東シナ海に虚しく沈んでしまったような時代にはまだ全く思いもよらないことだったろうし、現在でも、根本仏教の経典、大乗仏教の経典、そして、日本の仏教各宗派の教えを包括的に捕え、それを解析すると言うようなことは、世界中の研究者を動員して何十年かけても終わらない大事業だと言うほかはない。しかし、もし将来コンピューターの演算能力が飛躍的に向上して世界中の経典を比較検討することが出来る日が来たら、驚くべき事実が浮かび上がるに違いない。」

 私がインドの旅の後に書いたはずの短い記事は、およそ上のようであった。その頃の世界は米ソの冷戦下にあった。アメリカが国威をかけてソ連より先にアポロ宇宙船で人を月に安全に送り届けるために必要としたコンピューターの容量は今の私のスマホよりも小さくて、上の作業のためには全く不十分なものだった。

 あれから60年近い時が流れた。今日、日本が世界に誇るスーパーコンピューター「富岳」は、コロナウイルスがマスクから漏れ出す姿までシミュレート出来るほどになっている。人間が手作業で計算すれば何億年もかかりそうな課題をあっという間に片付ける怪物だ。今ならAIを駆使すればあの頃の夢の実現は可能ではないだろうか。

 東西の諸宗教の教義・経典を統一言語に翻訳して「富岳」に記憶させ、様々な角度から検索をかければ、ああ、この教えは何世紀ごろどこでどの宗教からどの宗教に流れ込んだものだ、と言うことが短時間に検証できるに違いないと期待する。

 例えばの話だが、解析の結果、もしも

「梵語の○○」=≫「真言」=≫「神言」=≫「神の言葉」=≫「ロゴス(λογος)」=≫「イエス・キリスト」=≫「三位一体の神の第2のペルソナ」

などと言う繋がりが実証されたら、それだけでも世界の宗教史を書き換えるよう大ロマンにならないだろうか。素人の突飛な空想と言うなかれ。仏教の経典に驚くほど多くのキリスト教的要素の影響が及んでいたことが検証されるのを私は楽しみにしている。

 自然宗教しか知らない遠藤周作には、残念ながらそのような遊び心はなかった。かれは宣教師が持ち込んだキリスト教にも、フランスで見たキリスト教にも違和感をおぼえ、そのままでは日本の土壌に根付かず、必ず根が腐って死んでしまうと考えた。そして、日本の土壌に根付く条件を提言すべく「沈黙」や「深い河」を書いたが、それらは、一口で言えば、キリスト教は超自然宗教の残滓をかなぐり捨てて、完全に自然宗教化しなければならない、と言っているのに等しい。そこに、カトリック作家遠藤のキリスト像と、インカルチュレーションのイデオロギーの危険な本音が見え隠れしている。

 しかし、田川建三はそういう遠藤のキリスト像を批判して言う:

 「それは、自分の現在のあり様を何らかの意味で肯定してくれる権威で、直接的にお前はそのままでいいのだぞ、と肯定してくれる場合もあるし、お前のような奴はダメだが、ダメなままで我慢して救ってやろう、という形で、「だめ」な自分は「だめ」なままでいいのだ、と居直ることになるので、ずぶずぶの自己肯定に終わることは間違いがない。(内容のない自己卑下は、一般に日本人がやたらと好む奇妙な道徳である)。しかも、「自分はだめだ」と言い立てることによって、その「だめな自分」を肯定することができるのだから、二重の自己満悦に耽ることができる。遠藤の「弱者の論理」は、世のなかにはそういう自己満足に耽りたがる人間が大勢いるから、その分だけよく売れることになる。」と。私の大好きな「田川節(ブシ)」である。

 歴史を振り返ると、キリスト教は誕生以来ローマ帝国の版図で迫害に抗して血の代償を払って超自然宗教の純粋性を死守してきた。そして、コンスタンチン大帝による国教化のおかげでようやく迫害から解放された。しかし、その結果、津波のように押し寄せた異教徒の自然宗教的メンタリティーによってすっかり浸透されてしまい、その深刻な影響は中世を経て実に1960年代の半ばまで延々と続いた。そして、その教会は20世紀後半以降の世界の圧倒的な世俗化とグローバル化の攻勢になす術もなく屈服し、「お金の神様」(マンモン)の世界支配の前に存亡の危機に瀕していた。

 そのとき、教皇ヨハネス23世は、教会の命運をかけて第二バチカン公会議を提唱したが、それはコンスタンチン大帝の改革に匹敵する未曽有の教会改革であった。世界の世俗化とグローバル化に対抗するためには、コンスタンチン大帝の改革を180度ひっくり返す必要があった。それは、自然宗教色に塗り固められていた教会に、超自然宗教としての輝きを再び取り戻すための教会史上最大の改革であった。

 だから、教会史を大きく区分すれば、初代教会の300年余りが第1期、その後第2バチカン公会議までの1700年間が第2期、そして公会議後から今日までを第3期と考えることが出来る。

 1965年に幕を閉じた第二バチカン公会議は、コンスタンチン体制下で分かりにくくなっていたキリスト教の超自然宗教性の復活に道を開くものだった。

 公会議の成果は、日本の教会ではいち早く5-6人のベテラン司教たちによって歓迎され、かれらのもとで開花し実を結びはじめた。しかし、その司教たちが相次いで定年を迎えて引退すると、後を襲った新任司教たちは前任者の路線を引き継がなかった。その結果、公会議の変革は表面的なものに留まり、世界教会の新しい流れから取り残され、咲き始めていた花は萎れ、実は熟する前に地に落ちてしまった。

 そうした日本の教会の雰囲気の中で、遠藤の「沈黙」や「深い河」に込められたメッセージは、教会の現行の流れに合致するものとして歓迎された。しかし、実は遠藤のイデオロギーの意味するところはそれだけにとどまらなかった。コンスタンチン体制のもとで自然宗教化の厚化粧をしただけの教会には飽き足らず、教会の本質までもすっかり自然宗教に置き換えようとする徹底的な変革の意図を秘めたものだったと言ってもいいだろう。井上洋治神父の「アッパ、アッバ、南無アッバ!」節(ブシ)などもその流れに沿うものだった。

 遠藤流のインカルチュレーションは、まず日本の教会を汚染したが、今や、スコッセーシ監督のハリウッド映画「サイレンス」などを媒体として、オミクロン株のような強力な感染力とともに世界のカトリック教会に拡散しつつある。

 私は「沈黙」(サイレンス)をローマの映画館で見た。すると、カトリックの良識のような顔をした聖職者やインテリ信者が、肯定的な返答を期待して感想を求めてきた。私はそっけない返事をしたが、彼らはお構いなしにその映画を高く評価して、これこそこれからの教会が考慮すべき画期的な信仰解釈だと言わんばかりの興奮ぶりだった。

 悪貨は常に良貨を駆逐するというが、超自然宗教は常に自然宗教化への誘惑と戦わねばならない。第二バチカン公会議は、閉幕の日からコンスタンチン体制へ引き戻す引力に曝される運命にあった。インカルチュレーションのイデオロギー(キリスト教の土着化)は、その引力を理論武装するものであり、ヨーロッパのキリスト者の潜在意識の中にもそれに惹かれる素地があるのだ。

 幸い、ヨハネス23世、パウロ6世、ヨハネパウロ1世、ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世、そして現教皇フランシスコも、公会議後の教皇は全員ブレることなく公会議推進派の旗印を護っている。しかも、公会議に関わった教皇たちは、没後相次いで聖人に挙げられ、4人目のヨハネパウロ1世も列聖調査が進行中だ。こんなことは教会史上では未曽有の現象だ。他方では公会議の教父の一人で、公会議に反対する決定的行動に出たルフェーブル司教は、聖ヨハネパウロ2世から破門された。(ただし、その破門は21年後に解かれた。)

 ローマは、公会議の改革の流れから取り残されている日本の教会の姿を憂慮してか、第2次世界大戦中に軍部が外国人の司教を排除して以来の慣例を破って、最近相次いで外国人の司祭を日本の司教として任命し始めた。

 キリスト教の日本への正しいインカルチュレーションのためには、第二バチカン公会議を実践することが絶対に必要だ。それに加えて日本にある仏教の中にすでに溶け込んでいるキリスト教と親和する努力も必要とされている。安泰寺の内山興正先生が縁側の陽だまりで言われたように、仏教には普遍宗教(普通名詞としてのカトリック)の良き隣人となれる要素があるはずなのだ。遠藤にそうした寛容な感性が欠如していたことはまことに残念だ。

 いま、コロナ下で従来の教会活動は大幅に制約を受けている。高齢者のミサや礼拝への参加は制限され、3密を避けると言う口実の下に、様々な宗教活動が自粛の対象になった。その結果、信者たちは教会に行かないことに慣らされてしまった感がある。

 中国政府は一人っ子政策の弊害が顕在化した時、慌てて第2子、第3子の出産を解禁したが、手おくれだった。社会にはすでに小家族の快適さが根づいてしまっていて、元に戻ろうとする気配すらない。

 キリスト教会においても、一旦教会に行かないことが正当化され、常習化した後では、コロナが去っても人は以前の熱心さで教会に戻っては来ないかもしれない。だとすると、日本では第二バチカン公会議を経験することのないまま、ただでさえ、少子化、高齢化で勢いを失ってきた教会は、自然死への道を転げ落ちてやがて消滅するしかないのかもしれない。

 中世ヨーロッパで蔓延したペストが沈静化する過程で宗教改革が起こり、プロテスタント教会が成立した。コロナウイルスがいつ収束するかはまだ予断を許さないが、ポストコロナの時代には、さらなる教会改革(例えば、第三バチカン公会議)が起こるのではないかと予感する。

 ベネディクト16世教皇は、コロナ問題が起きるはるか以前に、将来の教会を予見して、「世界の信者の数は著しく減少するだろう。教会の社会への影響力は大幅に弱まるだろう。確固たる信仰を持った者だけで構成された小さな教会が生き残るだろう。」という意味のことを述べられた。 

 日本でも、しっかりした信仰養成を受け、内外の試練に耐え、大人の背丈に合った確固たる信仰を証しする少数の信者だけが生き延びて、福音宣教の使命を受け継ぐことになるのではないかと思う。

 これで1年半にわたった「インドの旅」シリーズは全て終わった。最後まで付き合って下さった読者に感謝したい。

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(注)無造作に「自然宗教」「超自然宗教」を乱発したが、前者は人間が人間の欲望と救済の願望を自然に投射したものであり、後者は天地万物の創造主なる超越神が、人間への愛と憐れみをもって救済の意思を人類に啓示したものである。

〔完〕

コメント (7)
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★ 私の「インドの旅」総集編 (9)田川批判ー2

2022-01-31 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編 

(9)田川批判-2

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あらためて田川建三先生を紹介します

 私は、田川建三という人が、日本の卓越した新約聖書学者者であり、宗教批判を通じて現代批判を試みた優れた著述家だと言うことを知った。

 新約聖書学者であるということは、新約聖書を、文献学的的方法や言語学、考古学等の人文科学的な方法を用いて、原初期の聖書とキリスト教に迫ろうとするものであろう。

 1935年東京生まれは私より4つ年上だから、今87才のはずだ。東京大学大学院西洋古典学科で学び、博士課程3年目の夏にストラスブール大学に留学。1965年に宗教学博士の学位を取得。以来、国際基督教大学で講師を勤めていたが、1970年4月に礼拝のとき講壇から「神は存在しない」「存在しない神に祈る」と説教したこともあってか、「造反教官」として追放されたと言われている。

 田川先生の履歴には、1972年から1974年にゲッティンゲン大学神学部専任講師をしていたとあったが、私もちょうどそのころ、ドイツの銀行に勤めながらゲッティンゲンの中世の古城に置かれたゲーテインスティテュートに住み込んで、ドイツ語の研鑽に励んでいた。東西ドイツの境界線に近い、あの美しい街で、若かった田川先生と、同じく若かった私が、同時に同じ空気を呼吸していた奇遇を思うと、不思議な親近感を覚える。

 20冊を超える膨大な著作の中には、代表作として『新約聖書 訳と註』(全7巻8冊)や『イエスという男 ――逆説的反抗者の生と死――』などがあるが、私は、現在古書マーケットでも手に入りにくい『宗教とは何か』(1984年大和書房)という先生49歳の頃の著作以外はまだ読んでいなかったので、先生について語る以上、せめてものアリバイにと、急いで「新約聖書(訳と注)の第1巻を、ネット通販で注文したのが、十日ほど前に届いた。

 読み進むうちに、その素晴らしさに圧倒された。カトリック神父を名乗る私は、これを全巻座右に置かねば嘘だ、とさえ思った。そして、聖書学の土俵の上では、田川先生を批判する資格など私には全くないこともあらためて深く納得した。

 しかし、「宗教とは何か」の中で遠藤周作批判にめぐり逢って共感し、田川建三という人物に興味を抱き、手探りしているうちに、「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝であり、『神とは人間がでっちあげた』ものなので、『神を信じないクリスチャン』こそが真のクリスチャンである」という言葉に接して、つい、ひと言申し述べてみたい思いに駆られた。

 それは、そんな言葉はカトリック信者の口からはまず聞けないだろうな、という素朴な思いとともに、世にこんなに興味深い人物がいたのかという驚きと感動を、まだ彼を知らない人に是非知ってもらいたいという思いもあったからだ。

 東京大学の博士課程から、ストラスブール大学に留学。ドイツの大学でも日本の複数の大学でも講壇に立ち、90才近い今もご健在のようだが、カトリックの遠藤周作のような、いい加減な、不勉強な、ふざけたイデオローグとは異なり、まじめな学究肌で、それだけに、一般社会では遠藤のように広く知られたマスコミの寵児ではないところが、また魅力だ。

 

最初の疑問

 では、よりにもよってその頭脳明晰で博学な新約聖書の超専門家が、なぜ、平凡で取り柄のない私から見ても、全くあり得ないような馬鹿馬鹿しいたわごと、すなわち、「神とは人間がでっちあげたもの」、とか、「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝」である、とか、本当の「クリスチャン」は「神を信じないクリスチャン」だ、などと言われるのだろうか。意味内容が混乱・矛盾していて、正常な理性にインプットすれば必ずエラー信号が出るようなフレーズを、平然と口から吐く田川先生は、どこかが狂っているのではないかとさえ思った。それは、もちろん、田川先生が言う「神」と私が信じている「神」が同じものを指している、と仮定してのことだが・・・。 

 田川さん、あなたは聖書学の博識を駆使して、遠藤周作のいかがわしさを完膚なきまでにこき下ろして、私を共感で満たした。そして、そのあなたは、遠藤のキリスト像を、「お前のような奴はダメだが、ダメなままで我慢して救ってやろう、という形で、『だめ』な自分は『だめ』なままでいいのだ、と居直ることになるので、ずぶずぶの自己肯定に終わることは間違いがない」と批判した。また、別のコンテクストでは、宗教学者エリアデを「怪しからんいい加減な学者」と呼び、「エリアデは、宗教的象徴がそのまま実在であり、実在の根拠であると、勘違いしているのです。」と決めつけた。さらに、「近代の克服としての宗教という手品は、こうして、まさにずぶずぶの近代主義の表現なのです。実際は現状に居直りつつ心情だけは異質を求める現代の小市民が、理論的にはまったくの近代主義でしかない発想に頼りつつ、近代を克服すると言って騒いでいるにすぎません。」そしてまた、「学問的作業の恐ろしさは、出発点におかれた理論はもうまったく単純な、およそ無反省なままのずぶずぶのイデオロギーにすぎないのに、非常に大量に、しかも世界的な規模での多人数の学者集団の知的エネルギーが注ぎ込まれていますから、それがずぶずぶの無反省だということには気がつきにくいのです。」とも批判された。私も、まあ、それはそうだろうな、と同感する。(私はこういう独特の語り口に「田川節」という名を献じたい。)

 しかし、あなたの言っている意味不明のたわごとは、あなた自身の言葉を借りて言えば、「目くそが鼻くそを笑う類いでございまして」、あなたは実は遠藤やエリアデと同根の仲間のくせに、自分のことを棚に上げて「相手の悪口を言っているという構図になるわけです」と、つい私は噛みつきたくなる。 

 田川先生は「エリアデは、宗教的象徴がそのまま実在であり、実在の根拠であると、勘違いしているのです。」といわれたが、その言葉は、そのまま先生ご自身の上に還ってこないでしょうか。世の宗教学者の先生方は、象徴にすぎない神々が、あたかも実在であるかのごとくに勘違いしているようだが、宗教現象をキリスト教も含めて「宗教」という抽象概念でひとくくりにして、一旦そういう前提を受け容れてしまえば、確かに話は全く違ってきます。 

 つまり、もしキリスト教の神も歴史の中に現れた象徴の一つにすぎないと考えれば、他の神々と同列に置かれても文句を言えないし、「神とは人間がでっちあげたもの」、とか、「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝」である、と言う主張は、文字通り全く正しいと言わざるを得なくなるからです。

 そのかわり、あなたが批判した遠藤やエリアデとともに、彼らを批判しているあなた自身も、三者三様に、書斎の中の観念の世界で宗教や神を論る、ずぶずぶの観念の亡者になってしまわないでしょうか。

 

悲しき雀 

 実は、この点をもう少し掘り下げるために、私は先に「インドの旅総集編(8)のホイヴェルス師の「悲しき雀」を書いておきました。

 ホイヴェルス神父様の可愛い小鳥ちゃんは、豆粒ほどの脳みそで鏡に映った自分の姿が虚像であることにたやすく気付き、象徴(鏡の中に移った小鳥)と実在(生きている鳥自身)の区別を見破ることができたのに、生物の中で最大の脳みそを誇る人間の、しかも頭脳明晰な哲学者が、存在とその象徴の違いをなかなか悟ろうとしないことを、ホイヴェルス師は、ちょっと皮肉を込めて指摘されたのでした。

 それは何も哲学者に限ったことではありません。文学者も、宗教学者も、聖書学者も、およそ学者先生と呼ばれる人種は、「実在」とその「象徴」、「実物」とその「映像」、「食える餅」と「絵に描いた餅」、の区別をつけることが出来ない存在論的音痴、認識論的色盲ではないかと疑わしいのです。

 ここまで考えを進めたとき、ふとパウロの書簡の一節を思い出しました。

 曰く:「私は知恵あるものの知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(1コリント19―24)

 ここでパウロが言っている神は、勿論、書斎の観念論者の象徴としての「神」ではなく、生けるまことの神、自分の名は「わたしはある」である、とみずから名乗り出た天地万物の創造主、自然の中にはいない「超越神」のことです。

 田川先生は、失礼ながら、パウロが言った「学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」の「学者」「この世の論客」に該当し、カトリック神父の私はパウロの意味での神を信じ、「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おう」としている田舎者だ、ということです。

 私の素朴な常識からすると、「神は存在しない」とか、「神とは人間がでっちあげたもの」とか、さらに「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝」であるとかは、全くお話にならない馬鹿馬鹿しいたわごとに過ぎませんが、もし田川先生が仮象(シャイン)と実在(ザイン)を混同して、もっぱら「表象としての神」についてのみ語っているのだと考えれば、私はそれらの「妄言」を(同情をこめて)よく理解することができるのです。

 なぜなら、田川先生は私が「インドの旅」総集編(3)「自然宗教発生のメカニズム」で考察したことと全く同じことを言っておられるに過ぎないからです。つまり、自然宗教の神々は、まさしく「人間がでっちあげたもの」であり、でっちあげの「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝」であり、本当の「クリスチャンはそのような神を信じないクリスチャン」だと言うことは、私自身がすでにわかりやすく説明しておいたことに他ならないからです。

 それに対して、「わたしはある」の神を宣べ伝える「宣教の立場」からすれば、田川先生のお説はやはり全くおかしい、完全に狂っている、馬鹿馬鹿しい妄言だ、と言わざるを得ません。

 聖パウロによれば、世は、――つまり学者も、先生も、従って、田川建三もエリアデも、だいぶ落ちるが遠藤周作も――もともと「自分の知恵で神を知ることができない」部類の人たちなのです。なぜなら、彼らが対象としている世界は、この被造物界、自然宗教の世界だけであり、しかも、それを抽象概念化して見るみるかぎりにおいてのことであって、全ては「絵に描いた餅」「ポスターに印刷された火の写真」の類いに過ぎず、「食える餅」でも、「タバコに火がつく燃える炎」でもないからです。

 それだけではない、「食える餅」も「絵に描いた餅」も「学者先生の脳みそ」も、すべて自然の一部を構成し、キリスト教も一緒くたにひとくくりにした「宗教」もその「神々」も、それらを論じている「宗教学者自身」も自然の中に含まれ、主客ともども一切合切が「自然というコップ」の中にあり、すべての議論はそも「コップの中の嵐」にすぎないのに対して、「わたしはある」と名乗る生ける神は、そのコップの中のどこを探しても見つからないもの、自然の総体であるコップの埒外に泰然と生きている神、つまり、「超自然の神」なのです。

 田川先生のような優れた宗教学の知性をもってしても、「わたしはある」を見出すのは、せいぜい聖書という書物の中に言語化された単なる「表象としての『わたしはある』」までであって、いくらそれを腑分けしても、その腑分け作業自体がガラスのコップの中のさざ波に過ぎず、パウロが言うように、自分の知恵では「コップの外にいる神」に触れることも知ることもできないのです。

 

問題の所在

 それでも、田川先生は、「啓示宗教」であり、「超自然宗教」であると自称するキリスト教も、所詮は同じ「宗教」のカテゴリーに含まれるものであって、結局はキリスト教の神を信じるのも、自然宗教を信じるのも「神を想像する偶像崇拝」にほかならない、と反論されるかもしれません。

 その点は確かに私のアキレス腱です。そう言われてしまうと、私には強く反論することが出来ない弱みがある。それは、キリスト教徒の圧倒的多数は自然宗教のメンタリティーで神を信じている、という紛れもない現実があるからです。そして、その面だけに注目すれば、田川先生の自然宗教否定、従って、神否定は、そのままキリスト教否定にもつながらざるを得ないような気がします。

 この問題は、今回の「インドの旅」総集編(5)《「超自然宗教」の「自然宗教化」》の中ですでに詳しく述べたので敢えて繰り返すつもりはないが、要約すれば、次のような話です。

 今日のキリスト教諸派の共通のルーツである初代教会は、4世紀初頭までは、「わたしはある」と名乗る生ける超自然の神を信じ、回心して福音の原初の教えに忠実であろうと務めていました。ところが、312年にコンスタンチン大帝がキリスト教を帝国の国教扱いにして以来、ローマ帝国の版図はあっという間にキリスト教一色に塗り替えられていったのです。なぜなら、洗礼を受けて一斉に教会になだれ込んできた大衆は、ギリシャローマの神々を拝んできた自然宗教の信者たちで、イエスが求めた「福音的回心」などお構いなしに、「わたしはある」の生ける超自然の神が何であるかもさっぱりわからず、もとの偶像崇拝のメンタリティーのまま、名前だけキリスト教徒になって教会を満杯にしたからです。そして、そのようなずさんな入信の形態は今日のキリスト教会にまで及んでいます。だから、圧倒的多数のキリスト教徒は、「超自然宗教のキリスト教」と「自然宗教化したキリスト教」との間に横たわる天と地ほどのへだたり、水と油のような相容れなさを知らず、自分が「自然宗教版キリスト教徒」であると言う自覚さえないのです。

 聖パウロに言わせれば、世は、――つまり学者も、この世の論客も、従って、田川先生もエリアデも、大分落ちるが遠藤周作も――、「自分の知恵で神を知ることができない」のです。だから、批判的聖書学者であり、書斎の研究者である田川先生の目には、「わたしはあるの生ける神」は見えていないし、見えるはずもないと私は考えています。

 ホイヴェルス神父様の可愛い雀ちゃんは、生きて躍動している小鳥と鏡の中の虚像の小鳥との間の違いをたやすく理解したのに、哲学者、先生方は、どうしてその違いが分からないのか、と不思議でなりません。学者先生という人種は、およそ虚像の世界にしか関心がなく、実像としての「わたしはある」の神を見たことも触れたこともないだけでなく、その存在など夢想だにできない盲人たちなのかもしれません。

 わたしは、中学生のとき神戸のミッションスクールでお人よしで頑固者のドイツ人のクノール神父さんから洗礼を受けたが、そのとき受けた信仰教育、そして恐らく少年遠藤周作が芦屋教会の神父さんから受けた信仰入門の話は、初代教会が入信希望者に求めた徹底的「回心」にははるかに及ばなかったのは当たり前のことでしょう。私がこの問題と真面目に向き合うようになったのは、やっと50才になってからのころのことでした。

 田川先生が、少年期までに自然宗教バージョンの洗礼を経てプロテスタントの信者になられたのかどうか知りません。しかし、先生が学者として研究の対象とされたのが「自然宗教としてのキリスト教」だったとしたら、たとえ研究の過程で「啓示宗教」とか「超自然宗教」とかいう概念に出会われても、それらは文字の世界の象徴(鏡に映った小鳥)であり、「わたしはあるの神」の命のない抜け殻にすぎなかったに違いないのです。

 人間は、交差点で物陰から突然飛び出してきた車にはねられて事故に巻き込まれたた時のような圧倒的な現実感をもって「生きている『わたしはある』の神」と遭遇しない限り、学問的研究の成果としてそれに到達することは永久にないと思います。

 たとえば、現代のロゼッタストーンのように、聖書をデータ化したチップをロケットに積んで打ち上げ、たまたま、人間かそれ以上の知的宇宙人に拾われ解読されたとしても、「自然宗教」という「象徴」が地球にあることは理解できても、「わたしはある」の生ける神に対する「信仰」がその星で芽生えることは絶対にないと断言できます。(もっとも、この仮定は無意味です。なぜなら、地球の他に人間と同等以上の知的生物など存在しえないからです。それは、「わたしはある」の神のメンタリティーに調和しません。)

 

「ケリグマ=福音の告知」の必要性

 聖パウロの書簡には、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(1コリント1:21)とあります。

 パウロの「宣教」の立場から見ると、景色はまた一変します。人は、超自然宗教の信仰を生きている宣教者の肉声によるケリグマ(福音の告知)を自分の耳で直接聞かなければ、超自然宗教の「わたしはある」と鉢合わせすることはない。もっと突きつめて言えば、「生ける神」自身がケリグマを告げる人の口を借りて人に語りかける時以外、誰もその神に出会うことが出来ないのです。

 それは、人間の知恵から湧いてくるものではなく、告げる人の口から告げられる人の耳へ、そして告げられた人の口からそれを聴く人の耳へ、途切れることなく、人から人へ受け継がれるものだからです。

 わたしがまだ若かっらた頃の座禅のお師匠様、澤木興道老師は、達磨大師から道元禅師まで、そして道元禅師からご自身まで、師からその弟子、その弟子から弟子の弟子へと綿々と続いた師弟の系図を、読経のごとく朗々と毎日唱えられました。それは、座禅の奥義が人から人へ、得度・授戒を通して途切れることなく伝えられたものであることの大切さを物語っています。

 「超自然宗教」においても同じで、ケリグマは「わたしはある」と言う名の生ける神から太祖アブラハムへ、アブラハムからイザクへ、イザクからヤコブを経て綿々と受け継がれてダビデの子孫イエスまで、さらに、イエスからその弟子たちの福音宣教という愚かな手段を通して途切れなく、最後には私の如き貧しい信者にまで伝えられてきた秘伝なのです。そして、その秘伝を宣教という愚かな手段に託して次の世代に受け渡していく責任と義務は、すべてのキリスト者に負わされています。

 田川先生にも、エリアデにも、遠藤にも、この出会いはまだ訪れなかったのだと思います。人は、ケリグマ(福音の告知)を聴く機会にめぐり逢う時、超自然宗教への招きに応えて「回心」するか、回心しないで自然宗教のままに残るかを自由に選ぶ決断を迫られることになるでしょう。信仰が人の心に受肉するかしないかの、決定的、神秘的瞬間がそこにあります。

 田川先生は、「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝である」と言われたが、まさにその通り、現代社会では自然宗教の神は一切のヴェールをかなぐり捨てて、「マンモンの神」即ち「お金の神様」としての本性を露わにし、世界中の人々を奴隷状態に陥れています。

 今日ほど回心して「わたしはある」の超自然の神に帰依することが必要とされている時代はないでしょう。

 私はキコの書いた《「ケリグマ」(福音の告知)》(谷口幸紀訳・フリープレス社)と題する一冊を翻訳しました。この問題の答えを見出す一助として、是非読まれることをお薦めしたいと思います。

 

(ネット書籍通販で1000円+税で手に入ります。)

 

 

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★ 私の「インドの旅」 総集編 (9) 田川批判ー1

2022-01-10 00:00:01 | ★ インドの旅から

~~~~~~~~~~~~~~~~

私の「インドの旅」総集編 

(9)田川批判-1

~~~~~~~~~~~~~~~~

     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

       b) キリスト教の凋落

       c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

      (8)悲しき雀

          (9)田川批判    

       (10)超自然宗教の復権

 

(9)田川批判    

 私は遠藤周作の長編「沈黙」にも「深い河」にも山ほど物申すべきことがあった。そこへ田川建三氏の遠藤批判に出会って、すっかり意気投合し、胸がスカッとして、快哉の叫びをあげた。

 1935年生まれ、4年先輩でご存命中の田川氏には、雑学の私など足元にも及ばない博識と緻密な研究心に敬意を表して、「先生」とお呼びしたいと思う。

 

 田川先生の遠藤周作のイエス像を完膚なきまでにこき下ろした「イエスを描くという行為―歴史記述の課題」には大喝采を送ったが、それは、先生が49歳のときに出版された「宗教とは何か」第四部に収められていた。

同じ著書には、「第一部」として「宗教を越える」という論文が載っている。

そもそも、「宗教とは何か」は、その「まえがき」の中でも述べられている通り、「批判的に宗教と取り組むための視点を提供する」ために書かれたもの、一言で言えば「宗教批判」の書である。

 田川先生は「人間のいとなみの全体が、あるいはそこにはらまれる矛盾、よじれ、断絶、痛みが、宗教と呼ばれるものを時として噴出させるのである」と言われる。宗教は人間が生み出したものであり、裏を返せば、人間のいとなみの全体が、健康的で満ち足りていれば宗教などが出てくるはずがない、と言うことなのだろうか。

 この「宗教」の由来説は、「宗教とは神と人との関係」として捕える私の単純明快な思考回路とは全く観点を異にしている。私の宗教は人間の営みの様態などには左右されない。

 しかし、田川先生は続ける。「『宗教』は克服されるべきものであるが、『宗教』という現象を克服するために先ず必要なことは、『何故、どのようにして人間が宗教を生み出し、維持してしまうのかを知ることである。』そして、批判的に取り組むということは、そのようにして宗教を知る行為が、宗教を必要としてしまうような人間の状態・現実を克服し、変革しようと努める行為に連なる」のである。

 言葉を変えて言えば、宗教批判は宗教が出てくる必要のないような健全な営みを実現することを目標としている、と言うようにも受け止められる。

 「宗教とは何か」という設問に正しく答えることが出来れば、人間は「宗教を越える」ことが出来ると田川先生は考えているのだろう。そのことは「宗教とは何か」という一冊の《第一部》が「宗教を越える」と題されていることからも類推できる。

 そしてその最初の提題は「人は何のためにいきるか」であるが、先生はそれを「人間は何のために生きるか、などと問うこと自体間違っている、と 答えればよい。」とはぐらかす。

 そして、「人間は何のために生きるか」と問う場合も、また設問を変えて「人間は何によって生きるか」と問う場合も、結論的には「人間の生の原因は人間の生であり、人間の生の結果として人間の生が生みだされる。因と果は分けることできない。そしてこの複雑多岐な働き方の総体が人間の歴史である。」と、人を煙に巻いて話は終わらせようとする。しかし、私に言わせれば、そのように言葉を弄しても何も生産的な回答は生まれてこないのだ。

 私なら、「人間は何のために生きるか」と問われた場合は「神を愛し、隣人をおのれのごとく愛するために生きる」と即座に答え、「人間は何によって生きるか」と問われれば、「神の創造的愛によって生きている」、と、躊躇なく反射的に答える。このように、私と先生の思考回路は、最初から全くすれ違っているように感じる。

 ところで、田川先生には「宗教」のある様態を批判して克服するために用いる一般的論理がある。

(A)の批判として(B)が提示される。

― しかし、(B)(A)の中に最初から含まれていたものを、ただ新しい表現に包んで提示したもの(A’)に過ぎない。

― だから(B)(A’)は元の(A)とくらべて本質的な新味はない。

 と言って(B)(A)に対する批判とした思考を却下して終わる。しかし、先生自身は (B)に代わる自分なりの批判(X)を決して展開することはしない。

 田川先生はこうも言う。

 「人間は何によって生きるか、などと問うと、ついあわてて、人間の生の根拠なるものを人間の生の外に探すことになる。或いは人間の生の一部を外に投影して、そこから人間の生が生まれて来るかの如くに錯覚したりする」という。しかし、これも、上の(A)(B)の関係性の応用問題である。

 「こういう場合、『根拠』は目的と大差なくなる。『何によって』がいつのまにか『何のために』にすりかえられる。人間の生の外にあるもの、あるいは外にあると錯覚した人間の生のごく一部分の抽象、によって人間の生の全体を取り仕切ろうとすれば、人間の生に対していやらしいゆがみをもたらすことになる。そういうゆがみを我慢できる人がいるとすれば、自分自身の食って寝る現実の生活は自分の思想と切り離してある程度円満に充実して営むことができているからである。」

 お言葉を返すようですが、先生が「宗教とは何か」などという悠長な思索に耽っていられるのも、ご自身「食って寝る」ことがかなり余裕をもって確保できているからではないでしょうか。それは、カトリックを売りにして流行作家にのし上がった遠藤周作が、印税で「食って寝る」をしっかり確保して、なお余勢を駆って銀座かどこかのクラブで女性と酒を酌み交わしているのとどう違うでしょうか。

それなのに先生は仰る。

「もしも人間の生とは何か、などとたずねられたら、それは人間の生の全体である、と応える以外にない。それ以外は危険である。以上の点を押さえた上で、なおかつ敢えて鮮明に言い切っておこう。人は何のために生きているか、なんぞとたずねられたら、本当は、そのように尋ねることが間違っている、と答えてすましておけばいいのだが、なかなかそう言ってもわかってもらえないので、敢えて、我々は食って寝るために生きている、と私は言う」と。

 また、別のところで「人間にとって『正しさ』の基準は食って寝ることの確保である」とも言われる。このような語り口を私は田川節と呼ぶ。

 さらに続く。

 「人間が食って寝ることを『たったそれだけのこと』などと呼ぶのは、あきれるべき暴言である。たかが食って寝るだけのこと、などと鼻の先であしらうような奴に出会うと、わたしはぶん殴りたくなる。現在、飢えて死ぬ危険に直接さらされている者は、世界の人口の過半数をしめる。」

 まさに「田川節」の真骨頂である、と私はいいたい。

 「宗教とは何か」の第一部「宗教を越える」の(二)では「『知』をこえる知」が論じられ、そこに「宗教的感性では知性の退廃を救えない」と付言されている。

 曰く、「知に対して宗教を対置させるのは、実は近代のものの考え方の特徴である。近代以前では、むしろ宗教こそが最高の知を与えるものだと考えられたことが多かった。啓蒙主義が出現するまでは、宗教こそが人間の知の最高形態、最も奥深い知、とみなされていたのだ。」

それはまあ、そうかも知れないな、と、私も一応同意しよう。

 だが、「人間の営みの中で宗教がしめている位置がいつも同じということはないので、時代によっては知性を代表し、知の中の知、最高知、とみなされたし、時代によっては宗教が『最も深い感性』を代表するものとみなされる。しかし、宗教がこのように『感性』の側に位置づけられるのは、世界史の大きな流れの中では、近代にのみ見られる特殊な視点なのだ。」

 ああ、そう言うものですかね、と、宗教史に弱い私はうなずくしかない。

 「キリスト教で言えば、生まれたばかりのキリスト教は、ユダヤ教の『知』の権威を克服しようとした。当時のユダヤ教においては、『聖書』(旧約)が知の最高かつ絶対的な形態として固定化されていた。そのように『書物』の文字に固定化された『聖なる知』は、当然のことながら、生きた人間の生活を不当に束縛するものとなる。生まれたばかりのキリスト教は、ユダヤ教を克服しようとしながらも、なおこの『聖書』の権威主義にとらわれていた。だからこそ、自分を『使徒』と呼んだパウロは、その種の『知』に対して、『霊』の自由な働きを強調したのである (2コリント3・6) 。パウロは他方で、ヘレニズム的な地中海世界の文化・宗教の状態に広く接していた。そしてそちらはそちらで、『知』が人間性の根本として宗教的な憧憬をはらんで主張されていた。それに対してもパウロは、『人間の知』を越えるものとして『福音宣教のおろかさ』を持ち出した。(1コリント1・23)」

 おやおや、田川先生、あなたは「宗教批判」と「宗教の克服」を論じる時の「宗教」は、仏教、回教、キリスト教などの個々の宗教の個別性を捨象して抽象化した「宗教」のみを扱うと言われたのに、思わずご自分の溢れるほど膨大なキリスト教の知識がここにチビリと漏れ出てしまいましたね。それは、まあ許します。

だが、先生はさらに、「この『霊』は宗教的『感性』ではなく、『神の霊』であり、『おろかさ』は『神の賢さ』なのである。」と続ける。

 ここまでくると、先生のキリスト教に関する蘊蓄は、「おチビリ」の抑制を越えて、もうダダ漏れの「お漏らし」の観がありますが・・・!

「本来『神の知』であるはずの『宗教知』が、人間の作った宗教的権威によってだめにされたので、もう一度『神の知』を持ち出して、『人間の知』の限界を越えようとしたのだ。」 

 この辺りは田川先生の十八番(おはこ)の論理が躍動する: (A)(B)が克服したという、しかし(B)(A)を別の言葉で置き換えた(A’)にすぎない。だから(B)(A)の単なる言い換えで、結局、なにか変わったかのように錯覚するだけのことだ。そして、ここでも先生は(B)説をコケにしておきながら、ご自分の独自の批判(X)は一切語らない。ずるいぞ!

 「そもそも、古代の伝統的『宗教知』は、そこに人間性に関するさまざまな真実が内包されているいうものの、同時にさまざまな迷信も含まれ、かつ、それが社会的な権威になればなるほど、体制秩序をゆがんで表現するイデオロギーともなった。」

 この点には私も100パーセント同意できそうだ。自然科学や社会科学の進歩は宗教を迷信から浄化し迷信を駆逐する力を持っており、是非そうあってほしいと私も願う。

 「近代になって、知の領域においては、宗教はとても近代科学にたちうちできなくなった。知に関しては、近代科学がそれまで宗教のしめていた位置にとって代わった。」

 それは当然の成り行きだと私も言いたい。事実、私自身も「自然宗教」一般について語ったとき、全く同じ主張を展開した記憶がある。

「はじめのうちこそ(18世紀から1960年ごろまで)、最高知の王座を追われた宗教はぐんぐんと衰退していくように見えたが、うまい逃げ場にはいりこんで、逆に今ではかえって活気づいている。」

 えっ?そうなんですか?一体それはどういう意味でしょう?

 「近代合理主義の『知』は。その対立物としての『宗教』をかえって必要としたのである。」

へえー!なるほど、そう言うことですかね。

 「ニュートンだのアインシュタインだの、やや落ちるが湯川秀樹だのと言う『優秀な』自然科学者が、実に安っぽく愚劣に宗教を崇拝し、宗教を持ち上げる発言を繰り返した理由はそこにある。」

 確かにそういう面はありますよね。なるほど。

 「近代的合理主義の方は、『人間性の深み』という虚妄な部分、本当は存在しない虚妄な部分に手をふれなければ全てが許されるので、じっさいには、人間の現実生活のすべての領域において権威をふるい、今もふるい続けている。他方宗教の方は、虚妄の領域において『知性』を批判、克服する『作業』に安住することによって、現実の領域での『合理主義』の横暴を追認する役割を果たしている。」

 皆さん、田川先生の言いたいこと分かりますか?もし、分かりづらかった、もう一度よーく読み返してください。先生は大切なことを言っていますよ!

「けれども人間性の深みは、それだけを取り出して見ることなどできはしないのだ。(中略)『人間性の深み』が虚妄になるのは、それを特別に担当する部門として宗教が立ち現れる時である。『人間性の深み』を特別に担当する部門がつくられれば、『深み』が人間性から切り離されて、虚妄になる。」

 お分かりかな?難しければ、読み飛ばしていただいて結構です。

ここから話は(三)「近代の克服としての宗教」批判  ―宗教学という逆立ち― へと進む

「(宗教学は)これも啓蒙主義の申し子として生まれた学問ですけれど、これそのものが一つのイデオロギーです。」

 私も全く同感です。

 「まさに近代科学が行き着くところまで行き着いた現代こそ、近代科学ではつかみきれない、もっと奥深い宗教によって人間の心底に至ろうではないか、という形でもう一度宗教の復興が叫ばれる、というのが『近代の克服としての宗教』と言うことです。」

 実にうまいこと言われますね。田川先生。

「宗教が近代を克服するものとしてしゃしゃり出てくるのは、目くそが鼻くそを笑う類いでございまして、近代宗教は実は近代合理主義と根は同じ仲間のくせに、相手の悪口を言っているという構図になるわけです。」

 ますます面白くなってきました。

「いわゆる宗教学というものは決してすべての宗教をていねいに研究するものでもなければ、個々の宗教を、例えばキリスト教ならキリスト教、仏教なら仏教といった個々の宗教を、丁寧に研究ものではございません。宗教学は、特にキリスト教とか仏教の研究を意識して避けて通っている学問だ、と言うことをお知りいただいてもいいんじゃないかと思います。」

 だから言ったでしょう?田川先生の「宗教学」とはまさにそういうものなのです。そして、私はひと言付け加えたい。田川先生、貴方もそのイデオロギーの信奉者ですよね、と。

「結局、その中で今日まで生き残っている考え方は何かといいますと、すべての人間に何か宗教的なものがあるんだと、これが、キリスト教社会では、キリスト教という形で表現され、仏教社会では仏教という形で表現され、それぞれのところでいわゆる歴史的宗教として表現されるんだけど、それは歴史社会それぞれに従って表現されているにすぎないのであって、一番根本には『宗教』そのものがあるんだという考え方です。つまり『宗教』の普遍的な本質を抽象するのに、それを何かはっきりしたものとして示さないで、何となく曖昧に『宗教的なもの』としておくわけです。それは、まさに近代科学の発想そのものなのです。」

 先生、これこそ「イデオロギー」の一種ですよね?!

「すべての人間に共通する宗教そのものなるものがあるのだという発想は、啓蒙主義から出てきているという点に、ご注目頂きたいと思います。(中略)ある意味でキリスト教を克服して、近代科学を打ち立てようとした、そこにあるイデオロギーの動きが啓蒙主義だったわけです。ですから啓蒙主義の段階におきましては、これはキリスト教に対する反発として言われていたわけです。」

 ちょっとだけ皮肉をいわせえてください。もしすべての人間に共通する宗教そのもの」があるのなら、現代社会でかくも大勢の人が無神論者、乃至は無宗教者である事実をどう説明されますか?ひょっとして、先生もキリスト教に反発して、キリスト教を越えたいとお考えなのでしょうか?

 しかし、私は言わせていただきたい。すべての宗教をそのイデオロギーの対象として処理されるのは結構です。ただし、どうかキリスト教だけは除いていただきたい。なぜなら、キリスト教の「宗教」は啓蒙主義とは無関係に上から来るもので、キリスト教の宗教的な真理に限っては、人間がみずからつくり出したわけではなく、上から、つまり、「わたしはある」というご自分の名前を名乗られた天地万物(宇宙)を無から存在界に呼び出し、今も呼び出し続けている神から「啓示」として与えられたものだからです。その啓示は一回的な出来事として、「イエス・キリスト」において決定的に示され完成されたのであって、つまり神の側からの選びによって生じた出来事だからです。それは自然の一部にすぎない人間が自分の知恵で考え付くことのできる事柄ではないはずです。

 実は、先生ご自身も、これとそっくりなことを考えておられますよね?私は知っていますよ。

 しかし、そのあとが違います。田川先生は、「ところが、世界のあらゆるところでいろいろな宗教を知ってしまうと、別にキリスト教に全然触れたことない他の諸民族においても似たような宗教的発想は多く創り出されているではないか、と言うことに気がつく」と言われます。

 ちょっと待った!そんなことが簡単に言えるでしょうか。先生は遠藤周作を批判する時、遠藤は聖書を引き合いに出しておきながら、肝心なところで全く真逆の解釈を平然と持ち込む。しかも学問的な外見のもとに!と痛切に批判されたのではなかったでしょうか?今先生ご自身がなさろうとしていることは、それとどこがちがいますか?

 ここで田川先生は、世界のあらゆるところでいろいろな宗教、例えば、ゾロアスター教、ヒンヅー教、イスラム教、神道、などの諸宗教を知ってしまうと、キリスト教と似たような発想が作り出されていることに気付いた、というようなメチャクチャな結論にご自身も達した、と強弁されるおつもりですか?

 私なら、これらの諸宗教を正確に観察しさえすれば、だれでも誤ることなく、キリスト教だけは上からの宗教、啓示宗教、つまり「超自然宗教」であるのに対し、他の宗教はまがいもなく全て「自然宗教」である、という決定的な違いに簡単に気付くはずではないかと考えます。

 私は前のブログでホイヴェルス師の「悲しき雀」の話を書きました。

 僅か5ミリ立方にも満たない脳みその雀でさえ、実像と虚像の区別をたやすく見分けたのに、生物の中で最大の脳みそを備えた人間の学者が「ザイン」(Sein=実在)としての神と、「シャイン」(Shein=虚像)としての神との厳然たる区別をどうして見分けることができないのか不思議でなりません。

 この明白な事実に敢えて目を覆い、白を黒と言いくるめるような大嘘を無理やりに取り込まなければ、啓蒙主義も、それを批判的に克服した近代宗教学も、現代宗教学も成り立たないのでしょうか?

 啓蒙主義は、キリスト教を否定し克服するための科学的イデオロギーであって、「この段階の宗教論は宗教を『上』から引きずり下ろすことにのみ懸命で、その結果逆に、人間性を抽象性の高みへと追い上げてしまったのです。」「これがつまり近代科学の発想です。」と田川先生は言われる。

 しかし、宇宙を無から創造した「わたしはある」超越神をひきずりおろして、無理矢理に自然宗教の神、つまり人間の想像力が自然に投影した神と同列に置くことによってしか近代科学的宗教学が成立しないとすれば、それはキリスト教を否定し、乃至は拒絶するイデオロギー以外の何ものでもありません。私にはそのような歪んだ、誤った、イデオロギーと付き合っている暇はない、と言いたいです。

 啓蒙主義は自然宗教の概念を復権して「要するに、まず宗教と言う基礎がなければならない。(中略)どんな啓示宗教であろうとも、何らかの形で自然宗教の岩の上に建っていると言える」と言うのでしょう。

 百歩ゆずって、「超自然神」が初めてアブラハムに語りかける以前は、アブラハムも確かに自然宗教を信じていたでしょう。たとえば、独り子のイザークを生贄として殺して、祭壇の上で焼き尽くせと神に要求されれば、アブラハムは苦しみながらも自然宗教的なメンタリティーでそれに従おうとしました。しかし、天使に制止され、思いとどまって以来、彼はその意味での自然宗教性から解放されていったのでした。また、4世紀初め、コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の国教として取り立てたときを境に、自然宗教を拝んでいた民衆が自然宗教のメンタリティーのまま圧倒的な勢いでキリスト教になだれ込み、それがキリスト教徒の主たる部分として定着して今日に至っていますから、現代のキリスト教の中に自然宗教的要素を探せば有り余るほど見つかるのは当たり前です。だから、宗教学がその面にのみ着目してキリスト教も自然宗教の一つと見做したければ、出来ないことではありません。しかし、それはキリスト教の本質的部分を捨象することなしにはできないはずです。

 話はミルチャ・エリアデに飛ぶ。

 ルーマニア人の宗教学者だが、田川先生によれば怪しからんいい加減な学者だそうです。私も若いころ注目したことがありますが、よく覚えていません。

 「エリアデは、宗教的象徴がそのまま実在であり、実在の根拠であると勘違いしているのです。」「近代の克服としての宗教という手品は、こうして、まさにずぶずぶの近代主義の表現なのです。実際は現状に居直りつつ心情だけは異質を求める現代の小市民が、理論的にはまったくの近代主義でしかない発想に頼りつつ、近代を克服すると言って騒いでいるにすぎません。こういう手品は成功するはずもありません。」「学問的作業のおそろしさはそこにあります。出発点におかれた理論はもうまったく単純な、およそ無反省なままのずぶずぶのイデオロギーにすぎないのに、非常に大量に、しかも世界的な規模での多人数の学者集団の知的エネルギーが注ぎ込まれていますから、それがずぶずぶの無反省だということには気がつきにくいのです。」

 この「ずぶずぶの近代主義・・・」とか、「ずぶずぶのイデオロギー・・・」とか、「ずぶずぶの無反省・・・」とかは、私が愛してやまない「田川節」のまさに真骨頂です。この「田川ぶし」を私は先生の遠藤周作批判の中でもすでに何回か聞きました。それが今回は豪華3連発。私はもう大満足で今回のブログを終わりたいと思います。

 ただ、最後にもう一節だけ引用させてください。

「以上、宗教的な『非合理性』をかつぎだして、これこそが近代科学のもたらした退廃状況を克服するものだ、とする立場は、実は近代科学の発想の申し子にすぎない、とい言うことがおわかりいただけたと思います。ただし、最近目立つ現象は、宗教学のことなど全然知らない人も、宗教について何となく同じような考えを持つようになってきております。これは、現代世界の状況が、宗教学を知らなくても、何となく同じことを考えるようになる、と言うことだと思います。イデオロギーとはそういうものです。ブルジョワ的な学問である宗教学と同じ発想が、いまや宗教的庶民層に広くひろがった、ということです。我々に関心があるのは、こういう宗教的庶民層の状況にどのように切り込めるかということです。」

 田川先生の宗教批判はここでひとまず置きますが、鋭い指摘を含む上のパラグラフは次回でいささか重い問題になるでしょう。

 私は、田川先生の鋭い指摘をお借りして遠藤周作をメッタ切りにしましたが、実は、その返す刀で田川批判に切り込もうと企んでいたのです。しかし、結果的には先生の啓蒙主義に基礎を置く宗教理解というイデオロギーを拝聴するだけこんなに長くなってしまいました。

 しかし、「宗教とは何か」という一冊を著した田川先生は、結局、最後まで「宗教とはこれだ」というご自分の結論(X)を出すことから逃げたまま終わっている。

 本当の「田川批判」はこれからです。

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★ 私の「インドの旅」総集編 (8)悲しき雀

2021-12-29 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編 

(8)悲しき雀

~~~~~~~~~~~~~~~~

     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

       b) キリスト教の凋落

       c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)悲しき雀

          (9)田川批判    

     (10)超自然宗教の復権

 

 

「悲しき雀」の著者 H・ホイヴェルス師

 

(8)悲しき雀

 私は、流れから言って、(7)「田川建三による遠藤周作批判」の次(8)のテーマは、「田川健三批判」であろうと思い込んでいたが、そうではないことに気が付いた。何故なら、田川建三を批判するツールとして、どうしても(9)の元の題「絵に描いた餅」の話が必要だったからだ。しかし、「絵にかいた餅は食えない」という命題は、一方では、自明の理であって全く説明を要しない点はいいのだが、他方では、あまりにも陳腐で通俗的すぎて面白くもなんともない。

 何かもっと品のいい話はないものか、と思案するうちにふと心に浮かんだのが、私が敬愛してやまないホイヴェルス神父様の次の短編随筆だった。

 心の洗濯のために謹んでご一緒に味わっていただきたい。

 

 

  拾われた時は何の鳥かわらなかった

 

 ホイヴェルス師の初期の随筆集「時間の流れに」(ユニヴァーサル文庫‐21‐) の中に「悲しき雀」という短編がある。

 それは、次の言葉で始まる。

 「友だちの家の縁側には、鳥籠の中に一羽の小鳥がさえずっていました。鳥籠は朝かぜの中にゆりうごき、鳥の声は悲しそうでした。私が見にゆきますと、鳥は黙り込んでしまいました。・・・」

 そして、少し先で「しばらくして、雀の鳥籠での生活は、とても退屈に違いない、と同情しました。この雀のために遊び仲間を工面してやりたいな、と思ったものの、もちろんできっこありません。でもある哲学者によれば、現象の世界と実在の世界との差別はありませんから、この雀はなおさら現象と実在を分けることなどできまい、と思いつきました。

 私は鳥籠を縁側から私の部屋のテーブルの上に運び、そこでうまく一つの鏡を鳥籠の側に立てました。それで鏡の中にも鳥籠と一羽の雀が現れました。それからわたしは静かに部屋の隅に退きました。すると雀は、たまたまぐるりと向き直って鏡の中の雀を見つけます。自分の種類とすっかり同じ鳥です。私は、雀がすぐこの新しくつくられた雀のところに遊びに来るだろうと思いました。けれども、わが雀は哲学者ではなく詩人で、物を所有することよりも、物に対する希望を大切にしますから、その胸をふくらませ、嘴を天にあげて翼をバタバタと打ち、そして喜びにあふれて一心に歌い出しました。長く長く歌いました。

鏡の中の雀も歌います。翼をバタバタと打つ、それで熱心はいよいよ増してくるのです。ようやく歌い終わってからお互いの挨拶のために、ぼつぼつ近づき、嘴でつつきあうのでした。それからまたさえずる。戻っては飛びまた近づきあいます。近くになってもいつもいつもただ嘴だけなのです。そのためにこの二羽の鳥は驚きあいました。疑い深くなったのです。またはなれて、少し遠くから、じっと互いに睨みあい、またもういっぺん歌いましたが、もはやそんなに希望にみちた歌ではありませんでした。もう一度挨拶をしてみようととんでゆきました。しかしこの固いガラスは同情を知らないので、この二羽の友達は一緒になれませんでした。哀れな雀は現象の世界の悪戯に失望し、早くも詩人は疑い深い哲学者になってしまいました。そしてこの贋物の鳥から、なるべく遠くとびはなれて背中をむけ、時々ピーピーと嘆くのでしたが、でもたまにはそっとふりかえって、鏡の中の鳥をぬすみみていました。

 わたしも雀に同情しました。また現象と実在の相違をそんなに早く見て取ったことにいくらか感心しました。ある哲学者たちはこう早くは現象と実在の差別を悟らないものですから。」

 ここまでで、師の短編のちょうど半分。残り2ページの展開を惜しみながら、話を先へ進めたいと思う。

 ホイヴェルス師は、世の並みの哲学者たちがなかなか悟ろうとしない「実在と現象の明白な違い」を小鳥が賢くもいち早く認識するに至った事実を、この随筆にーいささかの皮肉を込めてー綴られたものと思う。

 問題の理解をさらに深めるために、師の詩的な格調を穢すことを敢えて恐れず、ここに私が好んで使う短い挿話を加えたい。それは、私が杉並区の夜の街角で見た光景についてである。

 「師走の寒い夜、裸電球に照らされた町内会の掲示板に、一枚の『火の用心』のポスターが貼ってあった。そこへ、足元のおぼつかない忘年会帰りのおじさんがゆらゆらと通りがかり、立ち止まってポケットをまさぐって煙草を取り出して口にくわえ、ポスターに描かれた火に近づけて、煙草に火を貰おうとしている。うん?と怪訝そうに首をかしげながら、なおもしきりに煙草を火にくっつけるが、もちろん火は着かない。何度か同じ仕草くりかえしたのち、やがて火のついていない煙草をくわえたまま、首をすくめ、ゆらゆらと闇の中に消えていった。」如何か。

 ポスターに描かれた、或いは、印刷されたカラー写真の「火」は、絵に描いた餅に相当するのに対して、食えば腹が膨れる「食える餅」に相当するものは、「光と熱を放って燃えている生きた焚火の火やマッチの炎」のことであろう。酔っぱらいは、咥え煙草にポスターの火から火をもらおうとして、なぜ火が着かないか理解できなかったのだ。

 実在と虚像、または実存と現象の違いを一早く見抜いた小鳥は、並みの哲学者よりも、またこの酔っぱらいよりも、よほど洞察力に優れていたのだろうか。

 「絵にかいた餅」も、「ポスターの火」も、「鏡の中の小鳥」も、みんな「食える餅」「燃える火」、「生きた小鳥」に対応している。一つは「実在」で、もう一つはその単なる「写し」に過ぎないということだ。ドイツ語では「“Sein“=存在」「”Schein”=虚像」という。

 ここで大事なのは、食べられる餅も絵に描いた食べられない餅も、燃える火もポスターの火も、生きている小鳥も鏡に映った小鳥も、全て自然の中の存在であり、自然の中の現象だということだ。加えて、その事を区別し、その区別を認識するわれわれ人間自身も、全て自然界の存在である点では共通している。

 では、宗教の世界はどうだろうか。これこそ、今回のブログの決定的に重要なポイントだから、よく注意して、緊張して、読んでいただきたい。

 先ず「自然宗教」の世界を見ると、神々とは、そもそも自然現象の圧倒的な力の背後に人間の畏怖する心が投影したもので、大自然の実在性よりもさらに希薄でより抽象的な存在であって、自然界を超えるものではない。その神々の像を刻み寺社・神殿に安置してみても、神々はその像を刻んだ人間と共に自然の一部を構成するに過ぎない。言葉を変えて言えば、食べられる餅の対応する諸宗教の神々も、絵に描いた餅に対応する神々の絵も像も書物も知識も、全て自然の世界の中に包含され、自然の中で自己完結している。それが「自然宗教」と言われる所以でもあろう。

 では「超自然宗教」の場合はどうだろうか。神を礼拝する聖堂、会堂、教会も人間の手になったもの、神について書かれた経典・聖典も、そこで執り行われる祭儀もそれに与かる信者たちも自然の一部を為す人間とその営みであり、神に関する観念も教えも宗教の歴史も全て自然の枠を超えるものではない。それらは皆、いわば現象の世界、生ける神に関する現象に過ぎない。しかし、自然の中のどこを探しても、「わたしはある」と名乗る「生ける神」はそのなかに包含される自然の部分としては存在していないのだ。言葉を変えて言えば、超自然宗教の神は、自然現象の中にふくまれない、自然界の存在の部分としては存在していないからこそ、超自然の神と呼ばれ得るのだ。

 「超自然宗教の神」が森羅万象を無から創造した生ける神であって、自然の一部ではないのであれば、自然の中に生きる我々が創造主、生ける神について知っている全ては、絵に描いた餅、ポスターに描かれた火、自然という鏡に映った虚像であって、食える餅、煙草に火のつく光と熱を放って燃えている火、動き囀る生きた小鳥に対応する「生ける神」そのものではない。この神は、自然を超越し、自然の埒外に、即ち、「超自然の領域」に存在している。

 要約すれば、「自然宗教」の世界では食える餅としての神も、絵に描いた食えない餅としての神も、共に自然界の中に見出されるが、「超自然宗教」の世界では、自然界で捉えられる神はすべからく絵に描いた食えない餅としての神であって、食える餅としての「生ける神」「自然界を無から創造した神」は自然の埒外の「超自然の世界」にあるということである。

 ホイヴェルス師の随筆の中の小鳥は「ザイン”Sein”=現実」と「シャイン”Schein”=現象」の違いをあっさりと区別することが出来た。しかし、師走の街角のおじさんは、酔っていたから、ポスターの火は虚像の火であって、タバコに火をつけることのできない火であることの簡単な理を理解できなかった。ホイヴェルス師の上品な皮肉よれば、世の大学の哲学の先生方の中には、ザインとシャインの初歩的な区別が分からない、酔っぱらい哲学者が名声を覇することが出来るほど、世のなかは迷妄の淵に沈んでしまっているのだ。  

 あなたは大丈夫ですか?酔っ払っていませんか?あなたは食える餅も、絵に描いた餅も、両方とも自然の中に見つけられるし、自然宗教の神々も、その現象も、両方とも自然界の中に見つけられるが、超自然の神だけは自然界には見出されず、超自然の領域にのみ実在し、自然の中に見出される神に関する事象はすべて超自然の神を廻る現象、観念、虚像にすぎないことを十分に納得し、はっきりとご理解いただけただろうか。

 このブログの筆者が言い立てることは、何かひっかかる。俄かには承服できない。と、この期に及んでなおもブツブツつぶやく吾人の脳みそは、ホイヴェルス師の短編の中の雀の脳みそよりも小さいと言われても文句は言えない。スズメの脳みそは小さいですよ。5mmにも遥かに届かないのではないか?

 

 真に「Sein = 存在」 の名に値するものは「私はある、あるという者である」と名乗る超自然の神以外にはない。その神「私はある」についての思弁も考察も含めて、他の自然宗教の神々も、全ては自然の中の現象「Schein=虚像」と呼ばれるにふさわしい。「わたしはある」の神は一切の自然界、現象の世界を凌駕した「超自然」の中に生きていて、自然の一部には還元され得ないのだ。

 このことは、次の「(10)田川批判」にとって決定的な鍵になるので、是非しっかり頭に刻んでおいていただきたい。

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★ 私の「インドの旅」総集編(7)遠藤批判

2021-12-11 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編 (7)遠藤批判

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     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

       b) キリスト教の凋落

       c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

               (10)超自然宗教の復権

 

 

若き日の遠藤周作

 

(7)遠藤批判 

 去る11月6日と11日に

NHK心の時代 ~宗教・人生~

遠藤周作没後25年

遺作「深い河」をたどる(前編・後編)

という番組を私は見た。

 遠藤周作というカトリック作家の没25周年記念にNHKが作成した番組である。

 NHKは、放送法(昭和25年法律第132号)に基づいて設置された総務省所管の放送事業者で、実質的には日本の政権与党に忖度する国営放送局ということが出来るだろう。

 今回の特集番組は、周到な構成と金のかかった映像の素晴らしいもので、さすがはNHKならではの出来映えであった。

 若松英輔(批評家、随筆家)と山根道公(日本の近代文学研究者)の対談を軸に展開する番組は、対談場所として遠藤ゆかりの—そして、私にとっては学生時代の懐かしい日々の祈りの場であった—上智大学の古い木造洋館二階の和風チャペル「クルトゥールハイム」を使っている。

               

若松英輔        山根道公

 もし、この番組に問題があるとすれば、それは、対談者の話が遠藤周作流のキリスト教理解、つまり、キリスト教の日本固有の精神文化・風土への土着化という特異な「イデオロギー」の全面的肯定と、キリスト教の本来の教えを知らない日本の一般市民に、「キリスト教とは遠藤が小説の中で展開したような世界なのだ」、という偏見を植え付けてしまう危険性だと言えよう。

 天下の公器であるNHKがそういうキリスト教の正統信仰から遠く離れた解釈を敢えて取り上げるということは、結果的にキリスト教に対する誤った理解をNHKの暖簾の力で広く世に浸透させる効果を生むことになるのではないかと私は危惧する。

 だから、誰かが「それは違うよ!」という批判的意見を述べて、カトリックの正統信仰は別のところにある、ということを世に知らしめなければならないと思った。

 遠藤が時流に乗って「カトリック作家として世の脚光を浴びたのは事実だが、彼が信仰の真面目さと伝統の重さに配慮することなく、自分の心の赴くままになんでも自由に書き放ったことや、カトリックの伝統神学の立場からも、まじめな聖書学や歴史研究の立場からもとても容認され得ないようなことを乱暴に書き連ねたことについては、厳しく批判され糺されなければならないだろう。

 私はすでに、2021年7月17日の「田川建三の遠藤周作批判」というブログを書いている。ここでは、その記述を反芻し、要約しながら、あらためて問題点を明らかにしたいと思う。

  

田川建三

 私より4才年上の田川建三は、東京大学宗教史学科から、同大学院博士課程3年目にストラスブール大学に留学し、そこで宗教学博士号を取得した碩学である。田川の遠藤批判は、私の厳しい遠藤評価に、論理的かつ聖書学的な裏付けを与えてくれて実に胸がすく思いがする。

 田川は先ず、遠藤のイエス像を、「ずぶの素人がいわば出版資本の要請に応えて書き流したものに過ぎない」と切って捨てる。

 そして、「それにしては既にあまりにも多く売れて人々に読まれ、数多くの日本人がイエスという人物について思い描くイメージを大きく規定してきてしまったし、そこに含まれた実に数多い欠陥は、それぞれ、イエス伝を描くという行為にまつわる諸問題を典型的に示しているので、取り上げて論じる意味は十分にあろうかとおもわれる。」と付け加えている。

私がNHKの先の「心の時代~宗教・人生~遠藤周作没後25年」の特別番組を見て危惧するところは、まさに田川が言うように、「既にあまりにも多く売れて人々に読まれ、数多くの日本人がイエスという人物について思い描くイメージを大きく規定してきてしまっている」点に関わっている。

 つまり、NHKが遠藤周作の描くキリスト教観を肯定し、礼賛する2名を対談者として選ぶことによって、遠藤の実に欠陥の多いイメージをNHKの権威を持って肯定し、さらに広く喧伝する結果を招いているということだ。

 日本のカトリックの教会は、ここに重大な問題が潜んでいることを指摘し、正統なキリスト教の教えを擁護し主張しなければならない立場にありながら、現実には、教会の指導部自体が既に遠藤流のキリスト教観に深刻に汚染されていて、NHKの果している役割の危険性を指摘し正統信仰を擁護する機能がすっかり麻痺しているのではないかと危惧される。

 田川は聖書学者の緻密な分析に基づいて、私の力ではとてもなし得ないほど深く、適格に、遠藤の作品の問題点を指摘しているので、田川による遠藤批判をもう少し辿ってみよう。

 田川は「作家が良く知らないことに関して知ったような顔をして口を出し、しかも、作家の書くことが不当に多く評価されすぎる今の日本においては、作家の書きなぐる無責任な著述が人々の『知識』の内容を形作ってしまう、という世相に対して、一つの警鐘をならしておく必要があろうかと思われ。」(P.171)(注)と指摘する。

 さらに、「実際『イエスの生涯』は駄作である。『キリストの誕生』には例の遠藤周作特有の甘ったるい『弱者の論理』があちらこちらの頁に散りばめられている。(P.172)」と続く。そして、

 (人は)イエス像を描くときには、自分の期待する理想的な人間像を思い入れたり、無自覚のうちに自分の未熟な思いをそのまま投影してしまう。それは、自分の現在のあり様を何らかの意味で肯定してくれる権威で、直接的にお前はそのままでいいのだぞ、と肯定してくれる場合もあるし、お前のような奴はダメだが、ダメなままで我慢して救ってやろう、という形で、「だめ」な自分は「だめ」なままでいいのだ、と居直ることになるので、ずぶずぶの自己肯定に終わることは間違いがない。(内容のない自己卑下は、一般に日本人がやたらと好む奇妙な道徳である)しかも、「自分はだめだ」と言い立てることによって、その「だめな自分」を肯定することができるのだから、二重の自己満悦に耽ることができる。遠藤の「弱者の論理」は、世のなかにはそういう自己満足に耽りたがる人間が大勢いるから、その分だけよく売れることになる。(P.274)

「イエスの生涯」は歴史記述の力量がまるでないのに歴史記述に手を出したから、イデオロギーのみがむき出しに露出してしまった。しかし、遠藤はイデオロギーで勝負できるような著者ではない。遠藤周作はただ彼のセンチメンタルな「負け犬」の信条に原始キリスト教の歴史を引き付けて「解釈」することができればそれでよかった。「犬のように」、「弱さ」「惨めさ」「ふかい自己嫌悪」、「生涯は無意味」、「恥ずかしさに震えんばかり」――遠藤ブシの得意の語り口である。 「キリストの生涯」P. 27) 

 「普通、人は自己嫌悪していることにはふれたがらない。ところが、遠藤の書くものを読んでいると、『弱さ』『惨めさ』『空しさ』の『自己嫌悪』がやたらと大量にどの頁にも出てくる。こんなに嬉しそうに自慢げに語られる自己嫌悪が自己嫌悪であるはずがない。弟子たちは『イエスの受難の意味、その惨めな死の謎を解き明かそうと、もがき苦しんだ』あげく、イエスの死の意味付けに到達した」と言うのが遠藤の結論であるが、これも田川には「絵空事に思える」 しかし、遠藤ブシが歴史記述に支えられない間違いだらけであることを知らずにこの本を通俗本として読めば、(人は)遠藤ブシまでも歴史記述の一環なのではないかと思い違いしてしまう。」(P.198)

 遠藤は自分の遠藤ブシを学問的スタイルと歴史記述の体裁で展開し、「お前の『弱さ』はそのままでいいのだと現実における居直りをすすめてくれる宗教的愛の場を説く。そこには現代日本人の生活の、ゆがんではいるが執拗な、現実に居直りたい日本人の心に共鳴する心地よい響きがある。それは、ゆがんだ社会の現実に何の変更も加えさすまいとする現実の力にとって、大いに役立つ。」(P.201)

 「遠藤は、いかにも歴史的知識があるかの如くに学問的スタイルで、断言的に正反対の間違いを言い張って、知られている事実を捻じ曲げてまで作り話をする。それを、歴史記述のスタイル、しかも断定的な文体で書いている。知らないくせに、よく調べて知っているかの如き文体で書くのは正しくない。」(P.202)

 「遠藤は福音書の文章を自分の気に入ったものだけは無批判にそのまま歴史の事実とみなして引用する。しかし遠藤は、福音書の引用であると言いながら、全然正反対の意味に内容を変えたりする。これは、他人の文章に言及する著者の最小限のモラルに違反している。著作権によって保護されている現代の同業者であろうと、福音書の著者であろうと、同じことなのだ。」(P.206-7)

 「何故遠藤がおよそ初歩的な文章の読み違いをやらかしたかというと、そもそも文章に書いてあることを読もうとしなかったからである。この著作の全体がほとんど読まずに読んだふりをしている思い入れ、に満ちているのだ。(P.207) 

 田川は続いてもう一つだけ、いかに遠藤が福音書の記述を平気で作り変えるか、という実例を挙げる。それはこう始まる。「『エマオの旅人』という話がある。レンブラントが絵にしたので、キリスト教徒でない日本の読者にもよく知られていよう。」(中略)「遠藤はこれをそのまま歴史的事実とみなす。ところが遠藤は素朴に史実として信じているかの如きスタイルで書きながら、肝心なところで、ルカ福音書のテクストとはおよそ異なる我田引水をやらかしている。」(P.210)「この話のどこにも、二人の弟子が『イエスを裏切り、自責の念と絶望とに苦しんでいた』(『生涯』P.39)などと言うことは書いていない。」(P.210)

 長い記述を要約すると、福音書によれば、「義人イエスをユダヤ教当局(とローマの官憲)が死刑に処した」のに、遠藤の描く弟子たちにとっては、イエスの十字架とは、「自分たちがイエスを裏切った『卑劣な』事件、ひたすら自責の念に駆れるばかりの事件」であり、「イエスの直弟子がイエスを殺したかのごとくである。」それはまさに、「事柄の責任者を追及することなく、一億総ざんげ的に自責の念に駆られる、まさに日本体制多数派の心情である。だからイエスの復活とは、お前たちは『卑劣』であっても赦してやるよ、というおなじみの遠藤ブシの宣言に収斂されてしまう。」それは「自分たちの卑劣な裏切りに(イエスが)怒りや恨みを持たず、逆に愛をもってそれに応える」(P.248)ことなのだそうだ。一億総懺悔は、責任の所在をあいまいにし、そして、懺悔したものがみな赦されて、元のもくあみに終わる。遠藤の「弱者の論理」は一見、弱い人間のための思想のようでありながら、実は日本ファシズムの体質を戦後にもそのまま保存した日本国民の思想体質が、そのままイエス記述に名を借りて表現されているのである。(P.211)

 ルカの福音書のキリストは「苦難を受けたのち、栄光にはいる」が、それは決して遠藤の言う如く、イエスが永遠の「同伴者」としていつでも自分達の「卑劣さ」を「いいよ、いいよ」と言って赦してくれる、などというけち臭いことではない。近代日本人文学者好みの、ただじめじめと、「自分の卑劣さに対する自責の念」などにとじこもるのとわけが違う(本当は自責の念ではなく、それでいいのだよと自ら赦す居直りの念なのだが)。(P.212)

 しかし、「全体としてマルコの描くイエスは、生き生きと自信に満ちて活動する一人の人間の姿であり、じめじめと『無力』に居直って、無力こそ本物の『愛』だ、などとうそぶく退廃した人間の姿ではない」。(P.220)

 田川はこれだけ正反対の像を提供しつつ、しかもそれを福音書を資料とした歴史記述であるかの如きスタイルで書くのは詐欺である。と言い切っている。(P.220)

 残る問題は、どうして遠藤のこういう『愛の無力さ』のイデオロギーが現代日本では俗受けするか、ということである。こういう退廃した思想がはやるのは、現代日本の大衆社会の病的状態の一つの兆候であろう。

 どこが間違っているかというと、我々の毎日の生活も、一つ間違えば病気や飢えの危機に転落しかねないこと(コロナ騒ぎを観よ!)、また、我々の毎日の平穏な生活が、地球の半分の人々に常に病気と飢えの中に生きることを強いる抑圧の構造に支えられているという現実を捉えることができなくなっているということだ。食って寝る生活はけち臭い目先の『現実』として抽象化され、それとは別に『精神的』な側面が意味ありげに尊重される。そこに現代の日本人の精神生活の歪んだ病的な状態がある。そして、この状態は広く蔓延しているので、誰も自分は歪んで病的だとは思わない。こういう病的な精神状態にうまく乗って俗受けしたのが遠藤周作の『弱者の論理』なのだ。(P.224)

 要約すると、[遠藤の書いていることは福音書の記述そのものとも、またその背景にある歴史的事実ともおよそ合致しない、しばしば正反対の無茶苦茶] (P.224)だということになる。

 田川は遠藤の「イエスの生涯」と、「キリストの誕生」を中心に遠藤批判を展開している。田川が「宗教とは何か」で上の遠藤周作批判を書いたときには、遠藤の最期の長編小説とされる「深い河」はまだ出版されていなかった。

 田川がもし「深い河」を読んだ上で遠藤批判を書いていたら、それはもっと辛辣なものになっていたであろう。私はそれを読んだし、その映画も見たが、それは、遠藤が半ば燃え尽きて小説家としての力量も二流、三流作家のレベルに落ちてしまったか、と目を疑う駄作になっている。遠藤の中に未消化のまま残っていた幾つかの素材の脈絡のない陳列と、カトリック作家の知名度にものを言わせて、キリスト教の中に何とか「輪廻転生」の概念をどさくさに紛れて強引に持ち込もうとした意味不明の駄作であると言って切って捨てれば足りるだろう。自然宗教の「輪廻」と、キリスト教の「復活」という超自然宗教に固有な概念とは、遠藤が釈迦力に頑張ってもどうにもならない対立概念なのだ。

 遠藤は少年時代にたまたまカトリックの洗礼を受けたことを売りにして、文壇に「カトリック流行作家」として躍り出たが、死ぬまでイエスが誰であったか、イエスの死と復活の本当の意味が何であったかを深く理解することなく逝ったことを明白に告白した確かな証拠として「深い河」を残して死んで行ったといえば、実態を正確にとらえたことになるだろう。

 これで、長かった私の「インドの旅」シリーズも、ようやく終わりを迎えられる目途が立ったのではないかと思う。

今年も「万物の贖い主」イエス・キリストの 降誕祭 が近づいた。

 しかし、銀座のクラブのママは、クリスマスは赤頭巾に白髭のサンタクロースを祝う稼ぎ時のお祭りだと信じているように、遠藤の描くキリスト教は女々しい転びや棄教を礼賛する典型的自然宗教の一つとして日本人に刷り込まれた思想であり、「沈黙」がスコセージ監督のハリウッド版になって世界中を駆け巡ると、ローマの進歩派の神父たちやカトリックインテリたちに、斬新なキリスト教解釈としてもてはやされる危険な効果を遺憾なく発揮している。世俗主義はキリスト教の多くの祝日を商業主義のチャンスに転嫁していくが、さすがにキリスト教最大の祭りである 復活祭 にだけは手が付けられないでいるらしい。それは、キリストの「死者の中からの復活」の教えだけは、何とこじつけようとも、自然宗教化を寄せ付けない「超自然宗教」の本質部分が硬く露出した史実だからに違いない。

(注)(P.○○)は田川建三著「宗教とは何か」の引用ページを指す。

   文中の文字の色分けは、筆者(私)のランダムなアクセント付けです。

(つづく)

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★ 私の「インドの旅」総集編(6)ー c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

2021-11-05 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編(6)神々の凋落

C) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

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     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

       b) キリスト教の凋落

       c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

               (10)超自然宗教の復権

 

c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

 

 すでに触れた通り、現代社会では、自然宗教は、4世紀以後のキリスト教も含めて、文明と自然科学の進歩につれて神秘のヴェールがはぎ取られ、凋落の一途をたどり、消滅に向かっているように思われるかもしれないが、どっこい、そうではなかった。

 自然宗教は、自然の偉大な力に対するナイーブな畏怖の念から発生したかもしれないが、時間と共に供え物やお賽銭を引き寄せ、富が集中し、寺院や神殿は荘厳になり、いつの間にか巨大な集金マシーンの様相を呈するようになっていく。世界中あらゆる宗教が、お金、富、に引き寄せられていくのは何故だろう。その謎を解き明かすカギは、禍を遠ざけ恵みを引き出そうという人間の欲望の中に初めから潜んでいた。そして、その行きつくところは「お金の神様」、別の名を「マンモン」という神様の崇拝だった。

 

マンモンと奴隷 サシャ・シュナイダー画

 マンモン(Mammon)の語源は、人類の発祥の地、北アフリカを中心とするアフロ・アジア語族という太古の言語グループに遡るが、人類の歴史と共に古い言葉と言ってもいいだろう。

 マンモンは一般的には「富」を意味するが、マンモンの神として擬人化され、悪魔の姿で描かれることもある。ミルトンの「失楽園」では、人間に対して嫉妬を燃やした堕天使ルシファー(悪魔の頭)の謀略によりアダムとエバは楽園から追われたことになっているが、それはさておき、人間という者は天地万物の創造主である自然宗教のから存在を与えられたのに、誕生の瞬間から、まことの神を離れ、マンモンの神に引き寄せられる運命にあったのかもしれない。 

 

失楽園 ジェームス・ティン画

 もとはと言えば、自然宗教は自然に潜むと考えた神を制御しようとする試みだったが、皮肉なことに、科学技術の進歩とともに宗教のヴェールを脱ぎ捨てて姿を現したのは、人間の欲望の化身、お金の神様、マンモンだった。そして、人間はその神を支配するどころか、逆に組み伏せられ、挙げてお金の神様の奴隷になってしまっている。わたしも、あなたも。

 私はしばらくの間四国の幾つかの教会で主任司祭をしていたが、四国と言えばお遍路さんの巡礼が今も盛んで、それを迎える八十八か所のお寺さんはそれなりに栄えている。わたしは近くの名刹を廻るのが好きだったが、ついでにお賽銭箱の数を数える変った趣味があった。それは、あらゆるお堂、あらゆる仏像の前にあって相当な数にのぼる。さらに、必ず巡礼グッズやお札(ふだ)を売り、ご祈祷や寄進を受け付ける窓口がある。それを見て私は、ここにもマンモンの神が顔をのぞかせているな、と納得する。

 

 

 また、外資系銀行に勤め海外にいた時間に神学生や学生神父として住んだ時間とローマに疎開した高松の神学校に関わった時間を加えると、優に四半世紀に達するが、わたしはその期間を利用してヨーロッパ中の教会を見て廻った。各聖堂の入り口には必ず献金箱があり、あらゆる聖人の像の前にも賽銭箱があって、その数を数えながら、キリスト教の「自然宗教度」を計るという悪趣味を持っていた。どの教会にも当然のようにロザリオや信心グッズを売る店があって、たいていシスターが店番をしていたものだ。

 ことほど左様に、自然宗教の「お金の神様」は、人類を奴隷にする恐るべき神で、私には、はっきりとした意思と野望を抱いた生ける化け物のように思えてならない。

 ナザレのイエスが説いたキリスト教の神は、三位一体の神と言うことになっていて、同じ一神教のユダヤ教や回教の単純な神と区別されるが、その実態は「理性と自由意思を備えた究極の愛」とか「父と子と聖霊の唯一の神」とか言い替えられても、神学校の教授も、たいていの神父や牧師さんたちもほとんど正しく理解していないのだから、ここでは深入りは禁物だが、わたしにはもちろん一家言ある。ただ、それを今ここで展開し始めたらこのブログは終わらないから他の機会に譲るしかない。

 それに比べると、地上の三位一体は実にわかりやすい。

 私はしばらく外資系の銀行にいた。ニューヨークのウオール街のリーマンブラザーズにもいたことがある。日本では証券会社と思われがちだが、その実体はれっきとした銀行で、しかも、庶民の小口の預貯金に付き合う小売り銀行ではなく、政府機関や大企業、大富豪に特化した強力な卸し売り銀行だった。

 わたしが入社した当時は、ちょうど老舗銀行のクーンローブと新興証券会社リーマンブラザーズが合併した直後で、社名もクーンローブ・リーマンブラザーズという長ったらしいものだった。

 金融業のクーンローブ商会と日本の縁は昔から深かった。当時、日本政府は日露戦争の戦費調達のために海外で戦時国債を発行したが、アジアの弱小新興国が大ロシア帝国軍と戦っても勝ち目はないと踏んだ海外の投資家は、それを買おうとしなかった。後に宰相となる高橋是清は世界中を駆け巡って販売に腐心したが、どこでも思わしくなかった。その時、クーンローブ商会の社主のジェイコブ・シフが是清の前に現れ、日本の国債をブロックで買った。すると、商機に敏いシフが買ったのなら何かあると思った投資家たちが続々と後追いをして、無事国債は売れ、日本は戦費が繋がってロシアに勝つことが出来た。軍艦一杯、砲弾一発も全て外貨で買わなければならない時代だったのだ。

 私は日本の政府機関やトリプルAの大企業に外債発行を薦める営業をかける時、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の中で高橋是清の奮闘を綴った一冊の文庫本を必ずアタッシュケースの中に忍ばせていた。そして、ここぞという所でそれをテーブルの上に出し、「貴社は弊社クーンローブ・リーマンに足を向けて寝ることはできませんぜ!」と一発喰らわせることを忘れなかった。実に安上がりの手土産だった。

高橋是清

 そのリーマンで仕事を始めた頃は、上司も同僚も皆エリートのアメリカ人だとばかり思っていたが、ハッと気がついたら、その実、彼らの殆どがユダヤ人で、おまけにフリーメーソンだったりもした。

 わたしが「ピート!」と面と向かって呼び捨てにしていた会長のピーター・G・ピーターソンは、ニクソン政権の商務長官だった。シニアーパートナーのドクター・シュㇾ—シンジャーは国防総省の高官だった。また、日本担当の若いパートナー(ちょっと名前を思い出せない)はアジア太平洋担当の元大統領補佐官だった。

ピーター・G・ピーターソン 後にソニーの社外重役にもなった

 私が言いたいのは、キリスト教の三位一体の神は神秘のヴェールに包まれて名状し難いが、この地上での「ホワイトハウス」「ペンタゴン」「ウオールストリート」の三位一体は、マンモンの神が目に見える形で世界を支配している姿だということだ。

 マンモンの奴隷である優秀な人材は、この三位一体の三極の間を血液のように絶えず循環しながら、地上の最貧国の血の最期の一滴まで吸い上げて、少数の億万長者がさらに肥え太るために日夜働き続けている。ここに宗教のヴェールをかなぐり捨てた自然宗教の神の本性が露出している。

 モーゼがシナイ山の上でヤーヴェの神から十戒を授かっている間に、麓に残されたイスラエルの民は、黄金の雄牛の像を鋳造してそれを拝んでいた。人間とはかくも弱いもなのだ。

 ナザレのイエスの説いた天地万物の「創造主」であり「愛」である「自然宗教の神と、この世の「自然宗教」のマンモンの神との際立った対比がここにある。

 人は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)というイエスの言葉の前に、わたしたちはどう振る舞うべきか、明らかではないだろうか。

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★ 私の「インドの旅」総集編 (6)ー(b)キリスト教の凋落

2021-10-24 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編(6)神々の凋落

(b) キリスト教の凋落

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     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

        b) キリスト教の凋落

        c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

             (10)超自然宗教の復権

 

(b)キリスト教の凋落

 312年のローマ皇帝コンスタンチン体制以来、自然宗教化したキリスト教は、当然のことながら一般の自然宗教と同じ理由で凋落の道を辿ることになる。しかし、キリスト教には最初からそれとは別の凋落の要因が内包されていた。

 

世界の教会の母ラテラノ教会の入り口脇を固めるコンスタンチン大帝の騎馬像

 

 「皇帝」と「キリストの花嫁」の結婚、つまり、皇帝と教会の結合は、当初ローマ帝国の版図拡大と教会の宣教努力とが相まって、キリスト教の教勢拡大に大いに貢献した。しかし、中世をとおして一貫して機能していた政教一致体制のウイン・ウインの関係も、その後の歴史の展開においては最初から内包されていた矛盾が次第に露呈していく運命にあった。

 表現は少しえげつないが、実体を的確に言い表すにはぴったりなので、ご辛抱願いたい。

 皇帝にとって生かすも殺すも意のままの女奴隷ぐらいに軽く見ていた帝国の底辺の貧しい民衆が、ある日、「生き神様」の自分を見限って白いドレスをまとってキリストの花嫁として超自然宗教に走った。その後ろ姿は若々しく美しさと生命力に輝いて魅力的に見えた。皇帝はライバルの色男キリストに嫉妬し、自分を捨てた女を殺そうとしてキリスト教を迫害したが出来なかった。そこで、彼女を取り戻すために手練手管を尽くして篭絡にかかった。女はその甘い誘惑に負けて皇帝とよりを戻し、側女の地位に収まった。その時、教会は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21、マルコ12:17、ルカ20:25)と言って、地上の覇者と馴れ合うことを厳しく禁じたイエスの戒めを破って、神の命令に背いた。

 ドイツの銀行に勤めてデュセルドルフに住んでいた頃、私は車でよくアーヘンの大聖堂を訪れたが、それは不思議な魅力の漂う教会だった。紀元800年にカール大帝は教皇レオ3世によってローマで神聖ローマ皇帝として戴冠されたが、カール大帝によって建造された北ヨーロッパ最古の大聖堂は、その後16世紀まで歴代30人の神聖ローマ皇帝の戴冠式が教皇によってとり行われた場所でもあった。

 

   

アーヘンの大聖堂とカール大帝の胸像

 しかし、そのような皇帝と教皇の蜜月関係はいつまでも続くものではなかった。宮沢賢治の「どんぐりと山猫」の話ではないが、森の中では金色に輝いていたどんぐりが、家に持ち帰ってみたらただの茶色のどんぐりだったように、帝国の底辺の貧しい人たちが超自然宗教に走った姿は若く美しく輝いて見えたが、自分の手に取り戻して自然宗教の光のもとでながめたら、ただの醜女(しこめ)に過ぎなかった。しかも、ローマ皇帝と教会との蜜月関係の下では、この醜女はローマ皇帝の庇護に乗じて、だんだん太って厚かましくなり、皇帝にとって油断ならぬ存在になっていった。皇帝は教会の聖職者人事に手を出すし、教皇はそれを嫌って神の権威を笠に破門も辞さぬ勢いで皇帝を組み伏せようとするなど、皇帝と教皇の間に痴話喧嘩が絶えず、ついには皇帝が教皇を軍隊で脅かすというような由々しい事態にまで発展した。11世紀、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世の間の「カノッサの屈辱」事件などは、その典型的なエピソードだった。 

 農奴の生産性の上に築かれた封建主義的中世はやがて過ぎ去り、都市の商業活動から生まれる富が社会の世俗化と宗教離れを加速させていく中で、皇帝は教会の後ろ盾や神のご加護などに頼る必要性を感じなくなり、教会と組むメリットは失われつつあった。自然宗教一般の衰退と相俟って、教会は年をとって醜く太っ妾(めかけ)のように疎(うと)ましい存在になっていった、と言えばわかりやすいだろうか。

 しかし、教会は皇帝の寵愛と庇護のもとに好き放題が出来た過去の栄光を忘れられず、キリストの教えに背いていつまでも皇帝の愛人であり続けられるかのような幻想に酔い続けていた。

 自然宗教化した教会は、中世封建社会が終焉を迎えつつあったのに、なお過去の栄光がいつまでも続くような錯覚に溺れて、皇帝の服の裾に縋(すが)りつき、世俗的な権勢を誇示するために富を集めて壮麗な聖堂・伽藍の建設に力を入れた。その最たるものが今日のバチカン市国の聖ペトロ大聖堂だった。当然その建設には膨大な資金が必要だった。それをまかなったのが、神聖ローマ帝国の版図(主としてアルプスの北のドイツ)の教会における「免罪符」の販売だった。「免罪符」は日本語の当て字で、実体は「罪の償いの減免の証書」だったが、これは中世の教会では広く一般に普及していた資金調達の悪習だった。

 

宗教改革の引き金になったバチカンの聖ペトロ大聖堂

 

 信仰心の篤い若い神父さんが、使命感に燃えて「飲んだくれで女たらしだったお前の父(トッ)ちゃんは、いま煉獄の火に焼かれてヒーヒー言っているぞ。孝行息子がこの免償譜を買ってやったら、お前の父(トッ)ちゃんの魂はヒューッと天国に昇っていく。さあ、みんな買った、買った!」と説教しながら、手に持った賽銭箱の中身をガラガラ鳴らすと、孝行息子は涙を流してお札(ふだ)を買う。こんな光景がドイツの農村各地で盛んに見られた。こうして集められた金は馬車に積まれてアルプスを越えローマに運ばれ、延べ何百万人の職人に支払われ、今日見る壮麗なサン・ピエトロ大寺院はめでたく落成した。自然宗教の真骨頂だが、これがイエスの十字架と死と復活に何のかかわりがあるのだろうか。

 このスキャンダルはマルチン・ルッターらによる宗教改革の引き金になった。ルッターの指摘の多くは正しかったし、ルッターは教会の内部改革を願ったが決して教会の分裂を企図するものではなかった。それなのに、当時の教会の指導者はまだ中世の夢醒めやらず、改革者を手荒く破門した。ここに、今見るプロテスタント教会(新教)が誕生することとなった。

 キリスト教的ヨーロッパ社会は二つに分裂し、不幸な30年戦争に突入した。これはキリスト教徒同士の血で血を洗う戦いではあったが、同時にそれは封建主義社会と誕生間もない近代的市民社会の保守・革新の代理戦争でもあった。

 プロテスタントが去った後のキリスト教会は、以後カトリック教会と呼ばれるようになるのだが、その統一のシンボルはもちろんローマ教皇であった。教皇はトリエントの公会議(1545-1563)を開き、体制の引き締めを図った。いわゆる反宗教改革と呼ばれるものである。

 時あたかも、世界は大航海時代を迎え、ポルトガルやスペイン国王は、盛んに新大陸の発見とその植民地化を競い合っていた。カトリック教会はヨーロッパの半分をプロテスタント教会に奪われた失地回復を新大陸に求めたが、教会には自力で宣教師を世界に送り出す資力がなかったので、国王の出資で建造された船に便乗して中南米、アジア、アフリカの各地に宣教師を派遣した。王様も貿易船に宣教師を乗せ、新天地にキリスト教を広めることは、植民地原住民の統治に大いに役立った。ここでも、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」というキリストの教えに背く聖・俗の癒着と、同床異夢の「ウィン、ウインゲーム」が展開されることになった。

 遠藤周作の「沈黙」はこの時代に日本に上陸したイエズス会神父の宣教と、その後の迫害と殉教、棄教の物語だが、今は横道に逸れている場合ではない。ただ、フランシスコ・ザビエルが宣教を開始してから秀吉のバテレン追放令とその後の完全鎖国までの僅か半世紀の間に50万人とも70万人とも言われる数のカトリック信者が日本に誕生したが、1854年に鎖国が解かれ宣教が再開してから150年以上たっても、信者の数はついに50万人に達することのないまま、今は目に見えて減少に向かっている。

 その間、世界史は大きな展開を遂げ、第2次世界大戦後は一気に世俗化とグローバリゼーションが進んで、地球規模で価値観が均質化して行った。そして、皇帝と教皇の蜜月関係は遠い過去の想い出となり、近代国家と教会との関係も希薄になって行ったが、教会だけは過去の栄光の夢に浸って時代から取り残されていることに気付かないでいた。

 自然宗教はキリスト教も含めて凋落した。いま我々が見ているのは、長い伝統の上に築かれた莫大な遺産を取り崩しながら、年々惰性で祭りと儀式を踏襲している姿に過ぎない。

 極めつけが現在進行形の新型コロナウイルスだ。緊急事態宣言が発出されるたびに教会は閉鎖され、日曜の礼拝、ミサはリモート(ズーム配信など)になったり、信者をグループ分けして、毎週入れ替わりで少数ずつミサに招いたりが続いている。日曜日に教会に行けなかったり、行かないことが求められたりで、習慣的に来ていた信者の流れがブロックされた結果、宣言が解除されてももう元の流れにもどらなかった。コロナ騒動を期に、高齢者信者と若者の教会離れが一気に加速している。この状態があと数年つづけば、コロナが去った後に何が残るだろう。教会の凋落が最もわかりやすい形で加速度的に進行している。

 

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★ 私の「インドの旅」総集編(6)a) 自然宗教の凋落

2021-10-17 15:06:31 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編(6)

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 自然宗教の凋落

今回のテーマはごく手短に終わりたい。

     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

        b) キリスト教の凋落

        c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

                    (10)超自然宗教の復

     

(6)神々の凋落       

a)自然宗教の凋落

奈良東大寺のお水取り(修二会)風景

 事柄をごく単純化して言えば、自然宗教の神々、八百万の神々、は原初の素朴な人間が、普段は豊かな恵みをもたらすが、いったん荒ぶると大きな災厄を引き起こす大自然の脅威を前にして、その圧倒的で制御不能な自然の力に畏怖の念を抱いてその背後に神を思い描き、その人間が投影した神と何とか折り合いをつけ、願わくばより多くの恵みをひきだし、禍は極力遠ざけたいという願望が生み出したものだった。言い換えれば、自然に対する人間の無知と、自然を人間の欲望に合わせて制御し支配したいという下心から生まれたものでもあったと言うことができるだろう。

 そこから社寺・神殿が建立され、神の像が刻まれ、神官や祭司という専門職が生まれ、加持・祈禱・歌舞・奏楽などが発展した。そして、制御したい自然の脅威のタイプと手に入れたい恵みの種類に対応して、神々の数は限りなく増えていった。八百万の神とはよく言ったものだ。その神々の系譜は人間の歴史と共に古く、太古からその萌芽はあっただろう。

 しかし、この4-500年の間のに、今日的な意味における「自然科学」が生まれ、今もなお加速度的に進歩しつつある中で、自然界のメカニズムの科学的解明も飛躍的に進んだ。

 今回ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎氏の地球温暖化の研究は良い例だが、温暖化に伴う様々な脅威が神々の仕業ではなく、科学的に説明のつく自然現象であり、その対処法も神々への祈祷やお供えによってではなく、人間の科学技術で制御・対応できるものであることを証明した。

 その結果、迷信は駆逐され、自然宗教も存在理由の多くを失っていった。こうして、自然宗教の凋落は既に始まり、今も急速に進んでいる。今残っているのは、長い歴史のあいだに蓄積された莫大な遺産の慣性力によって支えられた儀式や祭りの行事として続いている面が大きい。

 その典型的な一例が、コロナ禍退散の儀式として注目を集めた東大寺二月堂の修二会であることは、このインドの旅の総集編(3)「自然宗教発生のメカニズム」(8月24日)に詳しく書いたので、思い出していただきたい。

 b)の「キリスト教の凋落」は、気合を入れて書き始めたが、内容が多岐にわたるので、ひとまずここで区切ることにした。

 (つづく)

 

 

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★ 私の「インドの旅」総集編(5) 「超自然宗教」の「自然宗教」化

2021-10-07 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編(5)

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遅くなりました。今回は「「超自然宗教」の「自然宗教」化」です。

     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

        a)自然宗教の凋落

        b) キリスト教の凋落

        c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

      (10)超自然宗教の復権

 

(5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

 

ローマのサンジョバンニ・ラテラノ教会 コンスタンチン大帝によってキリスト教が帝国の国教と認められ、大帝の手で帝妃ファウスタの邸宅の跡地に建てられ、寄進された「世界の教会の母教会。324年に献堂式。14世紀に火災に遭い、16世紀にかつての威容を取り戻す修復が行われた。

 

超自然宗教の系譜

 アブラハムに始まり、モーゼを経て現代に伝わる「超自然宗教」の「自然宗教化」を語るためには、「わたしはある」と名乗る超越神(天地万物の創造神)と人間とのかかわりの長い歴史が、2000年前のナザレのイエスに収斂し、頂点に達し、その後はキリスト教を媒体として今日に至っていることを確認しておかなければならない。

 イスラエルの民の歴史の中で次第に醸成されていったメシア―救世主―の待望感が頂点に達した時に現れたイエスは、「わたしはある」の神を親しみを込めて自分の「天のおん父」と呼んだ。そして、その父の子としての自覚を持ったイエスは、父のみ心を解き明かし、み旨を行い、おん父の救いのみ業を自らの生き様をとおして成し遂げた。

 そのイエスは生前、自分の最期について弟子たちに「人の子—イエスは好んで自分のことをそうと呼んだ—は祭司長たちや律法学士たちに渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人(ローマの支配者)に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。」と話した。(マタイ20:18-19)

 「弟子たちはその言葉が分からなかっが、恐くてその言葉について尋ねられなかった。」(ルカ9:45)とある。弟子の頭のペトロはそんなイエスを「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と諫めさえした。(マタイ16:22)

 だが、あってはならない、と心の中で打ち消していた弟子たちの悲痛な思いにも拘らず、民衆の歓呼を浴びて待望のメシアに祭り上げられたイエスは、一転して予言通り捕えられ、ユダヤ人の指導者たちから偽メシアと断罪され、ローマ軍の手を借りて十字架の上で処刑され、金曜日の午後3時ごろ死んだ。

イエスの受難と死

 捕えられた夜、イエスは法廷で鞭打ちの刑を受けた。ローマ時代の鞭打ちは半端ではない。何本もの革紐の先には亜鈴状の鉛玉がついていて、兵士に力任せに打たれた人の肌を容赦なく破り、肉をえぐる。何度も打たれれば、それだけで失血とショックで死ぬこともある。イエスはその鞭打ちを全身に受けてすでに肉体的消耗の極限にあった。その上、自分が磔(はりつけ)になる十字架の重い横木を城外の処刑場の丘まで担いで登らされた。

 刑場では、地に置かれた横木の上で両腕を力いっぱい引っ張られ、太い鉄の釘は手の平ではなく、手首の複雑な骨の隙間に打ち込まれた。指先に向かう神経の束は傷つけられ激痛が走るが、太い動脈は無傷だから急な出血はない。次に刑場にあらかじめ立てられていた縦木の先の臍に、横木の真ん中に彫られた穴を嵌めると、Tの字型の十字架が出来上がる。続いて垂れ下がった両足を押し上げ、ひざが折れ曲がった状態で足の甲を重ね、三本目の釘で縦木に打ち付けて止めると出来上がりだ。(注―1:「T形の十字架が正しいことについて」)

 それからの出来事が凄まじい。両手両足を三本の鉄の釘で木に磔けられたイエスの全体重は、それらの傷だけで支えられ、その痛みは体全体と脳みそを極限までしびれさせる。左右に引っ張られた両腕に全体重がかかると、胸は締め付けられて呼吸が出来ず、見る見る窒息が始まる。すると動物的本能で足の傷に力を込めてひざを伸ばして体をずり上げることになる。一瞬だけ胸が緩んで肺に僅かな空気が入って窒息から救われる。しかし、両足の傷に全体重をかけると、その痛みは極限に達し、たまらず両膝の力が抜けて体はドスンと下に落ちる。そのショックが両手首の傷に伝わるとその痛みで脳みそが爆発しそうになる。そしてまた窒息が容赦なく忍び寄る。また一瞬の呼吸を求めて本能的に膝を伸ばして体をずり上げる。しかし、すぐまた膝が折れて手でぶらさがる・・・。呼吸を確保し生き延びるために、この運動は休むことなく繰り返される。なんという残酷な、しかし効果的な、拷問をイタリア人の先祖は発明したことか。ローマに刃向かうものは、十字架に架けるぞ!という脅しは、反逆者を震え上がらせ、帝国の治安を維持するうえで最高の抑止力となった。

 私は中学生の頃まで昆虫少年だったが、蝶やトンボの他に、幼虫の芋虫も捕えた。いたずらで青虫を虫ピンで刺して木に止めると、可哀そうな幼虫は傷口に緑色の液をにじませながら、ピンで固定された箇所を中心に、右に左に激しく体をねじる運動を力尽きるまで繰り返した。

 憐れなイエスはこの芋虫の運動を十字架の上で何時間も繰り返した。聖書には、「昼の12時に全地は暗くなり(日食でも始まったか?)それが三時ごろまで続いたとある。三時ごろイエスは大声で叫び、息を引き取られた。」(マタイ27章45節以下参照)

 ユダヤ人の暦(こよみ)感覚では、その日の日没から安息日が始まる。「安息日に遺体を十字架の上に残さないために、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男の足を折った。(芋虫運動を続けている受刑者は、足のすねの骨を折られると、体をずり上げる支えを失って呼吸が出来なくなるから、数分を待たずして確実に窒息死することが分かっていた。)だが、イエスのところに来てみると、すでに死んでおられたので、その足は折らなかった。その代り、兵士の一人が槍でイエスのわき腹にとどめを刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た。それを目撃したものが証ししており、その証は真実である。」と、イエスの年若い弟子のヨハネが書いている。(ヨハネ19章31節以下参照)

 槍の先は右わき腹から斜めに入って心臓に達しただろう。生きている人の血は赤いが、死者の血は血沈検査の時のように、時間と共に透明な液と赤沈とに分離する。激しい運動の後、死んだイエスの体内で血液の分離が既に進んでいたことは、ヨハネの証言からわかる。イエスは十字架の上で確かに死んだ。仮死状態のまま葬られたのではないか?という疑念を差しはさむ余地が全くないほど、確実に死んだ。

 

イエスの埋葬と復活

 日没とともに安息日が始まるというので、イエスは処刑場の側の新しい墓に急いで葬られた。

 二日目の土曜日は何事も起らなかったが、三日目の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行くと、激しい地震が起きた。見ると、石はわきに転がっており、中に入ってみると遺体はなかった。婦人たちは、恐れながらも弟子たちに知らせるために走って行った。(マタイ28章1節以下参照)

 一方、「婦人たちが行き着かないうちに、番兵たちは都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。」祭司長たちと長老たちは、イエスの遺骸が忽然と消えるとい全くあり得ない深刻な事態をすぐに察知した。この事実が明らかになれば、兵士は全員死刑。祭司や長老たちもタダでは済まなかった。怯えた彼らは、「兵士たちに多額の金をあたえて、言った。『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んでいった』と言いなさい。もしこのことがローマ総督の耳に入っても、うまく説得して、あなた達には心配をかけないようにしよう。兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。」(マタイ28章11節以下参照)

 岩に穿たれた横穴にイエスは葬られたが、墓の入り口は大きな円形の厚い石の板で封印され、ローマの兵士たちがその入り口を護っていた。警護の兵士たちは任務遂行に失敗したら、責任を取って自分の命で支払わなければならなかった。イエスの悲惨な最後を目のあたりにして怯え、逃げ隠れしている弟子たちが、屈強な兵士たちが命を張って護っている墓から遺体を奪い取るなど、思いもよらなかった。また、徹夜で墓の警護を命じられた複数の兵士が任務を放棄してそろって寝てしまうなどは、全く論外だった。

 スイスの銀行がアルプスの岩盤をくり貫いて、その奥深く1メートルに余る特殊鋼の扉を閉じて、最高のセキュリティーを施した金庫の中に納められた巨大な金塊が安全である以上に、ローマの兵士の命で護られたこの石の扉の墓に葬られたイエスの遺骸は安全なはずだった。

 それなのに、週の初めの日の未明に兵士たちはイエスの遺骸が置かれた場所にないことに気付いた。これは、原子爆弾でも吹き飛ばせないアルプスの山に穿たれた金庫から、入り口のセキュリティーが破られた形跡もないのに何十トンもの金塊の山が忽然と蒸発したよりもっと不可解な全くあり得ない話だった。イエスの亡き骸が煙のように消えたという「空の墓」の出来事こそ、イエスが復活したことの最も重要な印だった。

 他方、イエスに愛された罪の女マリアは、急いでもどる途中に見知らぬ墓守の男に出会って、その男にイエスの遺体が消えた話をした。するとその男は「マリア」と言った。その瞬間、マリアはその男が復活したイエスだと気付いて、喜びのあまり縋りつこうとしたが、押しとどめられた。(ヨハネ20:14以下参照) 

 また、二人の弟子はキリストの十字架上の悲惨な死の後、失望して故郷に旅立った。気がついたら、見知らぬ旅人が一緒に歩いていた。エマオという村で日が暮れたので、その旅人を強いて誘って一緒に宿に泊まり食事を共にした。そして、その旅人がパンを裂くしぐさを見て、それが復活したイエスだと悟った。しかし、その瞬間旅人の姿は消えていた。(ルカ24:13以下参照)

 最後の晩餐をとった同じ部屋に隠れていた弟子たちにイエスが現れた。しかし、弟子たちは皆それがイエスであることを疑った。釘で貫かれた手と足と、槍で貫かれたわき腹の傷を見せられても、なお疑ったのはなぜか。それは、その人物の容姿が三日前に見たイエスと全く別人のものに見えたからである。(ヨハネ20:19以下参照)

 まだある。失意に打ちのめされたペトロと数名の弟子たちは、イエスの死後、故郷のガリラヤに帰って元の漁師にもどっていた。ある日、夜通し漁をして何も獲れなかった。明け方岸辺に見知らぬ人がいて、「船の右側に網を打ちなさい」と言うのでその通りにしたら、網いっぱいに魚が獲れた。岸に上がって、その見知らぬ人と朝食を共にしたが、「弟子たちは誰も『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」(ヨハネ21:12)(アンダーラインは筆者)

 これらの奇妙な話に共通する点は何か。それは、「空の墓」が確認された後、復活したイエスは確かに弟子たちに現れたが、上のいずれの証言を見ても、イエスは最後の晩餐の日まで3年間寝食を共にした若々しいイエスと同じ目の色、同じ声、同じ背丈と容姿のあの見慣れた懐かしい主の姿では二度と弟子たちの前に現れてはいないということだ。つまり、彼らは、現代の法医学の言葉を借りて言えば、同じDNAの個体としてのイエスには二度と出会っていないということになる。イエスは出現の度にいつも見知らぬ別人の姿で現れる。それにも拘らず、弟子たちは何故かその人の中に復活したイエスが現存していることを確信することができたのである。

 「いや、生前のイエスと同じ姿、形、で現れた例もきっとあっただろう」、という反論に対しては、「残念ながら聖書にはそれを積極的に裏付ける証言は一つもない」とだけ答えておこう。

 これは私たちにとって、実に注目に値する慰めに満ちた事実ではないか。イエスの生前の姿に親しく接した弟子たちでさえそうであるというのなら、あれから2000年隔たった今日、生前のイエスの姿を見たことのない我々にも、復活したイエスに出会うチャンスがあるということではないか。

 現に、私の敬愛するキコ・アルグエヨというスペイン人は、彼の私的な「覚え書き」の中にイエスを見た、と証言している。(注―2) 歴史の中の多くの聖人たちもキコと同じ体験をしている。不肖私も復活した生けるキリストに会っていると敢えて(小さい声で)証言したい衝動にかられる。

 キリストと呼ばれるナザレのイエスの死と復活の顛末を長々と述べたのは、イエスが「わたしはある」と名乗る超越神と「キリスト教」との間に確かなリンクであることを明らかにするためであった。そしてまた、キリストが実際に復活した事実の最初の、そして最も確実な印は「空の墓」だったことを再確認するためでもあった。

 3日目の早朝婦人たちが墓を訪れると、兵士たちはおらず、石の扉は転がしてあり、墓の中は空だった。そして、「空の墓」の事件の直後から、復活したイエスは愛するマグダラのマリアや、イエスの憐れな死に失望して故郷の村へ帰ろうとした弟子たちに(エマオの宿で)現れ、使徒たち大勢の弟子たちに現れた。彼らはイエスに出会って驚き、喜び、その復活を確信した。

 

ラテラノ教会の入り口脇に堂々と立つコンスタンチン大帝の騎馬像 世界の教会が彼のものであるかの如き存在感を誇示している(写真は筆者撮影)

 

キリスト教の「自然宗教化」のプロセス

 やっと本題に入る。イエスの復活を確信した彼らは、まず地中海の港、港、のユダヤ人コロニーに「ナザレのイエスは予言通り復活した」、彼はメシアだった、と言う報せを届け、人々を驚かせた。それもそのはず、「復活」、すなわち、死者が蘇えると言うことは、「超自然の神」の介入なしには起こり得ないことで、自然宗教の範疇を完全に凌駕し、人知の及ぶ範囲を超えた全く新しい出来事だったからだ。

 この全く信じがたい驚くべき「事実」を前にして、「回心して洗礼を受け、キリスト教を信じれば全ての罪を赦されて『永遠の命』が得られる」と告げられた人々、特に、自然宗教のもとではこの世的にも救われることのなかった貧しい人々は、こぞって「天の御父」と復活したキリストを信じ、その数は日を追うにつれて増えていった。

 だが、それまで、ギリシャ・ローマの神々を拝み、民衆には自らを「生き神様」として拝ませてきた皇帝は、ローマ帝国の版図の最下層の貧民など、言わば、生かすも殺すも意のままの女奴隷のよう思っていたのに、その「女奴隷」が、自分を捨てて神の子キリストの「花嫁」となって離れて行くのを見たとき、ナザレのイエスとか言う「色男」に自分の側女を寝取られた思いがして、嫉妬と怒りに狂ったことだろう。彼らは自分に税金を納めなくなるかもしれない、戦のとき敵側に寝返るのではないか、という疑念が頭をよぎったかもしれない。それで、そんな輩は皆殺しにしてしまえと、キリスト教徒を片端から捕え、拷問し、円形競技場に引き出して、ライオンに食い殺される姿を観衆と一緒に眺めながらサディスティックな楽しみに耽った。

 しかし、信仰の光に照らされて神の前に自分の罪の深さを痛感して回心したキリスト教徒は、神の無条件の愛と罪の赦しを信じ、イエスの復活と永遠の命を確信して、自然宗教を捨て、迫害も死も恐れず、弾圧されればされるほど燎原の火のごとく燃え広がり、貴族や上流階級からも相次いで帰依するものが現れた。

 力ではねじ伏せられないと悟った支配者が考えることは、いつでも同じだ。「押して駄目なら、引いてみよう」とばかり、皇帝は手の平を返したようにキリスト教を体制の中に取り込み、懐柔することに熱中する。

 迫害をやめ、皇帝が率先して改宗し、洗礼を受け、キリスト教の祭司を貴族並みに取り立てて、元老院議員の式服を祭服として着せ、元老院の建物(バジリカ)を教会堂として使用することを許し、皇帝の命令で偶像の神殿を壊し、その石材を再利用して教会堂を建て、人々には神々の像に替えて十字架を拝ませた。紀元312年ごろを境に、コンスタンチン大帝の時代以降に実際に起こったことだ。 

 迫害を恐れず従容として死を受け入れていたキリスト教徒も、この誘惑的な皇帝の策略の前には脆かった。ガリレアの貧しい無学な漁師の息子たちにとって、突然ローマの貴族並みのきらびやかな生活が許されると言うのは、現世的に見ればきわめて美味しい話だった。迫害に耐え、日々命がけで、ひたすら死後の永福を希求する厳しい生活より、いま、この世で、富にありつき、人々の上に立てる身分の方が絶対いいに決まっているではないか。だから皇帝の誘惑の手に、教会の指導者たちはたちまち篭絡されていった。

 皇帝にとっても、一旦は「キリストの花嫁」になって自分から去って行った「女奴隷」が、自分の口説きに応じて「娼婦」のように再び身をまかせてきたのを見て、きっと悪い気はしなかっただろう。皇帝はそのようなキリスト教を国教とし取り立て、保護し、ローマ軍によって護った。教会もその見返りとして皇帝の上に神のご加護を祈願する。双方の利害が合致し、ここに目出度く「政教一致」、「聖俗一体化」の新体制が成立した。「神聖ローマ帝国」などと言う歴史用語は、この状態をピッタリと言い当てた言葉だと言う他はない。

 ユダヤ人が中心だった迫害下の初代教会では、異教徒の入信志願者に対して、自然宗教のご利益主義とお金の神様への隷属をきっぱりと捨て、超自然の神様に帰依するための回心の道程を時間をかけてしっかりと歩み、確かな回心の証しを立てたものに対してだけ洗礼と入信を許すという、極めて慎重で厳格な手続きがあった。

 しかし、コンスタンチン大帝の新体制下では、怒涛の如く教会になだれ込んできた異教徒たちに対して、それまで存在していた長い厳格な「回心の道程」があっさりと免除され、形だけの洗礼を受けて即席の信者になることが一般化した。

 皇帝がキリスト教を受け容れ洗礼を受けたのも、無論、心から回心してのことではない。自分を神として拝ませ、自分もギリシャ・ローマの神々を拝んできた自然宗教のメンタリティーはそっくりそのままで、ただ拝む対象を神々から十字架に置き換えただけに過ぎなかった。

 超自然宗教として誕生したはずのキリスト教は「だれも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神と富とに仕えることはできない。」と言って、神を愛し富を軽んじることを求めたキリストの根本的な教えから完全に離反した。

 また、キリストは「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言って、「わたしはある」の神とこの世の覇者である「皇帝」に兼ね仕えることを厳しく禁じたのに、その教えも踏みにじって、皇帝と一心同体になった。

 それだけではない。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもしないのに、あなた方の天の父は鳥を養って下さる。あなたがたは鳥よりも価値のあるものではないか。」「野の花がどのように育つかを見なさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」「なにを食べようか、何を飲もうかと思い悩むな。それらはこの世の『自然宗教』の信者が切に求めているものだ。回心して『超自然宗教』を信じて、ひたすら神の国だけを求めなさい。」そうすれば、あとのことはすべて神が計らって下さる、と言う神の摂理への絶対的委託の原点からも遥かに遠ざかってしまった。

 今や、入信の動機は「洗礼を受けてキリスト教に改宗すれば自分も罪を赦されて永遠の命が得られる」からではなく、「新しいご時世では、キリスト教徒でなければローマ市民として日の当たる身分にあり付いてうまい汁を吸うことができない、取り敢えず洗礼だけは受けておいた方が得だ」という風潮が支配的となった。

 多くの改宗者は、「自然宗教」を信じていたときと全く同じメンタリティーを引きずりながら、「回心」の要件を全く満たすことなく、形だけキリスト教徒になった。いわば、キリスト教を語る巨大な新型「自然宗教」が誕生したと言うべきか・・・。

 迫害の時代には「自然宗教」をきっぱりと捨てて「回心」の証しを立てたものにだけ洗礼と入信が許されたのに、今や、キリスト教の教えの心髄を全く理解しないものたちが、ご利益を求めてうまく立ち回り、教会の要職を占めるようになった。それは、悪貨が良貨を駆逐するように、また、現代風に言えば、より伝染力の強い変異株ウイルスが、あっという間に在来型を駆逐して置き換わっていくように、真正な「超自然宗教」としてのキリスト教は、見る見るうちに俗っぽい「自然宗教バージョンのキリスト教」に置き換わってしまった。

 

私の愛する教会の名誉のためにひと言付け加えよう

 キリスト教は超自然宗教であることをやめて、ただの自然宗教に堕したとは言ったが、まことの回心の意味を理解し、ナザレのイエスの教えの原点に忠実に生きようとする望むキリスト者が全く居なくなったわけではない。だが、あくまでも超自然宗教の本質に忠実であろうとする本物のキリスト者にとって、「自然宗教キリスト派」の大海のなかで生き延びるのは容易なことことではなかった。

 本物のキリスト教を追求しようとする者の多くは、世俗を捨てて砂漠の隠遁者になるか、塀をめぐらした大修道院の中に立てこもって理想を追い求めるか、の道を選んだ。

 しかし、修道院の中にも自然宗教化の誘惑は巧妙に忍び寄る。土地を所有しない農奴の生産を基盤とした中世の封建主義社会では、国王や封建領主たちは、自然宗教化したキリスト教を掲げる皇帝を頂点にした支配体制の中で領民の上に君臨し、富を築いていったように、大荘園を経営する宗教貴族、つまり教皇をはじめ、枢機卿、大司教たちだけではなく、囲いの中の修道院長らまでも、世俗の封建領主と同様に、農奴である領民の上に権力をふるい、収奪し、富を築いて堕落していった。

 せっかく純粋に超自然宗教としてのキリスト教の原点を守ろうとして世俗から退いた修道者たちも、結局は自然宗教に変質したキリスト教の波に呑み込まれまれていった。このようにして、超自然宗教として誕生したキリスト教は、総体としてはギリシャ・ローマの神々を拝んでいたときと全く同じレベルまで堕落してしまった。 

 とは言え、幸いにもイエスの純粋な教えは、ごく早い時期(紀元1世紀の終わりまで) に聖書として文字に固定されて残った。そして、初代教会のキリストの弟子たちの生き様は、回心した信者たちの間で生きた伝承として語り継がれ、いわば、地下水脈のように密かに受け継がれていった。

 だから、自然宗教化したキリスト教体制の中にあっても、本物のキリスト者の生き方を証しする人々が時折り現れ、聖人と呼ばれ、信者の模範として顕彰されてきた。聖人の王様も、聖人の教皇、司教、大修道院長も稀に現われないわけでもなかった。また、その他にも、晴れがましく聖人として尊崇されることのないまま、ひっそりと生きて死んでいった無名の偉大な聖人たちが、実際にはたくさん市井に隠れていたに違いないと私は信じている。

 ともあれ、このコンスタンチン体制以降の自然宗教化したキリスト教は長い時の流れを経て今日にまで及んでいる。

――――

(注―1)「T形十字架が正しいことについて」:泰西名画・宗教画の十字架がほぼ100パーセント十の字形であるが、惑わされてはいけない。聖書が書かれた時代の信者は、みなイエスの架けられた十字架がT字型であることを知っていた。だから敢えて聖書の中で説明する必要性はなかった。

プラス記号の十字架が絵画に登場するのは、300年以上たってキリスト教の迫害が終わり、ローマ帝国の国教化が進んだ後に、ようやく描かれるようになるのだが、もうそのころの画家たちは本物の十字架がどんな形だったかを知らなかったし、皇帝の頭に浮かんだのもTの縦木が上に突き抜けた形だった。

(注―2)「覚え書き」426番「私の心があなたを探し求めているのを感じる。」・・・「罪の無い者たちの苦しみの中にわたしはあなたを見、私はショックを受けた。」(キコ・アルグエヨ著、谷口幸紀訳「覚え書き」1988年―2014年。フリープレス刊。P.276-277。)

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私のインドの旅総集編(4) 「超自然宗教」の誕生

2021-09-19 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編(4)

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遅くなりました。今回は「超自然宗教の誕生―『わたしはある』と名乗る神」です。

     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

        a)自然宗教の凋落

        b) キリスト教の凋落

        c) マンモンの神の登場 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

      (10)超自然宗教の復権

 

(4)超自然宗教の誕生―「わたしはある」と名乗る神

 

アダムとエヴァの失楽園 ミケランジェロ

 では、宇宙の自然を超越したところに、人間の知らない神が存在しているとしたらどうだろう。

 自然の一部である人間の思考は自然の枠内にとどまるから、人知の届く範囲の外に何かがあるか、無いか、については何も言うことができない。科学的にも138億年前にビッグバンが生起したところまでは推論が及ぶが、それ以前に何かあったか、無かったか、そしてビッグバンの原因は何かについて、人類には知る術がない。当然のことながら、自然の一部である人間が自分の想像力で自然に投影した神も、自然の枠組みを超えることは出来ない。

 だから、自然界の埒(らち)外に、永遠の昔から卓越した知性と自由意思を備えた「わたしはある」と名乗る「生ける神」が存在していて、その神が自らの溢れる愛で宇宙を無から創造し、それ以来自然界を慈しみを込めて一瞬一瞬 ―従っていまこの瞬間も― 無から存在界に呼び出し続け、支え続けているという事実は、その「生ける神」自身が人間に説き明かさない限り、人間はこの驚くべき事実を永遠に知ることも想像することもできないはずだった。

 他方では、人は、人知の及ぶ限りの全てのものに名をつけてきたが、知らない神に対しては、当然のことながら、名を付けることはなかった。だから、人間が名をつけなかったのに存在していて、予期せぬ時に圧倒的な存在感をもって迫ってきた神にはじめて出会ったとき、人はまずその名を問うしかなかった。 そして、「あなたは一体どなたですか」と言う問いに対して、相手は「わたしはある、あるというものだ」と答えたのだった(旧約聖書出エジプト記3章14節)。

「わたしはある」と名乗る神が、自然界を超越したところに生きて存在するという否定し難い事実を、人類はその時はじめて知った。そして、この答えは哲学的に見ても実に意味深いものだった。なぜなら、およそ理性が把握しうる概念で、「わたしはある」以上に根源的な名前は他に考えられないからだ。

 以来、この神と人との関わりとして全く新しい「宗教」が生まれた。それは、自然とのかかわりの中で人間が生み出し、人間が名前を割り振った神々との関係を「自然宗教」と呼ぶとすれば、それと明確に区別して、自然を超絶した次元に人間の存在以前の永遠の昔から実在する神として、「わたしはある、あるというものだ」と名乗り出た神と人との関係は、「超自然宗教」と呼ぶに相応しいだろう。

 ところで、人類の太古からの口頭伝承が紀元前4世紀ごろまでにパレスチナ地方で書きとめられたものとして旧約聖書という文書がある。その第一巻、創世記の中には、その第一ページから、自然を超えたところに存在する神が人類の歴史に介入して、人間に理解できる言葉で具体的個人に語りかけた場面についての記述がいろいろと知られている。

 重要なポイントをプロットすれば、人類の最初のカップル=アダムとエヴァ=の誕生物語と、彼らが神から一つのテストを受けたこと。楽園に置かれた二人は、「園の全てに木から食べてもいいが、園の中央に生える善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われたこと。しかし、人は蛇の嘘に騙されて、その実を食べ、その結果、人祖も、そのすべての子孫も、死すべきものになってしまったこと。そして、人祖は楽園を追われ、こうして、神の創造と進化の業は、その最終段階で、人間の一つの不従順の結果、大失敗に終わってしまったこと、等々。

 しかし、神による人祖の過ちの尻ぬぐいの業、つまり、人類の罪の贖いと救済の歴史は、人類の失楽園の直後から直ちに始まった。その意味で言えば、聖書はすべて「わたしはある」による人類の救いの歴史を記したものと言える。

 聖書物語の中には、アダムとエヴァの子孫はセム族、ハム族などに枝分かれしていったが、セム族の伝承の中にはノアの洪水伝説、バベルの塔の建設と言語の混乱、それに続く人類の全地球的拡散、などが記されている。しかし、その初期の物語や出来事は、全体の流れはわかっても、今からどれぐらい前のことであったか、その歴史性を正確に把握するのは難しい。

 

ノアの箱舟

バベルの塔

 そんな中で、創造主なる神がアブラハムという老人に個人的に語りかけたという話が出てくるのだが、現代人の感覚で言う歴史的出来事として辿れそうなものとしては、恐らくそれが最初(最古)のケースとして特筆されるべきではないだろうか(注-1)。なぜなら、このころになると、そろそろ地球上の様々な地域に古代文明が並行して興りはじめており、地理と歴史的年代考証の手掛かりがいろいろと生まれてきたからである。

 

アブラハムの世界 右下ペルシャ湾に注ぐ川の近くにウルの町が

 イラク南部、ペルシャ湾にそそぐユーフラテス川を少し遡ったところに、ウルと言う町があった。そこに今から3千700年ほど前にアブラハムと言う裕福な老人がいた。彼は遊牧民の族長で多くの家畜と奴隷を抱えていたが、自分を葬ってもらう土地と自分の血を継ぐ息子を持たないために、決定的に不幸な老人だった。

 神はこの歴史上の不幸な老人に、もし自分に従えば、永住の土地と命を受け繋ぐ息子とを約束する、と告げたのだった。

 ところで、神が人間に語りかけるとはどういうことだろうか。そもそも、神はどのようにして人と話すことが出来るのだろうか。神がご自分のことを「わたし」と自称されるのは、神が理性と自由意思とを備えた「位格者」(ペルソナ=自我の主体)であることを意味している。また、語りかけられた人間=この場合アブラハム=も、造物主とその被造物とのあいだの大きな隔たりを超えて、同様に理性と自由意思を備えたもう一個のペルソナであることを前提としている。

 神は、自然の進化の長い過程を導く中で、物質とそこから生まれた生命の進化の気の遠くなるような道程の最先端に、ついに理性と自由意思を花開かせ自我に目覚めたペルソナ(人間=人格の主体)を生み出すことに成功した。ここに初めて、自然を創った神の「わたし」と、神によって創造された被造物である人間の「わたし」との間に、互いに向き合って対等に対話する可能性が生まれたのだった。

 では、「わたしはある」と名乗る創造主である神とアブラハムという名の一個の人間との間でどのように意思の疎通がはかられたのだろうか。それは人間の理解できる言語によらなければならなかったはずだ。

 人間は自我の主体としての「不滅の魂」と「肉体」とから成る存在である。それは霊・肉の二つの部分の単なる連結・結合・合体によるものではなく、二つの要素が密接不可分に融合した一個のペルソナ=人格であって、しかも、肉体なしには魂は全く何も感知せず理解することも判断することも発信することも出来ない存在である。

 だから、神の語りかける言葉も、自然に考えれば、音として人間の耳に届き、聴覚神経を伝って脳に達して初めて人間の魂、人格の理解するところとなる。もちろん、空気の振動である音を介さなくても、神が直接に聴覚神経や脳に物理的刺激を与えることによって神の言葉を人間に理解できる言葉にして伝えることも出来ただろう。いずれの場合も人間の存在の条件を定めた神にとっては、いともたやすいことだが、神が人間の肉体の介在を完全に無視して、直接に魂に働きかけることはあり得ないと考えられる。何故なら、それは霊・肉が不可分に融合してひとりの人格を形成すると言う人間存在の基本条件の否定につながるからだ。

 ちなみに、人間の魂は不滅であっても、肉体には限界があり、罪の結果として必ず死によって破壊される。すると、不滅の魂は外界や他者とのすべてのコミュニケーション手段を断たれ、深い眠りに落ちて、存在はしていても、取り敢えずは実質上無に等しいものとなる。

 とにかく、神は自然の創造主でありながら自然を超越し、万物を「絶対無」から創造された神だから、必要とあれば、人間の聴覚システムのどこかに触れて、人間の言語能力に適合した方法でご自分の言葉と意思を伝達することはいとも簡単なことだろう。

 他方、神は人間の心身の創造主であるから、人間のあらゆる言葉を理解し、言語化されなかった人間の心の動きも全て瞬時に把握することがお出来になる。人間が心で思うことと異なったことを言ったとしても、神は決して欺かれることはない。こうして、神とアブラハムの対話は双方向にスムースに進むことができるのだ。

 さて、時代が下って、アブラハムの子孫がエジプトに居留していた頃、モーゼがホレブの山で神に出会ったとき、神は初めて自分の名を「わたしはある、あるというものだ」と名乗り出たことは既にふれた通り (注-2) だし、神が自分の名を名乗ったことでその神ははじめて具体的な存在として人間に知られることになったことも、また、それ以来その神と人間との間に様々な交流が生まれ、この人間と超越神との関係が「超自然宗教」と呼ばれることもすでに述べた。

 この生ける神は、人類の失楽園後の長い救済史の時が満ちるのを待って、自分の言葉=ロゴス=神のひとり子=を人間の姿に受肉させ、ナザレのイエスとしてこの世に送り、そのイエスは福音=善いメッセージ=を告げ、人々を回心して福音を信じるように招いた。

 この間の一連の事情は、実に多くの説明を要する重要な点であるが、すでに私のブログ「私のインドの旅と遠藤周作の『深い河』(4)2021.05.21」に詳しく書いたのでここでは繰り返さない。興味のある方は、是非再読していただきたい。

 結論的に言えば、30年間の私生活と3年間の公生活の後、イエスは最後に十字架に自由にのぼり、自分の苦しみを通して人類の全ての罪を贖い、自分の死を通して人類の死を滅ぼし、自ら復活して人類に復活と永遠の至福の命を得る可能性を開いた。

 信仰の光に照らされて、神の無条件の愛と罪の赦しを信じ、イエスの復活と永遠の命を確信した信者たちの集い(教会)は、それまでの自然宗教にはなかった魅力と輝きを放ち、ユダヤ人ばかりではなく、多くのローマの市民をも惹きつけた。

 しかし、初代教会では、キリスト教への入信を希望するものを簡単に受け入れたりはしなかった。これらの人々には、入信に先だって徹底的な信仰入門教育が施された。そして、その徹底した準備過程をとおして、自然宗教のご利益主義を脱ぎ捨て、超自然の神に帰依するために180度の回心の道程を、段階的に時間をかけてしっかりと歩み、確かな回心の証しを立てたものにだけに洗礼が認められた。

 この入信の過程では、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」とか、「神と富に兼ね仕えることはできない」とか、「汝の敵を愛せ」、「罪を悔い改めよ」などの課題が与えられた。

 ローマ帝国の最底辺で虐げられ喘いでいた貧しい民衆の間では、このような過程を経て、神の前に自分の罪の深さを痛感して改宗し、キリスト教に帰依する者の数はは急速に増えていった。

 しかし、それまでギリシャ・ローマの神々を拝み、民衆には自らを「生き神様」として拝ませてきた皇帝にとって、ローマ帝国の版図の最下層の貧民など、言わば、生かすも殺すも意のままの女奴隷のような存在だったが、その「女奴隷」が、自分を袖にして神の子キリストの「花嫁」となって去って行くのを見たとき、皇帝はナザレのイエスとか言う「色男」に自分の側女を寝取られた思いがして、さぞ怒り狂ったことだろう。そして、そんな女は皆殺しにしてしまえとばかり、キリスト教徒を片端から捕え、拷問し、円形競技場に引き出して、ライオンに食い殺される姿を観衆とともに見物してサディスティックな楽しみに耽った。

 ところが、神の無条件の愛と全面的な罪の赦しを信じ、イエスの復活と永遠の命を確信した信者たちは、迫害も殉教の死も恐れず、弾圧されればされるほど燎原の火のごとく燃え広がり、貴族や上流階級からも帰依するものが大勢現れた。このような状況の中で、キリストの死と復活の後、キリスト教の初代教会は300年余りにわたって、地中海世界のローマ帝国の版図で急速に広がって言った。

 私が1964年に訪れたインド亜大陸には、既に紀元1世紀にキリストの12使徒の一人の聖トマによってキリスト教が南インドのマドラスにまで伝えられていた。私はスリランカからフェリーでインドに渡り、マドラスの丘の聖トマの殉教の教会を訪れている。

 こうして、「わたしはある」と名乗る「生ける神」を信じるキリスト教は、それまでローマ帝国で栄えていた自然宗教(ギリシャ・ローマの神々崇拝)を圧倒してその存在感を示していった。

これが、超自然宗教の誕生の概要である。

―――――

(注-1)アブラムの召命と移住(創世記12章1-4)

(注-2)神はモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と名を名乗り出た。(出エジプト記3:14) 

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