:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★  忘れられた中世の町「アナーニ」への郷愁 「教皇ボニファチウス8世の屈辱」

2014-03-26 17:37:53 | ★ ローマの日記

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 忘れられた中世の町「アナーニ」への郷愁

「教皇ボニファチウス8世の屈辱」

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中世の静けさと厳かな雰囲気をそのまま残す小さな町、アナーニ "Anagni"。

ローマから白ワインの産地フラスカーティを通って南に1時間ちょっとのところだが、

観光客の姿はほとんど見られない。

小高い山の上に築かれ、エトルスク時代の遺跡と古い石畳の坂道、城壁や門の跡が残っている。

地下にはローマ時代に掘られた「秘密の抜け穴」があり、「財宝」が見つかったこもあるとか。

アナーニは「法王の町」としても 有名で、イノセント3世をはじめ4人の偉大な法王が出た。

大聖堂は1104年に完成したロマネスク様式。

霧のかかった夕暮れに見ると、まるで「ハムレット」の舞台。実際、テレビや映画のロケーションによく使われるそうだ。

内部は大理石のモザイクで飾られ、特に「法王の座」の周りはため息が出るほど美しい。 

 

そんな町の教会の共同体の集いでミサや告白の奉仕に招かれたのが一月あまり前のことだった。

この町にも「新求道共同体」があり、一部の信者たちが「本当のキリスト教的回心と大人の信仰」を求めて

日々研鑚と宣教活動に励んでいる。

はじめて見る日本人の神父とその経歴に新鮮な興味を持ったか、かれらは今後のつながりも念頭に、あらためて招いてくれた。

 

ここの主任司祭は私より2歳若いが、その「司祭」としての貫禄に私など足元にも及ばない。新しい友情に感謝しなければ・・・ 

 

昼食は共同体の責任者の家で8人の兄弟と和やかに進んだ。チーズたっぷりのラザニアは写真に撮る前に胃袋に消えた。

メインは牛肉と腸詰とアートチョークだったが、勧められる量は私の胃袋のキャパシティーの倍ほどもある。

 

   

今日は朝ローマを出る時から雨模様だった。食事中にベランダが急に騒がしくなった。雨でぬれたタイルの上に

白い粒が飛び跳ねていると思ったら、ほんの2-3分で白く積もり始めた。霰を伴う春の嵐だ。

 

  

 イタリア中世の町と言えば、日本人はロメオとジュリエットのヴェローナや、聖フランシスコのアシジなどを思うだろうか?

その点、観光的にはこのアナーニは全く忘れ去られていると言ってもいい。しかし、その歴史的重みは他を大きく凌ぐものがある。

ひとの気配がしない。看板もネオンもないこの町並み、観光地ならこうは行かない。

大きいガラスの明るいショーウインドーの中は、土産物屋やレストランや、アイスクリーム屋になっているからだ。 

 

カテドラル。こういう複雑な形をしているのは、何度も増築を重ねた古い聖堂の特徴だ。

 

だが、内部は簡素で均整が取れていて美しい。

地下聖堂は、ガイド付きでなければ入れず、写真は禁止だったが、「地下のシスティーナ礼拝堂」の異名を誇る

ミケランジェロよりもはるかに古い時代のフレスコ画の宝庫だった。 

 

   

そして、4人の教皇を輩出したアナーニは、

「アナーニの屈辱」、またの名を「アナーニの平手打ち」で有名な教皇ボニファチオ8世の事件の舞台でもある。

事件の起きたボニファチオ教皇の舘の前には、建物維持に貢献している銀行のポスターがあった。

 

 

ボニファチオ8世像

 前教皇ベネディクト16世が自らの意思で生前退位するのは、1415年のグレゴリウス12世以来、

600年ぶりのこととされているが、それまでにも前例はあった。

ウイキペディアによれば、 第192代ローマ教皇のケレスティヌス5世は有徳の人であったが、「教皇の器にあらず」と在位数ヶ月にして自ら退位を希望し、夜な夜な聞こえる「ただちに教皇職を辞し、隠者の生活に戻れ」という声に悩まされた末にカエターニ枢機卿に相談したのであるが、実は、部下に教皇の寝室まで伝声管を引かせて毎夜ささやき、教皇を不眠症と神経衰弱に追い込んだ張本人はカエターニ自身であったといわれている。カエターニ枢機卿は教会法に基づいた辞任の方法を教皇に助言し、ここに存命のまま教皇が退任するという異例の事態が発生した。ケレスティヌス退任後、ただちに再びコンクラーヴェ(教皇選挙会議)が開かれ、その結果カエターニ枢機卿がボニファティウス8世としてローマ教皇に選出されたという。1294年のことだった。

アナーニの共同体に出会うまで、このボニファティウス教皇のことに全く注目していなかった私は、いま彼にただならぬ興味を抱いている。しかし、それについてはまた機会をあらためて書くのが適当だと思うので、今日はここまでにして、この忘れられた中世の町をもう少し探索しよう。

細い曲がりくねった坂道に外からは目立たない一軒の珍しい店があった。中にはこの女性が一人居た。

彼女は「リタ・トゥッリ」と名乗った。この店の女主人で、彼女の後ろの作品を全部彼女が一人で創って売っている。

手で描いた精密画ではない。世界中から集めた自然のあらゆる色合いの何千枚と言う薄板をモザイクのように貼り合わせたものだ。

観光地の土産物屋で大量に売っている廉価な類似品とは全くものが違う。一枚一枚が精緻な本物の芸術作品なのだ。

東京や名古屋で個展を開いたこともあるという。彼女が保存していた’90年の古い日本の旅行案内書にもこの店が紹介されていた。 

 

 

実は、このブログの冒頭の一文はこのガイドブックの記事

「ガイドブックにも載っていない きらめくモザイクの町アナーニは まるで映画のワンシーン」

から借用したものだ。記事の中の写真の人はリタに技術を伝えた職人の父親。

 

 

彼女は教皇ヨハネパウロ2世に多くの作品を献じ、また彼から多くの注文を受けた。

私の矢継ぎ早の質問に、彼女は忍耐強く製作の手順と秘術を説明してくれた。

アナーニでただ一軒伝わるこの技術は、残念ながら彼女で永久に途絶える。彼女の一人息子は受け継ぐ意思を持たないのだ。

フィレンツェやアシジのような観光地なら違ったかもしれないが・・・、と彼女は言う。

だが、この忘れ去られた死んだような中世の町にあの子をしばりつけておくことは出来ないし、と

彼女はあきらめ顔だった。

現代の競争社会に生き抜くだけの産業も技術もなく、大方たちは信仰も希望もなく、耐えつつ、消えゆく他に道はないのだろうか?

私の今日のブログ、今回のブログのメッセージはこれです。つまり、

こんな中世からそのまま抜け出してきたような美しい丘の上の町も、世界を覆う世俗化の津波に洗われて、

人々は信仰を失い、モラルは荒廃し、お金の神様の奴隷になって、目的も希望も失って、

孤独に闇の中を彷徨っているということです。日本の1億2700万の魂と同じように。

 

リタがくれた工房のチラシの裏に、何年前のものか、父娘の写真があった。アッ!2人とも全く同じ目をしている、と思った。

www.tarsieturri.it を開くと次の動画が出てきた。おあとはゆっくりお楽しみを! 

 

  

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(つづく)

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★ 〔完全版〕教皇のインタビュー (その-7)

2014-03-23 17:41:12 | ★ 教皇フランシスコ

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〔完全版〕教皇のインタビュー(その-7)

第2バチカン公会議 ・ 全ての事の中に神を探し、見つけること ・ 確かさと誤り

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私のブログの常連読者の多くにとってあまり関心のない教皇のインタビューを長々と続けることは、賢明ではないことを知らないわけではない。しかし、乗りかけた舟で今さら降りるわけにいかない。退屈された方は一回おきに書く別の話題だけをフォローしていただいてもいい。インタビューは今回で約4分の3をカバーしました。あと少しの辛抱です。どうかお見限りなく。




第二バチカン公会議

 「第二バチカン公会議は何を実現したのか?一体何が起きたのか?」私は、教皇のいままでの主張からして、巧みに関連付けられた長い一連の回答を期待しながらこの質問をした。ところが、印象としては、教皇は公会議を長々と話すに値しないほど明白なこと、単純にその重要性を再確認するだけで足りる議論の余地のない事柄、と考えているようだった。

 「第二バチカン公会議、それは現代の文化に照らして福音を読み直すことだった。公会議はただ単純に同じ福音から新たな刷新を生み出す運動にすぎなかった。しかしその成果は膨大だった。それは典礼の事を思い出すだけでも十分だろう。典礼改革は、具体的な歴史的状況から出発して福音を読み直す民への奉仕の仕事だった。そこには解釈上のラインの連続性と不連続性の問題があったが、にもかかわらず一つの事、つまり今日の時代に即した公会議に固有の福音の読み方の展開は、絶対に逆戻り出来ないものであることだけは明白だ。そのほかにも、Vetsus Ordo(公会議前の古い様式)による典礼の扱いなど個別の問題がある。教皇ベネディクトの選択は、この様式に固執する独特の感性を持った一部の人々に対する配慮としては賢明であったと私は思う。しかし、Vetsus Ordoをイデオロギー化し、それを(公会議を空洞化させるための)手段として利用しようとする動きには、憂慮すべきものがあると考えている。」

 

全ての事の中に神を探し、見つけること

 今日の挑戦に関する教皇フランシスコの話には大変並外れたものがある。数年前、現実を見るためには信仰の視点が必要で、それがなければ、現実をばらばらな断片としてしか見ないことになる。これはLumen fidei(信仰の光)の回勅のテーマの一つでもあった。私はリオ・デ・ジャネイロの世界青年大会の期間中に教皇フランシスコがした話の幾つかの箇所を頭に置いていた。それを引用しよう。「今日神がご自分を現されたとすれば、それは本当だ。」「神はあらゆる部分におられる。」これらの言葉には「全ての事の中に神を探し、見つけなさい」というイグナチオ的表現をこだまさせるものがある。そこで教皇に「教皇様、すべての事の中に神を探し、見つけるためにはどうすればいいのですか?」と訊ねた。

 「私がリオで言ったことは時間的な価値を持っている。実は、神を過去の中に、または将来起こり得ることの中に探し求めようとする誘惑がある。確かに神は彼が残した痕跡の中にいるから、過去の中にいるともいえる。また、約束として未来の中にもいる。しかし、《具体的な》神、とでも言うか、を見出すことができるのは今日の中だけだ。だから、泣き言を言っても神を見つけるためには全く何の役に立たない。この《野蛮な》世界は一体どうなってしまうのだろうかという今日の嘆きは、ともすれば教会の中にただの保守的な防衛的秩序への願望を生み出すだけに終わる。しかしそうであってはならない。私たちは今日神と出会わなければならないのだ。」

 「神は歴史的な啓示の中に、時間の中にご自分を現される。時間が流れを開始し、空間がそれを結晶させる。神は時間の中に、流れていく経過の中に見出される。時間、それも長く経過する時間、の前には、力の空間を特別視する必要はない。我々は空間を占めることにではなく、新しいプロセスを開始することに取り組まなければならない。神はご自分を時間の中に現し、歴史の経過の中に現存される。これは新しいダイナミズムを生む活動に特権を与えるものである。それはまた、我々に忍耐と待つことをも求める。」

 「全ての事象の中で神と出会うということは、経験的なeureka(発見)とは違う。私たちが神と出会いたいと願うとき、心のどこかで、経験的な方法ですぐに確かめたいと望んでいるかもしてない。しかし、そのような形で神に出会うことは出来ない。神はエリアのときに起きたように、かすかなそよ風の中で出会うものである。神に気付くのは、聖イグナチオが呼ぶところの《霊的な感性》によってである。イグナチオは神と出会うために純粋な経験科学的アプローチの彼方にある霊的な感受性を開くことを求めている。また、観想的な態度が必要だが、それは、事柄と状況に対して共感と愛情のこもったよい歩みを行うために、耳を傾けようとする姿勢だ。この良い歩みの印は、深い平和と、霊的な慰めと、神への愛と、事柄と状況の全てを神の中に見ようとする姿勢だ。」

 

確かさと誤り

 「もし、すべての事の中で神と出会うことが《経験的な理解》によるものではないとすれば、-と私は教皇に言った-したがって、もしそれが歴史を読み取る歩みの中で行われるものであるとすれば、誤りを犯すこともまた可能になるのではないだろうか・・・・」

 「そうだ、全ての事の中に神を探し見つけることの中には、常に不確実さの余地が残る。またそうでなければならない。もしある人が完全な確実さで神と出会ったと言い、不確かさの余地は全くないと言うとすれば、何かがおかしい。それは私にとって大切な鍵だ。もしある人がすべての疑問に対して答えを持っていると言うならば、それこそ神が彼と共にいないことの証拠だ。それは彼が偽預言者であって、彼は宗教を自分自身のために利用しているしるしだ。モーゼのような偉大な神の民の指導者は、常に疑いのために余地を残した。私たちの確実さにではなく、主のために場所を残しておかなければならないし、謙遜であることが必要だ。霊的な慰めに対して開かれたすべての本物の識別の中には、必ず不確かさがつきまとう。」

 「つまり、すべての事柄の中に神を探し見つけることに伴う危険性は、明白に述べすぎることと、《神はここにある》と人間的確実さと尊大さで言いたいという願望の中に潜んでいる。それでは私たちの物差しで測ることのできる、あるちっぽけな神を見つけることしかできない。あのアウグスチヌス的な態度、すなわち、神を見つけるために探し、神を絶えず探しつづけるために見つけることこそが正しい態度だ。聖書を読み解くときのように、何度も手探りで探すことだ。私たちの模範となるのは、信仰の偉大な教父たちのこの経験だ。ヘブライ人への手紙の11章をもう一度読み返す要がある。アブラハムは信仰ゆえに、どこへ行くのかも知らずに出発した。私たちの信仰の先祖たちは皆、約束された土地を見て死んだが、それはまだ遥か遠くに見ながらのことだった・・・。我々の命は、すべてが書き記された完成した小冊子としてではなく、それは行くべき、歩むべき、行うべき、探すべき、見るべきものとして与えられているのだ・・・。私たちは、出会いを探し求め、神が出会わせ探させるに任せる冒険へと踏み入らなければならない。」

 「それは、神が先にあり、神が常に先におられ、神が 第一者 だからだ。アントニオ、神はお前のシチリアでいつも一番先に咲くアーモンドの花にちょっと似たところがある。そのことを私たちは預言者の書の中に読む。だから、神とは、歩みながら、歩みの中で出会うものだ。その点で、人はそれを相対主義と呼ぶことができるかもしれない。だが、それは相対主義だろうか?もし悪意に解釈して、ある種の曖昧な汎神論だと言うならば、その通りかもしれない。しかし、聖書的な意味で理解すれば、そうではない。聖書的には神は常にひとつの驚きであるから、あなたは神がどこでどのように見つかるかを決して知ることはないし、神との出会いの時と場所を決めるのもあなたではない。だから出会いは識別される必要がある。その理由で識別は基本的である。」

 「もし或るキリスト者が復古主義者の律法主義者で、どうしてもすべてを明らかに確実にしたいと望むとすれば、その人は何も見出だすことは出来ない。伝統と過去の記憶は、神のために新しい場所を開く勇気を持つように私たちを助けなければならない。こんにち、常に規律に沿った解決を探し、教義上の《確実さ》に誇大に傾き、失われた過去の回復を頑迷に求める者は、静止的で退行的なビジョンの持ち主だ。そのような形においては、信仰はたくさんのイデオロギーの一つに成り下がってしまう。私は一つの教義的な確信を持っている。それは、神は各々の人格の命のなかに宿られ、神は各人の生活の中におられるということだ。たとえある人の生活がひどい失敗であり、悪徳や麻薬や他のいかなることによって破滅しているとしても、神は彼の命の中にいる。各々の人間の命の中に神を見出されるし、そこにこそ神を探さなければならない。たとえある人の生活が茨と雑草に覆われた土地であったとしても、そこには常に良い種が育つ空間があるものだ。神に信頼しなければならない。」


(つづく)

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★ 教皇フランシスコの新枢機卿-③ ソウル大司教ヨム・スジョン枢機卿

2014-03-20 09:49:45 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコの新枢機卿-③

ソウル大司教アンドリュー・ヨム・スジョン枢機卿の神学校訪問

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アンドリュー・ヨム・スジョン枢機卿はこの日の前日、正式に枢機卿に就任したばかり、

我々の神学校「レデンプトーリスマーテル」を見学する事が、枢機卿としての彼の最初の仕事だったのではないか


ほゞ定刻に枢機卿の車列が我々の神学校の門から入ってきた

一台目のワゴン車は報道陣他か?二台目が新枢機卿と二人の若い補佐司教?三台目は教区事務局長らの司祭団だった。

 

真ん中がヨム・スジョン枢機卿。 左手前後ろ向きが出迎えに出た平山司教。 

 

玄関のかもいの上の神学校の表札に見入って読む枢機卿

 

そこには「新しい福音宣教のための司祭養成教区立神学校」

レデンプトーリスマーテル

1988年創立

と刻まれていた

 

   

大司教区お抱えのテレビカメラマンだろうか、それとも外部のテレビ局だろうか、カメラのマークからは判断できなかった

 

私は、彼が大司教に就任直後、キコの招待を受けてイスラエルのドームスガリレアに 来た時にはじめて会ったが

短期間に見違えるほど貫録を増したように見受けられる枢機卿の落ち着いた表情

 

神学校の聖堂でエゼキエル神父から説明を受ける枢機卿とスタッフの補佐司教、司祭たち

 

み言葉の聖堂(神学生が聖書の勉強をする場所)の説明を聴く枢機卿。通訳は我々の韓国人神学生

 

み言葉の聖堂のの正面には廟があって、

ユダヤ教の会堂ならトラー(モーゼ5書)の巻物が納められるはずの場所に、

上には銀細工の装飾がほどこされた新旧約聖書

下にはミサの時に聖別されたパン(キリストのからだ)が納められた聖櫃がある

 

神学校の中を一巡して見学を終え、再び応接間に戻ったソウルの新枢機卿

質問は神学校の精神、目的、規模などの他、神学生の知的・霊的養成の仕方、運営状況、

生活の日課、教会法上の位置づけ、等々、多岐細目に亘った。

 

ヨム・スジョン枢機卿と平山司教は和やかに別れの挨拶を交わしていた

 

隣国同士でありながら、韓国の教会と日本のカトリック教会は明らかに真反対の方向に進んでいるという印象を受けた

 

 

今日ほど日本の社会が直接的な福音宣教を必要とする切迫した状態に置かれたことはかつてなかった。

心に深い傷を残しながら密かに行われるおびただしい数の堕胎の当事者の若い未婚の女性とベテラン妻たちの苦悩、

リストラされ正規雇用の階層から転落して這い上がれない契約社員労働者の絶望、

自殺以外に選択肢はないと思いつめた多重債務者たち・・・、数え上げれば問題だらけだが、

彼らに寄り添い、包みこみ、生活的にも支え、生きる希望を取り戻させることの出来るような、

癌の宣告を受けた人に、死を越えて復活の喜びと永遠の命の確信を与えられるような、そんな

生きたキリスト教信仰を実践し回心の業に励む共同体を、極限まで世俗化した今日の日本の社会は緊急に必要としている。

私たちはそれに十分に応えているか?

日本の教会では、何かが変わらなければならない。

(おわり)

 

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★ 〔完全版〕 教皇のインタビュー(その-6)

2014-03-13 09:38:47 | ★ 教皇フランシスコ

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〔完全版〕教皇のインタビュー(その-6)

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182年ぶりの修道者の教皇・・・

 教皇フランシスコは182年前の1831年に選ばれたカマルドレ会士のグレゴリオ16世以来初めての修道会出身の教皇だ。それで「今日では教会における修道者と修道女の特別な地位とはいかなるものか」と質問した。

 「修道者たちは預言者だ。彼らはイエスの生き方を御父への従順と、清貧と、共同生活と貞潔によって模倣し、イエスに従うことを選んだ人たちだ。その意味において、修道誓願が物笑いの種に終わることがあってはならない。さもなければ、例えば共同体生活は地獄となり、貞潔はただの老いぼれた独身男の生活に堕してしまう。また貞潔の誓願は多産性(豊穣さ)の誓願でなければならない。教会においては、修道者はイエスがこの地上でどのように生きたかを証しし、自分の完全さを通して神の国がどのようなものであるべきかを告げ知らせる預言者となるように特別に召されている。修道者は決して予言することを放棄してはならない。だからといって、預言的機能と位階的構造とは同一ではないとしても、教会の位階的な側と対立することを意味するものではない。私は常に積極的な提案について話しているのであり、決してそれは臆病なものであってはならない。隠遁者聖アントニオ以来の数多くの隠修士たち、修道士、修道女たちが行った業績の事を考えてみよう。預言者であるということは、時には「ルイド する」(訳注:ruido=スペイン語で「騒音を立てる」)ことを意味することがあり得るのだが、それを何と表言したらいいか・・・。つまり、預言は騒音を立てる、物議を醸す、人によっては《大騒ぎを起こす》と言うかもしれないが、そういうものだ。しかし、そのカリスマは現実にはパン種であろうとすることであり、預言は福音の精神を告げ知らせることにほかならない。」

 

ローマの省庁、司教会議、エキュメニズム(訳注:キリスト教一致運動)

 位階制度について言及することを念頭に置きながら、ここで「ローマの省庁についてどうお考えですか」と教皇に質問した。

 「ローマの省庁は教皇と司教達に奉仕するものだ。彼らは個々の教会と司教会議を助けなければならない。つまりそれは支援機関だ。それなのに、正しく理解されなかった場合には、いくつかのケースのようにただの検閲組織になり下がる危険がある。正統性が欠けているのでは、と言う告発がローマまで届くのを見るのは印象的だ。それらのケースは、必要に応じてローマから有効な支援が届くことが有り得るとしても、本来その地域の司教会議で検討されるべきものだと信じる。実際、それらのケースはそれぞれの地域においてより良く処理されうるはずのものだ。ローマの省庁は仲裁者であって、実務者でも問題の処理役でもない。」

 昨年の6月29日、34人の首都大司教のパリウム(訳注:大司教の肩衣)の祝福と授与式に際して、教皇が《司教会議性のあるべき道》は《首位権者(教皇)の奉仕と調和のとれた成長》へ一致して教会を導く道だ、と主張したことを思い出す。それで、私は《ペトロの首位権と司教会議性とをどのように調和的に折り合わせるか、いかなる道が教会一致の展望の中で実行可能か》について質問した。

 「人々も、司教も、教皇も一緒に歩まねばならない。教会会議性は様々なレベルで生きられなければならない。多分司教協議会のありかたを変更するべき時期に来ているのかもしれない。なぜなら私には今の形のものは発展性に乏しいように思われるからだ。そのことはまた、特に正教会の兄弟たちとの関係で、エキュメニカルな価値を持つことが出来るかもしれない。司教団の性格と司教協議会の伝統について多くの事を彼らから学ぶことが出来る。東西の教会が分裂する以前の最初の数世紀の間教会がどのように統治されてきたかを顧みて共同で熟考する努力は、今の時代に実りをもたらすだろう。エキュメニカルな関係性において、この事は自分たちをより良く知るためだけではなく、私たちのためにもなる恵みとして、他の教会の中に聖霊が種まかれたものを認めるためにも重要だ。私は既に2007年の合同委員会で始められ、ラヴェンナの文書の調印にまで至った、ペトロの首位権を如何に行使すべきかの問題に関する考察を続けていきたいと思う。この道は継続されなければならない。」

 私は教皇が教会の一致の未来をどう見ているかを理解しようと思った。私に答えて「違いの中で一緒に歩まなければならない。私たちを一致させるためには他の道はない。これがイエスの道だ。」と彼は言った。

 そして教会の中における女性の役割についてはどうか?教皇は様々な機会に、このテーマについて何度も言及した。あるインタビューのなかで彼は、教会の中における女性の存在はあまり頻繁に取り上げられてこなかったが、それは男性主義の誘惑が共同体の中において女性に帰属する役割を目立つようにするために十分な余地を残さなかったからだ、と言った。リオ・デ・ジャネイロからの帰りの旅の中で、教皇はこの問題をまた取り上げ、女性に関してはまだ深い神学的考察はなされていないと断言した。そこで私は「教会の中における女性の役割はどんなものでなければならないか?それを今日もっと見えるようにするにはどうすればいいか?」と質問した。

 「教会の中により鮮明な女性の存在の場所を広げる必要がある。女性は実際に男性とは異なった構造を持っているのだから、《スカートをはいた男性優位主義》的な解決を私は恐れる。それなのに、女性の役割について聞かれる話は、しばしばまさに男性優位主義のイデオロギーからインスピレーションを得たものであることが多い。女性たちは取り組まれなければならない深い問題を提起している。教会は女性たちと彼女たちの役割なしには教会であることは出来ないのだ。教会にとって女性は不可欠な存在だ。マリアは女性であって、司教達よりも重要な存在だ。私がこれを言うのは役割と尊厳を混同すべきではないからだ。だから教会における女性像に対する理解をより良く深める必要がある。深い女性の神学を生み出すためにもっと力を入れて働かねばならない。この過程を成し遂げることを通してのみ、教会内部における女性の役割についてより良く考察することが出来るだろう。重要な決定がなされる場所では女性の資質が必要だ。教会の様々な分野において権威が行使されるまさにその場面においても、女性のための特有の場所について考察されること、これこそまさに現代の挑戦だ。」

 

(つづく)

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★ 3.11 東北大震災 ローマは忘れない 「記念追悼ミサとコンサート」

2014-03-11 00:33:50 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

 

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3.11 東北大震災 ローマは忘れない

「記念追悼ミサとコンサート」

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ローマはこの時期桜の花盛り ソメイヨシノよりずっと小型の可愛い花がいっぱい


私は、不思議な巡り合わせでこの記念ミサを共同司式することになった。

それは、私がイタリアで洗礼を授け、

今は立派な行動するクリスチャンに成長した日本レストラン 「寿司千」 の女将(おかみ)の千香子さんと、

そのお友達でかつて東京のイタリア文化会館の館長夫妻だったジョルジオマリアを通して、

サンタ・リタ教会の95歳のモンシニョール(司祭の称号)ルイジ神父に出会い、

そのルイジ老司祭が私を共同司式に招いたからだった。


誰が書いたか、上のイタリア語の上品な招待状の言葉は、訳せば次のようになる。

 

日本をあの恐ろしい震災が襲ってから、はや3年が過ぎました。

ルイジ・モリナリ師は今年も東北の地震の犠牲者と被災者のために

サンタ・リタ教会で捧げられるミサに皆さまを招いておられます。

 ミサの後、グリエルモ・デ・サンティス指揮の「カントーレス・ムジケ・ムンディ」合唱団と

ソプラノの藤井やすこさんの協力によるコンサートが開かれ、

NHKの地震被災者を励ます歌 「花は咲く」 も歌われます。

この出来事はスペインとフランスでも放映され、震災記念日にはNHKテレビでも一部取り上げられる予定です。

皆さん、祈りを篤くして、被災した兄弟たちを決して孤独のうちに忘れ去られることがないように、

いつも私たちのこころに思い出しましょう。

 

ミサの前にはルイジ神父と、ジョルジオの短い挨拶があった。

ミサの中の、コーラスはパレストリーナの「感嘆すべき王なるイエス」や、アルビノーニの「アダージオ」のオルガン演奏、パレストリーナの「シクト・チェルブス」、そしてアルビノーニの「おお、わが主よ、聴きたまえ」などが歌われた。

 

ミサの後、コーラスは祭壇前に場所を移し、「花は咲く」 を多声部構成でカノン風に複雑に編曲したものを、日本語の歌詞を理解しないイタリア人たちが美しいハーモニーで歌い上げていった。歌い手の中には、イタリア人のソリストや俳優や、ローマ在住の日本人のプロの歌手や、飛び入り友情出演のイタリア人カルテットも加わった豪華な顔ぶれだった。では、教会まで皆さんをご案内しよう。


出発点はローマのおへそ、ベネツィア広場にほど近いトレビの泉


泉の前にはいつもこの足萎えの物乞いが居る。よく見るとスケボーをお尻の下に敷いていざっている



香ばしい炭火焼栗屋の角を曲がり

 

  

マネキンのバイクのお姉さんの前を過ぎるとやがて

 

  

   サンタ・リタの教会の前に出る。    建物の角には聖母子の絵を二位の天使が護っている

 

サンタ・リタの教会はそんなに大きな建物ではないが、バロック様式のよく手入れされた美しい教会だ。その教会が参列者でベンチは一杯。周りもぎっしり立ち尽くす人で埋まった。

バロック様式の天井にはびっしりと絵が描かれている

 

   

イタリア人を中心に教会はいっぱい  イタリアのNHKに相当するRAI 他のテレビカメラマンが一時間も前から機材の調整に入っていた



           

ミサの間、私は共同司式者として祭壇に立っていたので写真が撮れなかったが、千香子さんの一人息子のジュリアノが撮っていてくれた。


ミサが終り司祭が祭壇を去ると、コーラスが正面に出て主役となる

「花は、は~なは、花は咲くー、いつーかぁ 恋する君のために~」


  

   RAI 局のインタビューを受けるソプラノのソリスト    見守る今日の主催者ルイジ・モリナリ神父

 

イタリア人の地震と津波の災害犠牲者に対する関心は高い。目を覆う自然災害についてはもちろん、この日ルイジ神父の説教やジオルジオの挨拶で多くは言及されなかったが、福島の第一原発事故の目に見えにくい人災についてはなおさらだ。彼らはクールで、政府や東電のように嘘をついたり事実を隠したりすることは通用しない。だから、一般の日本人より多くを知っていて真剣に憂慮しているのが感じられる。

日本人が欺かれて過小評価し忘れようとしても、ローマの人々は、イタリア人は、世界は決して忘れない。

千香子さんたちは現地福島の真剣な活動家と連携しながら、日々出来ることは何かを模索している。

私はユーチューブなどで3.11のドキュメンタリーを見ながら昨夜は一睡もしなかった。私も何も出来ないが、この夏は3度目の被災地巡礼をしてみたいと思っている。

 

左のわたしの隣が千香子さん。 中央の胸が広く開いた黒いドレスのソプラノが手をつないでいるのがマリア。その肩に手を置いているのが元東京のイタリア文化会館の館長のジオルジオ。その右隣りがルイジ神父。 あとは何れもこの企画に関わった協力者たち。

 

 

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★ 中央公論 には出たけれど敢えて 〔完全版〕 教皇のインタビュー(その-5)

2014-03-07 10:52:47 | ★ 教皇フランシスコ

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〔完全版〕 教皇のインタビュー(その-5)

= 中央公論には出たけれど敢えて

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インタビューの原文によれば、前回の(その-4)の続きは「中央公論」の今年の1月号に載った

「教会は野戦病院であれ」

の部分になります。このブログの読者の中には、すでに「中公」で読まれた方もおられるでしょうが、よろしかったら読み比べてみてください。そうすれば、あちらでは訳されなかった箇所もあることに気付かれるでしょう。私は各フレーズの分割に至るまで、イタリア語の原文になるべく忠実であるように心掛けました。



教会とは? 野戦病院・・・

 

 教皇ベネディクト16世は、自分の教皇職からの退位を発表するに際して、今日の世界のことを、急速に変化しつつあり、信仰の命にとって重要な大きな問題で揺り動かされていて、身体的精神的強健さを必要としている主体であると描写した。そこで、先ほど來言われてきた事にも照らして、教皇に聞いた。「この歴史的な瞬間に、教会が最も必要としているものは何か?改革は必要か?向こう数年間に教会の上に何を望まれるか?どのような教会を《夢見ておられるか》?」

 教皇フランシスコは私の質問の裏に隠された意味を受け止めて、自分の前任者に対する大きな愛情と並外れた尊敬を示しながら、「教皇ベネディクトは聖性と偉大さと謙遜さの業を行った。神の人だった」と話し始めた。

 「私は-と彼は言葉を続けた-教会がいま最も必要としているのは、傷を癒し信者の心を温める能力、寄り添うこと、親近感、であることは明白だ。私は教会を戦闘後の野戦病院のようなものとして見ている。深い傷を負っている人に向って、コレステロールのことや血糖値が高いかなどと聞くのは無意味だ!まず傷の手当てをしなければならない。その後でなら、他の事すべてについて話すこともできるだろうが、傷の手当、傷の手当が先決だ・・・。まず肝心なことから始めなければならない。」

 教会は時としてちっぽけなこと、小さな規則に閉じこもることがあった。それに対して、最も大切なことは《イエス・キリストはあなたを救った!》という第一声の告知だ。そして、教会の奉仕者は何よりもまず憐れみの奉仕者でなければならない。例えば、聴罪司祭たちは常に厳格すぎるか緩みすぎるかのどちらかの危険にさらされている。そのどちらのタイプも、相手の人格に対して責任を取っていないから、憐れみ深いとは言えない。厳格主義者は掟まかせにして責任を回避し、緩やかな方は単に《それは罪ではない》とかそれに似たことを言って責任を回避するからだ。人々は寄り添われ、傷は治されなければならない。」

 「わたしたちは神の民をどのように取り扱っているのだろうか?私は教会が母であり牧者であることを夢見る。教会の奉仕者たちは憐れみ深く、人々に対して責任ある態度を取り、善きサマリア人のように隣人を洗い、清め、慰め、寄り添わなければならない。これこそ純粋な福音だ。神は罪よりも大きい。組織的、構造的改革は二の次、つまり後からついてくるべきものだ。第一の改革は態度の変革でなければならない。福音の奉仕者は人々の心を温め、彼らの心の闇夜の中を共に歩みながら対話することが出来、自分自身を見失うことなく彼らの夜の中、闇の中へ降りていくことが出来るものでなければならない。神の民は国家の官吏のような聖職者ではなく、牧者を求めている。特に司教は民の中の誰一人として後に取り残されることがないように忍耐強く神の歩調を守り、新しい道を見つける直観力を持って群れに寄り添うことが出来る者でなければならない。」

 「戸を開いて来る人を待ち受け迎え入れるだけの教会であることをやめて、自分自身から出て、教会に来ない人、去っていった人、無関心な人の方に向かっていくことが出来るようにする新しい道を模索する教会であるように努めよう。時には、もし良く理解され詳細に吟味されていたなら、連れ戻されることが出来たはずの理由で教会を離れて行った人もいることだろうから。しかしそうするためには大胆さと勇気が必要だ。」

 教皇が言わんとするところは理解したうえで、教会の指導からは逸脱しているとか、いずれにせよ、あれやこれやの口を開いた生傷を抱えたまま複雑な事情の中に生きているキリスト教信者たちがいる現実に言及した。私は離婚して再婚したもの、同性愛のカップル、その他の難しい状況の事を思った。このようなケースの場合、宣教的な司牧はどう対処すればいいのか?どういう方策を講じればいいか?教皇は、私が何を言おうとしているか分かった、という合図をして答えた。

 「神の国の良い知らせを説き聞かせながら、我々の説教を通しても、またあらゆるタイプの病気と傷を癒しながら、すべての通りで福音を告げ知らせなければならない。私はブエノスアイレスで同性愛の人からの手紙を受け取ったが、彼らは、教会が常に自分たちを断罪していると感じるので、自分たちは《社会的に傷付けられている》と私に言った。しかし、教会はそうすることを望んではいない。リオ・デ・ジャネイロからの帰りの機内で、もしもある同性愛の人が、善意の人で神を探し求めている人であるならば、私はその人を決して裁くものではない、と言った。私はCatechismo(カトリック要理)が言っていることを言ったにすぎない。宗教は人々に奉仕する際に固有の意見を表明する権利を持っているが、神は私たちを自由なものとして創造されたので、個人的な生活に対する霊的な干渉はなされてはならない。或る時、或る人が、同性愛を承認するか、と挑発的なやり方で私に訊ねた。それで私はもう一つの別の質問でそれ応じた。《同性愛の人を見る時、神は愛をこめてその存在を認めるだろうか、それとも断罪して彼を排斥するだろうか?言ってもらいたい》と。常に人格の事に配慮する必要がある。ここで私たちは人間の神秘に入る。人生において神は人々に寄り添われているが、私たちも彼らのおかれている状況に応じて彼らに寄り添わなければならない。憐れみをもって寄り添わなければならない。そうすれば、聖霊は司祭に霊感を与え、より適切な言葉を語らせてくださるだろう。」

 「これがまた赦しの秘跡の偉大さでもある。ケース・バイ・ケースで評価すること、神とその恵みを探し求める一人の人に対して、どうするのがより良いことであるかを識別することが出来ること。告解部屋は拷問部屋ではなく、我々に出来るより良いことをするよう主が我々を促す憐れみの場である。また、過去に結婚に失敗し、その過程で堕胎を行った経験のある女性の状態の事も思う。その後この女性は再婚し、今は5人の子供と平穏な生活を送っている。堕胎は彼女の大きな重荷となり、心から後悔した。キリスト者として前向きに生き続けたいと願っている。その場合、聴罪司祭はどうするべきか?」

 「わたしたちは堕胎や、同性結婚や、避妊手段の使用に関連する問題だけに固執することは出来ない。それは不可能だ。私はこれらの事について多くは語ってこなかったが、そのことで私は責められている。しかし、もしそれについて話すなら、具体的な文脈の中で語らねばならない。教会の見解、その関連のこと、それらは知られているとおりで、私は教会の子だが、それについてここで長々と話す必要はないだろう。」

 「教義に関しても、また道徳に関しても、教会の教えは全てが同じ重みのものであるわけではない。宣教的な司牧というものは、伝達さられるべき沢山の教義を、ばらばらな形で執拗に押し付けることに縛られてはいけない。宣教的なタイプの伝達は、エンマウスの弟子たちの場合のように、より感動的で魅力的な、心を燃え立たせる、本質的で必要なものに集中するべきである。従って、新しいバランスを見つけ出さなければならない。さもなければ教会の倫理的構築物は紙の城のように潰れ、福音の新鮮さと香りを失う危険に陥ることになる。福音的な提言はより単純で、深く、光を放つものでなければならない。そして、このような提言から道徳的帰結が導きだされるのである。」

 「わたしはこの事を私たちの説教とその内容についても当てはめながら言っている。すばらしい説教、真実の説教と言うものは、第一番目の告知、つまり救いの告知から始まらなければならない。この告知以上に堅固で、深く、確実なものは何もない。その次に教理の指導がなされなければならない。最後に道徳的な帰結を引き出すことも出来る。しかし、神の救済的愛の告知は道徳的宗教的義務の話より常に優先されるべきものである。今日では往々にしてその逆の順番が支配的なように見受けられる。説教は牧者の彼の民とのあいだの近さと力量を量る試金石である。なぜなら、説教をするものは生きていて熱く燃えている神の願いがどこにあるかを探すために自分の共同体の心を理解していなければならないからである。だから福音的メッセージは、たとえ重要であったとしても、それだけではイエスの教えの本質を現わすことが出来ない幾つかの側面に矮小化されることは出来ない。」


(つづく)


 

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★ 教皇フランシスコの新枢機卿-②

2014-03-05 16:04:06 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコの新枢機卿-②

-教理省長官ミュラー枢機卿の誕生-

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 今回のブログのタイトルは 「教皇フランシスコの新枢機卿-②」 だが、では はいつ書かれたのだろう? 私は当初このテーマが尾を引くとは思わず、この1月16日に 《〔速報〕教皇フランシスコ新枢機卿の名前を発表》 と言うブログを書いた。私はそれを後付けで としたいと思う。そして、新枢機卿について今後さらに特筆すべき話題を見つけたら、それを 以降に書こうと思う。

 前教皇ベネディクト16世は、2012年6月2日にドイツのレーゲンスブルク教区のゲルハルト・ルートヴィッヒ・ミュラー司教教理省長官に任命し、同時に大司教とした。 

 ミュラー大司教は、「解放の神学」の唱導者の1人であるグスタボ・グチエレス神父と親しく、『貧者の側に=解放の神学、教会の神学』 を共著したことで知られているという。

 教皇フランシスコはそのミュラー教理省長官を2014年2月20日に枢機卿に任命し、さらに、ミュラー新枢機卿の近著 『教会の使命,貧しい人のために』 という本に教皇自ら序文を寄せた。

 私のブログの読者に、わざわざこの教皇フランシスコの序文を訳して送って下さった人がいた。読んでみて、現教皇の考え方がよく表れていると感じたので、教皇のインタビュー記事の間に挟んで紹介することにした。

 教皇がどのような人を教会のトップに重用し、その人にどのような言葉を贈られるかは、神様が今日の教会をどのような方向に導こうとしておられるかを知る上で有効だと思う。訳者は匿名を望まれたので、その意向を尊重することにした。




ゲルハルト・ルートヴィッヒ・ミュラー枢機卿著

『教会の使命,貧しい人のために』

-豊かさは他者を助けるなら善である-

〔教皇フランシスコによる序文〕


 言葉だけであっても、「貧しさ」に立ち向かうということに、戸惑いを感じない人はいないでしょう。貧しさといっても、肉体的貧しさ,経済的貧しさ、心の貧しさ、社会的貧しさ、モラルの貧しさと様々ですが、資本主義社会においては、貧しさとはすなわ、経済的貧しさのことであって、貧しいことが良くないことと考えられています。実際、資本主義国家は豊かな経済力の上に成り立っており、お金によって獲得した力は、他のあらゆる物をも凌駕しているようにさえ見えます。そのようなわけで、経済力が低いということによって、政治、社会、果ては人間のレベルでさえも低いとみなされてしまうのです。お金を持たない人たちは、蚊帳の外に置かれていると言ってもよいでしょう。このため、経済的な貧しさを、人々はとても恐れています。こうなってしまうのは仕方のないことかもしれません。なぜなら、お金を手にすることで、世俗的な自由度が増すからです。その自由の中で人は行動し、世の中を操作し、未来を創造することができるのです。お金は、それ自体よいものであって、自由に使え、私たちの可能性を広げてくれます。それにもかかわらず、お金は、時として人間の足を引っ張るものとなってしまいます。お金と経済力は、時として人間から人間性を失わせ、自己中心主義、利己主義をもたらす要因となってしまうのです。

 イエスは、福音書の中で、アラム語語源の「マンモーナ」という言葉を使っていますが(マタイ6,24 ルカ16,13参照)、これは、本来隠された富を意味するものです。経済力が富を生んでも、それが隠され、みんなのために使われなければ、正しいやり方ではありません。それどころか、本来経済力が持っている意義さえ失うことになります。そのようなことを、私たちに悟らせてくれています。また、パウロがフィリピの信徒への手紙の中で用いたギリシア語「アルパグモス」には(フィリピ2,6参照)、捨てられないもの、あるいは強奪されたものの意味があります。確かに私たちは、富を、大小にかかわらずごく親しい間柄の連帯社会の中だけにとどめ使ってしまいがちであり、一度受け取ったものを返すことはしたがらないものです。あらゆるものを超越した神の希望の中に生きる人間であるにもかかわらず、無償で与えるという喜び、善を施す喜び、その単純で美なる善を忘れてしまったかに思えます。(ルカ6,33以下参照)

 しかし、教会要理にもあるように、すべての人と結びつくという連帯社会の本来の意味を教えられていれば、富を独り占めすべきできないということが分かります。このような連帯社会の中で歩むことをすれば、他人に与えることを拒否し、自分の中に引き留めておいても、富は、遅かれ早かれ、自分から離れていってしまうことを知るようになるでしょう。いみじくも、イエスは福音書で、自分のためだけに積んだ富が錆や虫によって荒らされてしまうたとえを用いて、このことを教えてくれています。(マタイ6,19-20 ルカ12,33参照)一方、積んだ富も、自分のためだけに使われるのでないならば、その価値をずっと増し、思いもよらない所産をもたらすこともあります。実際、利益と連帯社会とを根源的に結びつけている何かがあるようです。それは富を獲得することと分け与えることが、折り重なり合いながら回っているようなものであり、そこでは罪さえも砕かれ、ばらばらに散っていくように思えます。私たちキリスト者には、この利益と連帯社会の本質的かつ理想的な一致を見いだし、その中に生きることが求められています。そして、現代社会の中で、すべての人にこの真実を伝え知らせていかなければなりません。それが社会の中に受け入れられることによって、経済的な貧しさによる苦しみも減少していくはずです。

 しかしながら、私たちは、経済的な貧しさ以外にも、貧しさが存在することを忘れてはいけません。イエスは、私たちの命は「財産によって」どうすることもできないことを教えてくれています。(ルカ12,15参照)元来、人間は貧しく助けが必要な存在です。生まれたとき私たちは、生きていくためにまずは親の世話を必要とします。私たちは、いかなる時代においても、人生のあらゆる段階において、他者からの支援を必要としない完全な自立を果たすことはできません。決して単独では超えることができない、人的あるいは物的な壁というものが存在するのです。神によって「創造された」私たちは、自らの力だけで何者かになれるわけでもなく、必要とするものを得ることもできません。これらのことを誠実に受け止めることこそが、生きるために必要欠かさざる徳であり、それによって私たちは謙虚になれ、勇気をもって連帯社会を実現することができるのです。

 いずれにせよ、私たちは、人や物に頼らなければ生きていけない存在です。まったく頼らなければ生きていけない人もいますが、そうでない人もいます。そうでない人は、自らがその源泉となって、他者を顧みることのできる社会、すべての人がそれぞれ価値ある者として尊重される社会を築いていかなければなりません。どのようにすれば実際にこのような責任ある社会を築くことができるのか、富が個人や公に帰属していることを考えれば、その方法を見出すことは容易ではありません。何より、新しい物の見方や考え方が必要です。互いが互いを思いやり気づかうという方向へ、考え方を変えなければいけません。人間は、誰でもみな同じように生まれてきますが、同じように生まれながらにして他者と互いに繋がっています。生まれながらにして「兄弟」であって、だからこそ、公の富が、言葉だけのものにならないような社会の実現が可能なのです。

 こうような考えのもと社会が築かれるならば、生まれながらの貧しさというものは、もはや私たちが生きていく上での障害ではありません。むしろ貧しさはすべての源であって、貧しさが人を豊かにするのです。与えられた富が、恵みとなってまた人々に還元されていくのです。貧しさこそはまさに希望の光とでもいうべきものであって、福音書でも、貧しさについて顧みることが説かれています。貧しさを希望の光とすれば、イエスがなぜ山上の垂訓で「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6,20)と語ったかが理解できるでしょう。

 私たちは、知力をふりしぼり、弱者への無関心を排除して、互いに必要なものを与え合っていかなければなりません。個人では、どんなに力があったとしても、越えられない壁があるからです。このことを、しっかりと自覚していきましょう。他ならぬ神ご自身がイエスを通してへりくだったように(フィリピ2,8参照)、私たちの貧しさの前に身をかがめ、私たちを支え、私たちの力をもってしてはとうてい得ることのできない富を与えてくれるのです。

 そのようなわけで、イエスが「心の貧しい人々」(マタイ5,3)を幸とするのは、彼らが本当に必要なものを知っており、自分の貧しさを認め、神を信じ、その身を神に委ねることを厭わない人々であるからです(マタイ6,26参照)。私たちは、神から富を与えてもらうことができます。この富には、他のいかなる支配も及びません。なぜなら、死の支配に打ち勝つことで私たちに示してくれたように、神はどんな支配をも超越する存在だからです。主は、豊かだったのに自ら貧しくなりましたが(2コリ8,9参照)、それは自分を低くすることによって私たちを豊かにするためです。主は私たちを愛し、弱ささえも認めてくれます。主の目には、私たちはすべて同様に、はかり知れない価値を持った存在と映るのです。「それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(ルカ12,7)

バラ.jpg

実に明快な文章だ。難解なところは全くない。

教皇フランシスコは従来の教皇が手を染めてこなかった新しい改革に挑もうとしているのが分かる。

それは、貧しさの神秘、その価値の再発見だ。

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★ 教皇様の晩餐会-④

2014-03-04 22:02:33 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇様の晩餐会-④

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ローマの神学生たちと年に一度出会う機会を初めて設けたのは教皇ヨハネパウロ2世だったと記憶する。

当時は晩餐会ではなく、ある午後、教皇の宮殿の広間に呼び集められ、お話を聴き、

その後、一人ずつ近づいて挨拶する事が許される形だった。

私は至近距離から教皇ヨハネパウロ2世を自分のカメラで激写して今も野尻湖の山荘に額に入れて飾っている。

晩餐会の習慣を定着させたのは教皇ベネディクト16世だった。

そのかわり、神学生が一人ずつ挨拶する機会は無くなった。彼は不特定多数と至近距離に入るのを極端に恐れた。

教皇フランシスコの初めての晩餐会は、事前の情報ではさらに趣向が変わった。

ラテラノ教会に付属するコレジオロマーノの広い中庭を取り囲む回廊に神学生がぐるりと一列に並び、

教皇様自身がそれぞれの神学校の院長と共に回廊を回り、

院長は一人一人を教皇に紹介し、教皇は神学生にに声をかけることになった。

そのかわり、晩餐には限られた数の神学生だけが同じ部屋で食事をする事がゆるされ、

残りの神学生は隣接の部屋で同じメニューの食事をいただくことになった。

前日の昼食のあと、わがレデンプトーリスマーテル神学院でも、教皇と同じ部屋で食卓に着く幸運な神学生と、

別室で食事をするものと、食堂で給仕をするものと台所で皿洗いをするものと、

4段階の運命に振り分ける籤引きが行われ、幸運なものと不運なものの歓声と落胆のため息が交錯した。

 

 

我々、いわゆる養成者の司祭たちも、別室で教皇に個人的に挨拶をし、その短い時間に

バチカンの機関紙オッセルバトーレローマのプロのカメラマン3人ほどが、

一人当たり5-6枚ずつの写真を撮ってくれることになっていて、

後で自由に買い求めることができる。

今年はもしかしたら回廊に一列に並ぶ神学生たちも同じ扱いになることが期待できる。

教皇ヨハネパウロ2世以上のサービス精神のお蔭で、誰もが教皇とのツーショットを手に出来るというわけだ。

 

      

 

晩餐会の前日、招待状が配られた。左の黄色いのが晩餐会の会場に入れるチケット。

右の赤いのが、教皇に別室で接見できる養成者のための招待状だ。

 

さて、いよいよ当日。

セキュリティーはベネディクト16世のときのように厳重ではないようだが、

それでも前から2列目に陣取った私の斜め前の男が私服のシークレットサービスであることは、

がっちりした体格と精悍な顔と鋭い目つき、それに襟から耳に延びるイヤホーンの線でそれとわかる。

 

 

テレビカメラも3台配置され、世界に同時放映されることになっている。

 

 

主を待つ聖堂の玉座(実際は教皇はもっと前の別の椅子に座るのだが・・・)。

晩の祈りが終り、ロザリオの祈りも終わり、教皇を迎える機運は最高潮。今や遅しと聖堂の中は静まり返った。

次の瞬間、姿が見えるや否や、どよめきとビーバーパーパの歓声が湧き上がるのである。

待つことしばし、ちょっと変則的かな?まず教皇代理のバリーニ枢機卿が一人静々と入堂した。

つい数日前に我らのレデンプトーリスマーテル神学院を訪れ、ミサを司式し夕食では盛り上がったお馴染みの顔だ。

 

 

一同が見守る中、彼は教皇のために用意されたスタンドマイクの前に立つと、一呼吸おいて口を開いた。

今日、教皇様は健康上の理由でここにはお見えになりません。

晩餐は予定通りに執り行われます。

言葉少なく必要な事だけ告げると、彼は祭壇左の席に着いた。

 

 

意外な展開とあまりりの失望と落胆に、声を発する者は一人としていなかった。

 

 

やや長い沈黙の祈りと讃美歌の後、聖体顕示台による祝福があって、予定の食事の場所に移る。

 

 

正面の絵のこの聖堂の保護の聖人は「信頼の聖母」Madonna della fiducia だ。

 

 

廊下には歴代の教皇の大理石の胸像が

 

 

食堂のメインテーブル。

キリストの代理人の教皇フランシスコが座るはずの席には、

代理人の代理人バリーニ枢機卿が先ほどの告知の時より目立ってリラックスした表情で、マイクの調子をテストしている。

 

 

私の席には去年と同様 「タニグッチ」 と読めるスペルの間違った名札が置かれていた。

 

 

一皿目のパスタはうっかり写真を撮るのを忘れて食べてしまった。メニューの6文字の内4つが字引きになく訳せない。

この写真のメインディッシュは黒鯛のフィレと車エビと海の幸とジャガイモの何とか風とあった。 

 

 

デザートのケーキと赤いシャンペン。



私の隣の席にはいつも日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院の院長平山司教様が。

 

 

ケーキの後はミックスフルーツだ。

 

 

頃合いを見計らって入り口のドアが開くと、われらレデンプトーリスマーテル神学院ではお馴染みの

楽師たちが入ってきた。先頭のアルド神学生はキコのオーケストラのトランペット奏者のひとり。

 

 

シークレットサービスはいない。中継のテレビカメラもない。まして教皇はいない。

緊張を強いるよそいきの要素は何もないのだ。

急遽主役の座に就いたヴァリーニ枢機卿はもう最高にご機嫌。

なぜなら、先日我らの神学校に来た時、彼はこの余興が痛くお気に召して、

それを教皇フランシスコの前でサプライズとして披露しようというのは、他ならぬ彼のアイディアだったからだ。

  

 

3曲ほどが披露されたが、教皇フランシスコのために急遽練習したアルゼンチンタンゴはついに演奏されなかった。

そこには彼らの失望がにじみ出ていた。

 

 

スペイン民謡やイタリアのカンツォーネで場はいやが上にも盛り上がってきた。神学生たちも唱和する。

 

 

お馴染み、スペインのマリア様の民謡になると、一同は白いナフキンヲ頭上でクルクルと回して応える。

 

 

メインテーブルの真ん中に座っていたヴァリーニ枢機卿。キリストの代理人の代理は

本当に今日はご機嫌だ。今日は彼がこの座のトップなのだ。

教皇フランシスコが居たらそのすぐ横で口数少なく緊張して慇懃に控えていなければならないが、

今日は彼が主役で座を仕切っている。

  

 

晩餐会は軽い興奮の中で恙なくお開きとなった。

教皇フランシスコとのツーショットを手にしそびれた失望も今は意識の底に置き忘れられたか、

しかし、私にはこの回廊の壁に一列に並んだ神学生たちに一人一人声をかけ握手していく教皇フランシスコの姿が

見えるような気がした。


付記:

 私のテーブルは教皇フランシスコ着くはずだったメーンテーブルを囲む4つのテーブルの一つで、私の前には2人の神父が座った。その一人が言った。今日の教皇の昼食の席で、インフルエンザに罹っている教皇は少し調子が悪そうだった。場合によっては晩のスケジュールの食事には欠席することも有り得るとのことだった。しかし、神学生たちとのチャペルでの話と、養成者の接見と、中庭を囲む回廊で予定された一人一人の神学生との交歓だけは必ず実行するということが決まっていたそうだ。

 スケジュール全体のキャンセルは、ぎりぎり直前の決断で、全ての人を驚かせた。熱が急に上がり、ドクターストップが入ったのだろう。1週間後には四旬節のハードスケジュールが待っている。そうなったら、少々の風邪や熱でも休んではいられない。ここは身内の行事を取りやめて休息を取るという当然の判断ではなかったか。

 しかし、北朝鮮のような独裁国家や旧ソ連のような共産国では、元首が公式行事に姿を現さないことがあろうものなら、たちまち様々な憶測を呼ぶものだ。教皇フランシスコはその独特のスタイルと大胆な改革路線で日々益々多くの敵を作り出している。かつて改革者、教皇ヨハネパウロ1世は毒で暗殺されたという噂が絶えない。教皇ヨハネパウロ2世はプロの殺し屋の銃弾を受けて100パーセント確実に死ぬはずだったのに、マリア様の奇跡で一命を取り留めた。

 教皇フランシスコが法王の宮殿に住まずサンタマルタのアパートに住んでいるのは、世界の貧困問題の解決に向けて一人一人が「もう少し簡素になる」ことの必要性を訴えて模範を垂れるためと同時に、「人々と触れ合っていること」に重要性を見いだしていると言い、自身の性格として「孤立した生活向きではない」と説明している。故郷アルゼンチンのブエノスアイレス大司教であった時も、大司教用の館には住まず、アパートで自炊していたことが知られている。

 しかし、私はそれだけではないような気がする。つまり、人々の目から隔絶され、一人か二人の身辺奉仕の人間以外近づくことの出来ない密室に閉じ込められるより、人々の目が近くにあるサンタマルタの方が、暗殺に関しては却って安全だかではないだろうか。アラファト議長を始め元ロシアの 情報部員ルビネンコの不審死事件などで使われた放射性ポロニュウム単位質量当りウランの100億倍放射能の強さを持つ。ウイキペディアなんて言う恐ろしい物質もあるご時世だ。密室では何が起こる全くかわからない。

 大概の政敵や好ましくない人物は、降格や左遷やスキャンダルのでっち上げで排除することも出来る。しかし、10億の国民を抱く大国の元首にも匹敵する教皇ともなれば、排除するには暗殺以外に手はないのだ。その意味で現代も中世もローマ時代も全く変わりはない。ベネディクト16世も、自分の意志で生前退位し、完全な沈黙に入って初めて、身の危険を感じることなく安らかに眠れているのではないだろうか。

 それにしても、前教皇の過剰なセキュリティーに比べて、教皇フランシスコの一見するところの無防備さは何だろう。まるで、殺してください、私は殉教者になりたい、と言っているみたいではないか。神様どうかこの教皇をお守りください、と祈りたくなる。

付記の付記 このブログ「教皇の晩餐会」に という番号をつけた。それは、2011.03.05; 2012.02.17;   2013.02.08 と過去に3回に渡って毎年同じ行事が行われ、それぞれに特徴のある出来事があったからだ。よろしかったら、合わせて見比べていただきたい。 

(おしまい) 

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