:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 【新発見】 「日本26聖人」 世界最古の壁画

2018-10-14 00:01:00 | ★ ローマの日記

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【新発見】 「日本26聖人」 世界最古の壁画

シエナの聖ベルナルディーノ修道院(イタリア)

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地中海に面したローマから、アドリア海側に出るためには、イタリア半島の背骨にあたるアペニン山脈の最高峰グランサッソ(巨岩山)の真下の長いトンネルを通り抜けなければならない。

アドリア海側から見たグランサッソの威容

トンネルを過ぎてしばらく行くと、高速道路の左手にテラモの町があり、その郊外にすっかり朽ち果てたシエナの聖ベルナルディーノ修道院の廃墟がある。

ある日、ローマのレデンプトーリス・マーテル神学院にテラモから2人の修道女が訪ねてきた。ベネディクト会のシスターたちだった。

彼女たちの修道院は、今どき珍しく、志願者が多く活気にあふれていた。彼女たちは県の文化財保護委員会から上記の廃墟を引き取り、修復して自分たちの新しい修道の場とすると言う壮大な計画を持った。長い時間と膨大な資金を要する計画だ。

院長のシスターは言った。この修道院の崩れ落ちた聖堂の壁には、世界最古と思われる「日本26聖人」の壁画が残っている。いま修復すればまだ救えるだろうが、このまま放置されればやがて劣化して失われてしまうことが目に見えている。このかけがえのない歴史的文化遺産の存在を広く世に知らせて、保存のために国際的協力を仰ぎたいが力になっていただけないだろうか、と言う相談だった。

応対に出たのは、ローマに亡命中だった「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の院長の平山司教様と私だった。司教様はいたく感心され、私にできるだけの協力を惜しまないようにと指示された。

司教様は健康上の理由から現地視察に行くことを思いとどまられたが、私には早速現地を訪れ、写真を撮ってくるようにと言われた。

私は、修道院の修復への協力を求める日本語のDVDの作成にも関わった。テラモの地元のジャーナリストと一緒に作ったDVDが今手元にある。しかし、それをこのブログでお見せするためには私の編集能力が不足している。どなたかの協力が必要だが、いずれは実現したいと思っている。興味をそそられた方は申し出ていただきたい。

修道院の廃墟に向かう道を羊飼いに連れられた羊の群れが下りてきた。

 

今回は、まず手始めに、DVDの字幕に使った原稿と、私の素人写真を組み合わせて紹介しよう。

協力を約束してから早くも5年の歳月が過ぎてしまったが、日本に神学校が戻ることが本決まりになって帰国するまで、落ち着いてこの件に取り組むことができなくて、いつも気がかりだった。これから何が出来るか全く自信はないが、地道に周知の努力を重ね、支援の輪を広げていきたいと思っている。

日本のテレビ局による現地取材や篤志家の資金協力が得られれば、シスターたちの期待に少しは応えることもできるのだが・・・。 

ここからはDVDのナレーションの原稿を使って話を進めよう

丘に向かう道端に車を残し、高台のカシの森とオリーブの林の境を行くと、こぬか雨に午後の大気はけぶり、聞こえるのはただ、風にそよぐかすかな葉擦れと、小鳥の羽ばたき、雨垂れの音ばかり。

 

テラモの町から谷を隔てて遠望する廃墟の聖ベルナルディーノ修道院 

DVDのナレーションの気取った文体と、有り合わせの写真とはぴったりは合わないが、そのアンバランスを楽しんで読んでいただきたい。

威厳をまとった僧院は古色蒼然とし、痛ましく壊れ、うち捨てられていた。回廊の近くには野生化したぶどうの棚が、幾つかのしおれた甘い房をつけている。その実を田舎のパンと食べ合わせると、いにしえの質素な食卓の味わいが甦り、尊い歴史の遺産と自然の価値が、記念碑的建物の遺棄され崩れゆく姿と、際立ったコントラストを白日の下に曝す。

 

入り口の半月形の見事な壁画は、私たちを15世紀の教会の中に誘い入れる。 

 

略奪でキリスト教的シンボルの殆どを失っているのに、なお圧倒的な神聖さを保つこの秘められた場所で、打ち砕かれた祭壇と消え残るフレスコ画が、偉大な感動を呼び覚ます雰囲気をかもしている。

 

聖堂の壁一面に描かれた日本の聖殉教者たちの十字架像、その雄々しくも痛ましい姿は、広く世界に語り継がれるにふさわしい。

説明には「日本の殉教者。聖ペトロ・バプティスタと22人の仲間たち、私たちのために祈り給え!」とあるが、26人のうちフランシスコ会系でない3人は省かれた計算か?

画はあくまでも素朴なタッチで描かれている

 

 

 

回廊に囲まれた棘の生い茂った中庭。ここはもと菜園だったに違いない。しばし目を細く閉じ、想像力を廻らせば、香りに満ちた色とりどりの野菜が眼底に甦り、うっとりするようなエデンの園の情景に、思いを馳せることが出来るだろう。

台所を通って広い食堂に入ると、二つの高い窓から降りそそぐ光につつまれて、しばしの瞑想にこころを引き込まれる。精神と肉体のバランスとハーモニーの中で、自然と大地の産物に結ばれて営まれた、あの質素な修道生活を思って・・・

上の階へ通じる広い階段は、昼間のほのかな光に柔らかくつつまれ、壁の色を映して黄金色に染まり、中庭を見下ろす回廊の強い日差しと好対称をなしている。

窓と柱が織りなす光と蔭のリズムからは、幾世紀にもわたり住んでいた修道士たちの人型が見え隠れする思いがする。聖者の残り香は強く漂い、歴史を知るものには、フランシスコ運動と15世紀ヨーロッパの公的生活における最も偉大な人物の一人、この僧院を建て、ここにひと時を生きたカペストラーノの聖ヨハネの現存が感じられる。

案内の 3人のシスターたちとともに

サンタ・ルチアのフレスコ画

日本26聖人の壁画は正面の砲弾型の壁の左右と、祭壇向かって左の側壁面にある

何百年廃墟のままだったのだろうか

 

今、この僧院は本来の姿に戻ろうとしている。オッフィダのベネディクト会修道女たちの手に渡り、修復と改修に費やされる多くの時間と汗の後に、彼女たちの祈りと働きの場として甦るために。

盗まれた址に新しい鐘が釣られ、再び谷を越えてテラモの町にその音を響かせる日が来るだろうか

谷の向こうにはテラモの町の教会の塔が見える

ベネディクト会の修道女たちは知っている:「どんなに小さな寄付も神様の目には尊く、そのすべては《命の書》に記されることを。私たちの支援者は皆、恩人として永久に記憶され、祈りによる援助に欠けることがないことを。また、恵みを与えることに寛大な神様は、全ての厚意にご自身で豊かにお報いになることを。」 

             

 

次世代の若い修道女たちに古い歴史の遺産を残そうとする姉妹たちの願いが届きますように

 

役所の修復事業の公告

 

 

 

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★ アリベデルチ・ローマ / サヨウナラ「ローマ」(そのー2)

2018-05-08 00:23:26 | ★ ローマの日記

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 アリベデルチ・ローマ / サヨウナラ「ローマ」(そのー2)

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この日は幸い車が自由に使えて行動範囲が広くなった。ローマの南東約60キロのネミ湖に向かった。ローマ時代からローマの飲料水は市内を流れるテベレ川からではなくこの湖から引かれていた。湖水面からローマの七つの丘までのわずかな高低差を利用して、一分の狂いもなく一定の傾斜で水道橋を建設したローマ人の土木技術に脱帽する。この技術はローマ帝国の版図が及んだ全地方に伝えられて。今もその遺構はヨーロッパ中に見られる。

途中でラ・フォレスタ(森)という名の高級レストランに寄って昼食をとった。ここはシスターになった姉を一度連れてきたことのある思い出の場所だ。立派な門構えから奥まったところにあるホテル・レストランまで、車で森の中を行く。

昼の12時過ぎはイタリア人の昼食時としては早すぎる。食事客はまだ一人もいなかった。まるで高級レストランを借り切った気分だ。

偉そうなウエイターがサービスしてくれる。

前菜も何も抜きで、いきなり仔羊の炭火焼きと温野菜、それと赤ワインだけで食事とした。デザートにはこの地方の特産の野生のイチゴにレモン汁と砂糖をかけたもの、そしてコーヒー。それでも日本のこのクラスのレストランと比べれば、値段は半額以下だ。

食後にネミ湖に着いた。古い、古い死火山の火口湖だ。これがローマの水道の原点。火口丘の上に指輪の宝石のようなネミの町がある。

ネミの特産はサラミ、ソーセージ、生ハム、イノシシの肉などで、店の中はより取り見取り。

もう一つの特産は、先ほどラ・フォレスタで食べたデザートの森の果実、野イチゴやブルーベリー、ブラックベリー、ラーズベリー等々。

その他、ラベンダーの香水やハーブ酒、ハーブ入りの石鹸など。店頭の飾りの自転車もラベンダー色。

湖を見下ろすテラスで野イチゴのデザートとコーヒーが一番の御馳走。私は日本からのお客さんを何度ここに案内したことだろう。

レストランやカフェーの上の階の住居では洗濯物が万国旗のように干されている。 

ネミ湖からロ―マに帰って、ジャニコロの丘に登った。ローマの町のパノラマを一望するのにこれ以上適した場所は他にない。丘にはイタリアの統一と近代国家成立に貢献した大勢の士官や兵士の像が点在している。

丘の頂きにはジュゼッペ・ガリバルディの騎馬像の巨大なモニュメントがある。彼はまずベネチアを落とし、最後に教皇領を奪取してイタリア統一を完成した男だ。イタリア全土にわたった広大な教皇領は小さなバチカンに立てこもり独立国家となった。

ガリバルディのモニュメントの台座には、定規とコンパスをあしらったフリーメーソンの銘板があり、その上に「ローマ(を落とす)か(みずから)死するか」と刻まれている。フリーメーソンはカトリックと絶対に相いれない結社で、旧教会法ではカトリック信者が秘密裏に加入しても、伴事的に(その事実自体によって)破門状態に陥ると言う厳しい制裁が定められていた。

ジャニコロの丘からローマの街を越えて反対側のピンチョの丘を見ると白い2本の塔が小さく見える。2000ミリのズームで引き寄せると、スペイン階段の上のトリニダード・モンテの教会であることが分かった。

夕方ローマ市内に戻ってサンジョバンニ・ラテラノ教会に行った。 残念ながらすでに閉まっていた。この教会は4世紀末にキリスト教がローマ帝国における非合法宗教、皇帝による迫害の対象から、ローマ帝国の国教の座に就く過程で、皇帝の精神的後ろ盾の地位に180度立場が変わった後、最初に皇帝によって建てられた教会だ。すべての教会の母教会と呼ばれ、この正面の入り口を入ってすぐ左側には教会の保護者コンスタンチン大帝の堂々たる騎馬像がある事に気付いている人は少ない。

生前イエスは、「神の物は神に、皇帝の物は皇帝に返せ!」と弟子たちに命じ、天の「神の国」と地上の「皇帝の国」とが馴れあう事を厳しく禁じた。それが、イエスの帰天後300年で教会はキリストの命令の真逆のことを見事にやってのけた。キリストの浄配、「妻」だった教会は、皇帝に囲われ、その「妾」になってしまったかのようだ。教会はこのラテラノ教会を世界中の教会の母教会と呼び、12使徒の頭の聖ペトロ、最初のローマの司教、ローマ教皇の座をこのラテラノ教会に置いた。今でも教皇の「玉座」は聖ペトロ大聖堂ではなくこのラテラノ教会に置かれている。私は司祭の一つ手前の身分、助祭になる叙階式を、この由緒あるラテラノ大聖堂で盛大に受けた。

しかし、17世紀間にわたった教会と皇帝の蜜月は1965年に終わった。第二バチカン公会議は教会と皇帝の決別を決定づけた。公会議を発議したヨハネス23世から、パウロ6世、一か月で謎の死を遂げたヨハネパウロ1世、聖教皇ヨハネパウロ2世、今も存命のベネディクト16世、そして現教皇フランシスコまで、全員がこの公会議の決定を支持し、教会と皇帝の決別、聖と俗の分離を支持している。

トラステベレの聖セシリアの教会はまだ開いていた。広い前庭と噴水の周りにはバラの花が咲き乱れていた。

聖堂の中はひっそりと静まり返っていた。内陣の上の半球形の天井には最盛期を思わせる美しいモザイクで飾られている。

祭壇の下には2世紀の殉教者、聖セシリアの遺体が葬られ、その上に美しいセシリアの像が横たわっている。彼女の亡骸がローマ郊外のカタコンベ(地下埋葬所)で発見され1599年に墓が開けられた時、聖女の遺体は千数百年を経てなお腐敗を免れ生々しく保存されていた。その姿を写実的に写したのがこの大理石像だと言われている。ちなみに、聖セシリアは音楽の保護の聖人として慕われている。

トラステベレと言えば、ローマの胃袋、レストラン街で有名だ。ローマでの最後の日々を、是非カンツオーネレストランで祝いたかった。ダ・メオ・パタッカはお手ごろだ。30年前は同じトラステベレでももう少し高級なラ・チステルナというレストランが行きつけだった。ローマ時代からワインの量り売りをしていたと言う店の地下室には、古色蒼然とした井戸があり、今でもテベレ川の水面と同じ高さに井戸水を湛えている。そこのカンツォーネのテノールはパバロッティの再臨かと思われるほど豊かな声量だった。ある年の大晦日、元NHKの磯村さん御一家と新年のカウントダウンをして踊った思い出があるが、その後、齢と共に歌手の声が衰えていくのを聞くのがつらくてこちらの店に鞍替えした。

食事よりもワインとカンツォーネがお目当てだ。

次々とテーブルを回って歌ってくれる。夜はこうして更けていく。ローマに居ると、ブログの種は尽きない。が、散歩の話はここで終わりとしよう。

(終わり) 

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★ アリベデルチ・ローマ / サヨウナラ「ローマ」(そのー1)

2018-05-07 00:46:44 | ★ ローマの日記

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アリベデルチ・ローマ / サヨウナラ「ローマ」(そのー1)

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私がローマに住み始めたのは1989年だから、もうかれこれ29年になる。

その間数年間は日本で司祭として働いたが、直近の10年間はローマの「日本のための神学院」の仕事をしていたので、正味延べ20数年のローマ生活になった。正直、こんなに長くなるとは夢にも思わなかった。

しかし、その長かったローマ生活もようやく終わりを迎えることになった。ベネディクト16世教皇の粋な計らいで、日本での閉鎖・消滅を免れてローマに移植された旧高松の神学院は、「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の名のもとに、ローマで生き永らえることができた。ローマに移ってからも毎年2-3人ずつ司祭を生み出し、その多くはベネディクト16世に続いてフランシスコ教皇によって司祭に叙階された。最近では、去る4月22日にユライ君とファビオ君が叙階されたことは既にブログに書いた。延べ人数は35人ほどになる。

今回のローマ滞在は、住み慣れたローマの神学校の自室を片付けて明け渡すのが主たる目的だ。ローマ生活の最後に、時間を見つけて思い出深い街をひとり散策した。アルバム風に辿ってみよう。

足は自然にグレゴリアーナ大学に向かった。カトリックの最高学府と言われるところだ。正門の上には黄色と白の教皇に旗が風に揺らめいていた。私が日本に帰ることになったのは、ローマで務めていた「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院が」が日本に帰ることが決まったからだ。それも、聞き及ぶところでは、教皇庁立として、「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の名前で東京に帰ると言う話のようだ。もしそうだとしたら、その神学校の入り口にも常時教皇の旗が掲げられることになるのだろうか。

30年ほど前に神学生として毎日通った懐かしい建物の一階にカフェテリアがあった。ローマの思い出にと覗いてコーヒーを一杯飲んだ。当時の古色蒼然としたカフェテリアは、明るく近代的なインテリアに変わっていた。女子学生の数も増えているように思った。当時、神学生の心をとらえていた美人のレジのお姉さんは、もちろんもう居ない。

 大学から100メートルほどでトレビの泉。泉から緩やかに下がったあたりに焼き栗屋が今も香ばしい香りと共に客を待っている。私はよくそれを買って、皮を無造作に足元に投げ捨てながら歩くのが好きだった。

坂を左に曲がるとサンタ・リタの教会がある。そこの権司教のモンセニョール・モリナリ師と組んで、毎年3.11の頃になると、福島の犠牲者の追悼のミサを捧げ続けてきたことはブログに書いた。そして、モリナリ師のお葬式のこともブログに書いているので読んでいただきたい。

今はモリナリ師のいないこの祭壇で、かつて私たちは歌ミサを捧げたことがあった。イタリア人と日本人のプロの歌手たちの合唱で、NHKも協賛した。そして、日・伊の参列者全員で復興ソング「花は咲く」も歌った。このこともブログに書いた。

サンタ・リタ 教会からコルソ通りに出て左に折れると、突き当りはベネチア広場だ。正面には過去の戦争で死んだ兵士たちを祀る巨大なモニュメントがある。日本の靖国神社のような政治性も宗教性もない。明るい記念碑で中を見学に訪れることができる。

モニュメントを背に広場の左を見ると、ベネチア宮殿がある。長くカトリックのローマ教皇の宮殿でだったことのあるこの建物は、第2次大戦中はファシスト独裁者ムッソリーニの住居となり、二階の真ん中の窓から広場を埋めた群衆にアジ演説をしたことで有名だが、今は美術館になっている。観光馬車の後ろの緑の陰までその宮殿は続いているが、

その宮殿に取り込まれるように一体となって、サンマルコ教会がある。この教会の歴史は古く、この教会の地下の発掘現場から、紀元1世紀の裕福なキリスト教徒の屋敷跡が見つかった。そこで信者たちは礼拝し、福音史家聖マルコはこの屋敷に逗留してマルコの福音書を書いたことが知られている。私は、司祭になってからもグレゴリアーナ大学で教授資格を取るために学生神父としてこの教会に寄食していたが、古くて綺麗で市のど真ん中とあって、土日、祭日には何組もの結婚式があった。私は映画俳優と女優のような見栄えのする若いカップルの結婚式を何度も司式したが、場違いのような足の短いアジア人の神父が、沢山の結婚記念アルバムに姿を残していることを、何となく申し訳なく思ったものだ。だからと言って、たっぷり金をかけて作ったがアルバムが、数年後の離婚と共に捨てられることのないようにと祈らずにはいられないが・・・。

サンマルコ教会のわきの角のところにはギリシャ神話の女神の像がある。アンデルセン作、森鴎外訳の「即興詩人」によれば、この像は元はコルソ通りに面してあったようだ。大理石の彫刻も2000年以上の風雨の前には、次第に融けて形が崩れていくものだ。そして、この壁の左側には国連の事務所があり、その隣には教皇やムッソリーニの召使たちの住まいがある。いまその一部が教会の司祭館として使われているが、私が住んだ部屋は、ムッソリーニのお抱え床屋さんの住まいだったと言う。その真偽のほどはわからない。

ベネチア広場から、古代ローマの遺跡群のフォロロマーノを左右に見ながら15分歩くとコロッセオにたどり着く。ローマ市民の娯楽の中心だったが、剣闘士同士の戦いや、皇帝から迫害されていたたくさんのキリスト教徒が、ここでライオンなどの猛獣の餌食となって殺されるのを見世物として楽しんだ血なまぐさい歴史がある。

当時の衣装をまとってローマ兵に扮した男たちが観光客と写真に納まり小銭を稼いでいる。私もこの写真を撮らせてもらうために、子供たちの親の了解を得て、男たちには2ユーロをはずんだ。

 

コロッセオからバスを乗り継いでナボーナ広場に向かった。ローマで一番美しい広場と言われている。広場には3つの泉の彫刻があり、中央のは昔4つの大河として知られていた、ナイル川、ドナウ川、ラプラタ川、ガンジス川だったかな?を象徴する彫刻から水が流れ出る仕組みになっている。

広場の片隅では、カッコいい憲兵さんがスマホで彼女とメール交換中。

サングラスに豊かなブロンドの髪がよくて、気付かれないように遥か彼方から望遠で捕えた。若い頃はきっとほっそりしていたに違いないと勝手に思う。やや厳しい顔つきからどんな人生だったろうか、と思いを致した。

ナボーナ広場にはたくさんのレストランがある。これは「4大河」という名のお店だ。

カフェ・レストランの前の若い服装のご婦人。左の初老の紳士のお連れさんらしい。彼女のことをバックシャンというが今の若い人には意味不明かも。大正か昭和のはじめに旧制高校の書生さんが作った言葉ではないか。バックは英語の「うしろ」だが、シャンはドイツ語の「シェーン」、つまり「美しい」という単語が訛ってくっついた造語だ。要は「後ろ姿美人」と言う意味。撮ってから好奇心を抑えきれずさり気なく顔を覗き込んでみたら、皺を刻んだ醜いおばあちゃんだった。

ここらで小休止と、一人ワインを注文した。「アリベデルチ・ローマ」のお散歩だもの、これぐらいはいいだろう。

4大河の泉の正面に、殉教者聖女アグネスの教会がある。お墓には聖女のシャレコウベ(頭蓋骨)が聖遺物として安置されている。そういう趣味は私の感性に合わない。入り口の階段のわきにいつもいる物貰いさん。新宿西口広場など、この手の物乞いの姿を日本ではほとんど見ない。毎日誰かに連れてきてもらうのだろうか?帽子に2ユーロほりこんで、写真の許可を貰った。どんな悲惨な事故に遭ったのだろうか。意外と表情に暗い影がない。

わきの泉の半人半漁の彫刻

ナボーナ広場から東に5分歩くと、パンテオンがある。ローマ時代から2000年余り、ずっと現役で使われ続けたローマでも数少ない建造物。今はイタリア王家の墳墓教会で、画家ラファエロの墓もあるが、写真は省略。広場いっぱいにリヤカーに積んだスピーカーから美声で弾き語るお姉さん。

パンテオンの隣に、「ミネルバの神殿上の聖母マリア教会」がある。中世にローマを捨てて落ちのびた教皇を叱咤激励してローマに呼び戻した女傑聖女シエナのカタリナの遺体が祭壇の下に葬られている。後ろのローズウインドウのステンドグラスがきれいだ。

聖女カタリナのお棺の上の彫刻は30年前は彩色されていたから木彫かと思っていたが、今は絵の具を落として白大理石の生地が出ている。私にはこの方がいい。

このセンチメンタルな散歩はまだ続くが、一回分の長さとしてはこの辺が限度かと思う。

(つづく) 

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★ 〔加筆〕 神父の独白 (そのー1)

2017-02-25 08:29:04 | ★ ローマの日記

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〔加筆〕神父の独白 (そのー1)

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(2017年2月11日に書き始め、25日に加筆) 

深夜、机の前の窓から見上げると、空はむら雲に星もなく真っ暗だった。

数時間前には黄色い満月が雲間に見え隠れしていたのに・・・

満月を見ると思うことがある。懐かしい思い出が・・・

 

2月14日は満月からはや3日後の月

この2か月間、ほとんど外出することもなく、

神学校の広い敷地内に閉じこもった。

もうすぐ93歳の平山司教の老々介護の他は、

キコの新刊「アンノタチオネ」( “Annotazione”)

「覚え書き」とでもしておこうか-

の翻訳で時が流れる。

 

僧院の修道僧のように世間を絶った静かな時間、

昨日10ページ、今日4ページと、むら気な進捗ながら、

4月には最後まで通しの粗い訳が出来上がるだろうか・・・

 *****

午後遅めのお茶の時間は、司教様との至福の時間。

日々工夫を重ねながら、煎茶の美味しい入れ方を追求する。

貴重な虎屋の羊羹が底をついたら、中村屋の柚子羊羹も悪くはない。

先輩の教訓に満ちた昔話に時は静かに流れる・・・

***** 

夕食の後は、

「メンドーサ枢機卿様にご挨拶」???

・・・は、二人の合言葉。

そう、司教様のお部屋に戻って、クリスタルの丸いクグラスで、

「カーディナル・メンドーサ」という銘柄のブランデーを戴くのだ。

 

証拠写真が欲しくて、午前2時、そっと忍び込んで戴いてきた

深夜、キコの本の翻訳をしながら、

私は何者か、と問うてみた。

キコに影響されたか:

お前は、傲慢で、利己主義で、

好色で、淫蕩で、嫉妬深く、怠慢で、

恩知らずで、裏切り者で、人殺しで、

金に汚く、嘘つきで、盗人で、

食い意地が張って、酔っ払いで、

すぐにカッとなり、強情で、残虐で、

猜疑心が強く、・・・

と、リストはまだまだ続くが、全部そのまま自分の身に当てはまり・・・

要するに、わたしは救いようのない大悪党であることが

身に染みてよく分かってきた。

外資系銀行を辞めて、せっかく神父なったけど、

「日暮れて、道遠し」とはこのことか?

 *****

高松の神学校がローマに移されて早くも8年になる。

その間に、この神学校を出た若い神父たちは、

カトリックの最高学府、グレゴリアーナ大学などで、

神学修士、博士の学位を取って、

アジア各地の第一線で宣教・教授活動に励んでいる。

日本の田舎の小さな神学校は、

いつの間にかアジア全体の宣教の拠点に育ちつつある。

 

司教様は、神学校の日本帰還まで死を見ない、と楽観しておられるが・・・。

哀れみ深い神様!彼の最後の願いをどうか聞き届けてください。

お願いします、神様!

 *****

ローマに来てよーく分かった。バチカンの中は俗世の組織と選ぶところがない。

例外もあろうが、押しなべて能力もモラルも凡庸なお役人たちによって、

旧態然とした効率の悪い肥大した官僚組織の中で、

多数派の保守と少数派の革新がしのぎを削っている。

嘘も、怠慢も、誹謗中傷も、罠も・・・暗殺も、なんでもありの世界だ。

何も昨日、今日に始まった話ではない

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/54748ace9ce6f15f2de45317dbce5eb5

忘れられた中世の町「アナーニ」への郷愁

「教皇ボニファチウス8世の屈辱」

(ブログ2014年3月17日参照

2000年前、無学なガリレアの漁師たちに託されて以来、

中世を経て教会はずっとそうだった。

宗教業界ナンバーワンの規模と暖簾の古さを誇るカトリック教会が、

こんなに肥大したおんボロ船でありながら、

2000年の歴史の荒海を乗り切って沈没を免れたきたことは、

神の存在とそのご加護が無ければ、

全く説明不可能だ。

これほど明白で強固な神の存在証明が他にあるだろうか?

 

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★ 《映画》 “SILENCE” 「沈黙」を見て

2017-01-27 16:41:31 | ★ ローマの日記

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《映画》 “SILENCE” 「沈黙」を見て

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M・スコセッシ監督の映画「サイレンス(Silence)」が今ローマではブームです。日本人のわたしは「サイレンスを見たか?」「お前はどう思ったか?」と、しつこく聞かれます。見なければ答えようもないので、実に久しぶりにイタリアの映画館に行くことにしました。

昼間は忙しい。夕食後に郊外の大型レジャー施設に行きました。ポーリング場も、ステーキレストランも、バーも、子供の遊技場も、うるさいBGMの中、満員の熱気に包まれていました。初老のカップルも若者に負けじ!と、手を繋いだりキスしたり、子供が数人でロビーを走り回ったり・・・。私はビールの大瓶をテーブルにドンと載せて、10時の最終回を待つ間ゆっくり現代ローマ人の生態を観察しました。教会に人が来なくなったと思ったら、こんなところに集まっているのですね。

「沈黙」は10ほどあるマルチ映写室の7番目でやっていました。客の入りは半分ほど。青年も、初老もほとんどが男女のカップル。一人ボッチは神父の私ぐらいなものでした。

さて、ここからずばり私の感想を書くはずですが、写真がない、どうしよう?ネット上に散見する写真は借用を許される?ソースからご注意あればすぐ謝って削除するとして-営利目的でもなし-ひとまずお借りいたします。

  

1966年に遠藤周作の「沈黙」が出ると、日本では大評判になり、海外でももてはやされました。しかし、中世哲学研究室の助手の耳目に勝手に飛び込んでくる論評はなんとなく胡散臭く、読む気になりませんでした。ただ、最後の長編の「深い河」(1993年)だけは読み、95年の映画も見ました。そして、フーン?!これが遠藤の辿り着いた世界かと、別に感慨もなくそのまま忘れていました。 

当時、私は私なりに、自分の信仰と生きる道を真面目に考えていて、東京オリンピックの開会式を白黒テレビで見た夜の12時に、密かに横浜港から貨客船に乗って日本を脱出しました。25歳のときでした。

半年ほどかけてインドを放浪し、旅の終わりにはガンジス川のほとりの町や村を巡って色々な体験をしていたので、深い河の映像は見慣れた世界でした。 

私をうろたえさせたのは、そこそこ教養を身につけたカトリック信者のイタリア人たちが、遠藤の「沈黙」を優れた作品として持ち上げ、私にも同意を求めるそぶりを見せたことでした。わたしには「棄教を肯定し美化するなんて・・・!」と言って怒る単純なご婦人方のほうが、よっぽど正直に思えました。

ナザレのイエスが、十字架の上で壮絶な最後を遂げようとした時、天の父なる神が「沈黙」を破って、「そんなに苦しまなくてもよい、奇跡の力を使って十字架から降りなさい」と言ったとは、聖書のどこにも書いてありません。キリストの場合でさえも、拷問にまさる究極の苦しみ、つまり、神にも見捨てられたという絶望の彼方にしか、復活の栄光は輝き出なかったとすれば、信者の殉教を見た神父の懊悩に、神が沈黙で応えるのは当たり前ではありませんか。

遠藤が、迫害の極限状態における神の「見かけ上の沈黙」は、実は神が人間の弱さに同情して、暗黙裡に「踏み絵を踏みなさい、転んでもいいよ」と言っているのだと言う都合のいい解釈は、結局、そうでない神は受け入れられない、つまり、「神は存在しない」と言っているのと同じではないでしょうか。

「沈黙」をもてはやすカトリックの高位聖職者や神学者らの論評に接するほどに、読む気が失せていった裏には、そんな思いがあったような気がします。

今回、スコセッシ版のハリウッド映画に見る遠藤の世界には、聖書の神、ナザレのイエスの天の父なる神はいませんでした。いるのは日本の神々の神、森羅万象に秘められた力に「人間が勝手に名を貼り付けた神」であって、森羅万象を無から創造した「生ける神」、モーゼに「私は在りて、在る者なり」と「自分の側から名乗りを上げた神」はいませんでした。

映画「サイレンス」に深い感銘を覚たと言って、私に同意を求めるイタリアの紳士淑女の心の中にも、「ナザレのイエスの天の父なる神」はすでにいないのではないか、と不安になりました。これは文化や風土の違いではなく、信仰内容の質の問題でしょう。

鍵を握っている概念は「復活」です。ザックリ言って紀元前2000年ごろに、ユダヤ人の祖先アブラハムに「アブラハム!アブラハムよ!」と人類に初めてはっきりと語りかけた神を信じる一神教には、「復活」「永遠の命」の概念が根底にあります。と言うか、日本に限らず、キリスト教以外の宗教にはそれが欠落しています。(同じアブラハムから派生したユダヤ教や回教においてさえそれは曖昧で希薄です。)

日本人は、キリスト教の様々な祝い事や外国のお祭りを上手に取り入れて、何でも金儲けの機会に利用します。クリスマス商戦が典型だが、バレンタインデーも万聖節やハロウィーンなどもその中に入ります。ところが、キリスト教にとって最大のお祭りである「復活祭」だけは、どうもしっくりと馴染まないようです。「復活祭記念バーゲンセール」も銀座のクラブでは政治家の「復活祭パーティー」も聞いたことがありません。

しかし、この「復活」の信仰なしに「殉教」もあり得ません。私が今回数枚の写真をお借りしたサイト

https://www.fashion-press.net/news/25736

は、「サイレンス」のあらすじを:

17世紀江戸初期、幕府による激しいキリシタン弾圧下の⻑崎で、棄教したとされる宣教師フェレイラの真実を確かめるために日本にたどり着いた若き司祭ロドリゴとガルペ。⻑崎に潜⼊した彼らが⽬撃したのは、⻑崎奉⾏による想像を絶する弾圧の現状だった。
次々と犠牲になる⼈々。守るべきは⼤いなる信念か、⽬の前の弱々しい命か。⼼に迷いが⽣じた事でわかった、強いと疑わなかった⾃分⾃⾝の弱さ。追い詰められた彼の決断とはー。

と言う言葉で始めています。

フェレイラ神父はすでに穴釣りの拷問に耐えかねて棄教していました。神父のガルペは「むしろ巻き」にされて海に投げ込まれた美しい村娘(小松菜奈)を助けようと飛び込んで溺れ死にました(これは一種の殉教と言えるでしょう)。問題のロドリゴは、棄教し妻子のある役人になっていたフェレイラに会い、穴吊りの拷問に苦しみもだえる信者たちの姿を見て、穴吊を待たずに踏み絵を踏んで転び、妻を得ます。

小松菜奈

素朴な日本の信者たちは、神は人類を不死のものとして創造したのに、人間は傲慢の罪で命の源である神から自らを切り離し、当然の結果として死ぬべき運命を引き寄せてしまった。その人類を憐み、罪と死の影から救い出すために、神の子キリストは「十字架上の死」を通して「死」を打ち滅ぼし、「復活の命」と永遠の幸せの国、キリシタン用語で「ハライソ(パラダイス=天国)」を取り返して下さった、と教えられた。パードレ(フェレイラやロドリゴ)から「ハライソ」の信仰を植え付けられた彼らは、その言葉を信じて天国にあこがれて殉教していった。捕えられ拷問を受けることを恐れながらも、殉教者たちの姿に励まされ、自分も殉教しようと覚悟を固めていた矢先、その信仰を教えてくれたパードレが踏み絵を踏んで転んでしまうとは、なんという残酷な裏切りだろう。

パードレたちは自分が頭で信じていた教えを信者たちに植え付けたが、彼ら自身はその神の存在を心では信じていなかったということか。17世紀のパードレの不信仰は、遠藤によって共有され、その神の非存在は60年代、70年代の日本のカトリックのインテリに感染し、今や、イタリアの自称カトリック信者の中に広く蔓延して行きつつあるのだろうか。

パラダイスの存在を固く信じず、それに憧れることのない信者は、心底では神を信じてはいない。だから、神が沈黙すれば彼らは踏み絵を踏み、転ぶ道を選ぶ。遠藤がたどり着き、スコセッシ監督が台湾の美しい自然に託して描写した「ころびキリシタン」の運命はイタリア人をふくむ「我々人間の限界」の発見を意味するのだろうか。

しかし、ここで忘れてはいけないのは、「神がいる」ことへの信仰と、それに基づく「殉教」は、神の一方的な恵みのよるものであって、人間が自らの力で獲得できるものではないということだろう。人間にはできなくても、神が居るなら、神が一緒ならできることがある。

もし、世界を-そして人間を-愛をもって創造した神が居るなら、天国は確かにある。その天国にあこがれる人には、殉教を成し遂げうる力が神の恵みとして与えられる、と信じることは今日でも可能なはずではないだろうか。私はとんでもない罪深い人生を送ってきたという自覚があるから、手の届きそうにない殉教に敢えて憧れる。殉教者は無条件に「ハライソ(天国)」に入れると教えられ、キリシタンはそれを信じた。私ごとき罪人には、そうでもしなければ救われないのではないか、という思いがある。死は一瞬の通過儀礼に過ぎず、人は「復活」して永遠に生き続ける。これがキリスト者の「信仰告白」、殉教者の「証し」ではないか。

それにしてもこれほど多くの日本人俳優がそろい踏みしたハリウッド映画は、過去に例が無かったように思った。日本人はハリウッドまで占領するつもりなのだろうか?

 

中央はスコセッシ監督 

 【ワシントン時事】 トランプ米大統領は25日放送されたABCテレビのインタビューで、テロ容疑者の尋問に関して、拷問に当たる水責めなどの手法は「機能する」と主張した。さらに、治安当局に求められれば、法律の範囲内で復活に尽力すると明言した(オバマは拷問を禁じていたのに・・・)

〔陰の声〕 トランプさん!拷問なら日本人が発明した「穴吊り」が最もよく「機能」しますよ。レシピは以下の通りです。

穴吊りは、1メートルほどの穴の中に上半身が入るよう逆さに吊す。吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がって早く死なないようにする。頭に充血して死なないようにこめかみや耳に小さな穴を開けて血を抜く。二枚の板を半月形にくりぬき、腰のあたりを挟みつけて穴の中を暗黒にする。穴の中に糞尿などの汚物を入れ、地上で騒がしい音を立て、精神を苛む。足から吊されたまま放置すれば、身体全体の耐えられぬほどの激痛に加え、孤独、無力、助けと励ましになるものもなく、時間はゆっくり流れていく。あとは苦しもうともがこうと捨て置くだけ。転ぶ意志を示して信仰を棄てるか死ぬまでそのままかのどちらかであった。
この刑罰は実に効果的で、外国人の宣教師達もこれで何人も『転んだ』が、中浦ジュリアンは棄教せずに死を選んだ。

しかし、転ばせることを念頭に置かないなら、ローマ人が発明しキリストがその犠牲になった十字架刑よりも残酷な処刑方法はない。ゲテモノ食いの物好きさんは私の本「バンカー、そして神父」その実態がいかなるものかをリアルに詳述したのでご照覧あれ。http://books.rakuten.co.jp/rb/4122150/

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★ トランプ大統領就任式=新世紀の幕開け

2017-01-20 21:29:01 | ★ ローマの日記

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トランプ大統領就任式=新世紀の幕開け

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ローマ時間夕方の5時半は、日本の深夜の1時半だろう。

アメリカの大統領就任式を最初から最後まで、日本のどこかのチャンネルが全部生中継したかどうかは知らないが、されたとしても、徹夜でそれを見た日本人は少なかろう。

ところが、ここローマでは、沢山の市民が、この時代を画する大イベントを見ようと、テレビの前に釘付けになっていたのだ。私たちのリーダーのキコは、増改築なった神学校の聖堂に巨大壁画を描くためにここに居合わせた。彼は数名のアシスタントの画家と一緒にこのテレビ中継を見るために神学校の応接間に陣取った。たまたま彼と打ち合わせすることがあった私も、誘われて一緒に見ることになった。今どきのハイヴィジョンの画面はきれいで、写真に撮っても画質は何とか保たれる。

実況中継を見損なった皆さんに何枚か写真を選んでお伝えしよう。

 

就任式場はワシントンの米連邦議事堂の前で行われた

 

ファンファーレが広場に響き渡っていよいよ就任式が始まった

 

テレビの画面の下には、赤のストライプの中に「トランプ、ホワイトハウスに就任する日」とあって、その下の黄色いストライプには、イタリア山岳地方で雪崩が直撃したホテルの速報「少なくとも10人生存、3人の子供・・・バランガホテル」とある。

 

議事堂前広場を埋めた群衆 遠くにオベリスクが聳える

 

就任式で聖書に手を置いて宣誓するトランプ新大統領

 

宣誓が終わると祝砲が轟く

 

応接間でテレビを見守るキコと画家集団

 

キコは新しい時代の幕開けをどう受け止めているのだろうか 時代の変化を敏感に感じ取っていることだけは確かだ

 

議事堂のドームの上の星条旗の下に見える宣誓式の壇

 

就任演説をする新大統領 相変わらずのトランプ節が展開された アメリカ第一主義!

 

トランプの演説を聞く敗れたヒラリー夫人と 退くオバマ前大統領 その胸の裡は・・・?

 

演説を終えてガッツポーズのトランプ

 

トランプの演説のあと 宗教代表者の挨拶があった 日本の国会では有り得ない光景

最初が前列右端のユダヤ教の教師(ラビ) その次が右から3人目の空色のネクタイのプロテスタントの牧師 最後がマイクの前にいる青紫のシャツに白いカラーを付けた黒人牧師 そして神妙に聞くトランプ

カトリックの高位聖職者の姿はこの場面にはなかった。

 

アメリカの国歌を独唱する美人のソプラノ

 

式典終了後退席するクリントン夫妻 ヒラリーの心の整理はついたのだろうか 意外とさわやかな顔に見えた

 

 

見終えて感想はいろいろあるが、一言では言えない。トランプに核のボタンをゆだねたのは狂人に刃物、と言うひともいるだろう。トランプの就任は第3次世界大戦の不吉な前触れと言う人もいるかもしれない。アメリカ人はこの男に権力をゆだねたが、狂犬を巷に放ったことにならなければいいが。果たして彼は任期を全う出来るのだろうか?ケネディーは暗殺された。プロの殺し屋の凶弾二発を腹部に受けたローマ法王聖ヨハネパウロ2世は、絶対に死ぬはずだったのに奇跡的に生きながらえた。ヒットラー暗殺の試みはことごとく失敗して多数の処刑者を出した。歴史とは不思議なものだ。これから何が起こるか分からなくなった。祈るしかないように思う。

(おわり)

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★ ある神父の告白

2017-01-06 21:27:40 | ★ ローマの日記

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 ある神父の告白

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「福島」のテーマばかりでは飽きられてしまう。ここらが話題を変える潮時ではなかろうか。

 

 

信者の告白

カトリックの神父は、信者の告白(懺悔)を聴くことになっている。今の教皇フランシスコも、聴罪司祭に一定のリズムで告白して、神に罪の赦しを願っているはずだ。聖教皇ヨハネパウロ2世は確かにそうしていた。

 

 

人は日に何度罪を犯す?

聖人でも日に7度罪を犯す、と昔の人は言う。では、我々凡人はいか程だろうか?70回?まさかそれ程でもあるまい。凡人も日に7度なのだそうだ。では違わないではないか?いや、そうでもない。聖人は自分が7度罪を犯したことを反省して神に赦しを願ってから床に就く。凡人は罪を犯したことにさえ気付かず、さっさといびきをかいて寝る。良心の鋭敏さの違いだ。

アンドレオッティ元イタリア首相もカトリック信者だった。だから懺悔をして見せていた。彼の聴罪司祭は神学校で私の同級生のホセ・カサス神父だった。大悪党の罪の聴き役にふさわしい聖なる若者だった。彼の謙遜な物腰と内面を見透かすような澄んだ瞳に、私は嫉妬を感じたものだった。

 

 

場末の教会の告解場(懺悔部屋)

神父になったばかりの頃、ローマの場末の教会で、論文を書きながら学生神父をしていたことがある。日曜の午前中は窮屈な薄暗いブースの中で、信者たちの懺悔をひたすら聴き続けるのが仕事だった。聖堂の反対側のブースにはイタリア人のベテラン神父が座っているのだが、私の人気は抜群で、男たちの多くは私のところにやってくる。アジア人の新米神父はイタリア語に弱いから、難しい言葉で遠回しに告白すればわからないだろう、という浅はかな計算だ。ところがどっこい、人間の犯す罪は7つのカテゴリーのどれかと相場が決まっている。どんな言い回しで煙に巻こうとしても、すぐばれることに気付かないのだろうか。この酔っ払いの、女たらしの、盗人の、噓つきの愚か者めが!

しかし、そういう私は「やれやれ、やっと俺より罪深い男の懺悔を聴いたわい!」と密かに溜飲を下げたことがまだ一度もない。この善良な人たち、なんと些細な罪を正直に告白するものか、とひたすら感じ入ってその日のお勤めを終える毎日だった。

 

 

「共同告解」または「集団懺悔式」

特別な仲間内の信者の共同体では、頻繁に共同告解(集団懺悔式)をやる。薄暗いブースの中で格子越しにヒソヒソやるのではない。

四角い部屋で、司式司祭と2-3人の手伝いの神父を一辺にして、一同は壁を背にしてコの字型に席に着く。聖書の朗読や説教や祈りが終わると、司祭は互いに距離を置いて部屋の中心にばらばらと立つ。信者たちはその司祭の一人に近づいて立ったまま対面で罪の告白をして、終えると司祭に前に跪いて赦しを受けてから席に戻る。衆人環視の中の告白だが、見ている側はギターに合わせて讃美歌を歌い続けるので、告白の内容はかき消されて聞き取れないように工夫されている。

 

 

 

私はこの共同告解式が大の苦手だ。私には人の懺悔を聴きながら、突然涙を流し始めるという、実にバツの悪い癖があるからだ。みんなの見ている前で、初老の神父に、若いきれいなお嬢さんが、肩触れ合うほどの距離で耳元に何かささやくと、私の目からツーッと涙が流れ落ちる。その娘もつられてポロポロ泣き始める。二人の間に何が起こったのか。悪い神父が彼女をいじめたのではないか。見守る周りの信者たちはそのスキャンダラスな光景に気が気ではない。

 

 

この突然の涙腺故障のメカニズムは、およそ次の通りだ。 

ふつう、人の良心の奥深い聖域はプライドと羞恥心に固くガードされていて、他人の前に曝されることはない。それが、私の前で、まるで神の前におけるかのように、彼女の良心の秘密、隠された罪があからさまになることがある。神父の服を着ているが、私はただの俗物にすぎない。その厳かで神聖な出来事を前にして畏怖の念に打たれる。その瞬間、神の霊が下ってその蔭が司祭と信者を覆うのを感じる。見えない神の手が、私と彼女に触れている、と言う確かな感触に感極まって私の涙腺が壊れてしまうのだ。 

彼女の魂もこの瞬間に神の恵みに満たされて、悪魔の呪縛から解かれて、涙と歓喜に包まれる回心の厳粛な瞬間だ。無限の憐みと、赦しと、愛である神の現存に触れ得た時のおののきと言えば伝わるだろうか。

誠に神父冥利に尽きる瞬間なのだが、人の懺悔を聴きながら神父が泣いているなんて、何が起きているのか見当もつかない傍観者を前にして、現象としてこんなにテレ臭い、絵にならない話もないものだ。

  

 

ある神父の告白

ところで、表題で「ある神父の告白」と言いながら、人の告白のことばかり書いていては片手落ちではないか?そろそろ自分の罪を告白して話を終わらせねばなるまい。

わたしがローマで老々介護をしていることは以前にもブログに書いた。私は77歳。相手は92歳の老司教様。普段100人からの若い学生で賑わう神学校に、クリスマス・正月休暇中は二人きりで籠城する。不便だが、冬場に高齢で足の弱った司教様の環境を大きく変えることはリスクを伴う。広い幽霊屋敷で3度の食事の世話は私の仕事。買い出しから皿洗いまで、主婦(夫)業の大変さが身に染みる。

食事の他に午後のお茶の時間も欠かせないセレモニーだ。司教様は一日中私以外に口を利く相手がいない。日本茶と羊羹でしばらく間を持たせる。たいていは私が司教様の思い出話の聴き役で時が流れる。実に心楽しいひと時なのだ。

だが、この冬、一度だけ、外出を理由にそのお茶の時間に失礼したことがあった。彼は何処へ何しに?とは尋ねなかったが、私が何か秘密を持ったことを感じたに違いない。以来、彼と一緒に居て、良心にとがめるところがあるが、今さら面と向って白状するわけにもいかない。だから、ブログの読者に告白しようと思う。

 

実はあの日、私はサーカスを見に行ったのだった。

たまたま、車で食料の買い出しに普段より遠出したとき、偶然サーカスのテントを見てしまった。私はこの手の誘惑に対しては並外れた弱さを自覚している。しかし、司教様にサーカスに行くからお茶の時間に付き合えないとはどうしても言えなかった。彼は自分の年齢と体力を忘れて、好奇心と負けん気だけは人一倍強い。自分もぜひ見たいと思ったら我慢が出来ない人なのだ。だからと言って連れて行くのは危険だ。杖にすがって立ち続けるのは5分が限界なのだが、車椅子は断固拒否するから始末が悪い。子供連れの母親やお爺ちゃんたちと一緒におしゃべりで暇をつぶしながら、切符を求めてのんびり冷たい風の中で長蛇の列に並べば、彼は5分と立っていられないし、慢性気管支拡張症で咳と痰の切れない彼は、痰を詰まらせて急性肺炎を起こしかねない。また、そのあと2時間もテントの中に座り続ければ疲労困憊して命取りになる危険性が現実にある。そんな彼を暖かい部屋に一人残して、行く先を告げずに私は出かけた。サーカスのテントの中で子供たちに交じって孤独にショーを眺めながら、良心は疼いた。司教様ゴメンナサイ。ああ、神様ゴメンナサイ!

 ( お・わ・り )

 

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★ バチカン=今年も日本のために宣教師を養成

2016-10-30 17:02:10 | ★ ローマの日記

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バチカン今年も日本のために宣教師を養成

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昨日、10月29日(土)ローマのバジリカ《ラテラノ教会》で助祭叙階式が行われた。

10人の助祭のうち3人がレデンプトーリス・マーテル神学院に属し、その中のアルフォンソ君(メキシコ人)は、元高松の神学院のメンバーで、来春司祭に叙階されれば、やがて、日本に宣教師として派遣される道が開ける。

ラテラノ教会は4世紀初頭にコンスタンチン大帝によって建立されたローマで一番古いバジリカ様式で、16世紀には今の形に出来上っていた。世界中の教会の母教会と呼ばれ、付属のラテラノ宮殿は長く教皇の住居だった。

聖堂の中央にそびえる天蓋の下に祭壇がある。そして、天蓋の上の部分に聖ペトロと聖パウロの聖遺物が収めれれている。

中央祭壇の後ろには広い内陣がある。内陣の奥にある大理石の白い椅子が「教皇座」で、ここが教皇の正式の教会だ。全世界の教会の頂点に立つのがこのラテラノ教会で、バチカンの聖ペトロ大聖堂よりもある意味で格式が高い。

ローマの司教、教皇の座(カテドラ)があるから司教座聖堂をカテドラルと言ういい方はそこから来る。そして、この椅子の後ろに隠し戸と隠し部屋があり、すぐラテラノ宮殿につながっていて、聖堂内に異変があった時教皇はいち早く難を逃れることが出来るようにできているのだ。 

内陣の左側に祭儀の準備室がある。その奥まったところにある小聖堂はこの日は司教たちの更衣室になっていた。日本でキリシタンの迫害が始まった時、カトリックの神父を志して日本を脱出したペトロ・カスイ岐部は、マカオ、ゴアまでは船で、そのあとはインド、ペルシャ、聖地イスラエルを経て単身徒歩で陸路ローマを目指し、大冒険の末ようやくローマにたどり着いた。そして彼はこの部屋で司祭に叙階されたのだった。明かりこそ電気に代わっているが、そのほかの調度装飾は当時のままだと思われる。 

ペトロ・カスイ岐部神父は、苦労して鎖国下の日本に潜入し、やがて東北で捕えら、殉教の死を遂げる。今列聖に向けて調査が進んでいる。

 

私たち司祭はその隣の部屋で祭服に着替える。岐部神父もこの同じ壁画を見たに違いない。

レデンプトーリス・マーテル神学院の同僚の司祭たち

平山司教(92歳)と共に久しぶりに盛装をした。

中央祭壇の前で司式するのは左上の白い帽子をかぶったヴァリーニ枢機卿。教皇代理のローマ司教だ。定刻に叙階式は始まったが、聖堂は満席に人が入っていた。祭服の下に一応カメラを隠していたが、最前列に座る私はさすがに気おくれがして、ほとんど写真が撮れなかった。 式はどんどん進んでいく。

叙階式も無事に終わり、式に参列した司教、司祭は内陣脇の控室に戻ってきた。

司式したヴァリーニ枢機卿と平山司教

右からアンヘル副院長、院長の平山司教、叙階されたばかりの新助祭アルフォンソ君、そして院長秘書の私

式が終わって外に出ると、晩秋の日は早く暮れて、夜のとばりが降りていた。その夜を境に1時間繰り下がる冬時間が始まった。

バチカンは日本の教会の高齢化、司祭の不足を憂慮している。さしあたりこの12月に1人、来年5月に2人、近い将来、日本に派遣される宣教師司祭が新たに誕生することになっている。彼らはしっかり日本語を学び、派遣される準備は既に整っているのだが・・・。

 

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★ 〔追加補足版〕 最近のバチカン動静

2015-11-02 17:40:23 | ★ ローマの日記

 

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最近のバチカン動静

「家庭」をテーマにした「シノドス」のことー

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2-3日前、ある方から以下のようなメールをいただきました

神父様

ごぶさたしております。

過日は恵久子さんのリポートをありがとうございました。程なくしてご本人よりメールで近況のご報告をいただきました。今の私たちには祈ることぐらいしかできませんが、それでもみんなで祈れば、神様もきっと私たちの気持ちを察してくださるだろうと信じております。

ところで、そうこうするうちに、シノドス(「家庭の使命」をテーマにした「世界代表司教会議」)も終了しました。

ゲイのモンシニョール(高位聖職者の尊称)のカミングアウトがあったり、13人だったかの枢機卿らが教皇に意見書を送ったり、果ては教皇脳腫瘍説まで流れたりして、話題には事欠かないシノドスでしたが、結局のところ、肝心のその中身についてはなんだかよくわからない。というのが我々一般信徒の正直な思いではないでしょうか。

軽はずみに言うと叱られそうですが、私などは、再婚者に対する扱いなどは、ケチケチしないで聖体拝領ぐらいさせてやったらいいのに、と思ってしまいます。

そこで神父様にお願いです。そのあたりのことを、神父様のご見解をまじえながら、私たちに解説いただけないでしょうか?期待しているブログの読者も多いのではないかと思います。

それと、我らが教皇様ですが、今回誰の目にも明らかになったのは、バチカン内部で、反ベルゴリオ勢力が暗躍しているということですね。(ベルゴリオは教皇になる前の本名)

以前の神父様の記事にもありましたが、いつか暗殺でもされるのではないかと心配です。

しかしおそらく本人は、あまり気にしていなくて、むしろその時はその時と腹をくくっているようにさえ見えます。そこまでして教皇がやりたいことは何なのか、それがどれほど価値のあることなのか、そんな点についても神父様のお考えをお聞かせいただければと存じます。

なんだかリクエストの多いメールになってしまいましたが、とにかくご回答いただければ嬉しいです!(G.M.)

 

それで、だいたい以下のようなお返事を書きました。

G. M. 様

シノドスについてはいろいろ間接的に耳にしていますが、直接情報に基づくその結論の分析・評価はまだできていません。

核心部分を置き去りにした周辺問題の多くは、正直なところ、あまり気の乗らないテーマでした。

神は人間を「男」と「女」に造られた (創世記1章27節)

生めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ(創世記1章28節)

この2つが聖書に基づく「家庭」に関する不変の真理で、これをゆがめるものは、すべて悪い霊からの撹乱だと思います。

パウロ6世の「フマーネ・ヴィテ」(ピルや器具を用いての避妊の禁止-これも上の聖書の言葉と関係がある-)も教会の不動の教えです。 

この3点にしっかり根を下ろさぬ諸説は、ごまかしか妥協の産物です。ジェンダー論議や再婚者のミサでの聖体拝領などは周辺的・付帯的テーマで、ケースバイケースの判断の対象ではあっても、シノドスの主要な関心事ではありえません。

教皇フランシスコが上の3つの原点に忠実であろうとすれば、そういう教皇は亡きものにしようという黒い意思が蠢いても不思議ではありません。

そもそも、第2バチカン公会議の大改革は、そういう黒い意思を打ち砕くものでした。だから、第2バチカン公会議をなんとか無事成功裏に幕引きしたパウロ6世教皇が、封印されていたファチマの第3の秘密(教皇の暗殺を予言するもの)を読んで、自分の暗殺を意味していると理解し、恐怖のあまり失神して倒れたと言うような話が流布するのも、故なしとはしません。

現にその次の教皇聖ヨハネパウロ1世は、早速公会議の決定を忠実に実施に移そうとした矢先に、登位30日ほどで毒殺されました(と私は理解している)。そして、その次の教皇、聖教皇ヨハネパウロ2世は銃弾で確実に暗殺されたのに、奇跡的に一命を取りとめました。ベネディクト16世はなりふり構わぬ警護で身を守り、無事生きて教皇位を退いたが、今の教皇がやられなという保証は全くありません。

そこまでしても教皇が守りたいこととは、ですか?それは、言うまでもなく第2バチカン公会議の決定とその方向性だと思われます。

第2バチカン公会議の決定とは、一言で言えば「コンスタンチン体制との決別」と「キリスト教の《キリストの教会》への復帰」に他ならないのです。

キリストは生前「神のものは神に」「セザル(皇帝)のものはセザルに」と峻別されたのに、ローマ皇帝コンスタンチンは「キリストの花嫁である教会」を手籠めにして「地上の帝国」と結婚させてしまったのでした。皇帝を「男」だとすれば、教会は神の浄配、つまりて「女性」として描写されます。これはシノドスのジェンダー論で大いに議論されてしかるべきことだったはずでした。

この21世紀に、もう一度「神の花嫁」を手籠めにしてこの世の覇者(お金の神様)の妾にしようとする闇の勢力が、その邪魔になる「教皇」を暗殺する可能性は現実にあると私は思います。

そもそも、ナンバー2以下の地位にある人間なら、降格や左遷で力を削ぐこともできますが、トップを降ろすには暗殺しかない場合がほとんどです。それは、ジュリアス・シーザーの時代から、ケネディー大統領に至るまで、ビン・ラーディンもサダム・フセインも、そして、イエス・キリストだって、その12人の弟子全員も、結局は殺す以外に彼らの影響力を無力化する手段はありませんでした。昔も、今も、未来永劫同じです。

第2バチカン公会議以来、歴代の教皇が暗殺されたり、されかかったりの連続なのは何の不思議もありません。

ブログの更新ですが、今は忙しくて落ち着いて書いている心のゆとりがありませんが、もしお許しいただけるなら、「最近こんなメールを頂きました」という書き出しで、頂いたメールと私のこのお返事をセットにして―多少ブログ向きに手を加えて―アップすることができますがいかがでしょうか?しばらくブログを書いていないので、一石二鳥かと思いますが・・・                                                                                                                               谷口        

 

このメールには、今もってお返事がありません。が、反対ならすぐに反応があっただろうと思っています。きっと、見切り発車をしても強いお咎めはないものと推察して、アップに踏み切る次第です。

と思っていたら、入れ違いに転載OKのメールが届きました。

神父さま 

お忙しい中お返事ありがとうございました。得心いたしました。 

今回のシノドスについては、欧米のメディアもスキャンダラスな内容ばかり伝えていますし、日本のメディアはそれをそのまま受けるだけですから、本質はどこにあるのかわからなくなってしまいます。もっともそれが今回のさまざまなスキャンダルを画策した人たちのねらいであったなら、その目的はほぼ達成されたのかもしれません。いずれにしても、私と同じ思いの方は少なからずいらっしゃるはずですので、神父様のご提案のように、ブログにアップをぜひお願いいたします!

恵久子さんにお会いになられるのですね。何もできずに申し訳ない思いでいっぱいですが、とにかく体のことが第一です。日々お祈りしております。先日、相馬を訪ねた知人から話を聞く機会がありましたが、状況はひどいものだそうです。たとえば、線量のごまかしは地元の人ならば誰でも知っているとのことでした。 

また現地でのレポートをお願いしたいところです。この度はありがとうございました。神父様もコンサートの件もありお忙しい身です。くれぐれもご自愛ください。それでは、また。(G.M.)

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★ 教皇の改革8人衆の一人、キコのミサを司式

2015-03-04 16:20:37 | ★ ローマの日記

集会場の上を舞う白いハトの群れ

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教皇フランシスコ の 改革8人衆の一人ペル枢機卿

キコの共同体ミサを司式

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谷口神父は ローマでよっぽど暇を持て余して 年甲斐もなく

ブログを連発して 気楽なマスターベーションに耽っている と陰口をたたかれると

いささか辛いものがあるのでありますが

来年5月 キコの日本でのシンフォニーツアーを成功させる という大任を仰せつかって

少しでもキコという人物を日本の人々に知ってもらいたい

そのシンフォニーのテーマ

「無垢な人々の苦しみ」

という言葉の意味内容を 一人でも多くの人に理解してもらいたいという 一途な思い以外にはないのです

 

ポルトサンジオルジオの丘に立つ大きな十字架

この十字架のもとに世界5大陸に散っている新求道共同体の旅人宣教師約1000人が集まって情報交換をしている

 

 足元には小さな花が無数に咲き 春を告げている

その十字架の隣に巨大な宇宙船が舞い降りたような これをイタリア語でテンダという

この「宇宙船」はキコの設計によるコンクリート製だが

テンダとはテントのことで 私が初めてここを訪れた1990年には まだこの場所に巨大な粗末な円形の大テントが本当にあった

 

去る3月1日の日曜日 テンダの中では ペル枢機卿司式のミサが荘厳に行われていた

後ろの壁画はキコが描いたもの

 

教皇フランシスコはペドフィリアやバチカン銀行の黒いうわさなどで威信が深く傷ついたカトリック教会を抜本的に改革するために、その実行部隊として8人の枢機卿のチームを任命し大幅な権限を与えた。(俗にいう改革8人衆だ。)

その中の一人、オーストラリアはシドニーの大司教であるジョージ・ペル枢機卿はバチカン銀行の解体も辞さぬ勢いで大鉈を振るった人物だ。彼が日曜日にわざわざここまで来て共同体のミサを司式するということは、彼が共同体を認め高く評価している印であり、ひいては彼を8人衆に選んだ教皇フランシスコがそれを支持していることにほかならない。

司式者の座に着いたペル枢機卿

 

私はなぜそのことをブログに書くのか。それは、キコという一介のスペイン人信徒の始めた新しい福音宣教の運動が、現代のカトリック教会の中でどのように認知され、位置づけられているかを客観的に評価していただきたいと思うからだ。

香をたいて祭壇の供え物の「種無しパン」と「葡萄酒の盃」を清めるペル枢機卿

後ろに居並ぶのは いまや世界に102校を数えるレデンプトーリスマーテル(贖い主の母)神学校を出た司祭たち

 

聖変化でカリス(盃)を奉げる枢機卿

 

直径25センチほどの種無しパンを約1000人の参会者に分けるために裂く司祭たち

パンと葡萄酒をこの大人数に15分ほどで粛然と配り終える

 

そもそも、キコの新しい福音宣教を評価して、この場所でキコが編み出したやり方に従ってミサを行ったカトリックの高位聖職者のなかで、もっとも初期の最も顕著な人物は、今や聖人の位に挙げられた聖教皇ヨハネ・パウロ2世その人だった。同教皇は1988年12月30日「聖家族の祝日」にバチカンからここの駐車場に設けられたヘリポートに専用ヘリコプターで飛来し、今回のペル枢機卿が行った通りのミサを(当時はまだ質素なテントだった)ここで自ら行い、実質的にそれを承認した。そして、同じ日、ヨハネ・パウロ2世はまとまった数としては初めて、72組の信徒家族を「宣教家族」として全世界に派遣した。この日、カトリック教会のキリストの福音を宣教する使命の最前線の担い手の役割は、「独身者」の司祭や修道女の手から、ごくありふれた生活人の「家族」の手にバトンタッチされたのだった。

 

キコは自作の数百曲の讃美歌から選んで式を進行していく 彼はギターの名手だ 声も渋い

 

ミサが滞りなく終わると 前の数列の人が輪になって 祭壇を囲んでキコの歌に合わせて踊り出す

 

ミサ後 名を名乗って挨拶をするほどの身ではないことをわきまえつつ 何となく取り巻く小さな輪の中に身を置いてみた

 

 

私がこのところ立て続けのブログを連発するのは、この金曜日、3月6日に、現教皇フランシスコがバチカンのパウロ6世謁見場で去年に続いてまた大勢の宣教家族を全世界へ派遣する式を荘厳に執り行うことになっているからだ。その中には日本に派遣される宣教家族も含まれていることは言うまでもない。

 

これ何語? SEXTA-FERIA は週の6番目の日つまり金曜日

 とにかく「3月6日金曜日に教皇フランシスコが新求道共同体に謁見を賜る」と読める

(上のツーショットはフェースブックから 写真は去年の宣教家族派遣式の時のものだろう)

3月6日(金)の教皇謁見と宣教家族の派遣式は 衛星を通じて全世界にテレビ同時中継 が行われ、

ラジオでも全世界で聞かれる。日本では

日本時間19時から ネットのバチカン放送でライブ中継が見られます。

 

(つづく)

コメント (2)
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