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病院日記-2
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聖母病院の聖堂に至る廊下 雨でも病棟から傘なしで行ける
前のブログは:
《話が「・・・それは四谷で・・・」というところまで来たとき、私は思わず「いや、それは東中野です!」と口を挟んでしまった。自分でもびっくりしたが、見ると、もっとびっくりした二人の顔が、カーテンの隙間から無言でこちらを凝視していた。》
という一節で終わっていた。
聖堂入り口の聖母子像
大型の量産品だが なんとか鑑賞に堪える出来栄えだった 花が造花でなくてほっとした
それで、その話の続きは・・・
別にカーテンの向こうの話に聞き耳を立てていたわけではないが、同室の彼は、どうやらキリスト教、それも今はカトリックに興味があるようだった。そして、受け答えをしている白衣のTさんは、カトリック信者であるらしい。
二人の会話は、井上洋治という神父が、生前、「風の家」という庵を結んで、ファンの信者さんたちを集めていたという話に及んだ。同室のYさんは、「その家は四谷にあった」、と言った。そのとき私は、自分の記憶によればそれは東中野のはずだったと思って、つい余計な口を挟んでしまったのだったが、それがきっかけで事は急展開を遂げた。
YさんとTさんがカーテンのお城から出てきた。
三人はベッドの間に椅子を集めて向き合い、短い自己紹介があった。
彼は腸内ポリプの切除で入院していた。彼女は、白衣を着ているが、医師でも看護師でもない。では何者?患者の中には不安な人も、孤独な人も、退屈な人も、もろもろの悩みを抱えた人もいるだろう。そのような面に寄り添うのが、どうやら彼女の仕事のようだった。カーテンの外から聞こえた声の主が現役の神父だと知って二人は仰天した。
同室の彼は、若い頃から生きることの意味を真面目に探究してきた人のようで、その知識の広さ、深さは半端ではないことを知って、今度は私が仰天した。それがいかほどのものであったかは、このブログの中で次第に明らかになっていくだろう。
彼はプロテスタントの教会には深く出入りしたことがあったようだが、カトリックは敷居が高くて、まだ縁がなかったと言った。
彼女は、手始めに四谷のイグナチオ教会などはどうだろう。大きい教会だから、いろんなグループがあって、どこかに場所を見つけられるのではないか、と言った。
すると彼は、マンモス教会ではなく、本当の交わりのある「共同体」が欲しいと言った。彼は、生前井上洋治神父がやっていた「風の家」のミサに与ったことがあったが、彼はそのミサに疎外感を感じて溶け込めなかったそうだ。それが四谷のイグナチオ教会だったと言ったから、私はすかさず「それは東中野です!」と突っこみを入れたのだが、どうやらそれは私の早とちりだった。
私には、親戚に実の伯母のように慕う聖心女子大の一期生がいた。東中野に住んでいて、井上神父の大ファンとして、近くの「風の家」に入り浸っていたのを私は憶えていた。だから自信を持ってそう言い放ったのだが、井上神父が最晩年に四谷でミサをしていたことを私は知らなかったのだ。
井上師はカルメル会という修道会に入り、フランスで学び、神父になって帰国した後、会を出て東京教区の司祭になった。
彼の有名なお題目(お祈り)は:
アッバ、アッバ、南無アッバ
イエスさまにつきそわれ
いきとしいけるものと手をつなぎ
おみ風さまにつつまれて
アッバ、アッバ、南無アッバ
ということになっている。
これを、日本のインカルチュレーション(キリスト教の日本文化への土着化)を唱道するカトリック教会の一部は、まるで「土着化」の大傑作のように持ち上げるのだが、皆さまはどう思われるだろうか。ローマの正統派の神学者なら、きっと首をかしげ、眉をひそめるに違いないと私は思う。
私が「句会」の「辛口撰者」になったつもりで偉そうに講評するならば、三行目の
「いきとしいけるものと手をつなぎ」
は字余りの生煮え表現で、前後のなめらかな流れを壊してよくない。ここは思い切って「一切衆生と手をつなぎ」とするのがいいだろう。そして、最後が何とも尻切れトンボで座りがわるい。重複を避ける意味も込めて、たっぷり余韻を持たせたいなら、この「お経」の完成された姿は:
アッバ、アッバ、南無アッバ
イエスさまにつきそわれ
一切衆生と手をつなぎ
おみ風さまにつつまれて
ナンマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ~~!
とするのがいいだろう。
聖母病院の聖堂 天井が傾斜していて 祈る心が傾くような 不安定な感じを受けるのは私だけか
しかし、問題が残る。井上神父が工夫を懲らしたこの「お題目」を、今日のカトリック信者にそのまま見せたら、正しく理解できるものは100人に一人、いや、1000人に一人もいるだろうか。では、仏教の教養ある人に見せたらどうだろう。1000人が1000人ともチンプンカンプンであるに違いない。また、渋谷のスクランブル交差点を渡る茶髪の若者に見せても、
「なーにコレ?ワケわかんねェ!」
と一蹴されること請け合いだ。解らないところが有難いのだ、と開き直ればそれまでだが・・・。
これは井上師の聖書の教養と、仏教理解と、古典語の知識から紡ぎ出された孤独な想念の産物で、彼の心の世界を共有できないものには解読不能だ。これをキリスト教の土着化、諸宗教対話の偉大な結晶ともてはやすのは如何なものかと思うが、遠藤周作らと共に、かつて知的カトリック人士の間で一世を風靡したことを、今は懐かしく思い返す。
おっと、脱線した。
井上師の「お題目」論は、もちろんYさんとの会話のテーマではなかった。彼はただ、井上師の没後、彼の「風の家」の精神を引き継いだ個人が四谷麹町の住所から「風」という冊子(一冊1000円)を出していることを知っていて、「風の家」も四谷に存在したと思い込んでいたことに、私が引っかかっただけのことだった。
ともあれ、ノンクリスチャンの彼が井上師の「風の家」を知っていたこと自体が驚きだった。
二人の対話は、夕食を跨いで消灯時間まで、それも彼が退院する日まで続いた。そして、その中身は実に興味深く多岐にわたったのだったが、それはまた次のブログに譲るとしよう。
(つづく)
〔注〕:「アッバ」はフランス語では「パパー」=お父ちゃん、おやじ、トッチャンなどの意味。
「おみ風」は「聖霊」のことだろう。
聖堂入り口わきのステンドグラス