:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 済みません!とっくに退院しています。

2015-10-14 00:01:16 | ★ 病院日記

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済みません!とっくに退院しています

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岡山の総社で集まりがあって、1年ぶりに会う人も多かった。異口同音に、もう退院したんですか?大丈夫ですか?の質問攻めに面喰らった。

そうか!「入院しました」も書いたし、ご丁寧に「病院日記」も書いたが、「退院報告」は書いていなかったのを思い出した。大変な片手落ちでした。

鬱陶しい梅雨空の6月25日に、下落合の聖母病院に、30年来の友、「糖尿病」との正しいお付き合いの仕方を学ぶために、今さらの感も無くはなかったが、自発的に教育入院と称してひき籠った。インシュリンは今までも必要としてこなかったが、薬は飲まされた。3週間も毎日1600キロカロリーの食事を食べ続けると、さすがに体がその量と質を覚えたようだった。2週間を過ぎた頃から、血糖値は正常値に収まるようになった。体重も5キロほど落ちた。私のやや合理的な頭は、食事の量と血糖値、体重との1対1の正確な因果関係を目の当たりにして、何だこういうことだったのか、と初めて納得が行ったらしい。

納得が行ったから、それを続けることに特段の抵抗がなかった。7月15日に退院して以来、今日10月13日現在、血糖値正常、体重も横這いかさらに下降気味で推移している。願わくば、棺桶に入るまで体重のリバウンドが無いようにしたいものだと願っている。

人様に迷惑をかけてまで長生きはしたくないものだと思う。願わくば合併症を発症して人の世話を受けなければ日常が過ごせないことにならないまま一生を終えたいものだ、というわけで、薬を飲み忘れず、体重をさらに落とすようにしたいと思っている。

しかし、人間の寿命は神様の専権事項。健康にもそれはある程度当てはまる。最善を尽くして、後はお任せするしかない。今まで、さんざん不摂生をしてきた身とあっては、多くを望むべくもないと悟ってはいるが・・・ただ、人様に迷惑をかけてまでは・・・という気持ちに偽りはない。

体に何の不調も無かったのに、ふとした思いつきで、梅雨空を避けて病院をホテル代わりにのんびり休んで読書三昧していたのに、飛んだご心配をかけてしまったものだと、反省することしきりです。まずは、何事もなかったので、ご安心ください。

付録に小話を一つ

お金持ちがいた。お金に糸目をつけず、健康と長寿に資すると言われたサプリメントをさんざん飲んで過ごした。おかげで97歳で大往生を遂げた。天国に着いて神様に挨拶をして言った。

「神様、有難うございました。豊かな生活と長寿を賜り、幸せな生涯でした。有難うございました。」

すると神様は言われた。

「愚か者よ!お前が富を自分のためにばかり使い、余計なサプリメントを買いあさって飲んだから、せっかく110歳まで私が用意していた寿命を自分で勝手に縮めてしまったではないか!」

お金をかけずにできる節制以外の長寿法は止めときましょうね、皆さん!

 

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★ 病院日記-3 《エックハルトについて》

2015-07-12 06:13:34 | ★ 病院日記

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病院日記-3《エックハルトについて》

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そろそろブログを更新しようと思うのだが、困ったことが起きた。それは、貼り付けるべき写真がないことだ。ローマなら、日本との距離のおかげで、何を撮っても絵になるのだが、日本人が読む日本語のブログに、日本の身の回りの写真では大概インパクトに欠ける。

梅雨の晴れ間に、「運動散歩」と目的欄に書いて「外出届」を出し、下落合界隈を散歩した。聖母病院から通称「アートの小路」を画家の「中村彝(つね)アトリエ記念館」を通って目白通りに並行した裏道を目白駅、学習院の先まで歩いた。

 気温は高かったが、空気は乾燥していて、暑さがさほど苦にならなかった。邸宅と呼ぶにはいずれもやや小ぶりながら、歴史と文化を感じさせる閑静な住宅地の庭先の花を撮ってきたので、写真はそれと決めた。

 

 

僅か5日ほどを211号の同じ病室で二人きりで過ごしたYさんとの時間は、実に濃密だった。

次第にわかってきたことだが、かれはギターを弾く。それも、かなりのレベルのようだ。かつては、フリーのジャーナリストをやっていた。有名人の対談記事も手掛けていたようだが、今はたっぷり自分の思索の時間を取れる仕事についていて、清貧のなか、大変な読書家でもあるらしい。

存在界について、生死について、仏教について、キリスト教について・・・、彼の投げかけてくる問題は、いずれも本質を捉えた重いテーマだったが、私は信仰、哲学、社会問題などに関しては、自分なりに思索し蓄積してきた中から、大概は確信を持って受け答えが出来た。そして、彼がそれを良く耕され大地が雨を吸いこむように受け止めてくれる確かな手応えがあって、この対話はお互いに大きな知的満足をもたらした。

さて、話がエックハルトのことに及んだ。

「先生はエックハルトをどう思われますか?」(彼は私を「神父さん」とは呼ばない。)

「あの神秘家のマイスター・エックハルトのことですか?若い頃に哲学史・思想史の中で通り一遍のことは習ったが、深くは研究しないままに終わったから、自説を展開できるほどの知識はありません。」と正直に告白した。

エックハルトについて思い出すのは、彼が中世ドイツの神秘主義者で、神を「無」とし、個人と神の直接の関係を説いて、教会から破門されたことぐらいで、その教説の詳細は何も記憶していない。

そんな私とは対照的に、Yさんは、日本語で読める限りのエックハルトの文献を絶版のものまで探して読み込んで、その思想を深く体得して、自分の精神的支柱にしているように見受けられた。砂漠のような大東京に住む市井の無名の探究者に、マイスター・エックハルトの達人がいたことを知って私は感動を覚えた。

エックハルトの教説には:

「汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう。

というのがあるが、この分かったような、分からないような新プラトン主義的な思想が、教会軽視につながるとみなされ、異端宣告を受けることとなった、という。神との合一を説き、神性を「無」とするエックハルトの思想は、どこかで仏教の教えと一脈通じ合うところがあり、後世のヘーゲルや、ショーペンハウアーや、ニーチェに影響を及ぼしたのだそうだ。 

話は私が澤木興道師に師事して座禅に励んでいた頃のことや、十牛図(注)のことにまで及んだが、彼が強く反応したのは、私の国際金融マンからカトリックの司祭への転身のこともさることながら、特に、キコに出会うまでどこにも安住すること無く、絶えず移ろいゆく魂の遍歴についてだった。

彼は退院の前日、私の書いた本、「バンカー、そして神父」(亜紀書房)、「司祭・我が道」(フリープレス社)、「ケリグマ」(これはキコの本を私が翻訳したもので同じくフリープレス社)の3冊を私のパソコンから注文した。私の共同体の土曜の「感謝の祭儀」(ミサ)にも是非参加したいと言った。彼の好奇心、探求心はもう全開だった。

退院の日も朝から話し合って、昼食後、病院の玄関まで見送った。次の土曜日の午後私を見舞いに来て、一緒に共同体のミサに行くと約束して、握手して別れた。

この人は神に近いな、と思った。

 

 

この出会いがどんなに特別だったかは、彼が退院して数日一人で独占していた4人部屋に、その後相次いで患者が入り、しばらく前から満室だが、新入りさんたちはいずれも終日カーテンを巡らし、顔を合せても会釈一つなく、地下鉄で乗り合わせた隣の人のように、都会の孤独と無関心そのものの全く取り付く島のない状態にあることからもはっきりと分かる。

 

 

〔注〕十牛図(じゅうぎゅうず)は、禅の悟りにいたる道筋を、牛を主題とした十枚の絵で表したもの。

 

 

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★ 病院日記-2

2015-07-05 00:19:35 | ★ 病院日記

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病院日記-2

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聖母病院の聖堂に至る廊下 雨でも病棟から傘なしで行ける

前のブログは:

《話が「・・・それは四谷で・・・」というところまで来たとき、私は思わず「いや、それは東中野です!」と口を挟んでしまった。自分でもびっくりしたが、見ると、もっとびっくりした二人の顔が、カーテンの隙間から無言でこちらを凝視していた。》

という一節で終わっていた。

聖堂入り口の聖母子像

大型の量産品だが なんとか鑑賞に堪える出来栄えだった 花が造花でなくてほっとした

 

それで、その話の続きは・・・

別にカーテンの向こうの話に聞き耳を立てていたわけではないが、同室の彼は、どうやらキリスト教、それも今はカトリックに興味があるようだった。そして、受け答えをしている白衣のTさんは、カトリック信者であるらしい。

二人の会話は、井上洋治という神父が、生前、「風の家」という庵を結んで、ファンの信者さんたちを集めていたという話に及んだ。同室のYさんは、「その家は四谷にあった」、と言った。そのとき私は、自分の記憶によればそれは東中野のはずだったと思って、つい余計な口を挟んでしまったのだったが、それがきっかけで事は急展開を遂げた。

YさんとTさんがカーテンのお城から出てきた。

三人はベッドの間に椅子を集めて向き合い、短い自己紹介があった。

彼は腸内ポリプの切除で入院していた。彼女は、白衣を着ているが、医師でも看護師でもない。では何者?患者の中には不安な人も、孤独な人も、退屈な人も、もろもろの悩みを抱えた人もいるだろう。そのような面に寄り添うのが、どうやら彼女の仕事のようだった。カーテンの外から聞こえた声の主が現役の神父だと知って二人は仰天した。

同室の彼は、若い頃から生きることの意味を真面目に探究してきた人のようで、その知識の広さ、深さは半端ではないことを知って、今度は私が仰天した。それがいかほどのものであったかは、このブログの中で次第に明らかになっていくだろう。

彼はプロテスタントの教会には深く出入りしたことがあったようだが、カトリックは敷居が高くて、まだ縁がなかったと言った。

彼女は、手始めに四谷のイグナチオ教会などはどうだろう。大きい教会だから、いろんなグループがあって、どこかに場所を見つけられるのではないか、と言った。

すると彼は、マンモス教会ではなく、本当の交わりのある「共同体」が欲しいと言った。彼は、生前井上洋治神父がやっていた「風の家」のミサに与ったことがあったが、彼はそのミサに疎外感を感じて溶け込めなかったそうだ。それが四谷のイグナチオ教会だったと言ったから、私はすかさず「それは東中野です!」と突っこみを入れたのだが、どうやらそれは私の早とちりだった。

私には、親戚に実の伯母のように慕う聖心女子大の一期生がいた。東中野に住んでいて、井上神父の大ファンとして、近くの「風の家」に入り浸っていたのを私は憶えていた。だから自信を持ってそう言い放ったのだが、井上神父が最晩年に四谷でミサをしていたことを私は知らなかったのだ。

井上師はカルメル会という修道会に入り、フランスで学び、神父になって帰国した後、会を出て東京教区の司祭になった。

彼の有名なお題目(お祈り)は:

アッバ、アッバ、南無アッバ

イエスさまにつきそわれ

いきとしいけるものと手をつなぎ

おみ風さまにつつまれて

アッバ、アッバ、南無アッバ

 

ということになっている。

これを、日本のインカルチュレーション(キリスト教の日本文化への土着化)を唱道するカトリック教会の一部は、まるで「土着化」の大傑作のように持ち上げるのだが、皆さまはどう思われるだろうか。ローマの正統派の神学者なら、きっと首をかしげ、眉をひそめるに違いないと私は思う。

私が「句会」の「辛口撰者」になったつもりで偉そうに講評するならば、三行目の

「いきとしいけるものと手をつなぎ」 

は字余りの生煮え表現で、前後のなめらかな流れを壊してよくない。ここは思い切って「一切衆生と手をつなぎ」とするのがいいだろう。そして、最後が何とも尻切れトンボで座りがわるい。重複を避ける意味も込めて、たっぷり余韻を持たせたいなら、この「お経」の完成された姿は:

アッバ、アッバ、南無アッバ

イエスさまにつきそわれ

一切衆生と手をつなぎ

おみ風さまにつつまれて

ナンマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ~~!  

とするのがいいだろう。

 

聖母病院の聖堂 天井が傾斜していて 祈る心が傾くような 不安定な感じを受けるのは私だけか 

しかし、問題が残る。井上神父が工夫を懲らしたこの「お題目」を、今日のカトリック信者にそのまま見せたら、正しく理解できるものは100人に一人、いや、1000人に一人もいるだろうか。では、仏教の教養ある人に見せたらどうだろう。1000人が1000人ともチンプンカンプンであるに違いない。また、渋谷のスクランブル交差点を渡る茶髪の若者に見せても、

「なーにコレ?ワケわかんねェ!」

と一蹴されること請け合いだ。解らないところが有難いのだ、と開き直ればそれまでだが・・・。

これは井上師の聖書の教養と、仏教理解と、古典語の知識から紡ぎ出された孤独な想念の産物で、彼の心の世界を共有できないものには解読不能だ。これをキリスト教の土着化、諸宗教対話の偉大な結晶ともてはやすのは如何なものかと思うが、遠藤周作らと共に、かつて知的カトリック人士の間で一世を風靡したことを、今は懐かしく思い返す。

おっと、脱線した。

井上師の「お題目」論は、もちろんYさんとの会話のテーマではなかった。彼はただ、井上師の没後、彼の「風の家」の精神を引き継いだ個人が四谷麹町の住所から「風」という冊子(一冊1000円)を出していることを知っていて、「風の家」も四谷に存在したと思い込んでいたことに、私が引っかかっただけのことだった。

ともあれ、ノンクリスチャンの彼が井上師の「風の家」を知っていたこと自体が驚きだった。

二人の対話は、夕食を跨いで消灯時間まで、それも彼が退院する日まで続いた。そして、その中身は実に興味深く多岐にわたったのだったが、それはまた次のブログに譲るとしよう。

つづく)

〔注〕:「アッバ」はフランス語では「パパー」=お父ちゃん、おやじ、トッチャンなどの意味。

      「おみ風」は「聖霊」のことだろう。

聖堂入り口わきのステンドグラス

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★ わたし、入院しました (病院日記 ー1)

2015-07-01 06:27:43 | ★ 病院日記

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わたし、入院しました(病院日記―1)

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 東京 下落合二丁目

聖 母 病 院

 

1940年は私の生まれた翌年 上は 昭和15年の聖母病院の絵図だ

 

 植木の間に見えるのは二本の塔のひとつ よく見ると 75年前の上の絵図にすでに描かれている

この聖母病院を建てたのは 熊本の癩病院から奉仕活動をはじめた5人のフランス人の修道女たちだった

 

ドクター N、内科医長に入院を勧められて、素直に同意した。

東京の聖母病院には何かと思い出が多い。大の親友のシスター T がここの栄養士をしていた頃は、厚いステーキと極上のブランデーを目当てに、病院の厨房によく密かに通ったものだった。今は、姉 - やはりシスターの - が外国人患者の通訳として受付に座っているのも心強い。それに、チャプレンの D 神父は旧知の仲だ。心を病んだ ― 今は亡き ― 妹もしばらくここの修道院で世話になった歴史も忘れてはならない。

そのうえ、N先生の「教育入院」という言葉には、どこか牧歌的な響きがあって、まんざら悪い気がしなかった。

自分が糖尿病と知ったのは、30年も前のことだった。国際金融マンとして飽食の限りを尽くし奢り高ぶった生活に溺れていた頃のことで、知っても真面目に取り組んでいられる環境にはなかった。

その後、教区を追われて不遇な貧しい神父に転落し、辛くも野尻湖の山荘に一人蟄居していたときは、長野日赤病院の糖尿専門医の若い女医さんに「私の言うとおりにしたら、合併症を発症せずに一生を終えられることを保証するわよ」と言われて、本気で取り組んだが、彼女が、転勤する医者のご主人の後を追って名古屋に行ってしまってからは「振られた」ような気分で、ヤケになって努力をやめてしまっていた。

ローマでは、英国で看護師をしたのちに高松の神学生となったフィリッピン人のロピート君が、親身になって面倒を見てくれていた間は良かったが、彼が間もなく神父になるということで私の世話をできなくなってからは、また対応がいい加減になっていた。

昨年末、後期高齢者の仲間入りをしたのを期に、「合併症が出るならそろそろ潮時だ、明日かもしれない、来月かもしれない」と思うと、人様に迷惑をかけてまで生きていたくないという思いが急に強くなり、もう手遅れかもしれないが、ダメ元で糖尿病と初めて真剣に向き合ってみようと思ったのが今回の「教育入院」の動機だった。

さて、その朝、指定された10時に出頭し、右手首に囚人番号の入った腕輪をつけられ、二階の211号室に収監され、まっ昼間から囚人服(パジャマ姿)に着替えて、ゆっくりあたり見回した。

貧しい老司祭だから、勧められた差額ベッドの個室はお断りした。ここは4人部屋だが、先住民は一人だけだった。彼はカーテンの防壁をめぐらしてひっそりと音なしの構えだったので、つい挨拶をしそびれてしまった。

閉所恐怖症の私はと言えば、わざとカーテンをしないで、部屋の4分の3の空間を独占して心地よい巣作りに時間を費やしていた。

午後、部屋の4分の1の空間をカーテンで切り取った彼の世界に、ひとりの看護婦さん―あとでパストラルケアー室の T さんと分かった―が入って行った。カーテンの向こうの様子は見えないが、3メートルと離れていない場所での二人の会話はいやでも全部耳に入ってくる。聴くとはなしに聞いているうちに、いささか興味をそそられた。そして、話が「・・・それは四谷で・・・」というところまで来たとき、私は思わず「いや、それは東中野です!」と口を挟んでしまった。自分でもびっくりしたが、見ると、もっとびっくりした二人の顔が、カーテンの隙間から無言でこちらを凝視していた。

(つづく)

コメント (4)
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