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肉体の復活は本当にあるか(その-2)
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私に哲学する楽しさを教えて下さったのは、私の恩師であり、若き日の霊的指導者のヘルマン・ホイヴェルス神父だった。
1964年に一緒にインドを旅した時のホイヴェルス神父(ペン画は筆者)
世間には大学で哲学を講じ、哲学者を自任する人がいる。
しかし、その多くは、実は過去の哲学者の教説を解釈する哲学史の専門家であって、
自ら哲学することを楽しむ人とは別の人種である場合がほとんどだ。
アリストテレスが、カントが、ベルグソンが、西田幾多郎が・・・哲学史の中にどう位置づけれられ、何を説いたかを、
誰よりもよく研究し、解説できる人を、世は哲学者と呼び、その人はそれで生活が成り立つ。
しかし、哲学を講じる事を生業とする人が、自ら「哲学をする人」であるとは限らない。
世界とは何か、人間とは何か、私は何故存在し、何のための存在するのか、etc.を命がけで探求する人。
その意味では、ホイヴェルス神父は哲学する楽しみを知るまことの哲学者だった。
その彼が、信仰無しに哲学するのは危ないから止した方がいい、と言った。
また、信仰無しに真面目に哲学をすれば、いずれ発狂するか、自殺するのが落ちである、と警告された。
その典型的な例が、
1903年(明治36年)日光の華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」を書き残して自殺した藤村操だ。
厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。
藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名にのぼった(内既遂が40名)。
華厳滝がいまだに自殺の名所として知られるのは、操の死ゆえである。
その藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通りだ。
- 悠々たる哉天壤、
- 遼々たる哉古今、
- 五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
- ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
- 萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
- 我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
- 既に巌頭に立つに及んで、
- 胸中何等の不安あるなし。
- 始めて知る、
- 大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。
これは、日本に於いてホイヴェルス神父の警告が的中した典型的な例ではなかったろうか。
そう言えば、キコもその自伝的処女作「ケリグマ」の中で、サルトルの演劇の影響を受けて、神の存在無しには「人生は不条理」と悟った。青年時代の彼は、その「不条理」が必然的に行き着く先は自殺だと思い知ったと書いている。「人生は不可解」と悟って自殺を選んだ藤村と同じだ。
しかし、ホイヴェルス師は、神を信じる者にとって哲学は実に楽しい知的営みだともいった。彼はその楽しみを私に教えようとした。
神を信じないものが「神学をする」というのは結構笑える形容矛盾だが、哲学者が往々にしてただの哲学史の教師に過ぎなかったように、世に神学者を自称する者たちも、往々にして、過去の偉大な神学者の解説者、釈義学者である場合がほとんどで、直接神と対話し、観想し、神を味わう楽しみを知っているまことの神学者はむしろ稀なのではないだろうか。
何故こんな回りくどい前置きを書くのか。それは、「肉体の復活は本当にあるか?」という設問との関連で、キリストの復活はラザロの復活(蘇生)と本質的に異なり、甦ってこの世の生に戻ってくるのではなく、肉体ごと彼岸の世界へ、永遠の世界への旅立ちとしての復活だということを明らかのしたいからだ。
その際、一番厄介なのは、聖書の記述だ。聖書では、イエスが葬られて三日目の朝から、オリーブの丘から昇天するまで、体をもって弟子たちの前に度々現れたと書いている。キリストは、真っ直ぐ彼岸の永遠の世界へは行けばよかったのに、そうはしないで、しばらくの間、蘇生したラザロよろしく、この世をうろうろして、チョロチョロと弟子たちの前に見え隠れしたかのような印象を与える。いや、ただの印象ではなく、教会の伝統的な教えはまさにそのようなものとして説くのが今もって正当派のようでさえある。
はたして本当にそうか。私はラザロの墓の中にいたとき、確かに「ジョン、出てきなさい!」と言う声を聴いた。その時私は二つの声を聴いたように思う。一つは言うまでもなく巡礼のリーダー、カテキスタの一人の声だった。それを私は肉の耳で聞いた。そしてもう一つの声は、ナザレのイエスの声で、それを霊の耳で聞いたように思う。
同じことを、実はすでにペトロの首位権の教会で体験していた。「ジョン、私を愛しているか?」と言う声は、肉の耳にはウイーンのシェーンボルン枢機卿の声であったが、霊の耳に響いたのは、2000年の時間を超えて、紛れもなく主イエスの声だったではないか。
この、一つの出来事における2つの現実について、聖書は重要な示唆に富むエピソードを記している。
中風の人をいやす(マルコ2章1-12節)
イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
イエスは人間の思いを見抜いて、この中風の人を即時に奇跡的に癒して、ご自分の力を示された。人間の目には、「あなたの罪は許される」と口先で言うのは簡単だが、中風を癒すのは容易ではない(いや、不可能だ)と映るだろう。だから、「あなたの罪は許される」と言うのは神を冒涜する言葉だと言って文句を言う者たちに、もっと難しい癒しの奇蹟を行って見せて、ギャフンと言わせてやったのだ。
しかも、本当は肉体の病、中風を癒すことより、魂の病、罪を赦すことの方が、比較にならないほど難しい高度な業であることに私たちは気付くはずではないだろうか。
長くなるが、もう一つだけ聖書の例を引こう。
五千人に食べ物を与える(ルカ9章12-17節)
日が傾きかけたので、十二弟子がイエスのもとにきて言った、「群衆を解散して、まわりの村々やへ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。
しかしイエスは言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。彼らは言った、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。
というのは、男が五千人ばかりもいたからである。しかしイエスは弟子たちに言われた、「人々をおおよそ五十人ずつの組にして、すわらせなさい」。
彼らはそのとおりにして、みんなをすわらせた。
イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。
みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。
教会の神父さんが聖書のこの箇所についてお説教する時、このパンを増やす奇跡のメカニズムをどう説明するか興味深い。普通は、何も解釈しないですり抜けるのが無難なのだが、こだわると墓穴を掘る羽目になる。五つのパンで五千人を満腹させて、なお12のかごに余るためには、どうしてもパンが増えなければならない。5つのパンを裂いて12使徒が群衆に向かう。その間に手の中でパンがポコンと増える。弟子たちが手の中のパンを裂いて分けると、裂く度に手の中でポコン、ポコンとパンが増える。分けて与える弟子たちもさぞ面白かったことだろう。人は奇蹟譚だというけれど、それではまるで手品の世界ではないか。そんなの有り得ない。いや、有り得ないはずのことが起こったから奇蹟なのか?
もう一つの説明は、イエスは男だけで5千人の群衆を、50人ぐらいずつ組にして坐らせたことと関係がある。大集団の中では個は埋没するが、50人ほどの少人数になると、お互いの顔が見えてくる。イエスが利己心を棄てて、顔のある身近な人の必要に心を配るよう隣人愛を説いて、それによって群衆の一人一人の心が柔らかくなり、自分のためだけに食料を隠し持っていたものが、持たない人たちに平等に分けることで、みんな満腹し、有り余った、というのはどうだろう。
なんだ、パンは増えたのではなくて、もとからあったんじゃない。そんなの、奇跡でもなんでもない。ちぎっちゃあ増え、ちぎっちゃあ増えして、物理的には絶対に有り得ないことが起こったからこそ、奇跡じゃないの。
どっこい、そうでもないぞ。死を恐れる人間の自己防衛本能、自己愛、エゴイズムがどれほど根深く強烈なものかを考えると、せっかく自分のために持ってきたものを、そんなに簡単に気前よく他人と分かち合えるだろうか。それも、一人や二人ならともかく、5千人がそろいもそろってみんな回心するなんて、そんなことこそ絶対に有り得ない。もしそれが可能なら、この世の中に飢死にする人何か一人もいないはずではないか。人類は歴史を通じて、過去に絶え間なく無数の餓死者を出してきたし、現在も十分に栄養の取れない飢餓人口は9億6300万人おり、その数は毎年増加傾向にある。毎年約1500万人、4秒に1人の割合で飢餓が原因で死亡している。食べものを富めるものが浪費してしまうという富の格差が、飢餓の根本的な原因なのだ。世界の食料生産総量は、世界中の人々を養うに十分な量があるというのに。
50人の小グループの中で、互いの顔が見えてきて、その必要が理解できて、他人が他人でなくなって、互いに愛し合うようになって、その愛がエゴイズムに打ち勝って、隠し持っていたものを分かち合えるようになるなんて、それも、100組もそれ以上ものグループが同時に一斉にそうなるなんて、イエスがその説教と弟子たちの模範を通してそれを成し遂げたなんて、何と言う奇蹟だろう。不可能を可能にした世紀の大奇蹟ではなかっただろうか。それを集団催眠と言うか。だが、人間の独占本能、排他的所有欲の根深さを思えば、そんな催眠が起きること、それこそが高度な奇蹟なのではないか。
キコと言う人は、神を信じない人とかわらない様な価値観で生きている名前だけのキリスト信者を捕まえて、それを35人~50人の小グループに分けて、20年も30年もかけて薫陶し、何とか上の大奇跡に似た状況を体現出来るほどの小集団に育て上げようとしている。その数は、5千人などではなく、今や世界中でその数100万人ほどに増えているのではないかと私は試算する。
パンを手品のように手の中で増やすのを奇跡と言うならば、5千人の心が柔らかくなって、持たない人に持っているものが寛大に惜しみなくパンを、富を、分かち合うようにさせる方が、どれほど大きな奇蹟だろう。
だけど、それがどうした?それが「人間の肉体の復活」、それも「彼岸への復活」とどんな関係があるのか?それが、大ありなんですね。そのことは次回のブログで説明するとしましょう。乞う、ご期待!
(つづく)